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レファレンス協同データベース検索APIによる検索結果です。
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佐賀県出身で、大正から昭和初期に唱歌「蛙の子」や大阪府池田師範学校の校歌、宝塚歌劇団の劇伴曲などを作曲した小部卯八の経歴、特に生没年を知りたい。(佐賀県立図書館)
御質問の件については当館の調査した資料では確認できませんでしたが、小部卯八について記載のある資料がありましたので、御紹介いたします。
(1)『佐賀新聞に見る佐賀近代史年表 明治編 下』 佐賀近代史研究会/編 佐賀新聞社 2011
p.173 1904(明治37)年4月 その他 4・26〈2〉佐賀市の小部卯八は東京音楽学校に入学、県出身初の入学
p.269 1908(明治41)年4月 その他 4・5〈2〉東京音楽学校を小部卯八が卒業
(2)『佐賀新聞 1904(明治37)年4月26日』2面
音樂學校入學 市内明治橋通小部卯八氏は〓般東京音樂學校に入學せり本縣人にし〓〓校に入學せしは同氏を以て其の嚆矢とすと云ふ
※〓は文字がつぶれているため判読不能
(3)『佐賀新聞 1908(明治41)年4月5日』2面
東京音樂學校卒業 本縣士族小部卯八氏は全校甲種師範科を卒業せり
以下の資料は、御質問の小部卯八と同一人物かどうか確認ができませんでしたが、参考までに御紹介いたします。
(4)『佐賀市史 第3巻』 佐賀市史編さん委員会/編 佐賀市 1978
p.826 ~第七号には三年生に高田保馬、小部竹風(後の冬仙、卯八カ)~
(5)『佐賀の文学』 佐賀の文学編集委員会/編 新郷土刊行協会 1987
p.176 ~活動をリードした生徒をあげると、三〇年から三一、二年の探真生、副島千八、大木桃江、三二年の鴻巣盛広、小部竹風、~
p.177 ~小部竹風は、意識的に田園牧歌調の歌をよみ新味をみせた。~
p.179 ~この『初声』は現物のないまぼろしの雑誌であるが、~同人は小部冬仙(卯八)と渋谷夕照を加えた四人であったとしている。二三歳の酒見以外は一七、八歳で、~小部と渋谷は佐賀中学を中退した浪人だった。 ※肖像写真あり(白黒)
事前調査事項:『東京音楽学校卒業生氏名録』18ページに氏名と本籍の記載あり。【国立国会図書館デジタルコレクション】https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/918760 13コマ ※2022.5.4確認
参考資料:(1)佐賀近代史研究会 編 , 佐賀近代史研究会. 佐賀新聞に見る佐賀近代史年表 明治編 下. 佐賀新聞社, 2011.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000011207884-00, 9784882981763
参考資料:(4)佐賀市史編さん委員会 編 , 佐賀市. 佐賀市史 第3巻. 佐賀市, 1978.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I054202085-00,
参考資料:(5)佐賀の文学編集委員会 編 , 新郷土刊行協会. 佐賀の文学. 新郷土刊行協会, 1987.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001905237-00,
(2022/05/04 09:54)
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吹田(すいた)市(大阪府)は、1970年の日本万国博覧会が開催されるまでは竹しか生えないような荒れ地だったと聞いた。どの地域が荒れ地だったのか、どのように変わってきたのかを知りたい。(吹田市立中央図書館)
『新しきふるさと 千里ニュータウンの20年』(山地英雄/著 学芸出版社 1982.10)
p10に、千里(せんり)ニュータウン開発前の千里丘陵の様子として、
「松、竹、ブッシュなどで蔽われていて、その大半は未開発のままに残されていました。」とあります。
また、p18~p19に千里ニュータウン造成前の千里丘陵の写真も掲載されており、千里ニュータウン造成前からの町の変遷を知ることができます。
『吹田市の緑の移り変わり』(「NPO等と学校教育との連携の在り方」についての実践研究・吹田市推進協議会 2004)
1956年、1968年、1981年、1995年の地図が載っており、水田・畑、果樹園・雑木林、市街地・造成地、川・ため池が色分けされているので、どのあたりが水田・畑と果樹園・雑木林だったのかがわかります。
水田等がだんだん減っていく様子が読み取れます。
『吹田市第2次みどりの基本計画』(吹田市土木部公園みどり室/編集 改訂版 2016.8)
吹田市の樹木や草花の変遷として、
p14に、平成5年(1993年)、平成21年(2009年)、平成26年(2014年)の緑地面積の推移が掲載されています。
p16では、平成25年(2013年)の地域別緑被率を表した地図も掲載されており、吹田市のどの地域に緑が多いかを見ることができます。
またp88~p114では、吹田市を6つのブロックに分け、それぞれのブロックに応じたみどりのまちづくりの方針について書かれています。
『すいたの自然2011』(大阪自然環境保全協会/調査・編集 吹田市環境部地球環境室地球環境課 2012.3)
吹田市の地形と地質についてや、まちの発展と自然の様子について書かれています。
また、p11では、2001年と2011年の竹林の面積変化についても掲載されています。
2万5千分の1地形図『吹田』(国土地理院発行)
土地利用の変遷を、数年ごとに見比べることが出来ます。
回答プロセス:地域資料の棚のNDC450.9(自然地理)、472(植物地理)、518.8(都市計画)の箇所を中心に見て探した。
参考資料:山地英雄 著 , 山地, 英雄, 1926-. 新しきふるさと : 千里ニュータウンの20年. 学芸出版社, 1982.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001628029-00, 4761510714
参考資料:吹田市の緑の移り変わり. 「NPO等と学校教育との連携の在り方」についての実践研究・吹田市推進協議会, 2004.,
参考資料:吹田市土木部公園みどり室. 吹田市第2次みどりの基本計画. 吹田市土木部公園みどり室, 2016.8.,
参考資料:大阪自然環境保全協会. すいたの自然2011. 吹田市環境部地球環境室環境課, 2012.3.,
(2022/04/23 17:45)
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田中吉政は岡崎城の整備になぜ大阪から石工を呼んだのか。(岡崎市立中央図書館)
【資料1】「吉政は城下町整備にかかわる堀や石垣の築造に必要な石工を河内や和泉から招き」との記述あり。
【資料2】「この大規模な土木・建築工事には石垣や構造物の基礎、土台を築く石工を必要とした。…(中略)…関西はこうした工事の先進地で、河内や和泉(大阪府)の石工は城の石垣や土台を築く優れた技術を身につけていたであろう。」(「関西から石工を呼び寄せた根拠となる資料はない」)との記述あり。
【資料3】「田中吉政が城主となった天正十八年(一五八〇)東海道を城下に導き本格的に町を整備した。その時、泉州岸和田の石工、春木某一党が招かれて石工事に従事し」との記述あり。
【資料4】「田中吉政が城主となり城下町を整備した時、必要な石工を和泉・河内(現在の大阪)の国から隨念寺の門前に住まわせ保護した」との記述あり。
【資料5】「田中兵部大輔吉政が城主となった天正18年(1580年)に、東海道が城下を通って城下町が整備された。この時、石垣や堀の築造整備に必要な石工(いしく)を河内の国から招いて」との記述あり。
【資料6】「岡崎城主田中吉政が和泉・摂津から石工を招いて石垣などを築かせたことに始まるという説があるが、はっきりとした証拠・文献資料もなく不確定と言わざるを得ない。」「近世岡崎石工の系譜について田中吉政による摂津・和泉から招請という伝承をそのまま信ずることはできないが、三河地域で近世前期から和泉石工などとの交流があったことは資料で確認できる。」との記述あり。
