大阪に関するよくある質問
質問
熊野古道の「九十九王子」は、天王寺区内にもあるのか? 遺跡はあるか?
回答
「王子」とは、『国史大辞典4』*1(p.868)によると、「京都を発し、本宮を経、新宮・那智に至る参詣路沿道の所々に、三山の遙祠が建設された。これを熊野王子(王子社とも)と」いい、各祠を総称して「熊野九十九王子」と呼ぶ、とされています。
『大阪史蹟辞典』*2(p.563〜564)によると、天王寺区内にある王子は「熊野第一王子」と「上野王子」の二つとなっています。
「熊野第一王子」
堀越神社境内に「熊野第一王子之宮」と記された小社があります。(大阪市天王寺区茶臼山町1-8)
『大阪史蹟辞典』*2(p.563)には、「この小社が、「熊野九十九王子」の第一の王子である」との記述があります。しかし、「元来熊野第一王子は「窪津(別に渡辺)王子」と呼ばれ、この王子は現在の坐摩神社行宮(東区石町二丁目 ※現在…大阪市中央区久太郎町四丁目渡辺3号)の地にあった」とされています。しかし『和漢三才図会』になると、その場所は「天王寺鳥居前に在り」と書かれ、王子についても、そこにあった「光宮」と呼ぶ小祠のことを指すと変わっています。その光宮は大正14年に「堀越神社に合祀され、こうして堀越神社の小社が熊野第一王子になった」と記されています。
「上野王子」
「上之宮台ハイツ」というマンションの入り口軒下に「上宮之跡」と刻まれた石碑があり、ここが上野王子の跡地とされていますが、はっきりとしません。(大阪市天王寺区上之宮町4-40)
『大阪史蹟辞典』*2(p.49・p.564)によると、「上野王子は上之宮のことだという」(上之宮…聖徳太子が四天王寺の鎮守として創祀した神社のひとつ)との記述があります。しかし「王子の祭神は天照皇大神で、上之宮は欽明天皇であるからおかしい」との疑問点があげられています。また『天王寺区史』*3(p.51)では、「熊野九十九王子」の第四の王子であると紹介がされています。しかし場所に関しては、「天王寺中町欽明天皇神祠または上之宮にあったといわれる説と、生野国分町聖武天皇社であるとの二説」があるとされ、こちらでもはっきりとしません。雑誌「上方」141号(p.10)にも同様の二説の記述があります。上之宮は明治40年に大江神社に合祀され、現在残っているのはこの「上宮之跡」の石碑のみとなっています。
このふたつの王子の所在地・様子の写真は、以下の資料などから見ることができます。
『大阪府下の熊野古道と王子社 地図編』[月山 渉著] 月山渉 [2001] 書誌ID 0010045692
『熊野古道を歩く』(p73〜75)宇江 敏勝監修 山と渓谷社 2005 書誌ID 0011008667
『熊野古道 : 九十九王子を辿る』(p14〜20)海部要三著 海部多賀子著 蟷螂舎 2004 書誌ID 0010974512
参考文献
*1 『国史大辞典4』国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1984 書誌ID 0000167103
*2 『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
*3 『天王寺区史』川端直正編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000244950
以下の資料にも関連する記述があります。
『日本歴史大辞典4』日本歴史大辞典編集委員会編 河出書房新社 1985 書誌ID 0000163436
『大阪府下の熊野古道と王子社』月山渉著 [月山渉] 2001 書誌ID 0010045691
『大阪人58巻9号』大阪都市協会 2004 書誌ID 5110808604
天王寺区
神社仏閣
質問
天王寺の七坂について
回答
天王寺の七坂とは、上町台地にある、真言坂(しんごんざか)、源聖寺坂(げんしょうじざか)、口縄坂(くちなわざか)、愛染坂(あいぜんざか)、清水坂(きよみずざか)、天神坂(てんじんざか)、逢坂(おうさか)の7つの坂を指します。
真言坂は、天王寺区生玉寺町、生國魂神社北側にあります。近辺に、医王院、遍照院など真言宗の寺があり、生玉の社僧の多くが居住したことから、真言坂とよばれています。天王寺区ホームページを見ると、「『摂津名所図会』(せっつめいしょずえ)巻之三には「生玉眞言坂」として階段の坂が描かれて」いることが紹介されています。
