大阪に関するよくある質問
質問
福島天満宮について
回答
福島天満宮は、福島区福島2丁目にあり、祭神は菅原道真のほか、大国主命(おおくにぬしのみこと)、事代主神(ことしろぬしのかみ)などを祀っています。『日本歴史地名大系28-1大阪府の地名1』*1によると、古くは天満宮上之社(通称、上の天神)と称し、天満宮中之社(焼失)、天満宮下之社(現在、天神社)とともに福島の三天神社を構成していましたが、創建については二つの説があります。一つは、901年菅原道真が大宰府へ左遷される途中、風待ちのため、この地にとどまったことに由来し、福島という地名も菅原道真の命名と伝えられているというものです。もう一つは、昔、大阪天満宮の天神祭では、天神橋下流の鉾流(ほこながし)島から流した神鉾の漂着地を翌日の船渡御の御旅所としましたが、鉾は流れの関係で当地に漂着することが多く、いつの頃かその地に祠を建てたのが三天神社の始まりであるとする説です。『大阪春秋80号 野田・福島』*2にも福島三天神社と大阪天満宮についての記述があります。 『福島区史』*3によると、天満宮中之社(通称、中の天神)は、菅原道真と少彦名命(すくなびこなのみこと)を祀っていましたが、太平洋戦争の戦災で焼失し、現在は福島天満宮に合祀され、社殿はありません。1909(明治42)年の北の大火の後、1910(明治43)年に同社を再建した時に立てた記念碑があります。天神社(通称、下の天神)は、玉川1丁目にあり、菅原道真と少彦名命を祀っています。
参考文献
*1 『日本歴史地名大系28-1大阪府の地名1』 平凡社 1986 書誌ID 0000156512 p753 *2 『大阪春秋80号 野田・福島』 大阪春秋社 1995 書誌ID 0000483706 p29 *3 『福島区史』大阪都市協会編 福島区制施行五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0070022168 p427〜430
福島区
神社仏閣
質問
北の大火を防いだレンガ塀について
回答
明治42(1909)年7月31日午前4時20分、北区空心町から出火した火事は、強い東風にあおられ西へ大きく燃え広がり一昼夜燃え続け、鎮火できたのは翌8月1日午前4時ごろでした。この大火は天満焼けあるいは北の大火と呼ばれました。(『新修大阪市史6巻』*1) 『福島区史』*2によりますと、火勢は現在の福島区の東南部にあたる地域までおよび、当時の上福島1〜3丁目、上福島中1〜3丁目を焼き尽くしましたが、紡績会社の高塀に行き当たってようやく鎮火しました。 この紡績会社の名称について、明治43年に大阪市役所が刊行した『大阪市大火救護誌』*3では「日本紡績株式会社」と記載されており、『福島区史』、『北区史』*4でも同様の説明がなされています。明治42年8月に発行された、当時の写真雑誌『グラヒック』の臨時増刊『大阪大火画報』*5では「これより以西は福島、日本の両紡績に遮られ…」と報道されていますが、同資料に掲載されている地図によると、隣接している両紡績会社のうち、より北東に位置する福島紡績が焼失地域の西端にあたっている様子です。『新修大阪市史6巻』にはこの地図より作成された「北の大火焼失地域」図が記載され、「鎮火できた西端は福島紡績会社の外柵であった」と解説されています。また『大阪史蹟辞典』*6の「キタの大火」の項でも「やっと福島紡績の壁で鎮火した」とされています。 北消防署100年史『世紀をこえて』*7では、北の大火の遺跡とも言える旧福島紡績塀の写真が、「北の大火焼けどまり跡」として紹介されています。また福島の地域雑誌『福島てんこもりNo.18』*8の特集では、これらの紡績会社の塀の変遷が取り上げられています。
参考文献
*1 『新修大阪市史6巻』新修大阪市史編纂委員会編 大阪市 1994 書誌ID 0000427809 p.810〜813
*2 『福島区史』大阪都市協会編 福島区制施行五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0070022168 p.116〜117
*3 『大阪市大火救護誌』大阪市役所編 大阪市役所 1910書誌ID 0080242118 p.13
