大阪に関するよくある質問
質問
道頓堀の名の由来について
回答
道頓堀の名は、『角川日本地名大辞典 27 大阪府』*1によりますと「慶長17年に豊臣家から新川奉行を命じられた平野郷の成安道頓により起工されました。しかし道頓は大坂夏の陣に参加して戦死し、徒弟の安井久兵衛道卜・平野次郎兵衛らによって、元和元年に完成した。当初は新川と呼ばれていたが、当時の大坂城主松平忠明が道頓の死を悼み、道頓堀と命名した」ことからつけられたとあります。
しかし、昭和40年に安井道卜の子孫安井朝雄氏が道頓堀の所有権を巡って起こした「道頓堀裁判」で判決が出されるまでは、安井道頓という架空の人物が私財を投じて掘り始めたという通説が広く信じられ、日本橋北詰に大正4年に建立された「贈従五位安井道頓 安井道卜起功碑」にもその旨が刻まれています。この裁判については、『道頓堀裁判』*2に詳しく説明されています。また、どのようにして安井道頓という人物が作られ、通説として定着したのかという過程については、『大阪春秋 4号 御堂筋あれこれ』*3所収の佐古慶三「新堀奉行成安道頓伝」p129〜137の中で詳しく述べられています。
参考文献
*1『角川日本地名大辞典 27 大阪府』「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865 p818
*2『道頓堀裁判』牧 英正著 岩波書店 1993 書誌ID 0000338003
*3『大阪春秋4号 御堂筋あれこれ』 大阪春秋社 1974 書誌ID 0090013177
・『大阪史蹟辞典』 三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
・『安井家文書』 (大阪市史史料 第20輯) 大阪市史編纂所編 大阪市史料調査会 1987 書誌ID 0000619824
・中村浩 「安井道頓は実在せず −道頓堀川と道頓−」 『大阪春秋 19号 大阪の橋と川』1979 書誌ID 0070052023
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地誌
郷土人
質問
大坂蘭学の祖・橋本宗吉(そうきち)について
回答
本名は鄭(てい)、号は曇斎(どんさい)。宗吉は通称。幼名を直政。
宝暦13(1763)年阿波生まれ、天保7(1836)年5月1日没。墓碑は天王寺区の念仏寺にあります。墓は明治初年までは天満寺町の龍海寺にあったが、いつのまにかなくなってしまったという説*1もあれば、一族の墓所である念仏寺に葬られたという説*2もあります。
当時、蘭(オランダ)語を読みこなせる人は大坂におらず、おもに清国での翻訳書やオランダ人から伝聞した知識を基礎としていました。直接オランダ原書によって研究をするために、若い人材に蘭語を学ばせ、蘭学の資料をどんどん翻訳してもらいたいと考えた小石元俊(こいし げんしゅん)・間重富(はざま しげとみ)は、記憶力に定評のあった橋本宗吉を援助し、江戸の大槻玄沢から蘭語を学ばせました。時に寛政元(1789)年27歳(寛政二年28歳の説*3もあり)、わずか4ヶ月ほどで蘭語4万語を修得しました。*4 短期間での蘭語修得は、周りの人々を驚かせました。
帰坂してからは、医学・天文学・暦学・地理学・電気学の蘭語資料を翻訳しました。木村蒹葭堂(きむら けんかどう)の依頼で翻訳した世界地図は、『喎蘭(オランダ)新訳地球全図』として寛政8(1796)年刊行しました。神戸大学付属図書館ホームページ*5でも画像がご覧いただけます。
宗吉の蘭学の実力をうかがい知るエピソードとして、寛政11(1799)年、長崎の通詞(通訳)が大坂に立ち寄った時に、伏屋素狄(ふせや そてき)のすすめで蘭書を宗吉に手渡したところ、「これを読むこと流水のごとく、その解釈することあたかも宿看のごとく」との通り、すらすらと読み訳した姿に、通詞は感嘆したという話があります。*1
翻訳のかたわら、元俊の診療や重富の天体観測の手伝いもしていました。観測手伝いの様子は、重富の『月食観測日記』の寛政10年10月16日の項にも記されています。木星や土星の観測メモも残っています。*1
