タイトル,投稿者,いつ頃,思い出,場所,補足・追加情報,参考文献,受付日,利用条件,区名,年代,分野 愛染球場,昭和18年生まれ,昭和36(1961)年ごろまでか?, 愛染公園は、球場でした。当時、軟式野球が盛んで、町内の仲間チームや会社のチーム等々が、楽しそうに対戦していました。, 下寺町3丁目5 (昭和36年当時の住所表記 : 下寺町4丁目), 浪速区では、戦災復興土地区画整理事業が始まる前は、公園はわずかに1か所(1380平方メートル)あるのみでしたが、整理事業により22か所(13万4604平方メートル)の公園が整備されることになりました。愛染公園(5711平方メートル)は昭和36年5月5日から児童公園として供用開始となっています。 『浪速区史』(昭和32年発行)には、戦災復興区画整理事業として、昭和25年に初めての新設公園として愛染・今宮の両公園が年竣工とあり、面積1161坪、開園年は昭和25年3月31日、種別は児童と記されています。 また、昭和36年1月1日発行の『大阪市全商工住宅案内図帳』では、愛染公園の場所は、「愛染球場」と記載されています。 昭和25年時点では既に公園として機能はしていたようですが、昭和36年までは球場として使用され、現在の児童公園となったのが昭和36年5月と考えられます。(2017.7.23 浪速図書館),『甦えるわが街 -戦災復興土地区画整理事業- 浪速地区』大阪市都市整備協会/編集 大阪市建設局 1991 書誌ID 0000244525|『浪速区史』川端直正/編集 浪速区創設三十周年記念事業委員会 1957 書誌ID 0000246444|『大阪市全商工住宅案内図帳 浪速区 [昭和36年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011421906,2017年6月,CC BY-SA,浪速区,昭和30年-40年代(1955-1974),公園 西中島小学校,昭和32年生まれ,昭和39年ごろ, 新大阪駅ができる前に、木造で2階建の旧西中島小学校の校庭から全員で新幹線開通祝いで風船をいっせいに飛ばしました。現西中島小学校前がどぶ川で、木造校舎から現西中島小に引越しの際に先生が各児童のランドセルに図書の本を5冊程入れてみんなで引越の役割をはたした事、重たかった事を、覚えています。, 現西中島小学校が十三中学校の分校と聞いていました。今も有る場所はかわりませんが、まわりや環境がどんどん変化しています。昔は、現西中島小学校横にドロ山があり、ざりがになど取れました。, 西中島小学校のあたりは、元は西成郡西村で、周辺の村とともに西中島村へと統合され、大正12年に町制へ移行しました。その後、大正14年に大阪市に編入し、東淀川区の一部となりました。当時は大半が農地でしたが、昭和4年からの西中島土地区画整理事業により、道路および公園が整備されて街区に変化しました。昭和30年代の高度経済成長期には交通網が発達し、新大阪駅周辺土地区画整理事業を経て、大阪市の副都心として発展してきました。『十三中学校区わがまちビジョン』p.4-7には、明治18年、大正12年、昭和7年、昭和22年の地図が掲載されており、変化していく様子がよくわかります。 西中島小学校は、元は南方小学校といい、昭和35年4月に西中島小学校と改称されました。『東淀川区史』によれば、昭和2年、啓発第一南方分教場として授業を開始、その後、南方尋常小学校として昭和9年3月9日に独立しました。『東淀川区史』p.284には、南方小学校の校舎の写真も掲載されています。『キラッシュ淀川』p.38に昭和36年ごろの新大阪駅付近の航空写真が掲載されており、西中島小学校も確認できます。 昭和39年10月1日には東海道新幹線が開通しました。『大阪市街地図 東淀川区 昭和39年版』13-10図に、西中島小学校が掲載されており、東隣は空き地ですぐ南には小さな水路が見えます。昭和39年の学事要覧によれば、西中島小学校の学級数は26、児童数は1127人です。(2019.3.29 淀川図書館),大阪市立西中島小学校ホームページ>学校概要>沿革http://swa.city-osaka.ed.jp/swas/index.php?id=e641400&frame=enkaku (2019年3月28日確認)|『十三中学校区わがまちビジョン』十三中学校区わがまち会議 2008 書誌ID 0011646824|『キラッシュ淀川 -淀川区30周年記念誌-』淀川区創設30周年記念事業委員会 2004 書誌ID 0010813749|『東淀川区史』川端直正/編集 東淀川区創設三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000253623|『大阪市街地図 東淀川区 昭和39年版』市街地図整備協議会/著 和楽路屋 1964 書誌ID 0080199612|『学事要覧 昭和39年版』大阪市教育委員会 1965 書誌ID 0080253601|商用データベース「JapanKnowledge(ジャパンナレッジ)(事典・辞書等)」収録『日本歴史地名大系』「淀川区」の項 (2019年3月28日確認),2017年3月,CC BY-SA,淀川区,昭和30年-40年代(1955-1974), 大阪大学工学部(東野田学舎),昭和20(1945)年生,昭和28(1953)-29(1954)年頃, 小学生のころ住んでいた家の近くに大阪大学工学部がありました。その構内に小さな池があり、そこでよく友達とメダカやおたまじゃくしをとって遊びました。しかしそこは子ども立ち入り禁止になっており、よく大学の守衛さんに怒られて追っかけられました。正門から入るとすぐにみつかるので、現在東高校グラウンド門のところに大学クラブの建物があり、そこは誰もいないので、そこからよく中に入れました。, 現在は大阪市立東高等学校, 現在大阪市立東高等学校の場所にあった、大阪大学工学部東野田学舎ですが、昭和28(1953)年3月、旧制最後、新制1回目の卒業式があり、新旧卒業生がいまや一坪の緑の蔭もなくなった学舎に緑化の一歩として総額18711円を預金し、カロリナ、ポプラなど46本を記念植樹したそうです。 敷地の西南隅にあった「大阪工業倶楽部会館」は、大正12(1923)年5月に同窓会記念館として建てられ、瀟洒な近世復古式鉄筋コンクリート2階建で、階下100坪、大広間のある階上が88坪、南側にはヴェランダが備え付けられました。 大阪大学工学部は昭和43(1968)年から45(1970)年にかけて吹田市へ移転、倶楽部会館も44(1969)年に立ち退きを余儀なくされました。(2018.3.31 都島図書館),『大阪大学工学部七十五年史』財界評論新社 1973 書誌ID 0080167298 p.250、581、588,2017年4月4日,CC BY-SA,都島区,昭和20年代まで(1926-1954), 大阪工業倶楽部会館,昭和20(1945)年生,昭和28(1953)-29(1954)年頃, 小学生低学年のころ、台風が襲来し大阪に大雨が降った折、夜中の時間は覚えていませんが市の広報車が来て、枚方の方で堤防が決壊しそうなので至急避難して下さいとのアナウンスがあり、寝ているところを起こされ、家族みんなで近所にあった大阪大学のクラブ(鉄筋コンクリート建物)の2階に避難しました。結果、堤防は決壊せず避難は無事解除されました。, 現在は大阪市立東高等学校, 昭和28(1953)年9月25日に台風13号が襲来し、23時15分淀川枚方の水位が6.97mに達し、堤防決壊による氾濫の危機に見舞われましたが、実際に決壊したのは上流宇治川左岸向島堤及び右支川、芥川、桧尾川等だったため、このあたりは被害を免れました。 大阪工業大学東野田学舎の敷地西南隅にあった「大阪工業倶楽部会館」については、思い出「大阪大学工学部(東野田学舎)https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=mu4qo6pf8-11307#_11307をご覧ください。,『近畿水害写真集』近畿建設協会 1981 書誌ID 0080177960 p.177,2017年4月4日,CC BY-SA,都島区,昭和20年代まで(1926-1954),災害 蒲生出身の力士,昭和8(1933)年生,昭和10年代, 蒲生出身の力士がいました。「たてかぶと」という四股名で鯰江小出身。大阪場所ではいつも負けていたので「マケカブト」といわれていました。,, 『大相撲人物大事典』に、楯甲(たてかぶと)という四股名の力士は、明治に1人、昭和に2人の計3名掲載されています。そのうち大阪市城東区出身の楯甲は、楯甲新蔵(たてかぶとしんぞう)です。 「大阪市城東区新喜多出身 生年明治41年、没年昭和41年 大正15年1月場所が初土俵、昭和6年1月場所で十両昇進、昭和9年5月場所入幕、最終場所は昭和18年1月場所、最高位は前頭筆頭。幕内成績92勝119敗1分15休 立ち合いから一気に突き進む押し相撲で、どんな相手でも真一文字に出ていくので、時には出ると見せての引き技もよく決まった。初め大阪相撲の不知火部屋に入門。なかなか出世できず、師匠が病気で廃業して中村部屋に移籍した…」とあります。 城東区役所編集の『大阪大国技館と大相撲』は、昭和12(1937)年6月から昭和15(1940)年にかけて城北川の傍(現在の城東区古市2丁目)にあった大阪大国技館についてまとめられたものです。城東区出身の力士の一人として、第十四代朝日山四郎右衛門(あさひやましろうえもん)らと並んで掲載されており、楯甲は「唯一大阪大国技館に関取で登場した城東区出身の力士」と紹介されています。(2019.2.20 城東図書館),『大相撲人物大事典』「相撲」編集部/編 ベースボールマガジン社 2001 書誌ID 0010072579 p.378|『大阪大国技館と大相撲』大阪市城東区役所 2015 書誌ID 0013447819,2017年4月1日,CC BY-SA,城東区,昭和20年代まで(1926-1954), 鶴見区の交通と公共施設,昭和18(1943)年生まれ,花博が開催された頃, 道路が区画され、区役所、警察、消防、区民センター、図書館が地下鉄と一体開発され、利便性が増したことです。行政機関が指呼の間にのぞむ「区」は鶴見区をおいて他にありません。,," 昭和49(1974)年、城東区より分区して鶴見区が発足するのに合わせ、区の中心近い茨田横堤町(現在の横堤)周辺に公共施設が集中して開設され、道路の整備も進みました。 主なものは以下の通りです。昭和49(1974)年 7月 鶴見区総合庁舎(区役所,保健所,水道局サービスステーション) 昭和49(1974)年 8月 鶴見消防署 昭和51(1976)年 9月 鶴見会館・鶴見区老人福祉センター 昭和51(1976)年12月 鶴見図書館(鶴見会館内) 昭和54(1979)年 7月 鶴見区役所前-鶴見緑地間道路開通 昭和56(1981)年 4月 鶴見警察署 さらに、平成2(1990)年4月の「国際花と緑の博覧会」にあわせ、同年3月には区内を東西に貫く幹線道路の「花博通り」、「鶴見通り」、大阪市営地下鉄(現 : Osaka Metro)長堀鶴見緑地線の鶴見緑地-京橋間が開通しました。平成17(2005)年4月には大阪市営地下鉄(現:Osaka Metro)長堀鶴見緑地線の横堤駅に直結した鶴見区民センターがオープンし、その1階に鶴見図書館が移転建替されました。 多くの公共施設が横堤駅の周辺に位置することとなり、利便性はさらに高まりました。(2020.3.10 鶴見図書館)","『鶴見区10年のあゆみ』鶴見区制10周年記念事業実行委員会 1984 書誌ID 0080196436 p.16|『鶴見区40年のあゆみ -鶴見区制40周年記念誌-』鶴見区制40周年記念事業実行委員会 2014 書誌ID 0013505614 p.9, p.13",2019年1月24日,CC BY-SA,鶴見区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989)|平成(1989-2019),鉄道|道路 鶴見新山,昭和18(1943)年生まれ,大阪市の城東区より分区して鶴見区が成立した前後, 小生は鶴見区の会社で40年余をすごし、こちらで生活して30年余。目を見張る発展をこの目で見て参りました。鶴見新山がゴミの山だったことなどむしろ笑い話です。, 花博記念公園鶴見緑地、鶴見新山, 鶴見新山は、花博記念公園鶴見緑地の北東に造成された、人工の山です。 現在の鶴見緑地付近は、かつては蓮などが自生する湿地帯でした。大阪府の都市計画として戦前に鶴見緑地の開発が決まり、実際に整備がはじまったのは昭和37(1962)年のことです。昭和45(1970)年頃から本格的な造成がはじまりましたが、大阪市街の急速な発展で発生したごみの処分場として白羽の矢が立ち、大量の家庭や工場のごみと、地下鉄建設時の残土を交互に重ねる「サンドイッチ工法」で、標高45メートルの山ができるまで湿地の埋め立てが行われました。その量は、トラック約215万台分、816万立方メートルもあったと言われています。 こうして誕生した「鶴見新山」ですが、昭和48(1973)年頃にはメタンガスなどが発生し、自然発火による火災が山のあちこちで起こっていたといいます。徐々に緑あふれる公園として整備され、昭和58(1983)年には一般開放。平成2(1990)年には国際花と緑の博覧会が開かれました。現在も鶴見新山は、「山のエリア」の中心として多くの人に親しまれています。 現在の標高については諸説ありますが、ごみの腐食や圧縮により地盤が沈下し、「広報つるみ」令和2(2020)年9月号では、「大阪市内で最高峰の標高45m(現在約39m)」と紹介されています。(2020.11.19 鶴見図書館),『新修大阪市史 第9巻』新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1995 書誌ID 0000536034 p.86-87|『発見!!つる魅力 -そうだったのか!わがまち鶴見区の歴史と魅力。-』大阪市鶴見区役所 2016 書誌ID 0014069242 p.12-15|『鶴見緑地 -広大な自然が四季折々の表情で語りかける緑の大パノラマ-』大阪市公園局 [198-] 書誌ID 0010788177 p.4|『大阪春秋 通巻95号 おおさかの公園』大阪春秋社 1999 書誌ID 0000746464 p.68-73|『大阪あそ歩まち歩きマップ集 その2』大阪あそ歩まち歩きマップ集町衆会議/編集 大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会 2011 書誌ID 0012287037 p.66-67|『広報つるみ 2020年9月号』大阪市鶴見区役所 2020 書誌ID 5000005275 p.10,2019年1月24日,CC BY-SA,鶴見区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989),公園 三社神社,,1955年頃, 子どもの頃、三社神社のお祭りに行った時、境内に見世物小屋がでていた。そこで、人の首がろくろ首のように長くなるところや、人の足が3本になるところを見た。今思えば、手品のようなものだったのだろうが、当時はとても怖かった。, 三社神社, 三社(さんじゃ)神社は、元禄11年11月に、市岡新田を開発した市岡与左衛門が、埋め立て開拓工事の成功と守護を祈り、波除4丁目5番に社殿を造営したのが起源といわれています。創祀にあたり、天照大神・豊受大神・住吉大神の3柱を祭ったことが社名の由来です。昭和2年に弁天1丁目5番に移転しましたが、昭和20年3月の戦災による空襲で消失しました。その後、現在の磯路2丁目に移転して、昭和35年12月に本社殿が完成しました。ちなみに、市岡新田は、港区の東部三分の一ほどを占める広い新田で、米や野菜、桑、スイカが作られていたようです。特にスイカはその味のよさが評判だったそうです。新田には、開発した土地の管理や小作米の収納などの事務を行う「会所」があり、今の波除公園の中に「市岡新田会所跡」の碑があります。(2019.2.10 港図書館),『港区誌』大阪市港区役所/編集 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000244951 p.299|『みなと今と昔』大阪市港区役所区民室/[編] 大阪市港区役所(区民室) 1993 書誌ID 0000310181 p.35|『大阪史蹟辞典』三善貞司/編 清文堂 1986 書誌ID 0000214926 p.220|『港区たんけん手帳 -うちのまち、再発見!-』大阪市港区役所 2014 書誌ID 0013050681 p.11|『港地区復興土地区画整理事業誌』大阪市都市整備協会/編集 大阪市建設局西部方面土地区画整理事務所 1993 書誌ID 0000326260 p.16,2019年1月29日,CC BY-SA,港区,昭和30年-40年代(1955-1974), 木場での遊び,昭和33(1958)年生まれ,昭和45(1970)年前後 千島団地や千島公園ができる前, 小学生の頃で、地域内には貯木場や材木置き場がたくさんありました。材木置き場は「木場(きば)」と呼んで、よく入り込んで遊んでいました。大人からは、材木が倒れたりくずれたりしたら危険だからでしょうが、木場で遊んではいけないといわれましたが、隠れ家のような場所をつくったり、木場の隅っこで野良猫を飼ったりしました。釘のささった古い材木もあり、よく釘をふんでケガをするということもありました。, 現在のUR千島団地、大正図書館周辺, 大阪市域の拡大・発展にともない、西区の西道頓堀・幸町・西長堀にあった材木業者が大正6(1917)年ごろ、千島町付近に移転してきました。業者が連合して大阪木材市場株式会社と大阪木材土地会社を創立して、運河・貯木場・樋門・道路等を整備しました。二つの会社はその後昭和12(1937)年に合併して大阪材木市場土地株式会社となり、約15万坪の土地を借り受け営業、西日本有数の木材市場となりました。 当時、大正区を含む大阪市の西部は、大正・昭和にかけて工業化が進んだため、地下水のくみ上げによる地盤沈下が起こっていました。太平洋戦争での空襲の傷跡も生々しい昭和25(1950)年9月3日、ジェーン台風が来襲し、高潮もあいまって大正区は区域のほとんどが浸水する大きな被害を受けました。戦災からの復興と災害に強い街をめざし、昭和25年12月に大正地区639ヘクタールの土地区画整理事業計画が開始されました。 建物を移転して地区内に全面盛土を実施、製材工場や貯木場は住吉区(現住之江区)平林町へ集団移転となり、その跡地は住宅地域として整備されました。大正地区土地区画整理事業の終結を記念し、川や海を掘り下げた土砂と地下鉄工事の残土で、標高35メートルの昭和山(千島丘公園-港の見える丘-)がつくられました。昭和山のふもとに区役所と保健所が昭和47(1972)年11月、千島体育館が昭和49(1974)年2月、大正区コミュニティセンター・大正図書館が昭和61(1986)年5月に開設されました。(2018.10.28 大正図書館),『千島計画 ‐港の見える丘‐』大阪市都市再開発局 [196-] 書誌ID 0010260357|『大正地区復興土地区画整理事業誌 ‐次代へつなぐ半世紀の記録‐』大阪市都市整備協会/編集 大阪市建設局西部土地区画整理事務所 1995 書誌ID 0000455781|『大正区の歴史を語る』大正区の歴史を語る会/[編集] 大正区役所 2005 書誌ID 0011112171|『大阪市の区画整理 ‐まちづくり100年の記録‐』大阪市都市整備協会/編集 大阪市建設局 1995書誌ID 0000450821|『大阪木材業外史』大阪木材業組合/共編 林業新聞社 1957 書誌ID 0080208686,2017年4月13日,CC BY-SA,大正区,昭和30年-40年代(1955-1974), 古市小学校の思い出,昭和28年(1953)年生,1961年, 現在の古市小学校は分校で本校は旧保健センター、老人福祉センターにありました。1・2年生は分校で、3・4年生は本校で授業を受けました。1961年(4年生の時)現在の位置に統合されるため、工事が行われました。机・椅子を本校から分校へ子どもたちが運びました。その時、運動会が工事のためできなかったので、枚方パークで運動会を実施しました。本校にはプールがありましたが、木造で歩くと「ギーギー」と音がなり、トイレも勝手に開くので、「幽霊便所」と言っていました。, 千林商店街近く 旧保健所, 古市小学校は明治6年に東成郡第三区千林村他八か村組合公立千林小学校として創立され、その後東成郡千林小学校、大阪府東成郡村立千林尋常小学校、古市村立東成郡古市尋常高等小学校、大阪市立古市尋常小学校など、幾度かの改称を経て、昭和22年に現在の古市小学校となりました。 古市小学校の学校史『ふるいち』(1982年発行)の「古市小学校のあゆみ」の項には改称の詳細な記述ほか、上記思い出に係る「昭和38年3月 分校を廃止する。」、「41年6月 プール竣工する。」といったことも記載されています。 また昭和35年版の『大阪市全商工住宅案内図帳 旭区』で、当時の古市小学校及び古市小学分校の場所を確認することができます。 思い出にある旧保健センターは現在の旭区保健福祉センター分館、老人福祉センターは現在の旭総合福祉センターのことです。旧保健センターと同じ建物の3階に昭和50年から平成11年まで旭図書館もありました。(2018.12.27 旭図書館),『ふるいち』大阪市立古市小学校記念事業推進委員会 1982 書誌ID 0080257728|『ふるいち』大阪市立古市小学校/編 大阪市立古市小学校創立記念事業委員会 1973 書誌ID 0090012864|『[大阪市立古市小学校]学校要覧 昭和63年度』大阪市立古市小学校 1988 書誌ID 0090011200|『大阪市旭区学校選択制学校案内 -小・中学校入学者向け- 平成31年度』大阪市旭区役所総務課 2018 書誌ID 0014558823 |『大阪市全商工住宅案内図帳 旭区 [昭和35年]』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167537,2017年4月8日,CC BY-SA,旭区,昭和30年-40年代(1955-1974), こどもの頃の遊び,昭和24年(1949)年生,1960年前後, 「ぽいぽい」おはじきと地面に描いた図で遊ぶ(2人から4人で) 「竹じゃみ」竹を割った棒を手であやつって(?)遊ぶ 「さざえさん」「うずまき」鬼ごっこのような遊び 「けんぱ」 「ゴム飛び」, 当時の自宅付近や新森公園など。ちなみに新森中央公園には池と噴水があり、ガチョウもかわれていました。新森公園の西側のロータリーのことをめがね公園と言っていました。, 新森中央公園は、大正末期から昭和戦前にかけて大阪市が行った市域周辺地区の農地の宅地化を推進する土地区画整理事業の一環で、昭和7(1932)年に完成しました。当時の名称は「森小路公園」で、園内には藤棚、砂場、水飲み場、トイレなどが整備されたそうです。戦時中は食糧難を補うため付近住民の人々により菜園化し、終戦後は荒れた状態が続きました。しかし、昭和25(1950)年に名称が新森小路公園と改められると同時に新森小路愛護会が誕生しました。公園愛護の事業として盆踊りや素人のど自慢、植木市、公園祭りが開催されたり、公園の定期清掃が始まったのもこの頃です。 初代の噴水池が竣工されたのは昭和30(1955)年、動物園からガチョウ2羽、鯉15匹が寄贈されたとのことです。 まだテレビが珍しいものだった昭和32(1957)年、大阪テレビ放送(のちの朝日放送テレビ)によって園内に街頭テレビが設置されました。番組放送時はテレビの前に多くの人が集まりましたが、その後テレビが急速に一般家庭に普及し、昭和37(1962)年に撤去されました。 昭和47(1972)年、新森小路公園から新森中央公園に名称が変わりました。『旭区地域史 : 旭の今昔』の「新森中央公園」の項に詳細な記述の昔の様子がわかる写真が記載されています。 また公園の西側の眼鏡のような形のロータリーの姿も、昭和11(1936)年発行の地図や昭和35(1960)年発行の『大阪市全商工住宅案内図帳 旭区』に記載されています。(2018.12.27 旭図書館),『旭区地域史 -旭の今昔-』旭区の今昔を知る会/編集 大阪市旭区役所 2012 書誌ID 0012556641|『最新の旭区 -都市計画路線入<附守口町>- 大大阪区勢地図』[夕刊大阪新聞社] 1936 書誌ID 0080350038|『大阪市全商工住宅案内図帳 旭区 [昭和35年]』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167537,2017年6月27日,CC BY-SA,旭区,昭和30年-40年代(1955-1974),公園|遊び 天王寺区役所、夜店、縁日,昭和17(1942)年生まれ,昭和25(1951)年前後, 小学1-2年の頃の遊び場所は、焼け野原が残っていて、友達の家に遊びに行くのも、ガレキの中を通るので家で禁じられていました。私が遊んだ楽しい場所は天王寺区役所にあった地下食堂です。区役所の方だけの使用だったかどうか分かりませんが、正面玄関の右に地下へ降りる階段があり、小学生でも進入できるので、毎日入りこんでいました。その当時の戦争未亡人の方達のためにできたと後で聞きました。「白ハト」という名のように覚えています。 表通り(現夕陽丘ストリート)では、決まった日に夜店が開かれていました。神社の祭とは別の「わが町の夜店」で、近所のおじさん達は床机を出しステテコ姿でした。まだ汲み取り式のトイレだったので、町の角には牛車が止まっていました。四天王寺の境内で行われる「お大師さん」の日は、サーカスや「のぞき」「バケモノ小屋」等それはにぎわっていました。, 天王寺区役所にある地下食堂です, 天王寺区役所の旧庁舎は、昭和2(1927)年に建設され、戦災を免れ、70年後の平成8(1996)年に新庁舎が、現地に建て替えられました。旧庁舎は、地上3階地下1階の近代式鉄筋コンクリート4層建で、地階には白鳩食堂がありました。昭和20年代に赤十字奉仕団、民生委員協議会、遺族会、未帰還留守家族会、未亡人会などの天王寺区各種団体が天王寺区役所内に設立・結成されましたが、白鳩食堂との関連は不明です。 天王寺区役所北側の通りは、五条商店街であり夕陽丘ストリートと呼ばれています。天王寺区では戦前・戦後とも区内各地で夜店が賑わいましたが、昭和29(1954)年、天王寺区役所北側の小宮町では、5のつく日に夜店が開かれていました。表通り(夕陽丘ストリート)を挟んで、区役所側は真法院町、北側は小宮町です。 四天王寺の縁日は、毎月21日は弘法大師の月命日で「お大師さんの日」、翌22日は聖徳太子の月命日で「お太子さんの日」と呼ばれ、境内に露店が並び大勢の人が訪れます。(2020.6.15 天王寺図書館),『天王寺区史』川端直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000244950|『[大阪市]天王寺区の手引 1951年度版』大阪市天王寺区役所 1951 書誌ID 0080240573|『わがまち天王寺 -天王寺区役所新庁舎竣工記念-』[大阪市]天王寺区役所 1996 書誌ID 0000669595|『天王寺 -天王寺区創設80周年記念-』天王寺区創設80周年記念事業実行委員会 2005 書誌ID 0011121598|『天王寺区商店街お買物ガイド -保存版-』大阪商工会議所天王寺・阿倍野支部 [2008] 書誌ID 0012089694|大阪市天王寺区ホームページ「五条商店会」https://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000343190.html (2020年6月15日確認),2018年4月12日,CC BY-SA,天王寺区,昭和20年代まで(1926-1954), 細工谷の道路,昭和54(1979)年生まれ,昭和55(1980)年-平成2(1990)年ごろ, 物心ついたときから家の周りは「道路予定地」という看板がかかった空き地がたくさんあり、金網のフェンスで囲われていましたが、子どもたちはそこを自由に出入りして遊び場にしていました。遊具のあるような公園は遠かったので、家の目の前にある空き地で男女年齢関係なく遊んでいました。コンクリート壁があり、鉢状になっている場所は子どもたちの間で「アリジゴク」と呼ばれていて、そこでボール遊びや追いかけっこをしていました。「道路予定地」はいつも雑草や石ころだらけで、時にはゴミなども捨てられていましたが、植物や昆虫、「これ何だろう?」と興味を引かれるものがたくさんありました。大人たちも「道路予定地」を花壇や菜園にしたり、洗濯物干し場等、生活の場所として利用していました。, 細工谷1丁目。今は立派な道路になっている場所です。当時の地図があればはっきりわかると思います。高低差のある狭い「谷」だらけの町でした。まさに細工谷。, バルナバ病院と細工谷1丁目の間の道路は、難波片江線です。この道路は、昭和21(1946)年から戦災復興都市計画事業街路として拡張工事が行われ、現在広い道路になっています。投稿者が幼少期の頃に発行された『大阪市精密住宅地図 天王寺区』1985年と1991年を見比べると、だんだん空き地が増えているのが分かります。2012年の『ゼンリン住宅地図大阪市天王寺区』を見ると、細工谷から玉造筋につながる道路ができています。(2020.4.14 天王寺図書館),『天王寺区史』川端直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000244950|『わがまち天王寺 -地図や写真でみるいまむかし-』[大阪市]天王寺区役所 1993 書誌ID 0000406144|『大阪市精密住宅地図 天王寺区 [1985]』吉田地図 [1985] 書誌ID 0011060075|『大阪市精密住宅地図 天王寺区 [1991] 』吉田地図 [1991] 書誌ID 0000727376|『ゼンリン住宅地図大阪市天王寺区 [2012]』ゼンリン [2012] 書誌ID 0012608078,2018年,CC BY-SA,天王寺区,昭和50年-60年代(1975-1989)|平成(1989-2019),道路 大阪大空襲,昭和14(1939)年生まれ,昭和20(1945)年3月から終戦の8月ごろ, 昭和20(1945)年天王寺区に住んでいて空襲に会いました。しかし当時6歳だったので年をとるとともに記憶がうすれていきました。せめて時系列と場所でも確かめておきたいと思い、当時を記した資料を探して『1945年大阪大空襲 6歳の記憶を確かめる』を書きました。, 大阪市天王寺区大道2丁目(住まい), 昭和16(1941)年にはじまった太平洋戦争で、大阪府域への空襲が開始されたのは昭和20(1945)年1月からでした。大阪市は、3月13日深夜から14日未明にかけて米軍機B29が約270機襲来し大量焼夷弾攻撃が行われ、大空襲にさらされました。8月15日の終戦までのあいだに約50回の空襲があり、大阪市は人的にも物的にも甚大な損害を被りました。天王寺区は、1月20日、3月14日(13日深夜)、6月1日、7日、15日、26日にB29が来襲し爆撃を受けました。空襲による多大な火災が発生し、天王寺区の3分の2が焦土と化しました。 投稿者のお住まいがあった大道2丁目は、3月13日深夜の大阪南部を襲ったB29による焼夷弾攻撃により焼かれました。 終戦時区内の人口は戦前の18%に減少し、家屋の消失、交通機関の途絶、電気・水道・ガスの停止、食糧不足など、市民の生活は混乱を極めました。(2019.8 天王寺図書館),『天王寺区史』川端直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000244950|『大阪市100年のあゆみ』大阪市教育委員会 1989 書誌ID 0080194926|『大阪大空襲 -大阪が壊滅した日-』小山仁示/著 東方出版 1985 書誌ID 0000178657|『聖和 ‐創立80周年記念誌‐』[大阪市立聖和小学校]創立80周年記念事業委員会記念誌委員会/編集 大阪市立聖和小学校 1989 書誌ID 0010894410|『ヒストリア 2000年9月 / 171号 戦争遺跡から見た近代大阪』大阪歴史学会 2000 書誌ID 5100205513 小山仁示「9部隊による戦略・無差別爆撃 -大阪市街地への地域爆撃を中心に-」|『大阪春秋 通巻119号 終戦60年』付録「大阪空襲 日別空襲被害地図」新風書房 2005 書誌ID 0011020720,2019年5月17日,CC BY-SA,天王寺区,昭和20年代まで(1926-1954),戦争 上汐公園,昭和22(1947)年生まれ,昭和30(1955)年ごろ, 昭和30(1955)年ごろ、上汐公園は下の公園と上の公園をつなぐ階段があった。地形は今と同じで上のほうに遊具があり、曲がりくねった形のすべり台があり、ヘビのすべり台と言っていた。下の公園はすり鉢の底のように低く掘られていて、上から側面を伝ってズルズル下りていくと、そこに土俵がありました。, 上汐公園," 上汐公園(『天王寺区史』および住宅地図上表記は上汐町公園)は、戦災復興土地区画整理事業によって新設された公園です。上汐町5丁目に昭和26(1951)年3月に開園、面積は1,912平方メートル、児童遊技場と相撲場がありました。『甦るわが街 -戦災復興土地区画整理事業 -天王寺地区-』のp.103に写真が掲載されていて、階段でつながる上の土地に遊具、下の土地に土俵が確認できます。工事が完了し土地区画整理事業から公園事業へ引き継がれたのは、昭和45(1970)年5月で、面積は6,321平方メートル(平成8(1996)年3月現在)となっています。(2020.6.30 天王寺図書館)",『天王寺区史』川端直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000244950|『甦るわが街 -戦災復興土地区画整理事業- 天王寺区』大阪市都市整備協会/編集 大阪市建設局 1997 書誌ID 0000652216,2019年9月13日,CC BY-SA,天王寺区,昭和30年-40年代(1955-1974),公園 相川とその周辺,81歳,昭和30年頃, 私が相川に来たのは昭和30年頃です。その頃相川駅は吹田東口駅となっていたり淡路駅から千里山行きの電車が出ていて。千里山が終点、その先はまだなかった。相川と吹田市の間に架かっている京阪橋と高浜橋は木製の橋で、大雨で流されたりした。安威川に堰があって水深もあった。夏、橋の上から子供たちが飛び込んで遊んでいた。夜間は網を仕掛けておくと鮒、鰻が採れた。, 相川 千里線 京阪橋 高浜橋 安威川, 『阪急京都線・千里線』には相川駅は「昭和3年1月16日に吹田町駅の駅名で開業した。その後、昭和5(1930)年9月15日に京阪吹田駅と改称、さらに昭和18(1943)年10月1日に吹田東口駅と改称した。現在の駅名になったのは戦後の昭和29(1954)年5月1日である。」(p.16)とあります。また、千里山駅は「大正10(1921)年10月26日の開業以来40年以上にわたり終着駅だったが、昭和38(1963)年8月29日に新千里山(現・南千里)まで延長されるにともない途中駅となった。」(p.66)とあります。 『大阪の橋』p.432の安威川にかかる橋は新京阪橋と上高浜橋となっています。京阪橋は『こんなにあった東淀川区の橋』巻末地図では大阪経済大学付近の水路あとにあります。また高浜橋は『大阪の橋』p.286に「明治11年に神埼川が付け替えられたことにより…現在の高浜橋の位置に橋が架けられた」そうで、それ以前は現在の上高浜橋の位置とほぼ同じだったそうです。投稿者の思い出の橋は、現在の新京阪橋、新高浜橋であったように思われます。 『東淀川区史』p.165で、上高浜橋、新京阪橋はそれぞれ昭和14(1939)年、15(1940)年に設置され、木製であったことが確認できます。また、安威川の堰は、昭和14年に建設され、「毎年五月より十月まで閉鎖し、上新田・下新田方面の農地へ灌漑用水を供給」(同書p.162)していると書かれています。(2019.3.8 東淀川図書館),『阪急京都線・千里線 -街と駅の1世紀』生田誠/著 彩流社 2013 書誌ID 0012859322 p.16 p.66|『大阪の橋』松村博/著 松籟社 1987 書誌ID 0000164468 p.432 p.286|『こんなにあった東淀川区の橋』大阪市東淀川区役所企画総務課広聴企画係 1998 書誌ID 0050091438 巻末地図|『東淀川区史 -現淀川区・東淀川区-』[川端直正/編集] 市民日報社 1987 書誌ID 0010814912 p.165 p.162,2017年9月30日,CC BY-SA,東淀川区,昭和30年-40年代(1955-1974),川|橋 淡路に浪商があった頃,81歳,昭和30年頃, 淡路に高校野球甲子園常連の浪商があった。戦後初めての大会で平古場、広瀬のバッテリーで優勝、その後も優勝したり、プロ野球に山本、坂崎、張本勲、尾崎、牛島、香川など多数の選手を出したりしている。勝って当たり前、負けたら選手は商店街を歩けなかった。野武士軍団と言われて個性的なひとばかりだった。昭和39年に茨木市に移転した。, 浪商, 浪商(現・大阪体育大学浪商高等学校)は、『東淀川区史』p.303-304に、1921(大正10)年に天王寺区で浪華商業実修学校として発足し、1924(大正13)年に浪華商業学校と改めて、東淀川区山口町に移り、さらに1926(大正15)年に国次町に移転したことが記載されています。また、大阪体育大学浪商高等学校のホームページの沿革には、その後、浪商高校と改称し、1963(昭和38)年大阪市東淀川区から茨木市に移転、1989(平成元)年泉南郡熊取町に移転、大阪体育大学浪商高等学校と改称したとあります。 また、同高校の男子硬式野球部のページには選抜高等学校野球大会出場19回(優勝2回、準優勝3回)、全国高等学校野球選手権大会出場13回(優勝2回)の実績が記載されています。 『高校野球忘れじのヒーロー』には、「大阪勢が全国を制覇したのは、[19]37年センバツの浪商(当時・浪華商)が最初だった。[19]46年、平古場昭二―広瀬吉治のバッテリーで制した夏も、大阪勢初。さらに[19]55年センバツでは2度目のV、61年夏にも怪童・尾崎で優勝と、浪商は名うての名門校である。OBの顔ぶれもすごい。張本勲(元・東映ほか)、坂崎一彦(元・巨人ほか)、高田繁(元・巨人)、住友平(元・阪急)、大熊忠義(元・阪急)…」(p.29)と出身者が書かれています。また、「ドカベン」の愛称で親しまれ、牛島和彦とバッテリーを組み1978年、1979年の甲子園を沸かせた浪商出身の香川伸行のインタビューが載せられています(p.26-31)。(2019.3.8 東淀川図書館),『東淀川区史 -現淀川区・東淀川区-』[川端直正/編集] 市民日報社 1987 書誌ID 0010814912 p.303-304|大阪体育大学浪商高等学校ホームページ 沿革http://www.ouhs-school.jp/namisho/history/ (2020年10月27日確認)|『高校野球忘れじのヒーロー -時代を超えてファンの脳裏に刻まれる「甲子園の星」大図鑑』ベースボール・マガジン社 2005 書誌ID 0011043852 p.29 p.26-31,2017年9月30日,CC BY-SA,東淀川区,昭和30年-40年代(1955-1974), 東淡路公園,昭和24年生まれ,昭和30年頃, 東淡路公園は昔大きな池(西心坊)でした。子供の頃、魚釣りで男の人たちが沢山来られていました。しかし、水の事故があり、親から絶対に子供だけで行ってはいけないと注意されていました。, 東淡路公園、西心坊池, 東淀川区役所ホームページの「東淀川区の名所・旧跡」に東淡路公園の項目があり、「当地は、文治(ぶんじ)元年(1185)創建の西心坊のあったところという。しかし元久(げんきゅう)3年(1206)ごろ、淀川の洪水により、七堂伽藍から石段まで全て流失し、あとに大きな池が残った。それを西心坊池といっていたが、埋めたてられ、公園として復活した」と書かれています。西心坊池の写真は『ひがしよどがわ -東淀川区創設70周年記念-』p.42に載っています。巻末の年表には「昭和43(1968)年12月東淡路町公園開園」とあります。地名辞典によると「東淡路町」は昭和55(1980)年に「東淡路」になっているのでこれは現在の東淡路公園を指しています。当時の住宅地図をみると昭和36(1961)年版では池が確認できますが、昭和38(1963年)版では池がなくなっています。この頃、池が埋められ公園の整備が始まったようです。昭和55(1980)年の住宅地図では「東淡路公園」と記載されています。(2019.3.10 東淀川図書館),東淀川区役所ホームページ 東淀川区の名所・旧跡http://www.city.osaka.lg.jp/higashiyodogawa/page/0000294550.html  (2019年3月10日確認)|『ひがしよどがわ -東淀川区創設70周年記念-』大阪都市協会/編集協力 東淀川区創設70周年記念事業委員会 1995 書誌ID 0010450706 p.42|『大阪市全商工住宅案内図帳 東淀川区 -東部- 昭和36年版』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167508 p.10|『大阪市全商工住宅案内図帳 東淀川区 -東部- 昭和38年版』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167542|『大阪市精密住宅地図 -全商工住宅案内図帳- 東淀川区』[吉田地図] [1980] 書誌ID 0011086746 p.66|『角川日本地名大辞典 27 大阪府』「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865 p.1012,2018年3月10日,CC BY-SA,東淀川区,昭和30年-40年代(1955-1974),公園 今里ロータリー,昭和19(1944)年生,昭和25-26年頃, 今里ロータリーの真ん中は小さな公園になっていて、夏の夕時になると、散歩や夕涼みなどで、憩いの場所となっていました。,, 「今里ロータリー」は、昭和9(1934)年に設置され、中心にはベンチを置いた円い公園が造られ、夕涼みかたがた車の往来を楽しむ人たちがたくさん見かけられました。 『東成区の昨日・今日・明日(むかし いま みらい)』p.7では、当時の木が茂った写真を見ることができます。「今里ロータリー」は、信号が設置されたため、昭和30(1955)年に撤去されましたが、無くなって半世紀が過ぎた今日になっても今里ロータリーと呼ぶ人が多くいます。(2019.3.19 東成図書館),『ふるさと“ひがしなり”見~ぃつけた -広場・街路・史跡・眺め・緑樹-』大阪市東成区役所総務課 1992 書誌ID 0000281743|『東成区の昨日・今日・明日(むかし いま みらい) 東成区制70周年記念誌』大阪市東成区役所総務課企画調査係 1995 書誌ID 0000535941|『大阪春秋 通巻130号 特集今里界隈』新風書房 2008 書誌ID 0011629205|東成区ホームページ>区の紹介>名所・旧跡https://www.city.osaka.lg.jp/higashinari/page/0000346687.html (2020年12月26日確認),2017年3月18日,CC BY-SA,東成区,昭和20年代まで(1926-1954),公園 近鉄今里近くの芸人長屋,昭和19(1944)年生,戦前(叔母より聞いた話), 近鉄今里駅近くの芸人長屋付近では、家の前の道路で七輪の火をおこしたり、洗濯したりしていて、まるで映画に出てくる光景そのものだった。,, 昭和7(1932)年、近鉄今里駅の北側、片江町一丁目の長屋に、落語家、後の五代目笑福亭松鶴が転居してきました。「楽語荘」と名付けられたこの家とその近辺には、昭和30年代にかけて、落語家や漫才師など、多くの芸人が住んでいました。(2019.3.21 東成図書館),『東成の歴史・芸能文化を語り、伝える。 -「東成の歴史・芸能文化を語り、伝える」会開催記録-』東成歴史懇談会/編集 [大阪市]東成区役所市民協働担当 2011 書誌ID 0012290461,2017年3月18日,CC BY-SA,東成区,昭和20年代まで(1926-1954), 4代目吉田文五郎氏居住の長屋,昭和19(1944)年生,昭和30年頃, 片江校区の近鉄ガード近くの長屋に、人間国宝の4代目吉田文五郎(文楽)さんが住んでいた。芸人長屋とは離れていた。,, 明治2(1869)年に生まれ、15才の頃から文楽の道に入った、4代目(3代目とする記述もあります)吉田文五郎は、明治から昭和にかけて活躍した人形遣いです。とりわけ女形遣いの名人として名高く、昭和31(1956)年「難波掾(なにわのじょう)」の称号を東久邇(ひがしくに)家より受領、同34(1959)年文化功労者に選出されました。同37(1962)年2月21日に92歳で亡くなられました。 芸人長屋については、思い出「近鉄今里近くの芸人長屋」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=muqm9t26i-11300#_11300をご覧ください。(2019.3.23 東成図書館),『私の履歴書 文化人 10』日本経済新聞社 1984 書誌ID 0070076747|『日本の芸談 3 能・狂言・文楽』九芸出版 1978 書誌ID 0080052833|商用データベース「JapanKnowledge(ジャパンナレッジ)(事典・辞書等)」収録『日本大百科全書』『国史大辞典』『日本人名大辞典』「吉田文五郎」の項(2019年3月23日確認),2017年3月18日,CC BY-SA,東成区,昭和30年-40年代(1955-1974), 今里西ノ口公園,昭和19(1944)年生,戦前, 西ノ口公園のそばに流れていた小川には戦前は魚が泳いでいて、家の2階の窓から釣り糸をたれて魚をつったことがある、と父から聞いた。,, 今里西ノ口公園は、今里片江土地区画整理組合が実施した土地区画整理事業により、昭和17(1942)年12月8日に開園しました。昭和12(1937)年、同29(1954)年の地図で、公園の東側と北側に川があることが分かります。「神路川」という名の川で、後に年は不明ですが、現在の大今里4丁目付近から平野川までの全域が埋めたてられました。(2019.3.22 東成図書館),『東成区史』大阪都市協会/編集 東成区制七十周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000623493|『大阪市の区画整理 -まちづくり100年の記録- 地区資料』大阪市都市整備協会/編集 大阪市建設局 1992 書誌ID 0000293359|『最新の東成区 -都市計画路線入-』[夕刊大阪新聞社] 1937 書誌ID 0080350041|『大阪市区分詳細図 東成区』和楽路屋 [1954] 書誌ID 0000250650|『大阪の川 -都市河川の変遷-』「大阪の川」編集委員会/編著 大阪市土木技術協会 1995 書誌ID 0000546980,2017年3月18日,CC BY-SA,東成区,昭和20年代まで(1926-1954),川|公園 中道校区の平野川沿い,昭和19(1944)年生,戦後すぐ, 戦後何年間は、中道校区の平野川西側の川沿いに土管が並んでいて、その土管で生活している人もいた。,, 昭和20(1945)年、区域が被災した8度の空襲の内、中道小学校下の町が全焼するなど、区の西部と南東部の町々が焼失し、被害が最も大きかったのは6月15日の空襲でした。戦後バラックや地下壕などで生活せざるを得ない人々は区内だけで千人以上おり、戦後しばらくは、公用地・私有地を問わず、空き家やバラック等による空き地の不法占拠がありました。(2019.3.22 東成図書館),『東成区史』大阪都市協会/編集 東成区制七十周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000623493|『甦えるわが街 -戦災復興土地区画整理事業- 東成玉造地区』大阪市都市整備協会 1984 書誌ID 0000274088,2017年3月18日,CC BY-SA,東成区,昭和20年代まで(1926-1954),戦争 駄菓子屋,1951年生まれ,昭和40年頃, ベーゴマ、ビー玉、メンコ、なわとび、カンケリ、昔はリンゴ箱がゴミ入れで、メンコやコマ遊びなどリンゴ箱を利用していました。現在の長柄西公園の前に大平さんの駄菓子屋さんがあり、良く利用していました。, 長柄中近辺,ベーゴマ、ビー玉、メンコ、カンケリについて ベーゴマについては、『道具からみる昔のくらしと子どもたち 2』13ページに、「雪のない地方の正月の子どものあそびは、コマまわし、凧あげ、まりつき、羽子(羽根)つきなどで、(中略)コマあそびには、鉄製や鉛製の小型のベイゴマをぶつけ合うものもありました。」との説明があります。 ビー玉については、『道具からみる昔のくらしと子どもたち 2』10ページに、「ビー玉は直径15ミリ前後のガラス玉で、その玉をころがして、地面にえがいたわくの中に入れてあるビー玉にあててはじきだします。」と説明があります。 メンコについては、『道具からみる昔のくらしと子どもたち 2』9ページに、「円形の厚手の紙に野球選手の絵や武者絵などが張ってあるメンコ(面子)は、男の子の代表的なあそびでした。メンコのあそびには、メンコを勢いよく打って裏返しにするもの、地面にえがいたわく内からはじき出すものなどがありました。」と説明があります。 カンケリについては、『なつかしい日本の遊び201』9ページに、「缶を使った「おにごっこ」です。大きすぎず、小さすぎない空き缶を、空き地や通りなどに丸を描いた場所に置きます。じゃんけんで鬼をきめて、鬼以外の人が缶をけり、鬼が缶をその場所に戻している間に他の人はかくれます。」と説明があります。 リンゴ箱について 『大阪社会労働運動史 第4巻』318ページには、「従来各家庭で利用されていたごみ容器はさまざまで、木製のりんご箱やみかん箱等の廃品が使われていたり(中略)」と記されています。 駄菓子屋について 『大阪市精密住宅地図 大淀区 [1984]』を確認すると、現在の長柄西公園(長柄西1丁目7)の前に、「菓子大平商店」が存在していたことがわかります。(2018.12.16 北図書館),『道具からみる昔のくらしと子どもたち 2 あそび』須藤功/編 農山漁村文化協会 2016 書誌ID 0014055816 p.9、10、13|『なつかしい日本の遊び201』佐藤加代/画 角川書店(発売) 2005 書誌ID 0011103064 p.9|『大阪社会労働運動史 第4巻 高度成長期 上』大阪社会労働運動史編集委員会/編 大阪社会運動協会 1991 書誌ID 0000199946 p.318|『大阪市精密住宅地図 大淀区 [1984]』吉田地図 1984 書誌ID 0000657501,2018年2月24日,CC BY-SA,北区,昭和30年-40年代(1955-1974),遊び 公設市場,1951年生まれ,昭和40年頃, 公設市場が現在の行岡医療専門学校の所にあり、当時は人口も多くにぎわいがあり、向こう3件両隣と仲良く近所づきあいがありました。, 長柄中近辺," 『大阪市精密住宅地図 大淀区 [1984]』を確認すると、現在の行岡医療専門学校(長柄西1丁目7番53号)の場所には、「新阪急市場」があったことが確認できます。 「新阪急市場」は、私設小売市場の一つで、『大淀区史』315ページ「小売市場の変遷」の表に記載があります。店舗数34、昭和29年開場、昭和60年8月に廃止となったことが確認できます。 人口の変遷は、『大淀区史』113ページによると、大淀区の昭和40年の人口は、55,596人、昭和62年の人口は、45,570人となっています。(2018.12.16 北図書館)",『大阪市精密住宅地図 大淀区 [1984]』吉田地図 1984 書誌ID 0000657501|『大淀区史 』大阪都市協会/編集 大淀区コミュニティ協会 1988 書誌ID 0000246498,2018年2月13日,CC BY-SA,北区,昭和30年-40年代(1955-1974), 中之島公園,昭和33年生まれ,1958年-, 私が子どもの頃はよく中之島公園に遊びに行きました。ブランコが好きで、川をみながら、勢いよく、ブランコをこいでいました。大人になっても、毎日の通勤は、中之島公園を通っていました。今は、中之島公園がリニューアルされて、きれいになりましたが、私にとって、なつかしい思い出の場所です。, 北浜・淀屋橋, 『北区史』461ページから465ページにわたり、「中之島の剣先は、江戸時代に備中(岡山県)成羽の山崎主税助義厚の蔵屋敷があったので、山崎の端(はな)といわれた。元禄のころ山崎の端は、いまの中央公会堂付近までしかなく、明治四(1767)に出端を埋め立てて築地がきずかれた。」「明治十二年十一月に、(中略)いまの中央公会堂東寄りの地に大阪豊国神社が建てられた。神社の周辺には梅、桜、ハギを植え、ベンチを置き、あずまやを建て、やや遊園地らしくなった。」「明治十八年の淀川大洪水のあと、川の流れをよくするため付近の川ざらえが行われ、その土砂で、難波(浪花)橋の東まで出ていた剣先がさらに東へ延ばされた。また市役所の位置にあった大阪裁判所が二十三年一月に若松町へ移ったのを機会に、その跡地も含め剣先までの範囲が二十四年十二月に、市立公園としては初めての中之島仮公園に指定された。」「大正四年、天神橋東方までの埋め立て地を公園に加え、さらに六年から十年までに拡張、護岸工事をし、木を植え、一周三百メートルのトラック、野外音楽堂、噴水、池などをつくり、わが国有数のリバーサイドパークを出現させた。」「戦後は平和のシンボルとして整備が進められ、テニスコート二面、シーソー、すべり台、低鉄棒、ぶらんこ、ラダー、緑の賛歌像などが備えられた。」など、中之島公園の変遷がうかがえる記述があります。(2018.12.16 北図書館),『北区史』大阪都市協会/編集 北区制一〇〇周年記念事業実行委員会 1980 書誌ID 0070059801,2018年3月13日,CC BY-SA,北区,昭和30年-40年代(1955-1974),公園 交通局病院,昭和27年生まれ,昭和30年代, 今の関西テレビのあたりだったと思うのですが、子どもの頃、母親に連れられて歩いていた時、大きなビルの前で、「あんたは、ここで生まれたんやで」と言われたのを覚えています。, 扇町(東扇町)・交通局病院, 交通局病院は、交通局職員とその家族の健康維持のため、大正13年5月電気局病院として、北区東扇町に鉄筋コンクリート造3階建で開設されました(当時電気局、昭和20年に交通局と改称)。開設当時の診療科は、内科、外科、産婦人科、皮膚泌尿器科、眼科およびレントゲン科があり、同年6月から外来患者の診療を開始しました。 その後、患者数が増え、病棟を増築していきましたが、昭和20年6月1日の空襲で木造建築の西館等が消失し、鉄筋の本館を残すのみとなりました。復興後は、本館西南隣接地を借用するなどして病床を増やしていきましたが、昭和38年頃から、職員の市外居住が増え、局病院の受診率は低くなり、昭和44年5月15日、46年続いた局病院は廃止されました。 『大阪市交通局七十五年史』p.749に昭和33年当時の交通局病院の全景写真、『生活衛生 40巻3号』p.122に前方からの建物の写真が掲載されています。 『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 昭和36年版』『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 昭和44年版』の地図で、現在の「キッズプラザ大阪」あたりに交通局病院を確認することができます。(2018.12.16 北図書館),『大阪市交通局七十五年史 』大阪市交通局 1980 書誌ID 0070035337 p.748-750|『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 昭和36年版』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422844|『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 [昭和44年版]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422841|『生活衛生40巻3号』大阪生活衛生協会 1996 p.120-123 木村正樹「大阪市 市民病院の移り変わり(その4)」(J-STAGEでご覧いただけます)https://www.jstage.jst.go.jp/article/seikatsueisei1957/40/3/40_3_120/_article/-char/ja (2021年2月11日確認),2018年2月22日,CC BY-SA,北区,昭和30年-40年代(1955-1974), 大阪拘置所,昭和26年生まれ,昭和30年代, 現在、大阪高等、地方、簡易裁判所のある所は、昔、拘置所があり、四方を背の高いコンクリートの塀に囲まれており、子供心にも異様な雰囲気でした。また、収容されている人達の為に数件差入屋が門前にありましたが、何か子供達は近よったり、利用してはいけない様に思っていました。, 西天満2丁目(旧真砂町), 『北区誌』552ページの大阪拘置所の項には、「(中略)明治十五年十二月当時の西成郡北野・川崎両村地内に堀川監獄分署が新設され二十三年十月には堀川監獄署・堺監獄分署となった。(中略)の後、現在の北区若松町に庁舎の新築をみたので、大正七年四月に移転し、名称も大阪監獄若松分監と改め、(中略)さらに昭和四年十二月、司法省告示によって大阪拘置所として独立した。」とあります。 また、553ページには、「拘置所正門附近には差入品を扱う店舗がならび、収容者を訪れる縁故者が長蛇の列をつくるなど特異な風景を描いている。」と記述があり、当時の様子がうかがえます。 『都島区史』436ページには、「昭和三十八年十二月、善源寺町の工場跡地六万八千平方メートルに新庁舎、舎房、職員宿舎などが完成、北区若松町より移転開設した。」と記述があり、昭和38年に現在の場所に移転しています。 『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 昭和36年版』を見ると、大阪拘置所は、若松町、真砂町が交差する場所(現在の西天満二丁目)、大阪高等・地方裁判所、大阪高等検察庁・同地方検察庁の合同庁舎と隣接した位置にあったことが確認できます。(2018.12.16 北図書館),『北区誌』大阪市北区役所 1955 書誌ID 0000244948 p.552-553|『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 昭和36年版』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422844|『都島区史』大阪都市協会/編集 都島区制五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0000336170 p.436,2018年5月2日,CC BY-SA,北区,昭和30年-40年代(1955-1974), 中津のプリン公園,1970年生まれ,1970年代後半-80年代前半, 中津のプリン公園 紙芝居のおじさんがいました。べったんというカード遊びをしました。大きなプリン型のすべり台がありました。, 中津の東海道線の側, 中津のプリン公園は、中津東公園(中津2丁目1)の通称。(中津小学校ホームページ学校日記より) 大きなプリンのような遊具があることから、この名前で呼ばれているようです。中津小学校のホームページの学校日記(2015年6月1日)には、プリン公園で少し遊んだとの記述と遊具の写真が掲載されていました。現在は、公園の大部分が、浪速枝管1500mm配水管布設工事(シールド工事他、工期2015年3月10日-2021年3月31日)のため、使用できない状態になっています。 『わたしの大阪遊び唄事典』125ページより「ベッタン(メンコ)」「カード大のさまざまな絵のついたベッタンを叩きつけて、相手のベッタンを裏返して勝負する。地面にベッタンをおくときは、息を吹きかけてゴミを吹きとばし、ぴったりと地面に吸いつくようにおき、打つ方は指先に力を集中して打ちこむ。ルールを難しくするほど熱が入って面白い。」とあります。 『OSAKA-JIN (大阪人) 2002年9月号』21ページより「昭和、平成をつなぐ大阪紙芝居」には、昭和二十七年(一九五二)開催の全国児童文化会議の資料には、(中略)紙芝居業者の数は全国で七千人。そのうち東京は二千人。大阪は千人だった。全盛期の紙芝居屋さんは一日十カ所ぐらいで紙芝居を上演していました。夜も街灯の下でやっていたそうです。」とあります。 北区での紙芝居について、現在、本庄川崎公園(北区本庄東2丁目6-12)で紙芝居の実演を行っておられる杉浦貞(すぎうらただし)さんにお話をうかがいました。杉浦さんは、著書によると昭和55(1981)年にプロの街頭紙芝居師に転身し、以後紙芝居の実演を続けています。本庄川崎公園には、毎週火曜日の16時過ぎごろから実演。お話によると、ここ数年前ごろから、常時20人ぐらいいた子どもの数も減っているとのことで、数人しか集らない日も多くなったとの話です。 図書館職員が訪ねた2019年9月3日には、10人ほどの子どもが集っており、50円で水あめなどを買い、紙芝居の実演を楽しんでいました。思い出のこしにある中津の公園での実演をお聞きしたところ、現在は行っていないが、以前は中津の方にも行っていたとのことです。ただし、中津東公園かは不明。昭和56年当時には、地元大阪市北区を中心に毎日二.三ヶ所、一週間十四ヶ所以上の実演を行っていたそうです。(2020.3.28 北図書館),中津小学校ホームページ>学校日記>過去の記事>2015年6月21日「1年 通学路を歩こう 3」http://swa.city-osaka.ed.jp/swas/index.php?id=e511012&date=20150621 (2020年10月31日確認)|『わたしの大阪遊び唄事典』山野良子/編著 編集工房ノア 1993.3 書誌ID 0000312556 p.125|『OSAKA-JIN (大阪人) 2002年9月 / 56巻9号 紙芝居の時代』大阪都市協会 2002 書誌ID 5110349831 p.21|『ザ・カミシバイ -紙芝居を始めるよ!-』杉浦貞/著 ドニエプル出版 2008 書誌ID 0011695330,2018年10月28日,CC BY-SA,北区,昭和30年-40年代(1955-1974),公園|遊び パン屋,平成元年生まれ,2001年頃から2004年初めまで, 中学校への通学路の途中に有ったパン屋「ハートムート」現在では廃業されてしまったが、中学校へ通学する途中に有ったパン屋からただよっていたパンの焼ける香りは今でも忘れられない。そのパン屋のパンをはじめて食べたのは中学校の入学式の帰りだったか、入学式に来てくれた母がおみやげにパンを買って帰っていた。どんなパンだったか記憶にないがなつかしい思い出だ。, 北区万歳町1-3, 『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 昭和36年版』『大阪市全商工住宅案内図帳 北区[昭和44年]』を確認すると、現在の北区万歳町1-3の場所には、西川製菓KKとの会社名が確認できます。後年の住宅地図をたどると、『大阪市精密住宅地図 -北区-』(1986)には、「西川製菓(株)」の一角に「パンハートムート」の店名が確認できます。ウェブサイト「食べログ」の口コミを調査したところ、2015年10月の訪問情報の書き込みがありました(2020.3.28確認)。食べログからは確認できませんでしたが、Rettyグルメのサイトには、閉店との情報がありました。閉店時期は確認できませんでした。