大阪に関するよくある質問
質問
安倍晴明神社と安倍晴明との関係について
回答
阿倍野元町5丁目、阿倍王子神社北側に、飛地境内として安倍晴明神社があります。『大阪史蹟事典』*1に晴明の紹介とあわせて記載されているように、この神社は、平安中期、陰陽師として五代の天皇に仕え活躍した安倍晴明をまつるものです。
生年にも諸説があり(921年、944年など)、様々な伝説と謎にいろどられた晴明ですが、その生誕地は現在の阿倍野元町とされ、没後、一条天皇が生誕地に安倍晴明社の造営を命じた、と伝えられています。*2
境内には安倍晴明誕生地石碑、晴明の産湯を汲んだといわれる「産湯井」、晴明の母親が霊力を持つ白狐であったという「葛の葉伝説」に由来する「葛之葉霊狐飛来像」などがあります。『あべの発見!』*3には、これらの碑や石像がカラー写真で紹介されています。なお、安倍晴明神社に伝わる古文書等については『大阪安倍晴明神社関係資料集』*4が参考になります。
参考文献
*1 『大阪史蹟事典』三好貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p.15〜16
*2 『あべの今昔物語』 猿田 博著 阿倍野今昔物語編集委員会 1995 書誌ID 0000485817 p.33〜36
*3 『あべの発見!』 阿倍野区役所 2005 書誌ID 0011145136 p.39,p.49〜50
*4 『大阪安倍晴明神社関係資料集』 長谷川靖高編 阿倍王子神社 2005 書誌ID 0011291273
『移りゆく阿倍野第2版』石田 稔 2002 書誌ID 0010327733 p.22〜29
『私たちの阿倍野』 難波りんご 新風書房 2000 書誌ID 0000820202 p.12〜13
阿倍野区
神社仏閣
質問
阿倍野墓地について
回答
徳川時代の大阪の墓所は、明治7〜8年にかけて、市内の三ヶ所にまとめられました。それらのうち、明治7年3月に天王寺村(現阿倍野区)にできたのが現在の阿倍野墓地です。それを明治40年に大阪市が買収し、昭和5年には阿倍野葬儀所、18年には市立南斎場と改称されました。
五代友厚の墓、長州藩志士の墓(死節群士之墓)などが有名で、阿倍野墓地の歴史については『移りゆく阿倍野』 *1の中に簡潔に記述されています。さらに、『大阪市内における建碑』*2を見ると、前述の五代友厚の墓を含めて阿倍野墓地内の21の墓碑や墓表、遺功表などが簡略に記載されています。また、『大阪墓碑人物事典』*3には、阿倍野墓地の項に、五代友厚・長州藩志士の墓に、『大阪市内における建碑』に記載のない中村雀右衛門二世と三世の墓碑を加えた4件のみの記述があります。雑誌では、『大阪春秋 25号 阿倍野・住吉・天王寺』*4に、「阿倍野墓地」(p.104〜105)という記事が、『大阪春秋 28号 大阪を築いた1000人 前編』*5に「阿倍野元官修墓地にある死節群士之墓」(p.122〜124)という記事が収録されています。
参考文献
*1 『移りゆく阿倍野』石田 稔 2002 書誌ID 0010327733
*2 『大阪市内における建碑』川端 直正編 大阪市役所行政局 1960 書誌ID 0000322889
*3 『大阪墓碑人物事典』近松 誉文著 東方出版 1995 書誌ID 0000492268
*4 『大阪春秋 25号 阿倍野・住吉・天王寺』大阪春秋社 1980 書誌ID 0000253458
*5 『大阪春秋 28号 大阪を築いた1000人 前編』大阪春秋社 1981 書誌ID 0070031722
阿倍野区
地誌
質問
阿倍野墓地にはどんな人びとが眠っているのですか。
回答
