大阪に関するよくある質問
質問
日本一低い山・天保山について
回答
『みなと今と昔』*1によれば、天保山は「天保2年安治川の浚渫(しゅんせつ)が行われこの時、浚渫の土砂を積み上げて安治川河口部に長さ約200mの防波堤が築かれ、天保山と呼ばれた。当時の規模は高さ約20m、長径約200mほどであり、亀甲状の形態を示すものであった」とのことです。『大阪の大疑問』*2によれば、幕末には黒船が来航し見物人が押しかけたとのことです。今では高さ4.53メートルの三角点があるだけですが、「日本一の低山」として『なるほど地図帳』*3にも紹介されており、港区の名所のひとつとなっています。
参考文献
*1 『みなと今と昔』 大阪市港区役所区民室 1993 書誌ID 0000310181 p.19
*2 『大阪の大疑問』 先崎仁・前垣和義 共編著 扶桑社 1998 書誌ID 0000681079 p.262
*3 『なるほど地図帳』 昭文社 2006 書誌ID 0011134902 p.99
港区
地誌
自然
質問
波除(なみよけ)のいわれについて
回答
波除の地名は波除山からくるとあります。現在は存在しないこの山は、昔は海辺の近くにあって洪水の高波をふせぎ除く山とされており、波除山と呼ばれるようになりました。*1 この山は、天和3年(1683)、幕命をうけて治水対策に乗り出した河村瑞賢が、幅約73m、長さ約1.6kmの新しい川を掘って水流を海へ一直線に導く工事を行った際に出た土砂を、川の南端に積み上げたものです。その高さは約15mにもなり、始めは「新山」「新川築山」などといわれておりましたが、「波除山」あるいは開削者の名をとって「瑞賢山」と呼ばれるようになり、松の木が植えられて航行する船の目標となりました。しかしこの山は幕末には海辺から遠ざかってしまい田圃(たんぼ)の中の丘となってしまったといった経過をたどっています。*2 波除山は明治末期まで残っていたとのことです。*3
参考文献
*1 『波除山とその歴史的風景』北田 功 1983 書誌ID 0080191732 p.2
*2 『港区の歴史と風景』大阪市港区役所総務課 1993 書誌ID 0000316817 p.9
*3 『港区誌』 大阪市港区役所編 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000244951 p.6
港区
地誌
質問
西村捨三について
回答
1843(天保14)年江州彦根藩士西村又治郎の三男として生まれ、10歳で、藩主井伊直憲の小姓役として側近に仕えました。1869(明治2)年、版籍奉還のあった年、新政府が、各藩から有能な人材をあつめるため貢士制度をもうけましたが、西村は彦根藩から選ばれて公議所に出仕しました。1872年、藩主が洋行する際に現職のまま随行し、2年間欧米各国の行政制度を視察、のち内務省議事官、警保局長をつとめ、1883年沖縄県令(知事)、いったん内務省に帰って土木局長、1889年47歳で、6代目の大阪府知事に栄進しました。大阪府知事時代は、淀川治水対策、1889年大流行したコレラ病の対策、1890年の新町の大火の対策と課題が山積みでしたが、一つ一つ行政手腕を発揮し府民の信頼に応えました。1891年農商務次官に栄転し、1893年退官、1897年、大阪市会の決議で大阪築港事務所長に発令されました。西村の年俸は6千円、田村市長が3千円だったそうです。「商都大阪の命脈は港にあり」とする市民の強い要望により着手された築港工事でしたが、実施の上では海上埋立に対する大縄権(今日でいう公有水面埋立権)の解決問題、軟弱の海底に対する防波堤築造の困難や築港公債の売行き問題など数々の困難に直面しました。また1899年12月8日、航行中の石材運搬船が沈没、船長以下21人が死亡する事故があり、あるいはコンクリートブロックに亀裂が生じたことなどから市会で問題となることもありました。『大阪港の生い立ち』*1『大阪港のあゆみ』*2には築港事務所、築港公債、築港起工式、防波堤の築造などの写真が掲載されています。このような数々の難問に取り組んできましたが、第一期工事が八分通りできあがったとき、西村は病気のため退職します。朝日新聞主筆の西村天囚は「衣冠の侠客、酔処翁に送る」と題する次のような社説を掲げ、その辞任を惜しんでいます。「(前略)御祭政略となり之を行るに弄世の想、驚俗の肝を以すす、君はけだし衣冠中の侠客なり(中略)君の吾大阪の為につくしたる功績不朽に伝うべき者彼の如く甚だ多し、以って君の功績は淀川の流れ金剛飯盛の緑と共に長く大阪人土の心目に銘すべし」*3 今日の大阪港の基を築いた西村捨三の銅像は、大阪港を見下ろす天保山公園にあります。
