大阪に関するよくある質問
質問
北区の区域の変遷について
回答
北区は、北は淀川、東は大川、南は土佐堀川と三方を河川に囲まれ、西は福島区に隣接する約10.33平方キロメートルの区域です。かつては水路で京都や大阪湾とつながり、現在は鉄道で京都方面や神戸方面などにつながる大阪市の北の玄関口に位置しています。
現在の北区は平成元(1989)年の合区によって誕生したもので、それ以前は、南部の旧北区と北部の旧大淀区とに分かれていました。旧北区は明治12(1879)年の発足。一方、旧大淀区は昭和18(1943)年の発足です。さらに旧北区発足以前にさかのぼると、大坂三郷の時代がありました。そこで、ここでは、大坂三郷の時代から旧北区の発足、大阪市制の施行、旧大淀区の発足を経て合区に至る区域の変遷を年代順に説明します。
江戸時代の大阪(当時は大坂)は北組・南組・天満組の三組に分かれ、大坂三郷と呼ばれていました。その区域は、現在の本町通以北を北組、以南を南組とし、大川以北を天満組としていました。この天満組が旧北区の前身です。ただし天満組は、大阪天満宮を中心とする大川沿いの地域に、堂島川北岸の曽根崎新地などを加えた地域で、旧北区の南部に過ぎません。また中之島は、天満組ではなく北組に属していました。その一方で、天満組の領域は旧淀川沿いに中之島の下流へとのびており、現在は福島区・此花区・港区・西区に属する安治川両岸の新地が天満組に属していました。
天満組の北に目を転じると、そこは大坂三郷の外、西成郡の村々でした。大まかにいえば、川崎村、北野村、曽根崎村などが旧北区の北部に、さらにその北の国分寺村、南長柄村、北長柄村、本庄村、光立寺村などが旧大淀区にほぼ該当します。
慶応4(1868)年5月の大阪府の新設にともない、明治2(1869)年6月、大坂三郷の制度は廃止され、東西南北の四大組制に再編されます。天満組は北大組に改組され、土佐堀川以北(中之島)と大川筋(現在の都島区の一部)が新たに編入されます。その後、明治8(1875)年の大区小区制の実施で北大組は第四大区と改称。さらに明治12(1879)年2月、「区画名称の変更」がおこなわれ、大阪府北区が発足します。そして北区発足から10年後の明治22(1889)年4月、大阪市制の施行により大阪市北区となります。(この時はまだ大阪市には東西南北の4区しかなく、安治川両岸の地域もそのまま北区に属していました。)
明治30(1897)年4月、第一次市域拡張がおこなわれ、東成・西成両郡の二十八か町村の全部または一部が大阪市に編入されます。北区も、西成郡からは川崎村、北野村、曽根崎村など7つの村の全部または一部を、東成郡からも3つの村の一部を併合して区域を広げます。明治7(1874)年に曽根崎村で開業した大阪停車場(現在のJR大阪駅)は、この第一次市域拡張で大阪市内の駅になりました。
大正14(1925)年4月には、第二次市域拡張がおこなわれます。大阪市の面積は大幅に増え、それまでの4区制から13区制になります。それまで北区に属していた安治川両岸の地域は、この時、新設された此花区と港区、そして西区に編入されます。
旧大淀区にあたる地域(西成郡豊崎町、中津町、鷺洲町)が大阪市域に編入されたのも、この第二次市域拡張の時です。西成郡の十町十か村が新たに大阪市に組み入れられ、淀川両岸にまたがる東淀川区と西淀川区が、旧北区の北側に誕生します。(東淀川区は現在の北区本庄西二丁目に、西淀川区も現在の福島区海老江付近に区役所を置くなど、区行政の中心は淀川左岸区域にあったようです。)
その後、昭和18(1943)年4月に全市的な区の再編成がおこなわれ、大阪市の区の数は22に増えます。この時、東淀川区および西淀川区の淀川左岸区域が分区して生まれたのが大淀区です。
この再編成によって、北区の区域も変わります。大川左岸(東側)は新設された都島区に編入。また、大淀区と福島区の新設にともなう境界整理のため、町単位(あるいは町の一部分)の分割や編入が相互におこなわれます。
こうして旧北区と旧大淀区の区域が完成し、この時決まった区域が46年後の合区まで続くことになります。そして、平成元(1989)年2月13日、旧北区と旧大淀区が合区して現在の北区が誕生したのです。