参考資料:組合設立100年誌編集委員会 ; 岡崎石製品協同組合連合会 , 組合設立100年誌編集委員会 , 岡崎石製品協同組合連合会. 石と共に生きる : 石都岡崎. 岡崎石製品協同組合連合会, 1986.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I103097375-00, (【資料1】p.14)
参考資料:長坂一昭/著. 石都岡崎 石工業発達の歴史と石造物.(東海愛知新聞連載記事), (【資料2】No.11)
参考資料:渡辺益国 著 , 渡辺, 益国, 1937-. 石屋史の旅. 渡辺石彫事務所, 1987.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001926644-00, (【資料3】p.213)
参考資料:岡崎市立梅園小校職員/編. うめぞの風土記. 岡崎市立梅園小学校, 1997., (【資料4】p.108)
参考資料:岡崎石製品協同組合連合会 , 岡崎, 石, 製品, 協同, 組合, 連合会. 岡崎 石工品 の 手引き. 岡崎石製品協同組合連合会, 1983.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I096641387-00, (【資料5】p.2)
参考資料:岡崎市教育委員会/編集 , 岡崎市教育委員会. 岡崎市史研究 第21号. 岡崎市教育委員会, 2000-02.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I109219402-00, (【資料6】p.33-34)
(2022/04/08 14:38)
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1927(昭和2)年に、東京日日新聞社と大阪毎日新聞社の2社が主催したメディア・イベント、「日本新八景の選定」で信貴山は百景に選定された。「日本新八景の選定」や、「日本新八景選定イベントに関する信貴山」がどの資料に載っているのか教えて欲しい。(奈良県立図書情報館)
次の資料に掲載されています。
■図書
・『毎日新聞百年史 : 1872-1972』毎日新聞百年史刊行委員会編 毎日新聞社 1972
→p.374 『「飯田」の東日ボイコット』の中で、日本新八景の結果によって起こったボイコット事件の経緯が書かれています。また、p.548の昭和2年の内容の中にも記載がございます。
・『環境イメージ論:人間環境の重層的風景』古川彰編 弘文堂, 1992.3
→p.277-307 「日本八景の誕生」白幡洋三郎
・『大衆新聞と国民国家 : 人気投票・慈善・スキャンダル』(平凡社選書)奥武則著 平凡社, 2000/7
→p.168-185 「日本新八景」
・『日本景勝旅行案内 : 風景お国自慢』東京日日新聞社会部/編 四海書房 1927
→「日本八景」の企画にかかわって書かれた新聞記事をもとにまとめられた観光ガイドブックです。
国立国会デジタルコレクション「国立国会図書館/インターネット送信限定」で公開されています。(2022/2/1確認)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1225317
信貴山はp.18-19(コマ番号32)に掲載されています。
■雑誌
・「戦前日本のメディア・イベントとプロパガンダに関する一考察 : 「日本新八景」選定イベントを事例として」徐善水(『国際広報メディア・観光学ジャーナル : JIMCTS』(25), 2017)p.39-56
→機関リポジトリでご覧いただけます。(2022/2/1確認)
http://hdl.handle.net/2115/67618
・「メディア・イベントと温泉 : 「国民新聞」主催「全国温泉十六佳選」をめぐって」(『群馬大学教育学部紀要. 人文・社会科学編』(40), 2005』)p.67-83
→「全国温泉十六佳選」について、「日本新八景」の選定と比較しながら書かれています。
機関リポジトリでご覧いただけます。(2022/2/1確認)
http://hdl.handle.net/10087/626
■新聞記事
・毎日新聞 1927.07.06 東京朝刊 6頁 1段目『東京日日新聞主催「日本新八景」決まる』
→選定の経緯が書かれています。
・毎日新聞 同日 同刊 7頁 1段目 「日本百景も決まる」
→百景の一覧が掲載されています。
■インターネット
・環境庁のHPに八景のほか百景が掲載されています。
「日本八景(昭和2年)の選定内容 - 環境省」(2022/2/1確認)
http://www.env.go.jp/nature/ari_kata/shiryou/031208-4-3.pdf
回答プロセス:レファ協の事例を参照。(https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000222589)
以下の資料には記載がなかった。
・『奈良百年』 松村英男編 毎日新聞社, 1968/9
・『奈良県の百年』 鈴木良編 山川出版社, 1985.9
・「信貴山 祈りと娯楽の不思議ワールドへ! : 2010年は寅で開く!」『ならら : 大和路, 13巻1号通巻136号 2010.1月号』
事前調査事項:1927年4月9日、7月6日の東京日日新聞に載っていた。
1927年5月4日の大阪毎日新聞に載っていた。
『旅の風俗史』p71-72「九千万通の”国民投票”」
『<景観>を再考する』p109-119「日本新八景による郷土風景の誕生」
『稿本本山彦一翁』p522-538
「戦後日本のメディア・イベントとプロパガンダに関する一考察:「日本新八景」選定イベントを事例として
参考資料:毎日新聞社. 毎日新聞百年史 : 1872-1972. 毎日新聞社, 1972.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001233021-00,
参考資料:古川彰, 大西行雄 編 , 古川, 彰, 1951- , 大西, 行雄, 1949-. 環境イメージ論 : 人間環境の重層的風景. 弘文堂, 1992.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002169464-00, 4335550499
参考資料:奥武則 著 , 奥, 武則, 1947-. 大衆新聞と国民国家 : 人気投票・慈善・スキャンダル. 平凡社, 2000. (平凡社選書 ; 208)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002913014-00, 4582842089
参考資料:東京日日新聞社会部 編 , 東京日日新聞社. 日本景勝旅行案内 : 風景お国自慢. 四海書房, 1927.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000767613-00,
参考資料:徐 善水 , 徐 善水. 戦前日本のメディア・イベントとプロパガンダに関する一考察 : 「日本新八景」選定イベントを事例として. 2017. 国際広報メディア・観光学ジャーナル = The journal of international media, communication, and tourism studies : JIMCTS / 国際広報メディア・観光学ジャーナル編集委員会 編(25) p. 39-56
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I029044526-00,
参考資料:関戸 明子 , 関戸 明子. メディア・イベントと温泉--「国民新聞」主催「全国温泉十六佳選」をめぐって. 2005. 群馬大学教育学部紀要. 人文・社会科学編 = Annual reports of the Faculty of Education, Gunma University. Cultural science series / 群馬大学教育学部 編 54 p. 67~83
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I7316882-00,
(2022/04/06 12:39)
