思い出のこし
タイトル
曽根崎小学校とその界隈
投稿者
昭和20(1945)年生まれ
いつ頃
昭和27(1952)-40(1965)年頃
思い出
曽根崎小学校があったところは、現在はマンションに生まれ代わっています。阪急百貨店前、曽根崎警察署裏にありました。自宅が学校まで歩いて5分の距離でした。6年間通い、健康優良校に選ばれセレモニーがあったのがいい思い出です。曽根崎公設市場も近くにあり、夏休みのラジオ体操の場所でしたが、今は公設市場もなくなり、空地となり草が茂っています。
昭和45(1970)年の大阪万博に向け新御堂の自動車道路が完成し、近辺の住宅事情は大きく変わりました。小学校がなくなり住宅が減り、大阪中央病院も曽根崎から梅田2丁目へ移動し住みづらい街に変わりました。
今も残っているのはお初天神(露天神社)ぐらいで、小学校時代の面影がなくなりさびしい気持ちです。
場所
曽根崎小学校があった場所
補足・追加情報
曽根崎小学校は、明治7(1874)年、西成郡曽根崎村(現在の大阪駅前第二ビルのあたり)に創設され、明治43(1910)年にこの思い出の地である北区北野小松原町(当時)に移転しました。都心という環境下において保健学習・健康教育の充実に力を注ぎ、昭和32(1957)年には「健康優良特選校」、昭和36(1961)年には「健康優良学校・日本一」の表彰を受けました。芥川賞作家の宮本輝は昭和28(1953)年度の新入生で、エッセイ集『二十歳の火影』のなかで、市内でも有数のマンモス校だった当時の様子を記述しています。曽根崎小学校のすぐ西側には、新御堂筋線高架橋が昭和44(1969)年に完成し、府下の北部地域と大阪市の都心部を結ぶ自動車交通の大動脈としての機能を果たしています。一方、高度経済成長期のドーナツ化現象により都心の人口が減少し、北区では学校の統廃合が進められました。曽根崎小学校は昭和61(1986)年に堂島小学校を統合、平成元(1989)年3月には梅田東小学校とともに閉校となり、曽根崎小学校の校地で大阪北小学校として再出発しました。その大阪北小学校も平成19(2007)年に扇町小学校に統合され、跡地には令和4(2022)年に店舗・ホテル・マンション等から成る超高層複合タワー「梅田ガーデン」が建設されています。建物低層階のデザインには大阪北小学校の意匠が取り入れられており、学校にあった石造物が2階の庭に置かれ、大阪北小学校の歴史を伝える案内板が設置されているなど、地域の歴史を伝えているそうです。
曽根崎公設市場は大正14(1925)年に曽根崎小学校の南側の曽根崎中1丁目(当時)に開設されました。戦後もいち早く復興し、昭和34(1959)年には4階建てに増築、地域の家庭や飲食店に利用されました。その後、大型スーパー等の登場により閉鎖される市場が増加し、平成15(2003)までに市内の公設市場はすべて民営化され、「曽根崎市場」となりました。住宅地図を確認すると、平成25(2013)年を最後に地図の当該場所から「曽根崎市場」が消え、以降空地となっています。
大阪中央病院は昭和19(1944)年に保険診療の普及を図ること等を目的として曽根崎2丁目に設立されましたが、老朽化に伴い平成12(2000)年に梅田3丁目に移転、令和5(2023)年刊の住宅地図によれば、跡地には超高層ホテルが建てられています。
(2023年11月28日 北図書館)
参考文献
『消えたわが母校 -なにわの学校物語-』
赤塚 康雄/著 柘植書房 1995 書誌ID 0000450881 p.112-115
『二十歳の火影』
(講談社文庫)宮本 輝/著 1983 書誌ID 0000240234 p.18-21
『曽根崎 - 創立百周年記念誌-』
大阪市立曽根崎小学校/編 大阪市立曽根崎小学校創立百周年記念行事委員会 1974 書誌ID 0080191683
『曾根崎 -閉校記念誌-』
大阪市立曾根崎小学校閉校記念事業委員会 1989 書誌ID 0000200386
大阪市ホームページ 新御堂筋線高架橋
https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000029643.html
(2023年11月28日確認)
『北区史』
大阪都市協会/編集 北区制一〇〇周年記念事業実行委員会 1980 書誌ID 0070059801 p.415
住友不動産ホームページ ニュースリリース 「超高層複合タワー『梅田ガーデン』2022年3月竣工へ(2021年2月8日)」
https://www.sumitomo-rd.co.jp/news/
(2023年11月28日確認)
高層ビル・都市開発・建設情報サイトURBAN NOTES 2022年3月に竣工した梅田ガーデン
https://urban-notes.net/umeda_garden_202209/
(2023年11月28日確認)
『大阪市公設市場70年史』
大阪市公設市場70年史編纂委員会/編集 大阪市公設市場連合会 1989 書誌ID 0000246488 p.274-275
『公設市場のあらまし』
大阪市経済局小売市場課/編 大阪市経済局小売市場課 1985 書誌ID 0080191640 p.14-15
『毎日新聞 2010年6月30日』24頁「ものの始まり・なんでもなにわ:/37 大阪市公設市場」(商用データベース「毎索-毎日新聞社のデータベース-」でご覧いただけます。)
『ゼンリン住宅地図大阪市北区 [2013]』
ゼンリン 2013 書誌ID 0012818410 p.21
『毎日新聞 2000年6月4日』13頁「健保連・大阪中央病院が新築移転、あす開院 正岡昭院長に聞く」(商用データベース「毎索-毎日新聞社のデータベース-」でご覧いただけます。)
『ゼンリン住宅地図大阪市北区 [2023]』
ゼンリン 2023 書誌ID 0015419320 p.21
受付日
2023年8月8日
利用条件
オープンデータとして、
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における
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・北区
昭和30年-40年代(1955-1974)
道路
タイトル
曽根崎お初天神通りでのバイト
投稿者
平成11(1999)年生まれ
いつ頃
平成29(2017)~31(2019)年
思い出
18才から2年ほど、曽根崎のお初天神通りにある居酒屋でバイトをしていました。両親ともにお酒を飲まず、周りにお酒の無い生活を送ってきたので、そこで初めてお酒の世界に触れた思い出があります。梅田ということもあり色々な「大人」を見ました。お金持ちの社長・プロ野球選手・キャバクラ嬢。18才の自分にとっては刺激的で世界が広がった気がしました。
場所
曽根崎お初天神通り商店街
補足・追加情報
曽根崎お初天神通り商店街のホームページによると、終戦後直後から、「曽根崎心中」ゆかりの露天神社(お初天神)の境内に飲食店が集まり始め、30店舗ほどのお初天神食道街として栄えたことが商店街の始まりです。お初天神から扇町通りまで続き、現在も100店舗以上のお店があり昼夜を問わず賑わっています。食堂街として誕生した経緯もあり、現在も飲食店舗が中心の商店街です。大阪でも中心といえる梅田に隣接するエリアにあり、様々な業界の人々の人気を集めています。
