思い出のこし
タイトル
四貫島の映画館
投稿者
昭和35(1960)年生
いつ頃
昭和40年代(1965-1975)ごろ
思い出
春休みや夏休みになると四貫島へ母と兄と行き、映画館があったので、まんがの映画を兄と2人で見ました。母はその間はゆっくり買い物をして終わるとロビーで待っていてくれた覚えがうっすらあります。
年頃になってもそこの映画館へ行った思い出があります。OSドラッグのあるマンションの方にも映画館があり大人向けの映画だった記憶があります。
場所
四貫島のいまのつる屋(和菓子屋)さん前です
補足・追加情報
思い出の映画館は、四貫島徳平町一の四にあった「ブラザース映画館」と思われます。「ブラザース映画館」は、『映画便覧 1963年版』によれば日活系統の映画館で、木造平屋構造の定員400名の劇場でした。書いていただいているもうひとつの映画館は、「日本劇場」と思われます。こちらは松竹・東宝、大映系統で、鉄骨2階建構造、定員580名とあり、もう一回り大きな劇場だったようです。両館とも蔭山興行の直営館で、邦画・洋画の封切館として営業していました。
「四貫島ブラザース」(ブラザース映画館)や日本劇場が映っている写真が、『目で見る此花の“昨日今日明日”』に掲載されており、昭和30-40年代の当時の様子が伺えます。
「四貫島ブラザース」の写真(p.150,164)には、「千の顔を持つ男」(昭和32(1957)年公開)や、昭和44(1969)年公開の「博徒一代 血祭り不動」「関東おんな極道」の文字が、日本劇場と思われる映画館の写真(p.152「四貫島商店街入り口」)では、昭和36(1961)年公開の「ろくでなし野郎」「東京ドドンパ娘」のポスターが確認できます。昭和26(1951)年12月に開館したブラザース映画館は、昭和55(1980)年ごろに閉館したようです。地図や電話帳を順に確認していくと、昭和59(1984)年の住宅地図では今と同じ「ハイマート千鳥橋」が跡地にできていました。
(2022年11月25日 此花図書館)
参考文献
『映画便覧1963年版』
時事通信社 1963書誌ID 0080277923
『[大阪市此花区]各種団体並会社名簿 昭和33,34年』
大阪市此花区役所 1958-1959 書誌ID 0080262675
『目で見る此花の“昨日今日明日”』
大阪市此花区役所 2008 書誌ID 0011718154
『大阪市精密住宅地図 此花区:再版 -大阪市全商工住宅案内図帳- 昭和53年11月』
吉田地図 1978 書誌ID 0000435520
『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 昭和42年』
住宅協会出版部 1967-1984 書誌ID 0080242222(昭和46,50,55,59年合綴)
『大阪市職業別電話帳 昭和54年11月1日現在 下』
日本電信電話公社近畿電気通信局 1980 書誌ID 0000527653
『大阪市職業別電話帳 昭和56年5月1日現在 下』
日本電信電話公社近畿電気通信局 1981 書誌ID 0000527655
allcinema 映画データベース
https://www.allcinema.net/
(2023年11月25日確認)
受付日
2022年7月30日
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・此花区
昭和30年-40年代(1955-1974)
タイトル
ろう石
投稿者
昭和21(1946)年生まれ
いつ頃
小学生の頃
思い出
区民ホールの近くに、桜ろう石株式会社があり、化粧品の材料にするのだと言われていました。倉庫でしたが野積みにしていたので、此花区や福島区の子どもたちが、ろう石を取りにきていました。
場所
区民ホールの近く
補足・追加情報
桜ろう石株式会社については、残念ながら所在を確認できる文献が見つかりませんでした。
辞書によると、ろう石は、葉ろう石を主成分とする石で、石筆などに利用されます。葉ろう石は、化学辞典によると、パイロフィライト pyrophylliteとも呼ばれます。化粧品の成分事典には、「パイロフェライト pyrophyllite」の項目があり、吸着剤、着色剤、不透明化剤などの目的で配合されるとあります。
なお、近隣に住む市職員によると、此花区民ホールが建つ前の原っぱには、確かにろう石が野積みされており、昭和40年代までは、子どもたちが拾いに来ていたとのことです。 (
2022年10月6日 此花図書館)
参考文献
商用データベース「JapanKnowledge(ジャパンナレッジ)(事典・辞書等)」収録『日本大百科全書』「ろう石」「葉ろう石」「葉ろう石(データノート)」の項(2022年10月6日確認)
商用データベース「JapanKnowledge(ジャパンナレッジ)(事典・辞書等)」収録『デジタル化学辞典(第2版)』「パイロフィライト」の項(2022年10月6日確認)
『日本化粧品成分表示名称事典 第3版』
日本化粧品工業連合会/編集 薬事日報社 2013 書誌ID 0012726329 p.758「パイロフェライト」
受付日
2019年6月12日
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・此花区
昭和20年代まで(1926-1954)
昭和30年-40年代(1955-1974)
タイトル
安治川トンネル3
投稿者
昭和17(1942)年生
いつ頃
中学生の頃
思い出
安治川隧道で、多羅尾伴内(片岡千恵蔵)の映画ロケがあった。車も通行できる薄暗いトンネルでした。当時源兵衛の渡しと呼んでいました。
場所
補足・追加情報
多羅尾伴内(たらおばんない)は、人気映画シリーズに登場した架空の探偵の名前です。『多羅尾伴内 -七つの顔の男-』によると、片岡千恵蔵は、昭和21(1946)年から35(1960)年までに制作された11作品で多羅尾伴内役を演じました。「ある時は…、またある時は…、しかして、その実体は…」の名セリフと、作中の七変化で、当時大変な人気を博しました。
その映画のロケについて、残念ながら資料は見つかりませんでしたが、安治川トンネルは、昭和19(1944)年に開通した日本初の沈埋(ちんまい)トンネルです。現在は、此花区と西区を結ぶ歩行者・自転車専用トンネルです。車両の通行は昭和52(1977)年で中止されましたが、最盛期の昭和36(1961)年の1日の交通量は、歩行者約8,500人、自転車約4,600台、自動車約1,200台でした。
建設コンサルタンツ協会ホームページ「日本の土木遺産 安治川トンネル(大阪府大阪市)」では、安治川トンネル内の中柱に左側通行と記されたそばを、自動車と自転車が並行して通行する写真があり、映画が制作された年代の、自動車も通行していたころの安治川トンネルの様子がしのばれます。
また、同協会誌232号によると、「現在安治川トンネルがある場所では「源兵衛渡」と呼ばれる渡し舟が運行されていたが、交通量の増加により処理することが困難となったため、大阪市第二次都市計画事業の一つとして海底トンネルが計画された」との記述があります。
安治川トンネルについては、思い出
「安治川トンネル」
「安治川トンネル2」
もご参照ください。
(2022.3.22 此花図書館)
参考文献
『多羅尾伴内 -七つの顔の男-』
関貞三/著 ワイズ出版 2005 書誌ID 0010950032
建設コンサルタンツ協会ホームページ 日本の土木遺産 安治川トンネル(大阪府大阪市)
https://www.jcca.or.jp/dobokuisan/japan/kinki/ajigawa.html
(2022年3月22日確認)
建設コンサルタンツ協会誌「Consultant」232号 土木遺産の香 日本初の沈埋トンネル「安治川トンネル」
https://www.jcca.or.jp/kaishi/232/232_dobokuisan.pdf
(2022年3月22日確認)
『土木遺産 -世紀を越えて生きる叡智の結晶- 3 日本編』
建設コンサルタンツ協会『Consultant』編集部/編 ダイヤモンド社 2010 書誌ID 0012184782 p.96-105
受付日
2020年9月19日
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・此花区
昭和20年代まで(1926-1954)
昭和30年-40年代(1955-1974)
道路
川
タイトル
淀川の海水浴場
投稿者
昭和17(1942)年生
いつ頃
小学生の頃
思い出
森巣橋を渡って、北へ淀川に突き当たった所にありました。
場所
補足・追加情報
淀川での海水浴は、『目で見る此花の“昨日今日明日”』に「権蔵の鼻の千本松を通ってよく泳ぎに行きましたね。海水浴というと、そこに行ったものです。」とあるように、下流の「権蔵の鼻」が知られていましたが、『此花区史』によれば、上流でも、夏季に社会福祉団体による市内唯一の海水浴場が開設されていました。遠く伝法大橋を背景にした写真「此花遊泳場」も載っています。
『大阪市社会福祉協議会二十五年史』の「(此花)区社協のあゆみ」には、「昭和28(1953)年7月、溺死防止に特設水泳場を設ける。7月1日開設」との記述があります。
(2022.3.15 此花図書館)
参考文献
『目で見る此花の“昨日今日明日”』
大阪市此花区役所2008 書誌ID 0011718154 p.7, 108
『此花区史』
大阪市此花区役所/編集 大阪市此花区三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000228462 p.85, 238
『大阪市社会福祉協議会二十五年史』
大阪市社会福祉協議会 1977 書誌ID 0080172746 p.378