阿倍野図書館の西側窓より眼下に広がる広大な阿倍野墓地。その成り立ちについては別項に記載していますが、そこには大阪の形成に貢献された方々が多く眠っています。 政治家では7代目市長関一(せきはじめ)、経済人では大阪株式取引所や大阪商法会議所、大阪商業講習所(現在の大阪市立大学)を設立した五代友厚(ごだいともあつ)が著名ですが、他にも、日本銀行大阪支店長、大阪瓦斯社長、南海電鉄社長、阪神電鉄取締役などを務め戦前の関西経済を牽引した片岡直輝(かたおかなおてる)、渋沢栄一とともに大阪紡績株式会社を設立してのちに東洋紡の初代社長となった山辺丈夫(やまべたけお)、大阪電灯の初代社長、大阪商業会議所会頭などを務め、通天閣を建てたともいわれる土居通夫(どいみちお)、日本銀行大阪支店長、大阪貯蓄銀行頭取、衆議院議員、阪神電鉄社長を務めた外山脩造(とやましゅうぞう)、久保田鉄工所創設者の久保田権四郎(くぼたごんしろう) 、内国勧業博覧会開催時の大阪府知事であり、日本製鋼所会長や浪速銀行頭取も務めた高崎親章(たかさきちかあき)、明治期の火薬商で衆議院議員も務めた粟谷品三(あわたにしなぞう)がいます。 文化人では大阪を代表する日本画家菅楯彦(すがたてひこ)、幕末明治期の国学者で大阪国学講習所の講師などを経て北堀江に百園塾を開いて門人を育成した敷田年治(しきたとしはる)、上方舞で有名な山村流開祖山村友五郎(やまむらともごろう)、近世三味線の名手豊沢団平(とよさわだんぺい)、義太夫三弦の名家鶴沢寛治(つるさわかんじ)、明治・大正期の歌舞伎俳優中村雀右衛門(なかむらじゃくえもん) 、懐徳堂に学びのちに『浪速人物誌』を刊行した岡本撫山(おかもとぶざん)がいます。 意外にも新聞人も多く、大阪毎日新聞社長であり、富民協会を設立するなど社会文化事業にも貢献した本山彦一(もとやまひこいち)、大阪朝日新聞主筆で「天声人語」の名付け親ともいわれる西村天囚(にしむらてんしゅう)、朝日新聞社の創設者の1人であり、古美術にも造詣が深く香雪美術館に蒐集品が収蔵されている村山龍平(むらやまりょうへい)、その朝日新聞社に入社して大新聞社にする礎を築いたといわれる上野理一(うえのりいち)がいます。 ほかの分野でも、大阪医学校の院長を経て桃山病院長となった高橋正純(たかはしまさずみ)、維新後の大阪で師範学校長を務め教科書出版に功績を残した日柳三舟(くさなぎさんしゅう)、浪花協会の牧師で梅花女学校(現梅花学園)の設立者沢山保羅(さわやまぽうろ、名は使徒パウロに由来する)、書家の小林卓斎(こばやしたくさい 次女は村山龍平の妻)、大阪の女子教育に生涯を捧げた柴直太郎(しばなおたろう)、歯ブラシや靴墨の発明者臼田馬造(うすだうまぞう)など、その業績の多様なことに驚かされます。日本自由メソジスト協会の指導者で、大阪伝道学館(現在阿倍野区にある大阪キリスト教短期大学の前身)を設立した河辺貞吉(かわべていきち)のお墓もあるといわれていますが、確認はできませんでした。 お墓としては、五代友厚のお墓が大変立派で鳥居までしつらえてあるのが珍しいといえます。その近くには、菅楯彦とその妻―一世を風靡した名妓富田屋八千代―の、二人並んだ夫婦墓があります。粟谷品三のお墓は地面より一段と高い台座にあり圧倒される高さです。 『大阪史蹟辞典』*1では22人の方々のお墓と、死節群士之墓、竹田芝居焼死人之墓について解説し、他に8名の著名な方々の氏名を列挙しています。『大阪市内における建碑』*2では、この方々の氏名を列挙し、碑文も記載しています。 『浪速叢書 第10 稿本大阪訪碑録』*3には、阿倍野墓地の主要なお墓の墓石から拓本を取った写真の一部と、碑文がそのまま記載されています。粟谷品三、日柳三舟(碑文は藤澤南岳撰)、小林卓斎(碑文は朝日新聞の著名な記者西村天囚撰)、敷田年治、柴直太郎、高崎親章(碑文は西村天囚撰)、高橋正純、外山脩造、山辺丈夫(碑文は森林太郎撰)、岡本撫山(碑文は藤澤南岳撰)などの碑文が漢文のまま見ることができます。
参考文献
*1 『大阪史蹟辞典』三善貞司 清文堂出版 1986 書誌ID0000214926
*2 『大阪市内における建碑』川端直正編 大阪市役所行政局 1960 書誌ID 0000322889
*3 『浪速叢書 第10 稿本大阪訪碑録』船越政一郎編 名著出版 1978 書誌ID 0000245016
阿倍野区
地誌
郷土人
質問
阿倍野区内にある旧街道について調べたい
回答
『あべの発見!』*1では、阿倍野区内に今もその姿をとどめる街道として、下高野街道、熊野街道、庚申街道が紹介されています。この資料では現在の道路のどの部分が旧街道にあたるかがイラストマップで示されており、現在の写真や街道の簡単な解説があります。