少し前の数値になりますが、平成26(2014)年経済センサス基礎調査(産業(小分類)別民営事業所数及び従業者数)によると、大阪市北区の「酒場、ビヤホール」の事業所数は1,078、従業者数は9,442人となっており大阪市24区で最も多く、また、令和4(2022)年度大阪市統計書(衛生関係施設数)によれば、北区の飲食店数は19,050と中央区に次いで多く、大阪市全体の2割以上を占めるなど、統計から見ても北区には数多くの居酒屋があることがわかります。
(2023年11月7日 北図書館)
参考文献
曽根崎お初天神通り商店街ホームページ
https://www.ohatendori.com/
(2023年11月7日確認)
大阪府商店街魅力発見サイトええやん!大阪商店街
https://osaka-shotengai-info.com/ss/sonezakiohatsutenjindori/
(2023年11月7日確認)
政府統計の総合窓口(e-Stat)ホームページ 平成26年経済センサス基礎調査
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&toukei=00200552&tstat=000001072573
(2023年11月7日確認)
大阪市ホームページ 令和4年大阪市統計書
https://www.city.osaka.lg.jp/toshikeikaku/page/0000602255.html
(2023年11月7日確認)
『露天神社 お初天神通り商店街』
曽根崎お初天神通り商店街会 [201-] 書誌ID 0013238564
受付日
2022年8月23日
利用条件
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・北区
平成(1989-2019)
タイトル
扇町公園とプール
投稿者
いつ頃
昭和10(1935)年から昭和20(1945)年頃
思い出
扇町公園で、私は大きな国際プール前で入泳するのに2時間以上も並んだこともある。太陽が一ぱいで水はあまり良くなかった。水の入替が少なかったのではないかと思う。
歴史をたどると四度変わっている。プールは堀川監獄所の焼却場の跡だった。大正十二年に公園に変り獄舎は堺市に移転したとのこと。堀川監獄所の前は、岡山藩備前屋敷の一角、その前は葦の原を開墾したところ。
場所
扇町公園、プール
補足・追加情報
扇町公園は、大正12(1923)年12月に堀川監獄跡地に開設されました。昭和25(1950)年8月には、国際的な水泳大会が開催可能な大阪プールが公園内に建設され、平成9(1997)年の「なみはや国体」に向けて港区の八幡屋公園に移転するまで、ここで多くの国際大会が開催されました。
堀川監獄は明治15(1882)年12月に設置されています。明治23(1890)年には大阪府監獄署と改称され、やがて市街が発展するにつれ、広大な監獄があるのは風致上好ましくないという声が高まって、大正9(1920)年、大阪府監獄署は堺市田出井町(たでいちょう)に移転、跡地は大阪市に払い下げられ、大正12(1923)年に扇町公園となりました。
堀川監獄があった場所には、江戸時代前期に備前岡山藩の天満屋敷が建てられていました。天満堀川に沿って屋敷があり、邸内には堀や藪、庭園があったことが『大阪の研究 第2巻』に書かれています。
その地が葦の原を開墾した場所であることが分かる資料は、残念ながら見つけられませんでした。
(2022年12月23日 北図書館)
参考文献
『北区史』
大阪都市協会/編集 北区制一〇〇周年記念事業実行委員会 1980 書誌ID 0070059801 p.141-142、189、465
『北区誌』
大阪市北区役所 1955 書誌ID 0000244948 p.142-144、481-482
『大阪春秋 通巻95号 おおさかの公園』
大阪春秋社 1999 書誌ID 0000746464 p.88
『大阪の研究 第2巻』
宮本又次/編 清文堂出版 1968 書誌ID 0000244965 p.102
受付日
2019年10月16日
利用条件
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・北区
昭和20年代まで(1926-1954)
公園
タイトル
昆虫の宝庫だった扇町公園
投稿者
いつ頃
昭和10(1935)年から20(1945)年頃
思い出
当時の公園は、昆虫の宝庫で生気があった。子供達が手にとりもち竿や手網を持ってトンボとりやチョウ、カミキリ虫、池内のゲンゴロウ、タガメ、おたまじゃくし、メダカなどを取っていたもので、今の風景とはくらべるべきところ何一つなく、すべて消えてしまった。当時公園内には、人工池があり噴水もあった。池の周辺には芝がいっぱい敷きつめられて緑一色であり、きれいなところであった。中央の池には、水蓮の葉がいっぱい浮んでいてあめんぼうや虫などが多く夏には水蓮の赤い花が咲きその上へトンボの群がむらがっていてトンボとりに大変だった。私もその一人だ。当時大通りでは市電がとおっていた。市電が走ったあとには2mぐらいのダンゴ状の数十匹のトンボの群がいくつもあり、取り網をもって走っただけで2~3匹をとることができたぐらいだった。トンボばかりではなくすずめ蜂、くま蜂なども飛んでいた。
場所
扇町公園
補足・追加情報
扇町公園は、大正12(1923)年12月に開設されました。当時、都市計画の一環として市民生活に必要な緑地公園の整備が求められる機運が生まれる中、建設されたもので、近くの小学生の思い出として、「扇町公園ではとんぼつりやたこあげを楽しむ子供も多かった」と『消えたわが母校 続』には書かれており、当時は自然豊かな公園であった様子がうかがえます。
扇町公園東側の大通り、天神橋筋を通る市電は、大正4(1915)年に開通しましたが、その後大阪市の道路交通事情は大きく変わりました。天神橋筋を通る市電は、地下鉄6号線(現在のOsaka Metro堺筋線)の工事も始まり、昭和41(1966)年4月1日に廃止され、昭和44(1969)年に、市電は全廃されました。
(2022年12月21日 北図書館)
参考文献
『北区史』
大阪都市協会編 北区制一〇〇周年記念事業実行委員会 書誌ID 0070059801 1980 p.465
『消えたわが母校 -なにわの学校物語- 続』
赤塚康雄/著 柘植書房新社 2000 書誌ID 0000819604 p.37
『大阪春秋 通巻95号 おおさかの公園』
大阪春秋社 1999 書誌ID 0000746464 p.15-16
『なにわの市電』
小林庄三/著 トンボ出版 2013 書誌ID 0012669304 p.10, 11
『市電 –市民とともに65年-』
大阪市交通局 1969 書誌ID 0000337226 p.100
受付日
2019年10月16日
利用条件
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・北区
昭和20年代まで(1926-1954)
鉄道
公園
タイトル
大阪府立中之島図書館
投稿者
昭和41(1966)年生まれ
いつ頃
平成13(2001)年ごろの夏
思い出
娘がまだ小学二年生の頃だった。大阪駅近辺ですぐに終わるつもりでいた用件が3時間待ちになった。どうやって時間をつぶすかの候補に図書館行きを提案した。娘は目を輝やかせ、異空間に遊ぶように、図書館での時間を楽しんだ。本に魅力を感じる娘をうれしく感じた。
場所
大阪府立中之島図書館
補足・追加情報