源聖寺坂は、天王寺区下寺町一丁目源聖寺の南側から生玉寺町に至る坂です。源聖寺の横にあるところからこうよばれています。織田作之助の作品『夫婦善哉』のなかにも登場します。
口縄坂は、天王寺区夕陽丘町にあります。その名の由来には諸説あり、『大阪史蹟辞典』*1によると「西沢一鳳の『脚色余録』に、昔この坂はけわしく縄をかけ渡し、人々はそれにすがって登降したため、寺町口の縄坂といったのが起こりだとあり、また大阪築城のときここから測量の縄打ちが始まったので口縄坂と読んだともいわれる。一般には下から見上げた形が蛇の腹のように見えるので、蛇坂(くちなわざか)とついたという。」とあります。織田作之助の作品『木の都』のなかにも登場し、この坂の上には織田作之助文学碑が建立されています。
愛染坂は、天王寺区夕陽丘町の大江神社南側の坂です。坂の下り口には勝鬘院(愛染堂)があり、そこから愛染坂とつけられています。
清水坂は、天王寺区伶人町の有栖山清水寺の北側に位置しています。清水寺にのぼる坂道であるところから、こう呼ばれています。
天神坂は、伶人町と逢坂1丁目の間、安居神社北側の谷間にある坂道で、安居天神に通じるところからこの名がつけられました。安居神社には天王寺七名水の1つ、安井の清水があるところから、2001年に大阪市建設局が、この坂に湧き水の雰囲気をイメージした石組みのモニュメントを建設しました。
逢坂は、天王寺区松屋町筋終点、合法ヶ辻(合邦辻)から四天王寺西門へ通じる坂です。その名の由来には諸説あり、聖徳太子が物部守屋と仏法をこの地で論じたからとも、あるいは、逢坂の関になぞらえて呼んだともいわれています。『大阪史蹟辞典』*1によるともとは急坂であり、四天王寺参詣など往来が多かったため、明治九年に尼僧静明が私費を投じ、道を整備し、のちに大阪府も協力して工事を行い大正時代には市電も開通し、今日のような道になったとあります。
参考文献
*1『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 P.70,p.159,p.301
『大阪夕陽丘歴史散策ガイド』三善貞司著 新風書房 2004 書誌ID 0010729186 p.6,p.10,P.23, p.87,p.130, p.151,p.155,p.156,p.158
『てんのうじ探訪』天王寺区役所 2003 書誌ID 0010719007 p11-13
『天王寺』天王寺区創設80周年記念委員会 2005 書誌ID 0011121598 p.34-35
『天王寺七坂』 http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000000496.html (2017年3月5日確認)
天王寺区役所トップページ http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/
天王寺区
地誌
質問
「天王寺七名水」の各井泉の名称と現在のどこにあるのか知りたい
回答
天王寺の七名水は、「逢坂七清水」とも呼ばれ、『天王寺区史』(p403)*1『大阪史蹟辞典』(p236)*2によると、「亀井・逢坂・玉手・安井・増井・有栖・金龍」の七つの井戸のことを指します。しかし『てんのうじ探訪』(p39)*3によると、記録によっては、「亀井」の替わりに「本清水(谷の清水)」を入れるものや、「岸の水・大江の岸水・金竜・銀竜・増井・逢坂・玉手」を指すなどの異説もあるとされています。また、この『てんのうじ探訪』では、現存するものをはじめ、現在には姿を消しているものを含めた各井戸の、所在と由来、現在の様子を写真入りで詳しく紹介しています。
亀井(かめい)は、天王寺区四天王寺1丁目、四天王寺内にあります。大きな石造りの亀の口から、竹筒を通して水がでています。『大阪史蹟辞典』(p236)*2によると、この池は「四天王寺が建つ前は荒陵池と呼ばれ、大きな青龍がすんでいたが、聖徳太子が龍を封じ、小さな池にして白石玉出水と呼んだ」との由来が紹介されています。四天王寺参詣の際には、先祖の供養として、この水で「経木流し」を行うので、彼岸には大いににぎわいます。
逢坂(おうさか)は、かつては安居神社南鳥居前付近の「逢坂」の途中にありましたが、度重なる付近の道路工事のため、現在の天王寺区四天王寺1丁目、四天王寺内に移されました。この現在地には、井桁とそれを取り巻く10本の石柱が残されています。『てんのうじ探訪』(p40)*3には、「玉出の水」「小坂清水」「相坂清水」などの別称もあるとされています。