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1970年の大阪万博に横浜市も参加したそうだが、その内容を知りたい。(横浜市中央図書館)
1 図書で調べる
(1) 『市政概要 1970年版』
横浜市総務局行政部統計課/編 横浜市総務局 1971年
p.199 各自治体が一体となって地方自治体館を設置し、「本市においてもこれに
展示物を提供した」
(2) 『市政概要 1971年版』 横浜市総務局/編・発行 1971年
p.203 横浜市の日(8月30日~9月1日)に郷土芸能の上演、スカーフの
製造実演、展示等を行ない、横浜の産業文化を紹介した。
(3) 『横浜市事務報告書 昭和45年』 横浜市〔総務局〕/編 横浜市 1971年
p.101 地方自治体館の行事中、「横浜市の日」(昭和45.8.30~9.1)を開催した。
ア 郷土芸能出演
イ 特産品展示
ウ 市勢紹介映画の上映
2 新聞で調べる
「横浜市の日」についての記事があり、どのような催しであったかがわかります。
(1) 神奈川新聞 昭和45(1970)年8月31日 12面 「万国博・横浜市の日始まる」
(2) 神奈川新聞 昭和45(1970)年9月1日 10面 「三笠宮殿下が見学」
(3) 読売新聞 昭和45(1970)年8月31日 地域版 「花やかに「横浜の日」」
(4) 読売新聞 昭和45(1970)年9月1日 地域版
「三笠宮もご覧に 万国博“横浜の日”」
(5) 読売新聞 昭和45(1970)年9月2日 地域版 「いこいの広場に3万人」
3 その他
地方自治体館について記述のある次の資料に横浜市の参加についての記述は
ありませんでした。
(1) 地方自治体館 万博記念公園ホームページ 最終確認日2022年3月21日
https://www.expo70-park.jp/cause/expo/local_governments/
(2) 『日本万国博覧会 EXPO′70 人類の進歩と調和』
神奈川県県政地方記者会/編・発行 1970年
p.37 地方自治体館
(3) 『日本万国博ニュース 総集版』 日本万国博覧会協会 1970年
p.21 地方自治体館
(2022/03/31 10:48)
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市立中央郷土関連:トップ5
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「お初天神裏参道」「裏なんば」「座裏」「裏天王寺」「裏天満」など「裏」を冠したそれぞれの飲食店街について詳しく書かれた資料が見たい。 各エリアの歴史(飲食店街になる前の様子など)、「裏○○」と呼ばれ始めた時期、誰が命名したのか。また上記の5つ以外に「裏○○」を冠する飲食店街は大阪にあるのか、「裏○○」の名前が流行るきっかけや背景がわかる本があれば見たい。(大阪市立中央図書館)
1.各エリアの歴史(飲食店街になる前の様子)、「裏○○」と呼ばれ始めた時期、誰が命名したのか。
「お初天神裏参道」について
(1) 『日経レストラン』2015年6月 497号(日経BP 2015.06)
p.44「リレー連載東京の外からチャンスが見える 6 関西でも日本酒が人気 東京の半額で地酒が楽しめる」
「15年3月には、(略)飲食街「お初天神裏参道」がオープンして人気です。「お初天神通り」から分かれる路地の地主が誰でも気軽に楽しめる場所にしようと、大阪各地から人気店を誘致したのです。」とあります。
(2) 『朝日新聞』2015年05月01日 夕刊 1社会 11ページ「(@まち町街)「裏○○」雰囲気に酔う 「隠れ家」的魅力で集客 【大阪】」
「「裏〇〇」と呼ばれる街についての記事で、「お初天神裏参道」が取り上げられています。「仕掛け人は曽祖父以前の代から裏参道の地主という吉本幸彦さん。(原文ママ)」とあり、以前の街の様子や裏参道の経緯についての記述があります。
(3) 『産経新聞』2017年3月15日 大阪朝刊 第4社会「【おおさか新発見】お初天神裏参道 女性ひとりでも安心、明るい通りに」
仕掛け人であるビル管理会社「雲雀ケ丘土地」の吉本草彦社長のインタビューが掲載されており、「「梅田花月の芸人やお客さんでにぎわっていたが、バブル崩壊後、シャッター通りになり、女性が近寄らない通りになった」(略)「女性ひとりでも来られる通りにして街に恩返ししたい」と仲間集めに奔走した。」とあります。
(4) 「お初天神裏参道」ホームページ
http://ohatsu-urasan.com/ (2021.12.28確認)
「URASANガイドブックが」が公開されており、p.38(20枚目)に「ウラサンヒストリー」、p.39(21枚目)にコンセプトの説明などがあります。
「裏なんば」について(「ウラなんば」の表記もあり)
(5) 『Meets Regional(ミーツ・リージョナル)』2012年7月号 23巻7号289号(京阪神エルマガジン社 2012.07)
「ウラなんば」の特集号です。
p.10-11 「誕生、ウラなんば。」の記事にて、ウラなんば名付け親の星本幸一郎氏と川端友二氏の対談が掲載されています。「ウラなんば」の名付けた経緯や、名付け以前の街の様子が語られています。
(6) 『Meets Regional(ミーツ・リージョナル)』2014年11月号 25巻11号317号(京阪神エルマガジン社 2014.11)
p.12-13「あれからのウラなんば。」にて、上記の星本氏と川端氏の対談が掲載されています。2012年からの街の変化について語られています。この号は「ウラなんば」の特集号です。
(7) 『Meets Regional(ミーツ・リージョナル)』2018年11月号 29巻11号365号(京阪神エルマガジン社 2018.11)
p.36-39「ウラなんばの一大グループ案内。」にて、ウラなんばに複数店舗を展開するグループ店の店主インタビューです。ウラなんばができたときの街の様子が語られています。この号は「ウラなんば」の特集号です。
(8) 『日経レストラン』2015年1月 491号(日経BP 2015.01)
p.54「リレー連載東京の外からチャンスが見える 1 シビアなお客が鍛えた店が集積 盛り上がり見せる「裏なんば」」に、「厨房機器や調理器具を売る店が集まる難波の通り「道具屋筋」の周辺で、商店が倉庫に使っていた場所を貸し出すようになり、腕利きの若い店主たちが3~4年前から続々と集まってきています。」とあります。
(9) 『日経レストラン』2015年4月 494号(日経BP 2015.04) p.40-42
p.41「地方発繁盛店 「ウラなんば」人気をけん引 豚料理特化で坪月商45万円 : 日本橋ビアホール(居酒屋、大阪市)」の記事に、同店を含め7店舗を展開する川端屋商店の川端友二社長について、「11年には(略)星本幸一郎氏と共に店周辺のエリアを「ウラなんば」と命名。」とあります。
(10) 『大阪春秋』第163号(新風書房 2016.7)
p.4-9「春秋対談 牧香代子VS橋爪紳也 「ウラなんば」へようこそ! ミナミのにぎわいづくりと国際観光」にて、エリアの歴史や裏なんばの成り立ち、盛り上がりの経緯などが語られています。
(11) 『pen (ペン) -with New Attitude-』2017年6/1号 21巻10号No.429(CCCメディアハウス 2017.06)
p.66-69「大阪・ウラなんば 安い、ウマイ、早いの名店揃い、立ち飲みならウラなんばだ!」のp.66に「ウラなんばという名称が生まれたのは5年ほど前。それ以前は、暗くて寂れた路地裏と言った趣で、女性のひとり歩きがはばかられる場所だった。そのため、界隈の飲食店店主らが街を盛り上げるために命名」とあります。
(12) 『朝日新聞』2014年12月25日 夕刊 1総合 1ページ「(関西@まち町街)劇的「ウラなんば」 飲み屋続々、若い世代も 【大阪】」
「名付け親は、2人の飲食店主。川端友二さん(43)は2007年、立ち飲み屋「大阪焼トンセンター」をウラなんばに開いた。」「星本幸一郎さん(42)は4年前に「鉄板野郎」を出店した。」とあり、命名の経緯や以前の街の様子についての記述があります。
(13) 『毎日新聞』2013年4月1日 地方版/大阪 24ページ「なるほドリ:「裏なんば」ってどんな所?/大阪」