*4 『北区史』大阪都市協会編 北区制一○○周年記念事業実行委員会 1980 書誌ID 0070059801 p.129
*5 『大阪大火画報』有楽社 1909 書誌ID 0080237501 p.9 、裏表紙
*6 『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p.144
*7 『世紀をこえて』大阪市北消防署100周年記念誌編集委員会編 北区防火協力会 2010 書誌ID 0012237081 p.18
*8 『福島てんこもりNo.18』 福島てんこもり 2011 書誌ID 0012355216 p.14〜15
福島区
建築
質問
野田城について
回答
『わがまち史跡めぐり』*1によると、野田城は、享禄4年(1531年)頃に築かれ、後に畿内一円に勢威をふるった三好一党が改築したのではないかと推測されています。石山本願寺と同盟を結ぶ三好一党は、野田城に篭城し織田軍と戦うが落城。のちにこの城は毛利水軍と戦う織田軍の重要拠点になります。その後、歴史から忘れ去られ、現在は痕跡を見つけることはできません。明治の初め、「城之内」「弓場」という地名が残されていたことから、玉川付近にあったと推察されており、地下鉄千日前線「玉川駅」2号出口すぐに「野田城跡」の石碑が建てられています。 『野田:創立100年記念誌』*2に、詳細な記述があります。『大阪春秋 80号 野田・福島』*3に「幻の野田城を探る」と題して、渡辺武氏によるまとまった考察があります。他の小冊子と合冊再版された『わがふるさと』*4の「野田城」(1977刊)に少し手を入れたものです。
参考文献
*1『わがまち史跡めぐり』福島区役所企画総務課 2001 書誌ID 0010155989
*2『野田:創立100年記念誌』大阪市立野田小学校創立100周年記念誌編集委員会 2003 書誌ID 0010528955
*3『大阪春秋 80号 野田・福島』大阪春秋社 1995 書誌ID 0000483706
*4『わがふるさと』大阪福島ライオンズクラブ 1984 書誌ID 0080196783
・『福島区歴史と史跡探訪』大阪都市協会編 福島区青少年対策連絡協議会 1984 書誌ID 0080217596
・『福島区史』大阪都市協会編 福島区政施行五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0070022168 p42〜45
・『大阪府全志 巻2』井上正雄著 清文堂出版 1985 (大正11年刊の復刻) 書誌ID 0000172307 p1198
・『六十周年記念第一西野田郷土誌』乾 市松著 教育後援会 1935 書誌ID 0000412541 p273〜279、302
・「福島区ホームページ」
https://www.city.osaka.lg.jp/fukushima/page/0000000858.html
「福島区・まちづくり・みどころ>名所・旧跡」(2019年8月27日確認)
福島区
遺跡および碑文
質問
羽間(はざま)文庫について
回答
海老江の羽間平三郎氏(昭和47年没)が、江戸時代の町人天文学者間重富(はざましげとみ)らゆかりの天文関係資料を中心に、近世大阪の郷土資料や近江の蒲生氏に関する資料などを生涯かけて収集保存し、羽間文庫と名づけました。『大阪春秋 80号 野田・福島』*1には、「羽間文庫―文庫に生涯をかけた夫婦―」と題して、資料の収集・保存に関する経緯や苦労が記されています。『大阪の歴史 68号』*2「天文学者としての間重富」によると、昭和45年には文庫資料が大阪府指定有形文化財に指定されました。その後、平成8年から11年にかけて天文資料を含む文庫資料が一括して大阪市立博物館(現大阪歴史博物館)に寄贈されました。 寄贈記念の展示目録『羽間文庫』*3は、羽間文庫の収蔵品の数々を写真入りで紹介し、重富の業績、当時の天文学の動向について、わかりやすく解説しています。それによると、間重富は、宝暦6年(1756年)十一屋という質屋(阿波座羽間家)の第6子として生まれましたが、兄たちが夭折したため、第7代目を継ぎました。初め、姓は羽間でしたが、のちに間と改めました。麻田剛立の門下で天文学を学び、幕府に命ぜられて寛政の改暦事業に従事、大坂に帰って以後も、長堀冨田屋橋北詰(現在の西区)の自宅で御用観測を続けました。重富の子、重新も家業と観測を引き継ぎ、その後、重遠・重明と四代にわたって御用観測が行われました。「大阪春秋80号 野田・福島」*1によると、明治になって相続二子夭折のため、直系の跡継ぎが絶えました。 なお、羽間家は、阿波座羽間家のほかに浦江羽間家、海老江羽間家があり、冒頭の羽間平三郎氏は海老江羽間家の子孫にあたります。