以上の変遷については、『北区誌』*1、『北区史』*2、『大淀区史』*3、『新修大阪市史 第5巻』*4『新北区・中央区の発足 : 大阪市行政区再編成の記録』*5、『大都市行政区再編成の研究 : 大阪市の事例を中心に』*6などに詳しく書かれています。『新修大阪市史 第10巻』*7の付録の「歴史地図」も参考になります。
ちなみに、大阪市立北図書館は旧大淀区に建っており、昭和59(1984)年の開館当時は大淀図書館という名称でした。けれども平成元(1989)年の合区にともない、名称を北図書館に変更しました。北図書館の蔵書でたまに「大淀」という印が押されているものがあるのは、旧大淀区時代の名残です。
参考文献
*1『北区誌』大阪市北区役所 1955 書誌ID 0000244948
*2『北区史』大阪都市協会編 北区制一〇〇周年記念事業実行委員会 1980 書誌ID 0070059801
*3『大淀区史』大阪都市協会編 大淀区コミュニティ協会 1988 書誌ID 0000246498
*4『新修大阪市史 5巻』新修大阪市史編纂委員会編 大阪市 1991 書誌ID 0000215623
*5『新北区・中央区の発足 : 大阪市行政区再編成の記録』大阪市市民局 1990 書誌ID 0000372195
*6『大都市行政区再編成の研究 : 大阪市の事例を中心に』竹村保治著 清文堂出版 1996 書誌ID 0000524093
*7『新修大阪市史 10巻』新修大阪市史編纂委員会編 大阪市 1996 書誌ID 0000588399
・『西成郡史』西成郡役所編 名著出版 1972 書誌ID 0000246505
・『中津町史』中津共励会 1939 書誌ID 0070080430
・『鷺洲町史』鷺洲町史編纂委員会編 耕文社 1993 書誌ID 0000365988
・『角川日本地名大辞典 27』「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865
・『日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1』平凡社 1986 書誌ID 0000156512
北区
地誌
質問
「大阪ガラス発祥之地」の碑について
回答
大阪市北区にある大阪天満宮の正門の西側に「大阪ガラス発祥之地」の碑があります。その碑によると、江戸中期の宝暦年間(1751~1764)に大阪天満宮の前でガラスの製造を始めた長崎の商人・播磨屋清兵衛が、「大阪ガラス商工業ノ始祖」だとされています。播磨屋清兵衛は、オランダ人が長崎に伝えたガラス製法を学び、大阪に持ち込んだのです。
1819(文政2)年には渡辺朝吉という人物が川崎村(現在の北区西天満六丁目付近)にガラス工場を作ります。同じ頃、ガラスの製造法が江戸に伝わったといわれていますから、ガラス製造の開始は、江戸よりも大阪の方が早かったことになります。明治時代に移るとイギリスから新しい製造技術が入り、北区は、大阪のガラス産業の中心地として成長していきます。
『江戸切子:その流れを支えた人と技』*1という本には「大阪のカットグラス」という1章が設けられており、大阪のガラス産業の歴史の一端が詳しく記されています。それによると、1875(明治8)年に伊藤契信が川崎村天満山(現在の北区与力町)にガラス工場を作り、1882(明治15)年には大阪最初の洋式ガラス工場を新設して、同地に日本硝子会社を設立。1888(明治21)年には、日本硝子会社を退職した島田孫市が同じ天満地区に島田硝子製造所を興します。この島田孫市は、大阪における洋式切子の端緒を開いた職人の一人であり、大阪の近代ガラスを象徴する人物だったといいます。
これ以後、現在の与力町・同心界隈を中心にガラス工場が増えていき、アジア市場への輸出などもあって、大阪のガラス産業は急速に膨張します。前掲書p.241には、「昭和初期迄の大阪の硝子業者は小規模ながら、江戸以来の伝統を引く各種珠類、灯火器、瓶類などの薄物製品を中心に、食器を含めて多種多様であり、その業者の数は東京を凌いでいた」との記述もあり、往時の盛況ぶりがうかがえます。(ちなみに、ガラスのビー玉がはじめて国産化されたのも大阪市北区です。)
