高津入堀川(いりぼりがわ)については『[大阪市]土木部所管事業概要 昭和11年版』133ページに、左岸は二ツ井戸町から難波新川、右岸は高津町から鼬川(いたちがわ)合流点まで、川の長さが2730メートル、川幅の平均は10メートル、干潮時の水深は1.4メートルと記されています。
『南区史 続』331および348ページには、享保19(1734)年に開削され、明治31年、難波新川や鼬川と一本の川につながった高津入堀川は、市電の発達とともに舟運はすたれ、戦後は、戦災による焼土の捨て場となり、船出橋-南日東間が昭和32年から33年にかけて、南日東から堀切橋間が昭和33年から39年にかけて、堀切橋から道頓堀川合流点が昭和33年から37年にかけて埋め立てられた、とあります。
高津入堀川の戦前の様子は、『でんきのまち大阪日本橋物語』84ページに「高津入堀川の川沿いの一部には、川の両側に貯木業者が並んでいた。いわゆる木場である。そこには多くの筏が組まれていて、半纏姿の職人がたち働く姿を見ることができた。そこも子どもたちが筏遊びに興ずるには絶好の場所であった。戦前は高津入堀川の水も澄み、昭和15、6年頃までは魚釣りができたし、夏の暮れなどは近所の人びとが縁台を出して夕涼みをとった」とあります。
昭和13年版の職業別電話帳より材木商、製材業の項目を見ると、南区の高津、御蔵跡、天王寺区の下寺、北日東、南日東、浪速区の恵比寿など(区と町名はいずれも昭和13年当時)、高津入堀川の川沿いの地に複数の材木屋が存在していたことが確認できます。(2018.12.1 島之内図書館)
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