以前の街の様子や「裏なんば」と名付けられた理由などの記述があります。
(14) 『読売新聞』2013年7月30日 大阪朝刊 31ページ「ウラなんば ほっとやで 個性的飲食店が次々進出=大阪」
以前の街の様子や店が増加した経緯についての記述があります。
(15) 『読売新聞』2015年2月19日 大阪夕刊 10ページ「[KEYBOARD]夜のOSAKA 楽しんで」
「倉庫街だった街には、数年前から飲食店が急増」とあります。
(16) 『読売新聞』2017年4月25日 大阪夕刊 2ページ「[あちこちに聖地]大阪・千日前 ごった煮 「宇宙」 再降臨」
以前の街の様子について記述があります。
(17) 『産経新聞』2014年9月3日 大阪朝刊 第4社会「【おおさか新発見】熱気あふれる「ウラなんば」
「かつてはキャバレーやクラブが集積したミナミを代表するナイトスポットだった。しかし時代が変わり、街は衰退。5年ほど前、日本橋の電気屋街に近い通りに飲食店が増え、「安くておいしい」と人々が集まり始めた。」等、以前の街の様子などの記述があります。
(18) 『産経新聞』2015年9月23日 東京朝刊 1ページ「【提言地方創生 よみがえれ大阪】第1部 中 多様性が再生への武器 アジア観光客を取り込め」
店が増えた経緯や命名者についての記述があります。
(19)「うらなんば」ホームページ
https://uranmb.com/ (2021.3.17確認)
裏なんばの飲食店情報をまとめたホームページです。トップページ中段に「ウラなんばの始まり」という見出しがあり、2010年に始まったことや当時の街の様子、命名の経緯などが記載されています。
「座裏」について(「座ウラ」の表記も含む)
上述資料(11) 『pen (ペン) -with New Attitude-』2017年6/1号 21巻10号No.429(CCCメディアハウス 2017.06)
p.66-69「大阪・ウラなんば 安い、ウマイ、早いの名店揃い、立ち飲みならウラなんばだ!」「ウラなんば」についての記事中、p.66に「ウラなんばの出店の勢いはとどまるところを知らず、地域一帯の中でさらに細分化。旧歌舞伎座裏は「座ウラ」(略)といった愛称で呼ばれ、それぞれ独自の文化を築いている。」とあります。
(20) 『産経新聞』2019年3月8日 大阪朝刊 第4社会「食の街なんば「座ウラ」が熱い 個性的130店をマップで紹介」
「かつては「難波新地」と呼ばれる花街として知られていた」、「以前に新歌舞伎座があったことから「座ウラ」と呼ばれる」とあります。
(21) 『産経新聞』2019年9月28日 大阪朝刊 第4社会「【関西 知 探(解)】「座ウラ」 食い倒れの熱い夜」
「座ウラは、新歌舞伎座の裏、という意味だ。(中略)新歌舞伎座は平成21年に閉館し、現在は上本町の複合ビルに移転しているが、座ウラの名前はそのまま残った。」「かつては「難波新地」と呼ばれる花街だった。それがここ数年、昔からの居酒屋やスナックに交じって、店主の個性あふれる洋食店やバーなど、若者向けの店舗が増えてきた。」とあります。
(22)「Yahoo!ライフマガジン:大阪で今いちばん熱い街「座裏」の厳選5店」
https://lifemagazine.yahoo.co.jp/articles/8612 (2021.3.17確認)
「かつて「新歌舞伎座」があった場所の裏側、通称「座裏」エリアだ。」とあり、「座裏」の歴史について各店の店主が語っています。
「裏天王寺」について
(23) 『朝日新聞』2020年6月2日 夕刊 2ページ「(建モノがたり)阿倍野歩道橋 大阪市阿倍野区」
「戦後の闇市に起源を持つ天王寺駅前阪和商店街がある。(略)近年は「裏天王寺」と親しまれるエリアだ。」とあります。
「裏天満」について
(24) 『読売新聞』2018年12月8日 大阪夕刊 3ページ「[マチタビ]天六界隈 お金なくても楽しい 俳優 國村隼さん63」
界隈周辺の歴史について記述があります。
(25) 『毎日新聞』2019年8月2日 地方版/高知 21ページ「大阪・裏天満:ちょうちん通り、にぎわしく 暗がり一転、新名所に」
店先にちょうちんをぶら下げることによって、寂れた雰囲気からにぎやかな新名所となった旨の記述があります。末尾に「裏天満」の説明として「天満市場の裏に広がる、入り組んだ飲み屋街」とあります。
2.上記の5つ以外に「裏○○」を冠する飲食店街はあるのか、各エリアの命名の関連性、「裏○○」の名前が流行るきっかけや背景
(26) 『産経新聞』2017年2月4日 大阪夕刊 1ページ「【好奇心そそる裏 おしゃれでディープ ウラなんば・裏天満・うらふくしま・・・」
「うら○○」、「裏○○」と呼ばれる街について、総合的に書かれた記事です。「ウラなんば」の命名者、命名経緯、以前の街の様子についての記述や、「お初天神裏参道」のオープン時期、発起人、経緯、以前の街の様子についての記述もあります。また「裏天満」、「うらふくしま」についても言及され、「裏〇〇」が流行している理由についても考察されています。
上述資料(2) 『朝日新聞』2015年5月1日 夕刊 1社会 11ページ「(@まち町街)「裏○○」雰囲気に酔う 「隠れ家」的魅力で集客 【大阪】」
「お初天神裏参道」で紹介した記事です。「大阪の繁華街で「ウラ○○」と名付けられた地域や路地が人気を集めている。暗いイメージがつきまとう「裏」という響きが、夜の街に人々をいざなう。」、「「ウラ○○」は雑誌などで紹介され、大阪市内各地の繁華街にある。」とあり、「裏谷四」、「裏キタ」にも言及されています。
(27) 『朝日新聞』2015年4月27日 夕刊 2社会 10ページ「(葦 夕べに考える)裏のある街 小泉信一 【大阪】」
「裏○○」と呼ばれる地域についての記事です。「「裏○○」の元祖は東京の「裏原宿」だろう。」「昭和の香りが色濃く残り、ガイドブックに紹介されていない店もある。妖しい雰囲気を醸し出しているのが魅力なのだろう。」とあります。
(28) 『読売新聞』2015年6月27日 大阪夕刊 1ページ「新開地 活気再び 「B面の神戸」前面 街おこし 人口3割増 犯罪は半減」
「B面の神戸」というキャッチフレーズで近年人気がある神戸市兵庫区の「新開地」と並列に、「「裏」逆手に にぎわい」として「ウラなんば」、「裏谷四」が紹介されています。「和歌山大の足立基浩教授(まちづくり論)は「裏や下町という言葉には、何かが隠されているような奥深さがあり、インターネットでは見つからない『通っぽい店』を探す魅力がある。マイナスイメージを逆手に取った個性的な街づくりは今後も広がっていくだろう」と話している。」とあります。
(29) 『読売新聞』2017年12月25日 大阪夕刊 1ページ「横町 再開発でブーム 路地やビルを刷新 20~30代客中心 人気店集積効果」
「お初天神裏参道」地域の再開発や「ウラなんば」、「ウラ天満」などを例に、横丁文化について考察されています。「ホットペッパーグルメ外食総研の稲垣昌宏上席研究員は「全国的に“横町ルネサンス”と言えるような広がりが続いている。外食というより手頃なレジャー空間だ。旅行のような非日常の感覚で、食べ歩くことが出来る」と人気の背景を分析している。」とあります。
(30)能登 俊平,小川 宏樹「南海難波駅東側における店舗の増加要因となる地域特性に関する研究-ウラなんば地域を事例として-」『日本都市計画学会関西支部研究発表会講演概要集』14巻(公益社団法人日本都市計画学会 2016) p.141-144
https://doi.org/10.11361/cpijkansai.14.0_141 (2021.12.28確認)
「1.1 研究の背景」として「(前略)都心の商業地に隣接しながらも、小規模店舗が集まり新たな盛り場として人気エリアになる事例も見られる。(中略)このようなエリアは雑誌や新聞など様々なメディアに取り上げられており、新たな文化、街並み、にぎわいを生むエリアとして注目されている。」と記述があり、「ウラなんば」を事例に、都市計画的な観点で論述されています。
回答プロセス:1.当館所蔵検索をフリーワード“うらなんば”で検索、資料(6)(7)(11)を確認。“お初天神裏参道”、“座裏”、“裏天王寺”、“裏天満”はヒットなし。
2.資料(6)の記述より、前回の対談があることがわかり該当号を確認する。資料(5)が見つかる。