参考文献
*1 『大阪港の生い立ち』大阪市港湾局 1959 書誌ID 0070080496 p.62〜68
*2 『大阪港のあゆみ』大阪市港湾局 1957 書誌ID 0000337228 p.36〜43
*3 『大阪市の群像 2巻』池尻一寛著 恒友出版 1987 書誌ID 0000157032 p.49〜50
・『なにわの石碑を訪ねて』杵川久一著 新風書房 書誌ID 0000393617 p.182〜187
・『郷土史にかがやく人びと 1』大阪府 1968 書誌ID 0070067244 p.110〜120
・『日本の歴代知事 2巻下』歴代知事編纂会 1981 書誌ID 0080074730 p.237
・『なにわ人物譜』藤本篤著 清文堂 1984 書誌ID 0000185058 p.178〜180
・『実記百年の大阪』読売新聞大阪本社社会部編 朋興社 1987 書誌ID 0000164156 p.304〜305
港区
郷土人
質問
市岡西瓜について
回答
文化10(1813)年刊行の『五畿内産物図会』は各地の名産物を絵入りで紹介している本ですが、摂津之部に九条蜆、なんばさつきと並んで「新田西瓜」の名称で市岡西瓜が取り上げられています。*1 江戸時代の大阪湾沿岸埋め立て開発によって成るこの地は、土質が砂質壌土で、西瓜などの瓜類の栽培に適していました。「新田西瓜種まで真赤」ともてはやされ、御堂筋難波別院裏の穴門の西瓜屋の西瓜は市岡の新田西瓜で知られていました。*2 穴門西瓜は上方落語に「穴門の西瓜売り」という演目があったり、また幕末に刊行された『花の下影』*3にも取り上げられるなど、浪花の夏の風物詩でした。 明治30(1897)年の第一次市域拡張後も、衰退しはじめた棉作栽培に代る換金作物として園芸作物が各種多角的に栽培され*4、市岡の西瓜もその立地を生かして栽培が続けられました。この地は大正時代に入っても西瓜畑がひろがり、あちこちに湿地が残り、葦が群生していましたが、大正半ばから土地会社によって宅地の造成がすすめられ*5、また、度重なる台風被害や空襲なども災いして、その姿を完全に消してしまいました。『大阪市統計書 平成22年版』*6の「土地利用の現況」を見ると、平成17(2005)年の港区の農地は0?となっています。
参考文献
*1 『日本名所風俗図会16』角川書店 1982 書誌ID 0080075234 p.337
*2 『港区誌』大阪市港区役所 1956 書誌ID 0000244951 p.174
*3 『花の下影』清文堂出版書誌 1994 書誌ID 0000438938 p.38〜39
*4 『大阪市農業誌』大阪市農業団体協議会1960 書誌ID 0070080489 p.119
*5 『続消えたわが母校』赤塚康雄著 柘植書房新社2000 書誌ID 0000819604 p.124
*6 『大阪市統計書 第98回(平成22年版)』大阪市計画調整局 2011 書誌ID 0012291458 p.12
港区
産業および商業
質問
市岡パラダイスについて
回答
『港区誌』*1には「市岡パラダイスは市岡土地株式会社が経営地内に一万二千坪(桂町一帯)を画し、経費一百万円を投じて開設した娯楽遊園地で、大正十二年佐伯組の施工により、同一四年七月一日竣工開園した。大劇場・映画館・演芸館、またスケート場・野外劇場・飛行塔・農園・小鳥園、或いは千人風呂の大浴槽をはじめトルコ風呂の設備があり、その斬新な趣向は人気を呼んで大阪の名所となった」と書かれています。『角川日本地名大辞典 大阪府』*2によると、桂町とは1927(昭和2)〜1968(昭和43)年の町名で、現在の磯路から弁天附近になります。園内中央部には直径30間(約55m)の池が設けられ、池の中に築かれた岩山からは人口の滝が落ち、5色のイルミネーションがほどこされました。大劇場は、ロサンゼルスのミリオン・ダラーシアター劇場の設計を採り入れ、延750坪、鉄筋3階建、定員1000人、総レンガ造りの屋上に設けられたネオンサインが有名でした。アイススケート場(北極館)は、滑走面積80坪、室内リンクの草分けで、ロシアのプロスケーターを招聘するなどアイススケートの普及に貢献しました。