玉手(たまで)は、天王寺区逢坂2丁目8、四恩学園内にあります。現在、湧水はありませんが、「玉出の水旧跡」と刻まれた自然石の碑が建立されています。『てんのうじ探訪』(p40)*3によると、「かつて当時の住宅内にあった湧水を、住人が洒落で命名した」との説があげられています。
安井(やすい)は、天王寺区逢坂2丁目3、安居神社社務所下にあります。こちらも現在、湧水はありません。大きな「かんしずめ水」石碑と、1メートルほどの空穴とそれを取り巻く玉垣が残っています。その由来は『てんのうじ探訪』(p41)*3によると、「菅原道真が大宰府に左遷される途中、この大江の岸に滞留し安居(あんご)の法を納められ」たが、その時、「疳気を催されひとつの井戸を掘り、その水で癒された」との記述があります。『大阪史蹟辞典』(p607)*2を見ると、「道真が休憩(やすい)したのに因んで」という説もあるようです。
増井(ますい)は、天王寺区伶人町5-35にあり、大阪市顕彰史跡に指定されています。こちらも断水しており、元井戸は2ヵ所あったようですが、現在はひとつの屋形を残すのみとなっています。
有栖(ありす)は、天王寺区下寺町2丁目4-15付近、清水坂の上がり口にあったとされています。現在は石碑などもなく、その場所を特定することはできません。『大阪夕陽丘歴史散策ガイド』(p152)*4によると、「土佐清水」、「観音清水」などの呼び方もあり、「土佐藩がこの水を最高の水として地面を買い、4面を囲んで錠をおろし、土佐藩御用水の標札を打った」ためと紹介されています。
金龍(きんりゅう)は、天王寺区下寺町2丁目4-10、泰聖寺内にあります。現在は、金龍水井桁と屋形のみが残り、断水しています。『大阪夕陽丘歴史散策ガイド』(p115)*4には、「この水で洗眼すると眼病によく効くと伝えられ」、また、良質の水は茶の湯に適していたと紹介されています。
さらに、これらの井戸は、『大阪夕陽丘歴史散策ガイド』*4の各項目において所在地を確認できます。また『上町台地を歩く』*5でも、「上町名水筒お散歩マップ」と称した、「七名水」のおおまかな所在地図を一覧することができます。『天王寺』(p48)*6にもわずかに紹介があります。同内容ですが、インターネットでは天王寺区のホームページの『天王寺七名水』*7で調べることができます。また、『上方68号』*8(p48〜60)には「天王寺の名水巡り」という記事があり、昭和11年ごろの各名水の様子等が詳しく紹介されています。
参考文献
*1 『天王寺区史』川端直正編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000244950
*2 『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
*3 『てんのうじ探訪 : 天王寺区史跡ガイドブック : 歴史と文化のまち』天王寺区役所 2003 書誌ID 0010719007
*4 『大阪夕陽丘歴史散策ガイド』 三善貞司著 新風書房 2004 書誌ID 0010729186
*5 『上町台地を歩く = uemachIDaichi guIDe book : 歴史の魅力あふれる大阪のふるさと』 読売新聞大阪本社 大阪観光コンベンション協会編集 読売新聞大阪本社 大阪観光コンベンション協会 2007 書誌ID 0011403712
*6 『天王寺 : 天王寺区創設80周年記念』天王寺区創設80周年記念事業実行委員会 2005 書誌ID 0011121598
*7 『天王寺七名水』 http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000070756.html (2017年3月5日確認)
天王寺区役所トップページ
http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/
*8 『上方 : 郷土研究 6』上方郷土研究会編 新和出版社 1970 書誌ID 0000245417
天王寺区
地誌
質問
小説家・織田作之助は天王寺区と関わりが深いそうだが、どんな関係があるのか。
回答
織田作之助は1913 (大正2)年10月26日に南区(現、天王寺区)生玉前町で生まれ、『織田作之助』*1によれば1920 (大正9)年大阪市立東平野尋常高等小学校(現、生魂小学校)に入学しました。その後、第三高等学校に入学するまでを天王寺区内で過ごしています。