なお、住宅地図や住宅情報サイト数社のホームページでは、「ハートムート」という名称の3階建て賃貸マンションとして掲載されており、2・3階部分が賃貸となっているようです。ちなみに、『ゼンリン住宅地図大阪市北区 [2019]』別記では、「ハートムート」の1Fには、「西川製菓」の表記が確認できます。(2020.3.28 北図書館),『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 昭和36年版』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422844|『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 [昭和44年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422841|『大阪市精密住宅地図 -北区-』吉田地図 1986 書誌ID 0011086741|『ゼンリン住宅地図大阪市北区 [2019]』ゼンリン 2019 書誌ID 0014737899|食べログ 口コミ一覧 ハートムートhttps://tabelog.com/osaka/A2701/A270101/27008021/dtlrvwlst/ (2020年10月31日確認)|Rettyグルメ ハートムートhttps://retty.me/area/PRE27/ARE89/SUB8901/100001023730/ (2020年10月31日確認),2019年3月24日,CC BY-SA,北区,平成(1989-2019), 昭和天皇の巡幸,75歳前後,戦後復興の頃(昭和20年代(1945-1954)頃), 昭和天皇が日本をまわっていて、野田阪神から玉川町へ抜けて行った。何時ごろ通るからと、小学生など旗を配られて、みんなで見に行った。, 野田阪神駅から玉川町へ南下する道路(29号線), 昭和天皇の戦後全国巡幸は、昭和21(1946)年の神奈川県からはじまり昭和29(1954)年まで行われました。大阪へは、昭和22(1947)年6月5日から7日と14日に訪れました。6月4日にお召し列車で京都入りし、京都御所を拠点に、5日は、車で移動、淀川左岸排水改良工事事業場、大阪府庁、大阪府立貿易館、住友電気工業、武田薬品工業、博愛社を訪問しました。6日は、御召列車で京都駅から吹田操車場そして大阪駅に移動し、車で大阪府海外引揚援護館、大阪製作所、大阪市立中央授産場、大阪市役所、毎日新聞社、朝日新聞社、大阪港の順に訪問しました。7日は、お召し列車で大阪駅到着後、車で御堂筋を南下、大阪府立今宮工業学校、大阪市立丸山小学校を視察し、その後は堺、岸和田方面へ向かいました。14日には大阪文楽座を訪れています。野田阪神駅から玉川町への道路を通過した記録はみつかりませんでしたが、全国各地で人々は自発的に駅や線路端に出向き、日の丸の小旗を振ったり万歳をしたり、昭和天皇を熱狂的に迎えました。(2017.4.17 福島図書館),『関西行幸記録』大阪鉄道局 1948 書誌ID 0000820948|『昭和天皇御召列車全記録』原武史/監修 日本鉄道旅行地図帳編集部/編 新潮社 2016 書誌ID 0014179014|『昭和天皇の全国巡幸 第1巻 全国編』西川秀和/編著 アーカイブス出版 2008 書誌ID 0011596954|『昭和天皇の御巡幸』鈴木正男/著 展転社 1992 書誌ID 0000278648|『昭和天皇巡幸 -昭和二十一年~二十九年- 写真集』前坂俊之/編 河出書房新社 2013 書誌ID 0012737606,2016年5月6日,CC BY-SA,福島区,昭和20年代まで(1926-1954), JR東西線海老江駅,1959年生,15年くらい前(平成13(2001)年頃), JR東西線海老江駅のホームへ向かうエスカレーターが深かった。初めて乗ったとき、そんなに人も居らず、一直線に深く潜っていくエスカレーターに少々ビビリました。, 海老江5丁目2, JR東西線は、淀川の下を通過する初めての鉄道として、平成9(1997)年3月8日に開業しました。尼崎駅-京橋駅間は約12.5kmあり、このうち10.2kmは地下を通っています。海老江駅-御幣島駅間は地下40mと最も深く、河川をくぐる地下トンネルとしては日本一の深さとなっています。『JR東西線(片福連絡線)』には工事の写真や尼崎駅-京橋駅間の縦断面図があり、その深さを実感することができます。(2018.1.26 福島図書館),『JR東西線(片福連絡線)』関西高速鉄道 [1997] 書誌ID 0000627988|『関西圏通勤電車徹底批評 上』川島令三/著 草思社 2004 書誌ID 0010894855,2016年5月12日,CC BY-SA,福島区,平成(1989-2019),鉄道 昭和30年代の上福島,昭和23(1948)年生れ,昭和30年代(1955-1944)ごろ, 私は今から約60年前の大阪福島を描いた小説『セピアの夏 大阪』『あの頃聖天通りで ~Rhapsody in Osaka~』をメディアクラフト牡牛座より電子書籍で出版した。昭和30年代の大阪福島の社会とそこに生きる人々を描いている。, 上福島地域と上福島小学校, 電子書籍『セピアの夏 大阪』『あの頃聖天通りで ~Rhapsody in Osaka~』の2作とも、あいにく大阪市立図書館には所蔵がありません。 当時の上福島・鷺洲の街の様子を知る資料として田野登氏の「阪神電車の消えるトンネル -昭和三十年頃の福島界隈-」(『大阪春秋』)があります。小さいころの記憶をもとに、酒屋や理髪店などの商店、風呂屋、お寺や病院などの街並みが地図に記入され、思い出とともにつづられています。 戦争で焼け残った校舎だけだった上福島小学校は、昭和30年代に新しい鉄筋校舎が増築され、講堂やプールも順々にできていきました。(2017.8.8 福島図書館),『大阪春秋 通巻80号 野田・福島』「阪神電車の消えるトンネル ー昭和30年頃の福島界隈-」 大阪春秋社 1995 書誌ID 0000483706|『わたしたちの町 上福島』大阪市立上福島小学校副読本作成委員会/編集 大阪市立上福島小学校 1994 書誌ID 0000685997,2016年8月15日,CC BY-SA,福島区,昭和30年-40年代(1955-1974), 阪神野田駅前,75歳前後,昭和20年代(1945-1954)頃前, 阪神野田駅がまだ地面にあって、天六⇔野田阪神間でチンチン電車が走り、駅前ロータリーにはナショナルの広告塔があった。ネオンサインが美しい小さなロータリー公園に1・6・3・8日(イチ・ロク・サン・パチ)と夜店が立ち、傷痍(しょうい)軍人さんがアコーディオンを弾き、主に衣類(古着)古本その他雑多なものが売られた。その横にはまた川口方面へのチンチン電車の発着所もあり多くの人が行き交っていた。裸電球の光が子供心にうきうきしたものだった。, 阪神野田駅, 昭和20(1945)年の空襲で、野田阪神界隈は焼野原となりました。そして終戦を迎え、今の新橋筋あたりにあった高射砲陣地の跡地に、バラック建てができ闇市場となって野田阪神付近が発展していきました。一方、戦前「北の心斎橋」とも言われた聖天通りは寂れ、賑わいが野田阪神と入れ替わりました。 昭和22(1947)年ごろまでには阪神電車野田駅前は、ロータリーを中心に半円形に商店街ができていき、昭和24(1949)年ごろには、商店街に街灯がついて1・6・3・8のつく日に夜店が開かれるようになりました。 駅前は公園で、噴水がある丸い池と、ナショナルの広告塔がそびえたち、夜にはネオンが輝いていました。 この野田駅は大阪と神戸を結ぶ阪神本線の他、北側には大正・昭和初期から市電と阪神電鉄との併用軌道線の発着するターミナルがあり、国道2号線を西進し東神戸に至る国道線と、野田から海老江、浦江、中津を経て天神橋筋6丁目へ至る北大阪線が走っていました。また市電はチンチン電車と呼ばれ、野田阪神駅前と玉川3丁目を結ぶ野田線がありました。阪神電車野田駅西の国道2号線の踏切は、戦前から道路交通の大きな障害となっており、昭和36(1961)年に線路は高架化され、昭和40年代(1965-1974)中ごろ噴水も塔もなくなりました。(2018.3.27 福島図書館),『福島区史』大阪都市協会/編集 福島区制施行五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0070022168|『甦るわがまち -戦災復興土地区画整理事業- 福島地区』大阪市都市整備協会 1983 書誌ID 0000274087|『大阪春秋 通巻80号 野田・福島』「阪神電車の福島・野田」大阪春秋社 1995 書誌ID 0000483706|『創立五十周年記念誌 -大阪市立海老江東小学校-』大阪市立海老江東小学校創立50周年記念事業実行委員会 1995 書誌ID 0080248955|『福島てんこもり -わが町まるごとガイド-』[大阪市立福島図書館]『編集講座わたしの好きな福島』参加者 1995 書誌ID 0000462339|『福島てんこもり -わが町まるごとガイド- no.15』福島てんこもり 2008 書誌ID 0011723390|『目で見る大阪市の100年 上巻』『大阪市の100年』刊行会/編 郷土出版社 1998 書誌ID 0000706420,2016年10月9日,CC BY-SA,福島区,昭和20年代まで(1926-1954),鉄道 国鉄野田駅,昭和9(1934)年生,昭和36(1961)年頃, 日本国有鉄道(国鉄)野田駅が建設中だったとき、1歳の長男をおんぶして、今日はどこまで出来たかなあと見に行きました。環状線になっていたかどうかは不明。, JR野田駅, 野田駅は、明治31(1898)年4月15日に大阪港整備のために開業した西成鉄道(大阪-安治川間)の駅でした。明治39(1906)年12月1日に国有化されて西成線となり、昭和6(1931)年11月8日には大阪中央卸売市場本場への貨物支線も開業しました。さらには、昭和36(1961)年4月25日に、大阪市内東側を走る城東線(天王寺-玉造-大阪)、南西を走る関西本線の貨物支線(今宮-境川信号場、大阪臨港鉄道ともいう)、南西に新設の線路(境川信号場-西九条)と統合されて、大阪環状線として開通しました。開通当時は、大阪-西九条間は高架工事が未完成で、地上線でした。現在のような全線高架の大阪環状線が誕生したのは、昭和39(1964)年の3月22日です。野田駅の高架工事を楽しそうにご覧になっておられた様子が目に浮かぶようです。(2019.2.28 福島図書館),『まるまる大阪環状線めぐり -知られざる歴史とオモシロ知識-』土屋武之/著 久保田敦/写真 交通新聞社 2015 書誌ID 0013878735|『大阪環状線 -その鉄道文化、沿線文化を探る-』羽森康純/著 風詠社 2013 書誌ID 0012789430|『週刊歴史でめぐる鉄道全路線 -国鉄・JR- NO.30 大阪環状線/片町線/桜島線/JR東西線』朝日新聞出版 2010 書誌ID 0012023906,2016年10月15日,CC BY-SA,福島区,昭和30年-40年代(1955-1974),鉄道 大阪中央卸売市場本場(引込み線) 恵美須神社,昭和29(1954)年生れ,昭和35(1960)年代, 中央市場に入る貨物の引込み線があり、めったに貨車が通らないので、子どものころの遊び場だった。夜中には中央市場に入って行く貨物の音が聞こえ、その時まで起きていると母親に叱られた。また、八間道路には、中央市場内の線路の下をくぐって中に入る地下道があり、その薄暗いスロープで遊んだ。確か、扉があり夜は通れなかったと思う。引込み線は、今は緑道公園になり、地下道は埋められて北門になっている。一方、恵美須神社の鳥居の前には毎日、たこ焼きの屋台が来ており、よく食べた。, 大阪中央卸売市場本場(引込み線) 恵美須神社, 昭和6(1931)年11月8日、3日後に開場する大阪中央卸売市場本場へ食品を運搬するために、国有鉄道の西成線の野田-大阪市場間に貨物支線が開業しました。大阪中央卸売市場開場当日は、午前零時半に初の561号列車が構内に入り、下関や長崎、北陸方面、秋田、和歌山など日本各地から多くの海の幸、山の幸が積み込まれてきました。セリは定刻より1時間繰り上げられて午前4時ごろから始まりました。この日の午前4時から9時までの入場歩行者は1万6千人あまりといわれています。『本場50年の歩み』口絵の市場の案内図には、野田駅からの引込み線や北門付近の地下道が書かれています。昭和36(1961)年4月25日の大阪環状線開通により、大阪環状線の支線となり、食品輸送の主流となっていきました。その後、道路網の発達と高速化が進み、トラックによる輸送がめざましく増えていき、大阪中央卸売市場への貨物支線は、昭和59(1984)年2月1日に廃止となりました。今は、北門付近の地下道は埋められ、廃止された貨物線の線路の跡は大半が緑道となっています。 恵美須神社(野田恵美須神社)は、いつ創建されたかは明らかではありませんが、境内に永久3(1115)年と刻まれた御影石があります。「野田のえびすさん」として親しまれ、1月10日の戎さんは大変な賑わいです。(2018.8.3 福島図書館),『本場50年の歩み -大阪市中央卸売市場本場開設50周年記念-』大阪市中央卸売市場本場開設50周年記念事業委員会 1982 書誌ID 0070067820|『新たな飛躍に向けて -本場開設70周年・新市場完成記念-』[大阪市中央卸売市場本場開設70周年・新市場完成記念事業委員会] 2002 書誌ID 0010430979|『まるまる大阪環状線めぐり -知られざる歴史とオモシロ知識-』土屋武之/著 久保田敦/写真 交通新聞社 2015 書誌ID 0013878735|『大阪環状線 -その鉄道文化、沿線文化を探る-』羽森康純/著 風詠社 2013 書誌ID 0012789430|『福島区史』大阪都市協会/編集 福島区制施行50周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0070022168|野田恵美須神社公式ホームページhttp://www.noda-ebisu.com/ (2018年8月13日確認),2017年7月2日,CC BY-SA,福島区,昭和30年-40年代(1955-1974),鉄道|道路|公園 富島渡し,66歳,昭和56(1981)年4月から10月, 富島渡しで、生後3ヶ月の息子を背中に背負って、地下鉄九条駅近くにある西区の共同保育所へ野田2丁目から歩いて通いました。今なら地下鉄で行ったでしょうが、富島渡しを使ったら近いのではと思い、朝、市場関係のおじさんの自転車に混ざって川を渡っていました。毎日決まった時間なので顔ぶれも同じ。いろいろ声をかけてもらいながら、ほんの数分。風にふかれると息子が泣いたのを思い出します。渡しがなくなる少し前の頃のことです。冬はさすがに寒くなり、自転車に乗せて橋を渡って行きました。, 中央市場管理棟と果物市場の間の道(かつては妙見筋と呼んでいた)のつきあたり、安治川の堤防のところに渡し場があった。西側には碑がある。, 古来、水都大阪には多数の川があり、架橋が困難な場所の両岸の通行のため、各所に渡船が設けられました。明治18(1885)年の淀川大洪水のとき、上流の橋が流失し橋材などが堆積した安治川橋は、下流の福島・此花沿岸に大きな被害を招く危険があったため廃止され、渡船が唯一の交通手段となりました。安治川は、大阪港に直結し江戸時代以来物資の集散する交通路であり、沿岸地帯は荷揚場として利用され、倉庫、工場が立ち並んでいました。富島渡しは、安治川筋の最上流の渡しで、左岸の西区富島町(旧町名)を結んでいました。右岸の乗降場は、中央卸売市場の西側の妙見筋にありました。 昭和15(1940)年ごろ安治川筋には12の渡船場がありましたが、安治川河底トンネルの整備、戦後は他の道路や橋梁の整備にともなって利用者が減少し、次々に廃止されて、富島渡しも昭和57(1982)年3月に廃止されました。(2018.8.6 福島図書館),『福島区史』大阪都市協会/編集 福島区制施行50周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0070022168|『大阪春秋 通巻80号 野田・福島』「安治川物語」 大阪春秋社 1995 書誌ID 0000483706|『昭和大阪市史 続編 第5巻 経済編 下』大阪市役所 1969 書誌ID 0070004816|『大阪市渡船場マップ』大阪市土木技術協会/編集 大阪市建設局渡船事務所 1992 書誌ID 0000818246,2017年10月22日,CC BY-SA,福島区,昭和50年-60年代(1975-1989),川 野田緑道,昭和44(1969)年生まれ,昭和52(1977)年から昭和60(1985)年ごろ、平成21(2009)年から現在, 平成21(2009)年8月から平成24(2012)年3月までの此花在住の頃、玉川1丁目の本成寺への参詣の道中に、道としての快適さと、中央市場への貨物線時代の思いを感じながら、野田緑道を利用していました。平成21(2009)年8月までは、出身地の吹田に在住しておりましたので、貨物列車の運行を実際にみることはできなかったのですが、以前区役所に展示してあった最後の列車(昭和60(1985)年3月14日)や、鉄道ファンの方々が写された写真、書籍『国鉄冷蔵車の歴史(上・下巻)』(ネコ・パブリッシング 大阪府立図書館所蔵)で貨物線時代のことを知り、野田緑道がかつて鉄道による食品流通に多大に貢献してきた歴史を感じました。 現在は市民の足・憩いの場として、以前は鉄道による物流を担った野田緑道を、町の財産として、また町の鉄道史跡として、大切にしていただきたいと思います。, 福島区野田4丁目・5丁目・6丁目の野田緑道(旧大阪市場貨物線)(JR野田駅から南西。首藤病院となり側から中央市場西口付近まで), 野田緑道は、もとは中央市場引込線の線路でした。国鉄西成線の西野田駅から分岐した貨物線が、カーブを描いて場内にあった大阪市場駅に延びていました。ここを通って全国から鮮魚・青果などが市場に運び込まれていました。 この支線は昭和6(1931)年に開業し、昭和59(1984)年に大阪市場駅が廃止されて、トラック輸送に替わっていきました。しばらくは野田駅管理下で貨車が通っていましたが、昭和60(1985)年3月14日で完全に列車は来なくなりました。線路跡の大半が緑道として生まれ変わり、地域の散歩道として市民に親しまれています。 思い出「大阪中央卸売市場本場(引込み線) 恵美須神社」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=muifcdy2b-11304#_11304もご参照ください。(2018.12.10 福島図書館),『野田 -創立100周年記念誌-』創立100周年記念誌編集委員一同/編集 大阪市立野田小学校創立100周年記念事業委員会 2003 書誌ID 0010528955|『わたしたちの野田』大阪市立野田小学校副読本作成委員会/編集 大阪市立野田小学校 2003 書誌ID 0010528957|『本場50年の歩み -大阪市中央卸売市場本場開設50周年記念-』大阪市中央卸売市場本場開設50周年記念事業委員会 1982 書誌ID 0070067820|『大阪港史 第3巻』大阪市港湾局 1964 書誌ID 0070051523|『まるまる大阪環状線めぐり -知られざる歴史とオモシロ知識-』土屋武之/著 久保田敦/写真 交通新聞社 2015 書誌ID 0013878735|『わがまち福島区 :改訂版』福島区未来わがまち会議 2008 書誌ID 0011785189|『わがまちマップふくしま』[大阪市]福島区役所企画総務課 [1998] 書誌ID 0000694683|『大阪市みどりのウォーキングコースマップ -福島区-』大阪市ゆとりとみどり振興局 2009 書誌ID 0012029273,2018年3月21日,CC BY-SA,福島区,昭和50年-60年代(1975-1989)|平成(1989-2019)|令和(2019以降),道路 阪堺電車 阿部野交差点,昭和37(1962)年生,小学生から高校生の時, 上町線アベノ斎場駅は直接道路に降りていました(住吉→天王寺行き)。こわかったけれど、朝は前の電車に乗り換え、天王寺に早く着くことができました。 斎場前の交差点を通過する時は、車内のけい光灯が切れたりついたりしていました。 車掌さんが(原文にはがまぐち風のカバンの図あり)こんなカバンを前にさげて(原文には切符と改札バサミの図あり)パチパチと切符を売ってくれました。これは中学の頃にはもうありませんでした。, (原文には地図あり), 現在の阪堺電気軌道上町線は、昭和55年まで南海電気鉄道が営業していました。南海時代は阪堺線・上町線の他に平野線があり、上町線と平野線は阿倍野で平面交差していました。平野線は、現在の地下鉄谷町線の地上を通っていたため、昭和55年の谷町線天王寺-八尾南間の開通と同時に廃止されました。ほぼ同時に阪堺線・上町線は阪堺電気軌道に事業譲渡され、現在に至ります。 昭和43年の住宅地図では南海電鉄平野線、上町線が阿倍野で交差しているのが確認できます。 また当時の阿倍野交差点の様子は、下記の資料などに残されています。昭和43年の阿倍野斎場前を走る平野線の写真(『阪堺電気軌道』p.30)|昭和48年、昭和55年の阿倍野交差点を走る電車の写真(『大阪春秋 第144号』p.49)(2017.7.15 阿倍野図書館),『大阪市全商工住宅案内図帳 阿倍野区 [昭和43年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422880|『阪堺百年』阪堺電気軌道株式会社/編集 阪堺電気軌道 2000 書誌ID 0000850766|『阪堺電気軌道 -昭和3年生まれの80歳 現役最長老の車両が走る 大阪-堺の沿線風景-』三冬社 2008 書誌ID 0011749638 p.30|『大阪春秋 通巻第144号 特集阪堺電車~阪堺線開通100年~』新風書房 2011 書誌ID 0012384513 p.49|『阪堺電車物語 -我輩はモ161である-』長岡靖久/著 論創社 2011 書誌ID 0012401231,2017年4月11日,CC BY-SA,阿倍野区,昭和30年-40年代(1955-1974),鉄道 子供の遊び 昭和町,昭和9(1934)年生,昭和20(1945)年-22(1947)年,「コマ」1.回す 2.肩かけ 3.耳かけ 4.綱わたり 5.手のり 6.鬼ごっこ「ベッタン」メンコ「ビー玉」ラムネ玉「縄とび」「ゴム飛び」「ローラースケート」木製の靴+(ベアリング)「宝ふみ」「S(エス)ケン」(学校校庭), 昭和町本通商店街(原文には地図あり) ローラースケートは商店街のコンクリートの部分で、他の遊びは地道の部分でやっていた, 日本の昔の子どもの遊びについては、下記参考文献に示したような図書が出版されており、詳しい遊び方も記載されています。 「ベッタン」はめんこのことで、関西地方ではこのようによばれています(『日本大百科全書』「めんこ」の項)。(2017.6.2 阿倍野図書館),『昭和の子ども生活絵図鑑』奥成達/文 金の星社 2014 書誌ID 0012881871|『にほんのあそびの教科書 -こどもたちへ伝えたい…-』にほんのあそび研究委員会/編 滋慶出版/土屋書店 2013 書誌ID 0012725383|『子どもの遊び黄金時代 -70年代の外遊び・家遊び・教室遊び-』初見健一/著光文社 2013 書誌ID 0012784900|『やってみよう!むかしのあそび 1 こままわし』ポプラ社 2016 書誌ID 0014069280|『独楽 :改訂版』安藤正樹/文 文溪堂 2003 書誌ID 0012107067|商用データベース「JapanKnowledge(ジャパンナレッジ)(事典・辞書等)」収録『日本大百科全書』「めんこ」の項(2017年6月2日確認),2017年4月22日,CC BY-SA,阿倍野区,昭和20年代まで(1926-1954),遊び 子供の遊び 長池小学校,昭和9(1934)年生,昭和20(1945)年, 「野球」手作りのボール、バット(ベースはローセキでかく) 「水泳」, 「野球」シャープの間(南港通り)、桃ヶ池公園。「水泳」長池小学校にプールがなかったためシャープの東側の池(原文には池を埋め立てる前の手書き地図あり), 『[大阪市立長池小学校]創立三十周年記念誌』によれば、長池小学校にプールが竣工したのは昭和28年のことです(p.9)。p.22の校舎平面図、p.23の校区図を見ると、当時は、現在の長池小学校のすぐ東に、もう1つ池があり、「長池」が2つ並んでいたことが分かります。 現在、この池のあった場所は長池運動場になっています。昭和38年の住宅地図ではまだ池ですが、昭和43年の住宅地図では「空地」と記されており、この間に埋め立てられたようです。 「ろう石」は、コンクリートの道に絵や字が書ける白っぽい石で、車が少なかったころは、子どもが道に落書きなどをして遊ぶのに使われました。(2017.7.15 阿倍野図書館),『[大阪市立長池小学校]創立三十周年記念誌』大阪市立長池小学校 1959 書誌ID 0090012302 p.9|『大阪市全商工住宅案内図帳 阿倍野区 -南部- 昭和38年版』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167530 p.21|『大阪市全商工住宅案内図帳 阿倍野区 [昭和43年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422880 p.43|『昭和のくらしがわかる事典 -「いま」とどうちがう?-』早川典子/監修 造事務所/編集・構成 PHP研究所 2010 書誌ID 0012009538 p.49,2017年4月22日,CC BY-SA,阿倍野区,昭和20年代まで(1926-1954),遊び 阪堺電車 北畠駅前,昭和54(1979)年生,駄菓子屋さんで一人でお金のやりとりをしていたので、私が小学校低学年か中学年のころ、1986年から1990年にかけての思い出だと思います。, 阪堺電車の北畠駅前には個人商店がいくつか並んでいました。コルゲンコーワのケロちゃんかコロちゃんの人形と網状の黄色のごみ箱が印象に残っているので薬局があったのだと思います(記憶違いでしたらすみません)。また、駄菓子屋さんがあって、そこでよく長方形のアタリ付きフーセンガムを買っていました(丸川製菓のものだと思われます)。当たりがでるともう一つもらえるのが嬉しくて、ソーダ味が一番のお気に入りでした。, 阪堺電車の浜寺駅前方面の北畠駅前です。, 昭和62年の住宅地図には、阪堺電車上町線北畠駅の西側に、書店、美容室、理容、タバコ・パン(商店)などの店舗名とともに、「薬舗」の名が見えます(p.54)。平成2年のブルーマップにも同じ場所に「薬舗」が存在しています(p.38)。 コルゲンコーワを製造している興和株式会社のホームページには、キャラクターのカエルの歴史を紹介する「ケロコロヒストリー」のページがあります。それによれば、薬局などの店頭でおなじみの、初代店頭カエルは昭和38年に誕生、その後、昭和53年に2代目店頭カエルが誕生し、現在でも使用されているということです。 丸川製菓は1888年創業の老舗で、フーセンガムは1959年にオレンジ味が発売されたのが始まりです。ソーダ味などのクジつきガムは現在も製造されています。(2017.7.15 阿倍野図書館),『大阪市精密住宅地図 阿倍野区 -全商工住宅案内図帳- 1979-1988』吉田地図 1979 書誌ID 0080276919 p.54|『ブルーマップ大阪市阿倍野区 -住居表示地番対照住宅地図-』民事法情報センター 1990 書誌ID 0000221586 p.38|興和株式会社ホームページ「ケロコロヒストリー」http://kr2.kowa.co.jp/history (2017年6月2日確認)|『まだある。 -今でも買える“懐かしの昭和”カタログ- 駄菓子編』初見健一/著 大空出版 2006 書誌ID 0011261563 p.54|『まだある。大百科 -今でも買える昭和のロングセラー図鑑- お菓子編』初見健一/著 大空出版 2008 書誌ID 0011762919 p.134|丸川製菓ホームページ 商品ラインナップ アタリ付き商品https://www.marukawagum.com/item/item_1/ (2020年12月23日確認),2017年5月10日,CC BY-SA,阿倍野区,昭和50年-60年代(1975-1989)|平成(1989-2019), 大阪赤十字病院と犬,昭和31(1956)年生 ,私が小学校1年か2年頃だったと思うので…, 個人的な思い出なのですが、昔、犬は放し飼いが当り前でした。家の犬が赤十字病院に入り込み、迎えに行った父から聞いたことなのですが、病院に行くと、包帯でミイラの様にグルグル巻きにされて、柱にくくりつけられていたそうです。 あばれ廻る犬を目と鼻だけを除いて包帯で巻き上げた看護婦さんは「流石にプロだ」と何度も感心していました。 この犬は阿倍野橋温泉にも入り込んで、女湯だったので、父は入れず大変に困ったという武勇伝も…。今思うと申し訳無いです。, 今ルシアスのある場所に赤十字病院がありました。私も赤十字病院で産まれました。阿倍野橋温泉は阿倍野銀座の西の端にありました。今はQ'sモールの西側ビルに入っています。, 『阿倍野区史』によれば、大阪赤十字病院阿倍野分院(旭町1丁目1)は昭和21年9月に開設、院内に社団法人大阪赤十字病院附属産院が併設されている、とあります(p.264-265)。 また、昭和37年の住宅地図には、大阪赤十字病院阿倍野分院と、その少し南に阿倍野橋温泉が掲載されています(p.2)。 阿倍野橋温泉は、現在「湯処あべの橋」の名称で、あべのキューズモール西側で営業されています。(2017.7.15 阿倍野図書館),『阿倍野区史』川端直正/編 阿倍野区市域編入三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000244908 p.264-265|『大阪市全商工住宅案内図帳 阿倍野区 -北部- 昭和37年』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422871 p.2|湯処あべの橋ホームページhttps://yudokoro-abenobashi.com/ (2020年12月23日),2017年5月20日,CC BY-SA,阿倍野区,昭和30年-40年代(1955-1974), 西田辺,昭和23(1948)年生,昭和30(1955)年くらいかな, 子供の頃、西田辺付近で生まれ育った。まだ西田辺駅がなく父は国鉄南田辺駅を使っていた。地下鉄工事をよく見にいった。その後、地下鉄西田辺駅ができてターミナルだった。そこから長居の競馬場行きのバスが出ていて、つるが丘公園に行くのに、父と一緒に乗った記憶がある。長池小学校に入学した時は、現在の西門が当時は正門だった。正門を通過し、校舎の玄関の手前左側に大きな鳥ごやがあり、フクロウがいた。当時のストーブは石炭ストーブで、掃除当番は現在グラウンドになっているがまだ池だったところへ、石炭ガラを捨てに行かねばならなかった。遠かったような記憶がある。 学校からかえってからは近所の友だちと缶けり、ケンパ、リレーをよくやった。ろう石で「陣地とり」もよくやった。「いちだん」(ゴムとび)、まわし(長なわとび), 昭和町5丁目、長池小学校正門(当時)あたり, 昭和27年10月5日、地下鉄御堂筋線の昭和町-西田辺間が開通し、天王寺から西田辺までが一本で結ばれました。『大阪市今昔写真集 東南部編』p.114には開通時の西田辺駅前の写真があります。付近は未舗装で、和服姿の女性も目立ちます。 長居公園には、かつて大阪競馬場がありました。市の戦後復興の財源獲得の一策として、昭和23年7月に完成したものです。しかし昭和34年12月、収入が市の歳入に対して小さいこと、競馬が社会に対して弊害をもたらすなどの理由で廃止されました。 『[大阪市立長池小学校]創立三十周年記念誌』(昭和34(1959)年発行)のp.22「校舎平面図」を見ると、南側に正門があり、入って右側に校舎玄関の記載があります。その後、昭和43年発行の『長池』(創立40周年記念)のp.46の平面図では、プールの南側に「きん舎」ができています。 また、同書p.37の「暖房規定」には「石炭暖房」の項があります。「灰は所定の場所に捨てる」などの決まりが記されています。(2017.6.11 阿倍野図書館),『大阪市今昔写真集 東南部版』石浜紅子/監修 樹林舎 2009 書誌ID: 0011988679 p.114|『新修大阪市史 第8巻 現代1』新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1992 書誌ID 0000287252|『[大阪市立長池小学校]創立三十周年記念誌』大阪市立長池小学校 1959 書誌ID 0090012302 p.22|『長池 -大阪市立長池小学校創立40周年記念-』大阪市立長池小学校 1968 書誌ID 0000520933 p.37 p.46,2017年5月31日,CC BY-SA,阿倍野区,昭和30年-40年代(1955-1974),鉄道|遊び 阪南団地,昭和53(1978)年生,1980年ごろ。私が小学校-中学生の頃, 阪南公園の周りに阪南団地というものがあって、秋にはイチョウ並木が静かに立っていて子供心にセンチメンタルな雰囲気を感じていた。その横のへいを登り、夏にはセミ取り。また団地の中に小さな公園があって、真白の氷のようなすべり台があり、北極のようだと思いながら遊んでいた。 他に、晴明通りにある公園をなぜか「けんちゃんの公園」と呼んでいました。前にたこ焼き屋さん。晴明ヶ丘小学校の前は「イイダヤ」というだがし屋さん。, 阪南団地、阪南公園周辺, 阪南団地は、阪南公園と阿倍野筋の間にあった公団住宅で、昭和37(1962)年、大阪大学南校(旧制大阪高等学校)の跡地に建設されました。SF作家の眉村卓さんは当初からの住人で、ここで数々の作品が生み出されました。『大阪市今昔写真集 東南部編』には昭和45年の団地の写真が載っています(p.74)。団地は老朽化のため取り壊され、現在は大型スーパーや分譲マンションなどになっています。 「晴明通りにある公園」については、住宅地図で確認できるものとして、晴明丘小学校から少し東へ行ったところにある「晴明丘児童遊園」があります。こちらのことでしょうか。昭和43年の住宅地図には見えませんが、昭和58年の地図には掲載があり、この間に設置されたようです。 昭和43年の住宅地図には、晴明丘小学校の北東に「文具・菓子 飯田屋」があり(p.23)、平成2年のブルーマップでも同じ場所に掲載されています(p.26)。(2017.8.29 阿倍野図書館),『読売新聞 2002年7月22日 大阪夕刊』p.3「[あの人この町]SF作家・眉村卓さん67 妻と歩んだ阿倍野・阪南団地」(商用データベース「ヨミダス歴史館 -読売新聞記事-」でもご覧いただけます)|『建築と社会 46集7号』日本建築協会 1965 p.60-61「阪南団地」|『大阪市今昔写真集 東南部版』石浜 紅子/監修 樹林舎 2009 書誌ID 0011988679 p.74|『大阪市全商工住宅案内図帳 阿倍野区 [昭和43年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422880|『ブルーマップ大阪市阿倍野区 -住居表示地番対照住宅地図-』民事法情報センター 1990 書誌ID 0000221586,2017年7月25日,CC BY-SA,阿倍野区,昭和50年-60年代(1975-1989),公園 天下茶屋音頭,昭和13年生まれ,昭和24年ごろ, 天下茶屋小学校の校庭で、夏には盆踊りが行われており、やぐらを囲んで太鼓や三味線、唄う人、その周りを子供、大人が踊りました。踊りのレパートリーの中に「天下茶屋音頭」というのがありました。今では、知っている人もほとんどいないと思われます。作詞は天下茶屋小学校の先生と聞いたことがあります。作曲はわかりません。振付は当時、天下茶屋に住んでいた舞踏の師匠花柳流の花柳芳兵衛と聞いていました。 天下茶屋音頭の歌詞 「良い子 良い人 人情の街よ   そろろ気前をキリリとしめて太閤様もひと踊り  ほんに良い良い ほんに良い良い 天下茶屋 天下茶屋」, 天下茶屋小学校, 「天下茶屋音頭」についての記述は見つかりませんでしたが、花柳芳兵衛氏は、西成区市域編入四〇周年記念事業で作られた「西成音頭」の振付を依頼された方のようです。 天下茶屋小学校に確認を取ってみたところ、記録は見当たらないようでしたが、「天下茶屋音頭」を覚えている方がおられるとのことでした。(2016.12.7 西成図書館),『西成区史』川端直正/編集 西成区市域編入四〇周年記念事業委員会 1968 書誌ID 0070080431,2016年9月11日,CC BY-SA,西成区,昭和20年代まで(1926-1954), 昭和初期の南海高野線,大正15年生まれ,昭和5年ごろ," 昭和のはじめ、高野線の起点は汐見橋でした。極楽橋行きも元は汐見橋発でした。昭和5年に単線から複線になり、西天下茶屋駅は、単線の頃、中央にホームがあり、上下に分かれて止まる形でした。戦前から戦後20年代頃まで貨物列車(5,6両-10両ほどの)も走っていました。通過する度に、地震かと思うぐらい、沿線の自宅が震動したのをおぼえています。", 南海高野線西天下茶屋駅 ,南海高野線 高野線は、明治31(1898)年1月30日、高野鉄道株式会社が、大小路(おおしょうじ 現堺東)から狭山間を開業、その後同年4月2日には長野(現河内長野)まで延伸。当初の計画では、大小路から南海鉄道の堺駅に到達する予定でしたが、計画変更があり、明治33(1900)年9月3日、住吉東から南海鉄道の岸ノ里駅を横断して道頓堀(現汐見橋)まで延伸開業。 その後、明治40(1907)年に高野登山鉄道が事業を継承し、路線延長が進められました。 大正4(1915)年4月に大阪高野鉄道と改称。大正11(1922)年に南海鉄道と合併。大正14(1925)年には、南海本線と高野線が岸ノ里駅で連絡。その連絡線の開通により、これまで汐見橋から九度山間の直通列車は、すべて難波発となりました。極楽橋までの路線は南海鉄道とは別会社の高野山電気鉄道を設立し、昭和4(1929)年2月に開通、昭和5(1930)年6月に極楽橋から高野山までが開通しました。その後、昭和7(1932)年には、高野山電気鉄道との間に、相互直通運転を開始、難波から極楽橋まで、乗り換えなしで行くことができるようになりました。 西天下茶屋駅 大阪高野鉄道と改称した約5カ月後の大正4(1915)年9月に開業しました。 大正13(1924)年3月より昭和5(1930)年4月に至る間に汐見橋より狭山までを複線としました。西天下茶屋-岸里間は、大正15(1926)年12月、木津川-西天下茶屋間は、昭和5(1930)年4月12日に複線化されました。 貨物列車について 汐見橋駅や木津川駅は、貨物取り扱い駅としても賑わいました。貨物列車のほか、郵便や小荷物輸送も行っていましたが、昭和46(1971)年に貨物が、翌年に郵便が、翌々年には荷物輸送が廃止されました。(2017.3.9 西成図書館),『南海電気鉄道百年史』南海電気鉄道株式会社/編集 南海電気鉄道 1985 書誌ID 0070031192|『南海電車 -大阪と和歌山を結ぶ日本最古の現役私鉄-』高橋修/著 JTBパブリッシング 2013 書誌ID 0012789386|『南海電鉄昭和の記憶 -大阪と和歌山・高野山を結ぶ現存最古の私鉄-』藤原浩/著 彩流社 2014 書誌ID 0013366059,2016年9月16日,CC BY-SA,西成区,昭和20年代まで(1926-1954),鉄道 西天下茶屋駅南の地下道,大正15年生まれ,昭和5年(1930)年ごろ, 西天下茶屋駅から少し南にある地下道は、物心がついた頃にすでにありました。西天下茶屋駅を出て、柳通りの踏切を渡ると、岸里に向かって勾配がつき、高架になっていました。地下道はそのために出来たと思われます。具体的な時期は、わかりませんが、昭和5年の複線化とも考え合わせると、その以前の昭和4年(1929)年ごろか。, 南海高野線西天下茶屋駅地下道, 西成区を舞台にしたドラマ「ふたりっ子」にも登場した地下道ですが、西成区役所発行の『人情マガジンにしなりvol.15(2015年秋号)』に、「西天下茶屋地下道トンネルの秘密」として掲載されている内容以上のことは図書館でもわかりませんでした。 西成図書館で所蔵している昭和11年の地図で、柳通五丁目および潮路通二丁目で南海高野線と交差している道があるのは確認できるのですが、線路の上を通っているのか、地下をくぐっているのかは判別がつきませんでした。 踏切警報機が設置されていると地上に道があることになるので、『南海鉄道発達史』p.453踏切警報機一覧で踏切警報機の有無を確認しました。昭和13年6月末には南海鉄道高野線に12の踏切警報機があることが確認できますが、該当の箇所と思われる踏切は見当たりませんでした。ただし一覧の踏切の数からも明らかですが、当時は線路の横断箇所全てに踏切があったわけではないので、踏切が無いことで、地下をくぐっていたとは必ずしも言い切れません。 現在も残る地下道を確認しましたが、竣工年月日等を彫り込んだ銅版や定礎板のようなものは見当たりません。残念ながらいつから地下道ができたかについては判明しませんでした。 なお、高野線の複線化については、『南海鉄道発達史』p.15に高野線複線開業の一覧があり、大正15年12月3日に西天下茶屋から岸里間が複線化されています。その後、昭和5年4月12日に木津川から西天下茶屋間が複線化されました。 地下道は西天下茶屋から岸里間にあるので、大正15年の複線化の際に線路は高架になっていたと推察されます。そうすると思い出の「物心がついた頃すでにあった」との話とも一致します。ただし現在の地下道はコンクリートですので、耐用年数から考えますと、当時とは面影が違うと思われます。(2018.1.23 西成図書館),『最新の西成区 -都市計画路線入- 大大阪区勢地図』[夕刊大阪新聞社] 1936 書誌ID 0080350043 夕刊大阪新聞附録 裏面:名所官衙及著名会社商舗|『南海鉄道発達史』南海鉄道 1938 書誌ID 0080229519,2016年9月16日,CC BY-SA,西成区,昭和20年代まで(1926-1954),鉄道|道路 昭和10年代の西天下茶屋商店街付近,大正15年生まれ,昭和10年代中頃, 西天下茶屋商店街付近は、子どもの頃は、ネギ畑が続いていました。昭和10年前後に商店街が出来たと思います。幸運劇場という映画館もありました。, 西天下茶屋商店街, 『西成区史』の序文で、西成区には明治・大正の頃、ねぎ畑や綿畑、藍畑があったことが述べられています。 『新修大阪市史 第10巻』の付録の歴史地図 図7「昭和初期の大阪 -第2次市域拡張後-」の「昭和初期の土地利用と施設」の地図で確認すると、西天下茶屋駅付近は、「商業地」「その他市街地」「畑地・空地」とあります。 その後の歴史地図 図9「戦災復興期の大阪」の「建物用途別土地利用(昭和25年)」では、西天下茶屋駅付近は「住宅」「商業建築物」で占められています。 西天下茶屋の商店街は『西成区史』p.130によると昭和13(1938)年12月に西天中央通商店会が開設されました。昭和21(1946)年3月には西天銀座商店街が開設され、昭和23(1948)年4月に西天下茶屋商店街が開設されました。思い出に出てくる商店街は昭和10(1935)年前後に出来たということですので、汐路通二丁目にあった西天中央通商店会のことと思われます。 なお、『西成区史』p.298によると、西天下茶屋には幸運劇場をはじめ、全3館の映画館があったそうです。これらの映画館はいずれも戦時中に閉館しています。(2018.2.1 西成図書館),『西成区史』川端直正/編集 西成区市域編入四〇周年記念事業委員会 1968 書誌ID 0070080431|『新修大阪市史 第10巻』新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1996 書誌ID 0000588399 付録:歴史地図(11枚),2016年9月16日,CC BY-SA,西成区,昭和20年代まで(1926-1954), 国道26号線付近の機銃掃射,昭和16年生まれ,昭和20年頃, 大阪大空襲の事。米軍の艦載機が和歌山方面から国道26号線上を大阪市内の中心部に飛来して、住宅の屋根すれすれに飛行して機銃掃射を浴びせていきました。その時私は初めて見る飛行機というものがわからず、巨大な鳥が家の物干し台を壊しているように映りました。そして機銃のパリパリという乾いた音が未だに脳裏から離れません。, 国道26号線, 大阪は大戦中約50回の空襲をうけました。そのうち昭和20(1945)年の3月から8月の間にあった8回の大きな空襲を大阪大空襲と呼びます。 大阪大空襲で西成区に被害があったのは、昭和20(1945)年3月13日から14日の深夜に行われた第1次大阪大空襲と、同年6月15日朝に行われた第4次大阪大空襲です。 『新修大阪市史 第10巻』の付録の歴史地図 図8「太平洋戦争末期の大阪 -昭和20年-」で確認すると、第1次、第4次いずれも国道26号線付近は被害にあっています。 被害状況については、『大阪春秋 通巻第118号』付録:空襲罹災地域図や『大阪春秋 通巻第119号』付録:大阪空襲日別空襲被害地図焼失区域(期日別)などからも確認できます。 なお、作戦進路通過中の機銃掃射であれば、約50回の大阪の空襲とは別の日の可能性もあります。(2017.7.17 西成図書館),『大阪大空襲 :改訂 -大阪が壊滅した日-』小山仁示/著 東方出版 2018 書誌ID 0014461850 付録:大阪大空襲一覧(1枚)|『新修大阪市史 第10巻』新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1996 書誌ID 0000588399 付録:歴史地図(11枚)|『大阪春秋 通巻第118号 特集大阪物見遊山』新風書房 2005 書誌ID 0010963757 付録:空襲罹災地域図(1枚)|『大阪春秋 通巻第119号 特集終戦60年 戦中の大阪』新風書房 2005 書誌ID 0011020720 付録:大阪空襲日別空襲被害地図焼失区域(期日別)(1枚),2017年1月28日,CC BY-SA,西成区,昭和20年代まで(1926-1954),戦争 天下茶屋駅辺りの原っぱ,昭和16年生まれ,昭和20年頃, 今の天下茶屋駅辺りは広大な原っぱで、野球やトンボ採りをして遊んでいました。, 天下茶屋駅, 現在の天下茶屋駅付近は、南海電気鉄道と大阪市営地下鉄が連絡しており、ショッピングモールや商業施設、商店街があります。 『新修大阪市史 第10巻』の付録の歴史地図 図7「昭和初期の大阪-第2次市域拡張後-を見ると、周囲を市街区域に囲まれながらも、天下茶屋駅周辺は畑地・空き地になっています。 残念ながら昭和20年頃の土地利用の記録は見当たりません。 昭和20年当時、大阪は約50回の空襲をうけました。 『新修大阪市史 第10巻』の付録の歴史地図 図9「戦災復興期の大阪」に記載されている地図のうち「1.闇市の分布」に戦災消失区域が示されています。天下茶屋駅東側や西天下茶屋駅周辺が戦災消失区域となっています。同じく記載されている「建物用途別土地利用」(昭和25年)で戦後復興の状況が確認できます。それによると、この頃には天下茶屋駅周辺は商業施設や住宅、公共施設でびっしりと埋まっていることがわかります。(2017.7.15 西成図書館),『新修大阪市史 第10巻』新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1996 書誌ID 0000588399 付録:歴史地図(11枚),2017年1月28日,CC BY-SA,西成区,昭和20年代まで(1926-1954), 萩之茶屋,昭和35年生まれ,平成22年頃, 私が西成図書館に通い始めたのは、たしか5年前ぐらい。萩之茶屋のドヤに様々な事情により居をかまえるようになってからです。, 西成図書館 萩之茶屋," 西成図書館には以下のような、西成区萩之茶屋付近、「釜ヶ崎」や「あいりん」と呼ばれる地域のドヤ街を題材にした図書があります。 『釜ケ崎風土記』斉藤 俊輔/著 『カマ・ティダ:大阪西成』砂守 勝巳/文・写真 『釜ケ崎のススメ』原口 剛/編著 稲田 七海/編著 白波瀬 達也/編著 平川 隆啓/編著 西成区の郷土を知り、次世代に引き継いでいく貴重な資料です。 2017年に刊行された『大阪市統計書 第104回(平成28年版)』によると、西成区の人口110,925人です。転入7,336人、転出6,119人と新しく住人になった方と、区外に出られた方は合わせて13,455人です。1割以上の人が1年で入れ替わっています。(2017.7.15 西成図書館)",『釜ケ崎風土記 :改訂』斉藤俊輔/著 葉文館出版 1996 書誌ID 0050066489|『カマ・ティダ -大阪西成-』砂守勝巳/文・写真 アイピーシー 1989 書誌ID 0070001824|『釜ケ崎のススメ』原口剛/編著 稲田七海/編著 白波瀬達也/編著 平川隆啓/編著 洛北出版 2011 書誌ID 0012391770|『大阪市統計書 第104回(平成28年版)』大阪市都市計画局企画振興部統計調査担当/編集 大阪市 2017 書誌ID 0014304058,2017年6月30日,CC BY-SA,西成区,平成(1989-2019),図書館 ボーイスカウト大阪44団106団,1947年生まれ,昭和, 私が小学校6年生のとき、近所のボーイスカウト大阪44団に入団しました。小中高と活動し大学生の頃、退団しました。 その後、昭和40年頃に玉出の寿光寺を拠点としてボーイスカウト大阪106団が結成され、私は昭和57年頃まで指導にあたりました。 その後、仕事で小豆島に行ったので退団しましたが、2、3度天下茶屋付近で同窓会を行いました。 ボーイスカウト大阪44団の倉庫は松虫通の南側に現存しています。, 日本ボーイスカウト大阪 44団、106団、松虫通。, 長年ボーイスカウト活動をされていたとのこと。日本ボーイスカウト大阪44団、日本ボーイスカウト大阪106団とも、現在も活動が続けられているようです。 ボーイスカウト大阪は活動報告書等を編集して冊子にしておられるところも多く、情報もかなり豊富に残っております。なかでも『大阪ボーイスカウト運動史』は、節目の年ごとに刊行されており、現在平成27(2015)年2月刊行の第5巻まで刊行されています。 この『大阪ボーイスカウト運動史』はボーイスカウト大阪連盟が昭和24(1949)年8月25日に結成されてから、平成20(2008)年までの事柄を収録しています。 大阪府下全体に関わる事柄を記録していますので、団ごとの記録はありません。残念ながら44団、106団については加盟団名簿に記載があるのみで、活動の詳細等はわかりませんでした。 日本ボーイスカウト大阪44団の倉庫は、西成区の住宅地図で確認すると、岸里2丁目にあります。(2017.9.26 西成図書館),『大阪ボーイスカウト運動史』日本ボーイスカウト大阪連盟 1973 書誌ID 0080211220|『大阪ボーイスカウト運動史 2 昭和45年~54年』日本ボーイスカウト大阪連盟 1983 書誌ID 0080211221|『大阪ボーイスカウト運動史 3 昭和55年~平成元年』日本ボーイスカウト大阪連盟 1991 書誌ID 0000250239|『大阪ボーイスカウト運動史 4 平成2年度から平成10年度まで』日本ボーイスカウト大阪連盟 2000 書誌ID 0000829541,2017年9月12日,CC BY-SA,西成区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989), ボーイスカウトの交通整理,1947年生まれ,1960年代, 弘治小学校の前の交番に交通整理台があった。ボーイスカウトは警官の指導のもと、交差点に交通整理台をだして、交通整理を行った。, 弘治小学校、日本ボーイスカウト大阪," 『大阪ボーイスカウト運動史』p.286-287に、ボーイスカウトは社会奉仕の一環として交通安全運動奉仕を行っており、昭和37(1962)年4月2日に日本ボーイスカウト大阪のスカウト5,000人が交通事故をなくす運動奉仕に参加したことが記載されています。 なお、弘治小学校は平成27(2015)年3月に閉校しました。萩之茶屋小学校・今宮小学校の2校と共に移転統合され、新今宮小学校(いまみや小中一貫校)になりました。(2018.1.5 西成図書館)",『大阪ボーイスカウト運動史』日本ボーイスカウト大阪連盟 1973 書誌ID 0080211220,2017年10月26日,CC BY-SA,西成区,昭和30年-40年代(1955-1974), 『住吉名勝図会』『摂津名所図会』の天下茶屋,1947年生まれ,江戸時代, 天下茶屋公園付近は歴史の宝庫で、江戸時代の『住吉名勝図会』『摂津名所図会』に載っている。大阪市立図書館デジタルアーカイブや国立国会図書館デジタルコレクションにアクセスし、見れば良いと思います。, 天下茶屋, 大阪市立図書館では、大阪に関する資料のデジタル化を進めており、大阪市立図書館デジタルアーカイブでインターネット公開しています。 図書館に行かなくても、インターネット環境があれば、資料を確認できる便利さがあり、実際の資料を使用することによる劣化も抑えられ、保存にも役立ちます。 『住吉名勝図会』『摂津名所図会』は絵入りの名所・旧跡記です。風景や習俗を描いた絵が多く、当時の様子を知る手がかりになります。 天下茶屋は江戸時代当時、住吉郡でしたので、『住吉名勝図会』に描かれています。天下茶屋村や紹鴎之森(じょうおうのもり)付近が描かれています。 『摂津名所図会』では巻1、住吉郡に「天下茶屋邑(てんがちゃやむら)」として収録されています。天神祠(てんじんのやしろ)や紹鴎森(じょうおうのもり)、茶亭、聖天山(しょうてんやま)が描かれています。 『住吉名勝図会』『摂津名所図会』は、大阪市立図書館デジタルアーカイブでご覧いただけます。天下茶屋は『住吉名勝図会 巻之1』、『摂津名所図会 1』をご覧ください。大阪市立図書館デジタルアーカイブは、大阪市立図書館内の多機能OMLISからもご覧いただけます。 国立国会図書館デジタルコレクションでは、『住吉名勝図会』『摂津名所図会』は図書館送信参加館内公開となっており、大阪市立図書館内の多機能OMLISでご覧いただけます。 冊子の復刻本 『住吉名勝図会』『摂津名所図会 1』も当館で所蔵しています。(2018.1.5 西成図書館),大阪市立図書館デジタルアーカイブhttp://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/|『住吉名勝図会』国書刊行会 1987 書誌ID 0070121692 複製|『摂津名所図会 1(名所図会叢刊 3)』秋里籬島/著 新典社 1984 書誌ID 0090004723,2017年10月26日,CC BY-SA,西成区,大正・明治以前(1926まで), 新聞実業家ゆかりの地,1947年生まれ,昭和10年頃, 家族から『産経新聞』発祥の地(場所)が、西成区にあると聞きました。三和銀行のあった旧住吉街道にあったそうです。, 旧住吉街道, 産経新聞発祥の地については、西成区天下茶屋付近の住吉街道(=紀州街道)沿いにあった、「有川新聞舗 本店」を指していると思われます。当時の有川新聞舗の経営者であった前田久吉氏の伝記『前田久吉伝 -八十八年を顧みて-』に詳しく書かれています。 それによると、前田久吉氏は大正3(1914)年に有川新聞舗の経営を引き継ぎます。そして昭和8(1933)年6月20日に『日本工業新聞』(現『産経新聞』の前身)を創刊します。その後昭和17(1942)年10月31日に『日本工業新聞』は終刊し、翌日11月1日より『産業経済新聞』として新たに刊行されます。 産経新聞社のホームページの沿革を確認すると、「昭和8年6月『日本工業新聞』(現・「産經新聞」)を創刊」から記載されています。平成25(2013)年には創刊80周年の企画を行っていることからも、昭和8(1933)年の『日本工業新聞』の創刊を『産経新聞』の創刊と定義されているようです。 当館の所蔵する当時の地図としては、昭和11(1936)年の『最新の西成区 -都市計画路線入- 大大阪区勢地図』があり、「有川新聞舗 本店」の場所が載っています。住吉街道(=紀州街道)沿いにあり、少し南に三和銀行があります。この地図は『夕刊大阪新聞』の創刊15周年を記念した新聞付録です。『夕刊大阪新聞』を創刊したのも前田久吉氏です。前田久吉氏は毎日新聞社の取締役や参議院議員も務めていました。 なお、『前田久吉伝 -八十八年を顧みて-』によると、大正5(1916)年には支店が存在し、大正13(1924)年には西区土佐堀に本社を移転、その後、昭和2(1927)年には北区堂島に本社を移転しています。当時の社員数は200名を超えた大所帯だったそうです(2017.11.20 西成図書館),『前田久吉伝 -八十八年を顧みて-』前田久吉伝編纂委員会/編集 日本電波塔 1980 書誌ID 0000566033|『最新の西成区 -都市計画路線入- 大大阪区勢地図』[夕刊大阪新聞社] 1936 書誌ID 0080350043|産経新聞社ホームページ 沿革https://www.sankei.jp/company/history (2020年12月20日確認),2017年10月28日,CC BY-SA,西成区,昭和20年代まで(1926-1954), 関西線を走る汽車,1952年生まれ,昭和30年頃, 祖父が自転車の荷台にリンゴの木箱をくくり付け、座布団を敷きつめて、その中に私を入れて、関西線を走る汽車を見に連れて行ってくれました。幼心に覚えており、何度も見に連れて行ってくれとせがんだものです。リンゴの木箱は花園公設市場や商店街のくだもの屋でもらってきたものです。, JR関西線 花園公設市場, 『私たちのまちにしなり -西成歴史・地図帳- 2015年度版』p.21にSL(蒸気機関車)が走る写真が掲載されています。昭和34(1959)年ごろとなっています。同ページには昭和30年(1955年)の関西線のガード下の様子を写した写真もあり、当時の様子がしのばれます。 なお、昔の市場で使われていた木箱については『大阪市の昭和 -写真アルバム-』p.79に賑町公設市場の写真があり、リンゴの木箱ではありませんが、いくつもの木箱が写っています。p.241には東住吉の大阪市中央卸売市場東部市場の写真もあり、ここでも木箱が使われています。 『写真で見る大阪市100年』p.166には活気溢れる中央卸売市場本場の写真があり、車(おそらくオート三輪)に木箱を積んで運んでいます。(2019.1.13 西成図書館),『私たちのまちにしなり -西成歴史・地図帳- 2015年度版』大阪市立大学地域連携センター 2015 書誌ID 0013552327|『大阪市の昭和 -写真アルバム-』樹林舎 2018 書誌ID 0014592298|『写真で見る大阪市100年』大阪都市協会 1989 書誌ID 0000191451,2018年12月13日,CC BY-SA,西成区,昭和30年-40年代(1955-1974),鉄道|道路 白鷺,昭和20(1945)年生まれ,60年以上前、小学生の頃(図書館注 : 昭和30(1955)年前後となります), 初夏の朝、何十羽いや何百羽という白い鳥が西の空から東へ飛んでいきます。そう、白鷺です。田んぼで、朝のごちそう(ドジョウ、カエル)をいただきに。そして、しっかり戯れた後、夕方には東の空から西へと帰ってゆきます。中百舌鳥・仁徳陵でしょうか?そう、白鷺公園がありますね。堺市にも、平野区にも、そして姫路にも(姫路城またの名を白鷺城)。その昔から白鷺は全国にすんでいたのでしょう。今、このような情景を見ることは出来ません。大和川べりで運がよければ一羽か、二羽見かけますが、淋しくなりましたね。, 近鉄南大阪線の東に畑があって、その東には田んぼがあり、そこでも更に湯里橋の下を流れる川があり、小高い堤を超えた東側は、一面の田んぼです。そこへ白鷺たちが飛んできて、昼間を過ごすのです。, シラサギは鳥綱コウノトリ目サギ科に属する鳥のうち全身白色のものの総称で、シラサギとよばれるのは普通ダイサギ、チュウサギ、コサギの3種です。シラサギ類は、多数の鳥が群れ集まって一大混合集団となり、営巣します。こうしたサギ類の集団営巣地はサギ山とよばれます。 大阪市立自然史博物館ホームページ「和田の鳥小屋」によると、チュウサギは1960年代までは仁徳陵のサギ類のコロニーで繁殖していましたが、そこがなくなった後、大阪府下で長い間繁殖例はありませんでした。1999年に岸和田市で素財を運んでいるのが観察されていますが、その後の繁殖情報は確認されていません。また、同氏は、大和川河口(大和川大橋-阪神高速湾岸線)でのサギ類の個体数の季節変化を、1994年5月から1997年9月まで、グラフに記録しています。 近鉄南大阪線の東側には、今川や鳴戸川が流れています。東住吉図書館で所蔵している住宅地図で一番古いものは1960年のものですが、それを確認すると、当時は今川の東側や、現在の白鷺中学校の辺りには、田んぼがひろがっていました。 『大阪市今昔写真集 東南部版』のp.53に、1960年の平野白鷺公園の写真があり、水辺の様子が映っています。一説によると公園造成の際、一面が田畑で白鷺が多く生息していたことから公園名が付けられたそうです。(2017.7.14 東住吉図書館),商用データベース「JapanKnowledge(ジャパンナレッジ)(事典・辞書等)」収録『日本大百科全書』「シラサギ」の項(2017年7月14日確認)|大阪市立自然史博物館ホームページ「和田の鳥小屋」http://www.mus-nh.city.osaka.jp/wada/wada-index.html (2017年7月14日確認)|『大阪市全商工住宅案内図帳 東住吉区 -西部- [昭和35年]』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167526|『大阪市今昔写真集 東南部版』石浜紅子/監修 樹林舎 2009 書誌ID 0011988679 p.53,2017年2月28日,CC BY-SA,東住吉区,昭和30年-40年代(1955-1974), 映画館,昭和9(1934)年生まれ, 昭和25・26年(図書館注 : 1950・1951年)ごろ、高校生の頃, 区内の映画館で「風と共に去りぬ」などの映画を見た。, 山坂神社の北側、南田辺商店街の中。元公設市場のあった場所(現在はマンション)の向かいに映画館があったが、いつのまにかなくなっていた。現在は信用金庫がある。, 思い出のあった場所は現在の「田辺3丁目25-20(当時は田辺本町5丁目70)」の辺りと思われます。現在は「大阪市信用金庫南田辺支店」が存在します。昭和37(1962)年に「住居に関する法律」が制定され、それまでの町名地番が機械的・合理的なものに整理されました。 当館で所蔵している最古の住宅地図『大阪市全商工住宅案内図帳 東住吉区 -西部- [昭和35年]』のp.17には、上記の住所に「バンビー劇場」と表記されています。 また、昭和36(1961)年に刊行の『東住吉区史』には娯楽施設として、区内映画館の一覧が記載されており、p.446に「もとバンビー劇場」として、「東劇」という映画館が記載されています。「東劇」の開設年月日は「S27.12.23」と記載されています。 映画「風と共に去りぬ」が日本で初めて公開されたのは昭和27(1952)年9月ですので、投稿者がご覧になられたのも、昭和27年以降と思われます。(2017.7.14 東住吉図書館),商用データベース「JapanKnowledge(ジャパンナレッジ)(事典・辞書等)」収録『日本大百科全書』「風と共に去りぬ」の項(2017年7月14日確認)|『大阪市全商工住宅案内図帳 東住吉区 -西部- [昭和35年]』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167526 p.17|『東住吉区史』川端直正/編 東住吉区創設一五周年四カ村編入三周年記念事業委員会実行委員会 1961 書誌ID 0000301758 p.446,2017年3月26日,CC BY-SA,東住吉区,昭和20年代まで(1926-1954), 法楽寺,昭和9(1934)年生まれ,昭和27・28年(図書館注 : 1952・1953年)ごろの夏、大学生の頃, 法楽寺の盆踊りは、道路の上でした。