受付日
2020年9月19日
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・此花区
昭和20年代まで(1926-1954)
川
タイトル
正蓮寺川
投稿者
昭和19(1944)年生
いつ頃
思い出
初めてこちらを訪ねました。祖父母が一時(多分大正の終わりから昭和の初め)、四貫島に住んでいたと話しておりました。それで懐かしい思い出探しにやってきました。レトロな町だろうと思っていましたが、名残りがありました。正蓮寺川が美しい川だった頃(橋の案内板によると昭和25年頃までらしいですが)に訪れたかったです。祖父母の若いころの出発点だと思うと、また時々訪れてみたいものです。
場所
補足・追加情報
千鳥橋北詰から東の方へ、正蓮寺川公園に下りていくと、「正蓮寺川総合整備事業のあゆみ」という3枚のパネルがあります。その1枚目には、「昔の正蓮寺川」と題し、「今、立っているこの場所は、昭和25(1950)年頃までは淡水と海水が混じり合う正蓮寺川で、子どもたちが泳いだり、フグやサヨリ、フナ、コイなどの魚を取ったりできるきれいな水が流れていました。」と書かれています。
『写真で見る此花区-大阪市制100周年記念-』には、「森巣橋から見た千鳥橋方面の正蓮寺川」の写真が載っていて、水が豊かにあり、岸には多くの舟がつながれていた頃の様子がわかります。
その後、高度成長期に川は汚れ、昭和39(1964)年には、地元住民から大阪府に対し、川の汚れなどを理由として、埋立てが陳情されるに至りました。
昭和61(1986)年に、正蓮寺川と六軒家川の一部を埋立て、阪神高速淀川左岸線を整備する計画が出来ました。同年、地域の諸団体からなる「正蓮寺川・六軒家川環境整備推進協議会」が発足し、住民も計画に対する要望を出しました。その結果、平成14(2002)年に計画が変更され、高速道路は全てトンネルで覆われ、その上に広い公園が整備されることになりました。
令和4(2022)年3月に、森巣橋から上流部分の公園が完成し、春には満開のシダレザクラが見られるようになりました。 (2022.3.6 此花図書館)
参考文献
『
写真で見る此花区 -大阪市制100周年記念-
』市制100周年記念事業此花区実行委員会/編集 此花区コミュニティ協会 1990 書誌ID 0000367660 p.59
『
大阪市建設局業務論文集 平成28年度
』大阪市建設局 2017 書誌ID 0014317153 p.40, 493-501「正蓮寺川公園整備にかかるこれまでの経過と今後の整備に向けて」
『
大阪市建設局業務論文集 令和元年度
』大阪市建設局 2020 書誌ID 0014885558 p.34, 331-337「正蓮寺川公園の整備について(千鳥橋から上流部)」
此花区 正蓮寺川・六軒家川環境整備推進協議会
https://www.city.osaka.lg.jp/konohana/page/0000461954.html
(2022年3月6日確認)
『広報このはな 2022年3月 / No.310』此花区役所企画総務課(総合調整) 2022 p.2-3 「That’s正蓮寺川公園 STORY」
https://www.city.osaka.lg.jp/konohana/page/0000428205.html
(2022年3月6日確認)
受付日
2019年12月7日
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・此花区
大正・明治以前(1926まで)
昭和20年代まで(1926-1954)
川
タイトル
西九条駅と三丁目渡し
投稿者
昭和23(1948)年生
いつ頃
思い出
昭和36年の春に港区の高校に入学した兄は、環状線が西九条から弁天町方面に開通するまでの約1ヶ月、現在は廃止された三丁目渡の渡し舟で通学していました。当時は弁天町方面へは高架で、大阪駅方面へは路上に線路が走っていたので、西九条で乗り換えなければなりませんでした。
環状線として開通したのは、私が高校に入学した年の3月でした。
場所
補足・追加情報
昭和36(1961)年4月25日、西成線(西九条・大阪間)、城東線(大阪・天王寺間)、関西線(天王寺・今宮間)、大阪臨港線(今宮・境川信号所間)と、新設された境川信号所・西九条間をもって、大阪環状線が開業しました。当時は、旧西成線の部分の高架工事が未完成であったため、桜島・大阪・天王寺・弁天町・西九条間の折り返し運転(『大阪環状線』によれば逆“の”の字運転)が行われ、西九条駅は、高架のホームと地上のホームとに分かれていました。その頃の西九条付近の様子は『日本国有鉄道百年写真史』で見ることができます。
完全な環状運転が始まったのは、昭和39(1964)年3月22日です。
三丁目渡しは、当時の北安治川通三丁目から、安治川を渡り港区側へ至る渡し舟でした。『此花区史』巻末の折り込み地図などで、その位置がわかります。詩集『三丁目渡船場』には、「むかし女学校に通うときには毎日乗った」とうたわれています。
平成元(1989)年1月31日、今の住所表示で此花区西九条七丁目と港区の波除六丁目を結んでいた「三丁目渡船場」と、尻無川の「中渡船場」が廃止されました。当時の新聞には、渡船の廃止を惜しむ声が載っています。(2021.12.17 此花図書館)
参考文献
『近畿地方の日本国有鉄道 -大阪・天王寺・福知山鉄道管理局史-』
大阪・天王寺・福知山鉄道管理局史編集委員会 2004 書誌ID 0010981538 p.57,61,73,78
『大阪環状線 -その鉄道文化、沿線文化を探る-』
羽森康純/著 風詠社 2013 書誌ID 0012789430 p.7
『日本国有鉄道百年写真史』
日本国有鉄道/[編] 成山堂書店 1997 書誌ID 0000781449 p.366
『此花区史』
大阪市此花区役所/編集 大阪市此花区三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000228462
『三丁目渡船場 -藤澤滋子詩集-』
藤澤滋子/著 編集工房ノア 1989 書誌ID 0070052059 p.30-32
『朝日新聞 1989年1月29日 朝刊 大阪』25面「この風情あと3日 “ふれあい”に惜別強く」(商用データベース「聞蔵IIビジュアル-朝日新聞記事-」でご覧いただけます)
受付日
2019年5月31日
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・此花区
昭和30年-40年代(1955-1974)
鉄道
川
タイトル
六叉路で鬼ごっこ
投稿者
昭和25(1950)年生
いつ頃
小学校低学年
思い出
自宅のすぐ横の六叉路が広いので、マンホールのふたを避難場所にして、土管鬼ごっこをした記憶があります。
場所
四貫島元宮町
補足・追加情報
投稿者にお尋ねしたところ、この場所は現在の四貫島2丁目、大阪市立四貫島小学校の北側にある六叉路です。マンホールのふたに乗っていれば捕まらないというルールの鬼ごっこをして遊んだそうです。
『写真で見る大阪市下水道100年のあゆみ』には、「マンホール蓋(ふた)の変遷」として、昭和の初めから平成6年までに作られたマンホールふたがカラー写真で紹介されています。これによると、思い出の時代は、ふたの周囲が厚いコンクリートで囲われた様子で、まさに土管です。
現在、この六叉路を訪れると、ふたの周囲はぴったりとアスファルトで固められ、土管のイメージはありません。このうち幾つかのデザインについて、大阪市建設局下水道部施設管理課に問い合わせたところ、現在大阪市内で一般的な、大阪城と桜を描いたものや、その一つ前の世代で、中央に澪標(みおつくし)マークを描き、1990などと製造年を表示しているものが混在しており、当時とは様子が変わっています。 (2021.12.23 此花図書館)
参考文献
『写真で見る大阪市下水道100年のあゆみ』
大阪市下水道局 1994 書誌ID 0000460663 p.102-103
受付日
2019年7月12日
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・此花区
昭和20年代まで(1926-1954)
昭和30年-40年代(1955-1974)
遊び
タイトル
大阪市立梅香中学校
投稿者
昭和11(1936)年生
いつ頃
中学生の頃
思い出
私は、梅香中学校(当初は此花第二新制中学校)の第1期卒業生です。
開校式当日、島屋小学校を卒業した私たちは、伝法小学校の前に集められました。伝法小学校の卒業生と共に中に入ると、1組から7組まで「組分け」の張り紙があり、校庭に整列しました。広い講堂なんてありませんでした。先生方の様子もまちまちで、校長先生・教頭先生だけは背広にネクタイ姿でしたが、国民服や詰襟の学生服の先生もいました。
教室に入って驚きました。机も椅子もありません。窓やドアにガラスは1枚もありません。黒板とその下に教壇が横たわっているだけでした。私たちの中学校は、伝法小学校の古い校舎の一部を借りて発足したのです。
数日後、入学式がありました。母が付き添ってくれて、野外で新しい教科書を購入しました。その折、中古の机、椅子、教卓などがトラックで運ばれてきました。机や椅子を自分たちで教室に運び込むのが、最初の仕事でした。
このようにして、中学生活がスタートしました。教科毎に先生が変わる授業、新しい友達と交わっての勉学、とても新鮮でした。毎日、新淀川の堤防づたいの道を東西にたどって通いました。
2年目には、梅香国民学校の跡地で、空襲で焼け残った鉄筋コンクリートの校舎に移り、2期生と共に勉強することになりました。この移転により、梅香中学校となったのです。1期生は上級生がいないため、伸び伸びと中学生活を送れたと思います。