大坂で最初の蘭学塾・絲漢堂(しかんどう)を、寛政9(1797)年、安堂寺町五丁目(後の安堂寺橋通三丁目*6)に設立しました。内科と外科の医堂も併設しました。(後日、心斎橋を北へ三筋目を少し東へ入ったところに移転しました。) 絲漢堂跡碑は現在、南船場3丁目3-23にあります。*1 伏屋素狄、大矢尚斎、藤田顕蔵、斎藤方策などの門下を輩出し、また直接の門下ではありませんが、中天遊(なか てんゆう)(弟子に緒方洪庵)も教えを請いに絲漢堂へ通っていました。後年山木積善が文政11年(1828年)『海内医林伝(かいだいいりんでん)』の中で、「大阪西洋学、自宗吉始」と述べています。*1
翻訳はその後も続け、島之内周防町の産科の医者・大矢尚斎の意見を聞きながら、フランス人モリソオの産科書の翻訳を始め、2年たらずで『西洋産育手術全書』を完成。産科書の翻訳を絲漢堂設立直後に始めたのは、小説『負けてたまるか』*7では、次女を出産後数日で亡くしたことを由来としています。また、リースの治療学の翻訳を始めたのも、三女を亡くしたのがきっかけとあり、長男四女のふたごをやはり出産後すぐに亡くしてしまったことから完成を急いだようです。文政元(1818)年、製薬・処方・治療の三分野を網羅した『蘭科内外三法方典』として刊行しました。*8『西洋医事集成宝箱』翻訳、発刊許可が文化13(1816)年に出、文政4年(1821)年までの5年間にわたり6巻まで出版しました。「自分には不幸にして一男もないので本書を訳して上梓し世を益したい」という意気込みに、何度も子を夭折した悲しみや、跡継ぎを得ることのできなかったことへのあきらめがうかがえます。*1
医者としての宗吉の記録には、大坂船場の医師として『大坂医師番付集成』*9に橋本宗吉の名があります。前頭ですが、当時少なかった外科を担当していたことがうかがえます。また、住友の銅精練所に往診したり、強盗傷害事件の外傷の手当てをした記録が残っています。*1
また、オランダの百科全書や医学書からエレキテルに関する事項を抜き書きしてその原理の解明に努め、また電気実験をし、その模様を図解した『阿蘭陀始制(オランダしせい)えれきてる究理原』を文化8(1811)年著述し、電気学でも先駆者となりました。フランクリンが凧を使って空中電気の正体を確かめたのと同じ実験を、門人の中喜久太の和泉熊取村自宅で行い、その様子も最後に記されています。その時使用した巨松は、後に落雷のため枯死しましたが、落雷する前の松の写真(昭和8年)と、現在の跡地は、熊取町ホームページ*10からご覧いただけます。 これらの実験の様子は、『少年少女科学名著全集 5』*11に、図入りでわかりやすく書かれています。
晩年、娘の嫁ぎ先の安芸国(今の広島県)竹原に行きました。竹原に行った理由は、文政10(1827)年の切支丹事件や、翌年のシーボルト事件から身を隠すため、という説もあれば、ただ単に娘のところに遊びに行ったという説もあります。*1 帰坂してからの記録はあまり残っていません。
なお、小説で橋本宗吉が登場するものに、以下のものがあります。史実に沿って執筆された『負けてたまるか : 大坂蘭学の始祖・橋本宗吉伝』*6、橋本曇斎(宗吉)が蘭学知識を生かして事件の謎を解く『殺しはエレキテル』*12、設定が若干変えてありフィクション色がかなり強い<天文御用十一屋>シリーズ*13*14(平成24年1月時点ではこの二冊)があります。
参考文献
*1『大坂蘭学史話』中野操著 思文閣出版 1979 書誌ID 0070052050
*2『なにわ町人学者伝』谷沢永一著 潮出版社 1983 書誌ID 0000242973
*3『東区史 第5巻人物篇』大阪市東区役所編 清文堂出版 1982 書誌ID 0000243048
*4『洪庵・適塾の研究』梅渓昇著 思文閣出版 1993 書誌ID 0000343482
*5神戸大学付属図書館ホームページ http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sumita/5C-49/basic/5C-49.html (2013年3月25日確認)
*6『大阪の町名』大阪町名研究会編 清文堂 1977 書誌ID 0070049341
*7『負けてたまるか:大坂蘭学の始祖・橋本宗吉伝』柳田昭著 関西書院 1996 書誌ID 0000536851
*8長崎大学薬学部ホームページ http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/research/cp3/chapter3-2.html (2013年3月25日確認)
*9『大坂医師番付集成』古西義麿索引・解説 中野操監修 思文閣出版 1985 書誌ID 0000253685
