大阪に関するよくある質問
質問
西淀川区の祭り「一夜官女祭」について
回答
西淀川区野里の住吉神社では、江戸時代から近郷に知られた一夜官女祭が毎年2月20日に行われています。大阪府指定文化財となっており、近世中頃までには始まっていたようで、明治40年までは旧暦1月20日におこなわれていました。一時上臈(いっときじょうろう)とも呼ばれ、人身御供の作法が神事として伝わったものといわれます。当矢といわれる当番の家に7人の少女と父母が集まり、親子別れの杯を交わした後、前日に調理した川魚など、神饌をいれた小判型の夏越(なごし)桶を神殿に運び、祭儀を行います。祭りのいわれとして、洪水への人身御供伝説と岩見重太郎がヒヒを退治した話とが結び付けられた社伝が伝わっています。この伝説は司馬遼太郎の小説『一夜官女』にもなっています。またヒヒを蛇とする説もあり、大蛇は大河を意味することがあるので、淀川沿いの水害の多い土地柄から、災害消除を祈願したのであろうと思われます。(『西淀川区史』*2。『野里誌』*3)『大阪春秋90』*1記載の2論文には神事の流れや神饌が写真付きで紹介されており、祭りの雰囲気を知ることができます。(『野里誌』*3) またこの神社には地車(だんじり)が保存されており、夏祭りに運行されます。
参考文献
*1『大阪春秋90』「一夜官女祭とその周辺」澤井浩一 「一夜官女祭」池永悦治 書誌ID 0000665283
*2『西淀川区史』大阪都市協会編集 西淀川区制70周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000531056 p451〜452
*3『野里誌』池永悦治編集 山治弥生会 1989 書誌ID 0070043763
西淀川区
神社仏閣
祭り
質問
西淀川区を襲った水害について知りたい。
回答
西淀川区は大阪湾に面し、狭い地域に、淀川、神崎川、左門殿川などの諸河川が貫流し、ほぼ海抜0mに近い地域です。そのため、水の恵みを受けてきた反面、水と苦闘してきた地域といえます。降雨や河川からの浸水以上に、高潮による海水の侵入、さらには、一旦冠水すると容易に水が引かない被害に苦しんできました。また、昭和以降は地盤沈下にも悩まされてきました。近世だけでも、淀川右岸が被害を被ったと思われる水害は4回を数えています。*1 淀川全体としてみると、奈良時代・推古天皇31(623)年〜明治42(1909)年の1278年間で244回の「大風洪水」「高潮津波」が記録されています。*2 この稿では、『西淀川区史』の記述を基に、近代に限って簡略にまとめました。大塚切れ(現在の高槻市大塚地区の堤防が決壊)大正6(1916)年9月末日から10月1日の豪雨により、三島郡大冠村(現在の高槻市)大塚の堤防が決壊し、三島郡の大半、東淀川区、淀川区、西淀川区一帯は泥海と化しました。水没から1ヶ月以上もたった11月5日、現在の国道43号上流約200mの地点で、やむなく「わざと切り」(淀川堤防を切開)して、停滞していた湛水を排水し、その結果、福村では、1ヶ月ぶりに、地面が姿を現しました。*3 住民の窮状を見かねて堤防切開の断を下したのは、当時の福小学校の校長だったと記録されています。*4 現在、この地点の堤防に「大塚切れ洪水碑」があります。*5 なお、高槻市大塚町3丁目の淀川堤防にも「洪水記念碑」があります。*6 室戸台風昭和9(1934)年9月21日の室戸台風では、大雨と高潮のため神崎川が氾濫し、中島、西島、布屋、大和田、佃地域が、大被害を受けました。*7また千船大橋も流失したため*8、その後の復旧活動に大きな不便をもたらしました。死亡・行方不明243人、重軽傷505人、全半壊流失516戸、床上浸水9317戸、香簑小学校が全壊し、野里小学校、大和田第一小学校、姫島小学校は半壊、また佃小学校、福小学校、川北小学校*9、柏里小学校は大破しました。外島保養院が壊滅したのもこの時でした。*10陸軍に加えて、呉鎮守府から駆逐艦まで出動しました。*11ジェーン台風昭和25(1950)年9月3日襲来のジェーン台風による高潮のため、当区内での全半壊流失8786戸、死者・行方不明58人を出し、出来島、中島、西島各町の水深は2m40cmに達し、排水には2週間以上を要しましたが、福小学校で、排水が完了し正常に戻ったのは、1ヶ月半後でした。*12皮肉なことに、補強工事中の堤防が決壊したといわれています。*13第2室戸台風昭和36(1961)年9月16日、神崎川が氾濫して、大和田、出来島、御幣島では家屋のほとんどが床上浸水の被害を受けました。罹災者は大和田小学校・西淀中学校等に避難しました。避難所になった大和田小学校では、27日から授業を再開しましたが、罹災者が全部退出したのは、11月17日であったといいます。*14 なお、昭和19年9月、および昭和20年9月にも、台風による高潮被害がありましたが、戦災により詳細な記録は滅失しているとのことです。*15