ところが、私たち1期生が卒業すると、梅香中学校は、恩貴島国民学校の跡地へまた引っ越してしまいました。1期生には全くなじみのない所へ移ったので、今の梅香中学校には「わが母校」という感じはありません。それが本当に淋しく、一種の喪失感があります。
場所
補足・追加情報
『大阪市立梅香中学校創立70周年記念誌』には、年表「70年のあゆみ」が載っています。それによると、梅香中学校は、昭和20(1945)年4月に大阪市立此花第二中学校として創立、伝法町北3丁目30番地の市立伝法小学校に併設され、島屋小学校も校区でした。
実際の開校は、高岡政一初代校長のもと、昭和24(1949)年になりました。翌昭和25(1950)年4月に、校名を大阪市立梅香中学校と改称し、同年10月に、現在の梅香小学校がある四貫島梅香町24番地の新校舎に移転します。
昭和27(1952)年3月15日に第1回卒業式を挙行し、1期生の324名は同窓会「晩鐘会」を結成しました。
昭和28(1953)年2月、恩貴島小学校跡の春日出町364番地にて新校舎建築の地鎮祭を行い、昭和29(1954)年1月に竣工、現在の梅香中学校となりました。 (2021.12.10 此花図書館)
参考文献
『大阪市立梅香中学校創立70周年記念誌』
大阪市立梅香中学校創立七十周年記念事業委員会 2019 書誌ID 0014796734 p.8
受付日
2019年10月16日
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昭和20年代まで(1926-1954)
タイトル
貸しボート
投稿者
昭和17(1942)年生
いつ頃
小学生の頃
思い出
貸しボート屋が正蓮寺川にかかる森巣橋北詰西側にありました。
場所
補足・追加情報
現在公園として整備されつつある正蓮寺川は、かつての都市生活者にとっての舟遊びの場所でした。伝統的な宗教行事である川施餓鬼も、昭和42(1967)年、川渡御を新淀川に移すまで行われていました。『写真で見る此花区 -大阪市制100周年記念-』には、伝法正連寺川大施餓鬼の図や水が豊かにあった時代の森巣橋あたりの写真が載っています。
昭和30年代、貸ボート屋は人気で、他にも中之島や戎橋の下など、当時の若いアベックや学生たちが水上デートや遊覧を楽しんだそうです。 (2022.2.6 此花図書館)
参考文献
『大阪春秋 通巻98号 城下町と諸藩』
大阪春秋社 2000 書誌ID 0000807363 p.112 田野登「冠辞「水都」考-大都会のパラダイム変換を読む-」
大阪市 イベント・観光 歴史・文化 大阪市指定文化財 大阪市指定文化財(指定年度別) 大阪市指定文化財(平成16年度) 正蓮寺の川施餓鬼
https://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000009077.html
(2022年2月6日確認)
『写真で見る此花区 -大阪市制100周年記念-』
市制100周年記念事業此花区実行委員会/編集 此花区コミュニティ協会 1990.5 書誌ID 0000367660 p.52,59
『大阪は水の都(ビジュアルブック水辺の生活誌)』
西浦宏己/写真 岩波書店 1994 書誌ID 0000421720 p.11,18-19
『朝日新聞2013年4月17日 朝刊 大阪』2面「(おおさか昭和旅行)中之島のボート 1950年 川面で団らん、週末は列」(商用データベース「聞蔵Ⅱビジュアル -朝日新聞記事-」でご覧いただけます)
受付日
2020年9月19日
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・此花区
昭和20年代まで(1926-1954)
昭和30年-40年代(1955-1974)
川
タイトル
安治川トンネル2
投稿者
昭和23年生
いつ頃
思い出
源兵衛渡という呼称は今も使われているのでしょうか?
今通れるのは人と自転車だけですが、以前は車も通れました。エレベータで下り、自分で運転して対岸まで行き、エレベータで上りました。九条にいた友人を訪ねてよく利用しました。
昭和52年に車が通れなくなってからは、ほとんど利用したことがありませんが、亡くなった友人を偲んで、また一度渡ってみたいです。
場所
補足・追加情報
安治川は、江戸期から、物資輸送の大動脈として多くの船で賑わいましたが、船舶の往来を妨げないよう、橋が架けられず、両岸の連絡は渡船に頼るしかありませんでした。しかし、近代以降の工業化の進展により自動車の交通量が激増、「源兵衛渡」付近に安治川隧道が開通しました。昭和10(1935)年に着工、昭和19(1944)年に完成しました。
『安治川河底とんねる』によれば、当時の土木技術の粋を集めた画期的構造物でした。両岸の建物の基礎は、「圧気潜函工法」により鉄筋コンクリートの箱を沈め、トンネルの主要部分は、船で曳航した角型チューブ(沈埋函)を「沈埋工法」により河底の溝に沈め、全体を橋のような構造にしたことなどが主な特徴です。
昭和52(1977)年に車道は閉鎖され、現在は、歩行者と自転車だけが利用できます。自動車交通量の増加と大型化・高速化に対して、エレベータでは対応しきれなくなったこと、上流・下流にも橋がかけられたことが主な理由です。
『此花区史』によれば、安治川隧道の開通により、源兵衛・二丁目・二丁目荷車・玉船の4渡船が廃止されたのをはじめ、渡船場は減っていきました。しかしながら、「源兵衛渡」の名は、西区側へ渡った先の交差点の名前として今も残っています。(2021.3.9 此花図書館)
参考文献
『此花区史』
大阪市此花区役所/編集 大阪市此花区三十周年記念事業委員会 1955書誌ID 0000228462
『此花コロンブスマップ -此花区制80周年記念-』
大阪市此花区役所 2005 書誌ID 0011012218
『安治川河底とんねる』
大阪市建設局 [2011] 書誌ID 0012451514
『このはなお宝いっぱい!プレミアム -まちを知って自慢しよう!-』
大阪市此花区役所 2013 書誌ID 0012734280
此花区 区内の史跡案内 安治川隧道(あじがわずいどう)
https://www.city.osaka.lg.jp/konohana/page/0000001459.html
(2021.11.4確認)
大阪市 橋のダウンロード・コーナー(パンフレットなど) 安治川河底とんねる
https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000274976.html
(2021.11.4確認)
受付日
2019年5月31日
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・此花区
昭和30年-40年代(1955-1974)
昭和50年-60年代(1975-1989)
道路
川
タイトル
貸本屋
投稿者
昭和23年生
いつ頃
昭和36年より前
思い出
貸本屋があり、小学生の頃はよく漫画を借りました。
場所
補足・追加情報
投稿者に詳しくお尋ねしたところ、思い出の貸本屋は、千鳥橋筋商店街より東、梅香東公園(ひょうたん公園)よりは西のところにありました。昭和36(1961)年の住宅地図を見ると、当時の四貫島千鳥町に「ちどり書店」として載っています。
昭和18(1943)年に大阪で生まれた著者による『昭和の子ども図誌』には、「貸本」について、「貸本といえばそのほとんどは漫画である。漫画の中でも、子ども向き雑誌では『冒険王』『少年画報』などに連載されていた人気漫画の他、講談や偉人伝、探偵物などの漫画を主に読んだものである。(中略)一冊借りるのに五円か十円位したのではないかと思う。」と書かれています。(2021.4.14 此花図書館)
参考文献
『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 昭和36年版』
[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167518
『ゼンリン住宅地図大阪市此花区 [2020]』
ゼンリン 2020 書誌ID 0014912962
『昭和の子ども図誌 -戦後の遊びと生活-』
櫻井尚/著 東洋出版 2019 書誌ID 0014675420 p.243
受付日
2019年5月19日
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・此花区
昭和20年代まで(1926-1954)
昭和30年-40年代(1955-1974)
タイトル
ボーイスカウト日本ジャンボリー
投稿者
1989年生
いつ頃
2002年8月3日-7日
思い出
2002年8月に行われた、ボーイスカウト第13回日本ジャンボリーに参加するため、生まれて初めて大阪へ行きました。会場は、舞洲スポーツアイランドで、所属ごとにテントを張って過ごしました。USJにも行ったと思います。
場所
舞洲スポーツアイランド
補足・追加情報
日本ジャンボリーは、ボーイスカウトたちがキャンプを通じて交流を深める4年に1度の行事です。第13回日本ジャンボリーは、平成14(2002)年8月3日から7日まで、此花区の舞洲スポーツアイランドで開催されました。
ボーイスカウト大阪連盟は、平成10(1998)年から日本ジャンボリーの大阪招致運動を始めました。その頃、舞洲をメイン会場とする2008年大阪オリンピックの招致活動も進められていました。平成10(1998)年3月17日に開かれた大阪市会財政総務委員会では、オリンピック招致を見据えて日本ジャンボリーの大阪開催に積極的な委員の質問に対し、当時の磯村市長が次のように答えています。「…ボーイスカウトのジャンボリーというのは全国から集まって…オリンピックがもし2001年に大阪に決まっておりましたら、オリンピックに向けてのいろんなボランティア活動をお願いするのにも非常に役に立つと思いますし…大阪市内で開催されるということが決定されましたら、大阪市としては最大限の協力をしてまいりたい…」