また、高さ18間(約30m)、東洋一をほこる飛行塔をはじめ、さまざまなアトラクションが設置され、子どもからおとなまですべての人が楽しめるレジャー施設でした。かつて一面の西瓜畑だった干拓地に忽然と出現した魅力あふれるパラダイス(楽園)は、当時の人々に喜びと驚嘆とをもって迎えられたことでしょう。『なにわの新名所(都市えはがき?)』*3『写真集 明治大正昭和大阪 上(ふるさとの想い出)』*4に写真があり、当時の様子を窺うことができます。市岡パラダイスは1930(昭和5)年1月閉鎖されましたが、大劇場(パラダイス劇場)は戦後、港区一帯の地盤沈下対策としての盛土工事で撤去されるまで残っていました。
参考文献
*1『港区誌』大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000244951 p.59〜60
*2『角川日本地名大辞典 27大阪府』角川書店 1983 書誌ID 0000184865 p.310
*3『なにわの新名所(都市えはがき?)』橋爪紳也著 東方出版 1997 書誌ID 0000184865 p.28〜29
*4『写真集 明治大正昭和大阪 上(ふるさとの想い出)』国書刊行会 1985 書誌ID 0000330602 p.92
・『海遊都市』橋爪紳也著 白地社 1992 書誌ID 0000257519 p.145〜147
・『大阪春秋 63号 港区・大正区』大阪春秋社 1993 書誌ID 0070108805 p.62〜64
港区
産業および商業
質問
大阪環状線の竣工
回答
大阪市の中心部を一周するJR西日本(旧国鉄)の大阪環状線は、昭和36(1961)年4月25日、境川信号場〜西九条間が結ばれ、環状運転が開始されました。『鉄道ピクトリアル 1989年12月号』*1掲載の写真では、同時に開業した弁天町駅(港区)での国鉄大阪環状線開通式の様子を窺うことができます。開通式の写真は『昭和の大阪』*2にも掲載されています。東側の城東線と西側の西成線、及び関西本線の3つの国有鉄道線を結んで環状線にしようという計画は、遡って昭和8(1933)年、大阪市の都市計画委員会において環状線の実現を推進する旨の建議が正式に行われています。しかし「当時の大阪市は水の都と言われていた通り河川運河の舟運が発達しており、特に安治川は大小船舶の往来が頻繁で、船津橋下流は無橋地帯となっていました。したがって当時の計画では安治川の渡河は河底ずい道によっていましたが、これはずい道取付部分における道路に対し重大な支障を起こす点に難点があり、軟弱地盤のため、工事施工に技術的な困難性があり、またこの附近は大阪港を控え、人家が密集していたため用地買収も困難が予想されました。」*3このような理由に加え、大戦の影響で大阪環状線の計画は頓挫します。戦後、環状線の建設を必要とする世論が再び高まり、安治川架橋の計画とその問題が浮上します。「国鉄当局の原案は、桁下空間7.8メートルの鉄橋を架ける計画でしたが、架橋の上流にあたる中央卸売市場や海運・倉庫業者らが諸船の航行に障害をもたらすからと計画の変更をつよく要望します。中央卸売市場のある福島区下福島の地、その対岸は明治初期の大阪開港時の富島の波止場があり、船舶航行至便の地でした。」*4 こうした要望に応え、国鉄側は架橋の桁下高を12.25メートルに改め、環状線の新設部分といってもわずか2.5キロメートルほどでしたが、ようやく実現に漕ぎつける運びとなりました。 工事は昭和34(1959)年9月に着工し、昭和36(1961)年に竣工、西九条−天王寺間の旅客運転が開始され、この日より、城東線と西成線は大阪環状線と改称しましたが、高架工事が未完成のため、旧西成線と新規開業区間のレールがつながっておらず、名実ともに環状線となったのは昭和39(1964)年3月22日のことです。
参考文献
*1 『鉄道ピクトリアル 1989年12月号 大阪環状線』 鉄道図書刊行会 書誌ID 0080196557 p.28
*2 『昭和の大阪』アーカイブス出版 2007 書誌ID 0011401419 p.102
*3 『大阪工事局40年史』日本国有鉄道大阪工事局 1968 書誌ID 0080207701 p.398
*4 『大阪春秋 92号 大阪環状線』大阪春秋社 1998 書誌ID 0000698325 p.30
・『大阪駅の歴史』大阪ターミナルビル株式会社 2003 書誌ID 0010540365 p.88〜89