, 法楽寺の西側が道路になっていて、道の上が盆踊り会場になっていた。, たなべ不動尊として名高い法楽寺は山坂1丁目18(当時は山坂町1丁目80)に位置します。昭和37(1962)年に「住居に関する法律」が制定され、それまでの町名地番が機械的・合理的なものに整理されました。 法楽寺は治承2(1178)年に平清盛の長男、平重盛によって創建されました。本尊は観音菩薩ですが、鎌倉初期に不動信仰が盛んになると、いつのまにか不動尊が有名になり、田辺のお不動さんの名で親しまれるようになりました。 『田辺町誌』には、刊行時の法楽寺の写真が1点、収録されています。(2017.4.26 東住吉図書館),『大阪市全商工住宅案内図帳 東住吉区 -西部- [昭和35年]』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167526|『大阪史蹟辞典』三善貞司/編 清文堂 1986 書誌ID 0000214926|『田辺町誌』大阪府東成郡田辺町/編纂 大阪府東成郡田辺町役場 1925 書誌ID 0070109957|法楽寺ホームページhttp://www.horakuji.com/ (2020年11月21日確認),2017年3月26日,CC BY-SA,東住吉区,昭和20年代まで(1926-1954), 夜店,昭和43(1968)年生まれ,昭和50年(図書館注 : 1975年)頃, 夏になると、8・18・28等、8のつく日に夜店が出て賑わっていました。, 公園南矢田1丁目。昔は近くに市場があり買い物客も多かった。針中野駅の近く(鷹合)でもあった。, 『東住吉区史』には、刊行時の区内の夜店の一覧(市日、夜店の場所、交通機関(最寄り駅や最寄りのバス停)、開始時刻)が収録されています。 それによると、「一の日」からはじまり「一〇の日」まで、区内各所で夜店が開催されていたことがわかります。「公園南矢田」での開催は確認できませんでしたが、「鷹合町1丁目(近鉄針中野駅下車)」では二の日に、「鷹合2丁目(近鉄針中野駅下車)」では八の日に開催されていました。 ほかにも、夏祭縁日の日程や、神社の境内にて「昼市」も月に一度、開催されていたことがわかります。 なお、公園南矢田1丁目には当時「ショッピングプラザ長居」という商業施設があったことが、当時の住宅地図からわかります。当館所蔵の郷土資料『矢田イラストマップ -見よう、歩こう、発見しよう!!-』は1991刊ですが、こちらには「長居ショッピングセンター」という名称で掲載されています。(2019.2.19 東住吉図書館),『東住吉区史』川端直正/編 東住吉区創設一五周年四カ村編入三周年記念事業委員会 1961 書誌ID 0000301758 p.258-259|『大阪市精密住宅地図 東住吉区 [1984]』吉田地図 1984 書誌ID 0000657534|『ゼンリン住宅地図大阪市東住吉区 '94』ゼンリン 1994 書誌ID 0000491766|『矢田イラストマップ -見よう、歩こう、発見しよう!!-』矢田同和教育推進協議会歴史伝承部会編 矢田同和教育推進協議会 1991 書誌ID 0000256558,2019年2月1日,CC BY-SA,東住吉区,昭和50年-60年代(1975-1989), 鷹合神社,昭和23(1948)年生まれ,昭和33(1958)年頃, 鷹合神社には「だいがく」(台額)がありました。昭和3年に初代、昭和33年に二代目がつくられました。折口信夫の「だいがくの研究」にも、記述されています。, 鷹合神社, 鷹合(たかあい)神社は東住吉区鷹合4丁目にあり、『大阪史蹟辞典』「鷹合神社」の項目には「祭神素盞鳴命、牛頭天王。古くは鷹飼堂、素盞鳴神社などと呼ばれ、明治5(1872)年鷹合神社と改め村社となっている」と記載されています。 そして「だいがく」といえば、西成区玉出、生根神社のだいがく祭りが有名ですが、『日本国語大辞典』「だいがく(台額)」の項目には「祭礼の練物である山車(だし)山鉾の一種。また特に、大阪で、夏祭などに数十人でかつぎ練り歩く提灯の立て物。長さ一五~一六間の棒に九本の横棒を渡し、横棒と横棒との間に各々数個の提灯をつけ、縦棒の基部にかつぎ棒を組んだものだが、日露戦争の頃廃絶」と記載されています。『玉出のだいがく』p.79には「だいがくの分布」として「大阪府の南部地域、現在の浪速区・西成区から住吉区・東住吉区・平野区等にあり、(中略)東住吉区の鷹合神社には、かつて用いられた「だいがく」の心棒・台・髯籠・提燈等が保存されている」との記載があります。また、同書p.136-137には「鷹合のだいがく」の項目があり、「だいがく」の様子を描いたイラストや、昭和3(1928)年と昭和33(1958)年頃の祭りの写真、神具庫にある「だいがくの道具」の写真が収録されています。 なお、投稿者ご記入の折口信夫の『だいがくの研究』はその学の礎とされており、主に木津のだいがくについて書かれていますが、中央公論社の『折口信夫全集 2』に収録されているほか、国立国会図書館デジタルコレクションや青空文庫でもご覧いただけます。(2020.3.22 東住吉図書館),『大阪史蹟辞典』三善貞司/編 清文堂 1986 書誌ID 0000214926|商用データベース「JapanKnowledge(ジャパンナレッジ)(事典・辞書等)」収録『日本国語大辞典』「だいがく(台額)」の項(2020年3月22日確認)|『玉出のだいがく -大阪府指定有形民俗文化財第一号- 生根神社「だいがく祭り」調査報告書』生根神社 2003 書誌ID 0010745522 p.79|『折口信夫全集 2 古代研究 民俗学篇1』折口信夫/[著] 折口博士記念会編纂 中央公論社 1995 書誌ID 0000337231|国立国会図書館デジタルコレクション『古代研究. 第1部 第1 民俗學篇』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1449488 (2020年3月22日確認)|青空文庫『だいがくの研究』https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18401_26706.html (2020年3月22日確認),2020年1月13日,CC BY-SA,東住吉区,昭和30年-40年代(1955-1974), 針中野,昭和40(1965)年生まれ,こどものころ, 小児はりの中野さん(近鉄線「針中野」駅の由来ともなった所、あそこはもともと中野さんの土地だったとか?)が子どもを連れた人でいっぱいだった光景を覚えている。昔は“かんのむし”をはりで治したそうで…, 針中野3-2-17あたり, 『大阪史蹟辞典』の「中野鍼療院」の項目では、「中野鍼療院は弘法大師の伝授した鍼の秘術を今も伝えるといわれ、正門の両側に大きな蔵を持つ風格のある大きな建物で、正門の屋根の下の懸魚に「鍼」と彫られているのが印象である。現在四十三代目という中野一氏が経営しておられ、全国でも大阪にしかない小児鍼の名手で…(後略)」と解説されています。また、『東住吉区史』p.518「中野のはり」の項目では「中野の鍼灸は古来近隣に聞え、宝暦13(1763)年発行の摂州平野大絵図にも中野村小児鍼師としてしるされている。大鉄(大阪鉄道株式会社 : 通称大鉄、今の近畿日本鉄道南大阪線(図書館注))針中野の駅名もこれに因している」と記され、由緒があり、名高い鍼灸院であることが伺えます。 『東住吉区まちの名所・名物ノート』にも、p.20に「中野降天鍼療院」が紹介されています。(2020.2.23 東住吉図書館),『大阪史蹟辞典』三善貞司/編 清文堂 1986 書誌ID 0000214926|『東住吉区史』川端直正/[編] 市民日報社 1987 書誌ID 0000253226 p.518|『摂州平野大絵図』日野文林堂長久/著 置田柳池堂勝栄/写 書誌ID 0010196836 宝暦13(1763)年刊の複製|『東住吉区まちの名所・名物ノート -身近なまち 連合町会でのまちづくり-』大阪市東住吉区役所 2001 書誌ID 0010042511 p.20,2020年1月31日,CC BY-SA,東住吉区,昭和50年-60年代(1975-1989), 南海平野線,昭和40(1965)年生まれ,小学生のころ, 地下鉄谷町線ができる前は、あの上(地上)をちんちん電車が走っていた。中野駅は今の駐輪場(平野寄りの方)あたり。それに乗り、アベノ斎場前駅で乗りかえると、今もある天王寺から出ている線で、浜寺公園や住吉大社へ行けた。, 地下鉄谷町線の地上、阪神高速の下, 『大阪春秋 通巻144号 特集阪堺電車~阪堺線開通100年~』に「南海平野線の歴史と廃線跡めぐり」(p.46-51)という記事があります。大正3(1914)年4月、阪堺電気軌道の路線として開業(今池-平野)した平野線は、大正4(1915)年6月、南海鉄道との合併により南海鉄道の路線になりますが、市営地下鉄2号線(谷町線)の延長により、昭和55(1980)年11月27日を以て廃止されました。廃止前の停留所は、今池-飛田-阿倍野-苗代田-文ノ里-股ヶ池-田辺-駒川町-中野-西平野-平野でした。 『阪堺電軌・和歌山軌道線』p.6に路線図があり、「阿倍野」で乗り換えて「住吉公園」までいく路線、同じく「阿倍野」で乗り換え「我孫子道」経由で「浜寺駅前」までの路線が確認できます。 『大阪市の昭和 -写真アルバム-』巻頭カラー写真の部のp.10に、平野線の駒川町停留所付近を走る電車(昭和55年撮影)の写真、p.11には平野線の飛田停留所(昭和55年)、田辺停留所(昭和50年)、平野駅構内(昭和55年)の写真が収録されています。 昭和43(1968)年の住宅地図と現在の住宅地図を見比べると、今はなき平野線の「中野駅」は、谷町線「駒川中野」駅の東、阪神高速道路14号松原線の高架下にある駒川中野駅自転車駐車場の東側に位置することが確認できます。(2020.3.7 東住吉図書館),『大阪春秋 通巻144号 特集阪堺電車~阪堺線開通100年~』新風書房 2011 書誌ID 0012384513|『阪堺電軌・和歌山軌道線』小林庄三/著 トンボ出版 1996 書誌ID 0000564182 p.6|『大阪市の昭和 -写真アルバム-』樹林舎 2018 書誌ID 0014592298|『大阪市全商工住宅案内図帳 東住吉区 -西部- [昭和43年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422734|『ゼンリン住宅地図大阪市東住吉区 [2019]』ゼンリン 2019 書誌ID 0014726710,2020年1月31日,CC BY-SA,東住吉区,昭和50年-60年代(1975-1989),鉄道 南百済小学校,昭和40(1965)年生まれ,小学6年生, 南百済小学校は私が6年生のとき、次の学年から湯里小学校と別れた。当時9組まであった。, 南百済小学校、湯里小学校, 『南百済 -創立110周年・屋内体育館等竣工記念誌-』にある年表では、昭和51(1976)年に「大阪市立湯里小学校が新設され、湯里3・4丁目の児童を送り、通学区域を変更する」と書かれています。またp.8-11には、「校舎のうつりかわり」として、各時代の校舎の配置が記載され、校舎が増設されていく様子がわかりますが、投稿者が小学生の頃では、昭和47(1972)年の校舎配置図があります。(2020.3.7 東住吉図書館),『南百済 -創立110周年・屋内体育館等竣工記念誌-』大阪市立南百済小学校 1984 書誌ID 0011436258,2020年1月31日,CC BY-SA,東住吉区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989), トモノス,昭和40(1965)年生まれ,1985年ごろ, 20代のころ、図書館の裏にあるセンターで、(水)料理、(木)華道を習っていた。代金は安く、たしか、在住、在勤なら、社会人・学生・一般人とも通えたはず。, 東住吉図書館の裏, 東住吉図書館のほか、東住吉会館、老人福祉センター、勤労青少年ホームからなる東住吉総合センターは、昭和53(1978)年12月に開館しました。投稿者の思い出は、東住吉区勤労青少年ホームのことと思われます。『東住吉総合センター10年のあゆみ』には、開館から10年経過した昭和63(1988)年当時の各施設の事業報告が記載されていますが、勤労青少年ホームのページでは、書道、着付け、ジャズダンス、茶道、料理の講座が、各講師により紹介されています。 『大阪市社会福祉協議会設立60周年記念誌』p.32およびp.52に「勤労青少年ホーム(トモノス)」の記述があり、昭和45(1970)年に制定された「勤労青少年福祉法」に基づき、各区に勤労青少年ホームが順次設置され、平成11(1999)年7月には公募により「トモノス」と愛称も決まりますが、高度経済成長等により福利厚生施設や余暇施設が充実するなど勤労青少年の生活環境の変化に伴い、市政改革の一環として施設の活用見直しがはかられ、平成18(2006)年5月に廃止決定、子育て支援のニーズが高まる中、廃止後の施設の活用として、平成18(2006)年7月からは「子ども・子育てプラザ」による子育て支援事業が実施されていることがわかります。(2020.3.7 東住吉図書館),『東住吉総合センター10年のあゆみ』東住吉区コミュニティ協会[ほか]/編 東住吉区コミュニティ協会 1988 書誌ID 0080231745|『大阪市社会福祉協議会設立60周年記念誌』大阪市社会福祉協議会 2012 書誌ID 0012555705 p.32 p.52,2020年1月31日,CC BY-SA,東住吉区,昭和50年-60年代(1975-1989), ラサスケートリンク,昭和24(1949)年生,昭和39(1964)年、野田中学校3年生15才頃, 上手に滑るより友達とのおしゃべりが楽しかった。, 大開3丁目。現在のパシオスポーツあたり。, 正式名称は「ラサ国際スケートリンク」。ラサ工業大阪工場の跡地に作られたレジャー施設「ラサ・スポーツセンター」の1施設として、昭和38(1963)年11月23日に開場しました。一周250メートルのスピードリンクと国際規格のホッケー・フィギュアリンクを備え、当時、世界最大の屋内アイススケート場でした。 3万坪の敷地があったラサ・スポーツセンターには、他に、関西初のウォータースライダーを備えたプール、合計100レーンのボウリング場、100打席を超えるゴルフ練習場などがありましたが、一番人気は、スケートリンクでした。多いときで、年間で100万人もの人が訪れましたが、昭和59(1984)年3月31日に閉鎖、その後、高見フローラルタウンとなりました。 場所は、此花区高見1丁目で海老江下水処理場の西側辺りです。福島区大開は隣接しています。(2017.11.1 此花図書館),"『ラサ工業80年史』ラサ工業株式会社社史編纂室/編集 ラサ工業株式会社 1993 書誌ID 0000518592 p.207-210, 251|『このはなお宝いっぱい!プレミアム ‐まちを知って自慢しよう!‐』大阪市此花区役所 2013 書誌ID 0012734280 p.16|『たかみ ‐わたしたちのまち‐』大阪市立高見小学校 1978 書誌ID 0080257624 p.14|『目で見る此花の“昨日今日明日”』大阪市此花区役所 2008 書誌ID 0011718154 p.260|『大阪人 2012年5月号 / 66巻4号』大阪市都市工学情報センター 2012 書誌ID 5112474979 p.73",2016年3月1日,CC BY-SA,此花区,昭和30年-40年代(1955-1974), 安治川トンネル,平成12(2000)年生,, 初めて渡った時のウキウキ感が忘れられません。略して「安治トン」と呼んでいます。,, 安治川トンネルは、安治川隧道(ずいどう)とも呼ばれ、此花区西九条から西区九条方面へ抜けることができます。 安治川は、江戸時代に河村瑞賢によって開削されました。大阪港の繁栄とともに、多くの船が行き来したので、その航行を妨げないように、橋を架けることはせず、大正から昭和初期までに、渡し船が10箇所できました。 しかし、交通量の増加に伴い、不便を解消するため、源兵衛渡しの所に、河底トンネルを掘ることが計画されました。昭和7(1932)年、関一市長の時代です。昭和10(1935)年12月に着工、戦争の時代の困難を経て、昭和19(1944)年9月に完成しました。総工費約260万円でした。 まず、鉄筋コンクリートの箱を両岸に埋め、その後、河底部を横断する鉄骨鉄筋コンクリートの沈埋管を据え付けました。これらは、当時諸外国でも例が少ない、画期的な工法で造られました。 川岸のエレベーターで河底に降り、河底を通過して、対岸のエレベーターでまた地上に出ます。当初は、歩行者・自転車だけでなく、自動車も通行していました。その後、交通量がいよいよ増加すると、上流・下流で道路網が整備されたため、昭和52(1977)年、車両用のエレベーター・通路は使われなくなり、現在のような、歩行者と自転車のみの利用となりました。 『このはなお宝いっぱい!プレミアム』では、「川下17mの地底旅行」「トンネルの中は、夏は涼しく冬は暖かい。体験したいポイントだ。」と紹介しています。(2018.2.7 此花図書館),『土木建築工事画報 1936年8月 12巻8号 』工事画報社 1936 書誌ID 0000475280 (アテネ書房 1995 復刻) p.86-89「安治川河底隧道工事」|『安治川河底隧道概要』[1953] 書誌ID 0080248194|『日本土木史 大正元年~昭和15年』土木学会 1973 復刻 書誌ID 0000389921 p.1038「安治川河底トンネル」|『西区の史跡』西区役所 1995 書誌ID 0050065040 p.25-26 「安治川トンネル」|『建築雑誌 1991年4月 106巻1312号』日本建築学会 1991 書誌ID 520000046 1巻頭 亀井正博「安治川隧道の歴史」|『大阪府の近代化遺産 -大阪府近代化遺産(建造物等)総合調査報告書-』大阪府近代化遺産(建造物等)総合調査委員会[ほか]/調査・編集 大阪府教育委員会2007 書誌ID 0011438083 p.132 和田康由「安治川隧道エレベーター・安治川河底隧道」|『このはなお宝いっぱい!プレミアム -まちを知って自慢しよう!-』大阪市此花区役所 2013 書誌ID 0012734280 p.7|此花区役所ホームページ 区内の史跡案内 安治川隧道 (2020年9月9日確認)|大阪市ホームページ 橋のダウンロード・コーナー(パンフレットなど) 安治川河底とんねる (2020年9月9日確認),2017年10月12日,CC BY-SA,此花区,平成(1989-2019),道路|川 むさしや,昭和22(1947)年生 ,昭和28年から40年頃, 今の此花区役所が大きな公園だった頃、その前の通りに「むさし堂」という和菓子屋がありました。戦禍のため、その後は四貫島商店街に移り、化粧品と小間物を扱う「むさしや」になりました。買い物といえば小売店という時代、賑わう四貫島商店街では、毎月5と10のつく日は、必ず夜店が出て、それは楽しみなことでした。カーバイドを燃やして、ござの上で渋い声で雑誌を売るおじさん。裸の上半身に汗を光らせ、しかめっ面で、鉄板を一枚一枚ひっくり返していたイカ焼きのおじさん。私は20円握りしめ、輪投げへと走るのです。後方に並ぶこけしはなかなか難しく、いつも小さな猫や犬の置物でも満足して帰るのですが、それらも土で出来た趣のあるものでした。今でもカーバイドのにおいと共に、鮮やかに私の心の中に佇んでいる風景なのです。, 四貫島商店街。四貫島元宮町という住所表示でした。現在の四貫島本通り商店街です。, 昭和10-18年頃の此花公園(現区役所)附近を描いた地図によると、「むさし堂」は公園の南側、「安田メリヤス」と「日野溶接」に挟まれ、裏手には「内藤医院」がありました。四貫島商店街に移った後の、昭和23年当時の「むさし屋」や、四貫島元宮商店街の様子は、『目で見る此花の“昨日今日明日”』p.148の写真で確認できます。 昭和42年の商工住宅地図を見ると、今の四貫島本通り商店街と中央通り商店街とが交差するあたりに、「化粧品ムサシヤ」があります。 商店街の基礎となる、四貫島商店会は、昭和23年11月に結成され、西大阪で初めて鈴蘭燈・アーチ夜間照明装飾を行いました。夜店は、西九条や四貫島梅香町でも出ていましたが、それぞれ4の日、9の日のみで、四貫島元宮町の賑わいぶりがわかります。(2018.5.1 此花図書館),『目で見る此花の“昨日今日明日”』大阪市此花区役所 2008 書誌ID 0011718154|『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 [昭和42年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422830|『此花区史』大阪市此花区役所/編集 大阪市此花区三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000228462,2018年1月17日,CC BY-SA,此花区,昭和20年代まで(1926-1954)|昭和30年-40年代(1955-1974), ひょうたん公園,1966年生,, 家の近くに「ひょうたん公園」と呼ばれる公園があった。, 梅香1丁目だと思う。," ひょうたん公園として親しまれているのは、梅香東公園です。 『梅香 -創立50周年記念誌-』の「校下の歴史」によれば、梅香東公園(ひょうたん公園)が、昭和37(1962)年10月に開園したとあります。「今の校下のようす」には、梅香東公園(ひょうたん公園)として写真も載っています。 『甦えるわが街』によると、戦災後の土地区画整理事業の中で、公園の全くなかった四貫島工区に、3つの公園の新設が計画されました。梅香東公園は、3,887平方メートル。当初は、円形の藤棚に向かい合う形で、砂場、ジャングルジム、トンネルを円形にまとめてありました。その形状から「ひょうたん公園」と呼ばれるようになったと思われます。その周辺には、鉄棒、カラー丸太、すべり台、ブランコなどの遊具が配置され、ヒラドツツジ、ハマヒサカキ、キョウチクトウ等、1,090本が植樹されていました。(2018.8.8 此花図書館)",『梅香 -創立50周年記念誌-』大阪市立梅香小学校創立50周年記念事業実行委員会 1975 書誌ID 0080217818|『甦えるわが街 -戦災復興土地区画整理事業- 此花地区』大阪市土地区画整理協会 1978 書誌ID 0000324505|『此花区の地域活動の概要 平成2年度』大阪市此花区役所総務課/編 大阪市此花区役所 1990 書誌ID 0090011056,2018年1月31日,CC BY-SA,此花区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989),公園 高架下の公園,1966年生,1970年代後半から1980年頃, 雨が降ると高架下の公園へ避難して遊んだ。今、Googleストリートビューで見ると、ブランコがわずかに残っているが、昔はもっと遊具があった。, 昇陽高等学校の横の川と高架の道路が交差するところ, その公園は、嬉ヶ崎(きがさき)公園と思われます。六軒家川にかかる嬉ヶ崎橋の西の高架下にあります。『此花区の地域活動の概要』によれば、嬉ヶ崎公園は、朝日2丁目にあり、面積は477平方メートル、昭和47(1972)年4月1日に開園しました。 『大阪府都市公園一覧表』によると、市有ではなく府有地となっています。 此花区等の公園を管轄する扇町公園事務所に問合せたところ、現在のようにブランコだけになったのは、平成12(2000)年11月だそうですが、それ以前にもっと遊具があった時代の記録は残っていないとのことです。(2018.8.8 此花図書館),『此花区の地域活動の概要 平成2年度』大阪市此花区役所総務課/編 大阪市此花区役所 1990 書誌ID 0090011056|『大阪府都市公園一覧表 平成29年3月31日現在』[大阪府]都市整備部都市計画室公園課 2018 書誌ID 0014511171,2018年1月31日,CC BY-SA,此花区,昭和50年-60年代(1975-1989),公園 卓球場,1966年生,1980年代前半, 中学校で卓球部だったので、西九条駅下の卓球場へ通い、よく練習に使った。, JR西九条駅高架下, 昭和46(1971)年の住宅地図を見ると、西九条駅の「ガード下」について別表による補足があり、他の店舗名に並んで、2階部分に「卓球場(浜谷)」と記載があります。卓球場は、1970年代初めには、既に西九条駅の下にあったようです。 昭和50(1975)年以降の地図では、当時の朝日橋通ニ丁目にある、OK19番街のガード下2階部分に「卓球場」と書き込まれています。町名が西九条四丁目に変わった後も、卓球場は存続し、昭和59(1984)年の地図まで、その存在を確認することができます。(2018.12.9 此花図書館),『大阪市精密住宅地図 此花区 [昭和42年]』吉田地図 1967-1984 書誌ID 0080242222 合綴5冊|『大阪市精密住宅地図 此花区:再版 昭和53年11月』吉田地図 1978 書誌ID 0000435520,2018年1月31日,CC BY-SA,此花区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989), 西九条の映画館,1966年生,1970年代, 西九条駅近くに映画館があった。上映は成人向けばかりだったが…, JR西九条駅のすぐ近く, 西九条駅近くの映画館は「明治座」といいました。 『全国映画館録 昭和5年4月現在』によれば、館名=明治座、所在地=此花区朝日橋通、興行主=寺田キネマ、映画系統=各社、とあり、遅くとも昭和5(1930)年には、営業を始めていたことがわかります。現在の此花区域で営業していた映画館は、当時、他に2館ありました。 時代が下って、『映画便覧1968』にも、此花区に所在する4映画館の1つとして、「西九条明治座」の記載があり、構造は鉄骨3階建、冷暖房完備、定員352名、系統は大映・東映・日活・東宝とあり、当時は幅広く上映していたことがうかがわれます。 『目で見る此花の“昨日今日明日”』には、昭和31(1956)年正月に撮影された、西九条駅前映画館(明治座)という写真が載っており、当時の建物の様子や、洋画も扱っていたことなどがわかります。 住宅地図によれば、「明治座」は朝日橋通2丁目、阪神西九条駅が出来た後は、西九条上通2丁目、現在の町名表示では、西九条3丁目にありました。昭和59(1984)年の地図には、まだ映画館明治座として載っていますが、昭和61(1986)年の地図では無くなり、パチンコ屋に変わりました。(2019.6.26 此花図書館),『大阪「映画」事始め』武部好伸/著 彩流社 2016 書誌ID 0014184060|国立国会図書館デジタルコレクション『全国映画館録 昭和5年4月現在』キネマ旬報社 1930http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1218259 (2020年11月23日確認)|国立国会図書館デジタルコレクション『映画便覧1968』時事通信社 1968 国立国会図書館内公開http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2472573 (2020年11月23日確認)|『目で見る此花の“昨日今日明日”』大阪市此花区役所 2008 書誌ID 0011718154|『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 昭和36年版』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167518|『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 昭和38年版』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167517|『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 [昭和42年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422830|『大阪市精密住宅地図 此花区 昭和42年』住宅協会出版部 1967-1984 書誌ID 0080242222 合綴5冊|『大阪市精密住宅地図 此花区:再版 昭和53年11月』吉田地図 1978 書誌ID 0000435520|『大阪市精密住宅地図 此花区 [昭和61年]』吉田地図 1986 書誌ID 0000500969,2018年1月31日,CC BY-SA,此花区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989), くじら屋,1966年生,1970年代, 四貫島商店街の一角にくじら肉専門店があった。, 四貫島商店街, 地図を見ると、昭和38(1963)年版に、当時の四貫島元宮町に「くじら屋」が見つかります。その後の町名変更で、そこは四貫島1丁目5となりますが、昭和50年代まで「くじら屋」は健在でした。 ところが、昭和59(1984)年版の地図では、かしわの店と併設になり、昭和64(1989)年1月の地図では、ついに「くじら屋」の文字が消え、かしわの店だけになりました。 捕鯨業は1960年代が最盛期で、その後減っていきますが、1970年代までは、学校給食でもよくくじら肉は食べられていました。しかし、昭和57(1982)年に国際捕鯨委員会が商業捕鯨の一時停止を決定し、日本でも昭和61(1986)年の漁期(1987年3月頃まで)をもって南極海での捕鯨は中止となり、以来、漁獲量は激減しました。(2018.8.13 此花図書館) 令和元(2019)年7月1日、領海および排他的経済水域に限定して商業捕鯨は再開されました。(2019.7.3 此花図書館追記),『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 昭和38年版』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167517|『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 [昭和42年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422830|『大阪市精密住宅地図 此花区 昭和42年』住宅協会出版部 1967-1984 書誌ID 0080242222 合綴5冊|『大阪市精密住宅地図 此花区:再版 昭和53年11月』吉田地図 1978 書誌ID 0000435520|『大阪市精密住宅地図 此花区 [昭和61年]』吉田地図 1986 書誌ID 0000500969|『大阪市精密住宅地図 此花区 [昭和62年再版]』吉田地図 1987 書誌ID 0000501295|『大阪市精密住宅地図 此花区 [1989年]』吉田地図 1989 書誌ID 0000500970|『鯨を捕る』市原基/写真・文 偕成社 2006 書誌ID 0011240481|『日本の長期統計系列 第7章 農林水産業 7-49 捕鯨業』総務省統計局 2012年最終更新http://www.stat.go.jp/data/chouki/07.html (2018年8月13日確認)|水産庁 報道発表資料「商業捕鯨の再開について」令和元年年7月1日http://www.jfa.maff.go.jp/j/press/kokusai/190701.html (2020年11月23日確認),2018年1月31日,CC BY-SA,此花区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989), メンコ遊び,1966年生,1970年代後半, 小学校ではやっていた遊びで、びん牛乳の紙のフタをメンコのようにして遊んだ。フタは「ポン」と呼ばれていて、たくさん持っているのがステータスだった。, 梅香小学校, 『大阪市の学校給食』によると、大阪市が全市でパン・ミルク・おかずのそろった「完全給食」を実施したのは昭和25(1950)年9月のことです。ミルクは、初め学校で調乳されていましたが、昭和44(1969)年12月以降は業者による委託乳となりました。昭和45年度に、飲用量が180ccから200ccに増やされました。学校単位で整備すべき消耗品の1つとして、「牛乳栓ぬき」が挙げられていることから、びんに入れた牛乳が供されていることがうかがえます。 『<めんこ>の文化史』に、子どもたちが遊びを創造する好例として、「学校給食で出された牛乳の蓋(ふた)を<めんこ>に転用して遊ぶこと」と書かれているほど、メンコは、かつて、子どもたちになじみのある遊びでした。しかし、その後、ゲーム機の出現などにより、子どもの遊びの風景は変わりました。 梅香小学校の先生によると、牛乳のフタでメンコ遊びしたり、「ポン」と呼んで集めたりする姿は、近年、見たことがないそうです。最近のフタの活用例としては、図工でこまを作る材料にしたほか、水泳の授業でフタに息をふきかけひっくり返す息継ぎの指導などに使ったことがありましたが、平成29年度半ば、ついに、びんから紙パックに変わったとのことです。(2018.12.9 此花図書館),『大阪市の学校給食』大阪市教育委員会 1971 書誌ID 0080189635|『<めんこ>の文化史』加藤理/著 久山社 1996 書誌ID 0000592641|『街にあふれた子どもの遊び』萩野矢慶記/写真・文 彩流社 2015 書誌ID 0013866720,2018年1月31日,CC BY-SA,此花区,昭和50年-60年代(1975-1989),遊び 盆踊り,1966年生,1970年代, 盆踊りの曲に「此花音頭」というのがあった。,, 大阪市コミュニティ協会此花区支部協議会のサイトには、区民音頭として「この花よいとこ」が紹介されています。投稿者に確認していただいたところ、この曲だとのことでした。同サイトに、1番から4番までの歌詞と、おどり方の図解が載っています。投稿者は、今でも口ずさめるそうです。3番の歌詞には、今はない高見のスケートリンクが登場します。スケートリンクについては、思い出「ラサスケートリンク」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=murdu5wce-11288#_11288をご参照ください。 同サイトによれば、此花区制創設50周年を記念してレコードが再販されたようです。写真によると、ジャケットには紅い花をつけた梅の木があしらわれています。 最近の盆踊りでは新しい歌を用いる場合が多く、「この花よいとこ」を聞くことは少なくなったようです。(2019.11.10 此花図書館),一般財団法人大阪市コミュニティ協会此花区支部協議会 まちのこと「区民音頭」https://www.osakacommunity.jp/konohana/machi_ondo.html (2019年10月8日確認),2018年1月31日,CC BY-SA,此花区,昭和50年-60年代(1975-1989), 淀川河川敷にて,1941年生,1951年から1953年頃, ゴザやダンボールで、淀川河川敷でスキーごっこ。ベッタンやラムネ。 大阪ガスの木炭車の後をついて、コークス拾い。ガタガタ道。, 酉島6丁目、5丁目, 大阪瓦斯の酉島工場は、昭和15(1940)年1月に操業を開始しました。海上輸送による石炭の受け入れ、コークスの出荷が可能であり、ガス工場として最適の立地条件を備えた、当時最新鋭の工場でした。昭和17(1942)年、さらに戦後の昭和26(1951)年から29(1954)年にかけて、設備の拡張が行われました。 『大阪瓦斯五十年史』には、「コークス炉はガス工場の根幹である。装入された原料炭は、ここで約24時間乾溜され、ガスを発生し、コークスとなって押し出される。」とあり、石炭からガスを製造する過程でコークスが生成されました。コークスは、製鉄の溶鉱炉で使われるほか、かんてき(七輪)の火を起こすのに使われ、身近な燃料でした。 都市ガスの原料は昭和30年代半ばに、石炭から石油へ転換されますが、間もなく公害問題が起こり、昭和40年代半ばからLNG(液化天然ガス)が導入されて、現在に到ります。コークス拾いは、ガスが石炭によって作られていた時代ならではの風景だったと言えましょう。(2019.1.18 此花図書館),『大阪瓦斯五十年史』大阪瓦斯株式会社社史編集室 1955 書誌ID 0080153509|『此花区史』大阪市此花区三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000228462|『炎の産業「都市ガス」-進化するクリーンエネルギーのすべて-』山口正康/著 エネルギーフォーラム 2009 書誌ID 0011946603|『このはなお宝いっぱい!プレミアム -まちを知って自慢しよう!-』大阪市此花区役所 2013 書誌ID 0012734280,2018年2月11日,CC BY-SA,此花区,昭和20年代まで(1926-1954),遊び 公害問題,,, 昭和39年3月、グッディ(旧此花公設市場)の裏口で内科を開業した。道路は舗装されておらず、西六社のおかげで、青空が見えるのは正月三が日だけだった。公害問題が取り上げられ、慢性気管支炎、気管支喘息が非常に多かった。二酸化炭素の濃度が高いと、学校も休校になった。 現在、此花区の幹線道路はようやく拡張され、街灯も立ち始めている。この拡張が決まったのは、昭和40年代だ。 昭和39年3月、環状線は環道、その頃、市電がまだ走っていた。,," 昭和の半ば、此花区は西六社(にしろくしゃ)(大阪瓦斯・汽車製造・住友化学工業・住友金属工業・住友電気工業・日立造船)をはじめ工場が集中する、大阪第一の工業区でした。昭和30年から40年代前半にかけては、高度経済成長にともない公害が激化しました。スモッグの原因は、石炭燃焼による煤塵から、硫黄酸化物へと変わりました。昭和43(1968)年から、大阪市による「此花区特別対策」が始まり、主な大気汚染源である西六社を対象として、昭和45(1970)年に「総合公害防止計画書」が作成されました。 昭和60年度の調査でも、此花区の公害病患者は1,500人ほどいて、大半が、慢性気管支炎か気管支喘息でした。 大阪市電は、明治36(1903)年に花園橋・築港間で開業したのが始まりですが、此花区に関しては、大正9(1920)年10月に朝日橋・兼平町間、大正10(1921)年9月に朝日橋・千鳥橋間、大正11(1922)年5月に三本松・千鳥橋間が順次開業します。昭和4(1929)年11月の桜島・桜島駅前間の開業をもって、西野田桜島線が全通しました。 昭和32年頃に最盛期を迎えた市電も、交通事情の変化により衰退を余儀なくされ、昭和37(1962)年2月に桜島駅前・島屋橋間が廃止、昭和44(1969)年2月1日には島屋橋・今福間および春日出車庫が廃止となり、此花区から姿を消しました。同年3月末には全市で廃止となっています。(2019.1.18 此花図書館)",『此花区史』大阪市此花区三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000228462|『わたしたちの此花区 :5版』此花区社会科研究部 1988 書誌ID 0090013123|『大阪市公害対策史』大阪市環境保健局/監修 地球環境センター 1994 書誌ID 0000764854|『大阪市電 -路面電車66年の記録-』大阪市電編集委員会/編 鉄道史資料保存会 1980 書誌ID 0070117955,2018年3月23日,CC BY-SA,此花区,昭和30年-40年代(1955-1974),鉄道|道路 ハゼ釣り,1942年生,1946年から1950年ころまで、4歳-7歳くらい, 淀川ではお化けという魚がよく釣れたよ。(ハゼが卵を産んだ後), 淀川の伝法から常吉まで。釣り場が混雑して大変だった。, ハゼは、2-3月に産卵し、稚魚が育ち始める初夏から11月までが釣りシーズンとされています。漁港内や河口域など身近なところで釣れるため、昔からちびっ子釣り師のターゲットでした。1年魚とされていますが、中には越冬して大きくなるものもいるようです。 『目で見る此花の“昨日今日明日”』には、「淀川での釣り風景」という写真が載っています。昭和41年当時のもので時代は下がりますが、なお岸辺は釣竿を持つ人々でいっぱいです。また、川岸ではありませんが、伝法大橋から釣り糸をたれる人々の写真もあり、女性や子どもも混じって橋の上は大賑わいです。昭和の20年代から40年代まで、伝法あたりの淀川で釣りをするのは日常的だったようです。(2019.10.2 此花図書館),『魚釣り入門 -オールカラー図解-』ケイエス企画 2013 書誌ID 0012725397|『海の釣魚・仕掛け大事典 -水中解説でよくわかる-』豊田和弘/著 成美堂出版 2010 書誌ID 0012162159|『親子で楽しむ釣りがわかる本 -海、川、湖。各釣り場で最適な釣り方を徹底解説!-』地球丸 2005 書誌ID 0011016139|『目で見る此花の“昨日今日明日”』大阪市此花区役所 2008 書誌ID 0011718154,2019年5月10日,CC BY-SA,此花区,昭和20年代まで(1926-1954),川 川遊び,1942年生,1946年から1950年ころまで、4歳-7歳くらい, 北港大橋の下でコイが沢山泳いでいたよ。泳ぐ人もおったよ。, 正蓮寺川。北港大橋付近。, 現在の北港大橋付近は、正蓮寺川の埋め立てが進み、ほとんど水がなくなっています。しかし、1952年の地図を見ると、上流の中津川から水をたたえ、当時の嬉ヶ崎町あたりで六軒家川を分岐し、北港へ注ぐ正蓮寺川がありました。川には千鳥橋をはじめ幾つもの橋がかかっており、港に近い最も下流の橋が北港大橋です。 野生のコイは、琵琶湖・淀川水系をはじめ、湖や大きな川の下流域から汽水域に生息する淡水魚です。 『目で見る此花の“昨日今日明日”』には、同じ正蓮寺川のより上流にかかる森巣橋の思い出として、男の子が橋の上から川に飛び込んで遊んだり、コイではありませんがメダカが泳いだりしていたという話が紹介されています。昔の正蓮寺川がそれだけきれいだったことがわかります。(2019.10.2 此花図書館),『大阪市区分地図 -ポケット型-』和楽路屋 1952 書誌ID 0011158246|『日本の淡水魚 -写真検索-』細谷和海/編・監修 山と渓谷社 2015 書誌ID 0013919849|『目で見る此花の“昨日今日明日”』大阪市此花区役所 2008 書誌ID 0011718154,2019年5月10日,CC BY-SA,此花区,昭和20年代まで(1926-1954),川|橋 トンボ・メダカ・カエル…,1942年生,1946年から1950年ころまで、4歳-7歳くらい, トンボとヤゴそしてメダカ、カエルが沢山取れたよ。, 現在の酉島3・4丁目付近。一帯が沼地でありました。, 現在の酉島3丁目・4丁目は、昭和50(1975)年9月1日の住居表示実施までは、酉島町4丁目・5丁目・6丁目にあたり、昭和35(1960)年2月20日の行政区画変更までは、酉島町、秀野町、恩貴島北之町の一部でした。 沼地であったことを文献で確認することはできませんでしたが、昭和21(1946)年に発行された地図によれば、一帯は大半が戦災で焼失したことがわかります。地形図を見ても、戦災を被る前の昭和9(1934)年には、工場(日本染料製造、後の住友化学酉島工場)の他、家屋がびっしり立ち並んでいたのに、昭和25(1950)年では、工場の敷地以外、ほぼ空白で、家屋の再建が進んでおらず、広々としていたことがうかがえます。(2019.11.10 此花図書館),『大阪の町名 -その歴史- 下巻』大阪市市民局 1992 書誌ID 0010764328|『大阪市街図 -戦災焼失区域表示-』日本地図 1946 書誌ID 0080350062|『大阪市戦災焼失区域図』日本地図 1946 書誌ID 0080240713|『大阪近傍[図] 15 大阪西北部 2万5千分1地形図』大日本帝国陸地測量部 1934 書誌ID 0080349932|『大阪西北部(二万五千分一地形図 仮製版)』地理調査所 1950 書誌ID 0000270053|『住友化学工業株式会社史』住友化学工業 1981 書誌ID 0000558830,2019年5月10日,CC BY-SA,此花区,昭和20年代まで(1926-1954), 街頭紙芝居,昭和23年生,昭和36年より前, 公園に自転車に紙芝居をのせた紙芝居屋さんが来て、水飴などのお菓子を買って見せてもらいました。, 今の梅香東公園," 『紙芝居は楽しいぞ!』には、自転車で乗り付けると、拍子木の「チョーン、チョーン」という音で子どもたちを集め、先に駄菓子を売ってから、紙芝居を演じ、「次はどうなるでしょうか。それは明日のお楽しみ。」と言って去っていく紙芝居屋の様子が活写されています。紙芝居屋は、駄菓子売りであり街頭芸人でした。街頭芸としての紙芝居は、紙芝居の画、紙芝居屋のセリフ、それを見る子どもたちの容赦のない野次・突っ込みに支えられていました。 『サライ』1996年5月16日号には、「路上の職人たち」という特集が載っています。東京の例ですが、現役の紙芝居屋が、「引き出しを開けて、2本の割箸にクルックルッと水飴を巻きつける」様子や、「戦後すぐはイモ飴くらいしかなかったですよ。水飴が出てきたのはしばらく経ってからでした」と語る姿が紹介されています。 『紙芝居 -街角のメディア-』によれば、戦後の紙芝居人気のピークは、1948年から49年にかけてで、大阪では1日に35万人が紙芝居を見ていた計算になるそうです。紙芝居屋は、1950年頃全国で5万人いたと言われ、『紙芝居がやってきた!』によると、大阪府の紙芝居業者数は、昭和29(1954)年の1,545人が最高でした。 そんな街頭紙芝居も、テレビが家庭に普及した1960年代以降は激減しました。(2020.5.15 此花図書館)",『紙芝居百科』紙芝居文化の会/企画制作 童心社 2017 書誌ID 001440498|『紙芝居は楽しいぞ!』鈴木常勝/著 岩波書店 2007 書誌ID 0011412113|『紙芝居がやってきた!』鈴木常勝/著 河出書房新社 2007 書誌ID 0011370797|『紙芝居 -街角のメディア-』山本武利/著 吉川弘文館 2000 書誌ID 0000825185|『サライ 1996年5月16日 / 8巻10号 通巻161号』小学館 1996 書誌ID 5100055297 p.94-95「路上の職人たち:紙芝居」 |大阪市立中央図書館では、「懐かしの紙芝居」シリーズとして、「黄金バット」や「丹下左膳」等の複製版を所蔵しています。|国際児童文学館の「街頭紙芝居」のサイトでは、同館が所蔵する紙芝居の画像を公開しています。https://www.library.pref.osaka.jp/central/kamishibai/index.html,2019年5月31日,CC BY-SA,此花区,昭和20年代まで(1926-1954)|昭和30年-40年代(1955-1974),公園 ポン菓子屋さん,昭和23年生,昭和36年より前, ポン菓子屋さんが回ってきていて、お米を持っていき、ポン菓子機の中に入れて熱を加えてしばらく回し、ふたを開けるとポンと爆発音がして金網の入れ物の中にお米がふくらんだポン菓子が出てきて、それに砂糖蜜をかけて出来上がり。おいしかったです。, 梅香東公園付近の路上, 『菓子(新・食品事典10)』によれば、ポン菓子は「米を膨化加工した菓子。米を密閉した容器の中で加熱しながら圧力をかける。急激にその圧力を抜くと、米は膨化してちょうどポップコーンのようになる。表面にあめをまぶしたり、球形やおこし状にしたものもある。」と定義されています。 ポン菓子機の窯に、材料の米を入れ、内部を10気圧ほどまでに上げていきながら、約10分間炒ります。窯のふたをハンマーでたたいて開放すると、バーンという爆発音とともに、米の体積は10倍ほどに膨れてカゴに飛び出し、出来上がりです。 大きな音のために、家にいても、ポン菓子屋さんが来たのがわかりました。『昭和三十年なにわ大阪花暦』には、「お母ちゃんポン菓子やさん来てはる」「ほなお米とザラメと持って頼んどいで」という会話に添えて、リヤカーに積まれたポン菓子機、その前で思わず耳をふさぐ可愛らしい女の子の姿が描かれています。(2020.5.31 此花図書館),『菓子(新・食品事典 10)』河野友美/編 真珠書院 1991 書誌ID 0000179237|『愛媛大学法文学部論集 総合政策学科編 Vol.29 2010』p.1-43 和田寿博「ポン菓子とポン菓子機および愛媛県のポン菓子の食文化」愛媛地区共同リポジトリ(IYOKAN)https://opac1.lib.ehime-u.ac.jp/iyokan/TD00003331 (2020年11月23日確認)|『読売新聞 2007年8月22日朝刊 西部(福岡) 』「我がポン菓子人生悔いなし タチバナ菓子機社長吉村利子」(商用データベース「ヨミダス歴史館 -読売新聞記事-」でご覧いただけます)|『サライ 1996年5月16日 / 8巻10号 通巻161号』小学館 1996 書誌ID 5100055297 p.98「路上の職人たち:ポン菓子」|『儲けるポン菓子と儲かるポン菓子』渡邊階男/著 近代文芸社 1995 書誌ID 0000512702|『昭和三十年なにわ大阪花暦』岡崎佐紀子/著 風詠社 2014 書誌ID 0012955054,2019年5月31日,CC BY-SA,此花区,昭和20年代まで(1926-1954)|昭和30年-40年代(1955-1974), コマ回し,昭和23年生,昭和36年より前, お正月には羽根つきや、男の子のようにコマ回しもしました。地面で回すだけでなく、手のひらや手に持ったカンのふたにコマを飛ばしてのせて回し、カンのふたの上で回っている間は、追いかけたり逃げたりできる鬼ごっこのような遊びもしました。, 梅香東公園付近の路上, コマを回しながらする鬼ごっこについては、いずれも子ども時代を大阪で過ごした著者による『昭和わんぱく遊び図鑑』と『昭和の子ども図誌』に、記述があります。 『昭和わんぱく遊び図鑑』p.14には、「独楽(こま)鬼」という見出しで、「鬼ごっごにコマ回しをプラスした遊びである。まず、ジャンケンで鬼を決める。追いかける鬼も逃げるみんなも、回っているコマを掌(てのひら)に乗せて走らなければいけない。コマが止まったら、その場で立ち止まり、ふたたびコマを回して掌に乗せないと動くことは許されない。後はまったく鬼ごっこと同じである。回したコマを空中で直接掌に受け止めるテクニックがない者は、ひとまず地面やコンクリートの上で回し、それを下敷きなどですくって掌に乗せてもよいが、それだけ余計に時間がかかり、不利になるのは仕方がない。」とあります。 『昭和の子ども図誌』p.77では、「独楽・鬼ごっこ」という見出しで、「まず、ジャンケンで二つのグループに分かれる。皆それぞれ自分の独楽をもち、独楽を手の平の上で回して独楽が回っている間は走ることができる。独楽が止まるとその場で立ち止まらなければならないので、相手が来る前に急いで独楽の紐を巻き、再び回して走りだす。相手のグループにタッチされると相手の陣地(電信柱)などで手を付いて仲間が助けてくれるまで待たなければならないから、長くよく回る独楽であればそれだけ相手に捕まりにくく…セルロイドの下敷きを持ち出して、その上で回したり、あるいは缶の蓋などの上に回すと長く回っているのであるが、今度はそれが荷物になってしまい、動作が遅くなって捕まり易くなったりした。」とあります。(2020.7.28 此花図書館),『昭和わんぱく遊び図鑑』佐伯俊男/著 ビリケン出版 2006 書誌ID 0011294871 p.14|『昭和の子ども図誌 -戦後の遊びと生活-』櫻井尚/著 東洋出版 2019 書誌ID 0014675420 p.77,2019年5月31日,CC BY-SA,此花区,昭和20年代まで(1926-1954)|昭和30年-40年代(1955-1974),遊び 芝居小屋,昭和23年生,昭和36年より前, 芝居小屋があり、夏に怪談を観に行ったような、かすかな記憶があります。, 千鳥橋駅前から信号を渡って南の方(春日出中学校の方)に行った最初の信号のところだったと思います。, 昭和36(1961)年の地図で、千鳥橋駅前から南へたどると、5つめの交差点角に、「大和劇場」とあります。最近の地図で同じ場所を確かめると、駅前から信号を渡って、千鳥橋筋商店街を南へ進んだ最初の信号の北東角に当たり、現在はパチンコ店になっています。 『此花区史』は、昭和30(1955)年の刊行で、巻末に、各種団体や商工業者の広告が載っています。千鳥橋筋にある「ヤマト劇場」も掲載されていて、キャッチフレーズは「芝居と万才」です。夏には、怪談ばなしも上演されていたのでしょうか。(2020.6.30 此花図書館),『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 昭和36年版』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167518|『ゼンリン住宅地図大阪市此花区 [2019]』ゼンリン 2019 書誌ID 0014737898|『此花区史』大阪市此花区役所/編 大阪市此花区三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000228462,2019年5月31日,CC BY-SA,此花区,昭和20年代まで(1926-1954)|昭和30年-40年代(1955-1974), キャラメル,昭和21年生,小学生の頃, 半分が縦柄の地味な箱に入ったキャラメルを思い出します。長い間10円で買っていました。森永キャラメルは高くて買えなかった記憶があります。, 近所の駄菓子屋," そのキャラメルは、カバヤ食品株式会社(岡山市)製造の、カバヤキャラメルと思われます。『おまけとふろく大図鑑』p.46に、カバヤキャラメルのカラー写真が載っています。赤地に白抜きの文字、箱の正面を横切る対角線の片側に、茶褐色の縦じまがあしらわれたデザインです。同社による「カバヤの歴史」サイトでも、カバヤキャラメルの箱が紹介されています。 『昭和こども図鑑』p.123によれば、カバヤキャラメルの10円に対し、森永ミルクキャラメルや、明治クリームキャラメルは20円とあり、倍の値段でした。 さらに、カバヤキャラメルには、特筆すべきおまけがついていた時期がありました。封入されている文庫券50点分を集めると、カバヤ文庫の中の1冊と交換できたのです。『おまけとふろく大図鑑』によれば、カバヤ文庫は昭和27(1952)年8月から昭和29(1954)年まで、159冊、2,500万部が発行されました。ハードカバーで日本と世界の名作がそろい、子どもの小遣いで手の届く児童書として、広く支持されました。 子ども向けとはいえ、序文は著名人が執筆していました。『おまけの名作』によれば、「アラビアンナイト」は吉川幸次郎、「孫悟空大暴れ」は貝塚茂樹、「アルプスの少女」は今西錦司、「レ・ミゼラブル」は桑原武夫、「あかずきん」は新村出、「悲劇のリヤ王」は野上弥生子、といった顔ぶれでした。 なお、デジタル岡山大百科(岡山県立図書館電子図書館システム)では、同図書館が所蔵するものを中心に、カバヤ文庫を閲覧することができます。(2020.8.24 此花図書館)",『おまけとふろく大図鑑 -子どもの昭和史-(別冊太陽)』平凡社 1999 書誌ID 0000720343|『昭和こども図鑑 -20年代、30年代、40年代の昭和こども誌-』奥成達/文 ポプラ社 2001 書誌ID 0010105143|『おまけの名作 -カバヤ文庫物語-』坪内稔典/著 いんてる社 1984 書誌ID 0080086725|カバヤ食品ホームページ カバヤの歴史https://www.kabaya.co.jp/about/history.html (2020年8月11日確認)|デジタル岡山大百科(岡山県立図書館 電子図書館システム)http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/ (2020年8月11日確認)|デジタル岡山大百科 カバヤ児童文庫http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/kabaya/bunko/index.htm (2020年8月11日確認),2019年7月22日,CC BY-SA,此花区,昭和20年代まで(1926-1954)|昭和30年-40年代(1955-1974), ボーイスカウト日本ジャンボリー,1989年生,2002年8月3日-7日, 2002年8月に行われた、ボーイスカウト第13回日本ジャンボリーに参加するため、生まれて初めて大阪へ行きました。会場は、舞洲スポーツアイランドで、所属ごとにテントを張って過ごしました。USJにも行ったと思います。, 舞洲スポーツアイランド, 日本ジャンボリーは、ボーイスカウトたちがキャンプを通じて交流を深める4年に1度の行事です。第13回日本ジャンボリーは、平成14(2002)年8月3日から7日まで、此花区の舞洲スポーツアイランドで開催されました。 ボーイスカウト大阪連盟は、平成10(1998)年から日本ジャンボリーの大阪招致運動を始めました。その頃、舞洲をメイン会場とする2008年大阪オリンピックの招致活動も進められていました。平成10(1998)年3月17日に開かれた大阪市会財政総務委員会では、オリンピック招致を見据えて日本ジャンボリーの大阪開催に積極的な委員の質問に対し、当時の磯村市長が次のように答えています。「…ボーイスカウトのジャンボリーというのは全国から集まって…オリンピックがもし2001年に大阪に決まっておりましたら、オリンピックに向けてのいろんなボランティア活動をお願いするのにも非常に役に立つと思いますし…大阪市内で開催されるということが決定されましたら、大阪市としては最大限の協力をしてまいりたい…」 『大阪ボーイスカウト運動史 第5巻』によれば、第13回日本ジャンボリーは、大阪連盟が提案した多くの新しい試みがとり入れられ、初の都市型ジャンボリーとして、行政・企業・団体・地域等多くの協力のもと大成功を納めたとあります。参加者は、約2万人でした。 なお、前年の平成13(2001)年3月31日には、同じ此花区内にユニバーサル・スタジオ・ジャパンがオープンしています。同年7月13日、2008年オリンピックの開催都市は、大阪ではなく北京に決まりました。(2020.8.29 此花図書館),『大阪ボーイスカウト運動史 第5巻 平成11年度から平成20年度まで』日本ボーイスカウト大阪連盟 2015 書誌ID 0013542971 p.169-174|『通常予算に関する大阪市会常任委員会記録 平成10年度 その1』大阪市会 [1998] 書誌ID 0000676404 p.171-172|『ユニバーサル・スタジオ・ジャパン公式ガイドブック』角川書店 2001 書誌ID 0010039881 p.114|『2008年オリンピック競技大会招致活動報告書』大阪オリンピック招致委員会 2001 書誌ID 0010211132 p.198,2020年2月6日,CC BY-SA,此花区,平成(1989-2019), 大阪市電,1943年生まれ,昭和34-37年, 市電が走っていました。森の宮から久太郎町まで、本町通りの街路樹の間を通学していました。NHKが馬場町にあり、区役所、東警察、大阪城公園南側は砲兵工廠が残っていました。,, 『大阪市電が走った街今昔』には、かつて市電が走っていたころの各停車場の新旧の写真と、解説があります。また、5ページには大阪市電路線図(昭和34年当時)が収録されています。 『大阪市全商工住宅案内図帳 東区 昭和39年』を見ると、東区役所は本町1丁目、本町通と東横堀川が交差する場所にあり、本町通を挟んで向かい側を少し西に移動した場所に東警察があります。また、当時NHK大阪放送会館は市電の馬場町の停留所の南東に位置していましたが、現放送会館完成後に取り壊され、現在は跡地となっています。なお、現放送会館は上町筋の向かい側に位置し、大阪歴史博物館と共同で建設された複合施設となっています。 『大阪砲兵工廠の八月十四日』に大阪陸軍造兵廠全図が収録、砲兵工廠は、大阪城の東半分、大阪城公園や大阪ビジネスパーク、JR地下鉄の森之宮車庫に至るまでの広大な敷地であったことがわかります。戦時中、空襲で大半が失われましたが、『大阪の戦争遺跡ガイドブック』27ページを見ると、大阪砲兵工廠の本館は、昭和56(1981)年、大阪城国際文化スポーツホール(大阪城ホール)建設にあたり取りこわされるまで、残っていたことがわかります。また同書21ページおよび『街角の戦争発掘』36ページには、馬場町に陸軍被服支廠被服倉庫のひとつが、郵政省倉庫として残っている、とありますが、現在は取り壊されてしまいました。(2017.9.12 島之内図書館),『大阪市電が走った街今昔』辰巳博/著、福田静二/編 JTB 2000 書誌ID 0000836714|『大阪市全商工住宅案内図帳 東区 昭和39年』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422740|『大阪砲兵工廠の八月十四日』大阪砲兵工廠慰霊祭世話人会/編 東方出版 1983 書誌ID 0000164681|『大阪の戦争遺跡ガイドブック』戦争体験を記録する会/編 清風堂書店 1987 書誌ID 0070001811|『街角の戦争発掘』福島明博/著 日本機関紙出版センター 1991 書誌ID 0000202242,2016年11月,CC BY-SA,中央区,昭和30年-40年代(1955-1974),鉄道 アパッチ族,1943年生まれ,昭和34-37年, 大阪城公園駅周辺は工場跡で、アパッチ族が出ると言われていました。今のように立派に整備されるなんて、うそみたいです。, 大阪城公園周辺, 『続東区史 第3巻』588-589ページに、「戦後、何年もの間、造兵廠跡は弾痕だらけで、鉄材や鉄屑が山積みされたままであった(略)その屑鉄を盗みとろうとする集団があらわれた。(略)造兵廠跡の窃盗集団は“日本アパッチ族”と呼ばれるようになり、作家小松左京も作品としてとりあげた。」と記述されています。 小松左京の作品『日本アパッチ族』では、5ページに「ここはかつて、大阪最大の、しかももっともすさまじい「廃墟」であった。(略)だが、この巨大な、牙をむく廃墟へ向かって敢然といどんだ、おそるべきエネルギーにみちた人々がいた。これこそ、あの有名な屑鉄泥棒―通称『アパッチ族』だったのである!彼らは神出鬼没、官憲の取締まりをものともせず、警備の目をかすめ、ときにははなばなしい乱闘を演じ、あくことなくこの廃墟をおそった。いや、彼らは廃墟から、そのアナーキイなエネルギーを吸収し、廃墟とともに生きていたのである」と記述されています。 『大阪ビジネスパーク土地区画整理事業誌』32ページには「終戦の日を境に、米軍接収、警察の厳重な取締りの中で、砲兵工廠跡は、その後不法占拠集団の活躍の舞台となり、後に小松左京や開高健の小説によってその現状がするどく描写されることになった。不法占拠者は、環状線西側の杉山町を中心に、平野川をへだてた旧弁天島の当地区、環状線東側一帯の工廠後各所にバラックを建てて居住…これらの人びとの立退きをめぐって、大阪市及び地主等が苦慮するのは、昭和50年のことである」と記述されています。(2017.9.12 島之内図書館),『続東区史 第3巻』大阪市東区史刊行委員会 1981 書誌ID 0080257808|『日本アパッチ族』小松左京/著 光文社 1964 書誌ID 0080284953|『大阪ビジネスパーク土地区画整理事業誌』大阪ビジネスパ-ク開発協議会 1987 書誌ID 0070117921,2016年11月,CC BY-SA,中央区,昭和30年-40年代(1955-1974), 心斎橋のガス燈,1943年生まれ,, 心斎橋はガス燈がともって、長堀通りにかかっていました。