大阪に関するよくある質問
質問
崇禅寺(そうぜんじ)馬場の敵討について知りたい
回答
正徳5(1715)年11月4日に、崇禅寺馬場(現東淀川区東中島5丁目27-44)で、敵討ちをしようとした遠城兄弟が、仇の生田傳八郎一派に返り討ちにあった事件です。*1*2 大和郡山藩士・生田傳八郎は、正徳5(1715)年5月14日、遺恨により同家中の遠城宗左衛門(当時17歳)を討ち、大坂に逃れました。宗左衛門の母の嘆きがあまりにも深かったため、兄の治左衛門・喜八郎の二人は、当時兄が弟の敵を討つことは許されていなかったにも関わらず、脱藩して敵討ちに出ることになりました。その後兄弟は、変名して仇の行方を捜していたところ、同年10月26日、生玉神社付近で生田傳八郎に出会います。そこで、生田に名乗りをかけ勝負を挑んだところ、神域であることや市中を騒がすことは本意ではないとして28日に崇禅寺松原で決着をつけたいと言われ、承知します。 兄弟はその日、崇禅寺で待ちますが、生田は現れず、再び11月4日朝8時に崇禅寺馬場でと約束をとりつけます。生田は谷町二丁目で剣術指南をしていたため門弟が大勢おり、当日、助っ人のそれらと長柄の渡しを渡り兄弟を待っていました。先に生田が来ているのを知らない兄弟が着いて身支度をしていたところに傳八郎が名乗り出、勝負しようとしたところ、隠れていた助っ人達が襲い掛かります。多勢に無勢で二人は返り討ちとなりました。この時、治左衛門は26歳、喜八郎は24歳でありました。 その後、傳八郎は20日後の11月24日に、大和矢田の常稲寺遠城家の墓地で「死出の山たどり行みる今宵かな」の辞世の句とともに切腹死しました。兄弟は、兄が「剣樹心英居士」、弟が「刀山天雄居士」の戒名で、崇禅寺にお墓があります。この敵討ちは、のちに浄瑠璃や芝居、映画*3にもなりました。
参考文献
*1 『大阪史談会報 2巻(1号)』「崇禅寺馬場敵討に就て」後藤捷一著 大阪史談 1932 書誌ID 0080207844 p.8-22
*2 『上方 47号 上方敵討号』「遠城兄弟摂津國崇禅寺松原の敵討」後藤捷一著 創元社 1934 書誌ID 0080254380 p.34-37
*3 『キネマ旬報別冊 1957年第179号 名作シナリオ集』「仇討崇禅寺馬場」 1957 書誌ID 0080298666 p.23-36
『東淀川区史-復刻版-』「ロ 崇禅寺馬場の仇討」 東淀川区史編集委員会編 市民日報社 1987 書誌ID 0010814912 p.61-63
『大阪伝承地誌集成』「崇禅寺の返り討ち」三善貞司編著 清文堂出版 1987 書誌ID 0011661445 p.245-248
『淀川三区稗史』「仇討ち悲し崇禅寺馬場」三善貞司著 三善貞司 1978 書誌ID 0080196670 p.53-61
『大阪史蹟辞典』<崇禅寺馬場の反討ち><遠城兄弟墓><みよりの竹><勝見宗春墓><遠城墓> 三善貞司編 清文堂出版 書誌ID 0000214926 p.356-358
『敵討ち崇禅寺馬場(郷土史談 1)』後藤捷一編 東田清三郎 書誌ID 0080186229 『上方 100号 第百記念号』「勝見宗春」後藤捷一著 創元社 1939 書誌ID 0080254387 p.98
東淀川区
地誌
質問
東淀川区内の空襲被害について
回答
『東淀川区史』*1によれば、昭和20年6月7日、6月15日、6月26日に空襲を受け、13,000戸が全焼したということです。この本には、戦災地域町名等ものっています。(p125〜127)『大阪大空襲に関するアメリカ軍資料』*2には、アメリカ軍による空襲の計画と報告が載っています。 また、『新修大阪市史 7巻』*3には、戦時下市民生活も含めた大空襲について書かれています。『空襲と動員』*4や、『大阪大空襲』*5、『ながら−大阪大空襲を語り継いで』*6には、空襲の様子が記されています。 また、『大阪奈良戦争遺跡歴史ガイドマップ2』*7や、『大阪の戦争遺跡ガイドブック』*8や、『ながら−大阪大空襲を語り継いで 遺跡めぐりマップ』*9には、東淀川区の戦争に関する遺跡の写真や説明がのっています。それらによると東淀川区東中島5丁目にある崇禅寺には、「戦災犠牲者慰霊塔」があって、そこで亡くなった518名の名前が記されています。