参考文献
*1 『大阪春秋 80号 野田・福島』大阪春秋社 1995 書誌ID 0000483706 p.30〜p34
*2 『大阪の歴史 68号』大阪市史料調査会 2006 書誌ID 5111269812 p.1〜p17
*3 『羽間文庫』大阪市立博物館編 1999 書誌ID 0000775833
・『福島区史』大阪都市協会編 福島区制施行五十周年記念事業実行委員会1993書誌ID 0070022168 p.423〜427
・『わがふるさと』大阪福島ライオンズクラブ 1984 書誌ID0080196783(福島区内史跡めぐりのしおりを合冊再版したもの)より「羽間文庫」羽間平安著 1976
・『大阪史蹟事典』三好貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p.513〜514
・『上方 : 郷土研究 2(上)』上方郷土研究会編 新和出版社 1969 書誌ID 0000245122 p.176〜183
福島区
郷土人
質問
野田藤について
回答
野田の辺りは古来より藤が群生しており、室町幕府二代将軍足利義詮が住吉詣での途中訪れて、藤を和歌に詠み、豊臣秀吉も藤の花見に訪れ茶会を開いたと伝えられています。江戸時代、一時期衰退しますが、後に再び藤の名所となり、江戸時代に出版された『摂津名所図会 1』*1にも取り上げられています。そのp367に茶店・料理屋の賑わいが描かれ、p372〜373に当時の野田の絵図も出ています。 明治以降衰え、昭和20年の空襲でほぼ全滅しますが、その後の再生運動により、今では、福島区内各所で野田藤を見ることができるようになりました。福島区の「区の花」にも制定されました。玉川2丁目にある春日社祠の境内に「野田藤の跡」の石碑が建てられています。 参考文献としては、『野田:創立100周年記念誌』*2に、網羅的にまとめられた詳細な記述があります。 『玉川:創立百周年記念誌』*3にも、歴史と戦後の復元について、まとまった記述があります。 『野田藤と円満寺文書』*4には、野田藤に関する文献・記録が紹介されています。 『わがふるさと』*5に収録されている「野田藤とその歴史」には、概要がわかりやすくまとめられています。
参考文献
*1『摂津名所図会 1』秋里籬島著 新典社 1984 書誌 ID 0090004723
*2『野田:創立100周年記念誌』大阪市立野田小学校創立100周年記念事業委員会 2003 書誌ID 0010528955
*3『玉川 : 創立百周年記念誌 』大阪市立玉川小学校創立100周年記念事業委員会 1974 書誌ID 0080196481
*4『野田藤と円満寺文書』内田九州男・和田義久編 円満寺 2003 書誌ID 0010576459
*5『わがふるさと』大阪福島ライオンズクラブ 1984 書誌ID 0080196783
・『福島区歴史と史跡探訪』大阪都市協会編 福島区青少年対策連絡協議会 1984 書誌ID 0080217596
・『わがまち史跡めぐり』福島区役所企画総務課 2001 書誌ID 0010155989
・『大阪府全志 巻2』井上正雄著 清文堂出版 1985 (大正11年刊の復刻) 書誌ID 0000172307
・『大阪府誌 第5編』大阪府編 思文閣 1970 (明治36年刊の復刻) 書誌ID 0000172300
・『六十周年記念第一西野田郷土誌』乾 市松著 教育後援会 1935 書誌ID 0000412541 p292〜301
・「福島区ホームページ」
https://www.city.osaka.lg.jp/fukushima/page/0000000858.html
「福島区・まちづくり・みどころ>名所・旧跡」(2019年8月27日確認)
福島区
自然
質問
中央卸売市場(本場)はいつできたのですか
回答