, 心斎橋, 『大阪春秋 133号』p.22-23の心斎橋の解説では、明治6年に架けられた鉄製トラス橋は、明治42(1909)年に長堀通北側の道路を拡げて市電の東西線を導入する工事に合わせて石造のアーチ橋になり、橋の上にはモダンな八基のガス灯が建てられ、昭和39(1964)年に長堀川が埋め立てられて石橋が撤去され、代わりに広い道路を跨ぐ歩道橋が架けられましたが、高欄と照明灯は保存されて歩道橋に使われ、ガスの灯をともし続けていました、と書かれています。p.25には「石造り心斎橋100年のあゆみ」として、着工・明治41年6月、竣工・明治42年11月、撤去・昭和32年11月、長堀埋立・昭和36年7月、石橋撤去・昭和36年11月、陸橋架橋・昭和39年11月、陸橋撤去・平成5年、現通路橋・平成8年11月と、心斎橋は何度も撤去と再設置を繰り返してきたことがわかります。 『大阪の橋』p.228には昭和39年完成の心斎橋歩道橋の写真があり、石造りの高欄やガス燈が確認できます。またp.227に「橋上に建てられた八本の鉄製の灯柱は、市橋栗山という人のデザインで、高さ約2.6メートル、重さ160キログラムあった」とあり、ガス燈の様子を伝えています。(2017.9.17 島之内図書館),『大阪春秋 通巻133号 特集心斎橋・島之内』新風書房 2009 書誌ID 0011789671|『大阪の橋』松村博著 松籟社 1987 書誌ID 0000164468,2016年11月,CC BY-SA,中央区,大正・明治以前(1926まで)|昭和20年代まで(1926-1954)|昭和30年-40年代(1955-1974),橋 わらべうた,昭和24年生まれ,昭和34ごろ(小学校3年生ぐらい), 「げ-たか-くし ちゅうれんぼ は-しのし-たのね-ずみがぞうりをくわえてちゅっちゅくちゅ ちゅっちゅくまんじゅうはだれがくた うらからまわって さんげんめ」 下駄かくしのわらべうたが流行っており、長屋や路地で、かくれんぼや下駄かくしをして遊んでいました。, 空堀商店街, 『大阪のわらべ歌』160-161ページに松原市天美西にて採録した「下駄かくし<履物かくし>」の歌の歌詞と楽譜を収録、歌詞の後半は投稿者の思い出と少し異なり、チュッチュクまんじゅは誰が食た 誰も食わない わしが食た 表の看板 三味線屋 裏から回って 三軒め」とあります。また、解説部分では大阪市南区の例も紹介、「表の…裏から回って三軒目、ひィふゥみィ」と、三つもどって当たったのを鬼とした、とあります。 『大阪の民謡』143-148ページに「履物かくし歌」の解説があり、大阪府内各地で収録されたものとして「大阪わらべ歌」とほぼ同内容の歌詞があります。また全国各地に、履物かくし遊びの鬼決め歌があるとのこと、分類すると4系統に分かれると分析しています。 『わらべうたあそび 2 秋・冬・春』19-22ページには「げたかくし」の楽譜と遊び方が記載されています。遊び方は、くつを片方ずつぬいで一列に並べ、うたいながら、くつをひとつずつ順番にさわっていき、うたのおしまいにあたったくつの持ち主がおにになり、自分のくつをはいて目をつぶります。ほかの人はケンケンで自分のくつを運んでかくし、「もういいよ」でおにが探しにいく、とあります。 なお、「下駄隠しの歌」には様々な解釈や経過があります。詳しくは、参考文献をご参照ください。(2017.9.17 島之内図書館),『日本わらべ歌全集 16 大阪のわらべ歌』柳原書店 1980 書誌ID 0000253632|『大阪の民謡』右田伊佐雄/著 柳原書店 1978 書誌ID 0000187660|『わらべうたあそび 2 秋・冬・春』芸術教育研究所/編集 黎明書房 1997 書誌ID 0000625583|愛知県立大学学術リポジトリ『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集 8号』愛知県立大学 2007 p.59-81 墨功恵「わらべ歌考察 : 全国の「草履隠し歌」」https://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=crossref&lang=ja&id=info:doi/10.15088/00000295 (2021年2月20日確認)|京都産業大学ホームページ 灘本昌久「わらべ歌と差別」(乳幼児発達研究所『はらっぱ』一六一号)https://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/199301.htm (2021年2月20日確認)|『盛田嘉徳部落問題選集』部落解放研究所/編 部落解放研究所 1982 書誌ID 0080185614,2017年3月,CC BY-SA,中央区,昭和30年-40年代(1955-1974),遊び 空堀通の夜店,昭和24年生まれ,昭和34年ごろ(小学校3年生ぐらい), 4のつく日に夜店があり、夏の夕方、両親に連れられていくのが楽しみでした。花火、リンゴ焼、カルメラ焼、綿菓子などが軒を連ねていました。, 空堀商店街, 『上方 80号』(昭和12.8)p.45-47に「大阪市内夜店一覧表」があり、南区空堀通は四の日と書かれています。また『南区誌 続』p.448には、大正5年ごろから空堀通には、地元の延命地蔵の縁日に当たる四の日に夜店が出て、年々盛んとなった、と記述されています。(2017.9.12 島之内図書館),『上方 -郷土研究- 7 自第七十三号(昭和十二年一月)至第八十四号(昭和十二年十二月)』復刻版 上方刊行会/監修 新和出版社 1970 書誌ID 0000245419|『南区誌 続』大阪都市協会/編集 南区制一〇〇周年記念事業実行委員会 1982 書誌ID 0090010645,2017年3月,CC BY-SA,中央区,昭和30年-40年代(1955-1974), 高津入堀川,昭和8年生まれ,, 高津の入堀川は何か所か川におりることができるようになっていて、メダカを取って遊んだ。フナもいたが、小学校に上がる前で、大きいのはとれなかった。, 高津入堀川, 高津入堀川(いりぼりがわ)については『[大阪市]土木部所管事業概要 昭和11年版』133ページに、左岸は二ツ井戸町から難波新川、右岸は高津町から鼬川(いたちがわ)合流点まで、川の長さが2730メートル、川幅の平均は10メートル、干潮時の水深は1.4メートルと記されています。 『南区史 続』331および348ページには、享保19(1734)年に開削され、明治31年、難波新川や鼬川と一本の川につながった高津入堀川は、市電の発達とともに舟運はすたれ、戦後は、戦災による焼土の捨て場となり、船出橋-南日東間が昭和32年から33年にかけて、南日東から堀切橋間が昭和33年から39年にかけて、堀切橋から道頓堀川合流点が昭和33年から37年にかけて埋め立てられた、とあります。川におりる場所については、同書351ぺージに「川へ昇降する石段が各所に造られ、ここが船着き場や荷役場に利用され、岸岐(がんぎ)といわれた」と記されています。 高津入堀川の戦前の様子は、『でんきのまち大阪日本橋物語』84ページに「高津入堀川の川沿いの一部には、川の両側に貯木業者が並んでいた。いわゆる木場である。そこには多くの筏が組まれていて、半纏姿の職人がたち働く姿を見ることができた。そこも子どもたちが筏遊びに興ずるには絶好の場所であった。戦前は高津入堀川の水も澄み、昭和15、6年頃までは魚釣りができたし、夏の暮れなどは近所の人びとが縁台を出して夕涼みをとった」とあります。(2018.12.1 島之内図書館),『[大阪市]土木部所管事業概要 昭和11年版』大阪市役所土木部 1936 書誌ID 0080189896|『南区史 続』南区制一〇〇周年記念事業実行委員会 1982 書誌ID 0090010645|『でんきのまち大阪日本橋物語』でんでんタウン協栄会 1996 書誌ID 0000598967,2017年4月2日,CC BY-SA,中央区,昭和20年代まで(1926-1954),川 高津入堀川の材木屋,昭和8年生まれ,, 高津の入堀川近辺は材木屋が多かった, 高津入堀川, 高津入堀川(いりぼりがわ)については『[大阪市]土木部所管事業概要 昭和11年版』133ページに、左岸は二ツ井戸町から難波新川、右岸は高津町から鼬川(いたちがわ)合流点まで、川の長さが2730メートル、川幅の平均は10メートル、干潮時の水深は1.4メートルと記されています。 『南区史 続』331および348ページには、享保19(1734)年に開削され、明治31年、難波新川や鼬川と一本の川につながった高津入堀川は、市電の発達とともに舟運はすたれ、戦後は、戦災による焼土の捨て場となり、船出橋-南日東間が昭和32年から33年にかけて、南日東から堀切橋間が昭和33年から39年にかけて、堀切橋から道頓堀川合流点が昭和33年から37年にかけて埋め立てられた、とあります。 高津入堀川の戦前の様子は、『でんきのまち大阪日本橋物語』84ページに「高津入堀川の川沿いの一部には、川の両側に貯木業者が並んでいた。いわゆる木場である。そこには多くの筏が組まれていて、半纏姿の職人がたち働く姿を見ることができた。そこも子どもたちが筏遊びに興ずるには絶好の場所であった。戦前は高津入堀川の水も澄み、昭和15、6年頃までは魚釣りができたし、夏の暮れなどは近所の人びとが縁台を出して夕涼みをとった」とあります。 昭和13年版の職業別電話帳より材木商、製材業の項目を見ると、南区の高津、御蔵跡、天王寺区の下寺、北日東、南日東、浪速区の恵比寿など(区と町名はいずれも昭和13年当時)、高津入堀川の川沿いの地に複数の材木屋が存在していたことが確認できます。(2018.12.1 島之内図書館),『[大阪市]土木部所管事業概要 昭和11年版』大阪市役所土木部 1936 書誌ID 0080189896|『南区史 続』大阪都市協会/編 南区制一〇〇周年記念事業実行委員会 1982 書誌ID 0090010645|『でんきのまち大阪日本橋物語』でんでんタウン協栄会 1996 書誌ID 0000598967|『京阪神職業別電話名簿 -逓信省公認- 昭和13年度版 大阪之部』京阪神職業別電話名簿編纂所 1938 書誌ID 0000535187,2017年4月2日,CC BY-SA,中央区,昭和20年代まで(1926-1954),川 東平小学校,昭和12年生まれ,, 東平小学校の敷地の半分にマンションが建ち、跡地は昔の東平小学校の半分ぐらいになっています。, 東平小学校, 『閉校記念誌 東平』14-17ページの「東平小学校の沿革」には、明治8年3月創立、東平野2丁目に移転したのは大正8年10月、平成3年3月で創立115年の幕を閉じる、とあります。52ページに地図を収録、上町筋の西、西光院、東平南公園の西側に東平小学校があります。 『消えたわが母校 -なにわの学校物語-』90-94ページに東平小学校の項目があり、千日前通り北側の東平野2丁目(現上本町西5丁目)の場所は、その後、平成3年の閉校の日まで長くつかわれる校地であった、と書かれています。都会の過疎化がすすむなか児童数が減少し、桃園、桃谷、金甌の各小学校と合併し、中央小学校として再生することになりました。 『ゼンリン住宅地図大阪市中央区 2016』で現在の状況を確認すると、跡地の北半分には31階建てのマンションが建ち、南半分は東平コミュニティプラザの運動場になっています。(2017.9.12 島之内図書館),『閉校記念誌 東平』[大阪市立]東平小学校閉校記念事業委員会 1991 書誌ID 0000200181|『消えたわが母校 -なにわの学校物語-』赤塚康雄/著 柘植書房 1995 書誌ID 0000450881|『ゼンリン住宅地図大阪市中央区 [2016]』ゼンリン 2016 書誌ID 0014088364,2017年4月2日,CC BY-SA,中央区,平成(1989-2019), 泊園書院,昭和29年生まれ,, 竹屋町に泊園という藤澤東畡(とうがい)が作った私塾があった。小説家の藤澤桓夫(たけお)のエッセイに出てくる。, 泊園(はくえん)書院, 泊園(はくえん)書院は江戸時代後期の文政8年(1825)、四国高松の藤澤東畡(1794-1864)によって大阪に開かれた漢学塾です。幕末には大阪最大規模の私塾として栄えました。 関西大学のホームページ内で泊園書院の歩みが写真とともに紹介されていて、もと分院、のち本院となった泊園書院は南区竹屋町9番地(現中央区島之内1丁目)にあったが、書院の建物は戦災によって残っていないとあります。 『大阪市全商工住宅案内図帖 南区 昭和34年』ではp.12、竹屋町9に「泊園」の記載が確認できます。 藤沢桓夫のエッセイ『大阪自叙伝』p.32-34には、漢学者の曽祖父、祖父そして父のエピソードが書かれていて、「島之内の竹屋町で父が泊園書院の分院を開いたのは、私の小学一年の春だった」とあります。(2018.11.4 島之内図書館),「泊園書院」(関西大学東西学術研究所)http://www.kansai-u.ac.jp/hakuen/index.html (2020年11月24日確認)|『大阪市全商工住宅案内図帖 南区 昭和34年』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011423904|『大阪自叙伝(中公文庫)』藤沢桓夫/著 中央公論社 1981 書誌ID 0070068165,2017年4月2日,CC BY-SA,中央区,大正・明治以前(1926まで)|昭和20年代まで(1926-1954), 小出楢重の実家,昭和29年生まれ,, 周防町通の富士銀行があったあたりに画家の小出楢重の実家があった。, 周防町通, 小出楢重(1887-1931)は短い生涯ながら、裸婦図や静物画、硝子絵などの洋画、挿絵、エッセイと多彩な作品を残す、日本近代美術史に名を残す洋画家です。 富士銀行があった場所を『富士銀行史 -1981-2000-』にて確認したところ、555ページに島之内支店店歴の記載がありました。「1922.12.8大阪府大阪市南区笠屋町三七番地に百三十銀行南支店島之内派出所として開設 82.2.1大阪府大阪市南区島之内一丁目22番17号に住居表示変更 89.2.13大阪府大阪市中央区島之内一丁目22番17号に住居表示変更」とあります。(富士銀行は合併後、みずほ銀行となりますが、みずほ銀行のホームページを見ると、2005年5月に島之内支店は南船場支店に統合されました) 『大阪春秋 141号』40ページの小出楢重略年譜には「1887(明治20)年、大阪市南区長堀橋筋1丁目(現、中央区島之内1丁目)で、父楢治郎、母モンの初めての子として誕生…小出家は、膏薬「天水香」で知られた薬屋「本家小出積善堂」を営んでいた」とあります。『大阪営業案内』は明治33年刊行の商工地図ですが、復刻版で56ページの長壹堀橋筋壹丁目、堺筋と周防町筋が交差するあたりに薬種商、小出楢次郎、と楢重の父親の名が確認できます。 『小出楢重随筆集』に収録されている「めでたき風景」の「亀の随筆」には、楢重の実家の薬屋にあった亀の看板とともに、その思い出が綴られています。(2018.1.20 島之内図書館),『富士銀行史 -1981-2000-』富士銀行企画部一二〇年史編纂室/編纂 富士銀行 2002 書誌ID 0010309806|みずほフィナンシャルグループホームぺージ 店舗統合・移転のお知らせhttps://www.mizuhobank.co.jp/tenpoinfo/tougou/index.html (平成30年1月20日確認)|『大阪春秋 通巻141号 特集没後80年小出楢重』新風書房 2011 書誌ID 0012233504|『大阪営業案内:復刻版 -大阪商品仕入便覧- 』新和出版社 1975 書誌ID 0080164136|『小出楢重随筆集』小出楢重/[著] 岩波書店 1987 書誌ID 0000224616,2017年4月2日,CC BY-SA,中央区,大正・明治以前(1926まで), 薬王寺,昭和17年生まれ,, 薬王寺には歌舞伎役者のお墓が多い。, 薬王寺, 薬王寺(やくおうじ)は中央区中寺1丁目にある日蓮宗の寺院です。 『大阪墓碑人物事典』133-139ページに薬王寺の項があり、嵐小六(あらし・ころく<初世>)、嵐雛助(あらし・ひなすけ<初世>)、岩井半四郎(いわい・はんしろう<初世>)、片岡仁左衛門(かたおか・にざえもん<八世>)、中村富十郎(なかむら・とみじゅうろう<初世>)、中村新五郎(なかむら・しんごろう<初世>)、中村のしほ(なかむら・のしほ<初世>)など、多くの歌舞伎役者の名前が記述されています。(2017.8.24 島之内図書館),『大阪墓碑人物事典』近松誉文/著 東方出版 1995 書誌ID 0000492268,2017年4月2日,CC BY-SA,中央区,大正・明治以前(1926まで), 千日前,昭和10年生まれ,, 千日デパートの前は歌舞伎座があったが、近くには見世物や芝居小屋があり、ヘビ女がいたり、サーカスが来たりしていました。, 千日前, 『なにわ難波のかやくめし』p.167-175に、大正時代初期から平成までの千日前界隈の変遷がわかる地図を収録しています。昭和13年から20年ごろの地図を見ると、市電の千日前駅の南に大阪歌舞伎座が位置し、5Fにはアイススケート場と映画館もあり、周囲にも映画館、劇場がひしめきあっています。また、大阪劇場(大劇)(昭和42年閉鎖)の南側は広場と記され、サーカス・お化け屋敷・のぞきからくりなど見世物小屋が建った、とあります。 ヘビ女に関しては、『演劇百科大事典』p.154、へびつかいの項目の中に、「見世物の一種。青大将を、若い女が首に巻いたり、キスしてみせる。中には腹の一部を噛っているようにみせかけたものもある。この場合は蛇をたべる蛇娘といった看板を出している。」と記述されています。 終戦直後、昭和21年当時の様子は『大劇33年の夢舞台』p.105に「見渡す限りの焼け野原。…(中略)その焼け跡の中に空襲の被弾からまぬがれたのであろうか、大劇と歌舞伎座の建物が、不死鳥のごとく立ち並んでいる姿を眼下に見て、自然に目頭が熱くなった」と記述されています。 なお、大阪歌舞伎座は「楽天地」の跡地に昭和7年に開設され、戦災は免れたものの昭和33年に閉場となりました。同年、改装工事が行われ千日デパートとして開業しますが、昭和47年、日本のビル火災史上に残る惨事となった千日デパート火災により焼失、昭和55年に解体工事が始まりました。昭和59年に開業したプランタンなんば、カテプリなんばを経て、エスカールなんばとなっています。現在キーテナントとしてビックカメラなんば店が入店しています。『大阪市の昭和』p.118にて、大阪歌舞伎座の写真(昭和31年提供)がご覧いただけます。また、大阪市立図書館デジタルアーカイブでも大阪歌舞伎座の写真をご覧いただけます。(2017.9.17 島之内図書館),『なにわ難波のかやくめし』成瀬国晴/著 東方出版 1998 書誌ID 0000696744|『大劇33年の夢舞台』岡本友秋/著 探究社 1992 書誌ID 0000257080|『演劇百科大事典 第5巻』早稲田大学演劇博物館/編 平凡社 1983 書誌ID 0000180779|『大阪市の昭和 -写真アルバム-』樹林舎 2018 書誌ID 0014592298|大阪市立図書館デジタルアーカイブhttp://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/,2017年4月2日,CC BY-SA,中央区,昭和20年代まで(1926-1954), 高津小学校 1,昭和10年生まれ,, 昔の高津小学校は鉄筋で、今の文楽劇場の場所にありました。, 高津小学校, 『大阪市全商工住宅案内図帳 南区 昭和43年』では18ページ、高津町3番丁に高津小学校があります。 『南区誌 続』579ページ、国立文楽劇場の項目には「建設地には、文楽の発祥地(旧高津入堀川の高津橋南詰め=高津町7番丁)に近い高津町3番丁の旧高津小学校跡が選ばれた」とあります。 『大阪市今昔写真集 西南部版』136ページに、昭和27年当時の校舎と運動場を写した写真があり、昭和4年に竣工した鉄筋3階建て校舎で、戦災により校舎内部が焼け、同32年に建て替えられるまで、改装して使用していた、と解説されています。また、137ページには、「現在の校舎は、昭和45年に千日前通拡張工事により現在地に移転したもの…旧校舎跡地には国立文楽劇場が建設され、浪速文化の発信地となっている」と解説されています。(2017.9.17 島之内図書館),『大阪市全商工住宅案内図帳 南区 昭和43年』住宅協会出版部 1968-1986 書誌ID 0080242228 合綴7冊|『南区誌 続』大阪都市協会/編集 南区制一〇〇周年記念事業実行委員会 1982 書誌ID 0090010645|『大阪市今昔写真集 西南部版』石浜紅子/監修 樹林舎 2009 書誌ID 0011940572,2017年4月2日,CC BY-SA,中央区,昭和20年代まで(1926-1954), そごうデパート,昭和10年生まれ,昭和27年ごろ, 心斎橋のそごうでデパートガールをしていて、ベビー用品売り場、服地、呉服売り場、食堂会計の係りを担当しました。 百貨店はアメリカ軍のPX(購買部)でした。, そごうデパート, 『株式会社そごう社史』347ページには「進駐軍による百貨店店舗の接収状況」の表があり、昭和21年5月から27年1月の期間、そごう大阪本店は接収されていたことが確認できます。接収解除後、昭和27年6月、大阪本店は「大阪店」として再開店しますが、392ページには、「大阪本店の売場構成(昭和27年6月)」の表があり、当時の各階の売場を知ることができます。(2017.9.17 島之内図書館),『株式会社そごう社史』そごう社長室弘報室/編集 そごう 1969 書誌ID 0000302034,2017年4月2日,CC BY-SA,中央区,昭和20年代まで(1926-1954), 大阪空襲,昭和10年生まれ,, 富田林の浄谷寺から、大阪の空襲が見えました。(夜のこと)飛行機が見え、パラパラと爆弾を落とし、30分くらいすると、火の手があがって明るくなりました。,, 『写真で見る大阪空襲』74-76ページに空襲年月日、時間、空襲機数、投下弾等、主な被災地域、被害状況を記した「大阪空襲と被害状況一覧表」を収録、特に被害の甚大だった8回の空襲の内、1945年3月13-14日の第1次空襲時は夜中の23時57分から3時25分まで274機が1733トンの焼夷弾を投下し、主な被災地域は浪速区、西区、南区、港区、大正区、東区、西成区、天王寺区と大阪市内の中心部でした。 『南区史 続』97ページには、「道頓堀や心斎橋筋、戎橋筋、千日前などの繁華街が、数時間で跡形もなく消え、ゴーストタウンになった。かろうじて焼け残った大きな建物としては、御堂筋では三百貨店、難波から千日前、道頓堀にかけては、大阪歌舞伎座、松竹座、戎橋筋北端の三笠屋ビル、大劇など。堺筋では、丸善石油ビル前身の日立館(元高島屋長堀店)などであった…」と記載されています。(2017.9.12 島之内図書館),『写真で見る大阪空襲』大阪空襲写真集編集委員会/編集 ピースおおさか 2011 書誌ID 0012287005|『南区史 続』大阪都市協会/編集 南区制一〇〇周年記念事業実行委員会 1982 書誌ID 0090010645,2017年4月2日,CC BY-SA,中央区,昭和20年代まで(1926-1954),戦争 高津小学校 2,昭和35年生まれ,, 昔の高津小学校は国立文楽劇場のある場所にあり、入口は東向きで校門にはサルビアのまっ赤な花が植えられていた。その花のあまい汁をすっていたのを覚えている。今の高津小学校より建築様式に風格がありよかった。また、新しい小学校のピロティーにつり輪があり休み時間によく遊んでいた。, 高津小学校, 『南区史 続』579ページ、国立文楽劇場の項目に「建設地には、文楽発祥地(旧高津入堀川の高津橋南詰め=高津町7番丁)に近い高津町3番丁の旧高津小学校跡が選ばれた」とあり、高津小学校の旧校舎跡地が国立文楽劇場の建設地になったことがわかります。 『こうず』10ページには、「大阪市は、「泉尾今里線(いずおいまざとせん)」-千日前通りともいう-のはばを、50mに広めることにきめました。その工事が完成したのは、大阪で万国博覧会が開かれた、昭和45年のことです。高津小学校が、古い校舎のあった場所(高津町3番丁)から現在の場所(高津町4番丁)に移転しなければならなかったのは、その工事で運動場がけずりとられてせまくなり、体育の授業や遊び、クラブ活動などにこまるからです。新しい校舎の建設工事がはじまったのは、昭和44年4月で、あくる年の昭和45年3月には、校舎が完成しました。」とあります。旧校舎については、『創立130周年記念誌大阪市立高津小学校』7ページに、校門を写した写真があり、校門を入って正面に花壇が設置されていたことが確認できます。他にも鉄筋校舎や旧講堂の写真も確認できます。新校舎については、『校地移転校舎落成創立98周年記念誌』13ページ、校内施設紹介として運動場ピロティーを写した写真があり、「低鉄棒、つり輪と体力をつけるための施設を十分設置して」と解説されています。(2017.12.14 島之内図書館),『南区史 続』大阪都市協会/編集 南区制一〇〇周年記念事業実行委員会 1982 書誌ID 0090010645|『こうず』大阪市立高津小学校 1972 書誌ID 0080191641|『創立130周年記念誌大阪市立高津小学校』大阪市立高津小学校 [2002] 書誌ID 0012201515|『[大阪市立高津小学校]校地移転校舎落成創立98周年記念誌』大阪市立高津小学校記念誌編集委員会 1970 書誌ID 0080249663,2017年11月15日,CC BY-SA,中央区,昭和30年-40年代(1955-1974), 高津神社,昭和28年生まれ,小学校1-5年生くらい, 子どもの頃、高津神社は私達の遊び場。梅に桜、夏にはセミがうるさく、でもとてものびのびあそべる場所でした。「こっちの階段(石段)降りたら縁切りやねんで」なんて、ませた事をと、今の年になると笑えます。その階段を下りてすこし行くと黒焼き屋さん(漢方薬店)があり、のぞきこんでは、ワーワー言っていたものです。今はすっかり変わってしまって、あのほんわかとした姿はなくなってしまいましたが、高津宮に行くと楽しい想い出がもどってきます。, 高津神社周辺, 高津神社の石段について『大阪市の旧街道と坂道』189ページには、「地蔵坂を下っていくと、高津神社の北裏側に出るが、それを南へ曲がると「高津神社西坂」(摂津名所図会大成)とよばれる石段がある。三下り半になっていたので「離縁坂」「三下り半坂」と俗称された。女性がこの坂道を嫌ったので、神社では明治中頃に階段をつけ替えたのが今の西坂である」と書かれています。 また高津の黒焼き屋は古より名高く、江戸時代後期に刊行された『摂津名所図会』にも絵入りで紹介されています。『大阪春秋 第2号』108ページには「高津西坂を下ると南側に名高い黒焼き屋がある。以前は鳥谷と津田の二軒が並んでいて“本家”と“元祖”をそれぞれ名乗っていたが、戦後は鳥谷市兵衛商店だけが復活している。創業正保元年(1644年)というから随分古い」とあります。上方落語には「いもりの黒焼き」という演目があり、『米朝ばなし』46ページには「いもりの黒焼きで有名な高津の黒焼き屋は、高津宮の南側、絵馬堂下の石段を降りてすぐの、南区瓦屋町五番丁に看板を掲げていた。四百年続いた老舗だったが、十二代目当主の鳥谷市兵衛さんが、五十四年一月、旅行先で急死、ついに廃業してしまった」と書かれています。 『大阪市全商工住宅案内図帳 南区 昭和34年版』『全商工住宅案内図帳 南区 昭和43年版』とも、瓦屋町5番丁、高津病院の北側に記載が確認できます。(2018.12.15 島之内図書館),『大阪市の旧街道と坂道 :増補再版』旧街道等調査委員会/編集 大阪市土木技術協会 1987 書誌ID 0000250661|『摂津名所図会 4下 大坂部』[秋里 籬嶌/著] [竹原春朝斎/図画] 田村九兵衛 1796 書誌ID 0000520512|『大阪春秋 通巻2号 幻の豪商・食家屋敷絵図 織田作之助・その人と文学 大阪商業の符牒』大阪春秋社 1974 書誌ID 0090012251|『米朝ばなし -上方落語地図-』桂米朝/著 毎日新聞社 1981 書誌ID 0070002919|『大阪市全商工住宅案内図帳 南区 昭和34年版』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011423904|『全商工住宅案内図帳 南区 [昭和43年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422738,2018年10月7日,CC BY-SA,中央区,昭和30年-40年代(1955-1974), 桃園公園、桃園小学校,昭和50年生まれ,, 桃園公園は昔、桃園小学校だった。私も弟も卒業生。, 桃園小学校, 『消えたわが母校-なにわの学校物語』では、78-81ページに桃園小学校が登場します。桃園小学校は明治6年から平成3年3月まで、117年の長い歴史を歩みますが、都心部における人口減のため閉校しました。『桃園-閉校記念誌-』30-46ページの学校の沿革史に、明治28年、東新瓦屋町(閉校時の地)に移転、とあります。同書には、ありし日の校舎や校内の写真も収録、校内には築山や藤棚、二宮金次郎の銅像もあったようです。 『角川日本地名大辞典 大阪府』で地名を確認すると、「東新瓦屋町(ひがししんかわらやまち)」は明治6-45年の町名、明治45年からは東賑町(ひがしにぎわいまち)と改称、「東賑町」は昭和57年安堂寺町1-2丁目・谷町6-9丁目となる、とあります。 新旧の住宅地図で対比してみると、桃園小学校の跡地は、桃園公園になっていることが確認できます。(2018.11.4 島之内図書館),『消えたわが母校 -なにわの学校物語-』赤塚康雄/著 柘植書房 1995 書誌ID 0000450881|『桃園 -閉校記念誌-』大阪市立桃園小学校「桃園教育を明日につなぐ!」記念事業委員会 1991 書誌ID 0000200185|『角川日本地名大辞典 27 大阪府』「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865,2018年10月13日,CC BY-SA,中央区,昭和50年-60年代(1975-1989),公園 中大江小学校、大阪空襲,昭和17年生まれ,昭和26-27年頃, 家の周囲には戦災による焼け跡がたくさんあり、夏には子どもの背丈より高い草が茂っていた。ジャングル開拓のように、草を刈って道を作り、刈った草で秘密基地を作って遊んだ。思わぬところに井戸があったので落ちないように注意が必要だった。, 中大江小学校下, 昭和20(1945)年、3月13日、6月7日の空襲により、中大江地区のほとんどの家は焼失しました。空襲後の校区の様子を『なかおおえ -創立130周年記念-』32ページ、『おおさか100年 -写真集-』370ページに掲載された写真で確認できます。 『大阪市戦災復興誌』446-485ページには、昭和20年10月5日に実施された戦災者・壕舎生活者調査が記載されており、戦後、東区(現中央区)壕舎(敵の襲撃に備えて地中につくった部屋)生活者の半数以上が井戸を利用していたことを確認できます。また、410ページに、焦土の中の一つ井戸の水を分かち合う写真が掲載されています。(2020.3.25 島之内図書館),『なかおおえ -創立130周年記念-』大阪市立中大江小学校 2003 書誌ID 0012242067|『おおさか100年 -写真集-』サンケイ新聞社 1987 書誌ID 0000185193|『大阪市戦災復興誌』大阪市役所 1958 書誌ID 0070051813,2020年2月25日,CC BY-SA,中央区,昭和20年代まで(1926-1954),戦争 大野川の堤防補修,昭和11(1936)年生?,小学5年生頃(昭和22(1947)年頃), 現在の西淀川区役所前の淀川通りは十三間通りと呼んでいたが、田んぼが広がっていてそこから土をとって大野川の堤防補修に使っていた。土をとった後は大きな池が3つできて、泳いだり魚をとったりできた。池は2年ほどはあったと思う。, 淀川通り 大野川," 淀川北岸線(淀川通)は、戦後の都市計画道路概要によると、幅19-25mとあります。1間(けん)はおよそ1.818mとすると10間から14間の幅となるでしょうか。淀川北岸線ができる前の思い出の記録に「車が走ると砂ぼこりが上ってました。土地も随分低くて、雨が降ったら水がたまって池みたいになってました。」とあります。大野川は、神崎川から分岐していた河川で延長2,227m、平均川幅40mでした。昭和初期の大野川では、洗濯をしたり、子ども達が泳いだり、魚釣りをしたりする風景がみられました。戦後、流域農地の宅地化と工場の増加、度重なる台風水害による破損等により、河川としての機能が年ごとに低下し、どぶ川化して悪臭を放つなど、公害発生源となったため埋立工事を実施、昭和54年8月には緑の遊歩道として大野川緑陰道路全線の完成をみました。(2016.12.28 西淀川図書館)",『丸善単位の辞典』二村隆夫/監修 丸善 2002 書誌ID 0010270546|『第2阪神国道西淀川土地区画整理事業事業誌』大阪市都市整備協会/編集 大阪市都市整備局 1988 書誌ID 0000274089|『西淀川区史』大阪都市協会/編集 西淀川区制七十周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000531056|『みんなの大野川緑陰道路』総合調査設計/編集 阪市西淀川区役所区民企画担当 2008 書誌ID 0011668086,2016年12月15日,CC BY-SA,西淀川区,昭和20年代まで(1926-1954),川 歌島中の校庭整備,,中学生頃(昭和24(1948)年頃), 兵庫県の武庫川の川原の砂を生徒たちみんなで袋につめて持って帰り歌島中学校校庭の整備に使用した。武庫川までは歩いて行った。, 歌島中学校 武庫川, 歌島中学校は、昭和22(1947)年4月24日に、野里小学校に併設、西淀川第三中学校として開校し、昭和24(1949)年には、大阪市立歌島中学校と校名を改称しました。新学制で発足した西淀川区の中学三校のなかでは最も条件の悪いなかからの出発でしたが、教員と生徒が力を合わせて整地作業にはげみ、ホームルームもクラブ活動も盛んに行われたといいます。武庫川は、丹波篠山盆地南部の白髪岳の谷間に源を発し、奈良時代の河口は現在のJR線付近であったようで、その後河川の運んできた土砂によって浅い海の堆積が進み、この堆積平野が近世に開拓されました。砂質であるため灌漑用水が得られにくく氾濫がくりかえされました。(2016.12.24 西淀川図書館),『西淀川区史』大阪都市協会/編集 西淀川区制七十周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000531056|『こころのふるさと・川』山本善稔/著 電気書院 2007 書誌ID 0011540489,2016年12月15日,CC BY-SA,西淀川区,昭和20年代まで(1926-1954), 馬力(ばりき),昭和11(1936)年生,小学生頃(昭和22(1947)年頃), 馬力(ばりき)と呼ばれる荷車をひいた馬が通っていた。学校の自由研究に、友だちとふたりで歌島橋の上で馬力が何台通るか調べたことがある。,, 馬力とは荷車を引く馬の力という意味で、転じて、荷物を積んで運ぶ馬車のことを言います。歌島橋は、中島水道に架かるコンクリート橋で大正15年に完成しました。現在は国道2号線そばの交通要所となっています。現在の国道2号線は 明治末期からしばらく大和田街道と呼ばれていて昭和初期の大和田街道を通る馬力の写真が、『西淀川区史』p.206、『西淀川今昔写真集』p.45に載っています。(2016.12.22 西淀川図書館),『日本国語大辞典 :第2版 第10巻』小学館国語辞典編集部/編集 小学館 2001年 書誌ID 0010154403|『角川日本地名大辞典 27 大阪府』「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983年 書誌ID 0000184865|『西淀川区史』大阪都市協会/編集 西淀川区制七十周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000531056|『西淀川今昔写真集』西淀川区制七十周年記念事業実行委員会 1995 書誌ID 0000486699,2016年12月15日,CC BY-SA,西淀川区,昭和20年代まで(1926-1954), 一夜官女,昭和11(1936)年生?,小学生頃(昭和22(1947)年頃), 野里神社の一夜官女祭で、友だちの家が当番になって男の人だけでお供えを作っていた。ナマズやフナのお供えもあった。, 野里住吉神社, 野里住吉神社では2月20日に大阪府指定文化財の一夜官女祭が行われます。江戸時代から近郷に知られ、摂津名所図会(寛政8(1796)年)をはじめ多くの文献にも紹介されています。地元の由来伝説は「昔、神社裏に大きな淵があり、そこに棲む大蛇が毎年のように里人を苦しめるので、人身御供として少女を差出した」というものでしたが、いつの頃からか、大蛇を退治したのが岩見重太郎だったという昔話に転化しました。この神事を行うにあたって、1年間の頭屋(当矢)役と神主役を決め、神饌は19日に男性の手で作られました。魚はコイ、フナ、ナマズなど川魚のみを使用するのが特徴です。(2016.12.20 西淀川図書館),『大阪春秋 通巻90号 西淀川』大阪春秋社 1998 書誌ID 0000665283 澤井浩一「一夜官女祭とその周辺」|『西淀川区史』大阪都市協会/編集 西淀川区制七十周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000531056|『野里誌』池永悦治/著 山治弥生会 1989 書誌ID 0070043763,2016年12月15日,CC BY-SA,西淀川区,昭和20年代まで(1926-1954), 野里神社,,小学生頃(昭和22(1947)年頃)から, 野里神社でよく遊んだが、かまきりやバッタなど虫もいろいろいた。かまきりの卵を家に持ち帰り夜にたくさんのかまきりが生まれてびっくりした。, 野里住吉神社, 野里住吉神社は、野里1-15にあります。永徳2(1383)年創建と伝えられ、祭神は住吉四神です。毎年2月20日には「一夜官女祭」が行われ、また市内では少なくなっただんじりが保存されています。現在の本殿は宝永3(1706)年に建てられたものです。大正時代には神社の拡張工事や整備事業が行われ、現在の境内地となりました。(2016.12.25 西淀川図書館),『西淀川区史』大阪都市協会/編集 西淀川区制七十周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000531056|『のざと -おもしろわがまち歴史ガイド-』野里まちづくりを推進する会事務局編集部/編集 野里まちづくりを推進する会 2007 書誌ID 0011795702,2016年12月15日,CC BY-SA,西淀川区,昭和20年代まで(1926-1954), 竹を使った遊び,昭和11(1936)年生?,小学生頃(昭和22(1947)年頃)から, 野里小学校時代、先生が高槻のお家から竹を持ってきて配ってくれたりして、竹がえしや竹とんぼを作って友だちと遊んだ。リンゴ箱(木製)に車をつけてトロッコあそびもした。,, 野里小学校は明治7(1974)年に、住吉神社の横にあるお寺(そのころは西勝寺、今の多聞寺)にあった西成郡第五区第六番野里小学にはじまり、昭和22(1947)年に大阪市立野里小学校と改称しました。 竹がえしは竹を割って竹べらを作り、竹べらを握って軽く上に投げあげ手の甲で受ける遊びで、いろいろな遊び方がありました。竹トンボには、羽根と芯棒が一体になって飛ぶものや羽根だけが飛ぶものなどあり、飛んでいる時間や距離を競って遊びました。トロッコの言葉の意味は、「工事現場で土砂・工材などを運ぶため、レール上を走る手押し車。トラックのなまり。」です。(2016.12.28 西淀川図書館),『野里 -創立八十周年記念誌-』大阪市立野里小学校 1999 書誌ID 0000811673|『こども遊び大全 -懐かしの昭和児童遊戯集-』遠藤ケイ/絵と文 新宿書房 1991 書誌ID 0000198384|『カタカナ・外来語/略語辞典 :全訂版』堀内克明/監修 自由国民社 1999 書誌ID 0000762710,2016年12月15日,CC BY-SA,西淀川区,昭和20年代まで(1926-1954),遊び 五右衛門風呂,昭和11(1936)年生?,小学生頃(昭和21(1946)年頃)から, 近くに野里温泉や八丁温泉などお風呂屋さんもあったが、自分の家には五右衛門風呂があり、薪を作って火を燃やすお手伝いは子どもの頃からした。魚が入っていたトロ箱や、もみがら、製材所のカンナくずなども利用した。五右衛門風呂はふたを沈めてうまくのらないと足が熱かった。,, 野里温泉は野里2丁目に八丁温泉は御幣島3丁目にあって、大阪府公衆浴場組合ホームページにも情報が載っています。銭湯の屋号は「○○湯」というのが一般的ですが、大阪に関しては「○○温泉」という屋号が多く、大阪の「温泉」の多くは天然温泉ではなく水道水を使った普通の風呂屋です。もともとは「薬湯」など効能があるとされる浴槽を持つ銭湯がそれをアピールして「温泉」と名乗ったのがはじまりとも言われています。なお、野里温泉は天然温泉が湧出し、2017年11月に「野里の湯」としてリニューアルしました。 五右衛門風呂は、かまどの上に釜をすえつけ、その上を板で囲って風呂おけにしたものです。底が鉄の釜でできているため、熱の伝わり方が早く燃料が少なくてすむので経済的でした。風呂全体が鉄釜のものは長州風呂と言いますが、これも五右衛門風呂の一種です。五右衛門風呂は鉄の底が熱くなるので、湯に底板を浮かべてそれをゆっくり沈めながら釜に触れないよう注意してはいりました。(2016.12.24 西淀川図書館),『大阪お風呂マップ -銭湯再発見!街角探検マップ- '96データ』大阪府公衆浴場業環境衛生同業組合 1996 書誌ID 0000576409|『なにわ銭湯いろはカルタ読本』ラッキー植松/著 福祉のひろば 2016 書誌ID 0014118457|『昔のくらし(ポプラディア情報館)』田中力/監修 ポプラ社 2005 書誌ID 0010950159|大阪府公衆浴場組合ホームページhttp://www.osaka268.com/ (2020年11月24日確認),2016年12月15日,CC BY-SA,西淀川区,昭和20年代まで(1926-1954), 闇米の買い出し,,小学生頃(昭和22(1947)年頃)から, 戦後、統制されていた米を入手するため母が着物と交換しようと高槻まで出かけていった。警察官が列車に乗り込んで来たりして、闇米ということで取り上げられた人もたくさんいた。高槻の他、三田の方へ行く人もいて、警察に見つかりそうになると列車の窓から外に投げ捨てることもあった。だから米を入れる袋は丈夫に作ってあった。, JR神戸線塚本駅, 西淀川区の東端を通る国鉄(現・JR神戸線)の塚本駅は、沿線の工業地区への発展が契機となり、昭和9年7月20日に設置されました。また、駅開設が、産業活動や地域の利便性の向上に役立ち、西淀川区の市街地化がすすみました。 また、戦後の食糧難は深刻を極め、大阪市内でも餓死者が続出しました。大阪市民は配給のほか、闇商人からの買い入れ、出身の郷里からの持ち帰り、農村への買い出しなどで食料を確保していました。(2016.12.25 西淀川図書館),『西淀川区史』大阪都市協会/編集 西淀川区制七十周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000531056|『新修大阪市史 第8巻 現代 1』新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1992 書誌ID 0000287252,2016年12月15日,CC BY-SA,西淀川区,昭和20年代まで(1926-1954),戦争 ジェーン台風,昭和11(1936)年生?,中学生頃(昭和25(1950)年頃), ジェーン台風がきて野里の自宅は床下まで水浸しになった。歌島中学校の校庭も水浸しだったが、友だちと走りまわって先生にしかられた。,, 昭和25年9月3日のジェーン台風では、区内のほとんどが浸水し、野里で約50cm、その他の地域では3.5mを超えたところもあり大きな被害を受けました。野里地区では中島大水道八十大橋上流附近から浸水しました。高潮がひいて大水道の水位が平常になると排水にかかりました。野里ポンプ場は6日夜送電を受けて運転を開始し9日には排水を完了しました。歌島中学校も1週間臨時休校になりました。(2016.12.17 西淀川図書館),『大阪市立歌島中学校創立50周年記念誌』大阪市立歌島中学校50周年記念事業委員会 1997 書誌ID 0000686125|『災害誌』西淀川区役所 1951 書誌ID 0080229741|『野里 -創立八十周年記念誌-』大阪市立野里小学校 1999 書誌ID 0000811673,2016年12月15日,CC BY-SA,西淀川区,昭和20年代まで(1926-1954),災害 疎開,昭和11(1936)年生,小学生頃(昭和20(1945)年頃), 大阪が空襲されるようになり箕面に何日か疎開してその後戦争が終わるまで半年程広島へ行った。徳島へ行く人もいた。戦争が終わって帰るとあまりにやせていて母と祖母が行かすんではなかったと嘆くほどだった。ちゃんと歩くこともできない友だちもいた。,, 昭和19(1944)年6月30日、国民学校初等科3年以上6年生までの学童を「縁故を中心とするが、それによれないものは集団疎開」させるという学童疎開促進要綱が決定されました。大阪市では、昭和19(1944)年7月時点で22万3600人が対象となり、縁故疎開53.4%、集団疎開29.5%、残留児童17.1%でした。西淀川区では昭和19(1944)年には、のべ4341人の児童が、四国の徳島県、香川県、大阪府三島郡に集団疎開しています。『大阪の学童疎開』には西淀川区の疎開先名称や児童数なども記載されています。西淀川区から学童疎開した人の思い出に、「空腹の思い出が先に立つ」「落ちていたみかんの皮を食べた」「部屋に保管してある高野豆腐や干いもを盗んで、ふとんの中でそのままかじったことも」など空腹でつらかったという記述があります。大阪空襲は昭和19(1944)年12月19日の現平野区への最初の爆撃から終戦前日の昭和20(1945)年8月14日までに約50回ありました。 死者・行方不明1万4800人、被災家屋約34万4000戸にのぼり市中は一面の廃墟と化しました。西淀川区は、昭和20(1945)年3月と6月に空襲を受けて、区内中央部から東部を中心に焼失しました。(2016.12.23 西淀川図書館),『西淀川区史』大阪都市協会/編集 西淀川区制七十周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000531056|『大阪の学童疎開』赤塚康雄/著 クリエイティブ21 1996 書誌ID 0000567375|『小豆島<草壁・安田>の学童集団疎開 -川北国民学校(大阪・西淀川区)の児童たち-』「学童集団疎開の記録」編集委員会/編集 小豆島九条の会 2010 書誌ID 0012209361|『徳島へ学童集団疎開50周年 思い出の記 -大阪市立野里国民学校-』市口正太郎/著 1994 書誌ID 0000412546,2016年12月15日,CC BY-SA,西淀川区,昭和20年代まで(1926-1954),戦争 御崎の「キャラメル公園」(敷津浦北児童遊園),昭和61(1986)年生,昨年(平成25(2013)年), 仕事中、カウンターで“キャラメル公園”に行きたいと子どもから問い合わせがあったのですが、正式名称ではなかったため、場所が、地図等ではわかりませんでした。 後ほど、質問者の友達が来館し、正式名称が“敷津浦児童遊園”ということがわかったのですが、なぜそう呼ぶのか、理由はわからないままでした。, 敷津浦。近くに幼稚園(保育園?)や駄菓子屋さん(フジパン?)があるとのことです。, 住之江図書館の窓口業務で仕事をされていた方からの思い出です。住宅地図を確認したのですが、敷津浦児童遊園という名前の公園は見つからず、敷津浦北児童遊園という公園があるのみでした。図書館に来館していた敷津浦小学校の児童に聞き取りをおこなったところ、この敷津浦北児童遊園が「キャラメル公園」であるとのこと。また、フジパンの駄菓子屋さんは同公園を少し南に下った宮原商店であることもわかりました。(2014.8.17 住之江図書館)【追加情報】 上記のことを知った朝日新聞が敷津浦小学校の児童に聞き取りをおこなったところによると、キャラメル公園の由来は、公園内に動物のキャラクターが多くあることによるとのことです。さらに、町内会の方によると、以前は「パンダ公園」とも呼ばれていたそうです。「思い出のこし」について取材をされた同新聞の記者からの情報提供です。(2015.4.28 住之江図書館) その後、上記の内容が記事になり、朝日新聞に掲載されました。(2015.5.28 住之江図書館),『ゼンリン住宅地図大阪市住之江区 [2013]』ゼンリン 2013 書誌ID 0012818409|『朝日新聞 2015年5月28日 朝刊 大阪』29面「愛称・思い出、データ保存 図書館司書男性、取り組み/大阪府」(商用データベース「聞蔵IIビジュアル -朝日新聞記事-」でご覧いただけます),2014年5月16日,CC BY-SA,住之江区,平成(1989-2019),公園 ニュートラム,昭和14(1939)年生,平成25(2013)年頃, 関東から大阪、住之江区に転入して一年たちました。初めてニュートラムに乗った時びっくりしました。運転手さんがいません。自動運転とのことでしたが、なぜか、オモチャ電車みたいにかんじました。, 南港ポートタウン線, ニュートラムは公募された愛称で、南港ポートタウンの建設にあわせて鉄道とバスの中間の輸送力をもつ中量軌道事業として敷設されました。昭和56(1981)年に中ふ頭‐住之江公園間が開業、さらに平成9(1997)年には中ふ頭‐コスモスクエア間の運営が大阪港トランスポートシステム(OTS)によって開始されました。その後、平成17(2005)年には中ふ頭‐コスモスクエア間の運営を大阪市交通局が担うようになり、全線が大阪市交通局によって運営されるようになりました。 思い出にあるとおり、ニュートラムの車両は自動運転装置で運行されており、車内には乗客が運輸指令所と直接会話できるインターホンや非常停止ボタンが備わっています。とはいえ運行当初から無人であったわけではなく、「システムが安定するまで」という理由で開業から平成3(1991)年までは添乗による監視つきで運行されていました。(2014.6.15 住之江図書館),大阪市営交通ウェブミュージアム「大阪市交通局|ニュートラム|ニュートラムの概要」大阪市交通局https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8727504/www.kotsu.city.osaka.lg.jp/enjoy/web_museum/newtram.html(2014年6月15日旧サイト確認、リンクは国立国会図書館WARP「大阪市交通局 ニュートラムの概要」)|大阪市営交通ウェブミュージアム「大阪市交通局|ニュートラム|ニュートラムの車両について」大阪市交通局https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8727504/www.kotsu.city.osaka.lg.jp/enjoy/web_museum/newtram/vehicle.html(2014年6月15日旧サイト確認、リンクは国立国会図書館WARP「大阪市交通局 ニュートラムの車両について」)|『大阪の地下鉄 ‐創業期から現在までの全車両・全路線を詳細解説‐』石本隆一/著 産調出版 1999 書誌ID 0000740271|『朝日新聞 1991年9月20日 夕刊 大阪』14面「「ニュートラム」、一部無人運転に 大阪市交通局」(商用データベース「聞蔵IIビジュアル -朝日新聞記事-」でご覧いただけます),2014年5月16日,CC BY-SA,住之江区,平成(1989-2019),鉄道 新北島東公園,平成12(2000)年生,小学生の時(図書館注 : 平成18(2006)-25(2013)年頃), 新北島東公園は「ヒガコウ」という略称で呼んでいました。,, 新北島東公園は北島の土地区画整理事業において建設されました。大阪市の都市公園一覧表によると昭和49(1974)年に開園とあります。一方、同地区の土地区画整理事業誌には、昭和46(1971)年に整備され、以後遊具や植栽の整備がすすめられたとあります。さらに同誌によると、昭和48(1973)年に施工者から管理者である大阪市公園局(当時)に引き継がれたとあります。 なお、新北島の地区内にある新北島西公園、新北島南公園には昭和52(1977)年に土地区画整理事業の一環として記念彫刻が設置されました。彫刻のテーマと制作者は公園ごとに異なり、東公園の彫刻は「輝く青春」をテーマにした、松本全晏(ぜんあん)氏によるものです。(2014.6.3 住之江図書館),大阪市ホームページ「大阪市都市公園一覧表」https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000372135.html(2020年11月27日確認)|『輝く明日のまちづくりを-北島 -北島土地区画整理事業の歩み-』大阪市都市整備協会/編集 大阪市建設局 1990 書誌ID 0000481172,2014年5月22日,CC BY-SA,住之江区,平成(1989-2019),公園 新北島中公園,平成12(2000)年生,小学生の時(図書館注 : 平成18(2006)-25(2013)年頃), 新北島中公園は「ナカコウ」という略称で呼んでいました。,, 新北島中公園は北島の土地区画整理事業において建設されました。大阪市の都市公園一覧表によると平成元(1989)年に開園とあります。一方、同地区の土地区画整理事業誌には、昭和63(1988)年の事業計画変更により設置されたとあります。(2014.6.3 住之江図書館),大阪市ホームページ「大阪市都市公園一覧表」https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000372135.html(2020年11月27日確認)|『輝く明日のまちづくりを-北島 -北島土地区画整理事業の歩み-』大阪市都市整備協会/編集 大阪市建設局 1990 書誌ID 0000481172,2014年5月22日,CC BY-SA,住之江区,平成(1989-2019),公園 平林の「永大産業」,昭和28(1953)年生,, 「永大産業」というハウスメーカーが平林の方にありました。小さな家が多かったと思います。,, 図書館職員による聞き書きです。住之江区平林南に本社をおく永大産業株式会社は昭和21(1946)年創業で、初めは合板の製造・販売を行っていました。後にプレハブ住宅事業を始め、経営を拡大し、ピーク時の昭和49(1974)年には売上高1500億円、従業員数3600人を誇りましたが昭和53(1978)年に倒産。負債は1800億円にのぼり「戦後最大級の倒産」といわれました。 その後、建材事業に集中し、平成19(2007)年に東証2部に再上場、さらに平成23(2011)年には東証1部への復帰を果たしています。(2014.7.12 住之江図書館),永大産業株式会社ホームページ「会社概要」http://www.eidai.com/profile/corporate/profile.html (2013年5月19日確認)|『躍進 永大産業株式会社二十五周年史』永大産業株式会社 1971(大阪府立中之島図書館所蔵)|『ドキュメント永大処分』グループ915/[著] 講談社 1978 書誌ID 0080009437|『箱の産業 -プレハブ住宅技術者たちの証言-』松村秀一・佐藤孝一・森田芳郎・江口亨・権藤智之/編著 彰国社 2013 書誌ID 0012836537|『日経ビジネス 2012年2月27日号』日経BP社 2012「渦中のひと 人 :吉永康長 永大産業社長の告白 倒産から33年越しの悲願」(商用データベース「日経BP記事検索サービス」でご覧いただけます),2014年6月13日,CC BY-SA,住之江区,昭和20年代まで(1926-1954)|昭和30年-40年代(1955-1974), 粉浜小学校近くの駄菓子屋,平成14(2002)年生,小学生5年生の時まで(図書館注 : 平成20(2008)-26(2014)年3月頃), 粉浜小学校の南西にある駄菓子屋さんですが、そこにいたおばあちゃんはいつも「腰痛い」とおっしゃっていました。,, 図書館職員による聞き書きです。住宅地図で場所を確認していただくと、粉浜2丁目にある「松下ショップ」というお店であることがわかりました。(2014.5.27 住之江図書館) 松下ショップを訪ね、お話を伺いました。お店の方によると、思い出のお店はこちらで間違いないとのことです。松下ショップは80年ほど前からタバコ店を営んでおられ、当時は日用品なども扱っておられたそうです。その後、ヤマザキパンのフランチャイズとなり、後に駄菓子店へと業態を変えてこられたとのことです。(2014.7.16 現地聞き取り / 2014.7.17 住之江図書館),『ゼンリン住宅地図大阪市住之江区 [2013]』ゼンリン 2013 書誌ID 0012818409,2014年5月27日,CC BY-SA,住之江区,平成(1989-2019), 「エバーグリーン住吉」の近くの公園,昭和52(1977)年生,小学生の時から(図書館注 : 昭和58(1983)-59(1984)年頃), 「エバーグリーン住吉」の南側の公園は、「タケノコ公園」と呼ばれ、さらに粉浜北公園とあわせて「エバコウ」と呼ばれていました。,, 図書館職員による聞き書きです。「エバーグリーン住吉」は粉浜西1丁目にあるマンションです。平成25(2013)年と平成8(1996)年の住宅地図を参照すると、ともに公園は逆L字型となっており、「タケノコ公園」の名はありません。平成25(2013)年のものでは南西側に伸びた部分に「粉浜北公園」と記されている一方、平成8(1996)年のものでは、北東側の部分に「杉の子公園」と記されています。おそらく「タケノコ公園」は、この「杉の子公園」の部分のことだと思われます。 また、大阪市が提供する「マップナビおおさか」では、ひとまとめで粉浜北公園と表示されています。 粉浜北公園は「都市公園一覧表」によると、昭和51(1976)年4月1日開園となっています。不動産情報サイトからエバーグリーン住吉の築年月をみると同じく昭和51年の6月(昭和52(1977)年4月としているサイトもあります)とありますので、エバーグリーン住吉とほぼ同じ時期に開設されたと考えることができます。(2014.6.10 住之江図書館),『ゼンリン住宅地図大阪市住之江区 [2013]』ゼンリン 2013 書誌ID 0012818409|『ゼンリン住宅地図大阪市住之江区 [1996]』ゼンリン 1995 書誌ID 0000528757|大阪市「マップナビおおさか」https://www.mapnavi.city.osaka.lg.jp/osakacity/Portal (2020年11月26日確認)|SUUMO物件ライブラリー「エバーグリーン住吉(大阪府大阪市住之江区の物件情報)」株式会社リクルートホールディングhttp://suumo.jp/library/tf_27/sc_27125/to_0001298861/ (2014年6月10日確認)|door賃貸「エバーグリーン住吉(大阪府大阪市住之江区の賃貸)」株式会社リブセンスhttp://chintai.door.ac/detail/free2686983.htm (2014年6月10日確認)|賃貸ネット「エバーグリーン住吉|玉出(3LDK)の賃貸マンション(大阪府大阪市住之江区粉浜西1丁目)」西成区、住之江区 賃貸ネット FC玉出店http://www.c-tamade.com/detail/1429575.html (2014年6月10日確認)|大阪市ホームページ「大阪市都市公園一覧表」https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000372135.html (2020年11月26日確認),2014年5月27日,CC BY-SA,住之江区,昭和50年-60年代(1975-1989),公園 粉浜東公園,平成14(2002)年生,平成26(2014)年, 北粉浜小学校の裏にある公園(粉浜東公園)は、同校の児童から「ウラコウ」と呼ばれています。,, 粉浜東公園は昭和59(1984)年開設。北粉浜小学校の南西側に隣接しています。昭和49(1974)年と平成25(2013)年の住宅地図を比較すると、北粉浜小学校の校地が南に広がっていることがわかります。北粉浜小学校のウェブサイトをみると、昭和58(1983)年3月22日の出来事として「南隣接地(関電社宅跡)を校地として受領」とあるのが確認できます。(2014.6.15 住之江図書館),大阪市ホームページ「大阪市都市公園一覧表」https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000372135.html (2020年11月26日確認)|『ゼンリン住宅地図大阪市住之江区 [2013]』ゼンリン 2013 書誌ID 0012818409|『大阪市精密住宅地図 住之江区 -全商工住宅案内図帳- [昭和49年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422853 (1974年刊の復刻)|大阪市立北粉浜小学校ホームページ「沿革」http://swa.city-osaka.ed.jp/swas/index.php?id=e721635&frame=enkaku (2014年6月15日確認),2014年5月27日,CC BY-SA,住之江区,平成(1989-2019),公園 住之江小学校の近くの駄菓子屋,平成15(2003)年生,平成26(2014)年, 「ヒロ」という駄菓子屋があります。近くの子ども(住之江小)がよく来ています。そこでお菓子を買って、住之江公園で遊ぶというパターンが多く、また、遠足のお菓子もそこでよく買っています。,, 図書館職員による聞き書きです。「ヒロ」という店については、住之江小学校と住之江公園、御崎東公園の周辺であると、投稿者からはうかがえたのですが、住宅地図ではヒロという名は「ギフトハウスヒロ」という店があるくらいで、地図上では駄菓子屋さんの表記がありませんでした。(2014.6.15 住之江図書館) 住宅地図上の「ギフトハウスヒロ」を実際に訪ねてみると、店内は駄菓子屋さんになっていました。店の方にお話を伺うと、昭和54(1979)年にお店を始められたらしく、当時はギフトショップを経営されていたとのこと。その後、近くの南稜中学校(平成5(1993)年閉校)の跡地に住之江小学校が移転(平成7(1995)年)してきたあたりから駄菓子店に業態を変えられたとのことです。昔、この店でよくお菓子を買った人がその後親になり、子どもを連れて来店されることもあるとのことでした。また、子どもたちが思い出としてこのお店をあげてくれたことを大変喜んでおられました。(2014.7.16 現地聞き取り / 2014.7.17 住之江図書館),『ゼンリン住宅地図大阪市住之江区 [2013]』ゼンリン 2013 書誌ID 0012818409,2014年5月28日,CC BY-SA,住之江区,平成(1989-2019), 国道26号線沿いの崖,昭和28(1953)年生,小学生くらいの頃, 国道26号線沿い、住吉商業高校の少し南東あたりは崖になっていた。,, 図書館職員による聞き書きです。該当の場所は国道26号線と阪神高速15号堺線の高架が交わる付近です。