『大阪ボーイスカウト運動史 第5巻』によれば、第13回日本ジャンボリーは、大阪連盟が提案した多くの新しい試みがとり入れられ、初の都市型ジャンボリーとして、行政・企業・団体・地域等多くの協力のもと大成功を納めたとあります。参加者は、約2万人でした。
なお、前年の平成13(2001)年3月31日には、同じ此花区内にユニバーサル・スタジオ・ジャパンがオープンしています。同年7月13日、2008年オリンピックの開催都市は、大阪ではなく北京に決まりました。(2020.8.29 此花図書館)
参考文献
『大阪ボーイスカウト運動史 第5巻 平成11年度から平成20年度まで』
日本ボーイスカウト大阪連盟 2015 書誌ID 0013542971 p.169-174
『通常予算に関する大阪市会常任委員会記録 平成10年度 その1』
大阪市会 [1998] 書誌ID 0000676404 p.171-172
『ユニバーサル・スタジオ・ジャパン公式ガイドブック』
角川書店 2001 書誌ID 0010039881 p.114
『2008年オリンピック競技大会招致活動報告書』
大阪オリンピック招致委員会 2001 書誌ID 0010211132 p.198
受付日
2020年2月6日
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・此花区
平成(1989-2019)
タイトル
キャラメル
投稿者
昭和21年生
いつ頃
小学生の頃
思い出
半分が縦柄の地味な箱に入ったキャラメルを思い出します。長い間10円で買っていました。森永キャラメルは高くて買えなかった記憶があります。
場所
近所の駄菓子屋
補足・追加情報
そのキャラメルは、カバヤ食品株式会社(岡山市)製造の、カバヤキャラメルと思われます。『おまけとふろく大図鑑』p.46に、カバヤキャラメルのカラー写真が載っています。赤地に白抜きの文字、箱の正面を横切る対角線の片側に、茶褐色の縦じまがあしらわれたデザインです。同社による「カバヤの歴史」サイトでも、カバヤキャラメルの箱が紹介されています。
『昭和こども図鑑』p.123によれば、カバヤキャラメルの10円に対し、森永ミルクキャラメルや、明治クリームキャラメルは20円とあり、倍の値段でした。
さらに、カバヤキャラメルには、特筆すべきおまけがついていた時期がありました。封入されている文庫券50点分を集めると、カバヤ文庫の中の1冊と交換できたのです。『おまけとふろく大図鑑』によれば、カバヤ文庫は昭和27(1952)年8月から昭和29(1954)年まで、159冊、2,500万部が発行されました。ハードカバーで日本と世界の名作がそろい、子どもの小遣いで手の届く児童書として、広く支持されました。
子ども向けとはいえ、序文は著名人が執筆していました。『おまけの名作』によれば、「アラビアンナイト」は吉川幸次郎、「孫悟空大暴れ」は貝塚茂樹、「アルプスの少女」は今西錦司、「レ・ミゼラブル」は桑原武夫、「あかずきん」は新村出、「悲劇のリヤ王」は野上弥生子、といった顔ぶれでした。
なお、デジタル岡山大百科(岡山県立図書館電子図書館システム)では、同図書館が所蔵するものを中心に、カバヤ文庫を閲覧することができます。(2020.8.24 此花図書館)
参考文献
『おまけとふろく大図鑑 -子どもの昭和史-(別冊太陽)』
平凡社 1999 書誌ID 0000720343
『昭和こども図鑑 -20年代、30年代、40年代の昭和こども誌-』
奥成達/文 ポプラ社 2001 書誌ID 0010105143
『おまけの名作 -カバヤ文庫物語-』
坪内稔典/著 いんてる社 1984 書誌ID 0080086725
カバヤ食品ホームページ カバヤの歴史
https://www.kabaya.co.jp/about/history.html
(2020年8月11日確認)
デジタル岡山大百科(岡山県立図書館 電子図書館システム)
http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/
(2020年8月11日確認)
デジタル岡山大百科 カバヤ児童文庫
http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/kabaya/bunko/index.htm
(2020年8月11日確認)
受付日
2019年7月22日
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昭和20年代まで(1926-1954)
昭和30年-40年代(1955-1974)
タイトル
芝居小屋
投稿者
昭和23年生
いつ頃
昭和36年より前
思い出
芝居小屋があり、夏に怪談を観に行ったような、かすかな記憶があります。
場所
千鳥橋駅前から信号を渡って南の方(春日出中学校の方)に行った最初の信号のところだったと思います。
補足・追加情報
昭和36(1961)年の地図で、千鳥橋駅前から南へたどると、5つめの交差点角に、「大和劇場」とあります。最近の地図で同じ場所を確かめると、駅前から信号を渡って、千鳥橋筋商店街を南へ進んだ最初の信号の北東角に当たり、現在はパチンコ店になっています。
『此花区史』は、昭和30(1955)年の刊行で、巻末に、各種団体や商工業者の広告が載っています。千鳥橋筋にある「ヤマト劇場」も掲載されていて、キャッチフレーズは「芝居と万才」です。夏には、怪談ばなしも上演されていたのでしょうか。(2020.6.30 此花図書館)
参考文献
『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 昭和36年版』
[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167518
『ゼンリン住宅地図大阪市此花区 [2019]』
ゼンリン 2019 書誌ID 0014737898
『此花区史』
大阪市此花区役所/編 大阪市此花区三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000228462
受付日
2019年5月31日
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昭和20年代まで(1926-1954)
昭和30年-40年代(1955-1974)
タイトル
コマ回し
投稿者
昭和23年生
いつ頃
昭和36年より前
思い出
お正月には羽根つきや、男の子のようにコマ回しもしました。地面で回すだけでなく、手のひらや手に持ったカンのふたにコマを飛ばしてのせて回し、カンのふたの上で回っている間は、追いかけたり逃げたりできる鬼ごっこのような遊びもしました。
場所
梅香東公園付近の路上
補足・追加情報
コマを回しながらする鬼ごっこについては、いずれも子ども時代を大阪で過ごした著者による『昭和わんぱく遊び図鑑』と『昭和の子ども図誌』に、記述があります。
『昭和わんぱく遊び図鑑』p.14には、「独楽(こま)鬼」という見出しで、「鬼ごっごにコマ回しをプラスした遊びである。まず、ジャンケンで鬼を決める。追いかける鬼も逃げるみんなも、回っているコマを掌(てのひら)に乗せて走らなければいけない。コマが止まったら、その場で立ち止まり、ふたたびコマを回して掌に乗せないと動くことは許されない。後はまったく鬼ごっこと同じである。回したコマを空中で直接掌に受け止めるテクニックがない者は、ひとまず地面やコンクリートの上で回し、それを下敷きなどですくって掌に乗せてもよいが、それだけ余計に時間がかかり、不利になるのは仕方がない。」とあります。
『昭和の子ども図誌』p.77では、「独楽・鬼ごっこ」という見出しで、「まず、ジャンケンで二つのグループに分かれる。皆それぞれ自分の独楽をもち、独楽を手の平の上で回して独楽が回っている間は走ることができる。独楽が止まるとその場で立ち止まらなければならないので、相手が来る前に急いで独楽の紐を巻き、再び回して走りだす。相手のグループにタッチされると相手の陣地(電信柱)などで手を付いて仲間が助けてくれるまで待たなければならないから、長くよく回る独楽であればそれだけ相手に捕まりにくく…セルロイドの下敷きを持ち出して、その上で回したり、あるいは缶の蓋などの上に回すと長く回っているのであるが、今度はそれが荷物になってしまい、動作が遅くなって捕まり易くなったりした。」とあります。(2020.7.28 此花図書館)
参考文献
『昭和わんぱく遊び図鑑』
佐伯俊男/著 ビリケン出版 2006 書誌ID 0011294871 p.14
『昭和の子ども図誌 -戦後の遊びと生活-』
櫻井尚/著 東洋出版 2019 書誌ID 0014675420 p.77
受付日
2019年5月31日
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昭和20年代まで(1926-1954)
昭和30年-40年代(1955-1974)
遊び
タイトル
ポン菓子屋さん
投稿者
昭和23年生
いつ頃
昭和36年より前
思い出
ポン菓子屋さんが回ってきていて、お米を持っていき、ポン菓子機の中に入れて熱を加えてしばらく回し、ふたを開けるとポンと爆発音がして金網の入れ物の中にお米がふくらんだポン菓子が出てきて、それに砂糖蜜をかけて出来上がり。おいしかったです。
場所
梅香東公園付近の路上
補足・追加情報