大阪市内の街道の来歴などを細かく知る資料として、『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』*2があります。大阪市では、昭和59年より旧街道と坂道の整備事業を実施し、街道の来歴碑や道標などを整備してきました。『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』は、その事業に伴う調査結果をまとめたもので、旧街道ごとに、旧街道名と起終点並びに経路、現道路名と起終点並びに経路、旧街道から現道路までの変遷、旧街道筋旧態残存箇所並びに旧街道筋顕彰地点を知ることができます。この資料にとりあげられた街道のうち、阿倍野区内を通るものは下高野街道、熊野街道、庚申街道となっています。この事業により、熊野街道については来歴碑が3箇所、「熊野かいどう」の道標が10基建てられました。その来歴碑のうちのひとつが、阿倍野図書館近くの阿倍野交差点東南角にあります。
参考文献
*1 『あべの発見!』 阿倍野区役所 2005 書誌ID 0011145136 p44〜51
*2 『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』旧街道等調査委員会編 大阪市土木技術協会 1987 書誌ID 0000250661
『阿倍野区史』川端直正編集 阿倍野区市域編入三十周年記念事業委員会 書誌ID 0000244908
『阿倍野区50年のあゆみ』阿倍野区制50周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0000336413
『あべの今昔物語』猿田博著 阿倍野今昔物語編集委員会 1995 書誌ID 0000485817
『大阪の街道』神野清秀著 松籟社 1989.9 書誌ID 0070001834
阿倍野区
地誌
質問
北畠顕家と阿倍野
回答
阿倍野区内の町名に名を残す北畠顕家(1318〜1338)は、南北朝時代(1336〜1392)の前期に活躍した南朝の武将です。後醍醐天皇につかえ、陸奥守に任ぜられて父北畠親房とともに奥州を平定しました。1336年に足利尊氏が鎌倉で挙兵すると、奥州軍を率いた顕家が楠木正成らとともにこれを九州に追いやり、この年に若干19歳にして鎮守府大将軍を拝命するという破格の出世をしました。勢力を盛り返して京都を制圧していた足利軍をたたくため、1337(延元2)年、再び軍を率いて京へと向かいます。この時その軍の先頭には、【風林火山】の陣旗がはためいていたと言われています。【風林火山】の旗印は武田信玄が使用したことで有名ですが、実はそれに先立つこと200年も前に、北畠顕家が掲げていたのです。
1338(延元3)年に鎌倉や美濃での合戦を経て、吉野を目指すことにした顕家は奈良に入り、ここで足利軍に敗北を喫して河内・和泉に進みます。しかしついに、『太平記』巻第19の最後に「五月二十二日、和泉の境、安部野にて討ち死に」と記されているように、21歳で戦死しました。『太平記』はさまざまな文学全集等にありますが、小学館刊行の『新編日本古典文学全集』*1は本文、現代語訳、語句や人名地名などの解説が同頁に収録されています。北畠親房と顕家親子が祀られている阿部野神社は、顕家が足利軍と戦った古戦場にあります。
区内の北畠公園にある伝北畠顕家墓は、もともとは大名塚としてあったのを1723(享保8)年に地誌学者並河誠所が特定して建てたものです。実は北畠顕家の墓に関しては、激しい論争がありました。並河誠所がこの地の大名塚を北畠顕家の墓としたのは、『太平記』の記述によるのですが、歴史学者星野恒は『太平記』の記述を批判し、顕家戦死の地を和泉の石津であると、1903(明治36)年に「北畠顕家卿の戦歿地と其墓」と題した論文で述べています。この論文は『和泉勤王史』*2に収録されています。またそれを検証した資料として、『北畠顕家公墳墓考』*3があります。
北畠顕家の伝記として代表的なものに、『花将軍北畠顕家』があります。北畠顕家公顕彰会刊*4と新人物往来社刊*5は内容はほぼ同じですが、北畠顕家公顕彰会刊には北畠清泰の「「歴史を訪ねる道中」の記」が収録されています。またハードボイルド作家として著名な北方謙三が、顕家を主人公としたのが『破軍の星』*6、*7で、エンターテインメントとして質の高い作品となっています。『あべの新発見!』*8にもカラー写真付で顕家の簡単な紹介文が掲載されています。
参考文献