*10 熊取町ホームページ http://www.town.kumatori.lg.jp/shisetsu/nakakezyuutaku/shisetsu_annnai/1298600171219.html (2013年3月25日確認)
*11『少年少女科学名著全集 5』国土社 1979 書誌ID 0070069209
*12『殺しはエレキテル:曇斎先生事件帳』芦辺拓著 光文社 2003 書誌ID 0010663821
*13『星ぐるい』築山桂著 幻冬社2010 書誌ID 0012090071
*14『花の形見』築山桂著 幻冬社2011 書誌ID 0012413025
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郷土人
質問
船場汁について知りたい
回答
『日本国語大辞典 8巻』*1によると、船場汁とは、「塩鯖(さば)の頭や中骨と短冊に切った大根を入れて作った潮汁(うしおじる)」のことを指し、「大阪の船場商人が作った所からの名ともいう」とあります。
かつて商都大阪の中心であり奉公人を多く抱えていた船場の商家の食生活は、「朝粥や昼一菜に夕茶漬け」といわれる、つましいものでした。日常は野菜本位のお惣菜で、月に2回だけ魚がつきました。その塩鯖や塩鮭を食べた後の頭やアラを出汁にして短冊にした大根を煮たのが船場汁で、いわば廃物利用の食物です。(塩鯖一本で十人前のおかずになる、などとして魚を全部使っている例もありますが、これも頭から中骨まで使い切る無駄のない料理です)。
『たべもの語源辞典』*2によると船場汁は200余年前には、千羽(せんば)・千羽煎(せんばいり)・煎葉煮(せんばに)などとよばれ、煎り鳥に青物を取り合わせて作る手軽な鳥料理でした。それが、様々な魚や野菜が用いられるようになり、魚類も塩粕漬・味噌漬・ぬか漬などにしたものを用いるというように、塩漬の魚を汁で煮た料理へと変化していったようです。また、その名も「船場煮」から、汁の多いものを「船場汁」とも呼ぶようになりました。(現在も、資料により船場煮、船場汁の両方の名称が使われています。)
『大阪歳時記』*3には「薄い塩味に、鯖の脂が適度に加わり、何杯でもお代わりが出来るし、それで相当に腹が張るので、しぜん、飯のほうはそれほど食べられない。旨い上に、至極経済的でもある。一名、丁稚汁ともいい、もののあわれさを感じさせる。」とあり、当時の様子がうかがわれます。
古くは、西鶴の『好色五人女』*4(貞享3年板 1680)巻1にも「金じゃくし片手に、目黒のせんば煮を盛る時、骨かしらをえりて、清十郎にと気をつくる」と、船場煮の名称が出てきます。
作り方は、『味のふるさと 19 大阪の味』*5 、『大阪府の郷土料理』*6 などに詳しく、『大阪府の郷土料理』*6、『調理用語辞典』*7にはカラー写真が掲載されています。
参考文献
*1 『日本国語大辞典:第2版 8巻』小学館国語辞典編集部,日本国語大辞典第二版編集委員会編集 小学館 2001 書誌ID 0010116945 p.153
*2 『たべもの語源辞典』清水桂一編 東京堂出版 1980 書誌ID 0070026192 p117-118
*3 『大阪歳時記』長谷川幸延著 読売新聞社 1971 書誌ID 0000328214 p266
*4 『日本古典文学全集 38 井原西鶴集 1』 小学館 1977 書誌ID 0000237593 p316
*5 『味のふるさと 19 大阪の味』 角川書店 1978 書誌ID 0070115329 p35
*6 『大阪府の郷土料理』上島幸子ほか著 同文書院 1988 書誌ID 0000164455 p13-14
*7 『調理用語辞典 改訂』全国調理師養成施設協会編 全国調理師養成施設協会 調理栄養教育公社(発売) 1998 書誌ID 0000715700 p.657
・『大阪方言事典』牧村史陽編 杉本書店 1955 書誌ID 0090003730 p.381
・『大阪ことば事典』牧村史陽編 講談社 1979 書誌ID 0070023142 p.386
・『日本の味探究事典』岡田哲編 東京堂出版 1996 書誌ID 0000510364 p.131
・『上方食談』石毛直道著 小学館 2000 書誌ID 0000833036 p.82-83
・『現代日本料理法総覧 上 あ〜そろ』清水桂一編 第一出版 1977 書誌ID 0080038333 p.311