参考文献
*1『大阪の歴史27』(大阪市史編纂所1989) 書誌ID 5100000991「近世大阪災害年表」p.88〜96
*2『災害誌』西淀川区役所 西淀川防災協会 1951 書誌ID 0080229741 p.27
*3『西淀川区史』大阪都市協会編 西淀川区役所 1996 書誌ID 0000531056p.309〜310
*4『わたしたちの福町:福小』大阪市立福小学校創立100周年記念事業実行委員会 1999 書誌ID0000739026 p.65
*5「西淀川区ホームページ」「歴史を訪ねて(西淀川区) 区内の碑」
http://www.city.osaka.lg.jp/nishiyodogawa/page/0000001002.html
*6「高槻市ホームページ」「48.大塚切れと洪水記念碑」
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/kakuka/machi/bunkazai/gyomuannai/rekishikan/daionokuni/48.html
*7 前掲『西淀川区史』p.311〜312
*8『大阪市風水害概要』大阪市役所監査部 昭和9(1934)書誌ID0080194959 室戸台風についての詳細な報告。p.32に流失した千舟大橋の写真あり。
*9 前掲『大阪市風水害概要』p.74に川北小学校の惨状写真あり
*10「当館ホームページ」「■外島(そとじま)保養院が西淀川区にあったのはいつですか?またその場所はどこですか?」
https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=mul9vcxra-8993#_8993
*11 前掲『災害誌』p.133
*12 前掲『西淀川区史』p.312〜315
*13 前掲『わたしたちの福町:福小』p.66
*14 前掲『西淀川区史』p.316〜317
*15 前掲『災害誌』p.149〜162
西淀川区
地誌
自然
質問
大阪市西淀川区佃と東京佃島の関係について
回答
佃は海にちかい土地で古くから漁業がおこなわれていました。慶長年間徳川家康が摂津多田神社や住吉神社に参詣のおり、佃の漁民が神崎川の渡しに船を提供したり、白魚を献上したりしました。また大阪の陣で佃の漁民が家康を堺に渡したといわれ、家康の隠密となったとも伝えられています。そのため家康が幕府を開いたあと佃の漁民は全国どこでも漁ができる許可をあたえられました。そして佃の漁民は献魚の役として安藤対馬守の屋敷に居住し、毎年11月から3月まで江戸につとめることになりました。しかし毎年のことなのでその道中のわずらわしさから、江戸在住を願い出ました。その願いがかなえられ、江戸鉄砲洲の干潟100間四方(180×180平方メートル)の土地を与えられ大阪佃から17軒34人が移住し、その島を佃島と名づけました。これが現在の東京佃です。『竣工・開校130周年記念誌 佃』*1には児童にも読めるよう上記のようにわかりやすく書かれています。『西淀川区史』*2には、「佃について」(p42)「徳川家康と佃・大和田村」(p333)「佃漁民ゆかりの地」(p447-448)に詳しく記述があり、出典図書の記載もあります。『西成郡史』*3『大阪府の地名 1』*5『角川日本地名大辞典 27大阪府』*6にも同様の記述があります。『摂州西成郡佃村田蓑神社記録(大阪市史史料 65輯)』*4は西淀川区佃の田蓑神社の史料を翻刻したもので、冒頭に徳川家康との所縁や海川漁御免の特権の付与、佃島の移転などの由緒が記されています。
参考文献
*1『竣工・開校130周年記念誌 佃』大阪市立佃小学校竣工・開校130周年記念事業運営委員会 2003 書誌ID 0010651006