大阪府立中之島図書館の歴史は古く、明治37(1904)年に大阪図書館として開館し、明治39(1906)年に大阪府立図書館と改称、昭和49(1974)年に大阪府立中之島図書館と改称しました。平成8(1996)年、東大阪市に大阪府立中央図書館が開館し、大阪府立中之島図書館は大阪資料・近世和漢書資料を中心にリニューアルオープンしました。
北区中之島エリアには、公共図書館とは別に、令和2(2020)年7月に「こども本の森 中之島」(設計・寄附/安藤忠雄建築研究所 指定管理者/TRC&長谷工meet BACH)もオープンし、子どもたちが多くの本と出会う場となっています。 (
2022年12月22日 北図書館)
参考文献
大阪府立中之島図書館ホームページ 中之島図書館の歴史
https://www.library.pref.osaka.jp/site/nakato/history.html
(2022年12月22日確認)
こども本の森 中之島ホームページ こども本の森 中之島とは
https://kodomohonnomori.osaka/about/
(2022年12月22日確認)
受付日
2022年2月12日
利用条件
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・北区
平成(1989-2019)
図書館
タイトル
桜宮公会堂と図書館
投稿者
昭和35(1960)年生まれ
いつ頃
1970年初頭
思い出
小学校5、6年生のとき、大阪少年少女合唱団に入っていて、練習が桜宮公会堂であった。お昼休みにその建物の中か敷地内に図書館があり、絵本を立ち読みした。あとから思いかえすと『ねむりひめ』(福音館書店 / ホーフマン)だったようです。お気に入りでした。
場所
桜宮公会堂あたり。大人になってからそれが大阪市立図書館の分館と知りました。
補足・追加情報
大阪市立図書館100周年・中央図書館60周年記念「図書館にまつわる思い出のこし」でお寄せいただいた思い出です。
桜宮公会堂は、昭和10(1935)年に泉布観(せんぷかん)の苑内に建設された明治天皇記念館を、昭和23(1948)年改称したものです。
戦火で建物を焼失した大阪市立図書館は、精華国民学校(当時の南区)の空き教室を借りて、昭和21(1946)年に「大阪市立育英図書館」を開館しました。昭和25(1950)年、精華小学校(国民学校より改称)の児童数が増え、桜宮公会堂の2階へと移転し、「大阪市立図書館」と改称しました。昭和27(1952)年本館(天王寺図書館旧館)の開館時には分館となり、昭和36(1961)年の中央図書館(旧館)開館時に「桜宮図書館」と改称しました。その後、近地に都島図書館が開館し老朽化も進んだため、昭和55(1980)年に桜宮図書館は廃館となりました。
その後、桜宮公会堂は昭和59(1984)年から平成19(2007)年まで児童生徒の絵画作品等を展示する「市立ユースアートギャラリー」として活用されました。平成24(2012)年から民間運営で内部をリノベーションし、現在は結婚式場兼レストランとして再出発しています。
スイスの絵本作家フェリクス・ホフマンの『ねむりひめ』は、昭和38(1963)年に福音館書店から発行されました。海外の昔話絵本として評価が高く、現在も大阪市の多くの図書館で所蔵しています。『今、この本を子どもの手に』では、「繊細な線に、地味な色使いで、この話のもつ劇的な、品格のある雰囲気を的確に表現している。古典的な味わいのある作品」と紹介されています。
(2022年8月17日 北図書館)
参考文献
『北区誌』
大阪市北区役所 1955 書誌ID 0000244948 p.548-549
『大阪市立図書館100年史』
大阪市立中央図書館 2021 書誌ID 0015122318 p.11, 13, 21, 90 (大阪市立図書館ホームページ
「大阪市立図書館100周年 中央図書館60周年」
よりご覧いただけます)
大阪市立図書館ホームページ「図書館のあゆみ(戦中・戦後復興期)」
https://www.oml.city.osaka.lg.jp/?page_id=424
大阪観光局ホームページ 旧桜宮公会堂
https://osaka-info.jp/spot/kyu-sakuranomiya-kokaido-hall/
(2022年8月19日確認)
『ねむりひめ -グリム童話-』グ
リム兄弟/原作 フェリクス・ホフマン/え せたていじ/やく 福音館書店1963 書誌ID 0000226269
『今、この本を子どもの手に』
東京子ども図書館 2015 書誌ID 0013420527 p.39
受付日
2022年1月19日
利用条件
オープンデータとして、
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・北区
昭和30年-40年代(1955-1974)
図書館
タイトル
阪急三番街 水のサーカス
投稿者
昭和47(1972)年生まれ
いつ頃
1980年代
思い出
小学生の頃、阪急三番街がオープンするというので祖父に連れられて行きました。当時田舎に住んでいたので地下街に川が流れていてびっくり。こないだ無くなりましたが、水のサーカスは子供も大好きでした。泉の広場の噴水や、カッパ横丁のカッパの噴水も無くなってさびしいですね。
場所
阪急三番街 泉の広場 かっぱ横丁
補足・追加情報
阪急三番街は、阪急電鉄の梅田駅新ターミナル建設と梅田再開発の一環として、昭和44(1969)年にオープンしました。『75年のあゆみ 記述編』によると、アメリカの郊外地区にあるショッピングセンターには大抵美しい広場があることを参考とし、「青空、光、草木が不可能となれば、残る自然は「水」だけである。川をつくり、水を流し、池をつくって、噴水もつくる…。昔から“水の都”といわれた大阪の地である。大阪人はことのほか川に限りない郷愁を抱いている。これを名物にして、お客様を地下2階に呼び込もう」という計画でした。特徴的な噴水の環境アート作品、水のサーカス「アクアマジック」は、平成2(1990)年5月から平成29(2017)年6月4日まで、北館地下2階に設置されていました。
泉の広場は、昭和45(1970)年、ホワイティうめだの前身、ウメダ地下センターに開業しました。初代の噴水は約50平方メートルと巨大で七色の光をあて、天井には大シャンデリアがありました。昭和56(1981)年に改築された2代目は多段式の落水方式、平成14年(2002)年登場の3代目はイタリア・ミラノ市の彫刻家がデザインした大理石製でした。『朝日新聞2019年4月11日夕刊 大阪』では、「「大阪・梅田」の地下街は、(中略)ターミナルの構造の複雑さから、ロールプレイングゲーム(RPG)で地下迷宮を表す「ダンジョン」という異名を持つ。中でも、泉の広場の噴水はその神秘的な雰囲気が、RPGでゲームの進行状況を記録できる場所を意味する「セーブポイント」に似ていると言われ、インターネット上で「セーブポイント」と称されてきた。」と紹介されています。令和元(2019)年5月に惜しまれつつ撤去されました。
阪急かっぱ横丁は、昭和50(1975)年に古書のまちと共に開業しました。阪急電鉄ホームページ内のブログには平成30(2018)年の噴水の写真があり、阪急かっぱ横丁公式マスコットキャラクター「かっぺい&ぱっぴぃ」が水を浴びている噴水であったことがわかります。その後の令和元(2019)年12月に阪急かっぱ横丁はリニューアルされています。