大阪における市場は、蓮如上人や豊臣秀吉の頃にはじまり、江戸時代に大いに発展しました。明治時代になっても市場には種々の特権が残され、存続していましたが、都市環境の変化に対応しきれず、さまざまな問題が顕著になってきていました。*1
第1次世界大戦下の物価高騰から市民の生活を守るため、食品を中心とする生活必需品を安く、安定して入手することができるように、大正7(1918)年4月大阪市は全国にさきがけて市内4ヶ所に日用品供給場(公設市場)を設け、その動きは全国に広がりました。*2
同年7月「米騒動」が起こり、全国的に食料品の安定供給の必要性が高まり、公設小売市場の機能を十分発揮させるため公設卸売市場の設置が求められ、大正12(1923)年、「中央卸売市場法」が制定されました。
大阪市では大正13(1924)年に臨時中央卸売市場調査委員会を設置し、市場の建設地の選定を開始し、大正14(1925)年3月に全国初の開設の認可を受けました。建設候補地は当初17ヶ所あげられていましたが、最終的に、市域のほぼ中心に位置し、1,500トンまでの汽船の接岸や、国鉄西成線からの貨車の引き込み可能など、水運・陸運ともに至便な、船津川北詰の安治川沿岸(現在の福島区野田)に決定しました。*2
広大な用地の立ち退き問題や、既存の卸売市場の存廃問題等により、開場までには時間を要しましたが、昭和6(1931)年11月11日に、面積121,330平方メートルに達する総合食品市場が開場し、生鮮食料品流通の新しいシステムが整備されました。
終戦前後は市場機能を一時停止していましたが、統制の解除とともに本来の姿に戻り活動を開始し、本場施設の建て替えや整備が行われ、平成14(2002)年に全施設の建て替え工事が終了し、開場80周年をむかえました。
参考文献
*1 『60年の歩み−大阪市中央卸売市場本場開設60周年・業務管理棟竣工記念−』 大阪市中央卸売市場本場開設60周年記念事業委員会 1992 書誌ID 0000289467 p23〜24
*2 『新たな飛躍に向けて−本場開設七○周年・新市場完成記念−』 大阪市中央卸売市場本場開設70周年 新市場完成記念事業委員会 2002 書誌ID 0010430979 p34〜41
・『本場50年の歩み−大阪市中央卸売市場本場開設50周年記念−』 大阪市中央卸売市場本場開設50周年記念事業委員会 1982 書誌ID 0070067820 p1〜35
・『福島区史』 福島区制施行五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0070022168 p521〜523
・『野田−創立70周年記念誌−』 大阪市立野田小学校創立 70周年記念事業委員会 1973 書誌ID 0080229369 p43
・『わたしたちの野田』 大阪市立野田小学校 2003 書誌ID 0010528957 p30〜31
・『市場の歴史』
https://www.city.osaka.lg.jp/shijo/page/0000003470.html
(2019年8月27日確認)
・中央卸売市場
https://www.city.osaka.lg.jp/shijo/
(2019年8月27日確認)
福島区
産業および商業
質問
作家・田辺聖子の生家はどのあたりにあったのか
回答
『福島区史』*1に田辺聖子さんが寄稿した「戦火に消えたわが町」という一文が紹介されています。それによると「福島西通の交差点(昔は5丁目といったが)から南の堂島大橋に至る、ちょうどまん中ほど、電車みちに面した田辺写真館が、私の生家であった。」とのことです。 自叙伝『田辺写真館が見た“昭和”』*2には、「国道2号線を福島西通りで左折、200メートルばかりいった左側にあった。この辺一帯は昭和20年6月1日の空襲であとかたもなく、一望の焦土となったが、戦前はいろんな商家が市電通りに面していて賑やかであった。」と述べられています。同書には当時の様子を伝える写真も多く収められています。p58に、昭和の始め、完成前の田辺写真館の写真が掲載され、「前の通りの市電も敷設中」との説明あり。p171に掲載されている父、貫一さんの名刺には福島区上福島南3丁目と印刷されています。 昭和12年発行の地図『最新の此花区・都市計画路線入』*3に、田辺写真館の場所が記されており、住所は上福島南3丁目40と表記されています。(『福島区史』によると昭和19年と昭和50年に町名改正が実施されました。