参考文献
*1 『東淀川区史』川端直正編集 東淀川区創設三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000253623
*2 『大阪大空襲に関するアメリカ軍資料』大阪空襲研究会訳・編集 大阪府平和祈念戦争資料室 1985 書誌ID 0070030483
*3 『新修大阪市史 7巻』新修大阪市史編纂委員会編 大阪市 1994 書誌ID 0000400903
*4 『空襲と動員』小山仁示著 部落解放・人権研究所 2005 書誌ID 0011037583
*5 『大阪大空襲』小山仁示著 東方出版 1989 書誌ID 0070027194
*6 『ながら−大阪大空襲を語り継いで』大阪市立淡路中学校「ながら」編集委員会 1983 書誌ID 0080191767
*7 『大阪奈良戦争遺跡歴史ガイドマップ2』平和のための大阪の戦争展実行委員会,日本機関紙協会大阪府本部共著 日本機関紙出版センター 2003 書誌ID 0010459100
*8 『大阪の戦争遺跡ガイドブック』戦争体験を記録する会編 清風堂書店 1987 書誌ID 0070001811
*9 『ながら−大阪大空襲を語り継いで 遺跡めぐりマップ』大阪市立淡路中学校「ながら」編集委員会 1983 書誌ID 0080191766
東淀川区
地誌
質問
西淡路高射砲陣地跡地について
回答
東淀川区西淡路5丁目4番17に現存しています。『大阪春秋 119号』*1によりますと、「大阪市の防空体制強化のため、高射第三師団高射第一二二聯隊第一大隊第一中隊の約一五○名が配属され、一九四四年一一月までに約4千平方メートルの敷地に、八八式七糎高射砲(口径が七センチ)六門が備え付けられた。一九九四年(昭和19)頃に、建築された高射砲の台座のうち四か所と、指揮所の建物が残っている。台座は平面が直径約一○メートルの十二角形で、高さは約五メートル、堅固なコンクリート作りである。残っている台座・指揮所は、戦後、住宅として使用されている。見晴らしを確保するために地上から突き出るような形で作られた都市型の高射砲の台座は珍しい。今、日本で残っているのはここだけと考えられる貴重な遺跡である。」とあります。 2004年春より市道の建設工事予定があり、跡地の撤去や、戦後住みついた住民の立ち退きが予定されていました。しかし、付近の住民や研究者から「都市での戦争の実態を伝える貴重な遺産」として、保存と文化財指定の要望が出されたのを受け、大阪市教育委員会が調査し、「現存する貴重な高射砲陣地で、第1級の戦争遺跡」とする報告書を2006年にまとめました。大阪市の保存・撤去の判断はまだ示されておらず、行く末が見守られている状況です。この間の経緯は、「朝日新聞2006年3月16日大阪版朝刊」*2、「読売新聞2007年8月15日号大阪版朝刊」*3などの記事に、大阪市教委の調査報告については『西淡路<国次>高射砲陣地調査報告書(大阪市文化財総合調査報告書65)』*4に詳しいです。
参考文献
*1『大阪春秋 119号 大阪の歴史と文化と産業を発信する』大阪春秋社 2005 書誌ID 0011020720 p.64-71
*2『朝日新聞2006年3月16日大阪版朝刊』p.35(多機能OMLISより、新聞記事データベースでもごらんいただけます)(多機能OMLISより、新聞記事データベースでもごらんいただけます)