こうした大阪のガラス産業の移り変わりについては、『新修大阪市史 第6巻』*2に記されているほか、『北区誌』*3 や『北区史』*4 でも断片的に触れられています。
国内の競争や安い輸入品に押されて、隆盛を誇った大阪のガラス産業も衰退し、今では、「大阪ガラス発祥之地」天満界隈からガラス工場はほとんど姿を消してしまいました。しかし、薩摩切子の技術を受け継ぐ「天満切子」が製造されるなど、ガラス産業の伝統は今もこの地に生き続けています。
なお、前掲『江戸切子:その流れを支えた人と技』p.243によれば、「大阪のカットグラスは江戸時代から作られていたことは間違いない」とのことですが、これは今でいう「天満切子」とは異なります。「天満切子」は、北区同心の切子工房が新たに生んだオリジナル・ブランドの名称です。
参考文献
*1 『江戸切子-その流れを支えた人と技-』山口勝旦 里文出版 1993 書誌ID 0000321736 p.241~261
『江戸切子-その流れを支えた人と技-』山口勝旦 里文出版 2009 書誌ID 0011834521 p.241~261 ※上のものの新装版
*2 『新修大阪市史 第6巻』新修大阪市史編纂委員会編集 大阪市 1994 書誌ID 0000427809 p.258~259ほか
*3 『北区誌』大阪市北区役所 1955 書誌ID 0000244948 p.595
*4 『北区史』大阪都市協会編集 北区制一〇〇周年記念事業実行委員会 1980 書誌ID 0070059801 p.474
*5 『日本のガラス-その見方、楽しみ方-』戸澤道夫 里文出版 2001 書誌ID 0010156136
*6 『なにわの職人-"ええなぁ"と見惚れる技60人-』淡交社編集局編 諸木靖宏写真 淡交社 1997 書誌ID 0000593567
*7 『まちに活きる技と心-北区の伝統文化と職人さん-』大阪市北区役所区民企画担当 2007 書誌ID 0011745854
*8 『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p.441
北区
遺跡および碑文
郷土人
産業および商業
質問
長柄の人柱伝説について
回答
現在の長柄橋は北区天神橋8丁目にあり、その南東部は長柄東・長柄中・長柄西となっています。しかしながら、長柄の人柱伝説は各地に伝わっており、その正確な所在地も諸説があり、明らかではありません。*1
『わが町大淀区いまとむかし』*2によれば、「長柄の人柱の伝説は有名です。人柱を立てることを言い出したのが、垂水(たるみ)の長者巌氏(いわし)で、はかまに継ぎのあたった人を人柱にすればよいと言いだした巌氏自身のはかまに継ぎがあたっており、人柱になる結果となったいうのが伝説の荒筋です。」とあります。そして、巌氏の嫁いでいた娘の照日(てるひ)が、父が人柱になったことを聞いてショックを受け、物を言わなくなってしまいました。困り果てた夫が、娘を実家に帰す道中で、草の中からキジの鳴く声が聞こえたので、すかさず射ました。すると娘は、「物いわじ父は長柄の人柱鳴かずば雉子も射られざらまし」という歌を詠んで悲しんだということです。また、むかし『長柄』は、柴島町や淡路本町から南吹田にまでまたがっていたこと。大小の島があり、流れの早い川があって大変な交通の難所であったことや、大阪に都があり、山陽・山陰地方へ出るには、橋を渡さねばならなかったことが書かれています。
参考文献
*1 『角川日本地名大辞典 27 大阪府』角川日本地名大辞典編纂委員会編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865 p.882
*2 『わが町大淀区いまとむかし』植田定冶著 わが町大淀区いまとむかし刊行会 1977 書誌ID 0070052031 p.18〜24
・『大淀区史』大阪都市協会編集 大淀区コミュニティ協会 1988 書誌ID 0000246498 p.16〜17
・『大阪の橋』松村博著 松籟社 1987 書誌ID 0000164468 p.46〜47
