大阪に関するよくある質問
質問
地名「都島」の由来について
回答
区名「都島」の由来と、一般的地名としての「都島」の由来を分けて説明します。
1 区名は、明治22(1889)年市町村制施行時の新村名を継承しましたが、都島村は仁徳天皇の高津宮、孝徳天皇の長柄豊崎宮が近くにあったと想定して命名されたものです。一説には、以前からこの付近の総称として、「宮向島」(みやこじま)の名があったともいわれています。*1
2 五世紀ごろ、難波津は大和朝廷の門戸として海外貿易に重要な役割を演ずるようになり、応神天皇は難波の地に行宮として大隅宮を営んだとされます。所在地は確定されていませんが、安閑天皇のとき、牧地とされた大隅島をあて、いまの大阪市東淀川区大道あたりではなかったかといわれています。次代の仁徳天皇は大和から難波の地に都を移し、上町台地の北端、難波碕に難波高津宮を造営しました。以後上町台地には、六世紀の欽明天皇の祝津宮(はふりつのみや)、645年、「大化改新」後の孝徳天皇の難波長柄豊崎宮、奈良時代の聖武天皇の難波宮が営まれ、約百五十年間、日本の首都として、また副都として、古代史上に大きな足跡を残しました。都島の地域は上町台地の一角、あるいは大隅島の宮廷のちょうど向こうの地に当たり、宮向島(みやこじま)が転化して都島になったという説が有力です。また、当時、都は大和・河内・難波を転々としていたが、難波に宮廷がなかった時代にも行宮や副都として皇室との関係が深く、平安時代以降もこのあたりへの天皇の行幸があり、皇室と深い縁を結んでいました。こうした関係から当時一般に付近の島々を総称して都島と呼び、島々が陸続きとなり、各地に村落が生まれた後も、その呼称が残ったという説もあります。*2
参考文献
*1『日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1』平凡社 1986 書誌ID 0000156512
*2『都島区史』大阪都市協会編 都島区制五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0000336170
都島区
地誌
質問
京橋駅の空襲被害について
回答
『都島区史』*1および『霊に捧ぐ』*2によりますと、昭和20(1945)年8月14日の空襲で1トン爆弾の直撃を受け、確認されただけで236人の死者を出しました。第1弾、第2弾は午前11時すぎで、陸軍造兵廠に落とされました。その直後、第3弾が京橋駅大阪方面ホーム西寄りに命中しました。さらに、第4弾(時間は不明)が城東線と片町線の交差部分を直撃しました。そこに避難していた乗客は一瞬にして全滅しました。第5弾(同じく時間は不明)は西側の防空壕付近に着弾したということです。第6弾は駅の北側鯰江川付近に着弾したようですが、不発だったようです。JR京橋駅南口に「爆撃被災者慰霊碑平和のブロンズ像『平和よ永遠なれ』」という名の慰霊碑があります。*3
参考文献
*1『都島区史』大阪都市協会編 都島区制五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0000336170 p.101〜105
*2『霊に捧ぐ(国鉄京橋駅爆撃被災記録)』長森利春 1981 書誌ID 0000598763 p.6〜12
*3『大阪奈良戦争遺跡歴史ガイドマップ 2』平和のための大阪の戦争展実行委員会 日本機関紙協会大阪府本部共著 日本機関紙出版センター 2003 書誌ID 0010459100 p.35
・『甦えるわが街 - 戦災復興土地区画整理事業 - 都島地区』大阪市都市整備協会 1980 書誌ID 0000324832 p.39〜41
・『大阪にも空爆があった - 語り継ごう大阪空襲 -』小山仁示著 大阪国際平和センター 1991 書誌ID 0000285982 p.68
・『新修大阪市史 第7巻』大阪市 1994 書誌ID 0000400903 p.747
・『大阪大空襲の記録 - 母から子どもたちへ -』大阪大空襲の体験を語る会編 三省堂 1983 書誌ID 0000157663
・『大阪大空襲 - 大阪が壊滅した日 - 改訂』小山仁示著 東方出版 1989 書誌ID 0070027194
・[VHS]『壊滅した商都 - 大阪大空襲 - (戦後日本の原風景 v.2)』小山仁示監修 ドキュメンタリー工房 199-? 書誌ID 7000022524
