昭和19(1944)年6月30日、国民学校初等科3年以上6年生までの学童を「縁故を中心とするが、それによれないものは集団疎開」させるという学童疎開促進要綱が決定されました。大阪市では、昭和19(1944)年7月時点で22万3600人が対象となり、縁故疎開53.4%、集団疎開29.5%、残留児童17.1%でした。西淀川区では昭和19(1944)年には、のべ4341人の児童が、四国の徳島県、香川県、大阪府三島郡に集団疎開しています。『大阪の学童疎開』には西淀川区の疎開先名称や児童数なども記載されています。西淀川区から学童疎開した人の思い出に、「空腹の思い出が先に立つ」「落ちていたみかんの皮を食べた」「部屋に保管してある高野豆腐や干いもを盗んで、ふとんの中でそのままかじったことも」など空腹でつらかったという記述があります。大阪空襲は昭和19(1944)年12月19日の現平野区への最初の爆撃から終戦前日の昭和20(1945)年8月14日までに約50回ありました。
死者・行方不明1万4800人、被災家屋約34万4000戸にのぼり市中は一面の廃墟と化しました。西淀川区は、昭和20(1945)年3月と6月に空襲を受けて、区内中央部から東部を中心に焼失しました。(2016.12.23 西淀川図書館)
|