大阪に関するよくある質問
質問
昭和山の由来について
回答
大正区千島にあり、区画整理事業により造られました。詳しくは 『大正区史』* 144ページに記述があります。
参考文献
*『大正区史』大阪都市協会編 大正区制施行五十周年記念記念事業委員会 1983 書誌ID0070059807
大正区
地誌
自然
質問
大阪俘虜収容所について
回答
大正3年(1914)ドイツ陸軍の捕虜を収容するために、大正区(当時は西区)に設置され、大正6年(1917)に閉鎖されるまで760名を収容していました。詳細は『大正ドイツ友好記念-大阪俘虜収容所資料集-』*1に記述があります。捕虜に対する扱いは、朝夕二回の点呼以外に労働は特になく、演劇、音楽、スポーツなどを楽しんだということです。開放後も日本に永住を希望し留まった者も少なからず、神戸のバウムクーヘン製造で有名な、カール・ユーハイムさんもその一人です。
参考文献
*1『大正ドイツ友好記念−大阪俘虜収容所資料集-』大正ドイツ友好の会・大正区役所 2006 書誌ID 0011377740
『大正ドイツ友好記念除幕式典』大正ドイツ友好の会・大正区役所 2006 書誌ID 0011162661
『毎日グラフ1984.11.11号』毎日新聞社 1984 書誌ID 0080203426 p64
大正区
地誌
建築
質問
昔、大正区内にあったという木津川飛行場について知りたい
回答
『大正ガイドブック-まち案内人-』*1には、「大正9年逓信省に新設された航空局は、大正区船町の231,000平方メートル (軍用地と私有地)を飛行場用地に内定した。大正15年から拡張整備にかかり昭和3年3月、389,400平方メートルの整備を終わり、昭和4年4月から公共の木津川飛行場として供用を開始した。」と記されています。『わたしたちのまち大正区』*2によると「現在の船町2丁目」にあたるそうです。『大正ガイドブック-まち案内人-』*1によると、「昭和13年の年間発着は定期5,107回、不定期3,676回、旅客10,124人、取扱貨物38,700余kg、郵便97,700余kgで、国内でトップクラスにあった。」とのことです。『大正区の歴史を語る』*3には、「スチュワーデス (客室乗務員)の第1号は大正区が最初でした (中略)。運賃は最初、大阪―高松間で40円。」といった記述があり、当時の様子をうかがうことができます。
しかしその後、「逓信省は、予備飛行場を昭和14年1月兵庫県伊丹市に開設、次第に国際飛行場として発展するにつれ、木津川飛行場は衰退した。」と、『大正ガイドブック-まち案内人-』*1に記述されています。この間の経緯については、『大阪春秋17号 北摂前編』*4所収の「大阪空港はどういう「いきさつ」でできたか―伊丹空港のおこり―」に詳述されています。
なお、『懐かしい大正区の風景』*5に、当時の飛行場や、「木津川飛行場跡の碑」の写真が収録されています。
参考文献
*1 『大正ガイドブック-まち案内人-』大正区役所 2007書誌ID 0011422725 p.56
*2 『わたしたちのまち大正区』大阪市大正区役所 2007 書誌ID 0011422720 p.41
*3 『大正区の歴史を語る』大阪市大正区役所 2005 書誌ID 0011134761 p.21
*4 『大阪春秋17号 北摂前編』大阪春秋社 1978 書誌ID 0070052022 p.111〜113
*5 『懐かしい大正区の風景』 大正区役所 なにわの海の時空館 2006 書誌ID 0011265202 p.18
大正区
地誌
交通
質問
大正橋について知りたい
回答
『大正区史』*1によると「大阪の“島”といわれた大正区と、都心をつなぐ唯一のメーンルートとして、大正四年八月、市電の開通とともに架けられた。」木津川にかかる橋です。
大正区の区名の由来ともなっており、『大正区史』*1によると「住民の意見を尊重し、大正橋にちなんでつけられた。」とのこと。ちなみに「大正橋区」では長すぎるので、「大正区」となったそうです。
『懐かしい大正区の風景』*2に、「長さ90.62m、幅22.15mで船の運航を妨げないよう橋脚を持たない橋として設計された。」と記述があります。
『大阪史蹟辞典』*3では、その後、老朽化がひどく1969年から5年かけて付け替え工事が行われたことがわかります。『大阪春秋 63号 港区・大正区』*4には付け替えについて詳しい記述があります。それによると、1969年3月に大正橋の下流に新しい橋が架けられ、元の橋は1971年3月に撤去されました。その後元の橋と同じ場所に新しい橋が架けられ、1974年3月に完成。2本の橋が一体化して、現在の姿になったそうです。『わがまち大正』*5には旧大正橋、付け替え時期、現在の姿の3枚の写真が収められています。『懐かしい大正区の風景』*2によると、現在の大正橋は長さ79.96m、幅41mです。
また『懐かしい大正区の風景』*2には大正橋の写真が多く収録されています。ちなみに、現在の橋は下流側の欄干を五線譜に見立て、ベートーベン作曲の交響曲第9番「歓喜の歌」の楽譜がデザインされており、歩道にはピアノの鍵盤が描かれ、メトロノームをかたどった縁石が並んでいます。
大正区役所ホームページ内の「大正区の橋」のページ*6 で写真を確認できます。
参考文献
*1 『大正区史』 大阪都市協会 大正区制施行五十周年記念事業委員会 1983 書誌ID 0070059807 p28,p67
*2 『懐かしい大正区の風景』 大阪市大正区 なにわの海の時空館 2006 書誌ID 0011265202 p9
*3 『大阪史蹟辞典』 三善 貞司 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p368