・『大阪市立豊崎本庄小学校100年のあゆみ』大阪市立豊崎本庄小学校記念誌部編 大阪市立豊崎本庄小学校 1975 書誌ID 0080215312 p.38〜41
・『読みがたり大阪のむかし話』大阪府小学校国語科教育研究会「大阪のむかし話」編集委員会編 日本標準 2005 書誌ID 0010994902 p.81〜84
北区
民俗
質問
天神祭の本はありますか
回答
天神祭りは、大阪天満宮(大阪市北区)の夏の祭礼で、日本三大祭のひとつにも数えられます。最大の特徴は、船渡御と呼ばれる水上パレードです。出版も多くありますが、以下にいくつか紹介します。
参考文献
・『天神祭-火と水の都市祭礼-』大阪天満宮文化研究所編 思文閣出版 2001 書誌ID 0010210881
・『天神祭-なにわの響き-』井野辺潔編著 創元社 1994 書誌ID 0000403773
・『天神祭-水の都・千年の祭-』米山俊直編著 東方出版 1994 書誌ID 0000404473
・『天満宮御神事御迎船人形図会』高島幸次編著 東方出版 1996 書誌ID 0000561320
・『大阪学 世相編』大谷晃一著 経営書院 1998 書誌ID 0000717313
・『大阪春秋 第49号 おおさかの天満宮と天神信仰』 1987 書誌ID 0070031274
・『なんででんねん天満はん-天神祭-』今江祥智ぶん 長新太え 童心社 2003 書誌ID 0010552365
●写真を中心としたもの
・『大阪天神祭-上田安彦写真集-』上田安彦著 東方出版 1995 書誌ID 0000460516
・『天神祭-火と水の祭典-』大阪観光協会 1988 書誌ID 0080196466
・『大阪懐古-半世紀昔の庶民の町-』緑川洋一著 東方出版 2001 書誌ID 0010150562
北区
祭り
質問
扇町(おうぎまち)公園について知りたい
回答
現在扇町公園や北野病院、市営住宅などがある扇町1〜2丁目には、『大阪史蹟辞典』*1によりますと明治15(1882)年、堀川監獄(ほりかわかんごく)分署が開かれたそうです。天満堀川に沿っているため堀川の名がついたと、『てんま』*2にありますが、天満堀川は戦後、阪神高速道路の用地とされて埋め立てられ、現在は川の面影はありません。 当時は辺鄙(へんぴ)な場所であり、日露戦争(明治37年〜38年)の頃は一面の桑畑で、『北区史』*3によりますと、この場所から大阪駅の時計塔が見え、淀川区の三津屋(みつや)を望むことができたそうです。『大阪府全志 巻之5』*4によりますと、堀川監獄分署には明治18年に松屋町分署が、次いで20年に中之島監獄が、21年には若松町監獄が合併し、23年大阪府監獄署と改称されました。大阪府の管轄下にありましたが、のち司法省の管轄に移りました。やがて市街が発展するにつれ、広大な監獄があるのは風致上好ましくないという声が高まって、大正9(1920)年、大阪府監獄署は堺市田出井町(たでいちょう)に移転、跡地は大阪市に払い下げられました。
おりから都市計画の一環として公園の必要性が認められてきた時期であり、関一(せきはじめ)が市長に就任した大正12年、この跡地に扇町公園が誕生しました。桜ノ宮公園ができたのも同年のことと『大阪春秋95号 おおさかの公園』*5にあります。 テニスコート、グランドなど体育施設を中心に整備がなされ、『消えたわが母校 続』*6によれば、近所の子どもたちはこの公園で野球やとんぼつり、たこあげをして楽しんでいたそうです。戦時体制下では他の主要公園とともに軍事施設とされ、空襲の犠牲者の仮埋葬場ともされました。 戦後間もなく復興計画が立てられ、『O-WAVE 43号』*7によりますと、東は環状線の線路際まで、西は新御堂筋にいたるまでの30ヘクタールに及ぶ壮大な計画だったようです。
昭和25(1950)年「日米国際選手権水泳大会」に向けて、同地にナイター照明つきで収容能力22,000人の50メートルプール「大阪プール」が作られました。ギリギリの予算の中、わずか5カ月というスピード工事で完成したそうです。この大会で、「フジヤマノトビウオ」と呼ばれた古橋(ふるはし)選手が次々に世界記録を樹立し、敗戦から立ち直ろうとする国民に勇気を与えました。*1