国道26号線は昭和10(1935)年に国道16号線として建設され、その後、昭和27(1952)年に26号線に改称されます。阪神高速15号堺線は国道26号線の混雑を緩和する目的で計画され、昭和45(1970)年に湊町‐翁橋町間が開通し、ついで高津町‐湊町間が昭和51(1976)年に完成し、全線開通しました。(2014.7.17 住之江図書館),『住吉区誌』住吉区役所/編集 住吉区分区十周年記念事業委員会 1953 書誌ID 0000244945|『住之江区史』大阪都市協会/編集 住之江区制十周年記念事業実行委員会 1985 書誌ID 0000253225,2014年6月1日,CC BY-SA,住之江区,昭和30年-40年代(1955-1974),道路 関電の池,昭和28(1953)年生,小学生くらいの頃, 吉田池の南西に「関電の池」と呼んでいた池がありました。その池の埋め立ての時、みんな網を持って、コイやウナギをとっていました。,, 図書館職員による聞き書きです。吉田池に関しては少ないながらもいくつかの資料に記載がみられるのですが、こちらの思い出にある池については、存在を確認できる資料が見つかりませんでした。吉田池について、住之江の昔話を集めた『住之江春なつあき冬』という本にはため池として掘った池だということが書かれており、『わたしたちの住之江区』という本には農業用水として活用されていたとあるので、この池も同じ目的で活用されていた池であるかもしれません。 なお、昭和40(1965)年の住宅地図をみてみたところ、吉田池の南西に関西電力株式会社の社宅のほか、合宿所もあったことが確認できます。これらの施設が池と関係があったのかどうかは不明です。(2014.7.2 住之江図書館),『住之江春なつあき冬』[大阪市]住之江区役所区民企画室・[大阪市]住之江区制三十周年記念事業実行委員会/編集 [大阪市]住之江区役所区民企画室 2004 書誌ID 0010836564|『わたしたちの住之江区』住之江区コミュニティ協会 1980 書誌ID 0080206013|『大阪市全商工住宅案内図帳 住吉区 -西部- 昭和40年版』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167527 (1965年刊の復刻),2014年6月1日,CC BY-SA,住之江区,昭和30年-40年代(1955-1974), 長堀川,昭和33(1958)年生,昭和40年代前半, 新町1丁目(当時は新町通2丁目)から中央図書館まで長堀川に沿って歩いて通いました。長堀川には材木が浮かんでいて、汚い川でした。川の横には柳の木が川に沿って植えられていて、トロリーバスが走っていました。(今の長堀通),堀江-新町, 長堀川は、かつて大阪市中央区と西区を西流していた堀川です。『角川日本地名大辞典 27 大阪府』874ページの「長堀川<大阪市>」の項には、「松屋町、末吉橋の南方で東横堀川から分岐し、船場と島之内の境界をなして西流、四ツ橋付近で西横堀川を合わせ、西区新町の南側を通って新町四丁目南西端で木津川に合流していた。西横堀川との合流点から下流を特に西長堀川と呼ぶこともあった。(中略)昭和39年に西横堀川との交差点より東側が大阪市の手で埋め立てられ、日本道路公団が地下2階の長堀駐車場を建設した。次いで、昭和45年には残りの部分も埋め立てられ、うち四ツ橋から白髪橋跡までの約850mは昭和48年、中央にグリーンベルトを持つ広い道路となった。」と記載されています。長堀川の埋め立て前の昭和36(1961)年の地図『大阪市区分詳細図 西区』には、「西長堀川」が確認できます。なお、中央図書館は、昭和36(1961)年11月1日に西区の現中央図書館と同じ場所に開館したため、この地図には記載されていません。また、長堀川の埋め立て後の昭和48(1973)年の地図『大阪市西区詳細図』には、西長堀川の代わりに、「グリーンプラザ」と記載のある道路が見られ、「中央図書館」が確認できます。 『今・むかし・未来 -川と西区-』4ページには、「貯木風景 西長堀川富田屋橋付近 昭和48年(1973年)4月写(西区役所所蔵)」として、西長堀川に材木が浮かんでいる写真が掲載されています。 『大阪史蹟辞典』96ページには、西区新町二丁目にある「大阪木材市売市場碑」について、「グリーンプラザ内にある。「元和末年の頃から諸国の木材が大量に大坂に集まるようになった。これを迅速に売捌くため、材木産地の土佐藩から幕府に願い出て、寛永初年(一六二五~二六)開削された立売堀川や西長堀川に木材の市場を開く許可を得た。これが木材市売市場のおこりである」と刻まれている。」と記載されています。また、『大阪の木場の歴史と余談雑談』15ページ「西区の木場 長堀川に問屋が集中」の項には、長堀川に架かっていた「四つ橋から白髪橋の間に、「材木問屋」が集中し、35軒ほどあり、「木材市場」「市売問屋」も数軒あった。」と記載されています。 『日本鉄道旅行地図帳 -全線・全駅・全廃線- 10号 大阪』の22ページには大阪市電(昭和34年7月現在)とトロリーバス(昭和38年現在)が併記された路線図が、23ページには昭和38(1968)年当時のトロリーバス系統図が掲載されています。系統図には系統8・9・10として、「四ツ橋、西大橋、白髪橋、西区役所前」の停留所が確認できます。42ページには「市営トロリーバス 玉船橋~今里 系統8・9・10」が昭和36(1961)年11月1日に開業、昭和44(1969)年9月1日に廃止されたことが記されています。(2019.03.24 中央図書館),"『角川日本地名大辞典 27 大阪府』「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865 p.874|『大阪市区分詳細図 西区』和楽路屋 1961 書誌ID 0000437535|『大阪市西区詳細図』日地出版 1973 書誌ID 0000438637|『今・むかし・未来 -川と西区-』西区役所 2007 書誌ID 0011366741 p.4|『大阪史蹟辞典』三善貞司/編 清文堂 1986 書誌ID 0000214926 p.96|『大阪の木場の歴史と余談雑談』川合義次/著 ドニエプル出版 2012 書誌ID 0012808375 p.15|『日本鉄道旅行地図帳 -全線・全駅・全廃線- 10号 大阪』今尾恵介/監修 新潮社 2009 書誌ID 0011815115 p.22,23,42",2017年3月9日,CC BY-SA,西区,昭和30年-40年代(1955-1974),川 大阪市立電気科学館,昭和31(1956)年生,昭和40年代前半, 四ツ橋の電気科学館には、下校後皆でよく遊びに行きました。プラネタリウムも見ました。入場料は50-100円くらいだったのでは?,堀江-新町, 『大阪市立電気科学館50年のあゆみ』の26-29ページには、「第四次電気館展示改装(昭.40)」「無線操縦ロボット「スター君」の製作展示(昭.41)」「開館30周年記念事業(昭.42)」など、昭和40年代前半の電気館の展示改装についての解説が掲載されています。74-75ページには、「ステレオコンサートと星と音楽のつどい(昭.34~38、昭.43~44)」「日曜映画会と春休み科学映画会(昭.38~・昭.40~)」「ロボット写生会と作品展示会(昭.42~49)」「写真撮影会(昭.43・44)」など、昭和40年代前半の電気館の事業についての概要が記されています。また、写真も掲載されています。 『[大阪市立]電気科学館だより』No.31号(昭和42.8.10)には、9月12日(火)から9月30日(土)に開催された「お月見」の割引料金表が掲載されています。表によると、電気館、プラネタリウム両方で、幼児30円、父兄60円と記載されています。 これらの資料からは、当時の電気科学館の様子がよくうかがえます。(2019.03.24 中央図書館),"『大阪市立電気科学館50年のあゆみ』大阪市立電気科学館/編集 大阪市立電気科学館 1987 書誌ID 0000371023 p.26-29,74-75|『[大阪市立]電気科学館だより 6号-209号』大阪市立電気科学館 1957-1983 書誌ID 0080313024 31号",2017年3月9日,CC BY-SA,西区,昭和30年-40年代(1955-1974), おばけやしき,昭和31(1956)年生,昭和40年代, 中央図書館の隣は、市大・家政学部の跡で、ガラスが割れていて「おばけやしき」みたいで怖かったです。,中央図書館, 大阪市立中央図書館は昭和36(1961)年、現在地の大阪市西区北堀江4丁目(開館当時の町名は北堀江御池通)に誕生しました。建設直前の地図にあたる『大阪市区分詳細図 西区』を見ると、中央図書館の敷地には「公園」と記されていますが、『図書館通信No.1』の1ページには、「市大家政学部グラウンド跡の用地に今着々と建設工事がすすめられている」と書かれており、この地は大阪市立大学のグランドとして使用されていた時期があったようです。 大阪市立大学家政学部は市立中央図書館が建設される前からこの敷地の北側に隣接して建設されていました。同学部は大阪市立女子専門学校を拡充強化したもので、昭和24(1949)年4月に開校しました。 『大阪市立大学要覧 昭和28年度』の104ページには「校地、校舎、建物」の項に総合運動場の所在地が西区北堀江御池通であったと記されています。また、『大阪市立大学10年の歩み』の48ページには家政学部の配置図があり、校舎の南側にグランドがあったことがわかります。その後、大阪市立大学家政学部は、昭和43(1968)年10月に住吉区杉本町に移転し、昭和50(1975)年には生活科学部と改称され、現在に続いています。 『大阪市全商工住宅案内図帳 西区 昭和44年』29ページには、「大阪市立大学家政学部児童相談室 大阪市立大学大学院家政学研究所」と記されており、昭和36(1961)年の大阪市立大学家政学部移転後も建物はしばらくの間、残されていたことがわかります。(2019.03.24 中央図書館),『大阪市区分詳細図 西区』和楽路屋 1961 書誌ID 0000437535|『図書館通信-大阪市立図書館報- No.1~58』大阪市立中央図書館 1960-1981 書誌ID 0012118683 No.1 p.1|『大阪市立大学要覧 昭和28年度』大阪市立大学事務局 書誌ID 0080215164 p.104|『大阪市立大学10年の歩み』大阪市立大学創立10周年記念誌編集委員会/編 大阪市立大学 1959 書誌ID 0080214997 p.48|『大阪市全商工住宅案内図帳 西区 昭和44年』住宅協会出版部 1969-1982 書誌ID 0080242226 合綴5冊|『大阪市立図書館50年史』大阪市立中央図書館 1972 書誌ID 0000372730|大阪市立図書館ホームページ>おおさか資料室>大阪に関するよくある質問「中央図書館の敷地の近くにはかつて何があったのか」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=muag9my7v-8993#_8993,2017年3月9日,CC BY-SA,西区,昭和30年-40年代(1955-1974), 土佐稲荷神社の花見,昭和31(1956)年生,昭和40年代, 毎年4月の始業式の後、土佐稲荷神社へ花見に行きました。,堀江-新町, 『OSAKA-JIN (大阪人) 2003年4月 / 57巻4号』の「春詠桜・さくら・サクラ名所」41ページに「土佐稲荷神社」が紹介されています。「明治維新の扉をこじあけた土佐藩ゆかりの社だ。(中略)明治の半ばには桜が植えられ、「土佐稲荷の桜」と呼ばれる桜の名所に。昭和二十年、空襲で社殿とともに桜も焼失したが、戦後、社殿が復興し、新たに植えられた桜もたくましく成長。今では風格漂う群桜が、都心に華やぎを醸し出す。」と記載されています。また、満開の桜の写真も掲載されています。 『OSAKA-JIN (大阪人) 2004年6月 / 58巻6号』の41ページには「桜の名所に浪花の名残あり 土佐稲荷神社」という記事と桜の写真が掲載されています。(2019.03.24 中央図書館),『OSAKA-JIN (大阪人) 2003年4月 / 57巻4号 桜』大阪都市協会 2003 書誌ID 5110484299 p.41|『OSAKA-JIN (大阪人) 2004年6月 / 58巻6号 堀江』大阪都市協会 2004 書誌ID 5110750520 p.41,2017年3月9日,CC BY-SA,西区,昭和30年-40年代(1955-1974), 道頓堀のネオン,昭和34(1959)年生,昭和40年頃, 茨住吉神社(いばらすみよしじんじゃ)の近くに自宅がありますが、夜になると物干しから道頓堀の赤や青のネオンが見えました。,堀江-新町, 『大阪史蹟辞典』43ページに、「茨住吉神社」の項があり、「寛永元年(1624)(中略)九条開発のときに産土神(うぶすながみ)として勧請し、往来の船の安全を祈った社である。当時は茨が多かったので茨住吉とつけたとか、菟原郡(うばらぐん)の住吉大神を分祀したので菟原が訛って茨になったとかいわれる。」とあります。また茨住吉神社は、江戸期の大坂の風景を描いた『浪花百景』にも描かれています。『浪花百景』は大阪市立図書館デジタルアーカイブで公開しています。 「赤い灯 青い灯 道頓堀の」と歌われた「道頓堀行進曲」は、昭和3(1928)年に発売されました。 『モダニズムのニッポン』の54ページには、「1930年代、ネオンサインが地方都市まで普及、盛り場や歓楽街の夜景を根底から変えた。その風情を人々は、「赤い灯 青い灯」という言葉に託すようになった。」とあります。『都市の誘惑 -東京と大阪-』105-136ページには、「都市の看板 東と西の魑魅魍魎」の章があり、ネオンサインを含めた看板広告の歴史について述べられています。119ページには「関西のネオン発展の歴史というのは、たぶん東京以上やったでしょう。それも道頓堀に集中していました。スポンサーが競って堀に沿ってネオンをつけたし、戦前からあそこではネオンサインのコンテストもしていました。」といった話も掲載され、「グリコ」や「かに道楽」の看板などについても触れられています。また『大阪市今昔写真集 西南部版 』の1-2ページには、昭和39(1964)年の戎橋付近のネオンのカラー写真が掲載されています。(2019.03.29 中央図書館),『大阪史蹟辞典』三善貞司/編 清文堂 1986 書誌ID 0000214926 p.43|『モダニズムのニッポン』橋爪紳也/著 角川学芸出版 2006.6 書誌ID 0011242550 p.54|『都市の誘惑 -東京と大阪-』佐々木幹郎/著 TBSブリタニカ 1993.12 書誌ID 0000368685 p.119|『大阪市今昔写真集 西南部版』石浜紅子/監修 樹林舎 2009.9 書誌ID 0011940572 p.1-2|大阪市立図書館デジタルアーカイブ「茨住吉 (浪花百景)」http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/detail?cls=ancient&pkey=p0134001,2018年3月25日,CC BY-SA,西区,昭和30年-40年代(1955-1974), みなと通り・本田・川口,昭和34(1959)年生,昭和40年頃, みなと通りには市電が走っていたので、子供の頃“電車道”と呼んでいました。 本田1丁目交差点から境川まで、多くの銀行が立ち並んでいました。 また川口には大きな中華料理店がいくつもありました。,堀江-新町, 明治36(1903)年3月、西区花園橋から築港埋立地まで築港大道路(現みなと通)が開通し、同じ花園橋-築港桟橋区間に、同年9月、大阪市電築港線が第一期線として開通しました。その後市電は市民の足として活躍しましたが、昭和35年以降は急速に乗客数が減り、昭和38年ごろから地下鉄網を整備し、市電は撤退する方針に転換していき、昭和44年ついに姿を消しました。 『大阪市電が走った街今昔』にはこれらの解説のほか、かつて市電が走っていたころの各停車場の新旧の写真があり、22ページには昭和43(1968)年の九条新道(花園橋)の写真も掲載されています。 『大阪市全商工住宅案内図帳 西区 昭和44年』を確認しますと、みなと通りには、富士銀行、神戸銀行、三菱銀行など、多くの銀行があったことがわかります(26ページ)。また、みなと通り沿いの川口、本田周辺には中華料理店が散見されます(7-8ページ)。この川口、本田は、明治に居留地及び雑居地があった地域で、中華料理店が多く見られるのは、そこに多くの中国人が居住したことに始まるようです。『大阪史蹟辞典』133ページ「川口居留地跡」の項には、「安政の条約にもとづいた川口町一帯に、外国人居留地が設けられ、やがて大阪開港によって大阪の文明開化に貢献した」とあり、「本田一帯は居留地に入らない欧米人や、未条約国の中国人が居住し、(中略)中国料理の専門店豊楽園は人気を集め」とあります。また『新・世界三大料理』の129ページには「関西では、明治維新とともに川口居留地(大阪市西区)に華僑が住み着くようになりました。その出身は山東省の人間が多く、その影響で今も大阪の老舗中華料理店には北京料理店が多いのです。」とあります。『アルチザン都市論』52ページには、「雑居地から生まれ、大正から昭和戦前期にかけて旧居留地地区を中心に最盛期を誇った「川口中華街」も、戦災ですっかり焼けてしまった。」とあり、53ページの「九条デルタ(川西)地区-大正後期から昭和初期(大大阪の時代)」の地図に「川口中華街」が記されています。(2020.3.27 中央図書館),"『大阪市電が走った街今昔 -水の都の路面電車定点対比-』辰巳博/著 福田静二/編 JTB 2000 書誌ID 0000836714 p.22|『大阪市全商工住宅案内図帳 西区 昭和44年』住宅協会出版部 1969-1982 書誌ID 0080242226 合綴5冊|『大阪史蹟辞典』三善貞司/編 清文堂 1986 書誌ID 0000214926 p.43|『新・世界三大料理 -和食はなぜ世界料理たりうるのか-』神山典士/著 中村勝宏/監修 山本豊/監修 辻芳樹/監修 PHP研究所 2014 書誌ID 0013215796|『アルチザン都市論 -都市の「周縁」と「装置」からの提言-』国本喜之/著 ブレーンセンター 1992 書誌ID 0000253072 p.52,53",2017年3月25日,CC BY-SA,西区,昭和30年-40年代(1955-1974),鉄道|道路 枕崎台風,昭和8(1933)年生まれ,昭和20年9月から12月, 昭和20年9月に枕崎台風が来ました。2日間水害に見舞われました。水が引いた後は大きな池になって魚が泳いでいました。九条商店街も約1ヶ月位水が引きませんでしたので、商店街の営業再開は12月でした。,西区、九条商店街, 『新修大阪市史 第8巻』の118ページには「ジェーン台風と復旧事業」の項目があり、昭和20年の枕崎台風の記述があります。同書によると「昭和二十年(一九四五)九月十八日、戦災によって大阪市民の多くはすでに家や家族を失っていたが、これに追い打ちをかけるように、台風が襲来した。枕崎台風である。(中略)被災状況は、家屋の床上浸水二万八○○○戸、床下浸水一万一○○○戸を数え、市域面積の四分の一を越える五三・○平方キロが浸水した」と記述があります。大阪市と大阪府は直ちに復旧工事に取り掛かります。 しかし、昭和25(1950)年9月3日にジェーン台風が大阪市域を襲い、戦後最大の被害をもたらします。この被害を契機にして西大阪地域の恒久的な高潮対策を確立が急務となります。 『写真集 -おおさか100年-』の334ページには「焼け跡を襲った台風」という港区の築港から東を撮影した写真が掲載されており、焼け野原が水びたしになった様子が分かります。(2019.3.28 中央図書館),『新修大阪市史 第8巻 現代 1』新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1992 書誌ID 0000287252 p.118|『写真集 -おおさか100年-』サンケイ新聞社 1987 書誌ID 0000185193 p.334,2017年6月26日,CC BY-SA,西区,昭和20年代まで(1926-1954),災害 うつぼ公園が飛行場だった,昭和37(1962)年生,戦前 昭和15年位, (祖父から聴いた話)うつぼ公園が飛行場で、プロペラ機で東京に2-3度出張で往来し、さつま堀北1丁目?2丁目に住んでいたので、伊丹空港より近く便利だったが、戦争となり軍用専用中心となり、1-2-3度の利用だったそうです。, 今でもうつぼ公園の東西の大きな道は滑走路だったと言われれば、すぐうなずいてしまう位わかりやすいですネ。, 『靭の歴史』103-105ページ「第十七章 復興への地元の努力と靭飛行場の返還」に、靭飛行場跡地に靭公園ができた経緯が以下のように詳しく記載されています。103ページには、「靭地区も、二十年三月空襲では、大部分が瓦礫と化し(中略)全滅状態であった。」「[昭和]二十二年八月には、靭地区の三万坪が(中略)進駐軍の常用飛行場として接収され、復興を阻害された上、地区民は日夜その爆音に悩まされることとなった。」、104ページには、「[昭和]二十七年六月二十五日をもって正式に連合軍より返還引き渡しを受け」、「靭飛行場跡の利用方途については、すでに二十一年九月四日戦災復興区画整理事業の公園として、また、翌二十二年一月十四日大阪都市計画公園の決定を見ていたが、(中略)進駐軍の小型飛行場として接収利用されていたため着工に至らなかった。そこで市では解除とともに直ちに工事に着手、以来三ヶ年の歳月と、工費七千三百十九万円を投じ、(中略)大阪市公園中の最大級のものとして三十年十月二十一日をもって完成した。」とあります。 『甦えるわが街 -戦災復興土地区画整理事業- 北地区・西地区・西淀川大和田地区・東淀川十三地区・城東鴫野地区』96ページには、「江戸堀工区の連合軍飛行場整備工事(昭和21年11月)」の写真が掲載されています。 『にっしー:もっと知りたい、わたしの地元「西区」 2013年11.12月/1号』21ページ「靭公園・番外編」には、靭飛行場が伊丹との連絡用空港で、進駐軍のセスナ機がたまに飛ぶ程度だった、という代々靭にお住まいの方による思い出が記されています。(2020.3.31 中央図書館),『靭の歴史』川端直正/著 野村修造 1974 書誌ID 0080169136 p.103-105|『甦えるわが街 -戦災復興土地区画整理事業- 北地区・西地区・西淀川大和田地区・東淀川十三地区・城東鴫野地区』大阪市都市整備協会/編集 大阪市建設局 1997 書誌ID 0000652214 p.96|『にっしー:もっと知りたい、わたしの地元「西区」 2013年11.12月/1号』140B/編集 大阪市西区 2013 書誌ID 5112935433 p.21,2019年9月14日,CC BY-SA,西区,昭和20年代まで(1926-1954),公園 ファミリーマート,平成元(1989)年生,2019, 年末に大阪市立中央図書館の南西にあったファミリーマートが閉店した。1月頃から解体工事が始まり、2月頃には更地になっていた。,北堀江, 『大阪市精密住宅地図 西区 [2004]』の28図にて所在地にあたる「西区北堀江4丁目5」を確認すると、「月極今井モータープール」となっています。 『ゼンリン住宅地図大阪市西区 [2004]』の18図にて所在地にあたる「西区北堀江4丁目5」を確認すると、「今井モータープール」となっています。 『ゼンリン住宅地図大阪市西区 [2005]』の18図にて所在地にあたる「西区北堀江4丁目5-2」を確認すると、「ファミリーマート北堀江四丁目店」となっています。 『ゼンリン住宅地図大阪市西区 [2019]』の18図にて所在地にあたる「西区北堀江4丁目5-2」を確認すると、「ファミリーマート北堀江四丁目店」となっています。(2019.3.24 中央図書館),『大阪市精密住宅地図 西区 [2004]』吉田地図 2004 書誌ID 0010768185|『ゼンリン住宅地図大阪市西区 [2004]』ゼンリン 2004 書誌ID 0010820543|『ゼンリン住宅地図大阪市西区 [2005]』ゼンリン 2005 書誌ID 001104665|『ゼンリン住宅地図大阪市西区 [2019]』ゼンリン 2019 書誌ID 0014714572,2019年2月29日,CC BY-SA,西区,平成(1989-2019), 平野区のボウリング場 1.ユニチカボウルヒラノ,昭和28(1953)年生,昭和48(1973)年頃, 平野区(旧東住吉区)にも多くのボウリング場がありました。1.ユニチカボウルヒラノ, 現在の平野宮町1丁目6番あたり(メガロコーポ平野 イズミヤ平野店付近)," 昭和46年の住宅地図で確認しました。 イズミヤ平野ショッピングセンターから空き地をはさんで「ユニチカボウルヒラノ」の記載がありました。まわりは空き地でしたが、昭和49年(東住吉区から平野区が分区した年)の地図では、北側の空き地に「ヒラノボウル」ができていて、南側の空き地には、ボウリング場専門駐車場が作られていました。この地域にはニチボー平野工場がありましたが、昭和44年に合併によりユニチカ株式会社が誕生し、同じ年に工場は閉鎖解体されました。なお、現在そこには大阪市立平野北中学校(昭和53年開校)があります。 昭和45年の朝日新聞の記事によると、この年全国でボウリング場が1,000を突破したとありますが、ブームのピークの昭和47年ごろには3,697に達していて、激増の様子が伺えます。大ブームの中で、平野区にも多くのボウリング場がつくられたようです。(2017.12.28 平野図書館)",『大阪市精密住宅地図 東住吉区 -東部- [昭和46年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422736 (1971年刊の復刻)|『[平野区住宅地図] -[商工住宅案内地図]- [昭和49年7月]』[商工通信] [1974] 書誌ID 0000822854|『平野区誌』平野区誌編集委員会/編 平野区誌刊行委員会 2005 書誌ID 0011041212|『昭和「娯楽の殿堂」の時代』三浦展/著 柏書房 2015 書誌ID 0013502912 p.83|『朝日新聞 1970年6月27日 朝刊 東京』「千を突破したボウリング場」(商用データベース「聞蔵IIビジュアル -朝日新聞記事-」でご覧いただけます),2016年11月25日,CC BY-SA,平野区,昭和30年-40年代(1955-1974), 平野区のボウリング場 2.平野文映ボウル,昭和28(1953)年生,昭和48(1973)年頃, 平野区(旧東住吉区)にも多くのボウリング場がありました。2.平野文映ボウル, 現在の加美西1丁目7番あたり(パチンコ&スロットKOMA付近), 昭和46年の住宅地図で確認しました。 「文映 ボウリング サウナ レストラン」とあり、当時の住所表示は加美橘町81-83番地でした。敷地の南西の角に駐車場がありました。 昭和49年(東住吉区から平野区が分区した年)の住宅地図でも、「平野文映ボーリングセンター」とあり、サウナとレストランも併設されていました。昭和60年の住宅地図では、南西の角の駐車場がパチンコ店となり、もとのボウリング場はなくなって、跡地がその店の駐車場になっていました。(2017.12.28 平野図書館),『大阪市全商工住宅案内図帳 東住吉区 -東部- 昭和39年版』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167550 (1964年刊の復刻)|『大阪市精密住宅地図 東住吉区 -東部- [昭和46年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422736 (1971年刊の復刻)|『[平野区住宅地図] -[商工住宅案内地図]- [昭和49年7月]』[商工通信] [1974] 書誌ID 0000822854|『大阪市精密住宅地図 平野区(北部) [1985]』吉田地図 1985 書誌ID 0000657493,2016年11月25日,CC BY-SA,平野区,昭和30年-40年代(1955-1974), 平野区のボウリング場 3.東住吉スバルボウル,昭和28(1953)年生,昭和48(1973)年頃, 平野区(旧東住吉区)にも多くのボウリング場がありました。3.東住吉スバルボウル, 現在の瓜破2丁目1番あたり(イオン喜連瓜破ショッピングセンター付近), 昭和46(1971)年の住宅地図で確認しました。 ジャスコ・ダイヤモンドシティ東住吉ショッピングセンター内に「スバル・ボウル」とあり、当時の住所表示は瓜破西佃町14番地でした。なおこの住宅地図の全ページ下部に「スバル・ボウル」の広告が掲載されていて、うたい文句は「パパもママもみんな揃って楽しいボーリング」でした。 ジャスコ・ダイヤモンドシティ東住吉ショッピングセンターは、毎日新聞の記事によると、昭和45(1970)年に開店しており、開店時にはすでにボウリング場が併設されていたのではないかと思われます。 昭和60(1985)年の住宅地図では、もうショッピングセンター内に「スバル・ボウル」は記載されていませんでした。(2017.12.28 平野図書館),『大阪市精密住宅地図 東住吉区 -東部- [昭和46年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422736 (1971年の復刻)|『大阪市精密住宅地図 -平野区(北部)- [1985]』吉田地図 1985 書誌ID 0000657493|『毎日新聞 2005年11月19日 朝刊 大阪』「イオン:閉鎖店跡地に新店舗「都市店の実験」」(商用データベース「毎索 -毎日新聞記事-」でご覧いただけます),2016年11月25日,CC BY-SA,平野区,昭和30年-40年代(1955-1974), 平野区のボウリング場 4.八尾空港ボウル,昭和28(1953)年生,昭和48(1973)年頃, 平野区(旧東住吉区)にも多くのボウリング場がありました。4.八尾空港ボウル, 現在の長吉六反3丁目20番あたり(ローソン付近), 昭和46年の住宅地図で確認しました。 「八尾空港ボール(原文ママ)」とあり、当時は長吉六反町273番地あたりで、地図から見ると広い敷地だったようです。すぐ南は八尾市で、八尾空港も近くにあります。昭和49年(東住吉区から平野区が分区した年)の住宅地図にも「八尾空港ボウル」とあり、「1Fレストラン 2Fビリヤード」と書かれていました。住所は長吉六反3丁目21番にあたるようです。 昭和60年の住宅地図では、ボウリング場はなくなっていて、跡地には多くの住宅が建てられていました。(2017.12.28 平野図書館),『大阪市精密住宅地図 東住吉区 -東部- [昭和46年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422736 (1971年の復刻)|『[平野区住宅地図] -[商工住宅案内地図]- [昭和49年7月]』[商工通信] [1974] 書誌ID 0000822854『大阪市精密住宅地図 -平野区(南部)- [1985]』吉田地図 1985 書誌ID 0000657505,2016年11月25日,CC BY-SA,平野区,昭和30年-40年代(1955-1974), 平野区の映画館,昭和15(1940)年生,1955-1965年くらい, 平野にも映画館が4-5館ありました。・洋画の映画館で「シェーン」を観ました。1・違う館では「野火」「金色夜叉」を観ました。2・又石原裕次郎の映画も観ました。3・東宝映画の館では大ファンの司葉子の映画を毎週観ました。4 中学生は50円でした。図書館注 : 上記1-4はそれぞれ個別の思い出として掲載しています。各詳細は、思い出「平野の映画館 1」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=mu4tu39mn-11302#_11302、思い出「平野の映画館 2」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=muzlo4fwt-11302#_11302、思い出「平野の映画館 3」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=mu92uv63p-11302#_11302、思い出「平野の映画館 4」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=muqh1286o-11302#_11302をご参照ください。, 図書館注 : 平野区の防災マップに4か所示したものを添えてくださっています, テレビが広く普及する以前の昭和30年代前半は、映画が庶民の娯楽として親しまれていました。『平野区誌』のp.285に「映画の隆盛」の項があり、当時平野地区にあった映画館として、平野弥生座、平野東映、平野名画劇場、文映、中央シネマの名前があがっています。同じ項に、昭和30年代前半の加美小学校の生徒を対象とした映画についての調査が取り上げられていて、どこの映画館に見に行くかについては、平野、加美、阿倍野、難波の順であったそうです。 映画料金については、中学生の料金は確認できませんでしたが、『物価の文化史事典 -明治/大正/昭和/平成-』によると、昭和30年の大人料金の全国平均が63円、封切館は130円、昭和35年で全国平均72円、封切館は200円でした。このころは一律の料金ではなかったようです。(2019.3.2 平野図書館),『平野区誌』平野区誌編集委員会/編 平野区誌刊行委員会 2005 書誌ID 0011041212|『物価の文化史事典 -明治/大正/昭和-』森永卓郎/監修 甲賀忠一+制作部委員会/編 展望舎 2008 書誌ID 0011693737,2016年11月18日,CC BY-SA,平野区,昭和30年-40年代(1955-1974), 平野区の映画館 1,昭和15(1940)年生,1955-1965年くらい, 平野にも映画館が4-5館ありました。・洋画の映画館で「シェーン」を観ました。1図書館注 : 映画館に関する思い出を個別に掲載しています。各詳細は、思い出「平野の映画館」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=mu5jrzyyw-11298#_11298、思い出「平野の映画館 2」、思い出平野の映画館 3」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=mu92uv63p-11302#_11302、思い出「平野の映画館 4」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=muqh1286o-11302#_11302をご参照ください。, 現在の平野本町三丁目付近(図書館注 : 平野区の防災マップに4か所示したものを添えてくださっています), 『大阪市全商工住宅案内図帳 東住吉区 -東部- 昭和39年度版』で確認しますと、当時も町名は同じで、平野本町三丁目に「中央シネマ」がありました。昭和36年発行『東住吉区史』第十章の三 娯楽機関の項に当時の映画館の一覧があり、「中央シネマ」は、「平野本町三の十八 洋画・番線外」(図書館注 : 番線外は再上映やニュース映画を主に扱っていた映画館)で、木造瓦葺二階の建物でした。明治39(1906)年に元々は浪曲等の興行を主とした「迷信亭」として開館されましたが、昭和22(1947)年に「中央シネマ」に改名し映画館となりました。旧名については、『平野郷』第二十章 生活と娯楽の項では「明進亭」となっています。また同書によりますと、昭和44(1969)年に廃館されました。(2019.3.2 平野図書館),『大阪市全商工住宅案内図帳 東住吉区 -東部- 昭和39年版』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167550 (1964年刊の復刻)|『東住吉区史』川端直正/編 東住吉区創設一五周年四カ村編入三周年記念事業委員会 1961 書誌ID 0000301758|『平野郷 -大阪市編入五十周年誌-』平野振興会 1980 書誌ID 0000244921,2016年11月18日,CC BY-SA,平野区,昭和30年-40年代(1955-1974), 平野区の映画館 2,昭和15(1940)年生,1955-1965年くらい, 平野にも映画館が4-5館ありました。・違う館では「野火」「金色夜叉」を観ました。2図書館注 : 映画館に関する思い出を個別に掲載しています。各詳細は、思い出「平野の映画館」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=mu5jrzyyw-11298#_11298、思い出「平野の映画館 1」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=mu4tu39mn-11302#_11302、思い出「平野の映画館 3」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=mu92uv63p-11302#_11302、思い出「平野の映画館 4」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=muqh1286o-11302#_11302をご参照ください。, 現在の加美西二丁目付近(図書館注 : 平野区の防災マップに4か所示したものを添えてくださっています), 『大阪市全商工住宅案内図帳 東住吉区 -東部- 昭和39年度版』で確認しますと、当時は加美旭町で、加美旭町五に「京町東映」がありました。『東住吉区史』第十章の三 娯楽機関の項に「京町映劇」(同住所「東映・番線外」)(図書館注 : 番線外は再上映やニュース映画を主に扱っていた映画館)があり、ここのことかと思われます。昭和29(1954)年に開館し、木造セメント瓦葺の建物でした。『加美村誌』p.263第二章村内各町の概況の旭町の項には、「本村で唯一の映画館京町映劇」として写真が掲載されています。(2019.3.2 平野図書館),『大阪市全商工住宅案内図帳 東住吉区 -東部- 昭和39年版』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167550 (1964年刊の復刻)|『東住吉区史』川端直正/編 東住吉区創設一五周年四カ村編入三周年記念事業委員会 1961 書誌ID 0000301758|『加美村誌』大阪市役所 1957 書誌ID 0070079037,2016年11月18日,CC BY-SA,平野区,昭和30年-40年代(1955-1974), 平野区の映画館 3,昭和15(1940)年生,1955-1965年くらい, 平野にも映画館が4-5館ありました。・又石原裕次郎の映画も観ました。3図書館注 : 映画館に関する思い出を個別に掲載しています。各詳細は、思い出「平野の映画館」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=mu5jrzyyw-11298#_11298、思い出「平野の映画館 1」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=mu4tu39mn-11302#_11302、思い出「平野の映画館 2」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=muzlo4fwt-11302#_11302、思い出「平野の映画館 4」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=muqh1286o-11302#_11302をご参照ください。, 現在の加美西一丁目付近(図書館注 : 平野区の防災マップに4か所示したものを添えてくださっています), 『大阪市全商工住宅案内図帳 東住吉区 -東部- 昭和39年度版』で確認しますと、当時は平野京町一丁目で、平野川沿いに「平野文映」がありました。『東住吉区史』第十章の三 娯楽機関の項に「文映」(平野京町一の八十五「日活・東宝・番線外」)(図書館注 : 番線外は再上映やニュース映画を主に扱っていた映画館)と記述され、昭和30(1955)年に開館し、木造セメント瓦葺の建物でした。昭和47年刊の『平野百年のあゆみ』p.30に、京町一丁目付近として「文映(会館)」の写真が掲載されています。また時代は新しくなりますが、『平野区誌』p.285に、昭和52(1977)年ごろの「文映」の写真が掲載されています。(2019.3.2 平野図書館),『大阪市全商工住宅案内図帳 東住吉区 -東部- 昭和39年版』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167550 (1964年刊の復刻)|『東住吉区史』川端直正/編 東住吉区創設一五周年四カ村編入三周年記念事業委員会 1961 書誌ID 0000301758|『平野百年のあゆみ』大阪市立平野小学校創立100周年記念誌編集委員会 1972 書誌ID 0000598710|『平野区誌』平野区誌編集委員会/編 平野区誌刊行委員会 2005 書誌ID 0011041212,2016年11月18日,CC BY-SA,平野区,昭和30年-40年代(1955-1974), 平野区の映画館 4,昭和15(1940)年生,1955-1965年くらい, 平野にも映画館が4-5館ありました。・東宝映画の館では大ファンの司葉子の映画を毎週観ました。4図書館注 : 映画館に関する思い出を個別に掲載しています。各詳細は、思い出「平野の映画館」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=mu5jrzyyw-11298#_11298、思い出「平野の映画館 1」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=mu4tu39mn-11302#_11302、思い出「平野の映画館 2」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=muzlo4fwt-11302#_11302、思い出「平野の映画館 3」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=mu92uv63p-11302#_11302をご参照ください。, 現在の平野本町四丁目付近(図書館注 : 平野区の防災マップに4か所示したものを添えてくださっています), 『大阪市全商工住宅案内図帳 東住吉区 -東部- 昭和39年度版』で確認しますと、当時は平野梅ヶ枝町五丁目で、「平野名画劇場」と「平野東映」が並んでありました。『東住吉区史』第十章の三 娯楽機関の項には、平野梅ヶ枝町五の四九の住所で「平野弥生座」(松竹、新東宝封切)と「平野東映」(東映封切)が記載されています。『平野郷』第二十章生活と娯楽の項には、「平野弥生座」は昭和2年に「平野館」として開館し昭和22(1947)年に弥生座となったとあり、また同所に「平野名画劇場」と「平野東映」が昭和31(1956)年に開館し、「三館軒を並べ映画街として賑わい…」(『平野郷』p.251より)と書かれています。『平野区誌』にも、戦前から続く老舗として「平野弥生座」の名前があがっていましたが、昭和39(1964)年の地図では確認できませんでした。 「平野名画劇場」について、『平野区誌』では東宝封切館と書かれていますので、投稿者が毎週通っておられたのは、おそらく「平野名画劇場」ではないかと思われます。(2019.3.2 平野図書館),『大阪市全商工住宅案内図帳 東住吉区 -東部- 昭和39年版』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167550 (1964年刊の復刻)|『東住吉区史』川端直正/編 東住吉区創設一五周年四カ村編入三周年記念事業委員会 1961 書誌ID 0000301758|『平野郷 -大阪市編入五十周年誌-』平野振興会 1980 書誌ID 0000244921|『平野区誌』平野区誌編集委員会/編 平野区誌刊行委員会 2005 書誌ID 0011041212,2016年11月18日,CC BY-SA,平野区,昭和30年-40年代(1955-1974), 松山公園,昭和16(1941)年生,昭和25年から35年ごろ, 今の平野公園は、昔松山公園と呼んでいました。そのころ、公園には大きな池があり、ボートも貸しボートがあり、親戚のおじさんにボートに乗せてもらいました。ゆったりといけの周りを進んだ時、気持ちもやさしくなりました。学校の帰り、松山公園の築山に登って、女の友達でしたが、スカートをたくしあげて登って、ふざけて楽しかったです。, 松山公園(現在の平野公園) 松山池 平野東2丁目, 平野公園は、公園の中にあった松山池にちなみ、戦前は松山公園とよばれていました。投稿にある「大きな池」はこの松山池で、かつての平野郷を囲んでいた環濠跡です。『おもろいで平野』のp.28に、昭和30年代の松山池でのボート遊びを写した写真が掲載されています。また『平野区誌』p.322にも、年代は不明ですが、同じくボート遊びの写真があります。 市民の憩いの場であった松山池ですが、昭和44年に竣工した公園の大改修の際にほとんど埋め立てられて姿を消しました。(2019.3.2 平野図書館),『平野区誌』平野区誌編集委員会/編 平野区誌刊行委員会 2005 書誌ID 0011041212|『おもろいで平野 -写真で見る大阪平野今昔-』平野の町づくりを考える会/編集 和泉書院 1995 書誌ID 0000484114|『平野百年のあゆみ』大阪市立平野小学校創立100周年記念誌編集委員会 1972 書誌ID 0000598710|『平野郷 -大阪市編入五十周年誌-』平野振興会 1980 書誌ID 0000244921,2016年10月22日,CC BY-SA,平野区,昭和20年代まで(1926-1954)|昭和30年-40年代(1955-1974),公園 平野川,昭和27(1952)年生,幼稚園のころ 昭和30年代の前半, 昔平野川でうなぎがとれました。, 平野川 積善橋周辺 平野北一丁目と加美正覚寺一丁目の境界付近, うなぎについては資料で確認できませんでしたが、『長二郎のなつかし昭和伝』p.70-71「さかなとり」の項で、平野川で魚とりをしたことが描かれています。また昭和30年代からの急速な工業の発展と、人口集中により、川が汚れ、魚が死滅したとも記されています。投稿者が幼稚園に通っておられた昭和30年前半は、まだ水質がきれいな状態を保っていたのかもしれません。 現在は下水道整備等により、平野川の水質も改善されつつあります。大阪市環境局の水環境保全グループによる「大阪市内河川魚類生息状況調査」(平成29年度)によりますと、汚濁した水質でも生きられる種が主ではありますが、コイ、ギンブナ、フナ、ボラ、オイカワなどが平野川で生息が確認されています。(2019.3.2 平野図書館),『長二郎のなつかし昭和伝』平野の町づくりを考える会 2010 書誌ID 0012492286|大阪市ホームページ 大阪市内の川にすむ魚(大阪市内河川魚類生息状況調査)https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11574260/www.city.osaka.lg.jp/kankyo/page/0000445202.html (2020年12月3日旧サイト確認、リンクは国立国会図書館WARP「大阪市内の川にすむ魚(大阪市内河川魚類生息状況調査)」),2016年12月13日,CC BY-SA,平野区,昭和30年-40年代(1955-1974),川 昭和32年ころ柏里児童館で遊んだ思い出,昭和22(1947)年生,小学4年生頃(昭和32(1957)年頃), 現在市営住宅9階建て他(3丁目)がたっている場所はその頃平屋と2階建ての木造住宅でした。そこを通り抜けると児童館の前の広場があり、学校から帰ると近所の友達みんなが集まり毎日野球をして遊んだものでした。その頃食べていたおやつは「はったいこ」でした。常に10人くらい集まって野球をしていました。今の子供たちはキャッチボールをする場所も少なくかわいそうだなと感じています。, 柏里3丁目。今もある柏里児童館(現在は名前が変わっているようです), 柏里児童館は正式名称を「西淀川児童館」といい、昭和24(1949)年1月に児童福祉法第40条に基づく児童館としては、大阪市で初めて設置されました。同年4月には、大阪市立西淀川児童館保育所も併設されました。西淀川児童館保育所は平成19(2007)年4月に市立柏里保育所と名称変更されました。西淀川児童館は平成18(2006)年3月末で廃止され、現在は乳幼児の親子を対象とする子育て支援施設「つどいの広場柏里」が市立柏里保育所内で運営されています。児童館開設当時の写真が『西淀川今昔写真集』(p.63)に掲載されています。また、当時の市営住宅の様子は『柏里 -創立50周年記念誌-』(p.41)に掲載があります。 ちなみに「はったいこ」は麦を煎ってからひいて粉にしたもので、そのまま食べたり砂糖とお湯を加えて練って食べたりします。(2017.7 西淀川図書館),『昭和大阪市史 続編 第8巻 付編』大阪市役所 1969 書誌ID 0070004819|『西淀川今昔写真集』西淀川区制七十周年記念事業実行委員会 1995 書誌ID 0000486699|『柏里 -創立50周年記念誌-』大阪市立柏里小学校 1974 書誌ID 0080191140|商用データベース「JapanKnowledge(ジャパンナレッジ)(事典・辞書等)」収録『デジタル大辞泉』「はったい」の項(2021年1月12日確認)|「大阪市公報 第5317号」(平成19(2007)年3月2日発行),2017年6月22日,CC BY-SA,西淀川区,昭和30年-40年代(1955-1974), エーデルワイスというケーキ,昭和26(1951)年生,昭和の終わり(1988年頃まで), 我が家の思い出のスイーツの味。塚本駅前にあった「エーデルワイス」のエーデルワイスというケーキです。うれしいことがあった日には必ずこのケーキを食べてささやかな幸せの味を今でも家族で集まると話に出てきます。 パイ生地とスポンジケーキが重なって間のカスタードが美味でとても良い味と食感が今でも忘れられません。少し食べにくいところが難点ですがそこを上品に食べる技も楽しみの一つでした。, 塚本駅前、現在ケンタッキーのある場所にエーデルワイスというケーキ屋さんがありました。今どこで買えるか知っている方は教えてください。, 昭和41(1966)年3月29日創業のエーデルワイスは、当初兵庫県尼崎市の立花商店街の外れにあった7坪の小さな店舗でした。創業者の比屋根毅氏によると、創業から半年間はお菓子が売れず、最後にありったけの材料で作ったお菓子を近所にただで配ったところ、「エーデルワイスのお菓子はおいしい」と口コミで評判が広がり遠方からも買いに来てくれるようになったそうです。その後も比屋根氏はヨーロッパで修業を重ね、その新しい技術を活かしたエーデルワイスのお菓子は売り上げを飛躍的に伸ばし、平成8(1996)年には150以上のフランチャイズ店舗を展開するようになりました。しかしフランチャイズ・システムでは納得できる本物のお菓子を提供できないという思いや、新しく作り上げたブランド「アンテノール」の成長が著しかったことなど経営上の判断もあり、平成14(2002)年にはブランド「エーデルワイス」のフランチャイズ店は全店閉店することになりました。なお、塚本駅前にあった「喫茶・洋菓子 エーデルワイス」は、柏里2丁目にある、塚本駅前林ビルの1階に出店していました。現在は、「ケンタッキーフライドチキン 塚本駅前店」が出店しています。 現在(株)エーデルワイスのホームページには「アンテノール」「ルビアン」などのブランドに並んで「エーデルワイス沖縄」の紹介があり、その商品としてケーキ「エーデルワイス」の写真も掲載されています。(2021.1.20 西淀川図書館),『仕事魂』比屋根毅/著 致知出版社 2006 書誌ID 0011221498|『人生無一事』比屋根毅/著 致知出版社 2016 書誌ID 0014172725|『大阪市精密住宅地図 西淀川区 [2001]』吉田地図 2001 書誌ID 0000851117|『ゼンリン住宅地図大阪市西淀川区 -大阪府- [2020]』ゼンリン 2020 書誌ID 0014872552|エーデルワイスホームページhttps://www.edelweiss.co.jp/about/ (2021年1月20日確認),2017年6月22日,CC BY-SA,西淀川区,昭和50年-60年代(1975-1989), 佃の宅地化,昭和53(1978)年生まれ,昭和60年頃から現在, 区内に住宅は殆ど無く、町工場や大工場ばかりでした。特に佃1丁目は小学校と5階建ての社宅より高い建物がありませんでしたが、佃の北端に15階を越えるマンションがコンクリート工場跡地に建てられました。それから10年ほど経ってから、鉄工所跡地にまた15階を越えるマンションが立てられました。これと前後して主に工場跡地に次々とマンションが建てられています。 このように工場や店舗が住宅に置き換えられて今の区内の姿となっています。昔は住宅を探すのが大変でしたが、今は数えるほどしか工場はありません。工場や店舗が多かった頃は神社の山車が一日で町内を回りきれないほどで、山車はそれぞれ「大だいこ」「小だいこ」と子どもたちの間で呼び親しまれ、夏祭りは大いににぎわったものです。, 区内全域 特に佃1丁目と2丁目, 佃1丁目の北端のマンションの敷地には、以前は大阪生コンクリート株式会社の佃工場がありました。昭和55(1980)年の国勢調査では、佃の人口は11933人でしたが、平成2(1990)年には、17283人とおよそ1.5倍に増えています。また、おなじく佃1丁目の田蓑神社の夏祭りは毎年7月31日と8月1日に開催され、「お神楽奉納」や佃の子どもたちによる「ふとん太鼓曳行」などがあります。(2018.8.15 西淀川図書館),『大阪市精密住宅地図 西淀川区 [1983]』吉田地図 1983 書誌ID 0000664534|『大阪市精密住宅地図 西淀川区 -大阪市全商工住宅案内図帳- 昭和58~62年』吉田地図 1983-1987 書誌ID 0000435959 合綴3冊|『昭和55年国勢調査による大阪市町丁目別人口』大阪市総合計画局企画部統計課 1981 書誌ID 0000466617|『町丁目別人口資料 平成2年国勢調査』大阪市計画局調整部統計課 1992 書誌ID 0000281947|宗教法人田蓑神社公式ホームページhttp://www.tamino-jinja.com/ (2018年6月7日確認),2018年3月20日,CC BY-SA,西淀川区,昭和50年-60年代(1975-1989)|平成(1989-2019), 旧西淀川図書館,昭和53(1978)年生まれ,1980年代前半から2005年頃, 区役所が新しくなりました。新しい区役所の中に図書館が併設されました。それまでの図書館は警察署の近くにあってよくクーラーが効いていました。冷たい水が飲めてクーラーが効いている誰でも入れる建物は図書館しかなく、本を読んだり借りたりする以外の目的で夏には毎日のように遊びに行ったものです。現在も旧図書館は健在で、ほぼ当時のまま使われています。, 旧図書館と現図書館(御幣島2丁目、1丁目), 西淀川図書館は、昭和47(1972)年7月に、西淀川公設市場の2階に開館しました。その後、平成17(2005)年5月に、西淀川区役所地下1階に移転しました。当館ホームページ「図書館のあゆみ(地域図書館の創設)」ページで旧西淀川図書館創設時の写真をご覧いただけます。 現在の蔵書数は約10万冊、年間およそ25万名の方にご利用いただいています。また、旧西淀川図書館があった場所は、現在1階はスーパーマーケットと薬局、2階は学習塾になっています。(2021.1.12 西淀川図書館),『大阪市立図書館年報 平成28年度(図書館通信 94)』大阪市立中央図書館 2017 書誌ID 0014354024|大阪市立図書館ホームページ「図書館のあゆみ(地域図書館の創設)」https://www.oml.city.osaka.lg.jp//?page_id=425#_1155,2018年3月20日,CC BY-SA,西淀川区,昭和50年-60年代(1975-1989)|平成(1989-2019),図書館 西淀川区の地盤,昭和53(1978)年生まれ,1970年代後半, 佃小学校の体育館が建て替えられました。それまで体育館とプールは別々でしたが体育館の屋上にプールが移されました。この体育館の建て替えは難工事となり、かなりの年月を要しました。佃は地下がすべて川になっており出水がひどかったのです。東西線の建設も同様の難工事となりましたが、元々大昔は梅田あたりが海岸で、淀川の土砂の堆積で現在の姿に近づいたといわれ、梅田より海岸寄りは地盤が緩い事で知られています。神戸の震災の時の西淀川区では震源地と同じ震度を記録したといわれています。, 佃小学校, 佃小学校の初代プールは、昭和18(1943)年に設置されました。その後、昭和46(1971)年に2代目プールが完成。昭和62(1987)年に、講堂兼体育館が完成し、屋上にプールが設置されました。 また、JR東西線は平成7(1995)年の開業を目指して昭和63(1988)年に工事が開始されましたが、工事中に地盤沈下などのトラブルがあり、予定より2年遅れの平成9(1997)年3月に開通しました。 平成7(1995)年の阪神淡路大震災では、西淀川区内の建物被害は大きく、全壊47棟、半壊916棟、一部損壊4621棟(平成9年1月31日現在)でした。中でも佃地区は、全壊43棟、半壊744棟、一部損壊4700棟(平成7年3月1日現在)と、区内の被害の大半を占めていました。西淀川区佃では、現地調査により、震度6と判定されました。(2018.8.3 西淀川図書館),"『西淀川区史』大阪都市協会/編集 西淀川区制七十周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000531056|『佃 -創立140周年<記念誌>-』大阪市立佃小学校140周年記念事業運営委員会 2013年 書誌ID 0014195112|『JR東西線(片福連絡線)』関西高速鉄道 [1997] 書誌ID 0000627988|『阪神・淡路大震災の記録』大阪市市民局 1997 書誌ID 0000607779|気象庁『気象庁技術報告第119号』「第2章 現地調査」(PDF形式,10.19MB)https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/1995_01_17_hyogonanbu/tech/119_02_survey.pdf",2018年3月20日,CC BY-SA,西淀川区,昭和50年-60年代(1975-1989), 佃のむかしのすがた,昭和53(1978)年生まれ,江戸時代以前から1970年頃まで, 西淀川区の佃は田んぼばかりだったといいます。現在の佃を南北に貫く道路は田畑しかなかった頃は運河だったそうです。田畑を埋め立てて工場等を造った時に運河を埋め立てて道路にしたとのことです。佃1丁目の一番北のマンション近くに南北に並ぶ道路は「北海道」と呼ばれていたそうです。 江戸時代に佃の住民が、将軍が神崎川をわたる手伝いをしたことから江戸に土地を与えられ、今の東京佃島になりました。大阪佃と東京佃島の小学校では、年に1度生徒がお互いの小学校へ行く交流会が行われていました。, 佃全域, 佃地区に工場が建ち始めたのは明治期で、大正昭和と増加し、昭和11(1936)年頃には新聞で「御幣島、大和田、佃、一帯の急速な工業化がいちだんとすすんだ」と報じられるほどでした。また、大正15(1926)年には、阪神国道(国道2号線)が完成しました。 また、天正14(1586)年、徳川家康が大阪住吉大社などに参拝の折、神崎川の渡船を勤めた縁が佃の漁民と家康との交流との始まりとされています。その後、家康が江戸幕府を開いてからは、佃の漁民は全国どこでも漁ができる許可を与えられました。また、江戸に土地を与えられ、大阪佃から17軒34人が移住し、東京佃島の始まりとなりました。その縁で東京佃島小学校と佃小学校では、昭和40(1965)年から交歓会が開催されており、現在も続いています。(2018.8.19 西淀川図書館),『佃史探求』八木一夫/編集 大阪佃史探求会 2003 書誌ID 0010625200|『竣工・開校130周年記念誌 佃』大阪市立佃小学校竣工・開校130周年記念事業運営委員会 2003 書誌ID 0010651006『大阪市立佃小学校中央区立佃島小学校交流50周年記念誌』中央区立佃島小学校 2015 書誌ID 0013522941『西淀川区史』大阪都市協会/編集 西淀川区制七十周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000531056,2018年3月20日,CC BY-SA,西淀川区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989), 南稜中学校と大和川高校,昭和28(1953)年生,中学が無くなった年月はわかりません。, 市立南稜中学校入学時、1年生の半数は分校(現住之江中学校)、残りの半数は本校(現住之江小学校)に通学していました。13クラスもあった学校が、いつのまにか小学校になっていました。だから現在、清江小学校と住之江小学校の敷地間は100mも離れていません。大和川高校も名前が変わってしまい、中学・高校共母校が無くなり、校歌も残らず、残念な気持ちです。,, 大阪市立南稜中学校は昭和22(1947)年に粉浜小学校の一部を借り受け、住吉第二中学校として開設されました。その後、大阪市立住吉商業高等学校の校舎を転用していた時期を経て、現在の住之江小学校のある場所に移転しました。その後、区内の加賀屋中学校の生徒数が過大となっていることを解消するためと、平林小学校の通学区域変更に伴って、住吉川小学校区と住之江小学校区を通学区とする新中学校を設置することになり、南稜中学校は平成5(1993)年に廃止され、あらたに真住中学校が開校しました。 住之江中学校は昭和39(1964)年に南稜中学校の分校として設置され、昭和48(1973)年に住之江中学校として独立開校しました。 大阪府立大和川高等学校は、住吉区苅田に昭和38(1963)年10月11日に創立しました。平成23(2011)年には大阪府教育センター附属高校に改編されています。(2014.6.22 住之江図書館),『住之江区史』大阪都市協会/編集 住之江区制十周年記念事業実行委員会 1985 書誌ID 0000253225|大阪市会会議録検索システム「平成5年3月定例会常任委員会(文教経済・通常予算) 」p.4(平成5(1993)年3月11日01号)(福岡教育長による説明)https://ssp.kaigiroku.net/tenant/cityosaka/SpTop.html (2020年12月4日確認)|『住吉区史』大阪都市協会/編集 住吉区制七十周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000624165|大阪府教育センター附属高校ホームページ「制服&校章」http://www.osaka-c.ed.jp/partner/top/04_uniform/ (2014年9月6日確認),2014年6月1日,CC BY-SA,住之江区|住吉区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989), 清江小学校の芝生,平成6(1994)年生,小学生の頃(図書館注 : 平成13(2001)-19(2007)年頃), 清江小学校創立の年に1年生でした。当時は芝生がなく、自分たちで苗(?)をまいたのを覚えています。芝生が生えたのは、5・6年生になってからでした。,, 大阪市立清江小学校は、付近の安立小学校、住之江小学校の児童数が多く、さらに将来の増加も見込まれていることから、平成12(2000)年に開校しました。