・『定本船場ものがたり』香村菊雄著 創元社 1986 書誌ID 0000164020 p.39-40
・『日本の食生活全集 27 聞き書 大阪の食事』 農山漁村文化協会 1991 書誌ID 0000185711 p.76, p98
・『かんさい味紀行』朝日新聞大阪本社編 かもがわ出版 1993 書誌ID 0000367359 p.8-9
中央区
民俗
質問
こどもむけに書かれた、大阪城の本はありますか
回答
『大阪城ものがたり』*1には、築城から大坂冬の陣・夏の陣までのことが、物語風に書かれています。巻末には、簡単な年表もあります。『大阪城-天下一の名城』*2には、築城をはじめ、内部の様子などがわかりやすい図や絵を使って細かく説明されています。『歴史と文化の町たんけん 4大阪をたずねる』*3にも1997年の大改修までのことが、カラー写真とともに短く説明されています。また、『大阪城』*4、『大阪城の魅力-歴史の宝庫』*5などの写真集では、大阪城の姿がご覧いただけます。
参考文献
*1『大阪城ものがたり』 藤原一生原作 教育出版センター 1983 書誌ID 0070006644
*2『大阪城-天下一の名城』 宮上茂隆著 草思社 1984 書誌ID 0000190090
*3『歴史と文化の町たんけん 4大阪をたずねる』 三田村信行編著 あすなろ書房 2003 書誌ID 0010494973
*4『大阪城』 岡本良一編著 清文堂出版 1983 書誌ID 0000164394
*5『大阪城の魅力-歴史の宝庫』 登野城弘著 淡交社 1994 書誌ID 0000395164
・『ぼくらの大阪府』 谷口豊編著 ポプラ社 1984 書誌ID 0070006645
・『史跡と人物でつづる大阪府の歴史』 大阪の史跡と人物をたずねる会編著 光文書院 1981 書誌ID 0000227211
・『私たちの日本史 4江戸と大阪』 岡田章雄著 偕成社 1986 書誌ID 0070044251
中央区
建築
質問
「薬の町」道修町(どしょうまち)について知りたい。
回答
町名は「どしょうまち」と読みます。『日本歴史地名体系28 大阪府の地名1』*1によりますと「明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図には道修町一‐五丁目が記される。当初は『どうしゅまち』と読んだと思われるが、のちなまって『どしょうまち』と読みならわされるようになった。」とあります。
町名の由来は『角川日本地名大辞典 27大阪府』*2によりますと「往古道修谷と呼ばれていた」から、また「道修寺という寺院があったという説」や「北山道修という医師が居住していたという説」もあります。 同書によりますと薬の町となったのは「寛永年間に堺の小西一族の小西吉右衛門が将軍秀忠の命により1丁目に薬種屋を開いたことがきっかけ」であり「明暦年間にはすでに薬種仲間が形成されていた」「当町には田辺五兵衛・武田長兵衛・塩野義三郎などをはじめとして江戸期から現在まで続いている薬関係の老舗が多い」とあります。2丁目には少彦名神社があり、『大阪とくすり』*3には「神社には明暦年間(1655〜1658)以来、道修町の薬種仲間組合が保存してきた文書を始め、膨大な文書が残されている。」「境内にくすりの町道修町資料館が開設されて、これらの文書をはじめ薬文化の資料が順次集められて、保存と同時に公開されるようになった。」とあります。
参考文献
*1『日本歴史地名体系28 大阪府の地名1』平凡社 1986 書誌ID0000156512 p443
*2 『日本地名大事典27 大阪府』角川日本地名大辞典編纂委員会編 角川書店 1983書誌ID 0000184865 p826
*3 『大阪とくすり』米田該典編 大阪大学出版会 2002 書誌ID 0010254233 p48-49
中央区
地誌
質問
江戸時代に島之内にあった銅吹所について
回答
『中央区史跡文化事典』*1の「住友銅吹所跡」という項目によりますと「島之内1丁目は、寛永年間(一六四〇年頃)住友家2代・友以(とももち)によって開かれた銅精錬所があった一帯である。このあたりは東横堀川、西横堀川、長堀川など、舟運(しゅううん)の利便性を活用して多くの銅吹所があった。江戸時代、日本は世界有数の銅産国であり、全国からこの地に粗銅が集まった。住友銅吹所は日本最大の銅精錬所で、日本の生産量の3分の1を精錬。」とあります。住友銅吹所の設立年は『大阪史蹟辞典』*2には1636年(寛永十三年)とあります。