3.商用データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」を以下のキーワードで検索。“ウラなんば”で資料(2)(12)、“裏天王寺”で資料(23)、“裏なんば”“お初天神裏参道”で資料(27)が見つかる。“裏天満”では2件ヒットするが、うち1件は“ウラなんば”の検索結果と重複。“座ウラ(裏)”はヒットなし。
※資料(2)における「お初天神裏参道」の表記は「お初天神 裏参道」となっているため、検索キーワード“お初天神裏参道”では記事がヒットせず。
4.商用データベース「産経新聞データベース」を検索。キーワード“ウラなんば”で検索、資料(17)(18)(20)(21)(26)が、“お初天神裏参道”で資料(3)が見つかる。“裏天満” “座ウラ”でヒットする記事は“ウラなんば”の検索結果と重複。“裏天王寺”ではヒットなし。
5.商用データベース「ヨミダス歴史館」を検索。キーワード“ウラなんば”で資料(14)(15)(16)(24)(29)が、キーワード“ウラ天満”で資料(28)が見つかる。“お初天神裏参道”は“ウラなんば”の検索結果と重複、“裏天王寺”、“座ウラ(裏)”はヒットなし。
6.商用データベース「毎索」を検索。キーワード“ウラなんば”で資料(13)(25)が見つかる。“裏天満”は有用な記事なし。“お初天神裏参道”、“座ウラ”、“裏天王寺”はヒットなし。
7.商用データベース「日経テレコン」を検索。 “裏(ウラ)なんば”は有用な記事なし。“お初天神裏参道”、“座ウラ(裏)”、“裏天王寺” 、“裏天満”はヒットなし。
8.商用データベース「magazineplus」を検索。キーワード“裏(ウラ)なんば”、“お初天神裏参道”、“裏天王寺”、“裏天満”、“座裏(ウラ)” いずれも有用な記事なし。
9.商用データベース「日経BP記事検索サービス」を検索。キーワード“裏なんば”で資料(8)(9)が、“お初天神裏参道”で資料(1)が見つかる。“座ウラ(裏)”、“裏(ウラ)天王寺”、“裏(ウラ)天満”ヒットなし。
10.大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」( http://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/ )を以下のキーワードで検索するが、既出資料のみ。“ウラなんば”は3件ヒットするが、既出のもののみ、“お初天神裏参道”、“座ウラ(裏)”、“裏(ウラ)天王寺”、“裏(ウラ)天満”はヒットなし。
11.CiNii Articlesをキーワード“ウラなんば”で検索、資料(10)(30)が見つかる。“裏なんば”、 “お初天神裏参道”、“裏(ウラ)天王寺”、“裏(ウラ)天満”はヒットなし。
12.Googleで“お初天神裏参道”、”裏(ウラ)なんば”、“裏(ウラ)天満”、“座裏(ウラ)”、“裏(ウラ)天王寺”、“裏(ウラ)天満”を検索。資料(4)(19)(22)が見つかる。
参考資料:当館書誌ID [巻号] Meets Regional ( ミーツ・リージョナル ) [2014]-11 / 第25巻 第11号 / 317 鼻血が出るほど、ゴキゲン過ぎる街。 ウラなんば、大興奮! 京阪神エルマガジン社 2014.11 資料(6),
参考資料:当館書誌ID [巻号] Meets Regional ( ミーツ・リージョナル ) [2018]-11 / 第29巻 第11号 / 365 ウラなんば。 京阪神エルマガジン社 2018.11 資料(7),
参考資料:当館書誌ID [巻号] pen ( ペン ) -with New Attitude- 2017-6/1 / 第21巻 10号 / No.429 迷って横丁、探して酒場。 CCCメディアハウス 2017.06 資料(11),
参考資料:当館書誌ID [雑誌巻号] Meets Regional ( ミーツ・リージョナル ) 2012年7月 / 23巻7号 / 289号 京阪神エルマガジン社 2012.07 資料(5),
参考資料:当館書誌ID [巻号] 日経レストラン 2015年1月 / 491号 日経BP 2015.01 資料(8),
参考資料:当館書誌ID [巻号] 日経レストラン 2015年6月 / 497号 日経BP 2015.06 資料(1),
参考資料:当館書誌ID [巻号] 日経レストラン 2015年4月 / 494号 日経BP 2015.04 資料(9),
参考資料:当館書誌ID 大阪春秋 -大阪の歴史と文化と産業を発信する- 第163号 特集軍都おおさか 新風書房 2016.7 978-4-88269-842-5 資料(10),
参考資料:『朝日新聞』2014年12月25日 夕刊 1総合 1ページ 「(関西@まち町街)劇的「ウラなんば」 飲み屋続々、若い世代も 【大阪】 」 資料(12),
参考資料:『朝日新聞』2015年05月01日 夕刊 1社会 11ページ 「(@まち町街)「裏○○」雰囲気に酔う 「隠れ家」的魅力で集客 【大阪】 」 資料(2),
参考資料:『朝日新聞』2015年04月27日 夕刊 2社会 10ページ 「(葦 夕べに考える)裏のある街 小泉信一 【大阪】」 資料(27),
参考資料:『朝日新聞』2020年06月02日 夕刊 夕刊F火曜2面 002ページ(建モノがたり)阿倍野歩道橋 大阪市阿倍野区 資料(23),
参考資料:『産経新聞』2014年9月3日大阪朝刊第4社会「【おおさか新発見】熱気あふれる「ウラなんば」 資料(17),
参考資料:『産経新聞』2015年9月23日東京朝刊1面「【提言地方創生 よみがえれ大阪】第1部 中 多様性が再生への武器 アジア観光客を取り込め」 資料(18),
参考資料:『産経新聞』2017年2月4日大阪夕刊1ページ「【好奇心そそる裏 おしゃれでディープ ウラなんば・裏天満・うらふくしま・・・」 資料(26),
参考資料:『産経新聞』2017年3月15日大阪朝刊第4社会「【おおさか新発見】お初天神裏参道 女性ひとりでも安心、明るい通りに」 資料(3),
参考資料:『産経新聞』2019年3月8日大阪朝刊第4社会「食の街なんば「座ウラ」が熱い 個性的130店をマップで紹介」 資料(20),
参考資料:『産経新聞』2019年9月28日大阪朝刊第4社会「【関西 知 探(解)】「座ウラ」 食い倒れの熱い夜」 資料(21),
参考資料:『読売新聞』2013年7月30日大阪朝刊31ページ「ウラなんば ほっとやで 個性的飲食店が次々進出=大阪」 資料(14),
参考資料:『読売新聞』2015年2月19日大阪夕刊10ページ「[KEYBOARD]夜のOSAKA 楽しんで」 資料(15),
参考資料:『読売新聞』2015年6月27日大阪夕刊1ページ「新開地 活気再び 「B面の神戸」前面 街おこし 人口3割増 犯罪は半減」 資料(28),
参考資料:『読売新聞』2017年4月25日大阪夕刊2ページ「[あちこちに聖地]大阪・千日前 ごった煮 「宇宙」 再降臨」 資料(16),
参考資料:『読売新聞』2017年12月25日大阪夕刊1ページ「横丁 再開発でブーム 路地やビルを刷新 20~30代客中心 人気店集積効果」 資料(29),
参考資料:『毎日新聞』2019年8月2日地方版/高知21頁 「大阪・裏天満:ちょうちん通り、にぎわしく 暗がり一転、新名所に」 資料(25),
参考資料:『毎日新聞』2013年4月1日地方版/大阪24頁 「なるほドリ:「裏なんば」ってどんな所?/大阪」 資料(13),
参考資料:『読売新聞』2018年12月8日大阪夕刊3ページ「[マチタビ]天六界隈 お金なくても楽しい 俳優 国村隼さん63」 資料(24),
参考資料:「ウラなんば」ホームページ https://uranmb.com/ (2021.12.28確認) 資料(19),
参考資料:「ウラサン(お初天神裏参道ガイドブック)」 http://ohatsu-urasan.com/ (2021.12.28確認) 資料(4),
参考資料:「Yahoo!ライフマガジン:大阪で今いちばん熱い街「座裏」の厳選5店」 https://lifemagazine.yahoo.co.jp/articles/8612 (2021.12.28確認) 資料(22),
参考資料:「南海難波駅東側における店舗の増加要因となる地域特性に関する研究-ウラなんば地域を事例として」 『日本都市計画学会関西支部研究発表会講演概要集』 2016 年 14 巻 p. 141-144 https://doi.org/10.11361/cpijkansai.14.0_141 (2021.12.28確認) 資料(30),