*2『西淀川区史』大阪都市協会編集 西淀川区制70周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000531056
*3『西成郡史』西成郡役所編 名著出版 1972 書誌ID 0000246505
*4『摂州西成郡佃村田蓑神社記録(大阪市史史料 65輯)』大阪市史料調査会 2004 書誌ID 0010870284
*5『大阪府の地名 1(日本歴史地名大系 28)』 1986 平凡社 書誌ID 0000156512
*6『角川日本地名大辞典 27大阪府』 1983 角川書店 書誌ID 0000184865
西淀川区
地誌
質問
大和田街道について
回答
『西淀川区史』*1によれば「大和田街道は明治41年12月に竣工した西成大橋が、大正15年淀川大橋の竣工に伴い撤去されるまでの街道名称で、当時の国道2号線であり、阪神間を直結する最重要路線であった。街道の起点は難波橋北詰(北区)で、西成大橋を渡り、新淀川右岸堤防道から姫島郵便局・遍満寺前を通り大島橋を渡る。ここから大和田に入り西折斜行して新千船橋から出来島に入り千北橋を渡る。そして佃を横断して左門殿(さもんど)川南堤に至り、辰巳橋から終点の大物(尼崎市)に達する経路であった」そうです。『大阪市の旧街道と坂道』*2では街道ルートが昭和59年現在の大阪市地形図(5000分の1)上に実線と点線をもって示され、また文章でもさらにくわしく起終点並びに経路と街道の変遷が説明されています。それによれば大和田街道は梅田街道とも大阪街道とも別称され、原型は『大日本帝国陸地測量部製作仮製地形図』*3に見える大阪道であると紹介されています。そして『大阪府誌 4編』*4に「梅田街道」の名称が表示され、また『西成郡史』*5には表示は「仮定県道梅田街道」とあり、それぞれ当時の経路の状況が記されています。また『大阪の街道と道標』*6では街道沿いのお寺や神社などに保存されている昔の道標が具体的な道筋とあわせて紹介されています。さらに『大和田郷土史会報11号』*7によると「平成7年から9年に掛けて、姫島1丁目の淀川堤防下から出来島1丁目千北橋南詰までの、要所要所に「大和田街道」の標石が立てられました」とのことです。最後に「ついでながら、国道2号線が敷設せられ、淀川大橋が架設竣工するまでは、大和田街道は尼崎に入り中国道街道に合流し、西宮を経て山陽道として下関に達する幹線道路であり、大和田街道沿いの西淀川区内の人は、それゆえにこの旧街道を一名、阪神街道とも呼んでいた」*2そうです。
参考文献
*1『西淀川区史』大阪市都市協会編 西淀川区制70周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000531056 p206,p442〜443
*2『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』旧街道等調査委員会編 大阪市土木技術協会 1987書誌ID 0000250661 p41〜48
*3 大阪市立図書館ホームページ「大阪の古地図・古文書」 http://www.oml.city.osaka.jp/cgi-bin/img_src/s_land_map.cgi
*4『大阪府誌 4編』大阪府編 思文閣 1940(明治36年刊の復刻) 書誌ID 0000172299 p1185
*5『西成郡史:全』西成郡役所編 名著出版 1972(大正4年刊の復刻) 書誌ID 0000246505 p611〜612
*6『大阪の街道と道標:改訂版』武藤善一郎 1999書誌ID 0000780641 p214〜216
*7『大和田郷土史会報 11号』大和田郷土史会 書誌ID 5100210729 p2〜10
『福島区史』 大阪市都市協会 福島区制50周年記念事業実行委員会 1993書誌ID 0070022168 p236〜237
『大阪春秋 80号 野田・福島』大阪春秋社 1995書誌ID 0000483706 p17〜18
『大阪の橋』 松村博 松籟社 1987書誌ID 0000164468
『歴史の散歩道 淀川・江口コース』大阪市建設局 1993書誌ID 000036174 p2〜3
『大阪の歴史 2002年12月号』大阪市史料調査会 書誌ID 5110454379 p123
西淀川区
地誌
質問
外島(そとじま)保養院が西淀川区にあったのはいつですか?またその場所はどこですか?