*3『読売新聞2007年8月15日大阪版朝刊』 p.27(多機能OMLISより、新聞記事データベースでもごらんいただけます)
*4『西淡路<国次>高射砲陣地調査報告書(大阪市文化財総合調査報告書65)』大阪市教育委員会事務局社会教育部文化財保護課 2006 書誌ID0011494220
『大阪奈良戦争遺跡歴史ガイドマップ 2』日本機関紙出版センター 2003 書誌ID 0010459110 p.31
『大阪の戦争遺跡ガイドブック』清風堂書店 1987 書誌ID0070001811 p.60
『建築ジャーナル-西日本版- 2007年9月号(No.1126)』企業組合建築ジャーナル 2007 書誌ID5111488611 p.58
『毎日新聞2004年6月4日大阪版朝刊』p.22(多機能OMLISより、新聞記事データベースでもごらんいただけます)
東淀川区
建築
質問
中島大水道について
回答
西成郡増島村(東淀川区淡路・東淡路・西淡路)から申新田(此花区伝法町5丁目)まで、幅5〜13間(9〜23.4m)、深さ3尺(約90センチメートル)、長さ2里13町(約9.5km)に及び開鑿された大水道です。 摂津国西成郡北中島は、淀川・神崎川・中津川に囲まれた低湿地でした。度重なる淀川の氾濫は川床に土砂を堆積させており、洪水により田畑にあふれた悪水を排除し、被害を防ぐための排水路が必要とされていました。 江戸時代初期、北中島地域の22ヶ村(のちに元禄13(1700)年に新庄村が上・下に分かれ23ヶ村に)は、延宝2(1674)年に、幕府に大水道開鑿の訴願を行い見分を受けましたが公儀普請とはならず、延宝5(1677)年に百姓普請を命じられました。当時この地方は、不作続きのため窮乏しており、再三幕府に対し工事費の補助を嘆願しましたが許されず、あまつさえ許可まで取り消されそうになったため、全ての工事費・管理維持費を自分達で負担する「百姓自前普請」として開鑿を行うことにしました。延宝6(1678)年3月11日から5月にかけ、新太郎松樋(しんたろうまつひ)を水路の拠点として、農民たちは老若男女を問わず工事に参加し、わずか50(異説では28)日で完成させました。かかった費用は約2,000両でした。*1*2*3*5*8 また、中島大水道は、三庄屋切腹の義人伝承でも知られています。開鑿は火急の問題と、幕府の最終許可を待たずに、一柳太郎兵衛、西尾六右衛門、沢田久左衛門の三庄屋は工事を強行します。そのため幕府は怒り、工事の即時中断と出頭を命じますが、三庄屋は同年4月9日、西村の細目木(さいのき:現在の淀川区西中島7丁目)付近で、江戸の方角を向き抗議の切腹を行い、村民たちはこの悲壮な行為に感動し、結束して中島大水道を完成させたといわれています。また、毎年3月11日には、水道堀休みとして各村一斉に仕事を休みその遺徳を偲ぶ風習が残り、4月9日には慰霊祭が営まれていたとのことです。*4*5*6*7 現在の東淀川区から淀川区を抜け西淀川区に至り大阪湾に直結した大水路は、埋め立てられてしまいましたが、東淀川区西淡路5丁目の新幹線の高架のそばに「新太郎松樋」の石柱と「中島大水道顕彰碑」が、また西淀川区大野川緑陰道路には「中島大水道跡碑」が建てられています。*4*6*7
参考文献
*1 『百姓普請の中島大水道-東淀川農業協同組合創立二十五周年記念事業誌』大阪市東淀川農業協同組合二十五周年記念事業誌委員会編 大阪市東淀川農業協同組合 1974 書誌ID 0000382251
*2 『広報ひがしよどがわ 平成15(2003)年5月号』東淀川区役所企画総務課編 東淀川区役所企画総務課発行 2003 書誌ID 5200000981