*1『新編日本古典文学全集55 太平記2』 小学館 1996 書誌ID 0000523895
*2『和泉勤王史』 郷土事報社 1939 書誌ID 0000576985 p95〜106
*3『北畠顕家公墳墓考』 和泉事報社 1937 書誌ID 0080260106
*4『花将軍北畠顕家‐阿部野神社御鎮座百年祭記念‐』 横山高治著 北畠顕家公顕彰会 1989 書誌ID 0070022331
*5『花将軍北畠顕家』 横山高治著 新人物往来社1990 書誌ID 0000161998
*6『破軍の星』 北方謙三著 集英社 1990 書誌ID 0000226714
*7『破軍の星(集英社文庫)』 北方謙三著 集英社 1993 書誌ID 0000364834
*8『あべの新発見!』 阿倍野区役所 2005 書誌ID 0011145136 p.19〜22
阿倍野区
郷土人
質問
阿倍野筋遺跡について調べたい
回答
阿倍野筋遺跡は、『大阪市内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書 平成11年度』*4によると地下鉄阿倍野駅の南側に拡がる東西約300m、南北約500mの複合遺跡です。現在阿倍野区民センター・阿倍野図書館・市立葬祭場等の複合施設が建つ位置も含まれますが、1989年大規模開発に伴い大阪市教育委員会が試掘を行った際に発見され、複合施設の建設に先立って数回の発掘調査が行われました。
弥生時代から江戸時代にかけての遺跡ですが、特に弥生時代末から古墳時代前期にかけての竪穴住居や総柱の堀立柱建物などが多く見つかっています。
床面より一段高くなったベッド状遺構を持つ竪穴住居には、畿内では珍しく炉の跡が残っていました。また畿内では竪穴住居の平均面積は30?ですが、阿倍野筋遺跡のこれは約80?もある大型住居です。集落の有力者の住居、あるいは集落全体の共同施設と考えられます。
水銀朱の赤色顔料を使った土器も出土しています。この顔料は古代の墓の中から多く発見されていますが、住居跡から見つかることはまれです。あるいは朱を使った祭祀を司る人が住んでいたのかもしれません。
他に魚網のおもりである土錘や飯蛸壺などの漁具や製塩土器も出土しています。古代にはこの附近は上町台地の最高部に当たり、西側に向って大阪湾が続いていました。当時の海岸線はこの地から1.5キロほどであり、竪穴住居に住み、漁をする人々の暮らしが想像できます。
発掘調査の報告は、『大阪市内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書 平成8年度』*1、『大阪市埋蔵文化財発掘調査報告 1997年度』*3、『大阪市内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書 平成11年度』*4、『大阪市埋蔵文化財発掘調査報告 1999・2000年度』*5の中で数ページずつ記載されています。『阿倍野筋遺跡発掘調査報告』*2は詳細な内容を多くの図版・写真と共に専門的にまとめた1冊です。また近年出版された『新修大阪市史 史料編1巻 考古資料編』*6には、それまでの調査結果が簡潔に記載されています。『葦火73号』*7、『葦火77号』*8、『葦火78号』*9、『葦火126号』*10では標題の事項に関して簡単にわかりやすく、遺跡の特徴などを説明しています。
参考文献
*1 『大阪市内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書 平成8年度』 大阪市教育委員会文化財保護課編 大阪市 1998 書誌ID 0000807028 p.101〜105
*2 『大阪市阿倍野区阿倍野筋遺跡発掘調査報告』 大阪市文化財協会 1999 書誌ID 0000749535
*3 『大阪市埋蔵文化財発掘調査報告 1997年度』大阪市教育委員会文化財保護課編 大阪市 1999 書誌ID 0000754710 p.57〜63
*4 『大阪市内埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書 平成11年度』 大阪市教育委員会文化財保護課編 大阪市 2001 書誌ID 0000854968 p.75〜79