・『大阪春秋 69号 おおさかの乗りもの』大阪春秋社 1992 書誌ID 0000285922 p.58〜65
・『復刻版日本国有鉄道百年史 第13巻』成山堂書店 1997 書誌ID 0000781445 p.863
・『関西の土木100年』 土木学会関西支部 1968 書誌ID 0080163259 p.18〜20
港区
交通
質問
港区の渡船について知りたい
回答
現在、大阪市内には渡船場が8か所あり、そのうち港区には2か所(天保山渡と甚兵衛渡)があります。渡船場の歴史については、『港区誌』*1や『大正区史』*2に書かれています。また、『大阪市渡船場マップ』*3には、歴史や渡船場跡のほかに、現在の渡船場の地図・時刻表も書かれています。
参考文献
*1 『港区誌』 大阪市港区役所編 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000244951
*2 『大正区史』 大阪都市協会編 大正区制五十周年記念事業委員会 1983 書誌ID 0070059807
*3 『大阪市渡船場マップ』 大阪市土木技術協会編 大阪市建設局渡船事務所 2000 書誌ID 0000818246
港区
交通
質問
大阪市の築港事業の歴史について知りたい
回答
最も詳しいのは、『大阪港史』*2・*3・*4です。『大阪開港100年祭行事誌』*6では、写真のほかに、簡単な歴史が表になっており、見やすくなっております。
参考文献
*1 『港区誌』 大阪市港区役所編 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000244951
*2 『大阪港史 1巻』 大阪市港湾局 1959 書誌ID 0070051521
*3 『大阪港史 2巻』 大阪市港湾局 1961 書誌ID 0070051522
*4 『大阪港史 3巻』 大阪市港湾局 1964 書誌ID 0070051523
*5 『大阪築港誌』 大阪市築港事務所 1906 書誌ID 0080237656
*6 『大阪開港100年祭行事誌』 大阪市・大阪開港100年記念祭委員会共編 大阪市 [1968跋] 書誌ID 0080258971
港区
交通
質問
市電の築港線について
回答
『港区誌』*1によると、「大阪港と築港埋立地の繁栄を助長するために本市最初の市電が明治36年9月12日西区花園橋から築港桟橋に至る5.069粁間の運転を開始した。これがいわゆる市電敷設の第一期線と称せられる築港線で、当時開催中の第5回内国勧業博覧会に間に合すべく工を起し8月3日竣工した」とあります。第5回内国勧業博覧会は、『大阪市政百年の歩み』*2によると、天王寺公園、新世界一帯を会場とし、明治36年3月1日から5か月間開催されました。来場者は435万人(当時の本市人口約100万人)もありました。第5回内国勧業博覧会会期終了に続いて、築港大桟橋一般公開が8月に行われ、市電は9月から運転を開始し、都市交通の主役として機動網を拡張していきました。 また、『大阪市電』*3には、「電車は花園―築港桟橋間を両方から30分ごとに発車、線路は単線で途中市岡中学前の電気鉄道事務所の待避線で行き違い、所要26分であった。停留所は全部で10ヵ所、料金は区間制で4区に分け1区1銭、全線片道4銭であった」とあります。 『港区誌』*1によると、停留所は「花園橋―九条二番道路―境川町―市岡中学校前―磯路橋―夕凪橋―田中町―八幡屋堤防―三条通−築港桟橋」でした。 しかし、市電の敷設工事が第5回内国勧業博覧会には間に合わず、また大阪港築港工事が遅れていたため、実際は釣り客が多く、これらの人びとを運ぶ市電は「魚釣り電車」といわれたと『目で見る大阪市の100年 下巻』*4には書かれています。
参考文献
*1 『港区誌』 大阪市港区役所編 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000244951 p.160
*2 『大阪市政百年の歩み』 大阪市総務局 1989 書誌ID 0000412228 p.10,p.51,p.52
*3 『大阪市電』 大阪市電編集委員会編 鉄道史資料保存会 1980 書誌ID 0070117955 p.1
*4 『目で見る大阪市の100年 下巻』 郷土出版社 1998 書誌ID 0000706425 p.24
港区
交通