*4 『大阪春秋 63号 港区・大正区』 大阪春秋社 1991 書誌ID 0070108805 p24
*5 『わがまち大正‐大正区制施行70周年記念誌‐』 大正区制施行70周年記念事業実行委員会 2003 書誌ID 0010499553 p29
*6 大正区役所ホームページ − 大正区の橋 http://www.city.osaka.lg.jp/taisho/page/0000000471.html (2017年3月10日確認)
大正区
地誌
建築
交通
質問
大正区における自動車産業の歴史
回答
『大正区史』*1に、大正区の産業の発展について「大正時代に入ると・・・広大な臨海工業地帯が造成された。市有地である上、水運至便という恵まれた条件がうけて、セメント、製鉄、造船、造機などの大工場が競って進出することになった。」と記載されているように大正区では早くから、工業が盛んでした。
大正8(1918)年には、実用自動車製造(株)(クボタの前身)が南恩加島町に設立され、量産システム採用の自動車工場として製造を開始しました。*2
その後、関東大震災後の自動車の需要増により、アメリカ車の日本工場設立の機運が高まり、横浜に、日本フォード自動車株式会社、そして昭和2(1927)年大正区鶴町に、日本ゼネラルモータース株式会社が設立されました。*3
『大正区の歴史を語る』*4には工場で働く人々のハイカラな様子も記されています。
第二次世界大戦により操業中止となったものの*3、日本での自動車産業のあけぼのの一つとなったのは、この大正区だったのです。
参考文献
*1『大正区史』大阪都市協会編 大正区制施行五十周年記念記念事業委員会 1983 書誌ID 0070059807 p349
*2『クボタ100年 -1890-1990-』クボタ 1990 書誌ID 0000532533 p28〜29
*3『横浜製フォード、大阪製アメリカ車 -1936年陸軍国産車保護立法で生産阻止-』サトウマコト編著 230クラブ 2000 書誌ID 0000845953
*4『大正区の歴史を語る』大正区役所 2005 書誌ID 0011134761 p104
『大正ガイドブック-まち案内人-』大正区役所 2007 書誌ID 0011422725
『欧米日・自動車メーカー興亡史』桂木洋二著 グランプリ出版 2004 書誌ID 0010816134
大正区
地誌
産業および商業
質問
大正区の橋について知りたい
回答
大正区は大阪市の西、川と海に囲まれたウォーターフロントとも言うべき地に位置しており、現在も大阪市にある渡船場8箇所のうち7箇所が区内にあり、市民の足として利用されていますが、橋もまた近隣の区および区内をつなぐ大切な動脈となっています。
現存する橋は12基ですが、記録では71基もあったそうです。そのうち産業の発達に伴って工場などに行くために個人で架けられた橋も19基あったと『大正区の歴史を語る』*1に記載されていますが、現在は地名やバス停名にその名のみ残す橋も多く、どこにどんな橋が架けられていたのか、興味が持たれます。『大阪春秋63号』*2では消えた橋名を、『大正区の歴史を語る』*1には「おもいでの橋」の項でどこにどのような橋があったのかを、見ることもできます。
さて、大正区に橋がこのように数多く架けられるようになったのは、明治末から大正時代にかけてのことでした。市電が路線を延ばすにつれて、大正区の住民から運動が起こり、まず大正橋が架設されました。『大阪春秋63号』*2に当時の様子が詳しく記載されています。
大正区の橋は美しいものが多く、船の航行のために工夫をこらしたもの・ユニークな形のものもあり、生活に欠かせない施設(道路)であるとともに、心洗われるような景観を保っています。 中には歩いて、あるいは自転車で渡ることができる歩道付きの橋もあります。『わたしたちのまち大正区』*3『わがまち大正』*4で現在の橋の姿や大きさ、利用についても知ることができます。また、大正区のホームページには「区内のスポット」のひとつとして「大正区の橋」*5が美しい写真とともに詳しく紹介されています。
参考文献
*1『大正区の歴史を語る』大阪市大正区役所 2005 書誌ID 0011134761 p16,p117
*2『大阪春秋 63号 港区・大正区』大阪春秋社 1991 書誌ID 0070108805 p23〜37
*3『わたしたちのまち大正区』 大阪市大正区役所 2007 書誌ID 0011422720 p17〜19
*4『わがまち大正』 大正区制施行70周年記念事業実行委員会 2003 書誌ID 0010499553 p29〜33
*5 大正区役所のホームページ http://www.city.osaka.lg.jp/taisho/page/0000000471.html (2017年3月10日確認)
大正区
地誌
建築
交通
質問
大正区の渡船について
回答
大阪市内には渡船場が8箇所あり、大正区には7箇所(甚兵衛渡船場・落合上渡船場・落合下渡船場・千本松渡船場・木津川渡船場・船町渡船場・千歳渡船場)あります。その歴史については『大正区史』*1 157ページから161ページに記述があります。他に『大阪市渡船場マップ』*2があり各々の渡船場の地図と、標準の時刻表、簡単な解説が、写真とともに記載されています。また『旧跡・渡船場表示板』*3には、大正区内の名所として顕彰するために設けられた表示板の意匠が掲載されています。
参考文献
*1『大正区史』大阪都市協会編 大正区制施行五十周年記念記念事業委員会 1983 書誌ID 0070059807
*2『大阪市渡船場マップ』大阪市土木技術協会編 大阪市建設局渡船事務所 2000 書誌ID 0000818246
*3『旧跡・渡船場表示板』大阪市大正区役所区民企画室 2005 書誌ID 0011002070
大正区
地誌
交通