(2022年8月11日 北図書館)
参考文献
『75年のあゆみ 記述編』
阪急電鉄 1982 書誌ID 0080091225 p.154, 159, 258
阪急電鉄公式Twitter 水のサーカス「アクアマジック」展示終了のお知らせ 2017年5月19日
https://twitter.com/hankyu_ex/status/865507458453655552
(2022年8月11日確認)
『大阪地下街三十年史』
大阪地下街 1986 書誌ID 0000307102 p.15, 68, 116-117
『50周年を迎えて-大阪地下街株式会社50年史-』
大阪地下街 2006 書誌ID 0011346978 p.30-31, 59
『朝日新聞2019年4月11日夕刊 大阪』6面「泉の広場、滴る思い出」(商用データベース「朝日新聞クロスサーチ」でご覧いただけます)
阪急電鉄ホームページ 2018年度バーチャル駅長らんちゃんの「今日はどこに行こうかな☆」2018年4月5日「かっぱ横丁から、X Y Z・・・」
https://www.hankyu.co.jp/ekiblo/ranchan/26920/
(2022年8月11日確認)
株式会社フジヤホームページ 阪急かっぱ横丁リニューアルプロジェクト
https://www.fujiya-net.co.jp/works/entertainment/20191205
(2023年3月28日確認)
受付日
2022年1月18日
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・北区
昭和50年-60年代(1975-1989)
タイトル
宮脇書店大阪店
投稿者
昭和58(1983)年生まれ
いつ頃
平成7(1995)年ごろから閉店まで
思い出
都島橋を渡ってすぐのところにあった宮脇書店にしょっちゅう行っていた。
場所
樋之口町 都島橋 宮脇書店大阪店
補足・追加情報
当館所蔵のゼンリン住宅地図では、平成6(1994)年から平成23(2011)年発行のものに、都島通の樋之口町交差点東南側に「宮脇書店大阪店 成城(株)」が確認できます。近隣に住む職員によれば、入口にエスカレーターのある大型書店でした。現在はスーパーマーケットになっています。
都島橋は、旧淀川の大川に架かる、橋長が145.0メートル幅員が26.0メートルの橋で、北区と都島区をつないでいます。『大阪の橋』によると、大阪市電の第四期線の一つとして計画された梅田善源寺町線のうち梅田車庫から都島車庫までの1.6キロメートルは大正11(1922)年7月に開通し、このとき初めて橋長約150メートル幅員約15メートルの木鉄橋が架けられました。昭和31(1956)年に架け替え工事が完成したときは、中央に市電軌道、両側に歩道がありました。その後、市電のレールは撤去され、昭和54(1979)年に拡幅工事も行われ現在に至っています。
(2022年12月22日 北図書館)
参考文献
『ゼンリン住宅地図大阪市北区<南部> '94』
ゼンリン 1994 書誌ID 0000491773 p.13
『ゼンリン住宅地図大阪市北区 [2011]』
ゼンリン 2011 書誌ID 0012358575 p.17
『大阪の橋』
松村博/著 松籟社 1987 書誌ID 0000164468 p.66-67
受付日
2022年1月18日
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・北区
平成(1989-2019)
橋
タイトル
私鉄地上ターミナル
投稿者
昭和8(1933)年生まれ
いつ頃
思い出
阪神電車は今の阪神のビルよりも西に、あまり大きいとは思わなかった梅田終点がありました。そこにはやはり小規模の店舗があって阪神マートと称しました。
阪急は現阪急百貨店の位置が終点で、知っている範囲ではデパートビルと一体でしたが、曽根崎側の表口は大きなホールになっていて高い天井には何かが描かれていたと思います。阪急に併合される前の京都線は新京阪と呼んでいて梅田ではなく天神橋筋六丁目・略称テンロクが始発駅でした。
場所
梅田、天神橋筋六丁目
補足・追加情報
大正3(1914)年に新築された阪神電車の終点「梅田停留場」は大阪駅前の西端にありました。『阪神電気鉄道百年史』には、「梅田停留場が平屋から2階建てに改築されたのを機に、昭和元(1926)年10月に直営の洋食堂を開業」とあります。昭和8(1933)年には阪神マートを開業し、昭和14(1939)年に大阪駅前地下延長線が開通し新梅田駅が約300メートル東の地下に移転した後も、昭和15(1940)年まで西阪神マートとして営業しました。戦後は焼け跡として取り残されていましたが、昭和28(1953)年に新阪神ビルが開業、その後の平成16(2004)年にハービスENTが建設されました。
『株式会社阪急百貨店50年史』には、昭和4(1929)年に竣工した第1期阪急ビルは、「地下1階は魚菜マーケット、1階が阪急電鉄梅田駅コンコース、2階から6階が阪急電鉄直営百貨店、7・8階が阪急電鉄直営食堂であった」とあり、これが日本初のターミナルデパート誕生と言われています。『阪急ステーション』には昭和4(1929)年梅田駅前の交通ラッシュの写真と、阪急百貨店前にある、天井がアーチ型の通路の写真があります。通路は、昭和4(1929)年に竣工した旧コンコースの跡で、写真には、建築学者・伊東忠太氏の「龍」「馬」「獅子」「鳳凰」の壁画が写っています。
新京阪鉄道時代に起終点駅の「天神橋駅」は、地元では「天六(てんろく)」の愛称で呼ばれていました。大正15(1926)年には7階建ての新京阪ビル(後の天六阪急ビル)が誕生しました。当時の天神橋駅のホームは2階部分にあり、電車ホームを内蔵する日本初の構造として話題になりました。『75年のあゆみ 記述編』には、「昭和44(1969)年10月、京都線と大阪市交通局地下鉄堺筋線が相互乗り入れ運転を実施するに伴い、天神橋駅(現天神橋筋六丁目駅)は地下駅となり、同時に中間駅となった。そのためターミナルビルの性格から離れることになった」とあります。商業ビルとなった天六阪急ビルは、老朽化のため平成22(2010)年春に取り壊され、現在は、マンションを含む高層ビルになっています。
(2022年12月22日 北図書館)
参考文献
『阪神電気鉄道百年史』
阪神電気鉄道 2005 書誌ID 0011135524 p.181, 246-247
『再成長へ向けて-阪神百貨店30年のあゆみ-』
阪神百貨店 1988 書誌ID 0080142155 p.1, 12-13
『株式会社阪急百貨店50年史』
阪急百貨店1998 書誌ID 0000681180 p.24-25
『株式会社阪急百貨店25年史』
阪急百貨店 1976 書誌ID 0000305609 p.99
『阪急ステーション -写真で見る阪急全駅の今・昔-』
阪急電鉄株式会社コミュニケーション事業部 2001 書誌ID 0010064680 p.17
『阪急電鉄 -宝塚線、箕面線、京都線、千里線、嵐山線、能勢電鉄-』
生田誠/著 アルファベータブックス 2016 書誌ID 0014144054 p.82
『75年のあゆみ 記述編』
阪急電鉄 1982 書誌ID 0080091225 p.174
『朝日新聞2010年1月23日夕刊 大阪』1面「(ぷらっと沿線紀行:123)天神橋筋六丁目駅 君の背中にお疲れさん」(商用データベース「朝日新聞クロスサーチ」でご覧いただけます)