著作については『織田作之助文芸事典』*2に詳しい解説がありますが、『木の都』『青春の逆説』『わが町』等々、天王寺区内の地名が舞台として登場する作品も数多く、『大阪の歴史 64号』*3には作品に登場する地名の一覧が掲載されています。
口縄坂には、『木の都』の中の口縄坂が登場する文章を刻んだ文学碑が建てられていて、この文学碑の写真は『わがまち天王寺』*4などで見ることができます。『大阪春秋 107号』*5によると、『木の都』『清楚』などを元に織田作之助自身が脚本を手がけた映画「還って来た男」(1944年、川島雄三監督作品)も、天王寺区内でロケが行われたそうです。
1947 (昭和22)年1月10日、織田作之助は35歳の若さで東京の地で亡くなりますが、その葬儀は、同級生が住職を勤める天王寺区の楞厳寺(りょうごんじ)で執り行われ、墓も同寺内に建立されています。
参考文献
*1『織田作之助』大谷晃一著 沖積舎 1998 書誌ID 0000683816
*2『織田作之助文芸事典』浦西和彦編 和泉書院 1992 書誌ID 0000271214
*3 『大阪の歴史 64号』大阪市史編纂所編 大阪市史料調査会 2004 書誌ID 5110814685 p.79〜98
*4『わがまち天王寺』[大阪市]天王寺区役所 1996 書誌ID 0000669595
*5『大阪春秋 107号 おおさかと映画』大阪春秋社 2002 書誌ID 0010322876 p.34〜42
天王寺区
郷土人
質問
天王寺区のまつりについて
回答
天王寺区では、四天王寺の「どやどや」や「聖霊会舞楽大法要(しょうりょうえぶがくだいほうよう)」、勝鬘院(しょうまんいん)の「愛染(あいぜん)まつり」をはじめとして数多くの寺社などでまつりが行われています。『てんのうじ祭り囃子』*1には天王寺区で行われているまつりが開催寺社ごとに比較的詳細にわたり紹介されています。
また、天王寺区で行われる主なまつりについては『てんのうじ探訪』*2及び『わがまち天王寺』のなかの記述「てんのうじ歳時記」、『天王寺』*4のなかの記述「天王寺のまつり」で知ることができます。(いずれもほぼ同内容。)まつりの日程及び開催場所の簡素な記述があります。
その他、『大阪史蹟辞典』*5で各開催寺社の項をひくことによってまつりの詳細を知ることができるものもあります。
参考文献
*1 『てんのうじ祭り囃子』天王寺区コミュニティ協会 1994 書誌ID 0000410168
*2 『てんのうじ探訪』天王寺区役所 2003 書誌ID 0010719007
*3 『わがまち天王寺』天王寺区役所 2002 書誌ID 0010395783
*4 『天王寺』天王寺区創設80周年記念事業実行委員会 2005 書誌ID 0011121598
*5 『大阪史蹟辞典』三善貞司著 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
天王寺区
祭り
質問
天王寺かぶら(蕪、蕪菁)について
回答
現在の天王寺区南部から阿倍野区北部にかけて古くから栽培されたかぶの品種の一つ。「てんのうじかぶ」に同じ。この蕪が発展して野沢菜になりました。絶滅に瀕していましたが、現在は、有志で「天王寺蕪の会」が結成され、この蕪の復興栽培や、蕪を使った料理などが試みられています。
参考文献
『日本国語大辞典:第2版 9巻』小学館国語辞典編集部編 小学館 2001 書誌ID 0010135338
『天王寺かぶら百年からの目覚め』天王寺蕪の会 2002 書誌ID 0010558785
『わては天王寺蕪でっせ』志村敏子文・編 タウン新聞社 2005 書誌ID 0011087119
『大阪春秋 111号 おおさかの伝統野菜』大阪春秋社 2003 書誌ID 0010554329
『わたしたちの阿倍野:第2版』難波りんご 新風書房 2000 書誌ID 0000820202 p.18
天王寺区
自然
質問
上町断層とはどこにあるどんなものか
回答
『あした起きてもおかしくない大地震』*3及び『街道と活断層を行く』*4によると上町断層は、豊中市から大阪市を経て岸和田市に至る上町断層帯の一部です。上町断層帯は大阪平野をほぼ南北に走り全長42kmに及び、上町断層のほかに佛念寺山断層、坂本断層、久米田池断層などを含んでいます。上町断層は大阪市から堺市まで続き、上町台地は上町断層の活動の結果できたものです。ただし断層自体は地表には表れず、上町台地の西側など市街地の地下を走っています。