・『写真で見る大阪空襲』大阪空襲写真集編集委員会編 大阪国際平和センター 2011 書誌ID 0012287005
都島区
遺跡および碑文
質問
都島区内にある鵺(ぬえ)塚について知りたい
回答
鵺とは、頭がサル、胴はシシ、尾はヘビ、手足はトラ、声はトラツグミに似ていたといわれます。仁平(にんぴょう)3(1153)年源三位頼政が、皇居に出没する化鳥を射止め、その遺骸をうつろ舟にのせ淀川に流し、ついに都島区の沢上江のなぎさに漂着しました。里人はたたりを恐れ母恩(ぼおん)寺の住職に告げねんごろにとむらい、これを土中に埋めて鵺塚とした、という伝説です。かつてはこの付近まで母恩寺の広い境内になっていたようで、現在の塚は明治3年大阪府が改修し、祠も昭和32(1957)年地元民によって改修されました。塚の所在地は都島本通3-18です。(『都島区史』*1のp356〜357、母恩寺についてはp358に記述があります。)この奇妙な伝説については、『大阪春秋通巻94号』*2のp41〜43にも大阪の伝説として詳しい内容が書かれています。また『東海道どうぶつ物語』*3のp53〜55には、子ども向けにわかりやすく書かれた「謎の怪獣ヌエの墓」と題された物語や、まんがで親しみやすく解説された『蕪村さんの都島漫遊記』*4のp31〜36があります。この鵺をかたどったものが大阪港の紋章に取り入れられ、その意匠は、大阪市港湾局のホームページ内「大阪港紋章について」で見ることができます。*5
参考文献
*1『都島区史』都島区制五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0000336170
*2『大阪春秋 通巻94号 おおさかの伝説』大阪春秋社 1999 書誌ID 0000729429
*3『東海道どうぶつ物語』依田賢太郎作 東海大学出版会(発売) 2005 書誌ID 0011065631
*4『蕪村さんの都島漫遊記』谷川桜太郎脚本・画 大阪市都島区役所区民企画室 2006 書誌ID 0011253321
*5 大阪市港湾局 大阪港の紋章
http://www.city.osaka.lg.jp/port/page/0000016593.html
(2017年3月21日確認)
・『幻想世界の住人たち 4』新紀元社 1990 書誌ID 0000230096 p319〜322
・『日本の伝説 8』角川書店 1976 書誌ID 0070028938 p17
・『みやこじま今昔写真集』大阪都市協会編集 1993 書誌ID 0000336177 p31
・『みやこじま史跡てくてく探訪』都島区コミュニティ協会[共編] [大阪市]都島区役所[共編] 都島区コミュニティ協会 1990 書誌ID 0080276785 たたみもの1枚
・『区内史跡・旧跡めぐり都島区』大阪市都島区役所 [1974-1978] 書誌ID 0010749364 1枚もの
・『大阪の伝説』大阪府小学校国語科教育研究会「大阪の伝説」編集委員会編 日本標準 1981 書誌ID 0070024690
都島区
遺跡および碑文
質問
与謝蕪村と都島区のかかわりについて
回答
与謝蕪村は、都島区毛馬の生まれですが、その他の詳しいことは残念ながらあまりわかっていません。出生について『与謝蕪村』*1のp1〜11の故郷についての章と、『与謝蕪村』*2のp7〜8、『新修大阪市史 4巻』*3のp734〜735に少し触れた部分があります。有名な新形式の詩「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」は、毛馬の川堤を思う切々たる哀愁のうたとして知られています。『蕪村さんの都島歴史漫遊記 - まんが - 』*4は、わかりやく解説されており子ども向きの資料として適しています。
参考文献
*1 『与謝蕪村』田中善信著 吉川弘文館 1996 書誌ID 0000577752
*2 『与謝蕪村』大谷晃一著 河出書房新社 1996 書誌ID 0000533511
*3 『新修大阪市史 4巻』新修大阪市史編纂委員会編集 大阪市 1990 書誌ID 0000225760
*4 『蕪村さんの都島歴史漫遊記 - まんが -』谷川桜太郎脚本・画 大阪市都島区役所企画総務課 1998 書誌ID 0000683212
都島区
郷土人
文学
質問
都島区特産の毛馬(けま)キュウリについて知りたい
回答