同校のウェブサイトにある沿革には、平成16(2004)年に大阪府「校庭に緑のじゅうたんを!」モデル事業を活用しての運動場芝生化工事を開始したとあり、さらに学校・地域・保護者で「蒔き芝」を実施したとあります。(2015.8.16 住之江図書館) また、芝生の整備が完了した際、『毎日新聞』に記事が掲載されました。(2017.3.11 住之江図書館),大阪市立清江小学校ホームページ「沿革」http://swa.city-osaka.ed.jp/swas/index.php?id=e721644&frame=enkaku (2015年8月16日確認)|『毎日新聞 2004年9月2日 朝刊 大阪』23面「緑の校庭で新学期 府のモデル事業で芝生化 住之江区・清江小」(商用データベース「毎索 -毎日新聞記事-」でご覧いただけます),2014年6月1日,CC BY-SA,住之江区,平成(1989-2019), 吉田池の前の駄菓子屋,平成6(1994)年生,, 吉田池の前に駄菓子屋があって、吉田池で遊んでいる子どもがよく買い物をしていました。お店のことは“ヤマザキパン”と呼んでいました。,, 図書館職員による聞き書きです。吉田池は昭和55(1980)年には埋め立てられているのですが、跡地に整備された御崎南公園はその後も吉田池と呼ばれていたそうです(思い出「ヨシダイケ(御崎南公園)」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=muml8cs21-11290#_11290参照)。 住宅地図で確認したところ「ヤマト屋」というお店であることがわかりました。ヤマト屋さんの店先には赤い字でヤマザキパンの名前が入った黄色いテントが現在もかかっているところから、この愛称で呼ばれていたものと思われます。(2014.7.2 住之江図書館),『わたしたちの住之江区』住之江区コミュニティ協会 1980 書誌ID 0080206013|『ゼンリン住宅地図大阪市住之江区 [2013]』ゼンリン 2013 書誌ID 0012818409,2014年6月1日,CC BY-SA,住之江区,平成(1989-2019), ヨシダイケ(御崎南公園),平成6(1994)年生,, 吉田池の埋め立て地にできた公園は、後になっても「ヨシダイケ」と呼んでいました。,, 図書館職員による聞き書きです。吉田池に関しては埋め立ての時期などをはっきりと示す資料が見つかりませんでした。住之江の昔話を集めた『住之江春なつあき冬』という本には、ため池として掘った池だということ、生き物はコイやフナ、スッポンがいたこと、ボラがいなかったこと、池で泳ぐ人がおり死亡事故があったことなどが書かれています。また、子ども向けの資料として制作された『わたしたちの住之江区』には大阪市が所有する池であったこと、農業用水として活用されていたところ、周辺の人口が増え、畑地が無くなったため、子どもたちの遊び場として活用してほしいという働きかけのもと、公園として整備されたことが記されています。 大阪市の『都市公園一覧表』を参照してみると、跡地につくられた御崎南公園は昭和52年4月1日開設されたとあるため、埋め立てはそれ以前になると思われます。吉田池に関する思い出は他にもお寄せいただいています。思い出「吉田池(御崎南公園)」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=muhzqsuer-11290#_11290もご参照ください。(2014.6.24 住之江図書館),『住之江春なつあき冬』[大阪市]住之江区役所区民企画室 2004 書誌ID 0010836564|『わたしたちの住之江区』住之江区コミュニティ協会 1980 書誌ID 0080206013|大阪市ホームページ「大阪市都市公園一覧表」https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000372135.html (2020年11月26日確認),2014年6月1日,CC BY-SA,住之江区,平成(1989-2019),公園 住之江公園の遊具,平成6(1994)年生,, 住之江公園の遊具がもっとたくさんありました。大きい塔みたいなものが2つあったのですが、小学5年生くらいの時に変わってしまいました。, 住之江公園, 図書館職員による聞き書きです。投稿者が小学5年生くらいの時とすると、平成15(2003)年から平成17(2005)年の間と推定されますが、この時期(平成17(2005)年度)に住之江公園が改修工事を行っていたことが府議会の議事録で確認できます。改修工事の中身は昭和41(1966)年に設置された児童遊戯場の改修と防災設備の整備工事で、児童遊戯場の改修は幼児用遊具ゾーン、児童用遊具ゾーン、大人の健康増進ゾーン、保護者の休憩ゾーンの四つの整備をめざしたものでした。(2014.7.4 住之江図書館),大阪府議会 会議録検索システム「平成18年2月定例会土木建築常任委員会 」(平成18(2006)年3月14日01号)(亀山土木部副理事兼公園課長による説明)https://ssp.kaigiroku.net/tenant/prefosaka/pg/index.html (2020年12月4日確認),2014年6月4日,CC BY-SA,住之江区,平成(1989-2019),公園 吉田池(御崎南公園),昭和41(1966)年生,よくわからない, 御崎南公園は吉田池と呼ばれていて、池がありました。, ライフ御崎店の南側の公園, 図書館職員による聞き書きです。吉田池に関しては、埋め立ての時期などをはっきりと示す資料が見つかりませんでした。住之江の昔話を集めた『住之江春なつあき冬』という本には、ため池として掘った池だということ、生き物はコイやフナ、スッポンがいたこと、ボラがいなかったこと、池で泳ぐためよく死亡事故があったことなどが書かれています。また、子ども向けの資料として制作された『わたしたちの住之江区』には、吉田池が大阪市の所有する池であったこと、農業用水として活用されていたこと、周辺の人口が増え、畑地が無くなったため、子どもたちの遊び場として活用してほしいという働きかけのもと、公園として整備されたことが記されています。 吉田池については、思い出「ヨシダイケ(御崎南公園)」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=muml8cs21-11290#_11290もご参照ください。(2014.6.24 住之江図書館),『住之江春なつあき冬』[大阪市]住之江区役所区民企画室 2004 書誌ID 0010836564|『わたしたちの住之江区』住之江区コミュニティ協会 1980 書誌ID 0080206013,2014年6月4日,CC BY-SA,住之江区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989),公園 地下鉄住之江公園駅の駐車場,昭和41(1966)年生,15年くらい前, 地下鉄住之江公園辺りにすごく大きな駐車場があって、駅のまわりはまだ今のように沢山の店はありませんでした。, 現在のドン・キホーテ辺り, ドン・キホーテパウ住之江公園店は、平成15(2003)年に開店しました。同社の複合商業施設「パウ」の関西初出店になります。その前後の住宅地図を確認すると、平成14(2002)年の地図では同地が有料駐車場になっていることがわかります。時代をさかのぼると、この駐車場は昭和49(1974)年の地図でも確認できました。(2014.7.2 住之江図書館),"株式会社ドン・キホーテ「ドン・キホーテの複合商業施設「パウ」が関西に初出店!‘03年9月、大阪市に「パウ住之江公園」がオープン」(プレスリリース PDF形式,352KB)http://www.donki.com/b/pdf/030917_2.pdf (2014年7月2日確認)|『ゼンリン住宅地図大阪市住之江区 [2002]』ゼンリン 2002 書誌ID 0010436246|『ゼンリン住宅地図大阪市住之江区 [2004]』ゼンリン 2004 書誌ID 0010820545|『大阪市精密住宅地図 住之江区 -全商工住宅案内図帳- [昭和49年]』吉田地図 2007 書誌ID 0011422853 (1974年刊の復刻)",2014年6月4日,CC BY-SA,住之江区,平成(1989-2019), 関西電力の夏祭り,昭和41(1966)年生,平成12(2000)年ぐらい辺りまで, 子どもが小さい時、毎年夏になると関西電力で地域の人たちも一緒に参加できた夏祭りがありました。お菓子の詰め合わせをもらったり、出店を出してもらい、沢山遊ばせてもらいました。, 浜口西3丁目の関西電力, 『関西電力二十五年史』によると、浜口西3丁目にある大阪南関電ビルは昭和43(1968)年9月11日に起工式が行われ、翌年昭和44(1969)年11月13日に竣工しました。関西電力の大阪南支店は同月17日からこちらのビルで営業を始めています。(2014.7.2 住之江図書館),『関西電力二十五年史』二十五年史編集委員会/編 関西電力 1978 書誌ID 0080145505,2014年6月4日,CC BY-SA,住之江区,平成(1989-2019), 大和川河口のアオノリ取り,昭和9(1934)年生,昭和20(1945)年頃, 小学校の時、学校から大和川の河口にアオノリをとりに行くことになり、児童を募っていた。きれいなノリがとれた。,, 昭和28(1953)年に発行された『住吉区誌』には、当時の水産業に関する記述があり、主な魚種と漁獲高の記載がありますが、アオノリについては書かれていません。『住之江区史』をみると、南港の埋め立てに伴う漁業補償に関する記述の箇所に「旧敷津村の海岸ではノリがとれ大阪市内に販売された記録が明治後期まで残っている」とあります。さらに『敷津浦発展史』によると、明治36(1903)年に岩田平七という人物が木津河口から大和川尻の火薬庫辺りまでの沿岸に、ノリやアオノリの製造場を設けたとあります。(2014.7.11 住之江図書館),『住吉区誌』住吉区役所/編集 住吉区分区十周年記念事業委員会 1953 書誌ID 0000244945|『住之江区史』大阪都市協会/編集 住之江区制十周年記念事業実行委員会 1985 書誌ID 0000253225|『敷津浦発展史』川端直正/編集 大阪市立敷津浦小学校創立100周年記念事業委員会 1974 書誌ID 0070106593,2014年6月7日,CC BY-SA,住之江区,昭和20年代まで(1926-1954), 海上の家,昭和9(1934)年生,昭和38(1963)-昭和40(1965)年頃, 平林付近で「うきハウス」という名前の海上の家が売りに出ていた。,, 「うきハウス」について書かれている資料は残念ながら見つけることができませんでした。住之江区制30周年記念事業として出版された『住之江春なつあき冬』での対談において、「土地のない住宅といって、今試験的に作っているでしょう。ウォーターハウスですね」と、ウォーターハウスいう名前の家に言及している発言があります。本書は平成16(2004)年発行なので、思い出のものとは時代が異なる上に、関連のあるものなのかは不明ですが、参考情報として記しておきます。(2014.7.11 住之江図書館),『住之江春なつあき冬』[大阪市]住之江区役所区民企画室 2004 書誌ID 0010836564,2014年6月7日,CC BY-SA,住之江区,昭和30年-40年代(1955-1974), 南稜中学校の持久走のコース,昭和9(1934)年生,昭和38(1963)-昭和40(1965)年頃, 大和川南岸の新なにわ筋東側から26号線に向かい、北岸に渡って高崎神社まで走る、というコースが南稜中の持久走でした。, 南稜中学校, 図書館職員による聞き書きです。南稜中学校で教鞭をとられていた元先生による投稿です。南稜中学校は住之江区にかつてあった学校で、校地は現在の住之江小学校(住之江区御崎4-6-43)に当たります。本校は昭和22(1947)年に開設。当時は住吉第二中学校という名前で、2年後の昭和24(1949)年に南稜中学校と名乗ります。昭和39(1964)年には現在の住之江中学校(御崎8-1-6)の場所に分校が開設されました。本校は平成5(1993)年に廃校。その校区は現在の真住中学校に引き継がれました。分校は昭和48(1973)年に住之江中学校として独立開校します。(2014.7.11 住之江図書館),『住之江区史』大阪都市協会/編集 住之江区制十周年記念事業実行委員会 1985 書誌ID 0000253225|大阪市会会議録検索システム「平成5年3月定例会常任委員会(文教経済・通常予算) 」p.4(平成5(1993)年3月11日01号)(福岡教育長による説明)https://ssp.kaigiroku.net/tenant/cityosaka/SpTop.html (2020年12月4日確認),2014年6月7日,CC BY-SA,住之江区,昭和30年-40年代(1955-1974), 我孫子道駅前の3つの映画館,昭和28(1953)年生,, 我孫子道には、あびこ東映と日活系と松竹系の3つの映画館がありました。ただ、大映の作品もそのいずれかの館でみることができたと思います。,, 図書館職員による聞き書きです。我孫子道駅は、阪堺電気軌道阪堺線の停留場です。 昭和35(1960)年の『映画便覧』(『映画年鑑』の別冊)では「すみえ松竹」「あびこ東映」「あびこ松竹」の記載があり、いずれも所在地は住吉区墨江西と確認できます。大阪市立図書館に所蔵のある『映画便覧』は他に2冊、昭和38(1963)年発行のものと、昭和44(1969)年発行のものがあり、昭和38年には「あびこ東映」「あびこ松竹」の2館が確認できるものの、昭和44年には「あびこ映劇」(住所から、あびこ東映の名前が変わったものと思われます)のみとなります。(2014.7.11 住之江図書館),『映画便覧 1960年版』池田雄蔵/編 時事通信社 1960 書誌ID 0080277921 (映画年鑑 1960年版別冊)|『映画便覧 1963年版』時事通信社 1963 書誌ID 0080277923 (映画年鑑 1963年版別冊)|『映画便覧 1969年版』土子猛/編 時事通信社 1969 書誌ID 0080277924 (映画年鑑 1969年版別冊),2014年6月13日,CC BY-SA,住吉区,昭和30年-40年代(1955-1974), 長居公園でサッカー日本代表の試合がある日,昭和50(1975)年生 : 図書館職員,平成21(2009)年頃から平成23(2011)年頃まで、通勤で鶴ケ丘駅を利用していて気がついた。, 長居公園でサッカー日本代表の試合が行われる日は、周辺のコインパーキングや道路がとても混雑します。, 長居公園周辺," サッカー日本代表の試合が行われるのは長居陸上競技場で、約50,000人の収容が可能です。 長居陸上競技場は昭和39(1964)年、東京オリンピックのサッカー5・6位決定戦を行うために建設されました。建設にあたってのいきさつは「長居スタジアム誕生秘話」(『大阪人』2011年9月号)に詳しく書かれています。 日本サッカー協会のウェブサイトで確認できる平成21(2009)年から平成24(2012)年の長居陸上競技場で開催されたサッカー日本代表の試合日時と観客動員数は以下の通りです。2009年 5月27日19:35 日本代表4-0チリ代表 43531人2010年 4月 7日19:24 日本代表0-3セルビア代表 46270人2010年 9月 7日19:48 日本代表2-1グアテマラ代表 44541人2011年 3月29日19:26 SAMURAI BLUE(日本代表)2-1JリーグTEAM AS ONE 40613人2011年10月11日19:45 日本代表8-0タジキスタン代表 44688人2012年 2月24日19:24 日本代表3-1アイスランド代表 42579人(2013.4.23 住吉図書館)",『大阪人(OSAKA-JIN) 2011年9月号 / 65巻7号 旅する24区』大阪市都市工学情報センター 2011 書誌ID 5112335715 p.76-80 賀川浩「長居スタジアム誕生秘話」|日本サッカー協会ホームページ「日本代表 公式記録 2013年」https://www.jfa.jp/samuraiblue/schedule_result/2013.html (2020年12月6日確認),2013年4月20日,CC BY-SA,住吉区,平成(1989-2019),公園 長居公園でサッカー日本代表の試合がある日 2,昭和50(1975)年生 : 図書館職員,平成21(2009)年頃から平成23(2011)年頃まで、通勤で鶴ケ丘駅を利用していて気がついたことです。, 長居公園でサッカー日本代表の試合が行われる日、JR鶴ケ丘駅にあるコンビニでは、道路側と改札側にある入口の一方が閉鎖されます。, JR鶴ケ丘駅, JR鶴ケ丘駅(大阪市阿倍野区)は長居陸上競技場の最寄り駅で、道路と改札にそれぞれ面した形で入口があります。閉鎖されるのは改札側の入口で、店内の混雑を防ぐための措置と考えられます。 なお、鶴ケ丘駅については平成21(2009)年9月26日付『朝日新聞』夕刊に関連記事があります。(2013.5.12 住吉図書館),『朝日新聞 2009年9月26日 夕刊 大阪』1面「(ぷらっと沿線紀行 : 108)JR鶴ケ丘駅 ホームも本拠地」(商用データベース「聞蔵IIビジュアル -朝日新聞記事-」でご覧いただけます),2013年4月20日,CC BY-SA,住吉区,平成(1989-2019),鉄道|公園 テレビで見た帝塚山,昭和50(1975)年生 : 図書館職員,2013年の冬にみました。, NHKのテレビでラサール石井さんが住吉を訪れ、入江塾という塾のことを話題にしていました。, 帝塚山の特集だったと思います。, この番組は、NHK総合テレビ「えぇトコ」平成25(2013)年2月15日放送分の「チンチン電車でレトロモダンへ ~ラサール石井の大阪・帝塚山案内~」です。タレント・俳優のラサール石井氏と荒木美和氏(大阪放送局アナウンサー)、森一貫氏(関西外国語大学教授)の3人が帝塚山周辺を訪れる様子が放送されました。 入江塾(伸学社)は入江伸氏を塾長とする進学塾で、昭和57(1982)年の住宅地図では帝塚山東に所在を確認できます。朝日新聞では塾の閉鎖や、入江伸氏の訃報記事が掲載されているほか、ラサール石井氏のインタビューで入江塾でのエピソードが語られています。(2013.4.23 住吉図書館) また、入江伸氏には何点かの著書があり、そのうちの一冊『奇跡お入江塾方式』には、通信学習の出版社であった伸学社が学習塾となっていったいきさつなどが描かれています。(2013.5.12 住吉図書館),NHK大阪放送局ホームページ「番組情報|えぇトコ これまでの放送 2月15日放送 チンチン電車でレトロモダンへ ~ラサール石井の大阪・帝塚山案内~」http://www.nhk.or.jp/osaka/program/eetoko/past/0215.html (2013年4月23日確認)|『大阪市精密住宅地図 住吉区 -全商工住宅案内図帳- [1982]』吉田地図 1982 書誌ID 0011534965|『朝日新聞 1986年3月28日 朝刊』2面 「猛特訓で有名な入江塾が閉鎖へ 塾長が「いや気」」|『朝日新聞 2006年3月27日 夕刊』15面 「(惜別)高校進学塾「入江塾」塾頭・入江伸さん 常に問うた「学ぶ姿勢」」|『朝日新聞 1990年6月23日 朝刊』29面 「ラサール石井 コメディアン (私と先生 教育90)」(商用データベース「聞蔵IIビジュアル -朝日新聞記事-」でご覧いただけます)|『奇跡の入江塾方式 -学力急伸のカギ、自信をつける秘訣-』入江伸/著 祥伝社 1980 書誌ID 0000387021 (この他にも多数の著書があります),2013年4月20日,CC BY-SA,住吉区,平成(1989-2019), たこ焼き店「正ちゃん」,昭和50(1975)年生 : 図書館職員,この街に引っ越してきたのが平成16(2004)年頃で、その時からある店についてのことです。, 播磨町の交差点を南へ行ったところにたこ焼き屋さんがあります。最近、店舗を改装されたのですが、このお店は『ミーツ・リージョナル』という雑誌にも載ったことがありました。子どもたちが大好きで、お花見のシーズンなどは万代池の桜を見ながらよく食べました。, 播磨町の交差点を南に行き、いくつかの信号を越えたところにあります。, たこ焼き店の思い出です。雑誌『Meets Regional(ミーツリージョナル)』平成17(2005)年1月号に投稿と合致するたこ焼き店「正ちゃん」の記事が掲載されています(投稿者にも確認しています)。改装前の同店舗を撮影した写真が表紙に使用されているほか、2ページにわたって紹介されています。(2013.4.26 住吉図書館),『Meets Regional(ミーツリージョナル) 2005年1月号』京阪神エルマガジン 2005 書誌ID 5110879232 p.28-29 「とどめのたこ焼き 正ちゃん(よそとは違う、大阪の店)」(特集「大阪のええ店は、そこ=大阪にしかない。」),2013年4月20日,CC BY-SA,住吉区,平成(1989-2019), 三稜中学校裏の黒牛,昭和38(1963)年生,40年くらい前(図書館注 : 昭和48(1973)年あたりの出来事と推定します), 今、コインパーキングになっている(三稜中学校の裏手の)場所には、昔、黒い牛が飼われていました。, 三稜中学校の裏です。, 大阪市立三稜中学校の周辺は、住宅が多く立ち並ぶ地域になっています。思い出に書かれている場所は、平成25(2013)年現在、畑が残されている場所があるものの、牛が飼われていたことを思わせるような雰囲気は残っていません。 投稿者へ追加聞き取りを行いました。三稜中学校の東側にある、農家らしき場所で飼われていたとのことです。投稿者が幼い頃のことで、時々牛がモーと鳴くのでびっくりしたとのことです。(2013.4.23 住吉図書館) 大阪府発行の『大阪の農業 -大阪府農林業統計調査結果報告-』という資料をみると、住吉区で家畜を飼養していた農家の数と、飼養されていた家畜の数がわかります。それによると、昭和48年-52年まで、住吉区では2-3頭の牛が飼育されていたことが記されています(『大阪の農業』は昭和47年までは家畜頭羽数の統計がなく、昭和54年は区別の統計が掲載されていません)。(2013.4.26 住吉図書館) さらに、中学校裏の畑の方にお話をうかがいました。年代の特定はできませんでしたが、確かに昔、牛が1頭飼われていたとのことです。(2013.5.24 住吉図書館),『大阪の農業(大阪府農林業統計調査結果報告 1973)』大阪府企画部統計課 1974 書誌ID 0080216085|『大阪の農業(大阪府農林業統計調査結果報告 1974)』大阪府企画部統計課 1975 書誌ID 0080216088|『大阪の農業(大阪府農林業統計調査結果報告 1976)』大阪府企画部統計課 [1977] 書誌ID 0080171586|『大阪の農業 -大阪府農林業統計調査結果報告- 1977』大阪府企画部統計課 1978 書誌ID 0080173009,2013年4月23日,CC BY-SA,住吉区,昭和30年-40年代(1955-1974), 旧住吉図書館で受けた作家からの取材,元住吉図書館長,旧住吉図書館(遠里小野)が開館して6-10年目くらいの時期(図書館注 : 昭和63(1988)-平成4(1992)年くらいの時期), 遠里小野に住吉図書館があった頃、作家の今井美沙子氏から2回取材を受けたことがあります。その模様は理論社から刊行された「わたしの仕事」シリーズに収められているはずです。, 遠里小野の住吉図書館, 聞き書き。大阪市立図書館の元職員から、図書館職員が聞き取った情報です。 大阪市立住吉図書館は昭和57(1982)年10月1日、住吉区遠里小野1丁目に大阪市の17番目の図書館として開館しました。そのため、投稿の「開館後6-10年」は昭和63(1988)年-平成4(1992)年にあたります。 「わたしの仕事」シリーズは『週刊求人タイムズ』等に掲載された今井美沙子氏による職業紹介シリーズ。書籍化されたシリーズの9巻目に「図書館長」という職業で当時の住吉図書館長がとりあげられています。なお、本書には当時の住吉図書館の館内の写真が数点掲載されており、当時の様子をうかがうことができます。(2013.4.28 住吉図書館),『大阪市立図書館年報 昭和57年度(図書館通信 60)』大阪市立中央図書館 1983 書誌ID 0011955037|『わたしの仕事9 教える人学ぶ人』今井美沙子/著 理論社 1991 書誌ID 0000134704「図書館長 矢野明子」,2013年4月25日,CC BY-SA,住吉区,昭和50年-60年代(1975-1989)|平成(1989-2019),図書館 ミニコミ紙「かみがた市民情報」と旧住吉図書館,元住吉図書館長,旧住吉図書館(遠里小野)が開館して6-10年目くらいの時期(図書館注 : 昭和63(1988)-平成4(1992)年くらいの時期), 「上方情報」というミニコミ紙がありました。住吉図書館の情報などを載せてもらっていました。図書館で行っていた読書会のイベントである「散歩の会」などで、「上方情報」の編集の方がガイドをしてくださったこともあります。, 遠里小野の住吉図書館, 聞き書き。大阪市立図書館の元職員からの情報です。 大阪市立住吉図書館は昭和57(1982)年10月1日に住吉区遠里小野1丁目に、大阪市の17番目の図書館として開館しました。「開館後6-10年」は昭和63(1988)年-平成4(1992)年にあたります。(2013.4.28 住吉図書館) 投稿の「上方情報」は正しくは「かみがた市民情報」(「上方市民情報」)です。こちらの昭和63(1988)年11月号に、住吉図書館の読書会主催で、帝塚山界隈の文学散歩が実施されたという記事がありました。当時編集人をされていた林順一郎氏がガイドをされていたと書かれています。(2013.8.10 住吉図書館),『大阪市立図書館年報 昭和57年度(図書館通信 60)』大阪市立中央図書館 1983 書誌ID 0011955037|『かみがた市民情報 昭和63年11月号』上方市民情報社 「帝塚山周辺を文学散歩 住吉図書館・読書会が主催」,2013年4月25日,CC BY-SA,住吉区,昭和50年-60年代(1975-1989)|平成(1989-2019),図書館 旧住吉図書館が水浸しになった日,元住吉図書館長,旧住吉図書館(遠里小野)が開館して6-10年目くらいの時期(図書館注 : 昭和63(1988)-平成4(1992)年くらいの時期), 遠里小野に図書館があった頃の話です。近くを通る道路や電車から出たと思われる粉じんが建物の屋上に溜まり、雨どいが目詰まりを起こして、建物の2階に入っていた図書館が大雨の日に水浸しになったことがあります。, 遠里小野の住吉図書館, 聞き書き。大阪市立図書館の元職員からの情報です。 大阪市立住吉図書館は昭和57(1982)年10月1日に住吉区遠里小野1丁目に、大阪市の17番目の図書館として開館しました。「開館後6-10年」は昭和63(1988)年-平成4(1992)年にあたります。(2013.4.28 住吉図書館),『大阪市立図書館年報 昭和57年度(図書館通信 60)』大阪市立中央図書館 1983 書誌ID 0011955037,2013年4月25日,CC BY-SA,住吉区,昭和50年-60年代(1975-1989)|平成(1989-2019),図書館 我孫子観音周りは畑だった,昭和30(1955)年生,40年ほど前(図書館注 : 昭和48(1973)年頃と推定されます), 節分ごとに我孫子観音にお参りに行っています。周囲はすっかり住宅地になっていますが、40年ほど前は畑ばかりだった記憶があります。 あの畑には、大根その他に何を植えていたのか気になります。, 我孫子4丁目、5丁目、我孫子東2丁目あたり?, 我孫子付近は、平成25(2013)年の現在でも所々に畑が残っています。貸農園の看板がかかっている所であり、周辺の人々に親しまれているようです。 大阪府発行の『大阪の農業 -大阪府農林業統計調査結果報告-』という資料には、水稲や野菜など、代表的な作物ごとの農作物収穫面積が掲載されています。およそ40年前の1971年-1973年までの数値を参照すると、大根のほか、水稲、ネギ、ニンジン、ほうれん草、カブ、キャベツの収穫面積が多くを占めていることがわかります。(2013.4.26 住吉図書館),『大阪の農業(大阪府農林業統計調査結果報告 1971)』大阪府企画部統計課 [1971] 書誌ID 0080216082|『大阪の農業(大阪府農林業統計調査結果報告 1972)』大阪府企画部統計課 1972 書誌ID 0080216084|『大阪の農業(大阪府農林業統計調査結果報告 1973)』大阪府企画部統計課 1974 書誌ID 0080216085,2013年4月25日,CC BY-SA,住吉区,昭和30年-40年代(1955-1974), 中国の街頭で紙芝居、住吉在住鍼灸師,元住吉図書館長,旧住吉図書館(遠里小野)が開館して6-10年目くらいの時期(図書館注 : 昭和63(1988)-平成4(1992)年くらいの時期), 街頭紙芝居を中国に持ち込まれた方(整体師と名乗っていた)が、住吉に住んでおられました。,, 聞き書き。大阪市立図書館の元職員から、図書館職員が聞き取った情報です。 投稿者によると、この整体師さんの著書があるとのことです。 大阪市立住吉図書館は昭和57(1982)年10月1日に住吉区遠里小野1丁目に、大阪市の17番目の図書館として開館しました。「開館後6-10年」は昭和63(1988)年-平成4(1992)年にあたります。(2013.4.28 住吉図書館) 整体師の方と連絡を取り、お話をいただくことができました。整体師ではなく鍼灸師であり、お名前を鈴木常勝(すずき・つねかつ)氏とおっしゃられます(氏名公表については本人の承諾をいただきました)。平成25(2013)年現在も住吉区にお住まいで、岩波ジュニア新書などから著書を出しておられます。(2013.5.12 住吉図書館),『大阪市立図書館年報 昭和57年度(図書館通信 60)』大阪市立中央図書館 1983 書誌ID 0011955037|『紙芝居は楽しいぞ!』鈴木常勝/著 岩波書店 2007 書誌ID 0011412113|『戦争の時代ですよ! -若者たちと見る国策紙芝居の世界-』鈴木常勝/著 大修館書店 2009 書誌ID 0011871695 (他、鈴木常勝氏には多数の著書があります),2013年4月25日,CC BY-SA,住吉区,昭和50年-60年代(1975-1989)|平成(1989-2019), 旧住吉図書館で落語家事典の編さん者から聞いた話,元住吉図書館長,旧住吉図書館(遠里小野)が開館して6-10年目くらいの時期(図書館注 : 昭和63(1988)-平成4(1992)年くらいの時期), 遠里小野の図書館の近くに高名な落語家の墓があったそうです。落語家の事典(?)を編さんした方が墓誌を確認しにこられたことがあります。, 遠里小野にあった旧住吉図書館, 聞き書き。大阪市立図書館の元職員からの情報です。 大阪市立住吉図書館は昭和57(1982)年10月1日に住吉区遠里小野1丁目に、大阪市の17番目の図書館として開館しました。「開館後6-10年」は昭和63(1988)年-平成4(1992)年にあたります。 遠里小野の旧住吉図書館近くにあったという高名な落語家の墓については、『住吉区史』など周辺地域のことが書かれた本や、インターネットの情報などを確認しましたが、記述が見つかりませんでした。(2021.1.21 住吉図書館),『大阪市立図書館年報 昭和57年度(図書館通信 60)』大阪市立中央図書館 1983 書誌ID 0011955037,2013年4月25日,CC BY-SA,住吉区,昭和50年-60年代(1975-1989)|平成(1989-2019),図書館 雨の日の我孫子あたりはひどいぬかるみ,元住吉図書館長(同僚に聞いたお話とのこと),(50年くらい前)(図書館注 : 昭和38(1963)年ごろの出来事と推定します), 我孫子のあたりは、昔、雨が降ったら地面がひどくぬかるみました。, 我孫子周辺, 大阪市立図書館の元職員が、同僚から昔聞いたという情報です。「50年くらい前」という時期は、その同僚の年齢から投稿者が推定したものです。 投稿とは多少時代が異なりますが、昭和46(1971)年に大阪市土木局(当時)より発行された『舗装現況図』という資料があります。当時の大阪市内各区における舗装状況を記したもので、住吉区をみると、大部分がアスファルト舗装されているものの、防塵舗装(資料に解説がないので詳細は不明ですが、砂利道の路面を整えて砂ぼこりが立たない処理をした道路を指すと思われます)の道路や、未舗装の道路も一部に残っていたことがわかります。(2013.6.25 住吉図書館),『舗装現況図 昭和46年3月31日現在』大阪市土木局 1971 書誌ID 0000522019|『道路工学(土木教程選書)』石井一郎/共著 元田良孝/共著 鹿島出版会 1993 書誌ID 0000299331,2013年4月25日,CC BY-SA,住吉区,昭和30年-40年代(1955-1974), 隣のガレージで正月は羽根つき,昭和12(1937)年生,昭和33(1958)年頃, お正月になると必ず、二人の娘にせがまれて羽子板を持ち、羽つきをしました。家の隣のガレージで何時間もしました。負けたら、大方(私に)墨をつけて遊びました。,, 2013年現在、はねつき遊びをしている姿を見かけることはあまりないかもしれません。『国史大辞典』にも「第二次世界大戦後、遊びとしての羽根つきは衰退し、バドミントンにとってかわられるようになった。」と書かれています。 ただ、投稿にある昭和33年ごろはまだポピュラーな遊びであったらしく、住吉区ゆかりの作家である庄野潤三氏が娘さんに誘われて羽根つきをした時の模様を、昭和34年に発表したエッセイ「自分の羽根」に書かれています。(2013.4.28 住吉図書館),『国史大辞典 11』国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1990 書誌ID 0000199172 「羽子板」(商用データベース「JapanKnowledge(ジャパンナレッジ)(事典・辞書等)でご覧いただけます)|『自分の羽根 -庄野潤三随筆集-』庄野潤三/[著] 講談社 2006 書誌ID 0011204098 「自分の羽根」,2013年4月26日,CC BY-SA,住吉区,昭和30年-40年代(1955-1974), 粉浜駅から50mほどのドブ川と、川から100mほどの踏切,昭和12(1937)年生,昭和33(1958)年頃, 家の前、南海線の駅の東側の高架の下から50mくらいのところに小さな川がありました。ドブ川で汚かったけど、そのあたりには雑草がたくさん生えていて、田舎の感じがあり、通りながらつゆ草やヨモギをとりました。その100mくらいに南北に踏み切りがあり、電車が通るたびにチンチンと鳴っていました。,, 追加の聞き取りにより、投稿にある「南海線の駅」は粉浜駅であることが分かりました。 投稿にある小さな川については、詳しいことが分かりませんでした。南海線の高架化に関しては『鉄道ピクトリアル 2008年8月臨時増刊号』に詳しくかかれています。(2013.5.24 住吉図書館),『鉄道ピクトリアル 2008年8月臨時増刊号 / 第807号 特集 南海電気鉄道』鉄道図書刊行会 2008 書誌ID 5111773698 岡本和夫「南海の設備改良プロジェクトをめぐって」,2013年4月26日,CC BY-SA,住吉区,昭和30年-40年代(1955-1974),鉄道|川 敷津浦小学校の大和川水練,昭和28(1953)年生まれ,昭和33(1958)-昭和34(1959)年頃まで。(図書館注 : 投稿内容と生まれ年を考慮すると、少し年代のずれが生じます。昭和30年代初頭と考えるのが良いかもしれません), 安立小学校に通っていました。隣りの敷津浦小学校では、私の入学する3年くらい前まで、大和川をプール代わりに水練をしていました。 下流で泳ぐと泥などが流れてくるので、要領のよい子は上流で泳いでいたとのことです。, 旧国道26号線の橋から、現在の住之江図書館の西側にある大通りにかかる橋までの間, 図書館職員による聞き書きです。 追加の聞き取りにより、大和川大橋と阪堺大橋(新なにわ筋)の間、高砂神社の近くとの情報をいただきました。川にロープを張って泳いでいたとのこと。(2013.4.28 住吉図書館) 大和川は昭和30年代まで、川遊びができる川として親しまれていたようです。国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所のウェブサイトには、八尾市市政情報課からの提供物として大和川で川遊びをする子どもたちを撮影した写真が掲載されています。 また、平成17(2005)年3月11日の大阪市会における建設港湾委員会では、東住吉区選出の市会議員(昭和20(1945)年生)による「小さいころというのは非常に川が澄んでおって、水泳までしたことあるんですけども」という発言が記録されています。 しかし、その後の高度経済成長の影響で水質が悪化し、国土交通省(旧建設省)による全国の河川水質調査において最も水質の悪い川の一つに数えられるようになりました。 なお、国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所のウェブサイトには大和川の水質汚染に関する記述が簡潔に記されています。(2013.5.2 住吉図書館),国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所ホームページ「大和川の水質」https://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/environment/outline/water1.html (2013年5月2日確認)|大阪市会会議録検索システム「平成17年3月定例会常任委員会(建設港湾・通常予算) 03月11日-02号 」p.34坂井良和委員発言https://ssp.kaigiroku.net/tenant/cityosaka/SpTop.html (2020年10月22日確認),2013年4月28日,CC BY-SA,住之江区,昭和30年-40年代(1955-1974),川 十三間堀川の小動物,昭和28(1953)年生まれ,小学校低学年くらいの時、阪神高速ができるまではあった。(図書館注 : 投稿者の生まれ年と「小学校低学年くらいの時」という投稿から、昭和38年ぐらいまでの時期と推測します), 十三間堀川には昔、アカムシやミジンコが多く、蚊柱があちこちに立っていました。橋の下にはコウモリがいて、ツバメの巣も多くありました。, 今の阪神高速の住之江インターの高架下付近, 図書館職員による聞き書きです。 十三間堀川は「十三間川」「内川」「新堀」などと呼ばれた川です。元禄年間に開削された用水運河で、木津川と大和川の間を結んでいました。川名は、開削当初の川幅が十三間であったことにちなむとされています。ちなみに1間は6尺、約1.8メートルです。(2013.5.2 住吉図書館) 昭和47(1972)年に、約7.2kmの長さのうち5.5kmが埋め立てられました。思い出にあるとおり阪神高速15号堺線の高架下になり、残された部分も流れを失って水質が悪化していきました。そのため、十三間川の「せせらぎ」整備事業がすすめられました。大和川から汲みだして浄化した水を放流し、自然の石を多く用いた堰を設けるなど、環境の整備が図られています。(2013.5.25 住吉図書館),『日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1』平凡社 1986 書誌ID 0000156512 「十三間川」(商用データベース「JapanKnowledge(ジャパンナレッジ)(事典・辞書等)でご覧いただけます)|『大阪春秋 通巻19号 特集おおさかの橋と川』大阪春秋社 1979 書誌ID 0070052023 三浦行雄「十三間川の開削から埋立まで」|『ことば絵事典 -探検・発見授業で活躍する日本語2 単位・数え方・色・形のことば』江川清/監修 偕成社 2006 書誌ID 0011181281|『大阪の川 -都市河川の変遷-』「大阪の川」編集委員会/編著 大阪市土木技術協会 1995 書誌ID 0000546980|『大阪の橋』松村博/著 松籟社 1987 書誌ID 0000164468 「十三間川(じゅうさんげんがわ)の橋」,2013年4月28日,CC BY-SA,住之江区,昭和20年代まで(1926-1954)|昭和30年-40年代(1955-1974),川 万代池でザリガニ捕り,昭和27(1952)年生,兄弟(投稿者の弟)が小学生の頃だったので、40年-45年前頃(図書館注 : 昭和43(1968)年-昭和48(1973)年あたりかと思われます), セルビン(投稿者注 : プラスチックの魚をとる道具)をもって、万代池の池端でザリガニ捕りをした。兄弟がとっているのをみた。, 万代池, セルビンは川魚を採集する時に使用するプラスチック製の漁具で、中に餌を入れて魚を誘い込み捕まえるものです。『川魚の飼育と採集を楽しむための本』にはセルビンの使い方が詳しく解説されています。(2013.5.3 住吉図書館) 万代池は住吉区の北部にある池で、周囲は公園として整備され憩いの場となっています。 万代池の生物については、平成21(2009)年に大阪市立環境科学研究所が野外調査をおこなった記録があります。鳥類、水生動物、昆虫類の調査が行われ、鳥類26種、水生動物14種、昆虫類273種が確認されました。(2013.5.6 住吉図書館),『川魚の飼育と採集を楽しむための本』松沢陽士/写真・文 学研教育出版 2012 書誌ID 0012555887|『調査・研究年報 -大阪市立環境科学研究所報告- 第72集(平成21年度)』大阪市立環境科学研究所 2010 書誌ID 0012213807 p.75-81 山崎一夫 高倉耕一「大阪市万代池公園の動物相」,2013年5月2日,CC BY-SA,住吉区,昭和30年-40年代(1955-1974),公園 万代池のカキツバタ,昭和27(1952)年生,兄弟(投稿者の弟)が小学生の頃だったので、40年-45年前頃(図書館注 : 昭和43(1968)年-昭和48(1973)年あたりかと思われます), 昔の万代池にはカキツバタ(アヤメかもしれない)がたくさん咲いていました。のどかでした。, 万代池, カキツバタは住吉区の花として指定されています。大阪市のウェブサイトにある住吉区のホームページには、区の花としてカキツバタを紹介するページが設けられています。このページによると、住吉区周辺では万代池のほか、浅沢神社、浅香中央公園、細江川のせせらぎ、長居植物園(東住吉区)でカキツバタをみることができます。 平成22(2010)年には、万代池に社会福祉法人帝塚山福祉会からの寄付によるカキツバタのビオトープが完成しました。(2013.5.25 住吉図書館),"大阪市住吉区ホームページ「区の花」https://www.city.osaka.lg.jp/sumiyoshi/page/0000493798.html (2020年12月13日確認)|大阪市ホームページ 公園緑化普及啓発広報紙「ひふみ 平成22年6月号」p.2「雨にも負けず カキツバタ 万代池にビオトープが完成」(PDF形式,886.96KB)https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/cmsfiles/contents/0000009/9961/1006hihumi.pdf (2020年10月31日確認)",2013年5月2日,CC BY-SA,住吉区,昭和30年-40年代(1955-1974),公園 第一回大阪大空襲,昭和13年生まれ,昭和20年3月13日第一回大阪大空襲で自宅(浪速区塩草)が焼失し、2日2晩、臨港線(現在JR環状線)のガード下で野宿したときの思い出です。, 悲しい思い出です。昭和19年12月ごろから第二次世界大戦も激しくなり、本土取り分け大阪への敵機による夜間空襲が頻繁になりました。空襲警報のサイレンが鳴る都度、自宅の床下防空壕に避難し敵機から発せられる地響きするような爆音に、小便ちびる程の恐怖感を覚えました。そして遂に昭和20年3月13日未明、第一回大阪大空襲になり、浪速区のほぼ95%が焼失しました。当時私は塩草小学校の1年生で在学しておりました。 第一回大阪大空襲以前、浪速区桜川2-9-14に桜川キネマという映画館があり、よく父母に映画を観に連れていってもらいました。それが昭和20年3月13日の空襲で焼失しました。その折、戦火を逃れ館内に避難した多くの人々が犠牲になられました。映画館跡には現在桜川パークマンションが建っています。マンションの東南角には、平和地蔵が建立されています。その地蔵尊の背面には、「昭和20年3月13日戦災歿者各霊菩提のため昭和38年3月13日建立する」と刻されています。, 浪速区塩草3丁目 浪速区桜川2丁目9-14, 最初の大阪大空襲は、昭和20(1945)年3月13日の夜中11時57分から翌14日3時25分にかけて発生しました。北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草が目標地域とされ、274機のアメリカのB29爆撃機による爆撃で大火災が発生、おびただしい数の人々が死傷しました。『大阪大空襲 :改訂 -大阪が壊滅した日-』や『語り伝える空襲 -ビジュアルブック- 第4巻 逃げまどう市民たち』に詳しく記されています。また、当時の体験の記録として『大阪大空襲体験記』があり、『「大阪大空襲体験記」総目次・索引』には「大阪市戦災地図」が収録されています。 桜川キネマについては、『映画年鑑 昭和編1-9 昭和17年版』の「映画館録」の項に、大阪の浪速区映画館の一覧で、館名「桜川映画劇場(桜川キネマ)」住所「稲荷町2-922」興行主「城山音松」と掲載があり、同年鑑の昭和18年版でも「桜川映画劇場」で掲載され、昭和18年までの存在が確認することができます。また、住所「稲荷町2-922」は、『地番入大阪市図:増訂版』により、現在の桜川2丁目9-14付近であることが確認できます。(2018.12.2 浪速図書館),『大阪大空襲 :改訂 -大阪が壊滅した日-』小山仁示/著 東方出版 2018 書誌 ID 0014461850|『語り伝える空襲 -ビジュアルブック- 第4巻 逃げまどう市民たち』安斎育郎/文・監修 新日本出版社 2008 書誌 ID 0011697131|『「大阪大空襲体験記」総目次・索引 付・大阪空襲体験画一覧』大阪大空襲の体験を語る会/編 大阪空襲被災者運動資料研究会 2018 書誌 ID 0014541160|『映画年鑑 昭和編1-9 昭和17年版』日本図書センター 1994 書誌 ID 0000411897|『地番入大阪市図:増訂版』大阪市/著 和楽路屋 1938 書誌 ID 0080208463,2017年8月8日,CC BY-SA,浪速区,昭和20年代まで(1926-1954), 浪速東中学校,昭和18年生まれ,昭和30年-33年, 日本橋中学校は、昭和32年まで浪速東中学校と言っていました。現在の場所は分校で、本校は下寺3-17にあり、校舎はその後昭和40年代まで残っていたように思う。この分校も戦災者の仮住居となっていたようで、ようやく統一されたのが昭和33年ではなかったかと思う。 校庭も狭く、全学年が朝礼で集まったら、体操もやりにくかった様に思う。そのせいで運動会は、南海ホークスの中百舌鳥グランドまで行った。 帽章のところの白線は2筋であったように思う。, 浪速区下寺3-17 堺市中百舌鳥町, 『日本橋 -創立50周年記念誌-』と『学校要覧 昭和61年度』によると、日本橋中学校は昭和24年4月、浪速区逢坂下之町(現在の逢下公園)にあった旧逢坂国民学校の焼け残った一部の校舎を浪速第二中学校として開校、昭和26年6月2日に大阪市立浪速東中学校に改称しました。その後生徒が増えたことから、昭和29年7月16日に旧浪速津国民学校を分校とすることになりましたが、戦災で家を失った100世帯以上が仮設住宅として使用していたことから、昭和30年4月に居住者残留のまま、日本橋分校としてその一部の使用を開始しました。校舎の南に隣接する空き地(関谷公園グランド)が整地され、第2運動場として使用されたようです。昭和31年9月1日に大阪市立日本橋中学校に改称され、日本橋校舎が本校となり、逢坂校舎は分校になりました。分校は昭和33年3月に解消されています。 南海ホークスの中百舌鳥グラウンドは、『南海ホークス栄光の歴史 -1938-1988-』や『南海ホークスがあったころ -野球ファンとパ・リーグの文化史』によると、南海電鉄の開通50周年事業として南海線中百舌鳥駅近くに建設された総合運動場のことと考えられます。昭和10(1935)年に完成したテニスコートに次いで、昭和14(1939)年には野球場が建てられ、その後、陸上競技場、球戯場、体育館、クラブハウスなどが建設されました。球場では戦前を中心に33試合の公式戦が開催され、昭和25(1950)年に大阪球場が完成してからは、二軍の本拠地となりました。平成13(2001)年、老朽化のため閉鎖されています。 帽章の確認はできませんでした。(2018.11.29 浪速図書館),『日本橋 -創立50周年記念誌-』大阪市立日本橋中学校創立50周年記念誌編集委員会 1999 書誌 ID 0000831036|『学校要覧 昭和61年度』大阪市立日本橋中学校 [1986] 書誌 ID 0000726968|『南海ホークス栄光の歴史 -1938-1988-』ベースボール・マガジン社 2012 書誌 ID 0012600218|『南海ホークスがあったころ -野球ファンとパ・リーグの文化史』永井良和/著 河出書房新社 2010 書誌 ID 0012071046,2019年7月,CC BY-SA,浪速区,昭和30年-40年代(1955-1974), なくなった橋たち,昭和18年生まれ,昭和40年代のこと?, 雲井橋、愛染橋、名護(呉)橋、広田橋、増井橋(雲井橋の上手に2つ、広田橋の下手に3-4あったように思います。) 阪神高速環状線の建設と共に消えてしまって今はもう跡もない。,, 『大阪の橋』によると、これらは明治29(1896)年から明治31(1898)年の高津入堀川(いりぼりがわ)の延長部の開削に伴ってかけられた橋であることがわかります。 高津入堀川は、享保19(1734)年に高津新田を開発する目的で開削され、開削と同時に清津橋、吉田橋、末広橋、高津(たかつ)橋、福知橋、沖田橋の6つ橋がかかっていました。明治以降になると、それまで木津川河口方面から西高津方面へ至るには、道頓堀川をかなり迂回する必要があったこと、高津入堀川の泥水が停滞し衛生上の害があったことから、明治29(1896)年に高津入堀川と鼬川(いたちがわ)を結ぶ延長工事が実施され、明治31(1898)年に完成しました。大正時代中期には高津入堀川の延長部に12の橋がかけられ、その後昭和12(1937)年に雲井橋がかけられて13橋となっています。また、高津入堀川の既設部でも、大正12(1923)年に市電九条高津線の開通に伴い磐舟橋が新たにかけられ、7つの橋となっています。昭和32(1957)年発行の『浪速区史』第2編第1章土木工事の「橋梁」の項では、延長開削された高津入堀川の13の橋の名前が確認できます。既設部に近い方から順に、堀初(ほりぞめ)橋、深田橋、薗坪(そのつぼ)橋、雲井橋、愛染橋、増井橋、玉水橋、名呉橋、夕日橋、廣田橋、星池橋、高岸橋、船出橋となっています。 やがて市電の開通とともに、交通手段としての河川の価値が低下していったことや、戦後水質が劣化したことから昭和32(1957)年から昭和37(1962)年にかけて埋め立てられ、20あった橋も全て撤去されました。跡地は昭和42(1967)年に開通した阪神高速道路の敷地として使われています。(2018.12.5 浪速図書館),『大阪の橋』松村博/著 松籟社 1987 書誌ID 0000164468|『浪速区史』川端直正/編集 浪速区創設三十周年記念事業委員会 1957 書誌ID 0000246444|『大阪の川 -都市河川の変遷-』「大阪の川」編集委員会/編著 大阪市土木技術協会 1995 書誌ID 0000546980,2017年6月,CC BY-SA,浪速区,昭和30年-40年代(1955-1974),橋 消えてしまった町名,昭和18年生まれ,高度成長期に由緒ある町名のほとんどが消えていった。, 東・西円手町(えんてちょう)、東・西神田町、勘助町、北高岸町、貝柄町(かいがらちょう)、水崎町、東・西関谷町、東・西日東町、逢坂下之町(おうさかしものちょう)、河原町、反物町(たんものちょう)、馬淵町、宮津町、御蔵跡南之町(おくらあとみなみのちょう)、西入船町、鴎町(かもめちょう)、高津五番町, 浪速区全域, 浪速区では、昭和35年から42年に行われた戦災復興土地区画整理事業における町区域変更・町名変更により、また昭和55年の住居表示整備の実施により、古くから親しまれてきた多くの町の名前が変わっています。 貝柄町、東・西日東町、反物町、宮津町、御蔵跡南之町、高津五番町は、戦災復興土地区画整理事業の中で、その他の町は、住居表示整備の実施によって変更されました。 住居表示実施による変更については、『大阪の町名 -その歴史- 下巻』の浪速区の章に、町ごとの町域の変遷や町名の由来があり、「住居表示実施以前の町名一覧」や現在の町名と旧町名が比較できる地図からも確認することができます。また「町名・町域の沿革」の年表により大正10年以降の町名変更が実施された時期が確認できます。 この他『角川日本地名大辞典 27 大阪府』では、町名の詳しい変遷を調べることができます。(2018.12.8 浪速図書館),『大阪の町名 -その歴史- 下巻』大阪市市民局 1992 書誌ID 0010764328|『角川日本地名大辞典 27 大阪府』「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865,2017年6月,CC BY-SA,浪速区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989), わらべ歌,昭和18年生まれ,昭和30年-40年頃, 下駄かくし しゅうれんぼ 橋の下のネズミが ぞうりを喰えて チュッチュクチュ チュッチュクまんじゅは 誰がくた だれもくわない わしがくた おもてのかんばん 三味線や 三味線うれても猫うれぬ 裏から廻って三軒目, 浪速区全体, 『大阪のわらべ歌』の「5鬼遊び歌」の項に「下駄かくし<履物かくし>」の歌の歌詞と楽譜が収録されています。収録の歌は松原市天美西にて採録した歌詞のもので、投稿者の思い出と少し異なり、「チュッチュクまんじゅは誰が食た 誰も食わない わしが食た 表の看板 三味線屋 裏から回って 三軒め」とあります。また、解説部分には大阪市南区の例が紹介され、「表の…裏から回って三軒目、ひィふゥみィと、三つもどって当たったのを鬼とした。」とあります。 また、『大阪の民謡』には「履物かくし歌」の解説があり、全国各地に、履物かくし遊びの鬼決め歌があること、分類すると4系統あり、投稿者による「下駄隠し(履物かくし)」の歌はそのうちの1系統で、特に近畿地方以西で多いことがわかります。大阪府内各地で収録されたものとして『大阪わらべ歌』とほぼ同内容の歌詞も掲載されています。 この他、『わらべうたあそび2秋・冬・春』には「げたかくし」の楽譜と遊び方が記載されています。遊び方については、「くつを片方ずつぬいで一列に並べ、うたいながら、くつをひとつずつ順番にさわっていき、うたのおしまいにあたったくつの持ち主がおにになり、自分のくつをはいて目をつぶります。ほかの人はケンケンで自分のくつを運んでかくし、「もういいよ」でおにが探しにいく」とあります。 中央区の思い出「わらべうた」https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=mu5aq1d08-11293#_11293でも、同じ歌が紹介されています。昭和30年代には大阪市内の各場所で子どもたちが下駄隠しの遊びをしていたことがうかがわれます。 なお、「下駄隠しの歌」には様々な解釈や経過があります。詳しくは、参考文献をご参照ください。(2018.12.23 浪速図書館),『日本わらべ歌全集 16 大阪のわらべ歌』柳原書店 1980 書誌ID 0000253632|『大阪の民謡』右田伊佐雄/著 柳原書店 1978 書誌ID 0000187660|『わらべうたあそび 2 秋・冬・春』芸術教育研究所/編集 黎明書房 1997 書誌ID 0000625583|『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集 8号』愛知県立大学 2007 p.59-81 墨功恵「わらべ歌考察 : 全国の「草履隠し歌」」https://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=crossref&lang=ja&id=info:doi/10.15088/00000295 (2021年2月20日確認)|京都産業大学ホームページ 灘本昌久「わらべ歌と差別」(乳幼児発達研究所『はらっぱ』一六一号)https://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/199301.htm (2021年2月20日確認)|『盛田嘉徳部落問題選集』部落解放研究所/編 部落解放研究所 1982 書誌ID 0080185614,2017年6月,CC BY-SA,浪速区,昭和30年-40年代(1955-1974),戦争 大阪管区気象台,昭和15(1940)年生,昭和25-27(1950-1952)年頃, 御勝山南公園は大阪管区気象台でした。, 御勝山南公園, 昭和43(1968)年まで、現在の御勝山南公園の場所に大阪管区気象台がありました。 北区堂島浜通2丁目にあった大阪測候所が明治42(1909)年7月31日の北の大火で焼失し、翌年に西区一條通2丁目に移転しましたが、地盤が悪く地震観測に適さないので、昭和4(1929)年に地震観測室のみ大阪府立農学校跡地(生野区勝山通九丁目、御勝山古墳付近、その当時は東成区)に移転されました。その後、昭和8(1933)年に地震観測所構内に鉄筋コンクリート造の本建築の庁舎が建設され、当時の大阪府立大阪測候所はここに移転しました。昭和13(1938)年7月に国営に移管され、中央気象台大阪支台となり、翌年11月に大阪管区気象台と改称されました。 昭和43(1968)年8月に、中央区の大阪合同庁舎に移転し、跡地は御勝山南公園となりました。(2020.12.12 生野図書館),『郷土誌生野 第8号』郷土誌生野刊行会 1984 書誌ID 0090011434 (創刊号-12号合本)|『生野区誌』生野区創設十周年記念事業実施委員会/編輯 大阪市生野区役所 1953 書誌ID 0000244943|『大阪の気象百年』大阪管区気象台/編集 日本気象協会関西本部 1982 書誌ID 0070080479|生野区役所ホームページ 生野ものしり辞典https://www.city.osaka.lg.jp/ikuno/page/0000000045.html (2020年12月12日確認),2017年9月20日,CC BY-SA,生野区,昭和20年代まで(1926-1954),公園 天王寺保健所,昭和22(1947)年生まれ,昭和30(1955)年ごろ, 昭和30(1955)年ごろ、上汐にある保健所の前に、小便小僧の像があり、水も流れていた。, 天王寺保健所, 天王寺保健所は、昭和17(1942)年、下寺町3丁目に創設されました。昭和20(1945)年3月の空襲で焼失、4月に天王寺区真法院町91に移転、昭和26(1951)年に東平野町5丁目8番地に移転しました。そして昭和46(1971)年には現地で新庁舎に建替えられました。ここが現在の天王寺保健福祉センター分館です。東平野町5丁目は、昭和56(1981)年の住居表示整備事業実施時に、上汐4丁目と変更されました。天王寺保健福祉センター分館の現住所は、上汐4丁目3番2号となっています。投稿者の思い出の保健所は、昭和46(1971)年の建て替え前のものと思われます。小便小僧の像があったかどうかは不明です。大阪市では、平成14(2002)年に保健センターを区役所組織へ移管し、平成15(2003)年に区役所の健康福祉サービス課と福祉事務所、保健センターを一体化し、「保健福祉センター」を開設しています。天王寺保健福祉センターは天王寺区役所と同じ建物内(真法院町20番33号)にあり、分館が上汐4丁目にあります。(2020.10.18 天王寺図書館),"『天王寺区史』川端直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000244950|『わがまち天王寺 -天王寺区役所新庁舎竣工記念-』[大阪市]天王寺区役所 1996 書誌ID 0000669595|『住居表示整備事業概要 昭和56年3月』大阪市総務局市民部振興課住居表示係 [1981] 書誌ID 0000527439|大阪市ホームページ 大阪市保健所 令和元年度 事業概要(PDF形式,1.78MB)https://www.city.osaka.lg.jp/kenko/cmsfiles/contents/0000008/8442/gannnen.pdf",2019年9月13日,CC BY-SA,天王寺区,昭和30年-40年代(1955-1974), 五条グランド,昭和22(1947)年生まれ,昭和30(1955)年ごろ, 昭和30(1955)年ごろの五条グランドは、今よりだだっ広く、ネットも何もなく、一面見渡すことができた。端の方に遊動円木、ブランコ、シーソーがあった。ある時、ヘリコプターが止まっていて見に行ったところ、その場にいた子供4人くらいを乗せてくれて空中遊覧を楽しんだ。そのときの情景は鮮明に覚えていて、子供にとって自由で楽しい時代だった。, 五条公園," 『天王寺区史』によると、五条公園は、戦後の土地区画整理事業によって、烏ヶ辻町に昭和25(1950)年に新設された自由広場で、種別は児童と記されています。区史が発行された昭和30(1955)年当時の面積は2,926坪、昭和43(1968)年に整備工事を完了しました。 昭和35(1960)年発行の『大阪市全商工住宅案内図帳 天王寺区』では、五条公園の場所は、「グランド」と記載されています。昭和46(1971)年発行の『大阪市精密住宅地図 天王寺区』では、面積の3分の2ぐらいで区切られ、広いほう(北側)が「グランド 野球場」、狭いほう(南側)が「五條公園」(地図の表記のまま)と記載されています。 『大阪市立五条小学校創立100周年記念誌』には、昭和29(1954)年「五条グランドで運動会」の写真が掲載されています。(2020.11.27 天王寺図書館)",『天王寺区史』川端直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000244950|『甦るわが街 -戦災復興土地区画整理事業-天王寺地区』大阪市都市整備協会/編集 大阪市建設局 1997 書誌ID 0000652216|『大阪市全商工住宅案内図帳 天王寺区 [昭和35年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011421915|『大阪市全商工住宅案内図帳 天王寺区』住宅協会出版部 1968-1981 書誌ID 0080242224 合綴5冊(昭和46-56年の書名と出版社名:『大阪市精密住宅地図 天王寺区』吉田地図)|『大阪市立五条小学校創立100周年記念誌』[大阪市立五条小学校/編] 大阪市立五条小学校創立100周年記念事業委員会 2013 書誌ID 0012998377,2019年9月13日,CC BY-SA,天王寺区,昭和30年-40年代(1955-1974),公園 大阪赤十字病院,昭和22(1947)年生まれ,昭和25(1950)年ごろ, 昭和25(1950)年ごろ、筆ヶ崎にあった赤十字病院からアメリカの進駐軍のジープが出入りしているのを見ていた。