大阪市立図書館デジタルアーカイブ
「大阪 阪急電車大阪駅及阪急百貨店(梅田)」
大阪市立図書館デジタルアーカイブ
「北大阪に勇姿巍然たる新京阪ビルヂング」
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2021年6月10日
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・北区
昭和20年代まで(1926-1954)
鉄道
タイトル
阪急三番街
投稿者
昭和52(1977)年生まれ
いつ頃
1980年代前半
思い出
祖父に阪急三番街に連れて行ってもらいました。当時エレベーターの横に大きな滝がありました。多くの人達が滝に向かってコインを投げていて、私も祖父から1円玉か5円玉をもらって、投げたことを覚えています。水路にもコインが投げられていました。あと、噴水みたいな所には親アヒルと子どものアヒル(4匹くらい)の動くロボットがありました。時々親アヒルがいないときもありました。(今おもうと、故障していたのかもしれません)。祖父がアヒルを指さして「あそこにガーガちゃんがいるよ」「ガーガちゃんを見に行こう」と言って連れて行ってもらったことが今でも懐かしいです。
場所
阪急三番街
補足・追加情報
阪急三番街は、阪急電鉄の梅田駅新ターミナル建設と梅田再開発の一環として、昭和44(1969)年にオープンしました。大滝は第2期拡張オープンの昭和46(1971)年に登場しました。
『阪急三番街物語 -阪急梅田再開発10年の歩み-』には、「そして北ブロックには“おもちゃと電化のまち”と並んで“滝のあるまち”の誕生です。(中略)池のまんなかには小さな橋があり、橋を渡ったところに美しい三段の滝が光と水のオーケストラを奏ででいます。水晶のように澄んだ色と響きを持った滝に平行したエスカレーターをあがりますと、そこには快いせせらぎの音をたてて小川が流れており、その川はやがて高さ12mの大滝に変化し、宝石のシャワーのように輝く水の結晶を滝壺にまき散らしているのです。」との描写と写真があります。
また、「昭和49年11月30日は三番街オープン後満5周年。この日を記念して、ファンタジーの広場の池には、“光る壁”と同じデザインの文字盤、12コの噴水を持つ水時計が作られ、そのまわりを機械じかけの白鳥たちがまわるというユニークな試みがなされ、来街する子供達の人気の的になっています。」とあり、カラー写真も掲載されています。アヒルについては記述が見つけられませんでした。
『75年のあゆみ 記述編』には、「ここで特筆すべきことは、開業を待ちかねてこの新しい街を訪れた人たちが、地下2階に流れる川や池にコインを投げ込みはじめたことであった。(中略)当社はこれら浄財を定期的に回収し、社会福祉に寄付させてもらっているが、その金額は、昭和57年3月末現在で1,528万円を数えるにいたった。」とあります。 (
2022年7月28日 北図書館)
参考文献
『阪急三番街物語 -阪急梅田再開発10年の歩み-』
阪急電鉄 [1979] 書誌ID 0000370297 p.10、21-23
『75年のあゆみ 記述編』阪急電鉄 1982 書誌ID 0080091225 p.157
受付日
2020年1月12日
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昭和50年-60年代(1975-1989)
タイトル
図書館の思い出
投稿者
昭和47(1972)年生まれ
いつ頃
ラジカセを見たのは平成22(2010)年頃です
思い出
学生の頃(1990年代)は中央図書館までよく行きました。子供ができてからは近所の北図書館を利用させてもらっています。子供が小さかった頃はおはなし会もよく参加させてもらいました。今では子供も興味あるものが出てくると図書館に本を探しに行くようになりました。
そういえば本の返却日がせまっていて習いごとの教室の近くにあった上本町の図書館に行ったことがあります。ちょうど終わる時間ギリギリぐらいだったのですが、職員の方がラジカセで音楽をかけてはって、ラジカセ、久しぶりに見たーとびっくりしました。島之内の図書館だったかもです。
場所
中央図書館、北図書館、天王寺図書館もしくは島之内図書館
補足・追加情報
大阪市立図書館100周年・中央図書館60周年記念「図書館にまつわる思い出のこし」でお寄せいただいた思い出です。
1990年代は、ちょうど中央図書館(西区北堀江4丁目)のリニューアル時期で、平成4(1992)年に旧館が30年にわたる歴史を閉じ、解体されました。平成4(1992)年9月から平成8(1996)年2月末まで四ツ橋の旧電気科学館に仮移転し、平成8(1996)年7月に現在の中央図書館がリニューアルオープンしました。
各区の大阪市立図書館では、児童向けの行事を開催しています。北図書館のおはなし会は現在、毎週土曜日の11時から、えほんコーナーや2階読書室で行っています。
閉館の音楽をかけるかどうかは、図書館ごとに決めています。ラジカセを館内放送の設備につないで使用している図書館もあります。令和4(2022)年8月現在、島之内図書館では音楽をかけていませんが、天王寺図書館や北図書館ではCDラジカセを使用して音楽をかけています。 (
2022年10月26日 北図書館)
参考文献
『大阪市立図書館100年史』
大阪市立中央図書館 2021 書誌ID0015122318 p.34-36, 40 (大阪市立図書館ホームページ「
大阪市立図書館100周年 中央図書館60周年
」よりご覧いただけます)
受付日
2022年1月18日
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平成(1989-2019)
タイトル
リーガロイヤルホテル
投稿者
昭和52(1977)年生まれ
いつ頃
昭和56(1981)年頃
思い出
幼稚園に入園前の話ですが、祖父の受賞パーティーがリーガロイヤルホテルであり、私は幼かったため妹とホテルの託児室に預けられました。中はキレイだったのを覚えています。そこで食べたハンバーグがものすごく美味しかったのを今でも覚えています。託児室がとてもキレイで、出てきたご飯もとても美味しかったから、今思い出しても、さすがリーガロイヤルだなとおもいます。
場所
リーガロイヤルホテル、中之島
補足・追加情報
北区中之島5丁目にある「リーガロイヤルホテル」は、昭和10(1935)年1月開業の「新大阪ホテル」(中之島3丁目)を前身とし、昭和40(1965)年10月11日に「大阪ロイヤルホテル」として開業しました。昭和48(1973)年9月に「ロイヤルホテル」、平成9(1997)年4月に「リーガロイヤルホテル」と改称しました。
『Rihga Royal Hotel -リーガロイヤルホテル70年の歩み-』によると、「フランス人シェフ、アンドレ・ルイ・バンドルーが昭和48年(1973)ロイヤルホテル新館オープン時に入社。本場の調理技術や食文化の本格導入が始まりました。3年後の昭和51年(1976)には、海外調理研究もスタートします。」とあり、フランス・イタリア・スイス・ドイツなどが研修先であったこともわかります。
また、託児室とは異なるようですが、お子様が対象の「ロイヤルキッズサークル リトルクラブ」の写真が掲載されています。 (
2022年7月28日 北図書館)
参考文献
