辰巳球場についての記述のある資料は見つかりませんでした。
野球場ほど大規模なものの記載が無いのは珍しく、たとえば比較的近くの「松島球場(松島公園)」や「市立運動場」は、当時の地図上に名称の記載や施設の形跡が認められます。
昭和35(1960)年刊行の『京阪神便覧 [1] 大阪市区分地図篇』「最新西区精図」を確認すると、思い出の場所には、建築物は何も無く、空白です。1辺が50メートル以上ある空間が地図上にあり、面積では2500平米を超える広大な空地があったことがわかります。
昭和29(1954)年刊行の『大阪市区分詳細図 : 西区』でも同様です。
これらの地図から、草野球をするのに十分な空き地が存在したことがわかります。
「辰巳球場」は利用していた人たちの通称であったと考えられます。
昭和39(1964)年の『大阪市街地図 西区 昭和39年版 』では工事が行われている途中が地図に表されており、高架の線路が思い出の場所の上にあり、すぐ近くで途切れているのが見受けられます。なお高速鉄道4号線(地下鉄)、現在のOsakaMetro中央線は、地下鉄となっていますが、九条駅付近は高架になっており、地下ではなく、地面より更に上を地下鉄が走っています。(2021.1.28 中央図書館)
辰巳球場について市民の方よりの情報提供があり、記述のある資料が見つかりました。個人の方の伝記『その時どきの記』p.300-301に「焼跡の花 境川辰巳橋球場」の項に、終戦後、中央大通りの建設予定地を、道路が完成するまで球場に使用したと記述があります。「昭和二十三年から三十六年までの14年間奉仕したグランドは、名勝負、名試合、珍プレーを織り交ぜて、多くの人々が青春の地を燃やした。」として、当時の様子が記載されています。(2021.2.20 中央図書館追記)
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