『菓子(新・食品事典10)』によれば、ポン菓子は「米を膨化加工した菓子。米を密閉した容器の中で加熱しながら圧力をかける。急激にその圧力を抜くと、米は膨化してちょうどポップコーンのようになる。表面にあめをまぶしたり、球形やおこし状にしたものもある。」と定義されています。
ポン菓子機の窯に、材料の米を入れ、内部を10気圧ほどまでに上げていきながら、約10分間炒ります。窯のふたをハンマーでたたいて開放すると、バーンという爆発音とともに、米の体積は10倍ほどに膨れてカゴに飛び出し、出来上がりです。
大きな音のために、家にいても、ポン菓子屋さんが来たのがわかりました。『昭和三十年なにわ大阪花暦』には、「お母ちゃんポン菓子やさん来てはる」「ほなお米とザラメと持って頼んどいで」という会話に添えて、リヤカーに積まれたポン菓子機、その前で思わず耳をふさぐ可愛らしい女の子の姿が描かれています。(2020.5.31 此花図書館)
参考文献
『菓子(新・食品事典 10)』
河野友美/編 真珠書院 1991 書誌ID 0000179237
『愛媛大学法文学部論集 総合政策学科編 Vol.29 2010』p.1-43 和田寿博「ポン菓子とポン菓子機および愛媛県のポン菓子の食文化」愛媛地区共同リポジトリ(IYOKAN)
https://opac1.lib.ehime-u.ac.jp/iyokan/TD00003331
(2020年11月23日確認)
『読売新聞 2007年8月22日朝刊 西部(福岡) 』「我がポン菓子人生悔いなし タチバナ菓子機社長吉村利子」(商用データベース「ヨミダス歴史館 -読売新聞記事-」でご覧いただけます)
『サライ 1996年5月16日 / 8巻10号 通巻161号』
小学館 1996 書誌ID 5100055297 p.98「路上の職人たち:ポン菓子」
『儲けるポン菓子と儲かるポン菓子』
渡邊階男/著 近代文芸社 1995 書誌ID 0000512702
『昭和三十年なにわ大阪花暦』
岡崎佐紀子/著 風詠社 2014 書誌ID 0012955054
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タイトル
街頭紙芝居
投稿者
昭和23年生
いつ頃
昭和36年より前
思い出
公園に自転車に紙芝居をのせた紙芝居屋さんが来て、水飴などのお菓子を買って見せてもらいました。
場所
今の梅香東公園
補足・追加情報
『紙芝居は楽しいぞ!』には、自転車で乗り付けると、拍子木の「チョーン、チョーン」という音で子どもたちを集め、先に駄菓子を売ってから、紙芝居を演じ、「次はどうなるでしょうか。それは明日のお楽しみ。」と言って去っていく紙芝居屋の様子が活写されています。紙芝居屋は、駄菓子売りであり街頭芸人でした。街頭芸としての紙芝居は、紙芝居の画、紙芝居屋のセリフ、それを見る子どもたちの容赦のない野次・突っ込みに支えられていました。
『サライ』1996年5月16日号には、「路上の職人たち」という特集が載っています。東京の例ですが、現役の紙芝居屋が、「引き出しを開けて、2本の割箸にクルックルッと水飴を巻きつける」様子や、「戦後すぐはイモ飴くらいしかなかったですよ。水飴が出てきたのはしばらく経ってからでした」と語る姿が紹介されています。
『紙芝居 -街角のメディア-』によれば、戦後の紙芝居人気のピークは、1948年から49年にかけてで、大阪では1日に35万人が紙芝居を見ていた計算になるそうです。紙芝居屋は、1950年頃全国で5万人いたと言われ、『紙芝居がやってきた!』によると、大阪府の紙芝居業者数は、昭和29(1954)年の1,545人が最高でした。
そんな街頭紙芝居も、テレビが家庭に普及した1960年代以降は激減しました。(2020.5.15 此花図書館)
参考文献
『紙芝居百科』
紙芝居文化の会/企画制作 童心社 2017 書誌ID 001440498
『紙芝居は楽しいぞ!』
鈴木常勝/著 岩波書店 2007 書誌ID 0011412113
『紙芝居がやってきた!』
鈴木常勝/著 河出書房新社 2007 書誌ID 0011370797
『紙芝居 -街角のメディア-』
山本武利/著 吉川弘文館 2000 書誌ID 0000825185
『サライ 1996年5月16日 / 8巻10号 通巻161号』
小学館 1996 書誌ID 5100055297 p.94-95「路上の職人たち:紙芝居」
大阪市立中央図書館では、「懐かしの紙芝居」シリーズとして、「黄金バット」や「丹下左膳」等の複製版を所蔵しています。
国際児童文学館の「街頭紙芝居」のサイトでは、同館が所蔵する紙芝居の画像を公開しています。
https://www.library.pref.osaka.jp/central/kamishibai/index.html
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昭和20年代まで(1926-1954)
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公園
タイトル
トンボ・メダカ・カエル…
投稿者
1942年生
いつ頃
1946年から1950年ころまで、4歳-7歳くらい
思い出
トンボとヤゴそしてメダカ、カエルが沢山取れたよ。
場所
現在の酉島3・4丁目付近。一帯が沼地でありました。
補足・追加情報
現在の酉島3丁目・4丁目は、昭和50(1975)年9月1日の住居表示実施までは、酉島町4丁目・5丁目・6丁目にあたり、昭和35(1960)年2月20日の行政区画変更までは、酉島町、秀野町、恩貴島北之町の一部でした。
沼地であったことを文献で確認することはできませんでしたが、昭和21(1946)年に発行された地図によれば、一帯は大半が戦災で焼失したことがわかります。地形図を見ても、戦災を被る前の昭和9(1934)年には、工場(日本染料製造、後の住友化学酉島工場)の他、家屋がびっしり立ち並んでいたのに、昭和25(1950)年では、工場の敷地以外、ほぼ空白で、家屋の再建が進んでおらず、広々としていたことがうかがえます。(2019.11.10 此花図書館)
参考文献
『大阪の町名 -その歴史- 下巻』
大阪市市民局 1992 書誌ID 0010764328
『大阪市街図 -戦災焼失区域表示-』
日本地図 1946 書誌ID 0080350062
『大阪市戦災焼失区域図』
日本地図 1946 書誌ID 0080240713
『大阪近傍[図] 15 大阪西北部 2万5千分1地形図』
大日本帝国陸地測量部 1934 書誌ID 0080349932
『大阪西北部(二万五千分一地形図 仮製版)』
地理調査所 1950 書誌ID 0000270053
『住友化学工業株式会社史』
住友化学工業 1981 書誌ID 0000558830
受付日
2019年5月10日
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昭和20年代まで(1926-1954)
タイトル
川遊び
投稿者
1942年生
いつ頃
1946年から1950年ころまで、4歳-7歳くらい
思い出
北港大橋の下でコイが沢山泳いでいたよ。泳ぐ人もおったよ。
場所
正蓮寺川。北港大橋付近。
補足・追加情報
現在の北港大橋付近は、正蓮寺川の埋め立てが進み、ほとんど水がなくなっています。しかし、1952年の地図を見ると、上流の中津川から水をたたえ、当時の嬉ヶ崎町あたりで六軒家川を分岐し、北港へ注ぐ正蓮寺川がありました。川には千鳥橋をはじめ幾つもの橋がかかっており、港に近い最も下流の橋が北港大橋です。
野生のコイは、琵琶湖・淀川水系をはじめ、湖や大きな川の下流域から汽水域に生息する淡水魚です。
『目で見る此花の“昨日今日明日”』には、同じ正蓮寺川のより上流にかかる森巣橋の思い出として、男の子が橋の上から川に飛び込んで遊んだり、コイではありませんがメダカが泳いだりしていたという話が紹介されています。昔の正蓮寺川がそれだけきれいだったことがわかります。(2019.10.2 此花図書館)
参考文献
『大阪市区分地図 -ポケット型-』
和楽路屋 1952 書誌ID 0011158246
『日本の淡水魚 -写真検索-』
細谷和海/編・監修 山と渓谷社 2015 書誌ID 0013919849
『目で見る此花の“昨日今日明日”』
大阪市此花区役所 2008 書誌ID 0011718154
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昭和20年代まで(1926-1954)
川
橋
タイトル
ハゼ釣り
投稿者
1942年生
いつ頃
1946年から1950年ころまで、4歳-7歳くらい
思い出
淀川ではお化けという魚がよく釣れたよ。(ハゼが卵を産んだ後)
場所
淀川の伝法から常吉まで。釣り場が混雑して大変だった。
補足・追加情報
ハゼは、2-3月に産卵し、稚魚が育ち始める初夏から11月までが釣りシーズンとされています。漁港内や河口域など身近なところで釣れるため、昔からちびっ子釣り師のターゲットでした。1年魚とされていますが、中には越冬して大きくなるものもいるようです。
『目で見る此花の“昨日今日明日”』には、「淀川での釣り風景」という写真が載っています。昭和41年当時のもので時代は下がりますが、なお岸辺は釣竿を持つ人々でいっぱいです。また、川岸ではありませんが、伝法大橋から釣り糸をたれる人々の写真もあり、女性や子どもも混じって橋の上は大賑わいです。昭和の20年代から40年代まで、伝法あたりの淀川で釣りをするのは日常的だったようです。(2019.10.2 此花図書館)
参考文献
『魚釣り入門 -オールカラー図解-』
ケイエス企画 2013 書誌ID 0012725397