『Rihga Royal Hotel -リーガロイヤルホテル70年の歩み-』
ロイヤルホテル 2005 書誌ID 0011041145 p.33, 57, 65
受付日
2020年1月12日
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・北区
昭和50年-60年代(1975-1989)
タイトル
本庄の夜店・盆踊り
投稿者
昭和45(1970)年生まれ
いつ頃
1970年代後半から80年代前半
思い出
本庄に夜店がありました。本庄公園で盆踊り大会がありました。
場所
夜店通り(現在の大阪市立豊崎本庄小学校南側の通り)、本庄公園のグランド
補足・追加情報
本庄の夜店について掲載された資料は確認できませんでしたが、令和4(2022)年9月に北図書館の行事にボランティアで参加された、昭和55(1980)年生まれの方にお話を伺うことができました。「夜店通りには、今から25年前くらいまで、6月から9月の9のつく日に夜店が出ていました。車が入らないようにして歩行者天国のようでしたが、用のある車は通るなど交通規制されているわけではなさそうでした。」とのお話でした。
また、本庄地域ではありませんが、大阪市北区医師会ホームページの会誌セレクト150号 2016年3月号の「天満 天五 いまむかし」の記事には「昭和30年から40年初頭にはこの通りには夜店が並びました。(中略)月に2~3度だったと記憶しています。(中略) 天五のアーケード東詰から北へカーブして現在の菅栄町西の交差点まで3~400mほど続く夜店でした。輪投げ、ヨーヨー釣り、射的、うなぎ釣りと今でも縁日で見かけるものと同じだったと記憶していますが、小さかった私達には大きな楽しみでした。そのころ夜店は大阪中で日を変えて開かれていたようですが、天満の夜店もいつの間にか無くなりました。」とあり、様々な場所で夜店が開かれていたことが記載されています。
本庄地域の盆踊りに関しては、本庄地域活動協議会のFacebook(平成26(2014)年11月より)から、平成29(2017)年~令和元(2019)年は豊崎本庄小学校で開催、その前は、本庄川崎公園にて開催されていることが確認できました。本庄公園での開催については、確認できる資料がみつかりませんでした。 (2022年9月18日 北図書館)
参考文献
大阪市北区医師会ホームページ 会誌セレクト150号 2016年3月号「天満天五いまむかし」
https://www.kita-med.or.jp/kaishi/pdf/kaishi150_303_01.pdf
(2022年9月18日確認)
本庄地域活動協議会フェイスブック
https://m.facebook.com/honjo2014/
(2022年9月18日確認)
受付日
2018年10月28日
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昭和50年-60年代(1975-1989)
公園
タイトル
パン屋
投稿者
平成元年生まれ
いつ頃
2001年頃から2004年初めまで
思い出
中学校への通学路の途中に有ったパン屋「ハートムート」現在では廃業されてしまったが、中学校へ通学する途中に有ったパン屋からただよっていたパンの焼ける香りは今でも忘れられない。そのパン屋のパンをはじめて食べたのは中学校の入学式の帰りだったか、入学式に来てくれた母がおみやげにパンを買って帰っていた。どんなパンだったか記憶にないがなつかしい思い出だ。
場所
北区万歳町1-3
補足・追加情報
『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 昭和36年版』『大阪市全商工住宅案内図帳 北区[昭和44年]』を確認すると、現在の北区万歳町1-3の場所には、西川製菓KKとの会社名が確認できます。後年の住宅地図をたどると、『大阪市精密住宅地図 -北区-』(1986)には、「西川製菓(株)」の一角に「パンハートムート」の店名が確認できます。ウェブサイト「食べログ」の口コミを調査したところ、2015年10月の訪問情報の書き込みがありました(2020.3.28確認)。食べログからは確認できませんでしたが、Rettyグルメのサイトには、閉店との情報がありました。閉店時期は確認できませんでした。なお、住宅地図や住宅情報サイト数社のホームページでは、「ハートムート」という名称の3階建て賃貸マンションとして掲載されており、2・3階部分が賃貸となっているようです。ちなみに、『ゼンリン住宅地図大阪市北区 [2019]』別記では、「ハートムート」の1Fには、「西川製菓」の表記が確認できます。(2020.3.28 北図書館)
参考文献
『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 昭和36年版』
[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422844
『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 [昭和44年]』
[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422841
『大阪市精密住宅地図 -北区-』
吉田地図 1986 書誌ID 0011086741
『ゼンリン住宅地図大阪市北区 [2019]』
ゼンリン 2019 書誌ID 0014737899
食べログ 口コミ一覧 ハートムート
https://tabelog.com/osaka/A2701/A270101/27008021/dtlrvwlst/
(2020年10月31日確認)
Rettyグルメ ハートムート
https://retty.me/area/PRE27/ARE89/SUB8901/100001023730/
(2020年10月31日確認)
受付日
2019年3月24日
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・北区
平成(1989-2019)
タイトル
中津のプリン公園
投稿者
1970年生まれ
いつ頃
1970年代後半-80年代前半
思い出
中津のプリン公園 紙芝居のおじさんがいました。べったんというカード遊びをしました。大きなプリン型のすべり台がありました。
場所
中津の東海道線の側
補足・追加情報
中津のプリン公園は、中津東公園(中津2丁目1)の通称。(中津小学校ホームページ学校日記より)
大きなプリンのような遊具があることから、この名前で呼ばれているようです。中津小学校のホームページの学校日記(2015年6月1日)には、プリン公園で少し遊んだとの記述と遊具の写真が掲載されていました。現在は、公園の大部分が、浪速枝管1500mm配水管布設工事(シールド工事他、工期2015年3月10日-2021年3月31日)のため、使用できない状態になっています。
『わたしの大阪遊び唄事典』125ページより
「ベッタン(メンコ)」「カード大のさまざまな絵のついたベッタンを叩きつけて、相手のベッタンを裏返して勝負する。地面にベッタンをおくときは、息を吹きかけてゴミを吹きとばし、ぴったりと地面に吸いつくようにおき、打つ方は指先に力を集中して打ちこむ。ルールを難しくするほど熱が入って面白い。」とあります。
『OSAKA-JIN (大阪人) 2002年9月号』21ページより
