大阪に関するよくある質問
質問
「大坂」が「大阪」になったのはなぜですか
回答
簡便にまとめて説明している資料に、『大阪の歴史 6号』*1の「みおつくし 大坂と大阪」があります。『大阪の歴史 56号』*2の口絵と解説も参考になります。これらの資料からは、次のようなことがわかります。
江戸時代には、「大坂」と書くことが普通でしたが、「大阪」と書くこともありました。その理由についてよく引用されるのが、文化5年(1808)に刊行された『摂葉落穂集』で、坂は不吉な文字として忌み嫌う人もおり、阪をもちいる人もいたことが書かれています。もともと坂と阪は同字で、阪から坂の字が生まれたということもあり、1868年に大阪府が設置されてからも混用されていましたが、明治10年代には「大阪」が一般的になりました。
参考文献
*1『大阪の歴史 6号』大阪市史編纂所編 大阪市史料調査会 1982 書誌ID 5100000970
*2『大阪の歴史 56号』大阪市史編纂所編 大阪市史料調査会 2000 書誌ID 5100209736
・『大阪府史 7巻』大阪府史編集専門委員会編集 大阪府 1989 書誌ID 0070004804
・『大阪の歴史-史跡めぐり』岡本良一著 岩波書店 1989 書誌ID 0070008258
・『大阪の大疑問』先崎仁編著 扶桑社 1998 書誌ID 0000681079
大阪市内全般
地誌
質問
大阪の“通り”と“筋”について
回答
『大阪の町名 −大阪三郷から東西南北四区へ−』*1の「通りと筋」の項には「大阪では、東西を通りといい、南北を筋といい、通りと筋に方角の意味があった。」と書かれています。皆様にも、大阪の“通り”は東西、“筋”は南北という覚え方をされている方は多いと思います。 しかし、『大阪ことば事典』*2の「筋」の項を参照しますと、「大阪では、東西がとおりで南北が必ず筋だと説明している人があるが、この断定には誤りがある」として、旧上本町通(南北)と墓の谷筋(戦後楠筋と改称。東西)の2つの道を例としてあげています。これは「江戸時代、大坂城を中心として、それに向かう方を通り、その反対を筋と呼んだから」だと説明しています。 ちなみに、宮本又次著『船場』*3によりますと、かつての大阪は東西線が発達し、南北線は従の立場となっており、町名も東西線の名がつけられていたとされています。たしかに船場付近は東西の“通り”の名がついた町が現在でも多くあります。 ところで、現在の中央区、島之内あたりですが、昔の住宅地図*4などを見てみますと、この界隈では南北に町名がつけられていたのがわかります。また、三津寺筋などは東西線であるにも関わらず“筋”の名前がついています。 島之内のあたりではなぜ他の地域と違っているのでしょうか。この点について、『船場』では滝川政次郎という方の説を引用しています(『社会経済史学』25巻6号)。それによりますと、島之内の西部は『続日本紀』天平勝宝5年9月壬寅の条にみえる津村の所在地であり、このあたりは船場よりも古くから陸地になったところであると説明しています。その津村は上町台地に築かれた難波宮に接続する村であって、難波宮にならって南北を縦、東西を横としました。島之内が南北に通じる街区に町名をつけたのはそのため、としています。また、奈良時代の船場は海(安曇江)であり、大阪城築城の際に埋め立てられたこの時、大阪城に通じる道(東西)に町名をつけた。と推定しています。
参考文献
*1『大阪の町名 −大阪三郷から東西南北四区へ−』 大阪町名研究会 清文堂 1977年 書誌ID 0070049341
*2『大阪ことば事典』 牧村史陽編 講談社 2004年 書誌ID 0010865148
*3『船場』 宮本又次 ミネルヴァ書房 1960年 書誌ID 0000244954 P.8〜11
*4『大阪市全商工住宅案内図帳 南区 昭和34年版』住宅協会出版部編 住宅協会出版部 1959年 書誌ID 0080242241
大阪市内全般
地誌
質問
大阪市各区ごとの構造別建築物の件数について
回答
木造や鉄筋コンクリート造りなど、建物には様々な構造による区別があります。『建築統計年報』*1には自治体ごと(政令指定都市は区ごとも含む)に、構造別に建築物の数と床面積の合計、工事費の予定額をあげています。また、大阪市内の数値でしたら、この本以外にも『大阪市統計書』*2にも掲載されています。
参考文献
*1『建築統計年報』国土交通省総合政策局情報管理部建設調査統計課監修 建設物価調査会 書誌ID 0100001149
*2『大阪市統計書』大阪市 書誌ID 0100002365
大阪市内全般
建築
質問
千林(せんばやし)商店街の歴史について
回答
『旭区史』*1によりますと、p291に「千林商店街」という項目があり、「京街道として位置づけられたのは、明治四十三年に京阪電車が開通してからで・・・・」という記述があります。また、大阪府商店街振興組合連合会のホームページ*2には、紹介文のなかに「明治43年4月15日京阪電軌鉄道が開通して千林駅ができ、商店の数も増え、大正年代の後半より人口が増加し、商業地域へと発展しました。昭和6年市電守口線が、開通、国道一号線も完成し、同年京阪電鉄の軌道敷の移動に伴い千林駅も移転、駅と国道一号線を結ぶ街路の商店街を促進し、これが現在の千林商店街となりました。」とあります。この昭和6年に現在の千林商店街となりましたという記述については、『元気のある商店街の形成』*3のp71からp74にかけて詳しくのべられています。 戦後の千林商店街については、『パノラマウオーク大阪の商店街 上』*4のp66からp69に千林商店街の項目があり、昭和30年以降の千林商店街が簡潔にまとめられています。
参考文献
*1 『旭区史』大阪市都市協会編 旭区創設五十周年記念事業実施委員会 1981 書誌ID 0070035195
*2 大阪府商店街振興組合連合会ホームページ
http://www.mydo.or.jp/street/063.htm
(2017年3月14日確認)
*3 『元気のある商店街の形成』石村真一著 東方出版 2004 書誌ID 0010711613
*4 『パノラマウオーク大阪の商店街 上』大阪市商業振興企画編 大阪市経済局 1998 書誌ID 0000684575
地誌