*3 『大阪春秋 19号 おおさかの橋と川』「中島大水道に思う」坂 道夫著 大阪春秋社 1979書誌ID 0070052023 p.64-71
*4 『大阪春秋 84号 十三とその周辺』「史伝 中島大水道」三善貞司著 大阪春秋社 1996 書誌ID 0000573751 p.18-23
*5 『大阪の歴史 22号』(1987年9月号)「研究ノート 中島大水道の開墾と二、三の事実関係について-開墾関係資料の紹介をかねて-」渡辺忠司・田中 豊・野高宏之共著 大阪市史料調査会 1987 書誌ID 5100000986 p.67-85
*6 『大阪史蹟辞典』三善貞司著 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 「中島水道」p.470-471、「中島大水道跡碑」p.472
*7 『東淀川区史-現淀川区・東淀川区-』[川端直正編] 市民日報社 1987 書誌ID 0010814912「イ 中島水路の開さく」p.59-61、「イ 旧中島大水道普通水利組合」181-183 「新太郎松樋(しんたろうまつひ)」p.182、495
*8 『西成郡史-全-』西成郡役所編 名著出版 1972 書誌ID 0000246505 「中島大水道普通水利組合」p.639-655
東淀川区
郷土人
質問
柴島(くにじま)城について
回答
大阪市東淀川区柴島二丁目に「柴島城跡」と刻まれた碑があります。現在は閑静な住宅街の中にあり、城跡というにはいささか違和感を感じるかもしれませんが、戦国時代には三好長慶と細川晴賢との戦いの舞台にもなった城です。これについては『新修大阪市史 2巻』*1に詳しくp611〜p614に合戦図を交えながら述べられています。築城に関しては『大阪府全志 3』*2のp483に、十河一政(そごうかずまさ)によってと伝えられるとあるものの詳細については、わからないことが多く、『角川日本地名大辞典27大阪府』*3のp432に、城跡は淀川と旧中津川に囲まれた中洲の微高地(柴ヶ洲)にあったものとされ、現在の柴島神社の西側一帯に当たると記されています。また『東淀川区史』*4のp482〜483では、周囲二町位、他より約四尺高地になったところがその城址とされ、そこが石碑の残る場所とされています。いつ廃城になったのかは定かではありませんが、『よみがえる茨木城』*5に収録されている「東摂城跡図誌」の一部として柴島城が描かれています。現在の石碑の写真は『東淀川区80年のあゆみ』*6のp67、『ひがしよどがわ区の暮らしの歴史を語る』*7のp128〜129などに収録され、『なにわ考古学散歩』*8などには歴史散策コースのスポットの一つとして取り上げられています。
参考文献
*1 『新修大阪市史 2巻』 新修大阪市史編纂委員会編集 大阪市 1988 書誌ID 0000342133 *2 『大阪府全志 3』 井上 正雄著 清文堂 1985 書誌ID 0000172308 *3 『角川日本地名大辞典 27大阪府』 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865 *4 『東淀川区史 : 現淀川区・東淀川区』 川端 直正編集 東淀川区史編集委員会編集 市民日報社 1987 書誌ID 0010814912 *5 『よみがえる茨木城』 中村 博司編 清文堂出版 2007 書誌ID 0011359070 p194 *6 『東淀川区80年のあゆみ : 東淀川区創設80周年記念誌』 東淀川区役所 2006 書誌ID 0011250776 *7 『ひがしよどがわ区の暮らしの歴史を語る』 大阪市東淀川区役所総務課 1995 書誌ID 0010778691 *8 『なにわ考古学散歩』 大阪市文化財協会編 学生社 2007 書誌ID 0011551653
東淀川区