『海の釣魚・仕掛け大事典 -水中解説でよくわかる-』
豊田和弘/著 成美堂出版 2010 書誌ID 0012162159
『親子で楽しむ釣りがわかる本 -海、川、湖。各釣り場で最適な釣り方を徹底解説!-』
地球丸 2005 書誌ID 0011016139
『目で見る此花の“昨日今日明日”』
大阪市此花区役所 2008 書誌ID 0011718154
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2019年5月10日
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昭和20年代まで(1926-1954)
川
タイトル
公害問題
投稿者
いつ頃
思い出
昭和39年3月、グッディ(旧此花公設市場)の裏口で内科を開業した。道路は舗装されておらず、西六社のおかげで、青空が見えるのは正月三が日だけだった。公害問題が取り上げられ、慢性気管支炎、気管支喘息が非常に多かった。二酸化炭素の濃度が高いと、学校も休校になった。
現在、此花区の幹線道路はようやく拡張され、街灯も立ち始めている。この拡張が決まったのは、昭和40年代だ。
昭和39年3月、環状線は環道、その頃、市電がまだ走っていた。
場所
補足・追加情報
昭和の半ば、此花区は西六社(にしろくしゃ)(大阪瓦斯・汽車製造・住友化学工業・住友金属工業・住友電気工業・日立造船)をはじめ工場が集中する、大阪第一の工業区でした。昭和30年から40年代前半にかけては、高度経済成長にともない公害が激化しました。スモッグの原因は、石炭燃焼による煤塵から、硫黄酸化物へと変わりました。昭和43(1968)年から、大阪市による「此花区特別対策」が始まり、主な大気汚染源である西六社を対象として、昭和45(1970)年に「総合公害防止計画書」が作成されました。
昭和60年度の調査でも、此花区の公害病患者は1,500人ほどいて、大半が、慢性気管支炎か気管支喘息でした。
大阪市電は、明治36(1903)年に花園橋・築港間で開業したのが始まりですが、此花区に関しては、大正9(1920)年10月に朝日橋・兼平町間、大正10(1921)年9月に朝日橋・千鳥橋間、大正11(1922)年5月に三本松・千鳥橋間が順次開業します。昭和4(1929)年11月の桜島・桜島駅前間の開業をもって、西野田桜島線が全通しました。
昭和32年頃に最盛期を迎えた市電も、交通事情の変化により衰退を余儀なくされ、昭和37(1962)年2月に桜島駅前・島屋橋間が廃止、昭和44(1969)年2月1日には島屋橋・今福間および春日出車庫が廃止となり、此花区から姿を消しました。同年3月末には全市で廃止となっています。(2019.1.18 此花図書館)
参考文献
『此花区史』
大阪市此花区三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000228462
『わたしたちの此花区 :5版』
此花区社会科研究部 1988 書誌ID 0090013123
『大阪市公害対策史』
大阪市環境保健局/監修 地球環境センター 1994 書誌ID 0000764854
『大阪市電 -路面電車66年の記録-』
大阪市電編集委員会/編 鉄道史資料保存会 1980 書誌ID 0070117955
受付日
2018年3月23日
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・此花区
昭和30年-40年代(1955-1974)
鉄道
道路
タイトル
淀川河川敷にて
投稿者
1941年生
いつ頃
1951年から1953年頃
思い出
ゴザやダンボールで、淀川河川敷でスキーごっこ。ベッタンやラムネ。
大阪ガスの木炭車の後をついて、コークス拾い。ガタガタ道。
場所
酉島6丁目、5丁目
補足・追加情報
大阪瓦斯の酉島工場は、昭和15(1940)年1月に操業を開始しました。海上輸送による石炭の受け入れ、コークスの出荷が可能であり、ガス工場として最適の立地条件を備えた、当時最新鋭の工場でした。昭和17(1942)年、さらに戦後の昭和26(1951)年から29(1954)年にかけて、設備の拡張が行われました。
『大阪瓦斯五十年史』には、「コークス炉はガス工場の根幹である。装入された原料炭は、ここで約24時間乾溜され、ガスを発生し、コークスとなって押し出される。」とあり、石炭からガスを製造する過程でコークスが生成されました。コークスは、製鉄の溶鉱炉で使われるほか、かんてき(七輪)の火を起こすのに使われ、身近な燃料でした。
都市ガスの原料は昭和30年代半ばに、石炭から石油へ転換されますが、間もなく公害問題が起こり、昭和40年代半ばからLNG(液化天然ガス)が導入されて、現在に到ります。コークス拾いは、ガスが石炭によって作られていた時代ならではの風景だったと言えましょう。(2019.1.18 此花図書館)
参考文献
『大阪瓦斯五十年史』
大阪瓦斯株式会社社史編集室 1955 書誌ID 0080153509
『此花区史』
大阪市此花区三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000228462
『炎の産業「都市ガス」-進化するクリーンエネルギーのすべて-』
山口正康/著 エネルギーフォーラム 2009 書誌ID 0011946603
『このはなお宝いっぱい!プレミアム -まちを知って自慢しよう!-』
大阪市此花区役所 2013 書誌ID 0012734280
受付日
2018年2月11日
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・此花区
昭和20年代まで(1926-1954)
遊び
タイトル
盆踊り
投稿者
1966年生
いつ頃
1970年代
思い出
盆踊りの曲に「此花音頭」というのがあった。
場所
補足・追加情報
大阪市コミュニティ協会此花区支部協議会のサイトには、区民音頭として「この花よいとこ」が紹介されています。投稿者に確認していただいたところ、この曲だとのことでした。同サイトに、1番から4番までの歌詞と、おどり方の図解が載っています。投稿者は、今でも口ずさめるそうです。3番の歌詞には、今はない高見のスケートリンクが登場します。スケートリンクについては、思い出
「ラサスケートリンク」
をご参照ください。
同サイトによれば、此花区制創設50周年を記念してレコードが再販されたようです。写真によると、ジャケットには紅い花をつけた梅の木があしらわれています。
最近の盆踊りでは新しい歌を用いる場合が多く、「この花よいとこ」を聞くことは少なくなったようです。(2019.11.10 此花図書館)
参考文献
一般財団法人大阪市コミュニティ協会此花区支部協議会 まちのこと「区民音頭」
https://www.osakacommunity.jp/konohana/machi_ondo.html
(2019年10月8日確認)
受付日
2018年1月31日
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・此花区
昭和50年-60年代(1975-1989)
タイトル
メンコ遊び
投稿者
1966年生
いつ頃
1970年代後半
思い出
小学校ではやっていた遊びで、びん牛乳の紙のフタをメンコのようにして遊んだ。フタは「ポン」と呼ばれていて、たくさん持っているのがステータスだった。
場所
梅香小学校
補足・追加情報
『大阪市の学校給食』によると、大阪市が全市でパン・ミルク・おかずのそろった「完全給食」を実施したのは昭和25(1950)年9月のことです。ミルクは、初め学校で調乳されていましたが、昭和44(1969)年12月以降は業者による委託乳となりました。昭和45年度に、飲用量が180ccから200ccに増やされました。学校単位で整備すべき消耗品の1つとして、「牛乳栓ぬき」が挙げられていることから、びんに入れた牛乳が供されていることがうかがえます。
『<めんこ>の文化史』に、子どもたちが遊びを創造する好例として、「学校給食で出された牛乳の蓋(ふた)を<めんこ>に転用して遊ぶこと」と書かれているほど、メンコは、かつて、子どもたちになじみのある遊びでした。しかし、その後、ゲーム機の出現などにより、子どもの遊びの風景は変わりました。
梅香小学校の先生によると、牛乳のフタでメンコ遊びしたり、「ポン」と呼んで集めたりする姿は、近年、見たことがないそうです。最近のフタの活用例としては、図工でこまを作る材料にしたほか、水泳の授業でフタに息をふきかけひっくり返す息継ぎの指導などに使ったことがありましたが、平成29年度半ば、ついに、びんから紙パックに変わったとのことです。(2018.12.9 此花図書館)
参考文献
『大阪市の学校給食』
大阪市教育委員会 1971 書誌ID 0080189635
『<めんこ>の文化史』
加藤理/著 久山社 1996 書誌ID 0000592641
『街にあふれた子どもの遊び』
萩野矢慶記/写真・文 彩流社 2015 書誌ID 0013866720
受付日
2018年1月31日
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・此花区
昭和50年-60年代(1975-1989)
遊び
タイトル
くじら屋
投稿者
1966年生
いつ頃
1970年代
思い出
四貫島商店街の一角にくじら肉専門店があった。
場所
四貫島商店街
補足・追加情報
地図を見ると、昭和38(1963)年版に、当時の四貫島元宮町に「くじら屋」が見つかります。その後の町名変更で、そこは四貫島1丁目5となりますが、昭和50年代まで「くじら屋」は健在でした。