(2022/02/14 00:30)
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天正年間の一時期、池田恒興が大坂城主をつとめていたと聞いたが、それはいつのことか。また、その時代の大阪城についてわかる資料があれば知りたい。(大阪市立中央図書館)
池田恒興と大坂城の関係について記述のある資料を以下にご紹介します。恒興は大坂を領有していましたが、大坂城に居住していたかどうかについては、否定的な意見もあります。
天正年間(1573年~1592年)の恒興と大坂城、また、恒興の大坂領有に関連する記述があった資料を紹介します。
・恒興と大坂城について
(1) 『日本大百科全書 :2版 3 うえ-おおち』(小学館 1994)
p.913-914「大坂城」の項に、「(一五)八〇年(天正八)和議が結ばれ本願寺は石山寺を退去し、信長は池田恒興に守らせていたが、本能寺の変(一五八二)ののち、この地の経済上、地理上の位置に着目した豊臣秀吉によって翌八三年三十数か国から数万の人夫を動員して大修築工事が行われ、八五年ほぼ完成したのである。」と記述があります。
(2) 『日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1』(平凡社 2001.7)
p.370-378「大坂三郷」の項p.370に「天正八年(一五八〇)石山本願寺が織田信長との約一〇年に及ぶ戦闘ののち退去したが、その跡には城郭があり、織田方が四国攻めの根拠地としていた。(中略)山崎合戦後には、清洲会議が行われ、池田恒興が入城した(多聞院日記など)。」と記述があります。
(3) 『国史大辞典 1 あ-い』(国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1979.3)
p.470に「池田恒興」の項があり、「同(天正)十年本能寺の変がおこると、羽柴秀吉とともに山城に明智光秀を討ち、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀らとともに宿老に列し、諸将への所領の充行状に連署している。また京都の施政にもあたり、大坂城を領した。」と記述があります。
(4) 『大坂城(岩波新書の江戸時代)』(岡本 良一/著 岩波書店 1993.7)
「第三章 大坂築城」に以下の記述があります。
p.35「ともかく、大坂城は池田恒興の手に入った。しかし恒興は大坂城を居城とはしなかったようである。一五八四年一月二〇日(天正11年12月18日付)ルイス・フロイスの手紙によると、池田恒興について「津の国のほとんど全部を領し、元荒木のであった城に居り、大坂の城をもその手に押さえていた人である」と言っている。「元荒木のであった城」というのは、荒木村重が居城としていた摂津の伊丹城のことである。(中略)堅城であったから、恒興も焼けあとの大坂城ではなくこの伊丹城を居城としていたのであろう。したがって恒興の手に入ってからの大坂城は、信長直轄時代のそれとほとんど変わることのない形態を維持したものと考えられる。」と記述があります。
(5) 『天下統一の城・大坂城(シリーズ「遺跡を学ぶ」 043)』(中村 博司/著 新泉社 2008.2)
p.23-24「第3章 豊臣秀吉の大阪築城 池田恒興の番城としての大坂城」の項p.24に「一年足らずにすぎない大坂領有の間に、恒興がどのように大坂城を整備したのかほとんどわからない。むしろ次のような証言から、恒興は伊丹城をこそ、居城としており、大坂城は信長時代と同様、守備の兵を置いて守らせていた番城にすぎなかったのではないか、との推定が可能である。」と記述があります。証言として、資料(7)にも引用されているルイス・フロイスの手紙が引用されています。
(6) 『戦国・安土桃山時代の池田氏 -池田恒興と池田輝政-』(倉敷ぶんか倶楽部/編 日本文教出版 2020.5)
「第一章 中興の祖 池田恒興(上) 伊丹城主として摂津の主要部を支配」の項、p.44に「恒興が摂津大坂城(大阪市中央区)、元助が伊丹城、輝政が尼崎城を居城としたとする説もあるが、少なくとも恒興が大坂城を居城としたというのは誤りと思われる。」と記述があります。
・恒興の大坂領有について
上記資料(2) 『日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1』(平凡社 2001.7)
p.385-386「東区」の項p.385に「〔近世〕本願寺跡には信長によって守備の兵が置かれ、信長の直轄地となった。天正一〇年本能寺の変によって信長が横死すると、大坂は一時池田恒興の領有となったが、翌年四月の賤ヶ岳合戦に勝利した豊臣秀吉が、翌五月池田を美濃大垣城に移して大坂を掌握した。」と記述があります。
(7) 『日本城郭史研究叢書 第8巻 大坂城の諸研究』(名著出版 1982.12)
「第二篇 豊臣時代の大坂城 豊臣氏時代の城下町大坂」のp.112-114「一 秀吉の大坂建設 秀吉の大坂掌握」p.113に「山崎合戦から十日ほどのち、尾張清洲城で行なわれた会議で、(中略)池田信輝(恒興)父子は大坂・尼崎・兵庫十二万石をというように新たな所領を得た。(中略)翌年四月、秀吉は信長部将中最有力者であった柴田勝家と、勝家と結んだ信孝を滅し、ほかの部将などの転封を行なった。池田信輝父子を美濃に移し摂津を手に入れ、」と記述があります。
(8)『大坂城の歴史と構造』(松岡 利郎/著 名著出版 1988.7)
「豊臣秀吉の大坂城」の項p.27に「天正十年六月二十七日、清洲会議で織田家の宿老・諸将が集まり信長の継嗣問題と遺領処置について協議し、(中略)大坂と尼崎は池田信輝(恒興)父子が所有することになった。しかし翌年(一五八三)四月賤ヶ嶽合戦で柴田勝家を破った秀吉は長浜に凱旋(中略)五月二十五日に池田信輝を美濃大垣城へ移させ、大坂を自らの本拠とした(『多聞院日記』)。」と記述があります。
(9) 『新修大阪市史 第3巻』(新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1989)
「第一章 城下の建設 第二節 秀吉の大坂築城 1 大坂築城に着手」のp.32に「天正十一年(一五八三)年四月、賎ヶ岳合戦で柴田勝家を破った秀吉は、五月には諸将への国割り(領国の再配分)を強行し、このときかねてからねらっていた大坂を池田恒興から取り上げ、自分の所領に組み込んだ」とあります。
(10) 『新修大阪市史 史料編第5巻 大阪城編』(大阪市 2006.12)
「第二章 大坂城とその城下町 第一節 大坂城・城下町の建設」のp.228「2 池田恒興が大坂を領有する」に『多聞院日記』からの引用「池田紀伊守ヘハ十七所・大坂取之」の記述があります。
また、本願寺退去の後、秀吉が大坂城を築城し始めるまでの期間の大坂城に関して記述のある資料は以下のとおりです。
上記資料(4) 『大坂城(岩波新書の江戸時代)』(岡本 良一/著 岩波書店 1993.7)
「第三章 大坂築城」p.33に、「天正十年春、信長様御代、大坂之御城御本丸は丹波五郎左衛門長秀殿御預り、千貫矢倉は織田七兵衛に御預け(中略)本丸を長秀、千貫矢倉を信澄と二分して預かったということは、大坂城すなわち旧石山本願寺城が、本丸と千貫矢倉のある区域、つまり本丸と二之丸の二曲輪から成っていたことを思わせる。」と記述があります。
(11) 『大坂城 -天下一の名城-(日本人はどのように建造物をつくってきたか)』(宮上 茂隆/著 草思社 2014.9)
p.20「秀吉、築城の準備にかかる」の項に、「秀吉が入城した大坂城は、石山本願寺の焼け跡を修理しただけの状態にありました。中央に本丸、その周囲に二之丸があり、空堀と水堀、そして土塁に囲まれた城でした。」と記述があります。
回答プロセス:1.当館所蔵検索を件名“池田恒興”で検索、資料(6)を確認
2.商用データベース「JapanKnowledge」を全文検索でキーワード“池田恒興 大阪城”“池田恒興 大坂城”を検索、資料(1)(2)(3)を確認
3.資料(1)の参考文献である資料(7)を確認
4.当館大阪コーナーにて、大坂城に関する資料(4)(5)(8)(11)を確認