『地震展2008』*1の記載によれば、2007年の内閣府の中央防災会議による発表で、上町断層による地震の被害は死者2万〜4万人に及ぶという予想で、大阪府が行なった被害想定よりかなり大きい数字になっています。また『最新日本の地震地図』*2には上町断層の最新の活動は9千〜2万8千年前といわれているため、今後30年以内に地震が起きる確立は2〜3%と高い確率になっていると記されています。
参考文献
*1 『地震展2008』川端清司/ [ほか]執筆 大阪市立自然史博物館 2008 書誌ID 0011775881
*2 『最新日本の地震地図』 岡田義光/著 東京書籍 2006 書誌ID 0011271506
*3 『あした起きてもおかしくない大地震』 島崎邦彦/ほか著 集英社 2001 書誌ID 0010105146
*4 『街道と活断層を行く』 大阪地域地学研究会/著 東方出版 2001 書誌ID 0010046352
天王寺区
自然
質問
天王寺公園の由来・歴史について
回答
天王寺区茶臼山町にある天王寺公園は、大阪市建設局が所管する市立公園です。 この公園の創設は明治42(1909)年で、『天王寺区史』*1などによれば、明治36(1903)年に開催された第5回内国勧業博覧会の跡地に公園を設置する案が議決され、明治42(1909)年に跡地東部を、明治45(1912)年には西部を整備・公開したもので、中之島公園に次ぐ大阪で2番目の公園でした。
園内には日本初の植物温室や、公会堂、動物園等の施設が相次いで設置されました。大正10(1921)年には住友家から寄贈された慶沢園を含む本邸跡地及び茶臼山を編入し、その土地の一部に市立美術館が建設されました。『大正大阪風土記』*2によると、開園後も園内ではたびたび博覧会が開催されています。大正14(1925)年の大大阪記念博覧会、昭和3(1928)年の交通電気博覧会などです。更に昭和62(1987)年の天王寺博覧会の後には、水の広場などを設けてリフレッシュし、平成2(1990)年より入場が有料となりました。(『大阪人 44巻4号』*3及び『大阪春秋 95号 大阪の公園』*4による)
その後、リニューアルを経て、平成27(2015)年4月から公園の入場が無料となり、再整備も行われています。(天王寺公園ホームページ*5などによる)
『近代大阪年表』*6などによれば、園内の施設のうち天王寺動物園が開園したのは大正4(1915)年のことで、廃止となった東区にあった府立大阪博物場動物檻(かん)から動物が譲渡されました。その後敷地を拡張し、昭和60年代からは動物の生態的展示を進め、平成18(2006)年にはアフリカサバンナゾーンが完成しました。(天王寺動物園ホームページ*7などによる)
『大阪春秋 88号 新世界』*8などによれば、慶沢園は庭師の植治(うえじ)こと小川治兵衛(じへえ)の手になる林泉式回遊庭園で、明治期の代表的名園のひとつとされています。また大阪市立美術館は『新修大阪市史 7巻』*9や『大阪市立美術館50年史』*10によると、大正9(1920)年に建設が議決されながら、種々の要因により完成を見たのは16年後の昭和11(1936)年でした。第二次世界大戦による軍や進駐軍の接収期間を挟み、昭和22(1947)年には市民に公開されました。
また大阪市立天王寺図書館が現在の地に移転したのは昭和60(1985)年ですが、その前身は、昭和27(1952)年に開催された婦人こども博覧会の講和記念館を、博覧会終了後寄贈されたもので、同年12月より昭和59(1984)年まで天王寺公園内にありました。(『大阪市立図書館50年史』*11による)
参考文献
*1 『天王寺区史』川端直正編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000244950
*2 『大正大阪風土記』大阪市教育部協働研究会編 大正大阪風土記刊行会 1926 書誌ID 0070051854
*3 『大阪人 44巻4号』大阪市都市工学情報センター 1990 書誌ID 5112133700
*4 『大阪春秋 95号 大阪の公園』大阪春秋社 1999 書誌ID 0000746464
*5 天王寺公園ホームページ
http://www.osakapark.osgf.or.jp/tennoji/