ところが、昭和59(1984)年版の地図では、かしわの店と併設になり、昭和64(1989)年1月の地図では、ついに「くじら屋」の文字が消え、かしわの店だけになりました。
捕鯨業は1960年代が最盛期で、その後減っていきますが、1970年代までは、学校給食でもよくくじら肉は食べられていました。しかし、昭和57(1982)年に国際捕鯨委員会が商業捕鯨の一時停止を決定し、日本でも昭和61(1986)年の漁期(1987年3月頃まで)をもって南極海での捕鯨は中止となり、以来、漁獲量は激減しました。(2018.8.13 此花図書館)
令和元(2019)年7月1日、領海および排他的経済水域に限定して商業捕鯨は再開されました。(2019.7.3 此花図書館追記)
参考文献
『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 昭和38年版』
[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167517
『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 [昭和42年]』
[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422830
『大阪市精密住宅地図 此花区 昭和42年』
住宅協会出版部 1967-1984 書誌ID 0080242222 合綴5冊
『大阪市精密住宅地図 此花区:再版 昭和53年11月』
吉田地図 1978 書誌ID 0000435520
『大阪市精密住宅地図 此花区 [昭和61年]』
吉田地図 1986 書誌ID 0000500969
『大阪市精密住宅地図 此花区 [昭和62年再版]』
吉田地図 1987 書誌ID 0000501295
『大阪市精密住宅地図 此花区 [1989年]』
吉田地図 1989 書誌ID 0000500970
『鯨を捕る』
市原基/写真・文 偕成社 2006 書誌ID 0011240481
『日本の長期統計系列 第7章 農林水産業 7-49 捕鯨業』総務省統計局 2012年最終更新
http://www.stat.go.jp/data/chouki/07.html
(2018年8月13日確認)
水産庁 報道発表資料「商業捕鯨の再開について」令和元年年7月1日
http://www.jfa.maff.go.jp/j/press/kokusai/190701.html
(2020年11月23日確認)
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2018年1月31日
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・此花区
昭和30年-40年代(1955-1974)
昭和50年-60年代(1975-1989)
タイトル
西九条の映画館
投稿者
1966年生
いつ頃
1970年代
思い出
西九条駅近くに映画館があった。上映は成人向けばかりだったが…
場所
JR西九条駅のすぐ近く
補足・追加情報
西九条駅近くの映画館は「明治座」といいました。
『全国映画館録 昭和5年4月現在』によれば、館名=明治座、所在地=此花区朝日橋通、興行主=寺田キネマ、映画系統=各社、とあり、遅くとも昭和5(1930)年には、営業を始めていたことがわかります。現在の此花区域で営業していた映画館は、当時、他に2館ありました。
時代が下って、『映画便覧1968』にも、此花区に所在する4映画館の1つとして、「西九条明治座」の記載があり、構造は鉄骨3階建、冷暖房完備、定員352名、系統は大映・東映・日活・東宝とあり、当時は幅広く上映していたことがうかがわれます。
『目で見る此花の“昨日今日明日”』には、昭和31(1956)年正月に撮影された、西九条駅前映画館(明治座)という写真が載っており、当時の建物の様子や、洋画も扱っていたことなどがわかります。
住宅地図によれば、「明治座」は朝日橋通2丁目、阪神西九条駅が出来た後は、西九条上通2丁目、現在の町名表示では、西九条3丁目にありました。昭和59(1984)年の地図には、まだ映画館明治座として載っていますが、昭和61(1986)年の地図では無くなり、パチンコ屋に変わりました。(2019.6.26 此花図書館)
参考文献
『大阪「映画」事始め』
武部好伸/著 彩流社 2016 書誌ID 0014184060
国立国会図書館デジタルコレクション『全国映画館録 昭和5年4月現在』キネマ旬報社 1930
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1218259
(2020年11月23日確認)
国立国会図書館デジタルコレクション『映画便覧1968』時事通信社 1968 国立国会図書館内公開
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2472573
(2020年11月23日確認)
『目で見る此花の“昨日今日明日”』
大阪市此花区役所 2008 書誌ID 0011718154
『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 昭和36年版』
[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167518
『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 昭和38年版』
[吉田地図] [2006] 書誌ID 0011167517
『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 [昭和42年]』
[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422830
『大阪市精密住宅地図 此花区 昭和42年』
住宅協会出版部 1967-1984 書誌ID 0080242222 合綴5冊
『大阪市精密住宅地図 此花区:再版 昭和53年11月』
吉田地図 1978 書誌ID 0000435520
『大阪市精密住宅地図 此花区 [昭和61年]』
吉田地図 1986 書誌ID 0000500969
受付日
2018年1月31日
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・此花区
昭和30年-40年代(1955-1974)
昭和50年-60年代(1975-1989)
タイトル
卓球場
投稿者
1966年生
いつ頃
1980年代前半
思い出
中学校で卓球部だったので、西九条駅下の卓球場へ通い、よく練習に使った。
場所
JR西九条駅高架下
補足・追加情報
昭和46(1971)年の住宅地図を見ると、西九条駅の「ガード下」について別表による補足があり、他の店舗名に並んで、2階部分に「卓球場(浜谷)」と記載があります。卓球場は、1970年代初めには、既に西九条駅の下にあったようです。
昭和50(1975)年以降の地図では、当時の朝日橋通ニ丁目にある、OK19番街のガード下2階部分に「卓球場」と書き込まれています。町名が西九条四丁目に変わった後も、卓球場は存続し、昭和59(1984)年の地図まで、その存在を確認することができます。(2018.12.9 此花図書館)
参考文献
『大阪市精密住宅地図 此花区 [昭和42年]』
吉田地図 1967-1984 書誌ID 0080242222 合綴5冊
『大阪市精密住宅地図 此花区:
再版
昭和53年11月』
吉田地図 1978 書誌ID 0000435520
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・此花区
昭和30年-40年代(1955-1974)
昭和50年-60年代(1975-1989)
タイトル
高架下の公園
投稿者
1966年生
いつ頃
1970年代後半から1980年頃
思い出
雨が降ると高架下の公園へ避難して遊んだ。今、Googleストリートビューで見ると、ブランコがわずかに残っているが、昔はもっと遊具があった。
場所
昇陽高等学校の横の川と高架の道路が交差するところ
補足・追加情報
その公園は、嬉ヶ崎(きがさき)公園と思われます。六軒家川にかかる嬉ヶ崎橋の西の高架下にあります。『此花区の地域活動の概要』によれば、嬉ヶ崎公園は、朝日2丁目にあり、面積は477平方メートル、昭和47(1972)年4月1日に開園しました。
『大阪府都市公園一覧表』によると、市有ではなく府有地となっています。
此花区等の公園を管轄する扇町公園事務所に問合せたところ、現在のようにブランコだけになったのは、平成12(2000)年11月だそうですが、それ以前にもっと遊具があった時代の記録は残っていないとのことです。(2018.8.8 此花図書館)
参考文献
『此花区の地域活動の概要 平成2年度』
大阪市此花区役所総務課/編 大阪市此花区役所 1990 書誌ID 0090011056
『大阪府都市公園一覧表 平成29年3月31日現在』
[大阪府]都市整備部都市計画室公園課 2018 書誌ID 0014511171
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・此花区
昭和50年-60年代(1975-1989)
公園
タイトル
ひょうたん公園
投稿者
1966年生
いつ頃
思い出
家の近くに「ひょうたん公園」と呼ばれる公園があった。
場所
梅香1丁目だと思う。
補足・追加情報
ひょうたん公園として親しまれているのは、梅香東公園です。
『梅香 -創立50周年記念誌-』の「校下の歴史」によれば、梅香東公園(ひょうたん公園)が、昭和37(1962)年10月に開園したとあります。「今の校下のようす」には、梅香東公園(ひょうたん公園)として写真も載っています。
