大阪に関するよくある質問
質問
八劔神社について知りたい
回答
『城東区史』*1によると、「城東区鴫野東四丁目にあり、速素盞鳴命(はやすさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)・八頭大神(やつがしらおおかみ)を祭神とした神社」とあります。宮座中で存在した伝説を記録した社記によれば、応永の始、老人の夢に熱田神宮の神様が現れ、明日淀川の辺りにいくから祀ってほしいというお告げがあった。翌朝里民十数人を招きこの事を語ると、同じ夢を見た人が多くいることを奇異に思い、衣服を改め川辺にいくと、案の定、小さな蛇が川から上がってきた。一同は蛇についていくと川を越えて当地に入った。依ってその留まった所に小祠を建ててこれを祀ったとあり、これを神社の起源とし、応永3(1356)年9月の事としています。
祭神について『東成郡誌 上巻』*2には、『摂陽群談』*3より「所祭尾張国愛知熱田神天叢雲剱を以て土俗八剱大明神と号す」と紹介した上で、本社主神を八剱大明神とするべきとしています。(八剱神社のサイト*8によれば「八剱大明神」とあります。) また『東成郡神社誌』*4によると 大正4(1915)年に天王田村の氏神八阪神社、永田村の氏神水神社を合わせて祀って今日に至ることが記されています。また、社地については慶長19(1614)年11月26日大坂冬の陣、鴫野合戦の時に佐竹義宣の陣所になった事もあり、その兵火で社殿は焼失しその後再建されていますが、明治18(1885)年に水害のため本殿が崩壊し、拝殿も破損したともあります。明治29(1896)年5月に本殿及び拝殿などが建てられ、これら社殿と建造物も『東成郡神社誌』に詳細が記載されています。
『全国神社名鑑 下巻』*6に「勢ぞろいした山車(だんじり)六台の宮入風景」として写真が掲載され「神事と芸能 だんじり宮入(例祭日)」と記されています。『大阪府神社史資料 上巻』*7によれば例祭は10月22日、夏祭は7月8日とあります。
また、宮相撲が盛んであったことが『大阪史蹟辞典』*5に記されています。それによると境内に昭和36(1961)年米川三治郎がたてた「郷土宮角力米川部屋頭取碑」があり「初代 男石 二代 米川 三代 一力 四代 勇石」などの四股名が刻まれています。境内には米川部屋奉納の大燈籠が2つあり、本殿前の石柱に「奉納一四代朝日山四郎右衛門、大正九年四月」とあります。八剱神社のサイト*8には、「中御座 八劔大明神(やつるぎだいみょうじん)・北御座 武速須佐雄大神(たけはやすさのおのおおかみ)(相殿)竒稲田姫大神、八頭大神、南御座 罔象女大神(みづはのめのおおかみ)(相殿)天照皇大御神、春日大神とあり、末社を含む祭神と縁起についての簡易な説明があります。また社殿の画像もあり平成12(2000)年に新築されたことが記されています。
参考文献
*1『城東区史』木村武夫編 城東区史編纂委員会 1974 書誌ID 0000246500 p.438〜439
*2『東成郡誌 上巻』東成郡役所編 名著出版 1972 書誌ID 0070093555 p.810〜813*3『摂陽群談(大日本地誌大系38)』岡田 志編 有山閣 1977 書誌ID 0080190956 p.214
*4『東成郡神社誌』大阪国学院東成郡支部 1925 書誌ID 0080249773 p.160〜164*5『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p.611
*6『全国神社名鑑 下巻』全国神社名鑑刊行会編纂 史学センター 1977 書誌ID 0000162175 p.134
*7『大阪府神社史資料 上巻』大阪府編 大阪府神社庁 1986 書誌ID 0000412519 p456
*8『八劔神社 災難除けの神社』トップページ http://www.880.jp/index.html (2017年3月15日確認)
城東区
神社仏閣
質問
城東区を流れている城北川について、知りたい
回答
城北川は、昭和10年の城北運河の着工に始まります。当時、工業地域としては舟運の便を著しく欠いているということで、区画整理とあわせて、この運河を開きました。城北運河の位置は、旭区(現都島区)友渕町淀川左岸より赤川町、中宮町、野江町を経て森小路に至り南折し、今福町を経て放出町寝屋川右岸に至ります。寝屋川と旧淀川(大川)を結ぶ総延長5615m(城東区内は2130m)、幅40mという大規模なもので、昭和15年12月に完成しました。*1