, 赤十字病院, 日本赤十字社大阪支部病院が、明治42(1909)年筆ヶ崎に開設されました。その後も増改築が進められ、昭和10(1935)年ごろ東洋一の大病院と呼ばれるほどになりました。日中戦争が勃発した昭和12(1937)年には、大阪陸軍病院赤十字病院となりました。昭和20(1945)年8月太平洋戦争は終戦を迎え、11月初めには進駐軍が病院接収を開始し、本院は移転を余儀なくされました。接収解除は、昭和30(1955)年2月に返還式が行われ、改修工事の後、昭和31(1956)年4月に、筆ヶ崎に復帰しました。(2020.11.23 天王寺図書館),『天王寺区史』川端直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000244950|『大阪赤十字病院百年史』大阪赤十字病院 2009 書誌ID 0011997802,2019年9月13日,CC BY-SA,天王寺区,昭和20年代まで(1926-1954), ナンバ球場,昭和10年生まれ,, ナンバ球場は進駐軍に占領されていた。, ナンバ球場(大阪球場、大阪スタヂアム), 今はなき大阪球場は、正式名称は大阪スタヂアムといい、昭和25(1950)年9月に開場しました。南海難波駅の駅前に位置していたため、「なんば(難波)球場」という通称でも親しまれました。 『南海ホークスがあったころ』86ページには、作家の藤澤桓夫(たけお)が書き留めた文章が紹介されており、「先頃のホークス対オリオンズの試合がテレビであつた日も、どうもテレビでは気がすまず、やつぱりナンバ球場へ出かけていつた。」とあります。また、『愛と幻想のベースボール』259ページに「さよならナンバ球場 さよなら南海ホークス」の項目があり、文章中にも「難波球場」の文字が見えることから、通称でも親しまれていたことがうかがえます。 進駐軍に占領されていたという記録は確認できませんでしたが、『なにわのスポーツ物語』39ページには建設経緯として、「占領下ならではの諸条件が絡み合っていた。野球は戦後の日本で歓迎されたが、占領軍の側でも野球の普及に熱心であり、南海電鉄が球場を建設する好機は、まさにこの流れの中で生まれた。」との記述があります。 また、『南海ホークスがあったころ』81ページには、開場当時につくられた宣伝歌が記載され、その歌詞には「球場が出来たよ球場が / 大阪ナンバの真ン中に / あんまりプランがニュー・ルック / ここは日本かアメリカか」という一節もあります。 大阪球場は、南海ホークスが昭和63(1988)年にダイエーに譲渡された後、住宅展示場などに利用されました。平成10(1998)年に解体され、平成15(2003)年には商業施設「なんばパークス」ができました。「なんばパークス」9階には、「南海ホークスメモリアルギャラリー」があります。(2019.10.23 浪速図書館),『南海ホークスがあったころ』永井良和/著 橋爪紳也/著 河出書房新社 2010 書誌ID 0012071046|『愛と幻想のベースボール』玉木正之/著 JICC出版局 1989 書誌ID 0070038488|『なにわのスポーツ物語』なにわのスポーツ研究会/編 丸善プラネット 2015 書誌ID 0013546799|『歓声とともに半世紀 -大阪スタヂアム興業の足跡-』大阪スタヂアム興業株式会社社史編纂委員会/編集 大阪スタヂアム興業 1998 書誌ID 0000716615|なんばパークスホームページ 施設紹介http://nambaparks.com/about_profile/facilities.html (2021年2月25日確認),2017年4月2日,CC BY-SA,浪速区,昭和20年代まで(1926-1954), 洋菓子店「千鳥屋」「りくろーおじさんの店」,昭和30年代生まれ,昭和42年から昭和60年頃, 洋菓子店「千鳥屋」があった。シュークリームがおいしかった。誕生会や来客があるときは、千鳥屋のシュークリームだった。シュークリームは大きく1個が当時80円だった。そのシュークリームはカスタネットのようになっていて、中にカスタードクリームの上に生クリーム、その上にメロンの一辺と缶詰ミカンの2粒?(ひょっとして苺も入っていたかもしれない)が入っていた。シュークリームの表面には甘い白い粉がかかっていた。 本店は新開通り、中央商店街を高速道路のほうへ少し行ったところにあった。昭和60年頃、いつのまにか「りくろーおじさんの店」になっていた。 支店が西成税務署の向かい側、現在の「銀座パーラー」にあった。昭和47年頃まであった。, 洋菓子店「千鳥屋」 「りくろーおじさんの店」, 思い出の洋菓子店「千鳥屋」は、チーズケーキで有名な「りくろーおじさんの店」の前身です。「りくろーおじさんの店」のホームページに拠りますと、「昭和31年に千鳥屋を創業。昭和59年、北加賀屋店の開店と同時に発売した焼きたてチーズケーキの焼印として「りくろーマーク」が誕生。平成元年1月になんば本店を開設。その後店名を「りくろーおじさんの店」に統一する。」とあります。「りくろーおじさん」として、創業者の西村 陸郎(にしむら りくろう)氏が紹介されています。 思い出の場所について、住宅地図で変遷を確認しました。 新開通りの店は、昭和37(1962)年の住宅地図では「菓子 千鳥ヤ」と表記があります。その後、昭和44(1969)年の住宅地図には、西成府税事務所の向かいに「銀座パーラー」と「和菓子千鳥屋」が確認できます。 昭和48(1973)年の住宅地図には、新開通りの店のすぐ近くに「洋菓子 千鳥屋 西村」というお店が確認できます。西成府税事務所の向かいは「銀座パーラー」のみの表記となっています。 昭和57(1982)年の住宅地図では、新開通りの店が「パン プローバーレ(原文ママ)」に変わっています。「りくろーおじさんの店」のホームページに拠りますと、昭和53(1978)年に「パンの店プローバー設立」とあります。 昭和63(1988)年の住宅地図では、「パン 和洋菓子(株)西村 千鳥屋」として、南海電鉄汐見橋線の脇に「千鳥屋」を確認することができます。このお店が後に「りくろーおじさんの店 岸里新本店」となります。 平成8(1996)年の住宅地図では、両店とも名称が「りくろーおじさんの店」に変わっています。 その後、「りくろーおじさんの店 岸里新本店」は令和元(2019)年9月に閉店しました。 平成8(1996)年以降の住宅地図は、西成図書館でご覧いただけます。昭和37(1962)年から昭和63(1988)年の住宅地図は、大阪市立図書館デジタルアーカイブで館内限定で公開していますので、館内の多機能OMLISでご覧いただけます。(2019.10.19 西成図書館),「りくろーおじさんの店」ホームページ 会社概要http://www.rikuro.co.jp/company/outline/ (2019年10月19日確認)|『大阪市全商工住宅案内図帳・大阪市精密住宅地図 西成区 昭和37~52年』住宅協会出版部 1962-1977 書誌ID 0080242225 合綴5冊|『大阪市精密住宅地図 西成区 -大阪市全商工住宅案内図帳- 昭和53~63年』吉田地図 1978-1988 書誌ID 0000435997 合綴4冊|『ゼンリン住宅地図 大阪市西成区 '96』ゼンリン 1995 書誌ID 0000528754,2019年1月20日,CC BY-SA,西成区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989), 貸本屋,昭和23年生,昭和36年より前, 貸本屋があり、小学生の頃はよく漫画を借りました。,, 投稿者に詳しくお尋ねしたところ、思い出の貸本屋は、千鳥橋筋商店街より東、梅香東公園(ひょうたん公園)よりは西のところにありました。昭和36(1961)年の住宅地図を見ると、当時の四貫島千鳥町に「ちどり書店」として載っています。 昭和18(1943)年に大阪で生まれた著者による『昭和の子ども図誌』には、「貸本」について、「貸本といえばそのほとんどは漫画である。漫画の中でも、子ども向き雑誌では『冒険王』『少年画報』などに連載されていた人気漫画の他、講談や偉人伝、探偵物などの漫画を主に読んだものである。(中略)一冊借りるのに五円か十円位したのではないかと思う。」と書かれています。(2021.4.14 此花図書館),『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 昭和36年版』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167518|『ゼンリン住宅地図大阪市此花区 [2020]』ゼンリン 2020 書誌ID 0014912962|『昭和の子ども図誌 -戦後の遊びと生活-』櫻井尚/著 東洋出版 2019 書誌ID 0014675420 p.243,2019年5月19日,CC BY-SA,此花区,昭和20年代まで(1926-1954)|昭和30年-40年代(1955-1974), 安治川トンネル2,昭和23年生,, 源兵衛渡という呼称は今も使われているのでしょうか? 今通れるのは人と自転車だけですが、以前は車も通れました。エレベータで下り、自分で運転して対岸まで行き、エレベータで上りました。九条にいた友人を訪ねてよく利用しました。 昭和52年に車が通れなくなってからは、ほとんど利用したことがありませんが、亡くなった友人を偲んで、また一度渡ってみたいです。,, 安治川は、江戸期から、物資輸送の大動脈として多くの船で賑わいましたが、船舶の往来を妨げないよう、橋が架けられず、両岸の連絡は渡船に頼るしかありませんでした。しかし、近代以降の工業化の進展により自動車の交通量が激増、「源兵衛渡」付近に安治川隧道が開通しました。昭和10(1935)年に着工、昭和19(1944)年に完成しました。 『安治川河底とんねる』によれば、当時の土木技術の粋を集めた画期的構造物でした。両岸の建物の基礎は、「圧気潜函工法」により鉄筋コンクリートの箱を沈め、トンネルの主要部分は、船で曳航した角型チューブ(沈埋函)を「沈埋工法」により河底の溝に沈め、全体を橋のような構造にしたことなどが主な特徴です。 昭和52(1977)年に車道は閉鎖され、現在は、歩行者と自転車だけが利用できます。自動車交通量の増加と大型化・高速化に対して、エレベータでは対応しきれなくなったこと、上流・下流にも橋がかけられたことが主な理由です。 『此花区史』によれば、安治川隧道の開通により、源兵衛・二丁目・二丁目荷車・玉船の4渡船が廃止されたのをはじめ、渡船場は減っていきました。しかしながら、「源兵衛渡」の名は、西区側へ渡った先の交差点の名前として今も残っています。(2021.3.9 此花図書館),『此花区史』大阪市此花区役所/編集 大阪市此花区三十周年記念事業委員会 1955書誌ID 0000228462|『此花コロンブスマップ -此花区制80周年記念-』大阪市此花区役所 2005 書誌ID 0011012218|『安治川河底とんねる』大阪市建設局 [2011] 書誌ID 0012451514|『このはなお宝いっぱい!プレミアム -まちを知って自慢しよう!-』大阪市此花区役所 2013 書誌ID 0012734280|此花区 区内の史跡案内 安治川隧道(あじがわずいどう)https://www.city.osaka.lg.jp/konohana/page/0000001459.html (2021.11.4確認)|大阪市 橋のダウンロード・コーナー(パンフレットなど) 安治川河底とんねるhttps://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000274976.html (2021.11.4確認),2019年5月31日,CC BY-SA,此花区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989),道路|川 辰巳球場,昭和25(1950)年生,昭和36年頃まで(地下鉄中央線開通とともに消滅した), 辰巳球場が有って、誰も使っていない時に、少年野球をして楽しんだ。日曜になると、地元中小企業の従業員がチームを組んで対抗試合をしていた。時間割があったようで、暗くなるまで1日に何試合もしてた。, 今の中央通りと辰巳橋の交差点南東角(図あり), 辰巳球場についての記述のある資料は見つかりませんでした。 野球場ほど大規模なものの記載が無いのは珍しく、たとえば比較的近くの「松島球場(松島公園)」や「市立運動場」は、当時の地図上に名称の記載や施設の形跡が認められます。 昭和35(1960)年刊行の『京阪神便覧 [1] 大阪市区分地図篇』「最新西区精図」を確認すると、思い出の場所には、建築物は何も無く、空白です。1辺が50メートル以上ある空間が地図上にあり、面積では2500平米を超える広大な空地があったことがわかります。 昭和29(1954)年刊行の『大阪市区分詳細図 : 西区』でも同様です。 これらの地図から、草野球をするのに十分な空き地が存在したことがわかります。 「辰巳球場」は利用していた人たちの通称であったと考えられます。 昭和39(1964)年の『大阪市街地図 西区 昭和39年版 』では工事が行われている途中が地図に表されており、高架の線路が思い出の場所の上にあり、すぐ近くで途切れているのが見受けられます。なお高速鉄道4号線(地下鉄)、現在のOsakaMetro中央線は、地下鉄となっていますが、九条駅付近は高架になっており、地下ではなく、地面より更に上を地下鉄が走っています。(2021.1.28 中央図書館) 辰巳球場について市民の方よりの情報提供があり、記述のある資料が見つかりました。個人の方の伝記『その時どきの記』p.300-301に「焼跡の花 境川辰巳橋球場」の項に、終戦後、中央大通りの建設予定地を、道路が完成するまで球場に使用したと記述があります。「昭和二十三年から三十六年までの14年間奉仕したグランドは、名勝負、名試合、珍プレーを織り交ぜて、多くの人々が青春の地を燃やした。」として、当時の様子が記載されています。(2021.2.20 中央図書館追記),『京阪神便覧 [1] 大阪市区分地図篇』昭文社編集部/編集 昭文社 1960 書誌ID 0000299904|『大阪市区分詳細図 -西区-』和楽路屋 [1954年] 書誌ID 0080349809|『大阪市街地図 西区 昭和39年版』市街地図整備協議会/著 和楽路屋 1964 書誌ID 0080199606|『その時どきの記』合川国太郎 1995 書誌ID 0000579405,2017年9月6日,CC BY-SA,西区,昭和30年-40年代(1955-1974),鉄道 靭公園南端の川・西六幼稚園,昭和8(1933)年生,昭和13、14年くらい, 今の靭公園の南の端を小川が流れていた(公園はなかった)。信濃橋で西横堀川から分かれて西へ木津川迄流れていた。(阿波座) 新町の廣井堂の裏と新町演舞場の間の細い道を西へ行くと西六幼稚園の前に出た。この道を通って幼稚園へ通った。, 西区新町1丁目だったと思う。昭和13、14年ぐらい。とにかく家を出るとあちこち川がいっぱいあった。新町は祖父母の家で、私の家は阿波座1丁目四ツ橋筋のすぐ近く。," 『角川日本地名大辞典 27 大阪府』184ページ「靭<西区>」、185ページ「靭上通<西区>」「靱公園」、の項からは、靱公園が昭和30(1955)年に開設され、現在の住所である靱本町1-2丁目が、明治5(1872)年から昭和36(1961)年までは靭上通1-3丁目だったことがわかります。  昭和11(1936)年発行の地図『最新の西区 -都市計画路線入-』の靭上通3丁目付近には、「海部堀川」が確認できます。また同地図からは、信濃橋で西横堀川から分かれて西へ流れる川が「阿波堀川」であることがわかります。『角川日本地名大辞典 27 大阪府』104ページ「阿波堀川<西区>」の項には、「現在の西区西本町1丁目東端で西横堀川(埋立済み)から分かれ、江之子島2丁目付近で三十間川(埋立済み)に注いだ。(中略)昭和31年9月に全部の埋立てが完了した。」、284ページ「海部堀川<西区>」の項には、「現在の西区靱本町1丁目のなにわ筋付近で阿波堀川(埋立済み)から北へ分岐し、すぐ左へ折れて西流、靱本町3丁目の旧茂左衛門橋の上手で京町堀川と合流して百間堀川に通じていた。(中略)昭和26年には埋立てが完了。」とあります。昭和11(1936)年発行の上述の地図からは、現在の靭公園の南側には海部堀川や阿波堀川が流れていたことや、当時の西区には多くの堀川が縦横に巡っていたことがわかります。  『西六いまむかし -30周年記念誌-』「新町通二丁目」の項の252ページの地図には「51 広井堂 お菓子司」が見られ、257ページには写真「老舗 広井堂菓子司」が掲載されています。「新町南通二丁目」の項の284-285ページの地図には「4 新町演舞場」「25〜26西六幼稚園」が見られ、286ページには写真「大正11年に建てられた新町演舞場」、288ページには写真「西六幼稚園正門」が掲載されています。同書の付録地図「戦前(昭和10〜15年頃)の家並復元地図」を見ると、「広井堂」「新町演舞場」「西六幼稚園」の位置関係がわかります。 (2021.3.31 中央図書館)","『角川日本地名大辞典 27 大阪府』「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865 p.184-185, 284|『最新の西区 -都市計画路線入-』[夕刊大阪新聞社] 1936 書誌ID 0080350036|『西六いまむかし -30周年記念誌-』西六連合振興町会 1986 書誌ID 0080191571 p.252, 257, 284-286, 288",2021年2月22日,CC BY-SA,西区,昭和20年代まで(1926-1954),川|公園 西九条駅と三丁目渡し,昭和23(1948)年生,, 昭和36年の春に港区の高校に入学した兄は、環状線が西九条から弁天町方面に開通するまでの約1ヶ月、現在は廃止された三丁目渡の渡し舟で通学していました。当時は弁天町方面へは高架で、大阪駅方面へは路上に線路が走っていたので、西九条で乗り換えなければなりませんでした。 環状線として開通したのは、私が高校に入学した年の3月でした。,, 昭和36(1961)年4月25日、西成線(西九条・大阪間)、城東線(大阪・天王寺間)、関西線(天王寺・今宮間)、大阪臨港線(今宮・境川信号所間)と、新設された境川信号所・西九条間をもって、大阪環状線が開業しました。当時は、旧西成線の部分の高架工事が未完成であったため、桜島・大阪・天王寺・弁天町・西九条間の折り返し運転(『大阪環状線』によれば逆“の”の字運転)が行われ、西九条駅は、高架のホームと地上のホームとに分かれていました。その頃の西九条付近の様子は『日本国有鉄道百年写真史』で見ることができます。 完全な環状運転が始まったのは、昭和39(1964)年3月22日です。 三丁目渡しは、当時の北安治川通三丁目から、安治川を渡り港区側へ至る渡し舟でした。『此花区史』巻末の折り込み地図などで、その位置がわかります。詩集『三丁目渡船場』には、「むかし女学校に通うときには毎日乗った」とうたわれています。 平成元(1989)年1月31日、今の住所表示で此花区西九条七丁目と港区の波除六丁目を結んでいた「三丁目渡船場」と、尻無川の「中渡船場」が廃止されました。当時の新聞には、渡船の廃止を惜しむ声が載っています。(2021.12.17 此花図書館),"『近畿地方の日本国有鉄道 -大阪・天王寺・福知山鉄道管理局史-』大阪・天王寺・福知山鉄道管理局史編集委員会 2004 書誌ID 0010981538 p.57,61,73,78|『大阪環状線 -その鉄道文化、沿線文化を探る-』羽森康純/著 風詠社 2013 書誌ID 0012789430 p.7|『日本国有鉄道百年写真史』日本国有鉄道/[編] 成山堂書店 1997 書誌ID 0000781449 p.366|『此花区史』大阪市此花区役所/編集 大阪市此花区三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000228462|『三丁目渡船場 -藤澤滋子詩集-』藤澤滋子/著 編集工房ノア 1989 書誌ID 0070052059 p.30-32|『朝日新聞 1989年1月29日 朝刊 大阪』25面「この風情あと3日 “ふれあい”に惜別強く」(商用データベース「聞蔵IIビジュアル-朝日新聞記事-」でご覧いただけます)",2019年5月31日,CC BY-SA,此花区,昭和30年-40年代(1955-1974),鉄道|川 六叉路で鬼ごっこ,昭和25(1950)年生,小学校低学年, 自宅のすぐ横の六叉路が広いので、マンホールのふたを避難場所にして、土管鬼ごっこをした記憶があります。, 四貫島元宮町, 投稿者にお尋ねしたところ、この場所は現在の四貫島2丁目、大阪市立四貫島小学校の北側にある六叉路です。マンホールのふたに乗っていれば捕まらないというルールの鬼ごっこをして遊んだそうです。 『写真で見る大阪市下水道100年のあゆみ』には、「マンホール蓋(ふた)の変遷」として、昭和の初めから平成6年までに作られたマンホールふたがカラー写真で紹介されています。これによると、思い出の時代は、ふたの周囲が厚いコンクリートで囲われた様子で、まさに土管です。 現在、この六叉路を訪れると、ふたの周囲はぴったりとアスファルトで固められ、土管のイメージはありません。このうち幾つかのデザインについて、大阪市建設局下水道部施設管理課に問い合わせたところ、現在大阪市内で一般的な、大阪城と桜を描いたものや、その一つ前の世代で、中央に澪標(みおつくし)マークを描き、1990などと製造年を表示しているものが混在しており、当時とは様子が変わっています。(2021.12.23 此花図書館),『写真で見る大阪市下水道100年のあゆみ』大阪市下水道局 1994 書誌ID 0000460663 p.102-103,2019年7月12日,CC BY-SA,此花区,昭和20年代まで(1926-1954)|昭和30年-40年代(1955-1974),遊び 大阪市立梅香中学校,昭和11(1936)年生,中学生の頃, 私は、梅香中学校(当初は此花第二新制中学校)の第1期卒業生です。開校式当日、島屋小学校を卒業した私たちは、伝法小学校の前に集められました。伝法小学校の卒業生と共に中に入ると、1組から7組まで「組分け」の張り紙があり、校庭に整列しました。広い講堂なんてありませんでした。先生方の様子もまちまちで、校長先生・教頭先生だけは背広にネクタイ姿でしたが、国民服や詰襟の学生服の先生もいました。 教室に入って驚きました。机も椅子もありません。窓やドアにガラスは1枚もありません。黒板とその下に教壇が横たわっているだけでした。私たちの中学校は、伝法小学校の古い校舎の一部を借りて発足したのです。数日後、入学式がありました。母が付き添ってくれて、野外で新しい教科書を購入しました。その折、中古の机、椅子、教卓などがトラックで運ばれてきました。机や椅子を自分たちで教室に運び込むのが、最初の仕事でした。 このようにして、中学生活がスタートしました。教科毎に先生が変わる授業、新しい友達と交わっての勉学、とても新鮮でした。毎日、新淀川の堤防づたいの道を東西にたどって通いました。 2年目には、梅香国民学校の跡地で、空襲で焼け残った鉄筋コンクリートの校舎に移り、2期生と共に勉強することになりました。この移転により、梅香中学校となったのです。1期生は上級生がいないため、伸び伸びと中学生活を送れたと思います。ところが、私たち1期生が卒業すると、梅香中学校は、恩貴島国民学校の跡地へまた引っ越してしまいました。1期生には全くなじみのない所へ移ったので、今の梅香中学校には「わが母校」という感じはありません。それが本当に淋しく、一種の喪失感があります。,, 『大阪市立梅香中学校創立70周年記念誌』には、年表「70年のあゆみ」が載っています。それによると、梅香中学校は、昭和20(1945)年4月に大阪市立此花第二中学校として創立、伝法町北3丁目30番地の市立伝法小学校に併設され、島屋小学校も校区でした。 実際の開校は、高岡政一初代校長のもと、昭和24(1949)年になりました。翌昭和25(1950)年4月に、校名を大阪市立梅香中学校と改称し、同年10月に、現在の梅香小学校がある四貫島梅香町24番地の新校舎に移転します。 昭和27(1952)年3月15日に第1回卒業式を挙行し、1期生の324名は同窓会「晩鐘会」を結成しました。 昭和28(1953)年2月、恩貴島小学校跡の春日出町364番地にて新校舎建築の地鎮祭を行い、昭和29(1954)年1月に竣工、現在の梅香中学校となりました。(2021.12.10 此花図書館),『大阪市立梅香中学校創立70周年記念誌』大阪市立梅香中学校創立七十周年記念事業委員会 2019 書誌ID 0014796734 p.8,2019年10月16日,CC BY-SA,此花区,昭和20年代まで(1926-1954), 貸しボート,昭和17(1942)年生,小学生の頃, 貸しボート屋が正蓮寺川にかかる森巣橋北詰西側にありました。,, 現在公園として整備されつつある正蓮寺川は、かつての都市生活者にとっての舟遊びの場所でした。伝統的な宗教行事である川施餓鬼も、昭和42(1967)年、川渡御を新淀川に移すまで行われていました。『写真で見る此花区 -大阪市制100周年記念-』には、伝法正連寺川大施餓鬼の図や水が豊かにあった時代の森巣橋あたりの写真が載っています。昭和30年代、貸ボート屋は人気で、他にも中之島や戎橋の下など、当時の若いアベックや学生たちが水上デートや遊覧を楽しんだそうです。(2022.2.6 此花図書館),"『大阪春秋 通巻98号 城下町と諸藩』大阪春秋社 2000 書誌ID 0000807363 p.112 田野登「冠辞「水都」考-大都会のパラダイム変換を読む-」|大阪市 イベント・観光 歴史・文化 大阪市指定文化財 大阪市指定文化財(指定年度別) 大阪市指定文化財(平成16年度) 正蓮寺の川施餓鬼https://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000009077.html (2022年2月6日確認)|『写真で見る此花区 -大阪市制100周年記念-』市制100周年記念事業此花区実行委員会/編集 此花区コミュニティ協会 1990.5 書誌ID 0000367660 p.52,59|『大阪は水の都(ビジュアルブック水辺の生活誌)』西浦宏己/写真 岩波書店 1994 書誌ID 0000421720 p.11,18-19|『朝日新聞2013年4月17日 朝刊 大阪』2面「(おおさか昭和旅行)中之島のボート 1950年 川面で団らん、週末は列」(商用データベース「聞蔵Ⅱビジュアル -朝日新聞記事-」でご覧いただけます)",2020年9月19日,CC BY-SA,此花区,昭和20年代まで(1926-1954)|昭和30年-40年代(1955-1974),川 朝潮橋駅から通った花火屋さんでのアルバイト,昭和33(1958)年生,大学生で20-21才だった頃の夏休みだったと思います。昭和30年-40年くらいかな。," 私が大学生の頃、朝潮橋駅から降りて、どこの路地かわかりませんが、テキ屋さん(露天商)がいっぱい出ていて、その内の一つの花火屋さんでアルバイトをしました。そう、42-43年前です。(当時は何もわからず、)夕方5時から10時までの5時間で¥5,000円でした。しかも、即金。アルバイト情報誌を見て面接に行きました。恐かったけど、お金の力はスゴイ。奈良から通ってきました。20才の夏の頃です。", 朝潮橋駅, 朝潮橋駅付近の露天商について書かれている資料は、残念ながら見つけることができませんでした。余談ですが、投稿者がアルバイトをされていた当時、朝潮橋駅前にある八幡屋公園は大阪国際見本市の会場の一つでした。八幡屋公園は、昭和31(1956)年から昭和60(1985)年にインテックス大阪に会場が移るまで、大阪国際見本市の会場として利用され、昭和37(1962)年に開催された第5回大阪国際見本市には、他の会場も含めて来会者がなんと200万人を突破しました。ちなみに、昭和47(1972)年から平成6(1994)年までは子どもたちが楽しめる交通公園もありました。(2022.2.8 港図書館),『アジア太平洋のメッセ都市大阪をめざして -大阪国際見本市委員会40年の歩み-』大阪国際見本市委員会1994 書誌ID 0000463926 p.53|『港区たんけん手帳 -うちのまち、再発見!-』大阪市港区役所 2014 書誌ID 0013050681 p.21|『港区のひみつ』大阪市港区役所 1998 書誌ID 0000692156 p.15|『港区誌』大阪市港区役所/編集 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000244951 p.256|『みなと今と昔 :第3版』大阪市港区役所区民企画室 2003 書誌ID 0011113637 p.35,2021年12月28日,CC BY-SA,港区,昭和30年-40年代(1955-1974),鉄道 大阪市電,昭和10(1935)年生まれ,昭和30(1955)年後半から40(1965)年にかけての頃。ハイハイタウンができるまで。, 上六からナンバへ行くのは市電で行っていた。まだ高速道路の入口はなく生魂さんから高津さんへはまっすぐ北上して行けた。谷九から西への急坂の南側は高い石垣で電車の上の方の崖の上に辻調があった。, 千日前線谷九?下寺町, 大阪市電は、明治36(1903)年に開業し、都市の近代化を促しながら市内交通網を拡張していきました。戦争で被災後も早々に復旧し、都市交通の花形になっていきました。昭和30年代には自動車が急増し、地下鉄への切り替えが進んで昭和44(1969)年に全面廃止となりました。停留所「上本町6丁目」は「上六」と呼ばれて親しまれ、近鉄大阪線、奈良線のターミナル駅「上本町」とも隣接し、南北に市電の上本町線、東に上本町・下味原線、西に九条・高津線が集まる交通の要所でした。 谷九、下寺町は、九条・高津線の停留所で、ここは上町台地を千日前に向かって下っていく坂道でした。『大阪市電最後の日々 上』p.44には、坂道を下る市電の写真と、「出力の小さい電車は、満員の乗客を乗せて坂の途中で立ち往生ということもたびたびで、乗客に降りてもらったこともあった」というエピソードが紹介されています。『なにわの市電』p.189に、坂道をのぼった「雪の中の市電」の写真が掲載されています。(2021.6.7 天王寺図書館),『天王寺区史』川端直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000244950 p.169-177|『大阪市電最後の日々 上』南條久通/著 ネコ・パブリッシング 2011 書誌ID 0012341243|『なにわの市電』小林庄三/著 トンボ出版 1995 書誌ID 0000467925|『大阪市電が走った街今昔』辰巳博/著 JTB 2000 書誌ID 0000836714,2021年3月9日,CC BY-SA,天王寺区,昭和30年-40年代(1955-1974),鉄道 生玉の坂,昭和8(1933)年生まれ ,, 松屋町筋の下寺町交差点から南の東側はお寺が連なっていましたが、その東裏方面は上町台地に向かう傾斜地で結構樹木が生えて蝉採りも出来ました。そのどの辺かは定かではありませんが、実費病院というのがあって治療費を抑えて診療して貰えるのだと聞きました。そこではなかったと思いますが小学校から胸部レントゲン撮影に学年か組単位で行きました。但し六センチ角位のフイルムへの間接撮影でした。, 下寺町から上町台地, 上町台地は、織田作之助の小説「木の都」にも「千日前界隈の見晴らしの利く建物の上から、はるか東の方を、北より順に高津の高台、生玉の高台、夕陽丘の高台と見て行けば、何百年の昔からの静けさをしんと底にたたえる鬱蒼(うっそう)たる緑の色が、(中略)そこにある」と書かれています。下寺町については、『大阪春秋 通巻114号 特集上町台地の魅力』に南北約2キロにわたって「大蓮寺を先頭に南詰の一心寺(中略)まで、約三十の寺院が一直線に並んでいる」とあります。『わたしたちの町生魂』に掲載のマップ「生魂の町にある寺」でも寺が南北一列に並んでいる様が分かります。 実費病院とは、おそらく高津神社の近くにあった実費診療所大阪支部のことと思われます。実費診療所は、中流層救済のために施しではなく自費でかかれるように診療費を安くした病院で、東京で明治44(1911)年に鈴木梅四郎が創立し、名づけました。その大阪支部が大正3(1914)年に高津神社の西側、南区瓦町4番町にできました。2度の建て替えで少し東に移転し、現在の高津病院(中央区瓦町3丁目)となりました。(2022.2.5 天王寺図書館),『夫婦善哉 :決定版』織田作之助/著 新潮社 2016 書誌ID 0014159138|『大阪春秋 通巻114号 特集上町台地の魅力』新風書房 2004 書誌ID 0010755370|『わたしたちの町生魂 -創立130周年記念誌-』大阪市立生魂小学校 2005 書誌ID 0011417439|『実費診療所からの出発 -高津病院90年の歩み-』厚生会高津病院 2004 書誌ID 0010965893,2021年6月10日,CC BY-SA,天王寺区,昭和20年代まで(1926-1954), アゲハチョウの木,平成4(1992)年生まれ,1999年-2000年ごろ, 上本町8丁目のおうちの横にみかんの大きな木があって、夏になるとアゲハチョウの産卵場所になっていて、たくさんの卵が産みつけられていました。毎年きれいで大きなアゲハチョウが見られるので、とても楽しみにしていました。, 夕陽丘更科(上本町8-8-13)というそば屋のすぐとなりに何軒か一軒家が並んでいて、その家の辺りに木があったと思います。, 平成12(2000)年刊行の『大阪市精密住宅地図 -天王寺区-』で「食堂 夕陽丘更科」の場所が確認できます。周辺には、個人宅や店舗が軒を並べています。広々とした月極モータープールや駐車場もあります。上八公園が近くにあって、昆虫が生息しやすい環境であったかもしれません。『見つけて育てる生き物飼い方ブック -実は飼える!30種-』によると、アゲハチョウ(ナミアゲハ)は、「都会でも普通に見ることができる美しい大型のチョウ」で「ミカン、カラタチ、サンショウなどミカン科の樹木の葉の上に1mmくらいの丸い卵を1粒産卵」すると書かれています。(2022.2.11 天王寺図書館),『大阪市精密住宅地図 -天王寺区-』吉田地図 2000 書誌ID 0000838667|『見つけて育てる生き物飼い方ブック -実は飼える30!種-』新宅広二/著 メイツ出版 2000 書誌ID 0014335998,2021年1月7日,CC BY-SA,天王寺区,平成(1989-2019), 南海電車の駅員さん,昭和34(1959)年生まれ,, 南海電車の駅員さんはものすごく優しくて「芦原町駅」で乗り遅れそうになると電車を止めてくれるし、走り出した電車もバックしてホームに戻って乗せてくれました。その際は、切符はもういいから乗って乗ってと言われ降りる駅を言うと連絡してくれました。, 南海芦原町駅 南海高野線," 『南海電気鉄道百年史』のp.592-601の各駅概要とp.653-723の年表によると、「芦原町駅」は浪速区芦原2丁目に、大正元(1912)年11月15日に高野登山鉄道の駅としてできました。その後、高野登山鉄道は大阪高野鉄道に社名変更となり、大正11(1922)年に南海鉄道と合併します。 昭和19(1944)年には合併により近畿日本鉄道の駅になります。そして昭和22(1947)年近畿日本鉄道から高野山電気鉄道に譲渡されます。同年、高野山電気鉄道は南海電気鉄道に名称変更します。 同書p.599の乗降人員推移の動き(高野線)によると、昭和40(1965)年の芦原町駅の1日の乗降人数は平均1,272人、昭和50(1975)年は1,093人です。その後、『令和2年度大阪府統計年鑑』によると1日の乗降人数は平均226人です。 『週刊私鉄全駅・全車両基地 No.25(週刊朝日百科)』のp.24や南海電鉄ホームページで確認すると、現在の芦原町駅は駅員さんが改札に居ない、無人駅となっています。(2021.12.23 浪速図書館)",『南海電気鉄道百年史』南海電気鉄道株式会社/編集 南海電気鉄道 1985 書誌ID 0070031192|『週刊私鉄全駅・全車両基地 No.25(週刊朝日百科)』朝日新聞出版 2014 書誌ID 0013000925|大阪府ホームページ『令和2年度 大阪府統計年鑑』(令和3年3月刊行) 第9章 運輸・通信https://www.pref.osaka.lg.jp/toukei/nenkan/tn2020index.html#09 (2021年12月23日確認)|南海電鉄ホームページ ホーム > 電車にのる > 駅情報 > 芦原町駅http://www.nankai.co.jp/traffic/station/ashiharacho.html (2021年12月23日確認),2020年12月16日,CC BY-SA,浪速区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989),鉄道 図書館今昔,昭和8(1933)年生まれ,,日本橋三丁目の東に御蔵跡町が今でもあるでしょうか、そこに図書館がありました。公立だったのは確かですが、比較的こぢんまりしたたたずまいでした。何度も行きましたが、当時は開架式などはなくて全部カード検索。大人向きも子供用も一緒なので、書名から選んで申し込んだら全然当て外れがちょくちょくありました。この一帯は履物屋が纏(まと)まっていたようです。, 日本橋 御蔵跡町 御蔵跡図書館, 『浪速区史』p.287によると、浪速区日本橋三丁目の御蔵跡公園内に大阪市立御蔵跡(おくらあと)図書館が大正10(1921)年10月に開設されました。「通俗の図書を備え、一般公衆の読書観念を助長し市民の修養に資することを目的としたもので」との記述より公共図書館であったことがうかがえます。p.288には御蔵跡図書館の写真もあります。戦時中の昭和19(1944)年に託児所に転用となり閉鎖され、その翌年3月の大阪大空襲で焼失しました。 大阪市立図書館ホームページ図書館のあゆみページでは、草創期当時は東西南北の全4区に1館ずつ設定され、御蔵跡図書館は南区の図書館であることがわかります。御蔵跡図書館の写真もご覧いただけます。 当時は閲覧料を徴収したり、館外への貸出サービスを行わない図書館もありましたが、大阪市の図書館は創立当初から、数え年7歳以上であれば誰でも無料で利用することができ、館外貸出も積極的に行いました。『大阪市立図書館50年史』p.18には、思い出のとおり、閲覧方法は閉架式(出納式)であったことが記述されています。御蔵跡図書館の利用者には作家の司馬遼太郎氏もおられ、『司馬遼太郎が語る日本 -未公開講演録愛蔵版- 3』p.301によると、中学一年だった昭和11(1936)年から、兵役につく昭和18(1943)年まで、図書館に通ったとあります。 『司馬遼太郎とその時代 戦中篇』のp.69-90「第2章 夢想の霧の中で 3 市立御蔵跡図書館」の項でも、学生の頃の司馬遼太郎氏が学校からの帰宅途中に頻繁に図書館に立ち寄り、夕方6時から9時までを図書館で過ごしたことが述べられています。p.77には履物問屋街があったことも記述されています。 建物の外観は、『司馬遼太郎が語る日本 -未公開講演録愛蔵版- 3』p.301によると、小さな公園の中にあるオランダ農家のような建物だったとあり、「二階建ての白壁で、屋根の勾配もするどく、いい建物でした。」と述べられています。「図書館にある本の全部といってもいいくらい、読んでいたのではないでしょうか。」と図書館の思い出が語られています。 御蔵跡町という町名は、今はありません。『角川日本地名大辞典 27 大阪府』p.264、265の「御蔵跡町」「御蔵跡南之町」の項によると、町名は幕府米蔵があったことに由来します。明治6(1873)年から「御蔵跡町」、昭和19(1944)年に「御蔵跡南之町」に改称され、その後昭和37(1962)年に日本橋東3-5丁目、日本橋筋2-5丁目、下寺町2-4丁目の各一部となりました。その後、『大阪の町名 -その歴史- 下巻』p.173によると、昭和55(1980)年の住居表示の実施に伴い、「日本橋公園」(旧名 御蔵跡公園)のあった日本橋筋3丁目は日本橋3丁目に改称しています。 図書館のあった公園の位置は、「大阪あそ歩」のまち歩きマップ「司馬遼太郎が愛した大阪の風景~司馬文学の原点を探して~」および『大阪市全商工住宅案内図帳 浪速区 [昭和42年]』などで確認できます。 なお、思い出にあるとおり、当時この一帯には履物屋がまとまっていました。『浪速区史』p.139には「御蔵跡履物同業街」として、御蔵跡町・日本橋筋三丁目一帯の履物問屋街が全国的な卸問屋街であり、下駄と花緒を取り扱っていることや、もともと盛んだった地域に、御堂筋の道路建設の影響で問屋が移ってきたことにより益々集中したことなどが述べられています。 時代が下って『大阪市全商工住宅案内図帳 浪速区 [昭和36年]』『大阪市全商工住宅案内図帳 浪速区 [昭和42年]』などの住宅地図でも付近には履物屋が軒を連ねていたことが見て取れます。「ハキモノ○○」「ゾウリ○○」(○○は名前)に混じり「スリッパ○○」などの記載があり、この頃には時代に合わせスリッパなども扱われていたことが、地図からわかります。(2021.6.19 浪速図書館),"『浪速区史』川端直正/編集 浪速区創設三十周年記念事業委員会 1957 書誌ID 0000246444 p.139、287|『大阪市立図書館50年史』大阪市立中央図書館 1972 書誌ID 0000372730 p.18|『司馬遼太郎とその時代 戦中篇』延吉実/著 青弓社 2002 書誌ID 0010241625 p.69-90|『司馬遼太郎が語る日本 -未公開講演録愛蔵版- 3』司馬遼太郎/[述] 朝日新聞社 1997 書誌ID 0050058802 p.301|『角川日本地名大辞典 27 大阪府』「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865 p.264、265|『大阪の町名 -その歴史- 下巻』大阪市市民局 1992 書誌ID 0010764328 p.173|『大阪市全商工住宅案内図帳 浪速区 [昭和36年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011421906 p.11|『大阪市全商工住宅案内図帳 浪速区 [昭和42年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011421903 p.11|大阪市立図書館ホームページ 図書館のあゆみ 草創期https://www.oml.city.osaka.lg.jp//?page_id=423 (2021年6月10日確認)|大阪あそ歩 まち歩きマップ「司馬遼太郎が愛した大阪の風景~司馬文学の原点を探して~」(PDF形式,577KB) https://www.osaka-asobo.jp/course/pdf/m/open/i/171?1624082406822 (2021年6月10日確認)",2021年6月10日,CC BY-SA,浪速区,昭和20年代まで(1926-1954),公園|図書館 平田の渡し船,昭和28(1953)年生まれ,, 森小路から千林商店街、今市商店街から市電今市停留所を超えて淀川の堤防へ行く。現在より水がきれいで、水遊びもできた。渡し船の乗り場があり、船頭さんが東淀川の対岸へ運搬していた。船はエンジンで動き、長い竿でコントロールしていた。人以外にも、自転車も乗り、雨の日も風の日も、旭区と東淀川区を結びつけていた。, 現在の豊里大橋付近," 平田(へいた)の渡しは、延宝4(1676)年ごろからはじまり、昭和45(1970)年に豊里大橋ができるまで約300年近くにわたり、現在の東淀川区豊里と旭区太子橋の間、淀川の対岸を結んでいました。戦後、周辺の市街地化で利用者も増え、片道の所要時間20分、船も20人乗りの手漕ぎ船だったことから、昭和35(1960)年10月に21人乗りの発動機船、38(1963)年12月には36人乗りの新造船を就航させ、最盛期には1日に約3,000人の乗客と670台の自転車を運んでいたそうです。 今はなき渡し船の写真は『写真ものがたり昭和の暮らし 5』、『大阪市今昔写真集 北部版』、『大阪市の昭和』などに収録されています。(2022.1.13 旭図書館)",『旭区史』大阪都市協会/編集 旭区創設五十周年記念事業実施委員会 1983 書誌ID 0070035195|『写真ものがたり昭和の暮らし 5 川と湖沼』須藤功/著 農山漁村文化協会 2005 書誌ID 0011034001 p.22|『大阪市今昔写真集 北部版』石浜紅子/監修 樹林舎 2010 書誌ID 0012038185 p.109|『大阪市の昭和 -写真アルバム-』樹林舎 2018 書誌ID 0014592298 p.193,2017年4月8日,CC BY-SA,旭区,昭和30年-40年代(1955-1974),鉄道|川 ザリガニ釣り,昭和28(1953)年生まれ,昭和35(1960)年前後, 旭区でも、旭東中学校の斜め前、現在の光陽支援学校の前あたりは一面、水田であった。自転車で行き、ザリガニ釣りを楽しんだ。今はスルメや竹輪がエサであるが、水田の穴に手をつっこんで、最初の1匹のザリガニをつかまえる。しっぽの身を切って糸に結びつけてから、2匹目からのザリガニをつかまえた。夢中になって蛇においかけられたこともあった。, 光陽支援学校の前, 『[大阪市立光陽養護学校]五周年記念誌』より現在の大阪府立光陽支援学校の沿革を見ると、開校は昭和37(1962)年、住所は「旭区別所町46の2」とあります。学校開校よりも以前、昭和35(1960)年の住宅地図を確認すると、旭東中学校の東側の別所町は、住宅の表示は数件にとどまっています。昭和36(1961)年の地形図を見ると、旭東中学校の東側一帯は「田んぼ」の地図記号が記載されていて、水田が広がっていたことがわかります。 『角川日本地名大辞典 27 大阪府』の「別所町」の項目では、人口は、昭和35(1960)年54、昭和40(1965)年602、昭和45(1970)年586と、この地は急速に宅地化が進んだことが伺えます。(2022.1.16 旭図書館),『[大阪市立光陽養護学校]五周年記念誌』大阪市立光陽養護学校 1967 書誌ID 0080249643|『大阪市全商工住宅案内図帳 旭区 [昭和35年]』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167537 (住宅協会出版部 1960年刊の復刻)|『大阪府航空写真地図』大阪府知事室企画課 1962 書誌ID 0080222970 (大I-5)|『角川日本地名大辞典 27 大阪府』「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865,2017年4月8日,CC BY-SA,旭区,昭和30年-40年代(1955-1974),遊び しばや(駄菓子屋),昭和28(1953)年生まれ,昭和35(1960)年前後, 旭区とりわけ古市小学校児童の社交場。10円玉でおかし(ひものついた飴、黒砂糖、ガラス管に入ったジュース等)、おもちゃ(べったん、ビー玉、駒、きせかえ等)がそろっていた。お正月の時はサイコロ3つをふってその数で商品がもらえた。良い商品は「サイコロ1の目が3つ」と「サイコロ6の目が3つ」であった。紙幣(500円、1000円)で買い物に行くと、「家の人に言うてきたか」と聞かれた。, 古市小の近く、旧豆腐屋の前、ナカジマ理髪店の斜め前, 明治6(1873)年東成郡第3区千林村他八か村組合公立千林小学校として創立した古市小学校は、千林尋常高等小学校の時代を経て、昭和22(1947)年大阪市立古市小学校と名称を改めて現在に至ります。同校の学校史によると、当初、本校と分校に分かれていましたが、分校の工事を行い、昭和35(1960)に本校と分校の名称を入れ替えて、昭和38(1963)年の講堂校舎完成により分校を廃止したとのことです。 昭和35(1960)年の住宅地図を見ると、古市小学校分校の東側、当時の住所で千林町2丁目に「理髪中島」、一軒はさんで北側には「トーフ屋」が確認できましたが、「しばや」「駄菓子屋」ともその記載は確認できませんでした。(2022.1.20 旭図書館),『ふるいち』大阪市立古市小学校/編 大阪市立古市小学校創立記念事業委員会 1973 書誌ID 0090012864|『大阪市全商工住宅案内図帳 旭区 [昭和35年]』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167537 (住宅協会出版部 1960年刊の復刻),2017年4月8日,CC BY-SA,旭区,昭和30年-40年代(1955-1974), 淀川ワンド,昭和25(1950)年生まれ,昭和34(1959)年ごろ, 小学生の頃は淀川堤防左岸、赤川鉄橋の下にトロッコがおいてあり、それに乗って遊んでいました。また1日の探検といって、自宅の中宮から毛馬のこうもんまで歩くのがたのしかった。そのころ、淀川の中州はまっ白な砂があり、ワンドで泳いだり、冬はワンドの池の水が凍って、その上にのって遊んでいました。, 赤川鉄橋、城北公園内, ワンドとは河川改修の結果できた本流沿いにある水がたまっているところで、本流とつながっているか、或いは増水すれば連なるところをいいます。『旭区地域史』には、平成21(2009)年3月時点で、ワンドは淀川全体で55個あり、城北地区には19個が集中していると記載されています。また、同書では城北ワンド群は昭和30(1955)年頃に現在のワンドの原型ができ、天然記念物に指定されたイタセンパラをはじめ、生き物の宝庫として知られていること、1980年代以降に淀川大堰ができたことなどにより水質が悪化し、もともと淀川にいた魚に代わって、外来種が増えていることが記載されています。 『淀川のワンドに行ってみよう』では、ワンドに生息する魚や貝、動物、植物、野鳥が紹介されています。また、外来種や姿を消してしまった生き物も知ることができます。『自然観察地図 北大阪編』には「城北わんど群」の地図が収録されていて、平成10(1998)年-平成12(2000)年にかけての調査で確認できた生き物の名前やワンドの位置、形状、数などを知ることができます。(2022.2.2 旭図書館),『旭区地域史 -旭の今昔-』旭区の今昔を知る会/編集 大阪市旭区役所2012 書誌ID 0012556641 p.73|『淀川のワンドに行ってみよう。』「LOVE遊-淀川」キャンペーン実行委員会/編集 建設省近畿地方建設局淀川工事事務所 [1998] 書誌ID 0000828042|『自然観察地図 :新版 北大阪編』大阪市立自然史博物館友の会 2001 書誌ID 0011135592|旭区ホームページ「「旭区地域史」を発行しました」https://www.city.osaka.lg.jp/asahi/page/0000174707.html (2022年3月15日確認),2019年12月24日,CC BY-SA,旭区,昭和30年-40年代(1955-1974),川|遊び 平田のわたし,昭和25(1950)年生まれ,昭和38(1963)年ごろ, 中学生の頃、平田のわたしで初めて舟にのり、東淀の中学生に恐喝にあったりしました。私はお金を盗まれることはなかったが、友人がとられました。,," 平田(へいた)の渡しは、延宝4(1676)年ごろからはじまり、昭和45(1970)年に豊里大橋ができるまで約300年近くにわたり、現在の東淀川区豊里と旭区太子橋の間、淀川の対岸を結んでいました。戦後、周辺の市街地化で利用者も増え、片道の所要時間20分、船も20人乗りの手漕ぎ船だったことから、昭和35(1960)年10月に21人乗りの発動機船、38(1963)年12月には36人乗りの新造船を就航させ、最盛期には1日に約3,000人の乗客と670台の自転車を運んでいたそうです。 『旭区地域史』には「昭和31年(1956)頃の平太(田)の渡しは無料で、自転車や通勤通学の人が立ったまま乗っていた。子どもだけでは乗れず、夏休みに大人の側に隠れて乗る小中学生もいたが『船頭さん』は怒りながら川岸から離れるとあきらめていた」と、昭和21(1946)年生まれの方のエピソードが収録されています。(2022.1.25 旭図書館)",『旭区史』大阪都市協会/編集 旭区創設五十周年記念事業実施委員会 1983 書誌ID 0070035195|『旭区地域史 -旭の今昔-』旭区の今昔を知る会/編集 大阪市旭区役所2012 書誌ID 0012556641 p.73|旭区ホームページ「「旭区地域史」を発行しました」https://www.city.osaka.lg.jp/asahi/page/0000174707.html (2022年3月15日確認),2019年12月24日,CC BY-SA,旭区,昭和30年-40年代(1955-1974),川 旭学園幼稚園,昭和35(1960)年生まれ,昭和40(1965)年前後, 当時、生江にあった旭学園幼稚園に通っていました。通園はバスでした。バンビ号という名前で小鹿のイラストがかわいらしかったです。園舎には大きなすべり台があり、こどもたちはみんな2階から降りるのに、階段ではなく、このすべり台を使っていました。とても楽しかったことをおぼえています。, 旭学園幼稚園, 旭学園幼稚園は、旭区赤川2丁目にある幼稚園です。『旭区史』によると、開園は昭和26(1951)年とあります。『大阪府学校一覧 昭和42年度』より当時の所在地を確認すると、赤川町2-36(市電赤川町3南東200m)とあります。少し前の年代ですが、『大阪の私学』の「旭学園幼稚園」の項目では、園庭を写した白黒写真とともに、「定員200名(1、2年保育)専任教員7名」とあり、教育方針は「幼児心理に基いて、生活経験豊富で、健康明朗な幼児の育成」と記載されています。(2022.1.22 旭図書館),『旭区史』大阪都市協会/編集 旭区創設五十周年記念事業実施委員会 1983 書誌ID 0070035195|『大阪府学校一覧 昭和42年度』教育タイムス社 1967 書誌ID 0080222602|『大阪の私学』大阪府総務部教育課 1958 書誌ID 0070080475 p.49,2019年12月24日,CC BY-SA,旭区,昭和30年-40年代(1955-1974), 高殿小ではやっていた遊び,平成10(1998)年生まれ,2010-2011年ごろ, 小6のころ高殿小でリズムゲーム(明確な名前はなかった)が流行っていた。(1)2人以上で集まる。(2)それぞれひらがな2文字のニックネームを決める。(3)じゃんけんをして順位をつける。(4)ひろが最上位なら「せーの」で「ひろからはじまるリズムにあわせて」と皆で言う。(動作のイラスト省略、図書館注 : 4拍子のリズム、1拍目は太ももをたたく→2拍目は手拍子→3拍目は右手を握り親指を突き出す→4拍めは左手を握り親指を突き出す) (5)ひろが「ひろ?」(?の中には数あるいは「チェケ」という言葉が入る。大抵は10までの数を入れた。「チェケ」と言ったら必ず「ヨー」「チェケ」「ラッ」「チョ」と言う。※動作は皆でずっと続ける。リズムがとまったら、止めた人の負け。 マスイストアー、バッタ公園のバッタの色、戦争ゲーム(ぐんかん(グー)、ちんぼつ(チョキ)、はれつ)パー))、色取り忍者, 高殿小学校, 『New!いちばんたのしいレクリエーションゲーム』に「リズム4」と題してイラスト入りで遊び方が紹介されていて、思い出の遊びを確認することができます。シンプルで楽しく、子どもからシニマまで楽しめるゲームで、「TBS系「学校へ行こう」で人気になったゲームです」と記載されています。同書には二次元コードも記載され、動画で遊び方を見ることもできます。(2022.1.29 旭図書館),『New!いちばんたのしいレクリエーションゲーム』小山混/著 主婦の友社 2018 書誌ID 0014423532 p.76-77,2020年8月9日,CC BY-SA,旭区,平成(1989-2019),遊び 旭区城北の菖蒲園,昭和35(1960)年生まれ,令和2(2020)年, 城北のしょうぶ園によく行く。良いところなので残ってほしい。, 城北菖蒲園, 城北菖蒲園のパンフレットによると、城北菖蒲園は旭区の城北公園にある菖蒲園です。昭和39(1964)年に開園しました。面積1.3ヘクタールのなかに江戸系、肥後系、伊勢系の三種の系統の菖蒲を栽培しています。花菖蒲の見ごろは5月下旬から6月中旬とのことです。(2020.5.28 城東図書館),『城北菖蒲園』大阪市ゆとりとみどり振興局城北公園事務所 [200-] 書誌ID 0012181230,2020年5月26日,CC BY-SA,旭区,令和(2019以降), 高架下の公園,平成20(2008)年生まれ,平成29(2017)年-令和2(2020)年ごろ, ぱんこうでジャングルおになどをして遊んだ。, 中宮5丁目くらいの高架下, 「大阪市都市公園一覧表(令和3年4月1日現在)」を見ると、旭区内38か所の公園の中で高架下にあるのは「大宮北公園」だけです。住所は大宮5丁目、昭和51(1976)年に開設されています。地図で確認すると、大宮5丁目と中宮5丁目は隣接していますので、思い出の場所は大宮北公園のことと思われます。大阪工業大学の南側、阪神高速の下にある細長い公園です。 「ジャングルおに」について『チャレンジ!あそび大事典』では、「ジャングルジム・オニ」として「ふつうのオニごっことちがうのは、オニがすぐ近くにいること。だから、にげるほうはスリル満点だよ。オニにタッチされるか、地面に降りてしまったら、その人がオニに交代。」と解説されています。(2022.1.29 旭図書館),大阪市ホームページ「大阪市都市公園一覧表(令和3年4月1日現在)」https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000372135.html (2022年1月12日確認)|『チャレンジ!あそび大事典』偕成社 2004 書誌ID 0010723551 p.35,2021年12月19日,CC BY-SA,旭区,平成(1989-2019)|令和(2019以降),公園|遊び 森小路の銀行,昭和31(1956)年生まれ,昭和40(1965)年ごろ, 昭和30年ごろ、今の森小路2丁目に三菱銀行がありました。その後、森小路1丁目の今のマンションの場所に移り、さらに元の森小路2丁目に戻りました。当時の銀行はどこでも貯金箱を配布していましたが、三菱銀行はディズニーのキャラクターの人形で、ドナルドダック、ミッキーマウス、バンビ、プーさんなど、多くの種類がありました。最初のころには鉛筆型もありました。, 森小路駅周辺, 昭和55(1980)年刊行の『三菱銀行史 続』より「森小路支店」の沿革を見ると、昭和20(1945)年4月に大阪市旭区森小路町5丁目133番地(現在地)に開設、住所表示変更により「大阪市旭区森小路2丁目17番17号」となったことが確認できます。また、同書には「36年11月には、銀行界における貯金箱ブームの先頭を切って、子豚の貯金箱、愛称ブーチャン貯金箱が誕生している。(中略)ブーチャン人気を受け継いで登場したのが、ディズニー・キャラクターである。37年12月のディズニー・プロダクションとの版権契約と同時に、当行絵入り通帳に採用され、翌38年1月には、現在まで続けられているディズニー貯金箱シリーズの第1号として、ドナルドダックの貯金箱が誕生している」と記載されています。 三菱銀行は統合により三菱UFJ銀行となりましたが、同行のホームページより「森小路支店」を確認すると「2021年3月22日(月)より大阪京橋支店・京阪京橋支店内に移転しました」と記載されていました。(2022.1.19 旭図書館),『三菱銀行史 続』調査部銀行史編纂室/編纂 三菱銀行 1980 書誌ID 0080151647 p.330|三菱UFJ銀行ホームページ 「ATM・店舗のご案内(森小路支店)」https://map.bk.mufg.jp/b/bk_mufg/info/BA590173/ (2022年1月19日確認),2021年12月21日,CC BY-SA,旭区,昭和30年-40年代(1955-1974), 旭図書館,昭和36(1961)年生まれ,平成10(1998)年ごろ, 昭和50(1975)年、大阪市立旭図書館が開設されたころの話はわかりませんが、平成10年ごろ、長男が小学生のころには、今の大阪市立旭子育て支援センターの場所にあった図書館によく通っていました。旭図書館のカードの色は水色で、左上に紐を通す穴が開いており、その紐もカウンターで配布されていました。, 旭区森小路2-5-29, 大阪市立図書館100周年・中央図書館60周年記念「図書館にまつわる思い出のこし」でお寄せいただいた思い出です。 旭図書館の旧館は延床面積604.37平方メートル、住所は旭区森小路2-5-29、現在も旭総合福祉センターとして活躍している建物の3階部分にありました。地下鉄千林大宮駅すぐ、京かい道商店街、千林商店街も近く、にぎやかな場所に位置します。大阪市立図書館としては7番目の図書館として、昭和50(1975)年4月に開館しました。『図書館通信 No.46(1975年6月)』には開館日初日、子どもたちでにぎわう旭図書館の写真が掲載されています。 平成4(1992)年にエレベーターが設置されて利用層が拡大、また平成5(1993)年2月からはコンピューターが導入され、貸出冊数は1人4冊から8冊になり、利用が急増しました。 平成12(2000)年1月に現在地に建替え移転するまでの24年間、多くの方々にご利用いただきました。(2022.1.21 旭図書館),『大阪市立図書館100年史』大阪市立中央図書館 2021 書誌ID 0015122318 (大阪市立図書館ホームページ「大阪市立図書館100周年 中央図書館60周年」よりご覧いただけます https://www.oml.city.osaka.lg.jp/?page_id=1794#_11668 )|『図書館通信 -大阪市立図書館報- No.1~58』大阪市立中央図書館 1960-1981 書誌ID 0012118683|『大阪市立図書館年報 平成7年度』大阪市立中央図書館 1996 書誌ID 0011945834 p.14,2021年12月24日,CC BY-SA,旭区,平成(1989-2019),図書館 旭図書館2,昭和33(1958)年生まれ,昭和59(1984)年ごろ, 移転前の旭図書館へ、長女をおぶって通いました。結婚して以来、40年旭区で暮らしています。娘は赤ん坊のころから愛想のよい子で、貸出の列に並んでいると、周りの方から「可愛い、可愛い」と言ってもらって、新米の母親として大変うれしかったのを覚えています。, 図書館は地下鉄千林大宮駅の出口近く、旭保健所の2階でした。, 大阪市立図書館100周年・中央図書館60周年記念「図書館にまつわる思い出のこし」でお寄せいただいた思い出です。 旭図書館の旧館は延床面積604.37平方メートル、住所は旭区森小路2-5-29、現在も旭総合福祉センターとして活躍している建物の3階部分にありました。地下鉄千林大宮駅すぐの立地で、京かい道商店街、千林商店街も近く、にぎやかな場所に位置します。大阪市立図書館としては7番目の図書館として、昭和50(1975)年4月に開館しました。『図書館通信 No.46(1975年6月)』には開館日初日、子どもたちでにぎわう旭図書館の写真が掲載されています。 平成4(1992)年にエレベーターが設置されて利用層が拡大、また平成5(1993)年2月からはコンピューターが導入され、貸出冊数は1人4冊から8冊になり、利用が急増しました。 平成12(2000)年1月に現在地に建替え移転するまでの24年間、多くの方々にご利用いただきました。