『大阪発・公園SOS』*8によれば、その後相次ぐ不況によって公園の拡張計画は縮小・立ち消えになり、現在の面積は73,195平方メートルです。大阪プールは老朽化して、平成9(1997)年になみはや国体に向け港区八幡屋(やはたや)公園に移転しました。扇町公園全体も平成8年から大幅なリニューアルを行いました。*5東西に横切る遊歩道や扇町通りへつながる通路は、近隣の人々の生活道路としても利用され*7、北隣の市立工業研究所跡には平成9年、日本ではじめての本格的なこどものための博物館「キッズプラザ大阪」がオープン。大人も子どもも楽しめるスポットとして親しまれています。
参考文献
*1 『大阪史蹟辞典』 三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p.69
*2 『てんま』宮本又次著 大阪天満宮 1977 書誌ID 0000244955 p.117〜118
*3 『北区史』大阪都市協会編 北区制一〇〇周年記念事業実行委員会 1980 書誌ID 0070059801 p.141〜142 p.465〜466
*4 『大阪府全志 巻之5』井上 正雄著 清文堂 1985 書誌ID 0000172310 p.292〜295
*5 『大阪春秋95号 おおさかの公園』大阪春秋社 1999 書誌ID 0000746464 p.15-16
*6 『消えたわが母校 続』 赤塚康雄著 柘植書房新社 2000 書誌ID 0000819604 p.37
*7 『O-WAVE= 季刊オーウェーブ』43号 大阪建設業協会 2001 書誌ID 5210484599 p.14〜15
*8 『大阪発・公園SOS』 都市と公園ネットワーク編 都市文化社 1994 書誌ID 0000402394 p.58
北区
まちづくり
質問
天神橋筋商店街についての本はありますか
回答
天神橋筋商店街は日本一長い商店街として知られます。新聞・雑誌にもよく取り上げられています。以下のような資料があります。
参考文献
・『天神さんの商店街』土居年樹著 東方出版 2002 書誌ID 0010336582
・『パノラマウォーク大阪の商店街 上』大阪市商業振興企画・編 大阪市経済局 [1998] 書誌ID 0000684575 p.16〜21
・『大阪春秋 93号 おおさかの商店街』大阪春秋社 1998 書誌ID 0000715234 p.18〜21
・『大阪人 2003年8月号 商店街観光』大阪都市協会 2003 書誌ID 5110562296 p.6〜11
北区
産業および商業
質問
造幣局の桜の通り抜けについて
回答
関西の春の恒例の行事となっている造幣局の桜の通り抜けですが、はじまりは明治16年(1883)4月20日といわれています。時の造幣局長遠藤謹助の「局員だけの花見では、もったいない。市民とともにたのしもうではないか」との発言で、構内の川岸通りを開放することにしました。当時より混雑緩和のため一方通行とし、現在も南門(天満橋側)から北門(桜宮橋側)へ通り抜ける方法をとっています。桜は、明治のはじめ藤堂藩の蔵屋敷から移植されたものが発祥です。また種類も豊富で、『通り抜けの八重桜』*1に載っている写真でその一端を楽しめます。毎年の桜の通り抜けの情報は、独立行政法人造幣局のホームページにて最新情報がわかります。*2
参考文献
*1『通り抜けの八重桜』 大蔵省造幣局 造幣局泉友会 1993 書誌ID 0070022161
・『通り抜けの桜』造幣局泉友会 創元社 1985 書誌ID 0000322122
・『通り抜け-その歩みと桜-』 造幣局泉友会 創元社 1996 書誌ID 0000558081
*2 独立行政法人造幣局のホームページ>桜の通り抜け/花のまわりみち
http://www.mint.go.jp/enjoy/toorinuke/sakura-osaka.html
(2017年3月20日確認)
独立行政法人造幣局のホームページトップ http://www.mint.go.jp/index.html
北区
自然
まちづくり