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戦中・戦後復興期

草創期戦中・戦後復興期 ⇒ 旧中央図書館 ⇒ 新中央図書館 ・ 自動車文庫
 

戦時中の図書館


1944(昭和19)年4月に西野田・阿波座・御蔵跡・城東の4館は戦時託児所に転用されました。清水谷図書館は、白蟻被害のため建物倒壊の恐れが出てきたことから、1935(昭和10)年3月より閲覧業務を中止していたため、この時期に開館していたのは今宮図書館だけでした。

4館が託児所に転用されるのと同時期に、清水谷図書館は元育英商工学校跡(南区)に疎開移転し、名前を「育英図書館」と改称することになりました。この「育英図書館」は、清水谷図書館の蔵書のほか、託児所に転用された4館の主要図書を移転して開館準備を進めていましたが、1945(昭和20)年3月の大阪大空襲により、開館を迎えることなく焼失してしまいました。また唯一開館していた今宮図書館と、旧阿波座・旧御蔵跡2館の建物も全焼し、市立図書館の閲覧事業はすべて停止となりました。戦火をまぬがれたのは、旧西野田・旧城東図書館に残されていた図書約2万冊、閲覧机20脚、椅子100脚、事務机10脚だけでした。

清水谷図書館
清水谷図書館(『大阪市大観』1925 より)
 

戦後復興期の図書館
育英図書館(1946.7.1)から大阪市立図書館(1950.6.1)へ


戦後の市立図書館は、開館しないまま焼失してしまった「育英図書館」の名称を引き継ぎ、精華国民学校(南区)の空き教室を借りて、1946(昭和21)年7月1日に「大阪市立育英図書館」として開館しました。蔵書は約2万冊で、閲覧方式はこれまでの閉架式から開架式となり、直接図書に接することができ、また交通の便もよいため市民によく利用されました。

しかし、戦後復興とともに精華小学校(1947年4月に国民学校より改称)の児童数が増えて教室の明け渡しを余儀なくされたため、1950(昭和25)年6月1日に図書館は桜宮公会堂の2階へ移転し、名称も「大阪市立図書館」と改められました。当時の桜宮は交通の便が悪く、育英図書館時代より利用者数は減りましたが、学校の試験期間になると朝から学生が列をつくって図書館の開館を待つようになり、次第に利用者の数も増えていきました。

この「大阪市立図書館」は、1961(昭和36)年に西区に旧中央図書館ができたときに、「桜宮図書館」と改称しました。1978(昭和53)年7月に現都島図書館が開館したことにともない、翌年3月に廃館となりましたが、戦後復興期から約30年間市民に親しまれました。 

また、桜宮公会堂は1935(昭和10)年、明治天皇記念館として落成し、正面玄関は建設時に「旧造幣寮鋳造場正面玄関」(明治4年)をそのまま移設したもので、1956(昭和31)年に泉布観とともに国の重要文化財に指定されています。図書館が移転した後はユースアートギャラリーとして近年まで使用され、現在は結婚式場兼レストランとして再出発しています。

桜宮図書館
桜宮図書館

桜宮図書館閲覧室
桜宮図書館閲覧室(『大阪市立図書館50年史』1972 より)
 

旧天王寺図書館(1952.12.1)


1952(昭和27)年の春に天王寺公園で開催された「婦人とこども大博覧会」の終了後、その建物の一つであった「講和記念館」が、大阪市に図書館の建物として寄贈されました。この天王寺公園内の図書館を本館、桜宮の「大阪市立図書館」を分館として、市立図書館は2館体制となりました。

この天王寺本館は、鉄筋コンクリート造地上3階・地下1階建の本格的な図書館として同年12月1日に開館しました。全面開架式を採用し、図書や雑誌、新聞のほか、200席のホールやレコード室も備え、講演会・こども会・レコード鑑賞会なども開催しました。交通の便もよく、連日入館を待つ人々の長い列ができました。特に学生の利用が年々増加したため、空き室を改修して閲覧室・閲覧席数を拡大したり、一般成人専用の閲覧室を設置したりしました。開館時間も当初は午前9時から午後5時でしたが、2年後には午後8時30分までに延長されました。

この天王寺本館は、1985(昭和60)年4月に現天王寺図書館へ移転開館するまで、「公園内の図書館」として親しまれました。

旧天王寺図書館
旧天王寺図書館

講和記念館
1952年 婦人こども博覧会「講和記念館」

旧天王寺図書館閲覧室
旧天王寺図書館閲覧室(『大阪市立図書館50年史』1972 より)