回答
外島保養院とは1909年4月1日「癩予防ニ関スル件」(明治40年法律第11号)に基づき設置されたハンセン病療養所で、現在の西淀川区中島2丁目付近にありました。入所者自治会がまとめた『風と海のなか』*1には、「外島保養院は1909年(明治42年)4月1日に、大阪府西成郡川北村外島に、第3区府県立のハンセン病療養所として開院された。・・・大阪府西成郡川北村外島は、この尼崎市と左門戸川一つを隔てたところにあり、西北は尼崎、西南は大阪湾、南東に神崎川や新淀川の流れを見る地点にあった。この辺りは神崎川が幾つにも分かれてデルタ地帯を作っているところで、大小いくつかの中洲が島をなしており、保養院のあった島は北に中島、南に布屋などの地区があったが、人口はごく少なく、大方は葦の生い茂る湿地帯で、いくらか開発された所には畑と牛の放牧地があった程度のところであった。」とあります。外島に療養所が建設されることになったのは、1907(明治40)年3月19日に帝国議会で法律第11号(「癩予防に関する件」といわれるもの)が議決され、これに基き「道府県ライ患者療養所設置区域」が内務省令第20号として、同年7月22日に発令され、「第3区として京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、三重県、岐阜県、滋賀県、福井県、石川県、富山県、鳥取県、和歌山県の区域におけるらい患者を入らしむる為療養所を設置すべし」と定められたためで、外島保養院が近畿二府十県の府県連合立の療養所として建設されることになり、工事が始まり、完成して開院するまでには約1年半かかりました。『風と海のなか』*1によると「外島保養院は2万坪の敷地のうち10分の4は官舎地帯、正門に続く事務本館、医官室、諸種の詰め所がたてられ、残りの半分を患者住宅地帯、残りの半分が農地とされた。官舎地帯と患者地帯とは厳重に区切られ、・・・・患者地域にはただ1か所、北西の隅に左門戸川堤防に上がる裏門があり、その外には外部へ出る道はなかった。裏門脇には守衛(1925年に廃止)がいて、いったん入院した患者はそうたやすくはこの門をでられはしなかった」とあります。そして、臨海部におかれていたため台風の高潮に弱かったこと、病気で体の不自由な人が少なくなかったことなどは、後のおおきな災害を生む原因のひとつもなりました。1925(大正14)年4月1日に大阪市が市域を拡大して、西成、東成郡を大阪市に編入したので、大阪市西淀川区が誕生し、外島も大阪市西淀川区外島町になりました。1934(昭和9)年9月21日近畿地方を襲った室戸台風によって、外島保養院は壊滅しました。この台風は大阪、兵庫、京都3府県で家屋の全半壊97,900戸、小学校中学校236校、死者291名、行方不明91名、負傷者12,197人の大きな被害をもたらしました。強風だけではなく、大雨が降り、大阪湾一帯には高潮が押し寄せ396,000戸が浸水、48,265戸が全壊または流失しました。外島保養院では建物は全壊流失し、患者173名、職員3名、及びその家族11名の犠牲者をだしました。その台風のすさまじさは『地面の底がぬけたんです』*2に藤本としさんの手記に書かれています。助かった患者たち416名は緊急措置として各地の6施設に分散委託して、暮らしながら、外島での復興を待ちましたが、地元の反対もあり、結局外島に再建されることはありませんでした。1938(昭和13)年4月に岡山県邑久郡の長島(現在の瀬戸内市)にあらたに「光明園」として生まれ変わることになり、患者たちはそこへ移って暮らすことになりました。なお外島保養院の跡地には、石碑が建てられています。
参考文献
*1『風と海のなか:邑久光明園入園者八十年の歩み』邑久光明園入園者自治会 1997書誌ID 0011569759
*2『地面の底がぬけたんです』 藤本とし著 思想の科学社 1979 書誌ID 0000173206
『ハンセン病問題に関する真相究明報告書』大阪市・大阪市ハンセン病問題検討委員会 2006書誌ID 0011157900
『大阪府ハンセン病実態調査報告書』大阪府 2004 書誌ID 0010874545
『部落問題研究』第173号抜き刷「ハンセン病療養所における患者自治の模索―第3区府県立量要所外島保養院の場合」松岡弘之『月刊ヒューマンライツ2001年9月/162号』 「外島保養院の記念碑」小山仁示 部落解放・人権研究所 2001書誌ID 5110164842
『ハンセン病療養所 隔離の90年』太田順一写真 全国ハンセン病療養所入所者協議会編 解放出版社 1999 書誌ID 0000777738
『近現代日本ハンセン病問題資料集成 補巻1 外島保養院年報 上巻』藤野豊編・解説 不二出版 2004 書誌ID 0010840413