この地域は現在の福島区福島3丁目にあたります。なお、昭和18年に福島区が発足するまでは此花区でした。) また、フリーペーパー『野田+福島』7号(2007年1月)*4は野田・福島の文学を特集しており、インタビュー「田辺聖子さんが語る福島のまち」と、生家のだいたいの位置が確認できる地図が載っています。 当時の様子を伝える随筆には次のようなものがあります。「わが街の歳月」の中より「福島」(『歳月切符』*5および『田辺聖子全集23巻』*6に収録) 「往時茫々」*7(『日本語のこころ』に収録) また、『田辺聖子の世界展』*8には弟さん・妹さんとの対談が掲載されています。
参考文献
*1 『福島区史』 大阪都市協会編 福島区制施行五十周年記念事業実行委員会1993書誌ID 0070022168 p136〜138
*2 『田辺写真館が見た“昭和”』田辺聖子著 文芸春秋 2005 書誌ID 0010980870
*3 『最新の此花区・都市計画路線入』夕刊大阪新聞社 1937 書誌ID 0080350027
*4 『野田+福島』7号 都市大阪創生研究会 2007 書誌ID 5111512050
*5 『歳月切符』田辺聖子著 筑摩書房 1982 書誌ID 0070003502 p171〜179
*6 『田辺聖子全集23巻』田辺聖子著 集英社 2006 書誌ID 0011121913 p477〜484
*7 『日本語のこころ』 日本エッセイスト・クラブ編 文芸春秋 2000 書誌ID 0000815234 p194〜200
*8 『田辺聖子の世界展』p18〜p25「父母のいませしころ」田辺企画編 田辺聖子の世界展実行委員会 2006 書誌ID 0011369864
・『大阪春秋49号 おおさかの天満宮と天神信仰』 p126〜127 「おおさかの女26 田辺聖子さんを訪ねて」大阪春秋社 1987 書誌ID 0070031274
・『大阪春秋51号 大阪写真界小史』 p86〜88 「田辺写真館なるものありき」大阪春秋社 1987 書誌ID 0000452766
福島区
文学
質問
松瀬青々(まつせせいせい)について
回答
『大阪の俳人たち2』*1によると、松瀬青々は本名を松瀬弥三郎といい、1869(明治2)年、大川町(現大阪市中央区北浜)に生まれました。現在その地には、「松瀬青々生誕地碑」が建っています。生家は薪炭商から貿易まで手広く営んでいましたが、家業を嫌い、小学校を卒業すると、漢詩、数学、書、和歌などを学びました。1895(明治28)年、第一銀行に入行し、この頃から俳句を学び始めました。俳誌『ホトトギス』などに投句し、高浜虚子や正岡子規と出会います。1899(明治32)年、上京して『ホトトギス』の編集にあたりますが、翌1900(明治33)年には大阪にもどります。大阪では、朝日新聞社に入社し、朝日俳壇を担当しました。翌1901(明治34)年、青々は俳誌『宝船』(のちに『倦鳥(けんちょう)』と改題)を創刊し、没年までこれを主宰しました。また、句集『妻木』などを刊行し、関西俳壇の中心となりました。 1906(明治39)年から1921(大正10)年まで、福島区海老江に住み、地元で句会を開催しました。『福島区史』*2、『南桂寺と海老江』*3には、海老江4丁目の、旧宅跡にある「松瀬青々旧跡」の碑、南桂寺境内にある、青々の門人たちが建立した「青々先生」の碑について記載されています。青々は、海老江から天王寺、高師浜(たかしのはま)と移り住み、1937(昭和12)年亡くなっています。生涯については『評伝松瀬青々』*4に詳しく書かれています。
参考文献
*1 『大阪の俳人たち2』大阪俳句史研究会編 和泉書院 1991 書誌ID 0000196701 p.1〜26
*2 『福島区史』大阪都市協会編集 福島区制施行五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0070022168 p.418〜419
*3 『南桂寺と海老江』奥林享著 南桂寺 1997 書誌ID 0000635186 p.77〜78
*4 『評伝松瀬青々』青木茂夫著 俳句研究社 1972 書誌ID 0010189081・『俳人松瀬青々』堀古蝶著 邑書林 1993 書誌ID 0000363238
福島区
文学