(2022.1.21 旭図書館),『大阪市立図書館100年史』大阪市立中央図書館 2021 書誌ID 0015122318 (大阪市立図書館ホームページ「大阪市立図書館100周年 中央図書館60周年」よりご覧いただけます https://www.oml.city.osaka.lg.jp/?page_id=1794#_11668 )|『図書館通信 -大阪市立図書館報- No.1~58』大阪市立中央図書館 1960-1981 書誌ID 0012118683|『大阪市立図書館年報 平成7年度』大阪市立中央図書館 1996 書誌ID 0011945834 p.14,2021年12月25日,CC BY-SA,旭区,昭和50年-60年代(1975-1989),図書館 新森中央公園,昭和33(1958)年生まれ,昭和59(1984)年ごろ, 新森中央公園でよちよち歩きの娘を遊ばせました。今とちがって、金網で囲まれた動物園(?)的なものがあったように思うのですが、記憶ちがいでしょうか?, 新森中央公園," 「新森中央公園」は旭区新森4丁目にある、面積約8,800平方メートルの公園です。大正末期から昭和戦前にかけて行われた土地区画整理事業の中で、昭和7(1932)年につくられました。当時の名称は「森小路公園」。戦時中は食糧難を補うため菜園化され、戦後もしばらくは荒れるにまかせていましたが、昭和25(1950)年、「新森小路公園」と改称されて公園愛護会が誕生、愛護会の事業でさまざまな催しや定期清掃もはじまりました。昭和30(1955)年には初代の噴水池が竣工し、動物園よりガチョウ2羽、鯉15匹が寄贈されました(金網で囲まれていたかは確認できませんでした)。昭和47(1972)年、「新森中央公園」と改称、昭和56(1981)年自動放送設備付きの時計台が新設され、昭和58(1983)年に新森会館が竣工されました。『旭区地域史』には「昔の新森小路公園」と題された写真が収録されています。(2022.1.29 旭図書館)",『旭区地域史 -旭の今昔-』旭区の今昔を知る会/編集 大阪市旭区役所2012 書誌ID 0012556641 p.73|旭区ホームページ「「旭区地域史」を発行しました」https://www.city.osaka.lg.jp/asahi/page/0000174707.html (2022年3月15日確認)|大阪市ホームページ「大阪市都市公園一覧表(令和3年4月1日現在)」https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000372135.html (2022年1月12日確認),2021年12月25日,CC BY-SA,旭区,昭和50年-60年代(1975-1989),公園 旭区中宮,昭和58(1983)年生まれ,令和2(2020)年, 小さな子供を連れて転勤で来たのが旭区でした。知人もいなく、不安な毎日の中で、少しづつ友人もでき、楽しくすごしています。旭区の人はあたたかい人が多いと思いました。, 旭区中宮, 旭図書館の所在地でもある「中宮」を地名辞典で確認すると、「昭和46(1971)年からの町名、もとは江野町と大宮西之町1~8丁目、中宮町1~6丁目、大宮北之町1~2丁目の各一部」とあります。さらに時代をさかのぼると、『旭区地域史』には「旭区の中宮地区は、榎並の荘土地区画整理事業として昭和7年(1932)より工事が始まり、昭和17 年(1942)に完成。今の様な碁盤目の町が完成した。それまで農業用水だった江野川は、雨水・悪水の排出路として利用目的が変更された」と記載されています。江野川の流れは現在の阪神高速守口線の高架下と重なりますが、昭和49(1974)年に江野川筋遊歩道として整備され、その姿を消しています。(2022.1.16 旭図書館),『角川日本地名大辞典 27 大阪府』「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865|『旭区地域史 -旭の今昔-』旭区の今昔を知る会/編集 大阪市旭区役所2012 書誌ID 0012556641 p.73|旭区ホームページ「「旭区地域史」を発行しました」https://www.city.osaka.lg.jp/asahi/page/0000174707.html (2022年3月15日確認),2021年12月28日,CC BY-SA,旭区,令和(2019以降), 城北ワンド,昭和51(1976)年生まれ,昭和55(1980)年代, 保育園の頃から小学生の頃まで、毎週のように城北公園と淀川のわんどに行っていた。一度タニシを大量にとったものの、すぐダメにして、めちゃめちゃくさかった。,, ワンドとは河川改修の結果できた本流沿いにある水がたまっているところで、本流とつながっているか、或いは増水すれば連なるところをいいます。『旭区地域史』には、平成21(2009)年3月時点で、ワンドは淀川全体で55個あり、城北地区には19個が集中していると記載されています。また、同書では城北ワンド群は昭和30(1955)年頃に現在のワンドの原型ができ、天然記念物に指定されたイタセンパラをはじめ、生き物の宝庫として知られていること、1980年代以降に淀川大堰ができたことなどにより水質が悪化し、もともと淀川にいた魚に代わって、外来種が増えていることが記載されています。 『淀川のワンドに行ってみよう』では、ワンドに生息する魚や貝、動物、植物、野鳥が紹介されています。また、外来種や姿を消してしまった生き物も知ることができます。『自然観察地図 北大阪編』には「城北わんど群」の地図が収録されていて、平成10(1998)年~平成12(2000)年にかけての調査で確認できた生き物の名前やワンドの位置、形状、数などを知ることができます。 『淀川 -写真集-』には「わんどの子供たち」と題された旭区中宮で撮影の写真が収録されています。(2022.1.21 旭図書館),『旭区地域史 -旭の今昔-』旭区の今昔を知る会/編集 大阪市旭区役所2012 書誌ID 0012556641 p.73|『淀川のワンドに行ってみよう』建設省近畿地方建設局淀川工事事務所 [1998] 書誌ID 0000828042|『自然観察地図 :新版 北大阪編』大阪市立自然史博物館友の会 2001 書誌ID 0011135592|『淀川 -写真集-』水谷正朗/著 編集工房ノア 1988 書誌ID 0000202824|旭区ホームページ「「旭区地域史」を発行しました」https://www.city.osaka.lg.jp/asahi/page/0000174707.html (2022年3月15日確認),2021年12月28日,CC BY-SA,旭区,昭和50年-60年代(1975-1989),川 清水北公園,平成4(1992)年生まれ,平成10(1998)年ごろ, 清水北公園でドッジボールなどをして遊んだ。公園はそれほど大きくなかったが、そのため遊んでいる子どももそれほど多くなかったので、公園内を目一杯走りまわることができた。当時は木製の遊具があり、よくその遊具で遊んだ記憶も残っています。, 清水北公園, 清水北公園は旭区清水3丁目にある公園です。「大阪市都市公園一覧表(令和3年4月1日現在)」によると、面積649平方メートル、昭和37(1962)年5月に開園されました。旭区内38か所の公園の中でも、面積は小さい公園です。当時の公園遊具について、記載されているものを見つけることはできませんでした。(2022.1.12 旭図書館),大阪市ホームページ「大阪市都市公園一覧表(令和3年4月1日現在)」https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000372135.html (2022年1月12日確認),2022年1月6日,CC BY-SA,旭区,平成(1989-2019),公園|遊び 千林商店街,昭和63(1988)年生まれ,平成5(1993)年-平成24(2012)年, 千林商店街、小さい時は家族で買い物をしたり、食事をしたりした。テレビで特集されることもあり、いつも明るく、にぎやかな商店街だったので、自分も前向きになれる場所だった。, 千林商店街, 京阪千林駅から国道1号線までの約660メートル、日本初のスーパーマーケット、ダイエー発祥の地としても知られる千林商店街は、『旭区地域史』によると「大正後期から昭和初期にかけて、大阪市の都市計画により国道1号の整備と、市電の守口までの延長、京阪電車の軌道移設などにより古市地区の道路が整備され、現在の千林商店街が形成された。(中略)戦後、戦災を免れた千林商店街は「品物の豊富さ」と「安さ」で、更に全天候型のアーケードをいち早く設けるなどで人気を得て、京阪沿線や旭区外からの買い物客を引き寄せ、(中略)大型店と小売店が共存共栄する商店街となった。その後、量販店の流通の変化で大型店が撤収し、「商品の豊富さ」と「安さ」の商店街として活発に発展し、現代に至っている。」と記載されています。 『パノラマウォーク大阪の商店街 上』では「全国にその名をとどろかす、加盟店200を超す激安商店街」として、千林商店街のあゆみや1998年刊行当時の店舗地図とともに紹介されています。また、『旭区商店街お買い物ブック』『商店街へ行こう!』にも、それぞれの本の刊行当時の店舗地図や、一部店舗の紹介が記載されています。(2022.1.12 旭図書館),『旭区地域史 -旭の今昔-』旭区の今昔を知る会/編集 大阪市旭区役所2012 書誌ID 0012556641 p.73|『元気のある商店街の形成 -千林商店街とその周辺-』石村真一/著 東方出版 2004 書誌ID 0010711613|『パノラマウォーク大阪の商店街 上』大阪市商業振興企画株式会社/企画・編集 大阪市経済局 [1998] 書誌ID 0000684575 p.66-69|『旭区商店街お買い物ブック』大阪商工会議所旭・城東・鶴見支部 2009 書誌ID 0012272914|『商店街へ行こう! -旭区商店街ショッピング探索マップ-』旭区商店会連盟 2014 書誌ID 0014132348|旭区ホームページ「「旭区地域史」を発行しました」https://www.city.osaka.lg.jp/asahi/page/0000174707.html (2022年3月15日確認),2022年1月6日,CC BY-SA,旭区,平成(1989-2019), 「知の宝庫」旭図書館,昭和27(1952)年生まれ,, 大宮小学校で夏、冬休み図書室の本を借りるのが楽しみだった。(当時、学校近くには畑も残っていた)中学卒業の頃、確か今の「老人福祉センター」に旭図書館ができた。大学入試に失敗し、浪人中、「坊ちゃん」漱石著などここに来てむさぼるように読んだ。その後進学できて卒論時は専門書をよく借りに来た。その後、図書館は現在地へ移転し10万冊近くに蔵書も増える。故母の介護中は料理本、介護の本、コロナ時は美術館代わりに芸術の写真を見て楽しんだ。この「知の宝庫」図書館は私の70才近くの人生の歩みの中で「高校・大学進学、[浪人]、社会人…家族の介護」と人生の岐路に立った時にそっと見守り、背中を押し、私のもつれた心をときほぐし、暗やみの中の「灯明」で「道しるべ」を示してくれた。自分の人生に欠かせないかけがえのない施設、「知の宝庫」図書館に感謝を込めます。, 旭図書館," 大阪市立図書館100周年・中央図書館60周年記念「図書館にまつわる思い出のこし」でお寄せいただいた思い出です。 旭図書館の旧館は延床面積604.37平方メートル、住所は旭区森小路2-5-29、現在も旭総合福祉センターとして活躍している建物の3階部分にありました。地下鉄千林大宮駅すぐの立地で、京かい道商店街、千林商店街も近く、にぎやかな場所に位置します。大阪市立図書館としては7番目の図書館として、昭和50(1975)年4月に開館しました。『図書館通信 No.46(1975年6月)』には開館日初日、子どもたちでにぎわう旭図書館の写真が掲載されています。 創設当時の蔵書冊数は7,920冊(内、児童書5,649冊)、昭和50(1975)年の事業報告には蔵書回転率14.6回という数値が残っています。少ない蔵書でフル回転といった状況でした。 平成12(2000)年1月に現在地に建替え移転するまでの24年間ご利用いただきましたが、移転後は、旧館の2倍以上の広さとなり、開館時間延長、図書館資料・サービス内容の拡充などにより、一層たくさんの方にご利用いただくようになりました。(2022.2.1 旭図書館)",『大阪市立図書館100年史』大阪市立中央図書館 2021 書誌ID 0015122318 (大阪市立図書館ホームページ「大阪市立図書館100周年 中央図書館60周年」よりご覧いただけます https://www.oml.city.osaka.lg.jp/?page_id=1794#_11668 )|『図書館通信 -大阪市立図書館報- No.1~58』大阪市立中央図書館 1960-1981 書誌ID 0012118683|『大阪市立図書館年報 平成7年度』大阪市立中央図書館 1996 書誌ID 0011945834 p.14,2022年1月14日,CC BY-SA,旭区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989)|平成(1989-2019)|令和(2019以降),図書館 「心の糧」城北公園と私,昭和27(1952)年生まれ,, 小中学生時「竹馬の友」とこの公園でキャッチボールをした。また、私が15才時、故父が旅立ち、号泣したのもこの公園! 大学入学祝いに手弁当持参で藤棚に家族、友人と集まった日も懐かしい。また故母が花好きで「しょうぶ園菊祭り」など四季折々、車椅子で来て楽しんだ。しかし故母旅立ちの後、故母の介護の中心役の姉を、今度は私が車椅子でこの公園へ連れてくるようになり妙な感じだ。幼少時→成人→介護と私の家族をそっと見守ったこの公園に人生の筋目の想い出深い記憶が今も重なる。泣き笑いの人生をそっと見守ってくれたこの公園に感謝!, 城北公園, 菖蒲園で有名な城北公園は、大阪市第14回失業応急対策事業として旧淀川改修による廃河川敷を利用して開かれた公園で、昭和8(1933)年に起工され、翌9(1934)年3月に完成しました。「城北公園」の名前の由来として『旭区地域史』には、大阪城の北方に位置によりと記載されています。開設時、園地の3分の1は池でしたが、昭和27(1952)年には池を少し狭め、運動場が設けられました。菖蒲園が開園したのは昭和39(1964)年5月です。平成元(1989)年には菅原城北大橋がアーチ状に公園をまたぎ架橋され、平成5(1993)年に東ゾーンにみちばた広場完成、平成8(1996)年には西ゾーンの池の護岸整備、噴水が上がる池をめぐる並木散策路が完成しました。『目で見る大阪市の100年 上巻』には昭和45(1970)年頃の、城北公園大池でボート遊びをしている様子を撮影した写真が収録されています。(2022.1.29 旭図書館),『旭区史』大阪都市協会/編集 旭区創設五十周年記念事業実施委員会 1983 書誌ID 0070035195|『旭区地域史 -旭の今昔-』旭区の今昔を知る会/編集 大阪市旭区役所2012 書誌ID 0012556641 p.73|『目で見る大阪市の100年 上巻』『大阪市の100年』刊行会/編 郷土出版社 1998 書誌ID 0000706420 p.99|旭区ホームページ「「旭区地域史」を発行しました」https://www.city.osaka.lg.jp/asahi/page/0000174707.html (2022年3月15日確認),2022年1月14日,CC BY-SA,旭区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989)|平成(1989-2019)|令和(2019以降),公園 高架下の公園,昭和58(1983)年生まれ,平成3(1991)-4(1992)年ごろ, 阪神高速の高架下の公園でよく遊んだ。,, 「大阪市都市公園一覧表(令和3年4月1日現在)」を見ると、旭区内38か所の公園の中で高架下にあるのは「大宮北公園」だけです。住所は大宮5丁目、昭和51(1976)年に開設されています。大阪工業大学の南側、阪神高速の下にある細長い公園です。(2022.1.22 旭図書館),大阪市ホームページ「大阪市都市公園一覧表(令和3年4月1日現在)」https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000372135.html (2022年1月12日確認),2022年1月15日,CC BY-SA,旭区,平成(1989-2019),公園 旭図書館3,昭和49(1974)年生まれ,小学校2年生か3年生くらい, 小学生のころから旭図書館にはよくいっていました。まだ地下鉄の千林大宮駅の上にあるころです。2年生か3年生の時に紙しばいをかりて、返却するのがおそくなった時に、年配の司書の方におこられてから、おくれてはいけないんだとおくれてかえすことがこわくなり、いまでもおくれないようになっています。いい思い出です。, 旭図書館," 大阪市立図書館100周年・中央図書館60周年記念「図書館にまつわる思い出のこし」でお寄せいただいた思い出です。 旭図書館の旧館は延床面積604.37平方メートル、住所は旭区森小路2-5-29、現在も旭総合福祉センターとして活躍している建物の3階部分にありました。地下鉄千林大宮駅すぐの立地で、京かい道商店街、千林商店街も近く、にぎやかな場所に位置します。大阪市立図書館としては7番目の図書館として、昭和50(1975)年4月に開館しました。『図書館通信 No.46(1975年6月)』には開館日初日、子どもたちでにぎわう旭図書館の写真が掲載されています。 創設当時7,920冊(内、児童書5,649冊)の蔵書からスタートしましたが、昭和56(1981)年24,309冊(内、児童書11,066冊)、昭和57(1982)年26,129冊(内、児童書11,683冊)、昭和58(1983)年28,253冊(内、児童書12,143冊)、昭和59(1984)年30,355冊(内、児童書13,246冊)、昭和60(1985)年35,038冊(内、児童書14,819冊)と徐々に増加していきました。コンピューターが導入され、貸出冊数が1人4冊から8冊になったのは平成5(1993)年2月からです。 平成12(2000)年1月に現在地に建替え移転するまでの24年間、多くの方々にご利用いただきました。(2022.2.1 旭図書館)",『大阪市立図書館100年史』大阪市立中央図書館 2021 書誌ID 0015122318 (大阪市立図書館ホームページ「大阪市立図書館100周年 中央図書館60周年」よりご覧いただけます https://www.oml.city.osaka.lg.jp/?page_id=1794#_11668 )|『図書館通信 -大阪市立図書館報- No.1~58』大阪市立中央図書館 1960-1981 書誌ID 0012118683|『大阪市立図書館年報 平成7年度』大阪市立中央図書館 1996 書誌ID 0011945834 p.14|『大阪市立図書館25年の歩み -1961~1986-』大阪市立中央図書館 1986 書誌ID 0000716521 p.34-35,2022年1月19日,CC BY-SA,旭区,昭和50年-60年代(1975-1989),図書館 城北運河の染工場,昭和49(1974)年生まれ,小学校2年生か3年生くらい, 旭図書館は建て替えで城北運河そばにうつってきて家の近くにできたのですが、建て替え前は染工場が2軒たっていて、父が染工場につとめていたので(そこではないのですが)、「大阪もどんどん染工場がなくなっていくわ」と話していたのをおぼえています。, 城北運河, 大阪市立図書館100周年・中央図書館60周年記念「図書館にまつわる思い出のこし」でお寄せいただいた思い出です。 城北運河(現:城北川)は城東区今福2丁目の寝屋川右岸から、都島区友淵町の旧淀川左岸まで、寝屋川と大川を結んで開削された人工の水路です。全長は5.6キロメートル、川幅40メートル、平均水深は3.5メートル。昭和15(1940)年に完成しました。『角川日本地名大辞典 27大阪府』の「城北運河」の項目には、「流域一帯は低湿地で、しばしば高潮・洪水の被害を受けた。しかし、大阪市の工業発展につれて、流域にガラス・紡績・化学工業が発展し、都市計画の一環として工業地域に指定され、毛馬・城北・榎並之荘・森小路・菫之荘および今福の各地区に土地整理組合が設立され、都市計画道路も整った。しかし、原材料輸送に必要な舟運を欠き、その欠陥を補うために運河開削が決定され、(中略)流域一帯の工業は一層発展した」とあります。しかし、昭和30年代後半から、河川地域の発展による工場廃水、住民の生活廃水の増加により水質悪化が深刻化したため、河川敷に下水管を埋設して汚水を遮断するとともに河岸緑地などを整備する工事が昭和41(1966)年から始まり、49(1974)年に完成、昭和50(1975)には両岸に、城北遊歩道が全線開通しています。 旭図書館は旭区民センター、芸術創造館と併設して、平成12(2000)年1月に現在地(大阪市旭区中宮1-11-14)に建て替え移転しましたが、その所在地を住宅地図でさかのぼると、1994年発行の地図では(株)関西染工場と記載されていましたが、1995年発行の地図では城北川改修事業現場となっていました。また西隣に佐野毛晒工場という染工場があり、この工場は2001年までは記載されていましたが、2003年発行の住宅地図ではガソリンスタンドに置きかわっていました。(2022.2.2 旭図書館),『旭区地域史 -旭の今昔-』旭区の今昔を知る会/編集 大阪市旭区役所2012 書誌ID 0012556641 p.73|『角川日本地名大辞典 27 大阪府』「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865|『旭区史』大阪都市協会/編集 旭区創設五十周年記念事業実施委員会 1983 書誌ID 0070035195|『大阪市精密住宅地図 -旭区-』吉田地図 1994 書誌ID 0000491729|『ゼンリン住宅地図 大阪市旭区 '96』ゼンリン 1995 書誌ID 0000528747|『ゼンリン住宅地図 大阪市旭区 [2001]』ゼンリン 2001 書誌ID 0010130691|『ゼンリン住宅地図大阪市旭区 [2003]』ゼンリン 2003 書誌ID 0010477896|『大阪府工場便覧 昭和57年度版』大阪府/編集 大阪府工業協会 1983 書誌ID 0012640623|旭区ホームページ「「旭区地域史」を発行しました」https://www.city.osaka.lg.jp/asahi/page/0000174707.html (2022年3月15日確認),2022年1月19日,CC BY-SA,旭区,昭和50年-60年代(1975-1989),川 榎並公園前の駄菓子屋,平成8(1996)年生まれ,小学1・2年生のころ(図書館注:平成14(2002)年から平成16(2004)年の頃と思われます), 榎並公園の正面に駄菓子屋さんがあった。,, 大阪市の「都市公園一覧表」によると榎並公園は昭和52(1977)年4月1日に開園しました。ただし、昭和49(1974)年の住宅地図をみると、該当する場所はすでに「遊園地」の記載があり、子どもが遊ぶ施設があったことがわかります。 思い出にある駄菓子屋ですが、2002年頃の住宅地図を参照する限りではわかりませんでした。(2020.5.26 城東図書館) 令和2(2020)年6月1日に、現地で近くに住む方に聞き取りを行ったところ、榎並公園の南向かいにある「日用品」の看板を掲げたお店で駄菓子を扱われていたとのことです。ただし、詳細は未確認です。(2020.6.3 城東図書館),大阪市ホームページ「都市公園一覧表」https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000372135.html (2020年5月26日確認)|『大阪市精密住宅地図 城東区 -全商工住宅案内図帳- [昭和49年]』[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011421897|『ゼンリン住宅地図大阪市城東区 [2002]』ゼンリン 2002 書誌ID 0010436249,2020年5月26日,CC BY-SA,城東区,平成(1989-2019),公園 鴫野西の商店街にあったお肉屋さん「ナカニシ」,昭和30(1955)年生まれ ,平成8(1996)年ごろ, 鴫野西1丁目付近。鴫野西2の交差点を北向きに、商店街があった。「ナカニシ」というお肉屋さんがあり、そこのコロッケがおいしかった。,, 思い出にある商店街は京橋南商店街です。昭和49(1974)年に出版された『城東区史』によると、京橋南商店街は昭和25(1950)年に形成され、昭和47(1972)年に当時の名称であった西鴫野商店街振興組合から改組・改称されたとのことです。 平成10(1998)年の住宅地図を参照した限りでは、「ナカニシ」という名前の精肉店を見つけることはできませんでした。周辺には「仲一商店」「精肉マルハ(「は」を〇で囲む)総本店」といったお店が確認できます。(2020.5.31 城東図書館),『城東区史』木村武夫/編集 城東区史編纂委員会 1974 書誌ID 0000246500|『大阪市精密住宅地図 城東区 [1998]』吉田地図 1998 書誌ID 0000691102,2020年5月31日,CC BY-SA,城東区,平成(1989-2019), 鴫野の駄菓子屋「サエキ」「ハヤシ」,昭和60(1985)年生まれ ,小学生の頃, 鴫野でよく「サエキ」という駄菓子屋さんに行っていた。店のおばあちゃんが優しくて、そのおばあちゃんに会いに行く感じだった。「ハヤシ」という駄菓子屋さんもあった。,, 平成10(1998)年当時の住宅地図を見ながらお話しいただきました。京橋南商店街(現在は主要地方道上新庄生野線)を少し東に入ったところにあったそうです。残念ながらそれとわかるお店は見つかりませんでしたが、地図からは、周辺が食料品店などの立ち並ぶ地域であったことがわかります。(2020.5.31 城東図書館),『大阪市精密住宅地図 城東区 [1998]』吉田地図 1998 書誌ID 0000691102,2020年5月31日,CC BY-SA,城東区,昭和50年-60年代(1975-1989)|平成(1989-2019), 城東商店街,昭和58(1983)年生まれ,令和2(2020)年, 城東商店街はモノが安く買えるので、よく行く, 城東商店街, 昭和49(1974)年に発行された『城東区史』によると、城東商店街は昭和22(1947)年に形成。『城東区史』が書かれた当時は、区内の商店街のなかでも区の中央に位置するとして、紙幅を割いて説明されています。特にアーケードや照明の設置といったところが取り上げられています。 平成26年商業統計表(二次加工統計表)立地環境特性別統計編によると、「城東商店街」の事業所数は20。城東商店街のホームページに掲載されている「がもよんマップ」ではより多くのお店が紹介されています。(2020.5.31 城東図書館),『城東区史』木村武夫/編集 城東区史編纂委員会 1974 書誌ID 0000246500|経済産業省 平成26年商業統計表(二次加工統計表)(立地環境特性別統計編(小売業))https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/syougyo/result-2/h26/index-ricchidata.html (2020年5月31日確認)|城東商店街 城東商店街とはhttps://joto-shotengai.com/about (2020年5月31日確認),2020年5月31日,CC BY-SA,城東区,令和(2019以降), 古市中公園の愛称,昭和48(1973)年生まれ,令和2(2020)年, 古市中公園。すみれ小学校の隣の公園を、子どもが「スミコウ」と呼んでいる。, 古市中公園, 古市中公園は大阪市「都市公園一覧表」によると、昭和33(1958)年5月5日に設置され、その後平成23(2011)年に区域拡張が行われているようです。(2020.5.31 城東図書館),大阪市ホームページ「都市公園一覧表」https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000372135.html (2020年5月26日確認),2020年6月6日,CC BY-SA,城東区,令和(2019以降),公園 スーパーマーケット,昭和17(1942)年生まれ,, 関西スーパーや阪急オアシス、ライフ、コーナン、京阪モールでよく買い物をする。昔は城東商店街で買い物をしていた。関西スーパーができてからはそちらに行くようになった。,, 思い出にある各スーパーマーケットの開店年を『日本スーパー名鑑 '19』店舗編4巻に掲載されている情報から追ってみました。関西スーパー(蒲生店)は平成9(1997)年10月17日に開店しました。その後、平成20(2008)年3月1日に改装されています。阪急オアシス(野江店)は平成16(2004)年、ライフは関目店が平成11(1999)年、深江橋店が平成9(1997)年、京橋店が平成25(2013)年、セントラルスクエア森ノ宮店は平成27(2015)年に開店しています。ホームセンターコーナン(関目店)は平成11(1999)年に、コーナンPRO城東東中浜店は平成30(2018)年に開店しています。ショッピングモールである京阪モールを除けば、いずれも平成10年前後あたりから開店した、比較的新しい店舗であることが分かります。京阪モールは昭和45(1970)年4月に開店。平成2(1990)年には開設20周年の記念誌が出版されています。 昭和49(1974)年に発行された『城東区史』によると、城東商店街は昭和22(1947)年に形成され、『城東区史』が書かれた当時は、区内の商店街のなかでも区の中央に位置するとして、紙幅を割いて説明されています。特にアーケードや照明の設置といったところが取り上げられています。 平成26年商業統計表(二次加工統計表)立地環境特性別統計編によると、「城東商店街」の事業所数は20とあります。城東商店街のホームページに掲載されている「がもよんマップ」ではより多くのお店が紹介されています。(2020.6.10 城東図書館),『日本スーパー名鑑 '19 店舗編 4巻 近畿』商業界 2018 書誌ID 0014593292|『京阪モール20年のあゆみ』京阪電鉄商事株式会社 1990 書誌ID 0090012559|『城東区史』木村武夫/編集 城東区史編纂委員会 1974 書誌ID 0000246500|経済産業省 平成26年商業統計表(二次加工統計表)(立地環境特性別統計編(小売業))https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/syougyo/result-2/h26/index-ricchidata.html (2020年5月31日確認)|城東商店街 城東商店街とはhttps://joto-shotengai.com/about (2020年5月31日確認),2020年6月6日,CC BY-SA,城東区,平成(1989-2019), 城東商店街の様々なお店,昭和18(1943)年生まれ,, 蒲生の商店街によく行った。スーパーができて、そうした専門の店が少なくなった。自分が専門の店が好きで、そちらによく行っていた。魚屋さんやかしわ屋さん、新鮮でよかった。まわりの店が閉店時間になっても、それらの店はまだ開けていた。,, 城東商店街の思い出としていただきました。昭和49(1974)年に発行された『城東区史』によると、城東商店街は昭和22(1947)年に形成され、『城東区史』が書かれた当時は、区内の商店街のなかでも区の中央に位置するとして、紙幅を割いて説明されています。特にアーケードや照明の設置といったところが取り上げられています。 平成26年商業統計表(二次加工統計表)立地環境特性別統計編によると、「城東商店街」の事業所数は20とあります。城東商店街のホームページに掲載されている「がもよんマップ」ではより多くのお店が紹介されています。 少し古くなりますが、昭和35(1960)に発行された『大阪優良市場名鑑』には城東商店街にあった城東市場が紹介されており、鳥一かしわ店、川口精肉店などのお店が紹介されていました。これらが思い出にあるお店であるかは未確認ですが、このうち鳥一かしわ店の名前は平成23(2011)年版のゼンリン住宅地図まで確認できます。(2020.6.10 城東図書館),『大阪優良市場名鑑』関西タイムス社 [1960] 書誌ID 0000465618|『城東区史』木村武夫/編集 城東区史編纂委員会 1974 書誌ID 0000246500|経済産業省 平成26年商業統計表(二次加工統計表)(立地環境特性別統計編(小売業))https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/syougyo/result-2/h26/index-ricchidata.html (2020年5月31日確認)|城東商店街 城東商店街とはhttps://joto-shotengai.com/about (2020年5月31日確認)|『ゼンリン住宅地図大阪市城東区 [2010]』ゼンリン 2010 書誌ID 0012130643|『ゼンリン住宅地図大阪市城東区 [2011]』ゼンリン 2011 書誌ID 0012340238|『ゼンリン住宅地図大阪市城東区 [2012]』ゼンリン 2012 書誌ID 0012554227,2020年6月6日,CC BY-SA,城東区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989)|平成(1989-2019), 飲食店と書店,昭和47(1972)年生まれ,, この街に10年くらい住んでいるが、飲食店が多い。大きな本屋があればと思う。,, 政府統計の総合窓口(e-Stat)で平成28年経済センサスから、大阪市城東区における産業(小分類)の事業所数をみると、書籍・文房具小売業の29件に対して、飲食店は617件と、大きく差がついています。統計の分類上、書店と文房具店は一緒になっているため、実際の書店数はもっと少ないと考えられます。(2020.6.6 城東図書館),e-Stat 政府統計の総合窓口https://www.e-stat.go.jp/ (2020年6月6日確認)「経済センサス‐活動調査 平成28年経済センサス-活動調査 事業所に関する集計 産業横断的集計」表番号9「産業(小分類),従業者規模(8区分),経営組織(4区分)別民営事業所数,男女別従業者数及び常用雇用者数―都道府県,市区町村」より、「606書籍・文房具小売業」と「76飲食店」を比較,2020年6月6日,CC BY-SA,城東区,令和(2019以降), 蒲生中学校の校舎と粘土,昭和41(1966)年生まれ,40年くらい前(図書館注:昭和50年代の思い出と思われます), 中学生の時、蒲生中学校の裏庭で粘土の授業をしていた。その時、男子学生が塀の向こうの建物に向けて粘土を投げ出した。先生はすごく怒っていた。その建物は壁が白い、新しい建物で、それが汚れた。先生からは全員正座させられた。粘土の跡はしばらくついていた。,, 学校の北側のあたりでの出来事と、追加で聞き取りました。大阪市立蒲生中学校は昭和22(1947)年、大阪市立城東第二中学校として創立しました。平成9(1997)年に発行された50周年記念誌によると(思い出の時期を昭和50年代中頃と考え)、ちょうどその時期には、プールの改修工事や、女子バレーボール部が全国大会で優勝した時期と重なります。(2020.6.6 城東図書館),『創立50周年記念誌 -蒲生中学校のあゆみ-』大阪市立蒲生中学校創立50周年記念事業委員会 1997 書誌ID 0000686391,2020年6月6日,CC BY-SA,城東区,昭和50年-60年代(1975-1989), 城東区の映画館,昭和25(1950)年生まれ,昭和35(1960)年の吉田地図の住宅地図に載っていたと記憶しています。, 城東商店街に映画館が2つありました。城東東映(東映系)とテアトル城映(第二東映で、旧城東市場の二階で現存しています)がありました。また、鴫野には3館ありました。城東映劇(日活、駅前)、シギノ大劇、シギノ映劇(ここで「赤ひげ」を観ました)。城東映劇はパチンコ屋の「天野屋」のビルにありました。大劇と東劇は現存していません。,, 昭和35(1960)年の『映画便覧』を参照してみると、当時、城東区には11の映画館があったことが分かります。思い出のなかにある映画館では、城東東映とシギノ大劇、シギノ映劇が確認できます。テアトル城映は昭和32(1962)年の『映画便覧』では記載されていました。昭和35年の住宅地図でパチンコ店の天野屋は確認できましたが、そのビルにあったという城東映劇は記載されていませんでした。(2021.6.8 城東図書館),『映画便覧 1960年版』池田雄蔵/編 時事通信社 1960 書誌ID 0080277921 (『映画年鑑』1960年版別冊)|『映画便覧 1962年版』池田雄蔵/編 時事通信社 1962 書誌ID 0080277922 (『映画年鑑』1962年版別冊)|『大阪市全商工住宅案内図帳 城東区 -南部- [昭和35年]』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167536 (1960年の復刻),2020年9月30日,CC BY-SA,城東区,昭和20年代まで(1926-1954)|昭和30年-40年代(1955-1974), たこあげ,昭和30(1955)年生まれ,昭和35(1960)年頃, たこあげ。家の近くにあった空地でよく遊びました。, 城東商店街の南端。今のグリーンアートあたり。, 昭和35(1960)年の住宅地図で付近を見ると、「城東金型KK」という表記があり、空地であることは確認できませんでした。この会社や空地に関する詳しいことは不明ですが、同じ住宅地図の鴫野西4丁目にも「城東金型」の表記があります。(2021.6.1 城東図書館),『大阪市精密住宅地図 城東区 -全商工住宅案内図帳- [昭和49年]』[吉田地図] 2007 書誌ID 0011421897 (1974年の復刻),2020年12月18日,CC BY-SA,城東区,昭和30年-40年代(1955-1974),遊び 工場跡地で野球,昭和30(1955)年生まれ,昭和40(1965)年頃, 野球。家の裏にあった工場跡地で、ソフトボールでよく遊びました。, 今の金井産婦人科のある場所, 昭和35(1960)年の住宅地図には、この場所は「旭鉄工所鋳造部」と記載されています。また、昭和49(1974)年の住宅地図には「野村産婦人科」と表記されています(「金井」と並列で記載されています)。(2021.6.1 城東図書館),『大阪市全商工住宅案内図帳 城東区 -北部- [昭和35年]』[吉田地図] 2006(1960年の復刻) 書誌ID 0011167549 |『大阪市精密住宅地図 城東区 -全商工住宅案内図帳- [昭和49年]』[吉田地図] 2007 書誌ID 0011421897 (1974年の復刻),2020年12月18日,CC BY-SA,城東区,昭和30年-40年代(1955-1974),遊び 旧城東消防署,昭和25(1950)年生まれ,昭和37(1962)年から40(1965)年頃, 旧城東消防署が現在の聖賢会館のところにあった。第2室戸台風の時に火の見やぐらが国道1号線側に倒れた。,, 『城東区史』によると、思い出にある城東消防署は昭和24(1949)年に当時の城東区蒲生町4丁目35番地に新築移転されたとあります。この庁舎は、昭和36(1961)年9月16日の第二室戸台風で望楼が倒れ、庁舎が大破したため、昭和38(1963)年に現在地の城東区中央3丁目4-20(移転当時の住所は城東区蒲生町5丁目41-4)に新築移転されました。 『城東区制70周年記念誌』には台風で倒れた望楼の写真が掲載されています。(2021.8.24 城東図書館),『城東区史』木村武夫/編集 城東区史編纂委員会 1974 書誌ID 0000246500|『城東区制70周年記念誌 -歴史で振り返る城東区-』城東区制70周年記念事業実行委員会 2013 書誌ID 0012734486,2021年1月17日,CC BY-SA,城東区,昭和30年-40年代(1955-1974),災害 新喜多大橋の南詰に料亭らしき建物,昭和25(1950)年生まれ,昭和37(1962)年から40(1965)年頃, 新喜多大橋の南詰(旧鯰江川の南)に料亭らしきものがあった。庭がきれいな、堀のある建物の印象が残っている。,, 当時の住宅地図等では料亭らしき建物を確認することができませんでした。新喜多大橋は昭和30(1955)年に架けられた橋で、合成格子桁橋と呼ばれる技術が全国で初めて採用されています。(2021.5.6 城東図書館),『大阪市全商工住宅案内図帳 城東区 -北部- [昭和35年]』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167549 (1960年の復刻)|『大阪市全商工住宅案内図帳 城東区 -南部- [昭和35年]』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167536 (1960年の復刻)|『大阪の橋』松村博/著 松籟社 1987 書誌ID 0000164468|『大阪の橋 -大阪市における橋梁技術のあゆみ-』大阪市土木技術協会 1997 書誌ID 0000639234,2021年1月17日,CC BY-SA,城東区,昭和30年-40年代(1955-1974),橋 三越薬品部,昭和25(1950)年生まれ,昭和37(1962)年から40(1965)年頃, 古堤街道と今里筋の交わるところにあった家に勉強を教えてもらいに行ってました。その家は住宅地図でみると「三越薬品部」と書かれていて、当時も「ミツコシ」と言っていたが、なぜそう言うのかわからなかった。,, 昭和35年の住宅地図を見ると「三越薬局部」と書かれている住宅を見つけることができます。思い出の家はこちらかと思われます。薬局部でない三越薬品部は『株式会社三越85年の記録』によると、大正10(1921)年に設立されました。当時、三越大阪本店に西館が増築され、売場面積が拡張されたことに伴って新設されたとのことです。なお、どのような事業をされているものかなど、詳しいことはわかりませんでした。(2021.10.11 城東図書館),『大阪市全商工住宅案内図帳 城東区 -北部- [昭和35年]』[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167549 (1960年の復刻)|『株式会社三越85年の記録』三越 1990 書誌ID 0000557386|『ゼンリン住宅地図と最新ネット地図の秘密』内田宗治/著 実業之日本社 2014 書誌ID 0013000868,2021年1月17日,CC BY-SA,城東区,昭和30年-40年代(1955-1974), チョコの工場,昭和32(1957)年生まれ,1970年代(昭和45-55年), 実家の近所にチョイス製菓の工場があり、チョコの香りをかぎに通ったこともあります。とても良い匂いでした。, 関目一丁目の保育所の隣, 昭和49(1974)年の住宅地図にチョイス製菓が載っています。少し時代はさかのぼりますが、昭和33(1958)年の『大阪府工場名鑑』にもチョイス製菓は掲載されており、主要製品にチョコレートと記されています。もう少し範囲を広げてみたところ、古い時代では昭和29(1954)年の『大阪府産業総覧』に、新しい時代では平成6(1994)年の『大阪府工場便覧』で確認できました。(2021.6.8 城東図書館),『大阪市精密住宅地図 城東区 -全商工住宅案内図帳- [昭和49年]』[吉田地図] 2007(1974年の復刻) 書誌ID 0011421897|『大阪府工場名鑑 昭和33年版』大阪府商工部 1958 書誌ID 0080223098|『大阪府産業総覧 1954年版』大阪府/監修 大阪府工業協会 1954 書誌ID 0080215873|『大阪府工場便覧 平成6年度版』大阪府立産業開発研究所 1995 書誌ID 0013012379,2021年2月4日,CC BY-SA,城東区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989), 踏切を機関車が通る音,昭和21(1946)年生まれ,昭和37(1962)年頃, 踏切を機関車が通る音。夜中、勉強をしていると、今福西4丁目の家にも蒲生3丁目付近の国道を横切る機関車の音がガタン、ゴトン…と聞こえてきました。早朝にはピー…と汽笛も聞こえました。受験勉強する身には心休まる音でした(昼は当然ながら聞こえません)。, 現在は蒲生2丁目にあたると思う。線路は撤去され、北側は公園になっている。「田中止鐡工所」はいまもその前で仕事をしておられます。, 思い出の線路は、放出方面から、かつて存在した淀川駅(現在の都島区にある大阪市立総合医療センター付近にあった)に向けて走っていた城東貨物線(現在のJRおおさか東線)のことと思われます。同様に、吹田方面(おおさか東線でいう新大阪方面)から淀川駅に延び、桜小橋付近で上記の線路と合流していた淀川貨物線という路線も存在していました。そのため、この付近はちょうど線路が三角形を描くような形を成していました。巽信号場と呼ばれるところになります。廃線となったあとは公園や遊歩道として整備されている区間もあります。(2021.4.22 城東図書館),『関西電車のある風景 -今昔- 1』高山礼蔵/著 JTB 2002 書誌ID 0010271895|『新・鉄道廃線跡を歩く 4』今尾恵介/編著 JTBパブリッシング 2010 書誌ID 0012049815,2021年2月19日,CC BY-SA,城東区,昭和30年-40年代(1955-1974),鉄道 どんぐり公園(南関目公園),平成12(2000)年生まれ,平成22(2010)年-平成23(2011)年頃, 「どんぐり公園」で親しまれる南関目公園には小学生でも遊べる遊具が残っていて、小学校高学年の頃はそこで遊んでいました。, 南関目公園," 南関目公園は大阪市「都市公園一覧表」によると、昭和33(1958)年5月5日に設置されました。5,676平方メートルの面積を持ち、区内の公園としては中くらいの規模のものとなります。(2021.9.15 城東図書館)",大阪市ホームページ「都市公園一覧表」https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000372135.html (2020年5月26日確認),2021年6月27日,CC BY-SA,城東区,平成(1989-2019),公園 蒲生ボウル,昭和30(1955)年生まれ,中学生の頃(図書館注 : 昭和42(1967)年から昭和46(1971)年頃と思われます), 蒲生4丁目、区役所のすぐそばにボーリング場がありました。蒲生ボウルという名前で、1ゲーム100円くらいで安くで楽しめました。中学生の頃によく行きました。,, 昭和49(1974)年の住宅地図をみると、城東警察署の東隣に「ハロー蒲生ボウル」という名前の施設が確認できます。昭和42(1967)年に出版された『レッツゴー・ボーリング』には、当時のボーリングの料金として1ゲーム平日200円、平日の午後5時以降・土日・祭日は250円というのが「全国共通の“協定料金”」という表現で紹介されています。(2021.10.11 城東図書館),『大阪市精密住宅地図 城東区 -全商工住宅案内図帳- [昭和49年]』[吉田地図] 2007(1974年の復刻) 書誌ID 0011421897|『レッツゴー・ボーリング -アベ150突破へのアドバイス-』岩上太郎/著 日刊スポーツ出版社 1967 書誌ID 0080332162,2021年6月30日,CC BY-SA,城東区,昭和30年-40年代(1955-1974), 大正製薬駐車場で盆踊り,平成2(1990)年生まれ,小学生の頃(図書館注 : 平成8(1996)年-平成15(2003)年頃と思われます), 小学生の頃、毎年夏に大正製薬の駐車場で盆踊りが開催されていました。110円でラムネを買って、ビンを返すと10円返してもらえました。, 関目東小学校前の大正製薬駐車場, 思い出にある大正製薬駐車場は、昭和40(1965)年に城東区に移転した同社の大阪支店のものです。『大正製薬百年史』によると、同社の大阪支店は戦前に東淀川区に大阪支店を開設(それ以前に道修町にあった支店を閉鎖したと読める記述もありますが、詳細は不明です)。その後、北区浮田町、旭区千林町を経て城東区に移転したとのことです。その後、同社の100周年記念事業の一環として、平成24(2012)年に大阪支店は豊中市新千里西町に移転しました。 関目東小学校ホームページの平成26(2014)年8月3日の記事では、盆踊りがこの前年まで大正製薬の駐車場で行われていた記載が確認できます。また、城東区社会福祉協議会の50周年誌『50年のあゆみ』には、大正製薬の駐車場とは明記されていないものの、同社の製品名が書かれた提灯がぶら下げられた駐車場らしき場所で開催されている盆踊りの写真が掲載されています。(2021.10.12 城東図書館),『大正製薬百年史』大正製薬株式会社百年史編纂委員会 大正製薬株式会社 2014 (大阪府立図書館所蔵)|大阪市立関目東小学校ホームページ 学校だよりhttp://swa.city-osaka.ed.jp/weblog/index.php?id=e691553&date=20140804 (2021年10月12日確認)|『城東区社会福祉協議会50年のあゆみ -設立50周年・法人化25周年記念誌-』大阪市城東区社会福祉協議会 2002 書誌ID 0012785305,2021年6月30日,CC BY-SA,城東区,平成(1989-2019), 蒲生4丁目付近のスーパー・商店街,昭和21(1946)年生まれ,令和3年(2021)年, 旭区住まいだが、関西スーパーと蒲生4丁目の城東商店街によく行く。関目のライフにもよく行く。,, 思い出にある各スーパーマーケットの開店年を『日本スーパー名鑑 '19』店舗編4巻に掲載されている情報から追ってみました。関西スーパー(蒲生店)は平成9(1997)年10月17日に開店。その後、平成20(2008)年3月1日に改装されています。ライフは関目店が平成11(1999)年、深江橋店が平成9(1997)年、京橋店が平成25(2013)年に開店し、いずれも平成10年前後あたりから開店した、比較的新しい店舗であることがわかります。 昭和49(1974)年に発行された『城東区史』によると、城東商店街は昭和22(1947)年に形成され、『城東区史』が書かれた当時は、区内の商店街のなかでも区の中央に位置するとして、紙幅を割いて説明されています。特にアーケードや照明の設置といったところが取り上げられています。 平成26年商業統計表(二次加工統計表)立地環境特性別統計編によると、「城東商店街」の事業所数は20とあります。城東商店街のホームページに掲載されている「がもよんマップ」ではより多くのお店が紹介されています。(2021.10.11 城東図書館),『日本スーパー名鑑 '19 店舗編 4巻 近畿』商業界 2018 書誌ID 0014593292|『城東区史』木村武夫/編集 城東区史編纂委員会 1974 書誌ID 0000246500|経済産業省 平成26年商業統計表(二次加工統計表)(立地環境特性別統計編(小売業))https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/syougyo/result-2/h26/index-ricchidata.html (2020年5月31日確認)|城東商店街 城東商店街とはhttps://joto-shotengai.com/about (2020年5月31日確認),2021年7月3日,CC BY-SA,城東区,令和(2019以降), しぎこう(鴫野公園),平成15(2003)年生まれ,小学生の頃(図書館注 : 平成21(2009)年-平成28(2016)年頃と思われます), しぎこうであそびました。,, 大阪市「都市公園一覧表」によると、鴫野公園は昭和54(1979)年に設置されました。蒲生公園、鯰江公園に次いで区内で3番目に面積の広い公園です。 鴫野公園については、思い出「さらこう」もご参照ください。(2021.10.11 城東図書館),大阪市ホームページ「都市公園一覧表」https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000372135.html (2021年10月11日確認),2021年7月3日,CC BY-SA,城東区,平成(1989-2019),公園 さらこう(鴫野公園),平成15(2003)年生まれ,小学生の頃(図書館注 : 平成21(2009)年-平成28(2016)年頃と思われます), さらこうは「おさらこうえん」と言われていました。,, 聞き取りしたところ、「さらこう」とは鴫野公園のことだそうです。鴫野公園は「しぎこう」とも呼ばれていたとのことです。大阪市「都市公園一覧表」によると、鴫野公園は昭和54(1979)年に設置されました。蒲生公園、鯰江公園に次いで区内で3番目に面積の広い公園です。 鴫野公園については、思い出「しぎこう」もご参照ください。(2021.10.11 城東図書館),大阪市ホームページ「都市公園一覧表」https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000372135.html (2021年10月11日確認),2021年8月3日,CC BY-SA,城東区,平成(1989-2019),公園 榎並小学校前の夜店,昭和32(1957)年生まれ,生まれた時からあったはずです。昭和61(1986)年生まれの子どもが小学校くらいまで(図書館注:平成4(1992)年-平成11(1999)年頃)はありました), 夜店がありました。自分は榎並小学校でしたが、そのメインストリートと言える道(榎並小の東側の道。夜店通りと言っていました)に、9のつく日に市場がありました。 水神社のお祭りのときはずっと南に続いていて、記憶にあるなかで一番長かったときは榎並公園まで続いていました。,, 『平日・夜店案内 -昭和25年7月調- 大阪府下阪神編』で、当時の大阪市内での夜店の開設状況を確認することができます。9が付く日(9日、19日、29日)には「野江神社前」で夜店が開かれたと記載されています。『城東区史』に水神社は野江神社とも呼ばれていたと書かれていることから、水神社で夜店があったことがわかります。思い出の時代と『平日・夜店案内』の時代には大きな隔たりがありますが、これらの夜店が思い出の夜店とつながるものであるかもしれません。(2021.10.11 城東図書館),『平日・夜店案内 -昭和25年7月調- 大阪府下阪神編』移動店舗新聞社 [1950] 書誌ID 0000291190|『城東区史』木村武夫/編集 城東区史編纂委員会 1974 書誌ID 0000246500,2021年8月9日,CC BY-SA,城東区,昭和30年-40年代(1955-1974)|昭和50年-60年代(1975-1989)|平成(1989-2019), 青少年の森,昭和38(1963)年生まれ,私が中学1年の頃に友人とよく遊びに行きましたので、昭和50(1975)年頃だと思います。, 青少年の森という公園があり、3人で三角ベースの草野球をやったり、外周部分が少し小高くなっておりジョギングなどをやったことが思い出されます。, 鶴見緑地公園のバーベキュー広場周辺を中心にして一帯が青少年の森という公園になっていた気がします。, 鶴見緑地は、昭和16(1941)年の都市計画で緑地の開発が決定し用地買収が進められましたが、太平洋戦争で中断され、戦後の農地解放でいったん地主に返還されました。その後昭和37(1962)年に、市の過密対策の柱として鶴見緑地造成事業が再出発し、用地買収を開始、昭和45(1970)年度から本格的な造成工事に入り、昭和47(1972)年度に「市民園芸村」「大芝生」、昭和48(1973)年度に「乗馬苑」、昭和49(1974)年度に「老人の森」、そして昭和50(1975)年度に6.3ヘクタールの「青少年の森」が完成しました。当時の鶴見緑地公園が紹介されている『みどり広がるおおさか -町を緑に-』には、「青少年の森」に「ボール遊びやフォークダンスが楽しめるスポーツジャンボリーなどがあります。」との記述があり、ボール遊びを楽しむ人々のカラー写真などが掲載されています。『大阪人 1977年3月』には、「鶴見自然公園計画図」や、「青少年の森」に設置のトレーニング器具で汗を流す人々の写真などが掲載されています。 平成2(1990)年、鶴見緑地は「国際花と緑の博覧会」の会場となり、その後都市公園「花博記念公園鶴見緑地」として再整備されました。平成2年9月策定の鶴見緑地整備基本計画の中では、「青少年の森」があった場所は「パークゾーン 草原のエリア (中略)野外レクリエーションや(中略)イベントが展開できる大芝生」となるよう計画されており、現在の「パーゴラ広場」付近にあたります。(2022.2.22 鶴見図書館),『みどり広がるおおさか -町を緑に-』大阪市[公園局] [1979] 書誌ID 0014134954 p.2|『大阪人 1977年3月/31巻3号』大阪市都市工学情報センター 1977 書誌ID 5112133732 p.4-9「早春にひらく大自然-鶴見緑地」|『国際花と緑の博覧会と大阪市』大阪市 1991 書誌ID 0000305662|花博記念公園鶴見緑地ホームページ 鶴見緑地History https://www.tsurumi-ryokuchi.jp/history/index.html (2022年2月20日確認)|花博記念公園鶴見緑地ホームページ 園内マップhttps://www.tsurumi-ryokuchi.jp/map/index.html (2022年2月22日確認),2021年8月16日,CC BY-SA,鶴見区,昭和50年-60年代(1975-1989),公園 阿倍王子神社の夜店,昭和49(1974)年生,昭和50年代後半, こどもの頃、阿倍野の王子神社や住吉大社の夜店で、ウナギ釣りをよく眺めていました。何種類かの竿があり、金額によって借りる竿が異なりました。エサはついておらず、つり針でひっかける形です。釣りあげたうなぎはその場でさばいてくれました。目打ち(?)で頭をさし、器用に骨を取ってくれます。こどもがするには、ちょっと高い夜店だったので、実際にしたことはないのですが、ぼんやり眺めていました。, 阿倍王子神社の外側 , 阿倍王子神社は阿倍野元町にあり、『阿倍野区史』には「仁徳天皇の神徳を感じて社殿を造営し勧請し給いし所にして…」とその由緒が記されています。また、平安時代から鎌倉時代にかけて熊野詣が盛んになった際には、京都から熊野本宮に至る九十九王子社の第二王子社とされました。 阿部王子神社の夏祭り(夏季氏子大祭)は例年7月27日から28日にかけて行われています。阿倍王子神社ホームページには、「境内と周辺には露店が軒を連ね、日暮れと共に多くの参拝者で埋まり、境内周辺は人波が続いて賑々しい限りであります」とその様子を紹介しています。(2022.1.23 阿倍野図書館),『阿倍野区史』川端直正/編 阿倍野区市域編入三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000244908 p.344-346|阿倍王子神社ホームページ 祭礼についてhttp://abeouji.tonosama.jp/ouzi13.html (2022年2月12日確認),2021年7月9日,CC BY-SA,阿倍野区,昭和50年-60年代(1975-1989), 安立の木製笛工房,昭和28(1953)年生,, 安立に笛をつくる工房があって「大阪人」などの雑誌によく掲載されていました。毎日新聞2014年5月27日にも掲載されています。,, 思い出の工房は竹山木管楽器製作所といい、木製リコーダーを専業で製作されている工房です。昭和42(1967)年に竹山幸晴氏が音楽関連企業の依頼を受けて製作を始めたのが成り立ちで、その製品は海外でも高い評価を得ています。リコーダーの普及活動にも積極的で、平成19(2007)年にはコンサートホールとギャラリーをオープンし、定期的にコンサートやリコーダー教室を開いています。 雑誌『大阪人』に掲載されたのは2010年7月号で、「住之江マイスター魂 リコーダーの伝道師。」という記事です。 また、『毎日新聞』では、投稿者が挙げられた日の他、2017年7月14日などにも取材記事が掲載されています。(2022.1.16 住之江図書館),『大阪人 2010年7月 / 64巻7号』大阪市都市工学情報センター 2010 書誌ID 5112087324 p.42-45|『毎日新聞 2014年5月27日 大阪』25面「なにわ人模様:国内唯一の木製リコーダー専業メーカー代表・竹山宏之さん/大阪」|『毎日新聞 2017年7月14日 大阪』27面「大阪のワザ:竹山木管楽器製作所 木製リコーダー(大阪市住之江区安立3) 複雑さに五感フル活用 /大阪」(商用データベース「毎索」でご覧いただけます)|竹山木管楽器製作所http://www.takeyama-recorder.jp/index.html (2022年1月9日確認)|アンリュウ・リコーダー・ギャラリーhttp://www.a-rg.jp/index.php (2022年1月9日確認),2014年6月13日,CC BY-SA,住之江区,平成(1989-2019), 昔の国道26号線,昭和4(1929)もしくは昭和5(1930)年生,住吉団地が建ってすぐから、5・6年くらい前まで, 26号線は当時草ぼうぼうでした(ぼこぼこで)。,, 図書館職員による聞き書きです。26号線とは国道26号線のことで、公団住吉団地は住之江区粉浜西3丁目に位置し、その東側はこの国道に面しています。 国道26号線は住吉区(当時)内の幹線道路として大正10(1921)年の第一次大阪都市計画事業のなかの難波住吉線としてあらわれたものが始まりです。大国町-住之江公園間は昭和10(1935)年に、難波-大国町間は昭和12(1937)年に完成しました。当初は国道16号線と呼ばれ、昭和27(1952)年12月に国道26号線と改称されました。 公団住吉団地は昭和43(1968)年3月より入居が始まります。(2022.1.13 住之江図書館),"『住之江区史』大阪都市協会/編集 住之江区制十周年記念事業実行委員会 1985 書誌ID 0000253225 p.38-39|『日本住宅公団20年史』日本住宅公団20年史刊行委員会/編 日本住宅公団 1975 書誌ID 0080164140 p.364|『第一次大阪都市計画事業誌』大阪市役所 1944 書誌ID 0000584606 p.129,148,243",2014年6月13日,CC BY-SA,住之江区,昭和30年-40年代(1955-1974),道路 大阪マラソン,平成元(1989)年生,平成23(2011)年, 平成23(2011)年10月30日に開催された第1回大阪マラソンに参加した。スタートが大阪城公園前で、ゴールがインテックス大阪だった。コース終盤の南港大橋の上り坂がきつかった。沿道の応援が賑やかだった。またポートタウン線(ニュートラム)の高架と並走するコースも印象的だった。, 南港大橋、インテックス大阪," 大阪初の大規模市民マラソンとなった「大阪マラソン2011」は、平成23(2011)年10月30日に開催されました。全国から17万1,744人の応募があり、抽選で3万2,455人が選ばれ、出走したのは2万9,163人でした。 『RAINBOW -第1回大阪マラソンメモリアルブック-』には、コースマップや高低差のグラフが記載されています。 コースマップによると、住之江公園駅付近から南港大橋北詰付近までニュートラム南港ポートタウン線と並走することが確認できます。(2021.1.9 住之江図書館)",『RAINBOW -第1回大阪マラソンメモリアルブック-』読売新聞社 2012 書誌ID 0012548843 p.20-23,2022年1月9日,CC BY-SA,住之江区,平成(1989-2019),鉄道|橋