遺跡および碑文
質問
江口の君について知りたい
回答
江口の君とは、江口の里にいた遊女のことです。いろいろな文献に紹介されています。末尾にまとめました。 江口の里を通りかかった歌僧西行が、雨宿りを乞うたが、遊女である女あるじは断った。西行が 「世の中をいとふまでこそかたからめかりの宿りを惜しむきみかな」 と歌をよむと、遊女は 「世をいとふ人としきけばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ」 と返歌した。これが縁で、二人は仏の道、歌の道について一夜を語り明かした。遊女はその後出家した。という話が伝わっています。歌のやりとりは、「新古今和歌集」「山家集」にのっています。ただし、「山家集」では、返歌の初句が「いへをいづる」となっています。 現在、東淀川区南江口にある寂光寺は、江口の君堂と呼ばれ、出家した遊女、妙(たえ)こと光相比丘尼の弟子たちが建てたといわれています。
参考文献
『新修大阪市史 2巻』新修大阪市史編纂委員会編 大阪市 1988 書誌ID 0000342133 (p88〜94)
『伝説と稗史 上方篇3』伝説民話文学研究会編 新和出版社 1980 書誌ID 0000253367
『淀川三区稗史』三善貞司著 三善貞司 1978 書誌ID 0080196670
『大阪墓碑人物事典』近松誉文著 東方出版 1995 書誌ID 0000492268
『東淀川区の史跡と伝承』三善貞司述 東淀川区コミュニティ協会 1999 書誌ID 0000754542
『東淀川歴史探訪』三善貞司編 大阪市東淀川区役所 2005 書誌ID 0010998590
東淀川区
郷土人
質問
東淀川区の伝説や民話を知りたい
回答
東淀川区にはいくつか昔話が伝わっています。 東淀川区役所の発行した『たぬきのおんがえし』*1、『瑞光寺のくじら橋』*2、『さかまきじぞう』*3は、昔話を絵本にしたものです。これらの絵本に点訳シールをはったもの、紙芝居にしたものもあります。 『東淀川区史』*4には、伝説として、「長柄人柱の話」と「涙池の話」がのっています。長柄の人柱の話は有名で、『ながらのひとばしら』*5という絵本になったり、『ふるさとお話の旅 8 奈良・大阪』*6や『読みがたり大阪のむかし話』*7に収められたりしていますが、長柄橋の場所が特定できない*8ため、今の東淀川区にあたるかどうかは、定かではありません。
参考文献
*1『たぬきのおんがえし−瑞松寺の吸出しぐすり−』三善貞司制作指導 東淀川区役所 2002 書誌ID0010303913
*2『瑞光寺のくじら橋』三善貞司制作指導 東淀川区役所 2003 書誌ID 0010548625
*3『さかまきじぞう』三善貞司制作指導 東淀川区役所 2004 書誌ID 0010778482
*4『東淀川区史』川端直正編集 東淀川区創設三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000253623
*5『ながらのひとばしら』宇津木秀甫文 摂津の民話絵本刊行委員会 1979 書誌ID 0070050820
*6『ふるさとお話の旅 8 奈良・大阪』野村純一監修 星の環会 2005 書誌ID 0010969217
*7『読みがたり大阪のむかし話』大阪府小学校国語科教育研究会「大阪のむかし話」編集委員会編 日本標準 2005 書誌ID 0010994902
*8『日本歴史地名体系 28−〔1〕 大阪府の地名 1』平凡社 1986 書誌ID 0000156512
『淀川三区稗史』三善貞司 1978 書誌ID 0080196670
『東淀川区の史跡と伝承』三善貞司述 東淀川区コミュニティ協会 1999 書誌ID 0000754542
