『浪速区史』p.287によると、浪速区日本橋三丁目の御蔵跡公園内に大阪市立御蔵跡(おくらあと)図書館が大正10(1921)年10月に開設されました。「通俗の図書を備え、一般公衆の読書観念を助長し市民の修養に資することを目的としたもので」との記述より公共図書館であったことがうかがえます。p.288には御蔵跡図書館の写真もあります。戦時中の昭和19(1944)年に託児所に転用となり閉鎖され、その翌年3月の大阪大空襲で焼失しました。
大阪市立図書館ホームページ図書館のあゆみページでは、草創期当時は東西南北の全4区に1館ずつ設定され、御蔵跡図書館は南区の図書館であることがわかります。御蔵跡図書館の写真もご覧いただけます。
当時は閲覧料を徴収したり、館外への貸出サービスを行わない図書館もありましたが、大阪市の図書館は創立当初から、数え年7歳以上であれば誰でも無料で利用することができ、館外貸出も積極的に行いました。『大阪市立図書館50年史』p.18には、思い出のとおり、閲覧方法は閉架式(出納式)であったことが記述されています。
御蔵跡図書館の利用者には作家の司馬遼太郎氏もおられ、『司馬遼太郎が語る日本 -未公開講演録愛蔵版- 3』p.301によると、中学一年だった昭和11(1936)年から、兵役につく昭和18(1943)年まで、図書館に通ったとあります。
『司馬遼太郎とその時代 戦中篇』のp.69-90「第2章 夢想の霧の中で 3 市立御蔵跡図書館」の項でも、学生の頃の司馬遼太郎氏が学校からの帰宅途中に頻繁に図書館に立ち寄り、夕方6時から9時までを図書館で過ごしたことが述べられています。p.77には履物問屋街があったことも記述されています。
建物の外観は、『司馬遼太郎が語る日本 -未公開講演録愛蔵版- 3』p.301によると、小さな公園の中にあるオランダ農家のような建物だったとあり、「二階建ての白壁で、屋根の勾配もするどく、いい建物でした。」と述べられています。「図書館にある本の全部といってもいいくらい、読んでいたのではないでしょうか。」と図書館の思い出が語られています。
御蔵跡町という町名は、今はありません。『角川日本地名大辞典 27 大阪府』p.264、265の「御蔵跡町」「御蔵跡南之町」の項によると、町名は幕府米蔵があったことに由来します。明治6(1873)年から「御蔵跡町」、昭和19(1944)年に「御蔵跡南之町」に改称され、その後昭和37(1962)年に日本橋東3-5丁目、日本橋筋2-5丁目、下寺町2-4丁目の各一部となりました。
その後、『大阪の町名 -その歴史- 下巻』p.173によると、昭和55(1980)年の住居表示の実施に伴い、「日本橋公園」(旧名 御蔵跡公園)のあった日本橋筋3丁目は日本橋3丁目に改称しています。
図書館のあった公園の位置は、「大阪あそ歩」のまち歩きマップ「司馬遼太郎が愛した大阪の風景~司馬文学の原点を探して~」および『大阪市全商工住宅案内図帳 浪速区 [昭和42年]』などで確認できます。
なお、思い出にあるとおり、当時この一帯には履物屋がまとまっていました。『浪速区史』p.139には「御蔵跡履物同業街」として、御蔵跡町・日本橋筋三丁目一帯の履物問屋街が全国的な卸問屋街であり、下駄と花緒を取り扱っていることや、もともと盛んだった地域に、御堂筋の道路建設の影響で問屋が移ってきたことにより益々集中したことなどが述べられています。
時代が下って『大阪市全商工住宅案内図帳 浪速区 [昭和36年]』『大阪市全商工住宅案内図帳 浪速区 [昭和42年]』などの住宅地図でも付近には履物屋が軒を連ねていたことが見て取れます。「ハキモノ○○」「ゾウリ○○」(○○は名前)に混じり「スリッパ○○」などの記載があり、この頃には時代に合わせスリッパなども扱われていたことが、地図からわかります。 (2021.6.19 浪速図書館)
|