都島区の農産物、特産物にについては、『なにわの伝統野菜』*1によると、毛馬キュウリとよばれる細長いキュウリが徳川時代に栽培されました。その後も品種改良をかさねましたが、最近になり栽培方法や生産物の流通方法など特産化の方向にむかっています。また『なにわの伝統野菜「毛馬キュウリ」ものがたり』*2は、カラー写真によるキュウリの図が掲載され、育て方や料理の仕方などよりわかりやすく解説されています。
参考文献
*1『なにわの伝統野菜』森下正博編集 大阪府立農林技術センター 2001 書誌ID 0010165446
*2『なにわの伝統野菜「毛馬キュウリ」ものがたり』大阪市都島区役所区民企画室 2002 書誌ID 0010348878
都島区
自然
質問
桜宮と桜について
回答
天照皇大神を主祭神とする櫻宮(桜宮社)は、都島区中野町1-12にありますが、もとは、東成郡野田宮田、旧大和川の堤にあり、元和6(1620)年に社殿が洪水で流され、このあたりの堤防へ漂着し、祀られました。しかし再度の被害を恐れ、宝暦6(1756)年現在地に遷座したと伝えられています*1。「櫻宮」の社名は、旧所在地の字「桜野」に因んだものですが、その名にあやかって、境内はもとより淀川の東岸に至るまで桜が植えられ、花の頃には、市中から徒歩や船で訪れる人が多く、「咲くからに見るからに花の散るからに」(『摂津名所図会』)、「浪花において花見第一の勝地なり」(『摂津名所図会大成』)と賞される名所になりました。しかし、明治18(1885)年の大洪水で、櫻宮の桜は大半が、枯死・荒廃してしまいました。その後、大正12(1923)年より、桜之宮公園整備に伴う植樹が開始され、戦災による荒廃はあったものの、再び今日の桜並木が形成されたのです。なお、大川対岸の北区側も、安政末期には、すでに藤堂藩蔵屋敷周辺が桜の名所であり、その跡地に明治以降開業した造幣局も、明治16(1883)年より、「通り抜け」をはじめました。この一帯の大川両岸は、実に江戸時代後期から現代まで、大阪有数の桜の名所といえましょう。
参考文献
*1『大阪府全志 巻の2』井上正雄著 大阪府全志発行所 1922 書誌ID 0070069487 p.1119〜1121
・『角川日本地名大辞典 27 大阪府』「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865 p.537
・『大阪史蹟辞典』三善貞次編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p.213
・『都島区史』大阪都市協会編 都島区制五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0000336170 p.212,p.355
・『通り抜け』造幣局泉友会編 創元社 1996 書誌ID 0000558081 p.40,p.50〜55
都島区
自然
質問
毛馬の水門・閘門について
回答
淀川は大阪にとって恵みの川である一方、時には災害の源でもありました。明治18(1885)年の洪水は空前の大洪水となり、川水は市街にあふれ、天満橋、天神橋、難波橋など大阪市内の橋4分の1が流失しました。この水害をきっかけに淀川改修の猛運動が広がり、明治29(1896)年「河川法」が公布され、淀川改修計画が決定しました。旧淀川への流量調節のため、新淀川の開削とともに都島区域内の淀川分流点に造られたのが毛馬閘門と洗堰です。洗堰は明治43(1910)年、閘門は明治40(1907)年に第1閘門、大正7(1918)年に第2閘門が竣工しました。設計者はオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケで、当時の最高技術が駆使され、わが国近代治水工事の発祥といわれました。その後、大洪水に耐え、かつ琵琶湖開発による新たな水資源活用のため、再び国の大改修工事が行われ、昭和49(1974)年に毛馬洗堰を改築した新水門・閘門、昭和58(1983)年に淀川大堰が完成しました。廃止された旧洗堰と閘門の一部は、河川公園の北区側に記念物として保存されています。『都島区史』*1のp63〜66、p228〜232、p360に記述があります。また、『蕪村さんの都島歴史漫遊記 - まんが -』*2 p20〜23では、子ども向けにわかりやすく解説されています。
参考文献
*1『都島区史』大阪都市協会編 都島区五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0000336170