5.当館データベース「大阪関係資料目次検索」(外部非公開)をキーワード”池田恒興”で検索、資料(9)(10)を確認
参考資料:当館書誌ID 日本大百科全書 :2版 3 うえ-おおち 小学館 1994 9784095261034 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1 平凡社 2001.7 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 国史大辞典 1 あ-い 国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1979.3 9784642005012 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 大坂城(岩波新書の江戸時代) 岡本 良一/著 岩波書店 1993.7 9784000091336 資料(4),
参考資料:当館書誌ID 天下統一の城・大坂城(シリーズ「遺跡を学ぶ」 043) 中村 博司/著 新泉社 2008.2 978-4-7877-0833-5 資料(5),
参考資料:当館書誌ID 戦国・安土桃山時代の池田氏 -池田恒興と池田輝政-(岡山文庫 318) 倉敷ぶんか倶楽部/編 日本文教出版 2020.5 978-4-8212-5318-0 資料(6),
参考資料:当館書誌ID 日本城郭史研究叢書 第8巻 大阪城の諸研究 名著出版 1982.12 資料(7),
参考資料:当館書誌ID 大坂城の歴史と構造 松岡 利郎/著 名著出版 1988.7 9784626013132 資料(8),
参考資料:当館書誌ID 新修大阪市史 第3巻 新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1989 資料(9),
参考資料:当館書誌ID 新修大阪市史 史料編第5巻 大坂城編 大阪市 2006.12 資料(10),
参考資料:当館書誌ID 大坂城 -天下一の名城-(日本人はどのように建造物をつくってきたか) 宮上 茂隆/著 草思社 2014.9 978-4-7942-2079-0 資料(11),
(2021/12/29 00:32)
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江戸時代の大坂に、東寄会所・西寄会所があったと史料に出てくる。大坂三郷の惣会所や町ごとの町会所以外に「寄会所(寄合所)」があったのか。また、どこにあったのか。東・西があったということは、東西町奉行所に関係する機関だったのか。東寄会所・西寄会所に関する資料があれば見たい。(大阪市立中央図書館)
あいにくですが、東寄会(合)所・西寄会(合)所の機能や場所を明示した資料を見つけることはできませんでした。
大阪市史編纂所に照会し、回答内容を以下にご紹介します。
「東寄会(合)所・西寄会(合)所は、事例として、町奉行所の災害対応を町中に触れた史料(町触・口達)に見ることができる。(『大阪市史 第4下』や『大阪編年史』等に所収)
安政大地震(元(1854)年11月5日発生)の際
・11月6日、総年寄江川庄左衛門より町内年寄が「西寄合所」へ召喚される。市中の治安維持を強化せよとの達が出た旨の説明と、惣会所への念書提出を指示。
・11月7日、南組惣年寄永瀬七郎右衛門より演舌あり、地震で家をなくした極難渋の者など、施行(救済)候補者を「西寄合所」へ申し出よとのこと。
これにより、「寄合所」は町奉行所から惣年寄の代表にもたらされた施策等を町年寄に指示伝達する場であったと推測する。
また、上記11月7日の事例では、町奉行が施行の対象となる難渋者の調査を命じているわけだが、候補者の申請先は、「西寄合所」以外に、惣会所でも受け付けた。
これらのことから、「寄合所」は、惣会所とは別の役割をもち、かつ、支配にかかわる町奉行所側により近い位置づけのものだったと考えられる。
しかし、実際に、組織的に付属された機関だったかまではわからず、また、所在地も定かでない。ちなみに『大阪市史』の付図「大阪東町奉行所図」の中には、確認できなかったので、奉行所内にある可能性は低い。」
上述の11月6日、11月7日にかかる記述は下記資料に収載されています。
(1) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪市史. 第4 下』(大阪市 編 大阪市 昭和2)(インターネット公開)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1218249 (2020.5.27確認)
p.2115-2117(コマ番号483-484)
回答プロセス:1.当館データベース「大阪関係資料目次検索」(外部非公開)をキーワード“寄会”“寄合”で検索、有用情報なし
2.商用データベース「JapanKnowledge」を“寄会”“寄合”で検索、有用情報なし
3.『大阪編年史 第27巻』索引で“寄会”“寄合”を確認、該当なし
4.大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」( http://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/ )をキーワード“寄会”“寄合”で検索、有用情報なし
5.「Googleブックス」を“大坂 寄会”、“大坂 寄合”で検索、有用情報なし
6.「Google Scholar」を“大坂 寄会”、“大坂 寄合”で検索、有用情報なし
7.「Google」を“大坂 寄会所”、“大坂 寄合所”で検索、有用情報なし
8.「国立国会図書館サーチ」を“大坂 寄会所”、“大坂 寄合所”で検索、有用情報なし
9.「CiNii Articles」をキーワード“大坂 寄会所”、“大坂 寄合所”で検索、有用情報なし
10.当館所蔵検索をフリーワード“大坂町奉行”で検索、有用情報なし
11.大阪市史編纂所に照会し、資料(1)を教示される
参考資料:当館書誌ID 大阪市史 第4下 清文堂出版 1979.3 資料(1),
照会先:大阪市史編纂所( https://www.oml.city.osaka.lg.jp/?page_id=871 )
(2021/12/29 00:32)
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中央大通りの成り立ちについて書かれた本があれば見たい。(大阪市立中央図書館)
中央大通りは、大阪市都心部と大阪港および東大阪市方面への連絡路として重要な道路です。戦災復興土地区画整理事業において都心再開発を目指して計画された新設道路で、昭和30年代前半から工事が進められました。37年に法円坂~森之宮間、40年に西横堀川以西の西区と港区内が完成しました。さらに万国博覧会関連事業として、45年に船場地区および森之宮~東大阪市境間の街路事業が完成しました。(下記資料(1)より)
関連する記述のある資料を以下にご紹介します。
(1) 『角川日本地名大辞典 27 大阪府』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983.10)
p.769に「中央大通り」の項があり、成り立ちについて簡潔に記述されています。また、「大阪市中央部を東西に貫く幹線街路の通称。(中略)認定路線名は市道築港深江線」と記述があります。
(2) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪の町名 : 大阪三郷から東西南北四区へ』(大阪町名研究会 編 清文堂出版 1977.9) (図書館送信参加館内公開) <当館書誌ID:0070049341>
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9573933 (2021.6.18確認)
p.161(コマ番号91)「船場中央一~五丁目」の項に、中央大通りについての記述があります。
(3) 『中央大通 -都市計画街路:築港深江線 船場地区・谷町地区-』(大阪市総合計画局/編 大阪市総合計画局 1970)
中央大通の概要や建設の歴史について記載があります。写真も多数掲載されています。
(4) 『築港深江線及び高架下ビル建設概要』(大阪市/編 大阪市 1968)