昭和30年〜40年代の高度成長期には、工場、家庭排水により、城北運河もドブ川化しました。そこで、昭和41年度から城北運河の浄化作戦が始まります。第1次改修として5ヶ年計画で鋼矢板護岸工事を行い、生活排水が流れ込まないよう沿岸の下水道敷設を併行しました。昭和42年度からは河岸公園と遊歩道整備工事にも着手、昭和46年度からは満干潮時に大川口、寝屋川口の両水門操作も開始され、きれいな淀川の水を導入し汚れた寝屋川の水が締め出されるようになりました。*2 このような浄化作戦の成果として、昭和48年1月には城北運河の城東地区で、フナやモロコ等の稚魚の生息が確認されています。*3
昭和60年4月6日に普通河川であった城北運河は「城北川」として、一級河川に指定されました。昭和60年度からは、国・府の補助を受け、治水及び貴重な公共空間としての河川環境機能の増進を図ることを目的とした改修事業が始まり、河積拡大のための工事などを行いました。また、水辺に親しむことができるように遊歩道を改善したり、水遊び場等を各所に設けるなどしました。*3
国において「ふるさとの川モデル事業」が創設され、城北川も昭和62年12月に「ふるさとの川モデル河川」に指定されました。平成2年の「国際花と緑の博覧会」開催時には、菫橋から中菫橋の間に、「光のモニュメント広場」「水と彫刻の広場」「滝の広場」が、また大喜橋から今福大橋の間に遊歩道沿いのテラスから城北川を眺望できる「リバーサイドテラス」が整備されました。*3 平成18年度から、城東区で「城北川アピールプロジェクト」として、城北川を区のまちづくりに活用し「城東区のランドマーク」とする取り組みが始まっています。平成18年の「城北川魚類生息状況調査」では7種類の魚類の生息が確認され、その他「城北川ミニフェスティバル」などの催しも開催されています。*4 城北川は、城東区役所ホームページの「区のあゆみ」−「城東区を流れる川」*5でもとりあげています。
参考文献
*1 『城東区史』木村武夫編 城東区史編纂委員会 1974 書誌ID 0000246500
*2 『城東区50年のあゆみ』 城東区制五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0000599206
*3 『大阪の川』 「大阪の川」編集委員会編 大阪市土木技術協会 1995 書誌ID 0000546980
*4 『ふれあい城東 2007年9月号No.135』 城東区役所区民企画担当 2007
*5 「(城東区役所ホームページより)城東区を流れる川」 http://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000602.html (2013年3月25日確認)
城東区
地誌
自然
質問
城東区の沿革について
回答
『城東区史』*1に「かえりみれば、城東区ほど分区を重ね、区名を変えた区はほかにない」と記されている当区の沿革を、大阪市に編入された時期から概観すると以下のようになります。
(1)古くは東成郡榎並町、鯰江町、中本町、城東村、榎本村の区域でしたが、1925年(大正14年)4月1日の第2次市域拡張のときに市内に編入され、新しく誕生した東成区の一部となりました。
(2)1932年(昭和7年)10月1日、当時の東成区は南北二つに分割され、その北部は新たに旭区と称しました。それにともない、この地域は旭区の南部地域と東成区の北部地域に属することになりました。
(3)1943年(昭和18年)4月1日、全市の区界是正が行われ、分増区をした結果、旭・東成の両区から分かれてここに城東区が誕生しました。「城東」の区名を称したのは大阪城の東に位置することからです。
(4)1955年(昭和30年)4月3日、6か町村が市域に編入(第3次市域拡張)された際に、北河内郡茨田町は城東区に編入されました。
(5)1974年(昭和49年)7月22日、行政区の再編により、区の東部を鶴見区として分立させました(以上は*1および『わがまち城東区』*2による)。 また、当区での住居表示は、蒲生・関目地域を除いて1973年(昭和48年)10月1日付で実施され、1976年(昭和51年)11月1日には残りの両地域でも実施されました(『住居表示整備事業概要 平成12年度』*3による)。
城東区の沿革は、城東区役所ホームページの「区のあらまし」中の「区の歴史」*4でも紹介しています。
参考文献