*5 『大阪市埋蔵文化財発掘調査報告 1999・2000年度』 大阪市教育委員会文化財保護課編 大阪市 2002 書誌ID 0010382510 p.37〜40
*6 『新修大阪市史 史料編1巻 考古資料編』 大阪市 2004 書誌ID 0010691597 p.234〜236
*7 『葦火73号』 大阪市文化財協会 1998 書誌ID 5210714827 p.4〜5 大型竪穴住居と朱入り土器
*8 『葦火77号』 大阪市文化財協会 1998 書誌ID 5210714827 p.4〜5 海を見おろすムラ阿倍野筋遺跡
*9 『葦火78号』 大阪市文化財協会 1999 書誌ID 5210714827 p.4〜5 阿倍野筋遺跡で見つかった大型掘立柱建物跡
*10 『葦火126号』 大阪市文化財協会 2007 書誌ID 5100220915 p.6〜7 漁民たちのムラを掘る
阿倍野区
遺跡および碑文
質問
阿倍野再開発について
回答
昭和44年、阿倍野ターミナルに接する通称「金塚地区」を活性化させ、南大阪への発展へつなげるためのものとして、国庫補助事業として事業化されたのが阿倍野再開発事業でした。商業・業務施設の整備と同時に、市街地住宅の整備も重視している点に特色があります。
この基本構想と開発事業のあゆみについて、約5ページにわたり、簡潔にまとめた記述が含まれているのが『阿倍野区50年のあゆみ』*1です。出版時期の関係で、この資料では平成4年頃までしか触れられていないので、さらに最近の状況については、パンフレット「ABENO〜ひとが主役の新しい都市づくり-阿倍野第二種市街再開発事業-」*2および雑誌『MASSE = マッセ : あべの再開発広報誌 : あべの・あした』*3のバックナンバーから、その後の開発事業の進展を拾い出すことができます。再開発事業以外について書かれたコラムページの割合が多いので、情報量はそう多くありませんが、ある程度は最近までの状況がわかります。
また、『大阪春秋 116号 続・上町台地の魅力』*4に収録された「発表から35年、阿倍野再開発事業とこれからの街づくり-バブル期の混迷と後遺症-」(p.53〜57)という記事では、住民の視点から再開発事業の歴史と現状や問題点が論じられています。
なお事業開始当時の詳細については、『都市再開発法による市街地再開発 : 阿部野』*5が、土地再開発法による手続きや住民の権利受損と補償のやりかた等から語り起こす形で、懇切丁寧に再開発計画を解説していますし、10冊の『阿倍野地区市街地再開発計画』*6には、計画当初の様々な設計図面が多数収録されています。
参考文献
*1 『阿倍野区50年のあゆみ』 阿倍野区制50周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0000336413
*2 パンフレット「ABENO〜ひとが主役の新しい都市づくり-阿倍野第二種市街再開発事業-」 2003.11
*3 『MASSE = マッセ : あべの再開発広報誌 : あべの・あした』 阿部野再開発イメージ計画委員会 1996〜 書誌ID 5010154793
*4 『大阪春秋 116号 続・上町台地の魅力』新風書房 2004 書誌ID 0010847866
*5 『都市再開発法による市街地再開発 : 阿部野』 大阪市都市再開発局 1970 書誌ID 0080238474
*6 『阿倍野地区市街地再開発計画』(全10冊)大阪市都市再開発局 1971 書誌ID 0100017852
阿倍野区
まちづくり
質問
阿倍野にゆかりのある文学について
回答
吉田兼好(よしだけんこう)は、『方丈記』『枕草子』と並んで日本三大随筆とよばれている『徒然草(つれづれぐさ)』の作者です。「つれづれなるままにひぐらし…」で始まる『この作品は、吉田兼好が阿倍野の丸山古墳のふもとに庵をむすんだ日々に書き連ねたといわれています。松虫通の海照山正圓寺(かいしょうざんしょうえんじ)には兼好法師藁打石があり、聖天山公園南入口には吉田兼好文学碑が建てられています。*1
梶井基次郎(かじいもとじろう)は『檸檬(れもん)』で有名な小説家ですが、肋膜炎悪化のため昭和3 (1928)年に住吉区阿倍野町に住む両親のもとに帰り、昭和5 (1930)年に王子町に一戸を構えて昭和7 (1932)年1月に阿倍野界隈を舞台にした『のんきな患者』*2を発表します。その直後の3月24日に死去しましたが、王子町には梶井基次郎終焉の地碑が建てられています。