『甦えるわが街』によると、戦災後の土地区画整理事業の中で、公園の全くなかった四貫島工区に、3つの公園の新設が計画されました。梅香東公園は、3,887平方メートル。当初は、円形の藤棚に向かい合う形で、砂場、ジャングルジム、トンネルを円形にまとめてありました。その形状から「ひょうたん公園」と呼ばれるようになったと思われます。その周辺には、鉄棒、カラー丸太、すべり台、ブランコなどの遊具が配置され、ヒラドツツジ、ハマヒサカキ、キョウチクトウ等、1,090本が植樹されていました。(2018.8.8 此花図書館)
参考文献
『梅香 -創立50周年記念誌-』
大阪市立梅香小学校創立50周年記念事業実行委員会 1975 書誌ID 0080217818
『甦えるわが街 -戦災復興土地区画整理事業- 此花地区』
大阪市土地区画整理協会 1978 書誌ID 0000324505
『此花区の地域活動の概要 平成2年度』
大阪市此花区役所総務課/編 大阪市此花区役所 1990 書誌ID 0090011056
受付日
2018年1月31日
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・此花区
昭和30年-40年代(1955-1974)
昭和50年-60年代(1975-1989)
公園
タイトル
むさしや
投稿者
昭和22(1947)年生
いつ頃
昭和28年から40年頃
思い出
今の此花区役所が大きな公園だった頃、その前の通りに「むさし堂」という和菓子屋がありました。戦禍のため、その後は四貫島商店街に移り、化粧品と小間物を扱う「むさしや」になりました。買い物といえば小売店という時代、賑わう四貫島商店街では、毎月5と10のつく日は、必ず夜店が出て、それは楽しみなことでした。カーバイドを燃やして、ござの上で渋い声で雑誌を売るおじさん。裸の上半身に汗を光らせ、しかめっ面で、鉄板を一枚一枚ひっくり返していたイカ焼きのおじさん。私は20円握りしめ、輪投げへと走るのです。後方に並ぶこけしはなかなか難しく、いつも小さな猫や犬の置物でも満足して帰るのですが、それらも土で出来た趣のあるものでした。今でもカーバイドのにおいと共に、鮮やかに私の心の中に佇んでいる風景なのです。
場所
四貫島商店街。四貫島元宮町という住所表示でした。現在の四貫島本通り商店街です。
補足・追加情報
昭和10-18年頃の此花公園(現区役所)附近を描いた地図によると、「むさし堂」は公園の南側、「安田メリヤス」と「日野溶接」に挟まれ、裏手には「内藤医院」がありました。四貫島商店街に移った後の、昭和23年当時の「むさし屋」や、四貫島元宮商店街の様子は、『目で見る此花の“昨日今日明日”』p.148の写真で確認できます。
昭和42年の商工住宅地図を見ると、今の四貫島本通り商店街と中央通り商店街とが交差するあたりに、「化粧品ムサシヤ」があります。
商店街の基礎となる、四貫島商店会は、昭和23年11月に結成され、西大阪で初めて鈴蘭燈・アーチ夜間照明装飾を行いました。夜店は、西九条や四貫島梅香町でも出ていましたが、それぞれ4の日、9の日のみで、四貫島元宮町の賑わいぶりがわかります。(2018.5.1 此花図書館)
参考文献
『目で見る此花の“昨日今日明日”』
大阪市此花区役所 2008 書誌ID 0011718154
『大阪市全商工住宅案内図帳 此花区 [昭和42年]』
[吉田地図] [2007] 書誌ID 0011422830
『此花区史』
大阪市此花区役所/編集 大阪市此花区三十周年記念事業委員会 1955 書誌ID 0000228462
受付日
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昭和20年代まで(1926-1954)
昭和30年-40年代(1955-1974)
タイトル
安治川トンネル
投稿者
平成12(2000)年生
いつ頃
思い出
初めて渡った時のウキウキ感が忘れられません。略して「安治トン」と呼んでいます。
場所
補足・追加情報
安治川トンネルは、安治川隧道(ずいどう)とも呼ばれ、此花区西九条から西区九条方面へ抜けることができます。
安治川は、江戸時代に河村瑞賢によって開削されました。大阪港の繁栄とともに、多くの船が行き来したので、その航行を妨げないように、橋を架けることはせず、大正から昭和初期までに、渡し船が10箇所できました。
しかし、交通量の増加に伴い、不便を解消するため、源兵衛渡しの所に、河底トンネルを掘ることが計画されました。昭和7(1932)年、関一市長の時代です。昭和10(1935)年12月に着工、戦争の時代の困難を経て、昭和19(1944)年9月に完成しました。総工費約260万円でした。
まず、鉄筋コンクリートの箱を両岸に埋め、その後、河底部を横断する鉄骨鉄筋コンクリートの沈埋管を据え付けました。これらは、当時諸外国でも例が少ない、画期的な工法で造られました。
川岸のエレベーターで河底に降り、河底を通過して、対岸のエレベーターでまた地上に出ます。当初は、歩行者・自転車だけでなく、自動車も通行していました。その後、交通量がいよいよ増加すると、上流・下流で道路網が整備されたため、昭和52(1977)年、車両用のエレベーター・通路は使われなくなり、現在のような、歩行者と自転車のみの利用となりました。
『このはなお宝いっぱい!プレミアム』では、「川下17mの地底旅行」「トンネルの中は、夏は涼しく冬は暖かい。体験したいポイントだ。」と紹介しています。(2018.2.7 此花図書館)
参考文献
『土木建築工事画報 1936年8月 12巻8号 』
工事画報社 1936 書誌ID 0000475280 (アテネ書房 1995 復刻) p.86-89「安治川河底隧道工事」
『安治川河底隧道概要』
[1953] 書誌ID 0080248194
『日本土木史 大正元年~昭和15年』
土木学会 1973 復刻 書誌ID 0000389921 p.1038「安治川河底トンネル」
『西区の史跡』
西区役所 1995 書誌ID 0050065040 p.25-26 「安治川トンネル」
『建築雑誌 1991年4月 106巻1312号』
日本建築学会 1991 書誌ID 520000046 1巻頭 亀井正博「安治川隧道の歴史」
『大阪府の近代化遺産 -大阪府近代化遺産(建造物等)総合調査報告書-』
大阪府近代化遺産(建造物等)総合調査委員会[ほか]/調査・編集 大阪府教育委員会2007 書誌ID 0011438083 p.132 和田康由「安治川隧道エレベーター・安治川河底隧道」
『このはなお宝いっぱい!プレミアム -まちを知って自慢しよう!-』
大阪市此花区役所 2013 書誌ID 0012734280 p.7
此花区役所ホームページ 区内の史跡案内 安治川隧道
http://www.city.osaka.lg.jp/konohana/page/0000001459.html
(2020年9月9日確認)
大阪市ホームページ 橋のダウンロード・コーナー(パンフレットなど) 安治川河底とんねる
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000274976.html
(2020年9月9日確認)
受付日
2017年10月12日
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平成(1989-2019)
道路
川
タイトル
ラサスケートリンク
投稿者
昭和24(1949)年生
いつ頃
昭和39(1964)年、野田中学校3年生15才頃
思い出
上手に滑るより友達とのおしゃべりが楽しかった。
場所
大開3丁目。現在のパシオスポーツあたり。
補足・追加情報
正式名称は「ラサ国際スケートリンク」。ラサ工業大阪工場の跡地に作られたレジャー施設「ラサ・スポーツセンター」の1施設として、昭和38(1963)年11月23日に開場しました。一周250メートルのスピードリンクと国際規格のホッケー・フィギュアリンクを備え、当時、世界最大の屋内アイススケート場でした。
3万坪の敷地があったラサ・スポーツセンターには、他に、関西初のウォータースライダーを備えたプール、合計100レーンのボウリング場、100打席を超えるゴルフ練習場などがありましたが、一番人気は、スケートリンクでした。多いときで、年間で100万人もの人が訪れましたが、昭和59(1984)年3月31日に閉鎖、その後、高見フローラルタウンとなりました。
場所は、此花区高見1丁目で海老江下水処理場の西側辺りです。福島区大開は隣接しています。(2017.11.1 此花図書館)
参考文献
『ラサ工業80年史』
ラサ工業株式会社社史編纂室/編集 ラサ工業株式会社 1993 書誌ID 0000518592 p.207-210, 251
『このはなお宝いっぱい!プレミアム ‐まちを知って自慢しよう!‐』
大阪市此花区役所 2013 書誌ID 0012734280 p.16
『たかみ ‐わたしたちのまち‐』
大阪市立高見小学校 1978 書誌ID 0080257624 p.14
『目で見る此花の“昨日今日明日”』
大阪市此花区役所 2008 書誌ID 0011718154 p.260
『大阪人 2012年5月号 / 66巻4号』
大阪市都市工学情報センター 2012 書誌ID 5112474979 p.73
受付日
2016年3月1日
利用条件
オープンデータとして、
CC(クリエイティブコモンズ)ライセンス
における
CC BY-SA 4.0
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・此花区
昭和30年-40年代(1955-1974)