『近現代日本ハンセン病問題資料集成 補巻2 外島保養院年報 下巻』藤野豊編・解説 不二出版 2004 書誌ID 0010840414
『大阪の歴史2009年1月号/72号』「戦前期ハンセン病療養所における作業制度と患者自治」松岡弘之著・「戦前・戦時期大阪におけるハンセン病者の処遇」廣川和花著 大阪市史料調査会 2009 書誌ID 5111802183
西淀川区
地誌
質問
大野川緑陰道路の計画、着工、完成はいつか。また、これが歩行者・自転車専用道路として整備されてきた経過も知りたい
回答
『大阪春秋90号 西淀川』*1は西淀川の特集を組んでおり、大野川緑陰道路についての記述は、1.三浦行雄執筆「西淀川の川と橋」、2.鈴木照世執筆「『矢倉海岸』の将来像」(以下、鈴木論文)に詳しくあります。 1では、p.16で、「大野川歩行者・自転車専用道路」という見出しの下に解説があり、「大野川はこれに流入する中島大水道とともに流量、流速を欠き水質の汚濁をさけられず、塵芥の投棄などにより衛生上も許しがたく、「死の川」と呼ばれたりもした。もはや存置の理由もなく、区民の要望も強く、昭和30年ころから埋立てに着手され、昭和47年、その一部が、昭和54年には全川にわたって、遊歩道としての完成をみた。」となっています。2ではp.85で、「大野川緑地推進運動」について次のように書かれています。「大野川は中島大水道(埋立て)と淀川を結ぶ延長2393メートルの川だった。戦前までは舟運水路として機能していたが、国道43号線の建設で下流部が遮断されると流水量が減少して水質が悪化、悪臭とごみの川になっていた。大阪市は1968年(昭和43年)3月大野川を埋立てて高速道路を建設する計画を発表、それを知った住民らが、1969年(昭和44年)の暮れに「公害の町である西淀川に大型車道はもう要らない。ほしいのは緑。埋立て跡は全面緑地帯に」と大野川緑地化推進委員会を結成、付近の工場経営者や府営住宅、小中学校の教師などが加わり、2万1000名の署名を集めて反対運動を起こした。このころ西淀川の大気汚染は深刻な状況にあり、公害反対運動の動きも受けて、2年間におよぶ市との激しい交渉の末、大阪市はマスタープランから高速道路計画を削除、大野川は埋立てた後、歩行者、自動車専用の道路を建設し、公園的な施設も加味した緑地帯にすることになったのである。10年後の1979年(昭和54年)8月、JR東海道線から淀川河口近くまで、全長2.8キロメートルの大野川緑陰道路が完成した」となっています。また、『西淀川区まちづくりレポート』*2ではp69〜71にかけて、緑陰道路の概況、現況の施設周辺地域との関係にまとめられていますが、その中で「江戸時代に淀川と神崎川に囲まれた北中島一帯(現在の東淀川、淀川、西淀川区)に滞留する悪水を直接海に導くために長大な排水路が開削された。これは中島大水道と呼ばれ、明治中期ごろから資材や石炭運搬船の水路としても利用されるようになり、明治末期には大野川とよばれるようになった。その後、明治から昭和初期にかけて急速に工業化が進み、もともと水の流量の少ないうえ高低差がほとんどなく、常に水がよどむ状態であった大野川は工場からの廃棄物の捨て場となり悪臭のたちこめる汚物処理の場と化していた。汚染対策として、河川を埋め立て、その跡地を利用した緑化道路の建設が提案され、緑陰道路として復活した。事業・管理主体は大阪市であり、昭和46〜昭和54年にかけて整備が行われた。平成7年に国道43号のアンダーパスが完成し、全線が開通した。」との記述があります。以上のごとく、着手部分については未解明な点も見受けられますが、完成時点は昭和57年で一致しています。これ以外に、『西淀川今昔写真集』*3では p51大野川(昭和14年)p71戦後汚濁が進行した大野川p72悪水路と化した大野川(昭和45年)p72大野川埋立工事 p73埋立後の大野川 p73一般共用開始された大野川緑陰道路(昭和47年) といった写真が掲載されており、経過を調べるときの参考になるものと思われます。
参考文献
*1 『大阪春秋90号 西淀川』 大阪春秋社 1998 書誌ID 0000665283
*2 『西淀川区まちづくりレポート』 都市設計総合研究所編 大阪市西淀川区役所企画総務課 2001書誌ID 0010375470
*3 『淀川今昔写真集』 西淀川区制70周年記念事業実行委員会 1995 書誌ID 0000486699
西淀川区
地誌
自然
質問
判官松(ほうがんまつ)跡について知りたい
回答