*1 『城東区史』 木村武夫編 城東区史編纂委員会 1974 書誌ID 0000246500 *2 『わがまち城東区』 大阪市城東区役所 2005 書誌ID 0011384884 *3 『住居表示整備事業概要 平成12年度』 大阪市市民局 [2001] 書誌ID 0010168824 *4 「(城東区役所ホームページより)区の歴史」 その1 http://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000797.html /その2 http://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000814.html /その3 http://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000817.html / その4 http://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000822.html (2013年3月25日確認)
城東区
地誌
質問
大坂冬の陣の鴫野・今福の合戦の碑はどこにあるか
回答
大坂冬の陣の鴫野・今福の合戦は城東区を主戦場としたもので、その碑が1920年に現在の大阪市立城東小学校(城東区鴫野東3丁目16-14)の校庭に建てられ、今も残っています。碑の姿は、『城東見聞録』*1や城東区役所ホームページの「区の紹介」*2中、「名所・旧跡」の鴫野・今福古戦場碑の項で、カラーでご覧いただけます。また、『大阪史蹟辞典』*3の鴫野古戦場碑の項では、合戦のようすも含めて説明がなされています。合戦自体については『城東区史』*4の「第一章 城東区の歴史」にも詳しい記述があり、「第四章 城東区の文化」には、碑文が掲載されています。
参考文献
*1 『城東見聞録』 大阪市城東区役所区民企画室 2005 書誌ID 0011046720 p6
*2 「(城東区役所ホームページより)名所・旧跡>鴫野・今福古戦場碑」 http://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000754.html (2013年3月25日確認)
*3 『大阪史蹟辞典』 三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p226
*4 『城東区史』 木村武夫編 城東区史編纂委員会 1974 書誌ID 0000246500 p38〜42 p477〜478
城東区
遺跡および碑文
質問
鴫野の生んだ関取とは
回答
大正7年1月春場所に、二瀬川を改めて朝日山四郎右衛門の名を襲名して活躍したこの関取は、鴫野の米屋の息子でした。*1 本名は井口惣三郎。*2 明治21年2月23日生まれ。入門時の四股名は鴫野森。大正8年春場所に大関に昇進しました。大正9年にアメリカ巡業、大正10年に現役を引退後も、大正13年台湾巡業、大正14年アメリカ巡業をしました。*3地元の人や郷土を愛し、地元の人からもとても愛されていた様子は、*1や*4に記載があります。昭和18年、56歳で没。現在でも八劔(やつるぎ)神社に「奉納十四代朝日山四郎右衛門、大正九年四月」と書かれた石柱と、朝日山の化粧まわしをつけた額が奉納されています。
参考文献
*1『鴫野の里』志宜野今昔会 1984 書誌ID 0000380698 p.88〜89
*2『大相撲人物大事典』「相撲」編集部編 ベースボール・マガジン社 2001 書誌ID 0010072579 p.674
*3『桂馬のふんどし』石井 代蔵著 講談社 1976 書誌ID 0080034008 p.145〜169,p.181〜183
*4『城東見聞録』大阪市城東区役所区民企画室 2005 0011046720 p.36
城東区
郷土人
質問
今の城東区に昭和の初め頃あったという大阪国技館について知りたい
回答
1937年(昭和12年)に、旭区関目(現在の城東区古市)に竣工した大阪国技館(大阪大国技館とも)については、同年に発刊された『大阪大場所大相撲写真帳-大阪大国技館竣工記念-』*1という資料があります。表紙に描かれた絵からもわかるように、鉄筋コンクリート4階建ドーム式の相撲場で、収容人員は25,000人、と概要に記されています。
『大阪史蹟辞典』*2、『城東区史』*3『城東見聞録』*4にも大阪国技館についての項目があり、*4では「当時、国技館を中心に商店街や住宅を整備し、新たなまちを作る計画がありましたが、昭和16年(1941)の太平洋戦争の勃発とともに、立ち消えとなりました。大阪国技館も、わずか4年間、7回の準本場所が開催されただけで役目を終え、昭和26年(1951)頃には解体されました」と紹介されています。
なお城東区役所ホームページの「名所・旧跡」中に「元大阪国技館前の古い町並み<元相撲茶屋(もとすもうぢゃや)>」の項があります。*5
参考文献
*1『大阪大場所大相撲写真帳-大阪大国技館竣工記念-』旭土地興業 1937 書誌ID 0000506177
*2『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p76