「昭和、平成をつなぐ大阪紙芝居」には、昭和二十七年(一九五二)開催の全国児童文化会議の資料には、(中略)紙芝居業者の数は全国で七千人。そのうち東京は二千人。大阪は千人だった。全盛期の紙芝居屋さんは一日十カ所ぐらいで紙芝居を上演していました。夜も街灯の下でやっていたそうです。」とあります。
北区での紙芝居について、現在、本庄川崎公園(北区本庄東2丁目6-12)で紙芝居の実演を行っておられる杉浦貞(すぎうらただし)さんにお話をうかがいました。杉浦さんは、著書によると昭和55(1981)年にプロの街頭紙芝居師に転身し、以後紙芝居の実演を続けています。本庄川崎公園には、毎週火曜日の16時過ぎごろから実演。お話によると、ここ数年前ごろから、常時20人ぐらいいた子どもの数も減っているとのことで、数人しか集らない日も多くなったとの話です。
図書館職員が訪ねた2019年9月3日には、10人ほどの子どもが集っており、50円で水あめなどを買い、紙芝居の実演を楽しんでいました。思い出のこしにある中津の公園での実演をお聞きしたところ、現在は行っていないが、以前は中津の方にも行っていたとのことです。ただし、中津東公園かは不明。昭和56年当時には、地元大阪市北区を中心に毎日二.三ヶ所、一週間十四ヶ所以上の実演を行っていたそうです。(2020.3.28 北図書館)
参考文献
中津小学校ホームページ>学校日記>過去の記事>2015年6月21日「1年 通学路を歩こう 3」
http://swa.city-osaka.ed.jp/swas/index.php?id=e511012&date=20150621
(2020年10月31日確認)
『わたしの大阪遊び唄事典』
山野良子/編著 編集工房ノア 1993.3 書誌ID 0000312556 p.125
『OSAKA-JIN (大阪人) 2002年9月 / 56巻9号 紙芝居の時代』
大阪都市協会 2002 書誌ID 5110349831 p.21
『ザ・カミシバイ -紙芝居を始めるよ!-』
杉浦貞/著 ドニエプル出版 2008 書誌ID 0011695330
受付日
2018年10月28日
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昭和30年-40年代(1955-1974)
公園
遊び
タイトル
大阪拘置所
投稿者
昭和26年生まれ
いつ頃
昭和30年代
思い出
現在、大阪高等、地方、簡易裁判所のある所は、昔、拘置所があり、四方を背の高いコンクリートの塀に囲まれており、子供心にも異様な雰囲気でした。また、収容されている人達の為に数件差入屋が門前にありましたが、何か子供達は近よったり、利用してはいけない様に思っていました。
場所
西天満2丁目(旧真砂町)
補足・追加情報
『北区誌』552ページの大阪拘置所の項には、「(中略)明治十五年十二月当時の西成郡北野・川崎両村地内に堀川監獄分署が新設され二十三年十月には堀川監獄署・堺監獄分署となった。(中略)の後、現在の北区若松町に庁舎の新築をみたので、大正七年四月に移転し、名称も大阪監獄若松分監と改め、(中略)さらに昭和四年十二月、司法省告示によって大阪拘置所として独立した。」とあります。
また、553ページには、「拘置所正門附近には差入品を扱う店舗がならび、収容者を訪れる縁故者が長蛇の列をつくるなど特異な風景を描いている。」と記述があり、当時の様子がうかがえます。
『都島区史』436ページには、「昭和三十八年十二月、善源寺町の工場跡地六万八千平方メートルに新庁舎、舎房、職員宿舎などが完成、北区若松町より移転開設した。」と記述があり、昭和38年に現在の場所に移転しています。
『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 昭和36年版』を見ると、大阪拘置所は、若松町、真砂町が交差する場所(現在の西天満二丁目)、大阪高等・地方裁判所、大阪高等検察庁・同地方検察庁の合同庁舎と隣接した位置にあったことが確認できます。(2018.12.16 北図書館)
参考文献
『北区誌』
大阪市北区役所 1955 書誌ID 0000244948 p.552-553
『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 昭和36年版』
[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422844
『都島区史』
大阪都市協会/編集 都島区制五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0000336170 p.436
受付日
2018年5月2日
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・北区
昭和30年-40年代(1955-1974)
タイトル
交通局病院
投稿者
昭和27年生まれ
いつ頃
昭和30年代
思い出
今の関西テレビのあたりだったと思うのですが、子どもの頃、母親に連れられて歩いていた時、大きなビルの前で、「あんたは、ここで生まれたんやで」と言われたのを覚えています。
場所
扇町(東扇町)・交通局病院
補足・追加情報
交通局病院は、交通局職員とその家族の健康維持のため、大正13年5月電気局病院として、北区東扇町に鉄筋コンクリート造3階建で開設されました(当時電気局、昭和20年に交通局と改称)。開設当時の診療科は、内科、外科、産婦人科、皮膚泌尿器科、眼科およびレントゲン科があり、同年6月から外来患者の診療を開始しました。
その後、患者数が増え、病棟を増築していきましたが、昭和20年6月1日の空襲で木造建築の西館等が消失し、鉄筋の本館を残すのみとなりました。復興後は、本館西南隣接地を借用するなどして病床を増やしていきましたが、昭和38年頃から、職員の市外居住が増え、局病院の受診率は低くなり、昭和44年5月15日、46年続いた局病院は廃止されました。
『大阪市交通局七十五年史』p.749に昭和33年当時の交通局病院の全景写真、『生活衛生 40巻3号』p.122に前方からの建物の写真が掲載されています。
『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 昭和36年版』『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 昭和44年版』の地図で、現在の「キッズプラザ大阪」あたりに交通局病院を確認することができます。(2018.12.16 北図書館)
参考文献
『大阪市交通局七十五年史 』
大阪市交通局 1980 書誌ID 0070035337 p.748-750
『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 昭和36年版』
[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422844
『大阪市全商工住宅案内図帳 北区 [昭和44年版]』
[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422841
『生活衛生40巻3号』大阪生活衛生協会 1996 p.120-123 木村正樹「大阪市 市民病院の移り変わり(その4)」(J-STAGEでご覧いただけます)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/seikatsueisei1957/40/3/40_3_120/_article/-char/ja