『淀川の文化と文学』大阪成蹊女子短期大学国文学科研究室編 和泉書院 2001 書誌ID 0010225171
『淀川流域の伝承』三善貞司編 大阪市淀川区役所 2004 書誌ID 0010805369
『東淀川歴史探訪』三善貞司編 大阪市東淀川区役所 2005 書誌ID 0010998590
東淀川区
民俗
質問
柴島晒(くにじまさらし)について
回答
晒(さらし)とはさらして白くした麻布または綿布のことです。淀川の豊かで清らかな流れのほとりに位置し、広大な芝生地帯であった柴島は晒の生産地でした。『東淀川区史』*1によると文禄三年頃より生産を開始したと記されています。『摂津名所図会大成』*2には「此邊淀河の流れをくみて布木綿をさらす 是を國嶋晒といふ 此堤の傍邊一圓に布木綿をのべ敷て乾晒す ゆへに恰も雪の降つみしごとく其眺望絶景なり 俗にさらし堤と號し浪花の貴賤舟行してこゝに遊ぶこと平生にありて風流の地なり」と記されています。また『淀川両岸一覧』*3には「柴嶋晒堤」の情景が描かれており「玉川の卯の花のいかにくにじまのさらし堤の布の白雪 鶏成」と堤の一帯が白くさらされた布で覆われ、雪のように白く美しく見えた様子をあらわしています。『摂陽群談』*4には名物として柴島晒が「南都の晞に劣ことなし」と江戸時代最も有名であった奈良晒にも劣らないと記され、当時の隆盛ぶりを伝えています。『東淀川区史』*1によると明治以降も「地下水が晒染に適していること、船場の問屋町に淀川を利用すれば近いこと、小規模な家内工業に適していること、生地の水洗いを淀川で行い、川べりで乾燥し得ることなどの立地条件から」柴島において染色晒染工業が発達したと説明しています。 しかし柴島晒は、すっかり姿を消してしまいました。柴島に浄水場が建設されたことが大きく影響したと考えられています。明治28年大阪市に水道が創設され、桜の宮水源地から取水し大阪城内配水池から自然流下で水を供給していました。市勢の進展と市域の拡大、人口増加により水道事業の拡張を迫られた大阪市は、様々な案を検討した結果、明治40年、柴島に用地十三万余坪の水源地を建設する計画を立てました。柴島において晒業に携わっていた人々は、土地も仕事も失うこの水源地の建設に激しい反対運動を展開しました。『東淀川区史』*1や『淀川三区稗史』*5に柴島浄水場が建設されるまでの経過が説明されています。明治41年、地元住民との交渉を重ね協定が成立したことから、工事は着工され柴島浄水場は大正3年3月に完成します。『大阪春秋74号 淀川右岸』「柴島晒盛衰聞書」*6によると柴島晒が衰退した要因は、浄水場だけでなく「昭和年代に入って、大紡績資本により立地した泉大津を中心とする泉州の晒屋に漸く取って替わられることになる」と記されています。柴島神社には晒業主の人々が寄進した石柱が残されており、盛時の名残をとどめています。
参考文献
*1 『東淀川区史 復刻版』川端直正 市民日報社 1987 書誌ID 0010814912 p.88 p.217〜218 p88〜91 p.342〜344
*2 『摂津名所図会大成 其2』(浪速叢書 第8)船越政一郎 浪速叢書刊行会 1928 書誌ID 0000329669 p.406
*3 『淀川両岸一覧 宇治川両岸一覧』暁晴翁 柳原書店 1978 書誌ID 0000242907 p.235〜236
*4 『摂陽群談 下』岡田溪志 歴史図書社 1969 書誌ID 0080190955 p.480
*5 『淀川三区稗史』 三善貞司 1978 書誌ID 0080196670 p.70〜71
*6 『大阪春秋74号 淀川右岸』大阪春秋社 1994 書誌ID 0000381208 p.64〜65
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産業および商業