日本浪漫派の代表的詩人伊東静雄(いとうしずお)は、長崎県諫早市出身ですが、京都帝国大学卒業後昭和4 (1929)年に大阪府立住吉中学校(現在の住吉高校)に赴任し、終生教職のかたわら文学活動をしました。住吉区阪南町中3丁目に住んでいたこともあります。
松虫通のポケットパークの伊東静雄文学碑には詩集『春のいそぎ』*3から「百千の」が、住吉高校校庭の伊東静雄文学碑には詩集『わがひとに与ふる歌』*3から「曠野の歌」が刻まれています。
小説家黒岩重吾(くろいわじゅうご)は昭和4 (1929)年から住吉区昭和町(現在は阿倍野区)に住み、長池小学校を卒業しています。第44回直木賞を受賞した『背徳のメス』や『昼と夜の巡礼』、短編小説『相場師』など阿倍野を舞台とした作品を多く残しています。
童謡「サッちゃん」「おなかのへるうた」の作詞でも有名な阪田寛夫(さかたひろお)は大正14 (1925)年に住吉区天王寺町2279番地(現在の松崎町3丁目)で生まれました。幼年時代に南大阪幼稚園に通っていたところから、平成18(2006)年園内にサッちゃん詩碑が建てられました。母の晩年を描いて第72回芥川賞を受賞した短編小説『土の器』には著者が洗礼を受けた南大阪教会のことが、『庚申街道』*4には松崎町3丁目にあった自宅のことが、『わが町』には阪南町や帝塚山が描かれています。
大阪を代表する小説家織田作之助(おださくのすけ)は、昭和9 (1934)年に恋人宮田一枝と料亭「松虫花壇」を訪れましたが、この料亭は現在のキリスト教短期大学の敷地内にありました。同大学の北門入口辺りに、織田作之助来遊の地の碑があります。織田作之助と一枝は昭和14 (1939)年に阿倍野筋2丁目にあった料亭「千とせ」で結婚式を挙げました。
アナーキズム詩運動で有名で大阪文学学校の校長でもあった小野十三郎(おのとうざぶろう)は、昭和8 (1933)年から阪南町2丁目に住み、平成8(1996)年に93歳で自宅で亡くなりました。
王子町一丁目商店街にあるビリヤード「保名」は、昭和17 (1942)年から営業されていますが、店主の南川千代さんをモデルにした『玉撞き屋の千代さん』は、長男の南川泰三(みなみかわたいぞう)の作品です。
文の里の大阪市立工芸高校は多くの芸術家を輩出しましたが、小説家若一光司、『浪花怒り寿司』で第4回織田作之助賞を受賞した長谷川憲司、『乳と卵』で第138回芥川賞を受賞した川上未映子も工芸高校出身です。
ほかには阿倍野を舞台にした作品として、SFを中心に活躍した作家眉村卓が出身校阪南中学校をモデルにした小説『なぞの転校生』、『ねらわれた学園』、森本万里子が女調理師の修行の日々を描いた『阿倍野筋』、阿倍野筋に面した印刷会社を隠れ蓑とした一味が暗躍するという高村薫の『神の火』、開高健が旧制天王寺中学校と阿倍野界隈を舞台に終戦前後の混乱の中で生きる自らの姿を描いた『青い月曜日』があります。
以上阿倍野と文学のかかわりについては、『阿倍野区歴史講座』*5に詳しく記載されています。また大阪府下各地にゆかりのある近代文学者を調べる時は『大阪近代文学事典』*6が、大阪府下を舞台にした近代文学作品を調べる時は『大阪近代文学作品事典』*7が参考になります。
参考文献
*1『あべの発見!』 阿倍野区役所 2005 書誌ID 0011145136 p.23
*2『作家の自伝50 梶井基次郎』 日本図書センター 1997 書誌ID 0000605194所収
*3『伊東静雄詩集』 林富士馬編 小沢書店 1997 書誌ID 0000602356
『薄田善明/伊東静雄(近代浪漫派文庫35)』 新学社 2005 書誌ID 0010940312所収
*4『日本随筆紀行17声はずむ水の都』 作品社 1987 書誌ID 0000400224所収
*5『阿倍野区歴史講座』 阿倍野区生涯学習推進会議 2009 書誌ID 0011870820 p.125〜151
*6『大阪近代文学事典』 和泉書院 2005 書誌ID 0010988832
*7『大阪近代文学作品事典』 浦西和彦編 和泉書院 2006 書誌ID 0011277452
阿倍野区
文学