大阪(大坂)と銅の関係については『よみがえる銅』*3に、「銅鉱石には銀が含まれることが多かったので『南蛮吹き』とよばれる技術で銀と銅が分けられ、精錬された。」「銅は重要輸出品のため幕府の統制下にあり、そのための役所として銅座が設置されていた時期もある。」「明治になって幕府の統制がなくなり、住友銅吹所は四国の別子銅山へと移転した。しかし、大阪には貨幣の製造場である造幣寮(後の造幣局)が作られ銅関連の企業や工場もたくさんあった。」と書かれています。
銅座は中央区内久宝寺町の大阪市立銅座幼稚園にその名を残しています。また、住友銅吹所跡地は後に住友家居宅などに使用され、現在は島之内1丁目6番7号に「住友銅吹所跡」という石碑が建っています。
参考文献
*1『中央区史跡文化事典』大阪市中央区役所 2008 書誌ID 0011648821
*2『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
*3『よみがえる銅』大阪歴史博物館偏 2003 書誌ID 0010716742
中央区
産業および商業
質問
人形浄瑠璃文楽について
回答
人形浄瑠璃文楽は、わが国の人形芝居を代表する伝統芸能のひとつです。『人形浄瑠璃の歴史』*1によりますと、「人形浄瑠璃文楽は浄瑠璃、三味線、操り人形の三業を一体化させ、ぴったりと呼吸を合わせて演じる総合舞台芸術である。浄瑠璃は技芸の筋を構成し、三味線の音曲はその筋書きに情感を加えて盛り上げていく。人形はキメ細やかな動きを見せて、この世のものと思えないほど美しい伎芸を演出する。人々が感動し涙するのも、物語の筋と三業の一体化した絶妙の演出にある」とあります。
しかしながらその歴史をひも解きますと、人形芝居と浄瑠璃とは当初、別々に発生し、発展していました。『大阪春秋 99号』*2には、「慶長年間になって堺の目貫屋長三郎というものが西宮の引田某を使って浄瑠璃にあわせて人形を操らせ、ようやく今日の人形芝居の形になったという。この浄瑠璃の人形芝居は江戸や京に伝播し、江戸時代の初め寛文年間(1661〜73)大坂に入る」とあります。 その後、貞享元(1684)年、竹本義太夫が、近松門左衛門や竹田出雲らの協力のもと、難波の道頓堀に竹本座を設け、操り芝居を興行し、人形浄瑠璃の最盛期を到来せしめました。竹本義太夫の奏でる義太夫節の名は全国に広まり、義太夫節といえば人形浄瑠璃を指すほどになりました。この後いくつかの人形浄瑠璃座が盛衰を繰り返します。『世界無形文化遺産ガイド』*3には、「18世紀末頃、淡路島出身の植村文楽軒が大阪で興行を始め、その小屋が明治5(1872)年以降、『文楽座』を名乗り繁栄、いつしか人形浄瑠璃そのものを指すようになった」とあります。
昭和30(1955)年に人形浄瑠璃文楽は文化財保護法に基づく重要無形文化財に指定されました。*4
その後、人形浄瑠璃文楽は文化財「文楽」として文楽協会のもとで運営されており、財団法人文楽協会は、昭和59(1984)年に誕生した国立文楽劇場(中央区日本橋1-12-10)を主な舞台として、人形浄瑠璃文楽の公演と保存にあたっています。*2
平成15(2003)年に人形浄瑠璃文楽は、ユネスコ「世界無形文化遺産」に登録され、平成20(2008)年にユネスコの「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載されており、人類の無形文化遺産の傑作のひとつとして称えられています。*3*5
参考文献
*1『人形浄瑠璃の歴史』 廣瀬久也著 戎光祥出版 2002 書誌ID 0010382579
*2『大阪春秋 99号 大阪の大衆芸能』 大阪春秋社 2000 書誌ID 0000814579 p4〜5
*3『世界無形文化遺産ガイド 人類の口承及び無形遺産の傑作編』 世界遺産総合研究所編 シンクタンクせとうち総合研究機構 2004 書誌ID 0010763825 p74
*4『無形文化財・民族文化財・文化財保存技術指定等一覧 平成元年度』 文化庁文化財保護部伝統文化課 1989 書誌ID 0000386934 p14
*5『中央区史跡文化事典』 大阪市中央区役所 2010 書誌ID 0012197943 p57
・『文楽盛衰記』 内海繁太郎著 新読書社 1965 書誌ID 0080131330
中央区
芸術