(2021年10月10日確認)
*6 『近代大阪年表』NHK大阪放送局編 日本放送出版協会 1983 書誌ID 0070001813
*7 天王寺動物園ホームページ
https://www.tennojizoo.jp/
(2021年10月10日確認)
*8 『大阪春秋 88号 新世界』大阪春秋社 1997 書誌ID 0000630827
*9『新修大阪市史 7巻』新修大阪市史編纂委員会編集 大阪市 書誌ID 0000400903
*10 『大阪市立美術館50年史』大阪市立美術館 1986 書誌ID 0080182978
*11『大阪市立図書館50年史』大阪市立中央図書館 1972 書誌ID 0000372730
天王寺区
まちづくり
質問
大阪でのラジオ放送開始の場所について
回答
1920年アメリカで世界初の本格的なラジオ放送が始まり、日本でも放送を行おうとする機運が高まりました。1924年逓信省が放送事業経営は公益社団法人に限り東京・名古屋・大阪の各都市に1局ずつ設置すると発表。1925年3月22日東京で仮放送が始まったのに続き、5月10日社団法人大阪放送局も仮放送を開始しました*1,*2。
本格的な放送局の設置は間に合わず、高麗橋の三越呉服店の屋上を、お客に放送現場を見学させるという条件で無料で借りての仮放送でした。仮設スタジオのガラス窓越しに覗く見物人があふれ、整理に警官まで出動する騒ぎだったそうです*2,*3。コールサインはJOBKで、BKの略称で親しまれました。
翌1926年、三都市の社団法人が解散し日本放送協会に統合、関西支部は大阪中央放送局と呼称を変更。同年12月1日、天王寺区上本町9丁目(現近鉄タクシー本社の敷地)に完成した放送施設より、本放送が開始されました。技術関係の鉄筋コンクリート二階建てと演奏関係の木造二階建ての二棟からなり、敷地が市電の線路に面していたので、遮音には特別の配慮がはらわれていました。スタジオは第一(82平方メートル)第二(40平方メートル)の二室で、第一スタジオは当時としては国内最大のものでした*2。
当館ホームページの「大阪の古地図・古文書」より「大阪市立図書館イメージ情報データベース」にて、キーワード“大阪中央放送局”で検索していただければ、当時の写真の絵葉書をご覧いただけます。『近代大阪年表』*6にも写真が載っています。
BKは東京に比べ、予算も出演者も少ない中で工夫をこらし、現在の視聴率調査の先駆けともいうべき聴取動向調査を行なったりして、独自の番組を企画していきました。1927年には甲子園球場から、全国中等学校優勝野球大会を報道しました。日本発のスポーツ実況中継でした*1,*4。
しかし教育番組をメインとした第二放送の開始など、番組の拡充に伴って設備・スタジオの不足が深刻となり、1936年東区(当時)馬場町に新局舎「大阪放送会館」が建設されました。同年12月12日からは放送はこちらから行われるようになりました。その後第二次大戦中、空襲に備えて予備の放送施設が設置されましたが、上本町9丁目の施設はその一つとして活用されたりもしたようです*2。
ちなみに当館蔵の『天王寺区詳細図 昭和22年』*5には、まだ上本町9丁目に「中央放送局上本町分室」なるものが載っています。桂米朝さんによると、上本町9丁目の建物は戦後貸しスタジオになっていて、1952(昭和27)年ごろここでレコード用の録音をされたとのこと*1。少なくともその頃にはもう放送局としての機能は、完全になくなっていたようです。
参考文献
*1 『こちらJOBK』NHK大阪放送局・七十年史編集委員会 日本放送協会大阪放送局 1995 書誌ID 0000513058
*2 『日本放送史 上』日本放送協会編 日本放送出版協会 1965 書誌ID 0000217070 p.112,p.328-329,p.457〜458
*3 『大阪春秋75号 おおさかの大正時代』「いまはむかしの物語-三越屋上よりNHKラジオの仮放送開始-」大阪春秋社 1994 書誌ID 0000400527 p.76〜80
*4 『大阪春秋 102号 おおさか昭和モダニズム』「JOBKと大阪文化」大阪春秋社 2001 書誌ID 0010036388 p4.7〜49
*5 『天王寺区詳細図 昭和22年』日本地図 1947 書誌ID 0010363982
*6 『近代大阪年表』NHK大阪放送局編 日本放送出版協会 1983 書誌ID 0070001813 p.122
天王寺区
産業および商業