大和田住吉神社境内に、大和田青年団が昭和16(1941)年に建立した「判官松(ほうがんまつ)之跡」の石碑があります。この碑文の大意は以下の通りです。「元暦2(1185)年、源義経は平家追討の軍を率いて船出するが、暴風雨にあい漂流、大和田浦に着岸。そこで、当村の住吉大明神に海上安全を祈願し、松を記念樹として植えたので、里人はこれを判官松と呼んだ。以後700年、樹容壮麗となり北摂の名勝として知られるだけでなく、淀川尻の示標として舟人の親しむところとなったが、惜しいことに明治10(1877)年消失した。」*1この松は義経の腰掛松とも呼ばれ、『摂津名所図会』には、「大和田にあり。九郎判官義経大物浦赴きたまふ時ここに憩いたまふとなん。大坂より尼崎へ往きかふ船より鮮やかに見ゆるなり」と記載されています。*2 また、『西成郡史』も「腰掛松」が明治10(1877)年ごろまであった事を記載しています。*3 別の伝承では、元暦1(1184)年、義経が陸路を西に向かう折、当地で庄屋治郎左衛門の歓待を受けましたが、治郎左衛門は三宝に松苗をのせ、当地名産の鮒を昆布で巻いて差し出しました。義経は気に入り、治郎左衛門に鮒子多(ふじた)の姓を与え、松苗をそこに植えました。*4 さらに別の伝承では、鮒の形が崩れぬように松の小枝をさして出したのを、義経が食後突きさし、判官松に成育したとの説もあります。*4 なお、大野下水処理場の一角にも、大阪市が昭和63(1988)年に建立した石碑があります。*5
参考文献
*1 『西淀川区史』大阪都市協会・編集 西淀川区制七十周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000531056
*2 『摂津名所図会大成 其之2』暁 鐘成・著 松川 半山・画 柳原書店 1976 書誌ID 0000157048
*3 『西成郡史』西成郡役所・編 名著出版 1972 書誌ID 0000246505
*4 『大阪伝承地誌集成』三善貞司・編著 清文堂出版 2008 書誌ID 0011661445
*5 大阪市西淀川区ホームページ「西淀川区の名所」 http://www.city.osaka.lg.jp/nishiyodogawa/page/0000001002.html#4 (2013年3月25日確認)
西淀川区
遺跡および碑文
質問
西淀川公害訴訟についての概略を知りたい
回答
西淀川地域では、明治以降、紡織産業を中心に食品・化学などの工場が相次いで建設され、不可分の関係にある公害も発生し、住民から苦情も出ていました。 早くも、1978(明治10)年5月に、これらに対応するため、大阪府は「鋼折・鍛冶・湯屋三業種取締ニ件」を布達しています。*1 さらに、戦後高度経済成長期以降は、発電所、大工場、幹線道路がさらに集中し、大気汚染が激甚化し、環境基準を大幅に超える状況が続くようになりました。 それに伴い、気管支喘息、慢性気管支炎等に苦しむ患者が多発し、1970(昭和45)年に「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」による認定が始まると、1978(昭和53)年3月末現在の西淀川区内者数は、5600名を超えるまでになりました。*2 この認定患者とその家族で組織された「西淀川公害患者と家族の会」を母体とする原告(726名)が、発電所や工場を持つ関西電力、住友金属、大阪ガスなどの企業10社と、国道や高速道路を管理する国・阪神高速道路公団を相手に、損害賠償と汚染物質の排出差止めを求めて、1978(昭和53)年4月以降に提訴した一連の裁判を西淀川公害訴訟といいます。その結果、1991(平成3)年3月の一次訴訟判決で、被告企業10社の共同責任を認め、さらに、1995(平成7)年7月には、初めて自動車による排ガスの健康影響と国の責任を認めた二〜四次訴訟判決が下りました。 この判決に基づき、1995(平成7)年3月に被告企業10社と和解、さらに、1998(平成10)年7月には、国・阪神高速道路公団と和解し全面解決に至りました。*3 企業との和解金の一部は、公害により破壊された地域再生のために「財団法人公害地域再生センター(あおぞら財団)」設立基金とされました。また、国・公団との和解に当たっては、原告は損害賠償金を放棄し、代わりに、道路沿線の環境改善や「西淀川地区沿道に関する連絡会」設置などを勝ち取りました。*4
参考文献
*1『西淀川区史』大阪都市協会編 西淀川区制七十周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000531056
*2 『公害・環境問題史を学ぶ人のために』 小田康徳編 世界思想社 2008 書誌ID 0011718926
*3 『青い空の記憶』 新島洋著 教育史料出版会 2000 書誌ID 0000818599
*4 『あおぞら財団ホームページ』 http://www.aozora.or.jp/ (2013年3月25日確認)
西淀川区
産業および商業