*2『蕪村さんの都島歴史漫遊記 - まんが -』谷川桜太郎脚本・画 大阪市都島区役所区民企画室 2006 書誌ID 0011253321
・『淀川往来』上方史蹟散策の会編 向陽書房 1984 書誌ID 0000243032 p.220〜222
・『大阪と淀川夜話』三浦行雄著 大阪春秋社 1985 書誌ID 0070001810 p.183〜196
・『淀川 - 教材資料 , 小学校3年生以上対象 , 副読本 -』大阪・淀川教材研究会 2003 書誌ID 0010590430
都島区
建築
産業および商業
質問
京街道について
回答
京街道は、大阪の京橋と京都の伏見を結ぶ歴史ある街道で、その全長は38.5kmに及びます。『日本歴史地名大系 28-[1]』*1および『大阪の街道』*2によると、豊臣秀吉による淀川左岸の文禄堤の構築によって成立しました。文禄堤は文禄3(1594)年に工事が開始された治水工事と軍用道路を兼ねた土木事業でした。その後大坂城、淀城、伏見城が築かれると、この大坂と伏見とを結ぶ最短路として、諸大名を動員した淀川左岸の築提工事に伴う堤防道として誕生したのです。
京街道の起点は大阪城の京橋口の北の京橋であり、終点は京都の鳥羽口(南区)と伏見の京橋でしたが、明治時代の大阪府の道路行政上では起点は大阪市中央区所在の高麗橋元標となりました。大阪府下の経過地は高麗橋元標から東横堀の東側を北へ葭屋橋東詰を東へ京橋に至り、片町を通って野田橋から野江、今市から守口に入り、北行して淀川左岸堤防上を枚方に進み、宗左の辻(角野宗左という商人の屋敷がこの辻にあったので呼んだもの)で左折し北に向かい、磯島、渚、三栗(めぐり)、上嶋、樟葉を経て大阪府京都府の境界の八幡市橋本小金川に入ります。『京街道』*4には都島区内の京街道についてくわしく書かれています。「京橋を北へ渡り、相生西之町から片町を東へ向かうと、左手に再び橋が現れます。鯰江川に架かる野田橋です。(野田橋は明治43(1910)年、この橋以西の鯰江川が埋め立てられたことにともない姿を消しました。現在はその跡地に昭和13(1938)年に立てられた碑があるのみです。)京街道はこの野田橋を北に渡り鯰江川の北岸をさらに東、現在の京阪京橋駅方面へと続きます。(後略)」京阪京橋駅を北に越えた東野田二丁目付近や、都島中通三丁目付近を通り、内代町一丁目付近で都島区に別れをつげ、七曲りと呼ばれる屈曲した道があることで知られる旭区関目方面へと続いていきます。
京街道という名称は、明暦3(1657)年に出版された『新板大坂之図』という地図に「京かいたう」(京街道)と記されているのが最も古い時期のものです。その後、大坂で出版された本や地図などには「京路」「京師往還の本街道」などと表記されています。京街道は、江戸幕府が東海道の一部とみなして整備をはかりました。京街道は公式には東海道と呼ばれ、主要路とみなされていました。江戸から京都までの東海道はいわゆる東海道五十三次となり、この東海道から大津で分かれた京街道には4つの宿が置かれ、五十三次と合わせて五十七次を数えました。また、『みやこじま史跡てくてく探訪』には、江戸時代には、大坂が天下の台所として栄えるにつれ、その利用度も増し、参勤交代の大名や商人旅人などで大いににぎわったとあります。『都島区史』*5によると、現在の京街道は、戦前に施行された土地区画整理事業のため、全く町並みの変わったこところもあり、京街道の跡をたどるのは、現在では、残念ながら、わかりにくくなっています。しかし、城北運河(城北川)古市橋から、森小路二丁目、千林二丁目を経て今市に至る旧街道は、昭和63(1988)年に市が設けた旧街道顕彰の碑と道標があり、この区間では昔の街道の様子がおぼろげながら実感できます。
参考文献
*1『日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1』平凡社 1986 書誌ID 0000156512
*2『大阪の街道』神野清秀著 松籟社 1989 書誌ID 0070001834
*3『京街道』大沢研一著 都島区役所編 都島区役所 2003 書誌ID 0010548354
*4『みやこじま史跡てくてく探訪』都島区コミュニティ協会共編 都島区役所共編 都島区コミュニティ協会 1990 書誌ID 0080276785
*5『都島区史』大阪都市協会編集 都島区制五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0000336170
都島区
交通