*3『城東区史』木村武夫編 城東区史編纂委員会 1974 書誌ID 0000246500 p480〜481
*4『城東見聞録』大阪市城東区役所区民企画室 2005 書誌ID 0011046720 p35〜36*5 「(城東区役所ホームページより)名所・旧跡>元大阪国技館前の古い町並み<元相撲茶屋(もとすもうぢゃや)>」 http://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000706.html (2013年3月25日確認)
城東区
建築
質問
野崎参りについて
回答
戦前昭和のヒット曲「野崎小唄」(唄・東海林太郎、1935年)*1にも歌われた「野崎参り」は、通称「野崎観音」(慈眼寺(じげんじ)・大東市野崎)への参詣を言い、お参りをする人々で賑わったという野崎街道(古堤街道、大和道とも)の起点は、現在の京阪京橋駅西出口付近です。大坂から今福・徳庵を経て野崎への道筋は、堤を行く陸路と鯰江川や寝屋川を船でさかのぼる水路があり、ほとんど並行して続いていました。近松半二作「新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)」ではこれをうまく取り入れ、相思相愛のお染と久松が船と駕籠に別れて野崎村から大坂へ向かう場面は、文楽*2でも歌舞伎*3でも印象的です。また、落語の「野崎詣り」*4では、土手を行く人々と船中の人々が戯れにののしり合いながら参詣するようすが活写され、往時の賑やかさがしのばれます。現在では今福小学校の校門前に野崎街道の碑(「旧野崎道の跡」)があり、『城東見聞録』*5や城東区役所ホームページの「区の紹介」中、「名所・旧跡」の旧野崎道の跡(石碑)の項*6でご覧いただけます。
参考文献
*1『日本のうた 第2集』野ばら社編集部編 野ばら社 1998 書誌ID 0000676892 p112
*2『日本古典文学大系52浄瑠璃集下』岩波書店 1978 書誌ID 0070037755 p121〜179
*3『新版歌祭文(歌舞伎オン・ステージ15)』白水社 2001 書誌ID 0010084298 p17〜88
*4『上方落語』笑福亭松鶴(5代目、6代目)著 講談社1987書誌ID 0070048361 p345〜349
*5『城東見聞録』大阪市城東区役所区民企画室 2005 書誌ID 0011046720 p36〜37
*6「名所・旧跡」 http://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000758.html (2013年3月25日確認)
城東区役所ホームページトップ http://www.city.osaka.lg.jp/joto/index.html
『大阪人 2009年2月号 城東区の上等』大阪市都市工学情報センター 書誌ID 5111786413 p54〜56
城東区
交通
質問
榎並猿楽(えなみさるがく)について知りたいのですがどのような資料がありますか
回答
猿楽(申楽とも)とは、平安・鎌倉時代に盛行した滑稽な雑芸、およびそれを母体にして鎌倉末期ごろに成立した能、また能を演じる役者のことをいいますが(『邦楽百科辞典』*1による)、南北朝から室町時代にかけて活躍した榎並猿楽座については、『能樂源流考』*2や『中世芸能史論考』*3が先行する研究を踏まえたうえで、榎並を含む丹波猿楽三座について考証しています。『城東区史』*4の「第一章 城東区の歴史」にもまとまった記述があります。
また、現在、大阪市立榎並小学校東門前(城東区野江4丁目1)に、榎並猿楽発祥の地・榎並城跡伝承の地の碑が建てられており、城東区役所ホームページの「名所・旧跡」の同碑の項*5、『城東見聞録』*6で見ることができます。
参考文献
*1 『邦楽百科辞典』 音楽之友社 1984 書誌ID 0000214908 p438〜439
*2 『能樂源流考』 能勢朝次著 岩波書店 1938 書誌ID 0070077785 p323〜350 p1028〜1039
*3 『中世芸能史論考』 森末義彰著 東京堂出版 1971 書誌ID 0080170588 p46〜68
*4 『城東区史』 木村武夫編 城東区史編纂委員会 1974 書誌ID 0000246500 p22〜24
*5 「(城東区役所ホームページより)名所・旧跡>榎並猿楽(えなみさるがく)発祥の地・榎並城跡(えなみじょうあと)伝承地の碑」 http://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000676.html (2013年3月25日確認)
*6 『城東見聞録』 大阪市城東区役所区民企画室 2005 書誌ID 0011046720 p32
城東区
遺跡および碑文
芸術