(2021年2月11日確認)
受付日
2018年2月22日
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昭和30年-40年代(1955-1974)
タイトル
中之島公園
投稿者
昭和33年生まれ
いつ頃
1958年-
思い出
私が子どもの頃はよく中之島公園に遊びに行きました。ブランコが好きで、川をみながら、勢いよく、ブランコをこいでいました。大人になっても、毎日の通勤は、中之島公園を通っていました。今は、中之島公園がリニューアルされて、きれいになりましたが、私にとって、なつかしい思い出の場所です。
場所
北浜・淀屋橋
補足・追加情報
『北区史』461ページから465ページにわたり、「中之島の剣先は、江戸時代に備中(岡山県)成羽の山崎主税助義厚の蔵屋敷があったので、山崎の端(はな)といわれた。元禄のころ山崎の端は、いまの中央公会堂付近までしかなく、明治四(1767)に出端を埋め立てて築地がきずかれた。」「明治十二年十一月に、(中略)いまの中央公会堂東寄りの地に大阪豊国神社が建てられた。神社の周辺には梅、桜、ハギを植え、ベンチを置き、あずまやを建て、やや遊園地らしくなった。」「明治十八年の淀川大洪水のあと、川の流れをよくするため付近の川ざらえが行われ、その土砂で、難波(浪花)橋の東まで出ていた剣先がさらに東へ延ばされた。また市役所の位置にあった大阪裁判所が二十三年一月に若松町へ移ったのを機会に、その跡地も含め剣先までの範囲が二十四年十二月に、市立公園としては初めての中之島仮公園に指定された。」「大正四年、天神橋東方までの埋め立て地を公園に加え、さらに六年から十年までに拡張、護岸工事をし、木を植え、一周三百メートルのトラック、野外音楽堂、噴水、池などをつくり、わが国有数のリバーサイドパークを出現させた。」「戦後は平和のシンボルとして整備が進められ、テニスコート二面、シーソー、すべり台、低鉄棒、ぶらんこ、ラダー、緑の賛歌像などが備えられた。」など、中之島公園の変遷がうかがえる記述があります。(2018.12.16 北図書館)
参考文献
『北区史』
大阪都市協会/編集 北区制一〇〇周年記念事業実行委員会 1980 書誌ID 0070059801
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2018年3月13日
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・北区
昭和30年-40年代(1955-1974)
公園
タイトル
公設市場
投稿者
1951年生まれ
いつ頃
昭和40年頃
思い出
公設市場が現在の行岡医療専門学校の所にあり、当時は人口も多くにぎわいがあり、向こう3件両隣と仲良く近所づきあいがありました。
場所
長柄中近辺
補足・追加情報
『大阪市精密住宅地図 大淀区 [1984]』を確認すると、現在の行岡医療専門学校(長柄西1丁目7番53号)の場所には、「新阪急市場」があったことが確認できます。
「新阪急市場」は、私設小売市場の一つで、『大淀区史』315ページ「小売市場の変遷」の表に記載があります。店舗数34、昭和29年開場、昭和60年8月に廃止となったことが確認できます。
人口の変遷は、『大淀区史』113ページによると、大淀区の昭和40年の人口は、55,596人、昭和62年の人口は、45,570人となっています。(2018.12.16 北図書館)
参考文献
『大阪市精密住宅地図 大淀区 [1984]』
吉田地図 1984 書誌ID 0000657501
『大淀区史 』
大阪都市協会/編集 大淀区コミュニティ協会 1988 書誌ID 0000246498
受付日
2018年2月13日
利用条件
オープンデータとして、
CC(クリエイティブコモンズ)ライセンス
における
CC BY-SA 4.0
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・北区
昭和30年-40年代(1955-1974)
タイトル
駄菓子屋
投稿者
1951年生まれ
いつ頃
昭和40年頃
思い出
ベーゴマ、ビー玉、メンコ、なわとび、カンケリ、昔はリンゴ箱がゴミ入れで、メンコやコマ遊びなどリンゴ箱を利用していました。現在の長柄西公園の前に大平さんの駄菓子屋さんがあり、良く利用していました。
場所
長柄中近辺
補足・追加情報
ベーゴマ、ビー玉、メンコ、カンケリについて
ベーゴマについては、『道具からみる昔のくらしと子どもたち 2』13ページに、「雪のない地方の正月の子どものあそびは、コマまわし、凧あげ、まりつき、羽子(羽根)つきなどで、(中略)コマあそびには、鉄製や鉛製の小型のベイゴマをぶつけ合うものもありました。」との説明があります。
ビー玉については、『道具からみる昔のくらしと子どもたち 2』10ページに、「ビー玉は直径15ミリ前後のガラス玉で、その玉をころがして、地面にえがいたわくの中に入れてあるビー玉にあててはじきだします。」と説明があります。
メンコについては、『道具からみる昔のくらしと子どもたち 2』9ページに、「円形の厚手の紙に野球選手の絵や武者絵などが張ってあるメンコ(面子)は、男の子の代表的なあそびでした。メンコのあそびには、メンコを勢いよく打って裏返しにするもの、地面にえがいたわく内からはじき出すものなどがありました。」と説明があります。
カンケリについては、『なつかしい日本の遊び201』9ページに、「缶を使った「おにごっこ」です。大きすぎず、小さすぎない空き缶を、空き地や通りなどに丸を描いた場所に置きます。じゃんけんで鬼をきめて、鬼以外の人が缶をけり、鬼が缶をその場所に戻している間に他の人はかくれます。」と説明があります。
リンゴ箱について
『大阪社会労働運動史 第4巻』318ページには、「従来各家庭で利用されていたごみ容器はさまざまで、木製のりんご箱やみかん箱等の廃品が使われていたり(中略)」と記されています。
駄菓子屋について
『大阪市精密住宅地図 大淀区 [1984]』を確認すると、現在の長柄西公園(長柄西1丁目7)の前に、「菓子大平商店」が存在していたことがわかります。(2018.12.16 北図書館)
参考文献
『道具からみる昔のくらしと子どもたち 2 あそび』
須藤功/編 農山漁村文化協会 2016 書誌ID 0014055816 p.9、10、13
『なつかしい日本の遊び201』
佐藤加代/画 角川書店(発売) 2005 書誌ID 0011103064 p.9
『大阪社会労働運動史 第4巻 高度成長期 上』
大阪社会労働運動史編集委員会/編 大阪社会運動協会 1991 書誌ID 0000199946 p.318
『大阪市精密住宅地図 大淀区 [1984]』
吉田地図 1984 書誌ID 0000657501
受付日
2018年2月24日
利用条件
オープンデータとして、
CC(クリエイティブコモンズ)ライセンス
における
CC BY-SA 4.0
で提供いたします。大阪市立図書館オープンデータの取り扱いについては、
オープンデータについて
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・北区
昭和30年-40年代(1955-1974)
遊び