築港深江線及び高架下ビル建設の計画概要の資料です。
(5) 『築港深江線建設計画について』(大阪市総合計画局 1969.1)
建設時の事業改革や立地条件について記述があります。
(6) 『築港深江線と船場センタービルの誕生まで』(大阪市開発公社/編集 大阪市開発公社 1989.6)
関係者座談会の記録です。
(7) 『大阪都市計画街路築港深江線「船場地区」建設事業誌』(大阪市土木技術協会 1995)
築港深江線の建設についての詳細な記録です。
以下の雑誌に「築港深江線」に関する記事が掲載されていました。
(8) 国立国会図書館デジタルコレクション『建築と社会 = Architecture and society. 45(10)』(日本建築協会 1964-10) (図書館送信参加館内公開)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/6056418 (2021.6.18確認)
p.49-50(コマ番号41-42) 北田純三郎「築港深江線」
(9) 国立国会図書館デジタルコレクション『建設月報. 20(10)(220)』 (建設広報協議会 編 建設広報協議会 1967-10) (図書館送信参加館内公開)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3361368 (2021.6.18確認)
p.54-56(コマ番号29-30) 「行政実例セミナー 大阪市築港深江線・船場地区の建設」
(10) 国立国会図書館デジタルコレクション『道路 : road engineering & management review. (322)』(日本道路協会 1967-12) (図書館送信参加館内公開)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3309000 (2021.6.18確認)
p.5-10(コマ番号6-9) 北田 純三郎「築港深江線(船場地区)の建設計画」
(11) 国立国会図書館デジタルコレクション『新都市. 全国都市計画協議会特集24(11)』(都市計画協会 1970-11) (図書館送信参加館内公開)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2736999 (2021.6.18確認)
p.46-49(コマ番号29-30) 久保晴茂、松村修「築港深江線(船場地区)の街路建設事業について」
(12) 国立国会図書館デジタルコレクション『ひろば. (169)』(近畿建築士会協議会 編 近畿建築士会協議会 1978-05) (図書館送信参加館内公開)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2317559 (2021.6.18確認)
p.22-24(コマ番号12-13) 吉岡忠純「船場の今昔 その3 築港深江線と船場センタービル」
回答プロセス:1.商用データベース「JapanKnowledge」にて、“中央大通り”で検索するが、参考になる記述なし。
2.地名事典類で“中央大通り”の記述を確認。資料(1)(2)に記述が見つかる。
3.当館所蔵検索でフリーワード“中央大通”と検索、資料(3)が見つかる。
4.中央大通の正式名称が「都市計画道路 築港深江線」であるため、当館所蔵検索でフリーワード“築港深江”と検索、資料(4)から(7)が見つかる。
5.「国立国会図書館デジタルコレクション」にて、キーワード“築港深江”で検索。資料(8)から(12)が見つかる。
参考資料:当館書誌ID 角川日本地名大辞典 27 大阪府 「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983.10 9784040012704 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 大阪の町名 -大坂三郷から東西南北四区へ- 大阪町名研究会/編 清文堂出版 1977 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 中央大通 -都市計画街路:築港深江線 船場地区・谷町地区- 大阪市総合計画局/編 大阪市総合計画局 1970 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 築港深江線及び高架下ビル建設概要 [大阪市/編] [大阪市] [1968] 資料(4),
参考資料:当館書誌ID 築港深江線建設計画について 大阪市総合計画局 1969.1 資料(5),
参考資料:当館書誌ID 築港深江線と船場センタービルの誕生まで 大阪市開発公社/編集 大阪市開発公社 1989.6 資料(6),
参考資料:当館書誌ID 大阪都市計画街路築港深江線「船場地区」建設事業誌 大阪市土木技術協会 1995 資料(7),
参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション『建築と社会 = Architecture and society. 45(10)』(日本建築協会 1964-10) (図書館送信参加館内公開) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/6056418 (2021.6.18確認) 資料(8),
参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション『道路 : road engineering & management review. (322)』(日本道路協会 1967-12) (図書館送信参加館内公開) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3309000 (2021.6.18確認) 資料(10),
参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション『建設月報. 20(10)(220)』 (建設広報協議会 編 建設広報協議会 1967-10) (図書館送信参加館内公開) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3361368 (2021.6.18確認) 資料(9),
参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション『新都市. 全国都市計画協議会特集24(11)』(都市計画協会 1970-11) (図書館送信参加館内公開) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2736999 (2021.6.18確認) 資料(11),
参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション『ひろば. (169)』(近畿建築士会協議会 編 近畿建築士会協議会 1978-05) (図書館送信参加館内公開) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2317559 (2021.6.18確認) 資料(12),
(2021/12/29 00:32)
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江戸時代に大阪の島之内にあった銅吹所について知りたい。(大阪市立中央図書館)
『中央区史跡文化事典 改訂版』p.67(資料1)の「住友銅吹所跡」の項目によると「島之内1丁目は、寛永年間(一六四〇年頃)住友家2代・友以(とももち)によって開かれた銅精錬所があった一帯である。このあたりは東横堀川、西横堀川、長堀川など、舟運(しゅううん)の利便性を活用して多くの銅吹所があった。江戸時代、日本は世界有数の銅産国であり、全国からこの地に粗銅が集まった。住友銅吹所は日本最大の銅精錬所で、日本の生産量の3分の1を精錬。」とあります。
なお、住友銅吹所は明治7(1874)年頃まで続き、その跡地は住友家居宅と庭園に使用されました。現在は、島之内1丁目6番7号に石碑「住友銅吹所跡」が建っています。
『中央区史跡文化事典 改訂版』は大阪市中央区ホームページで、デジタルブックとして公開されています。
・中央区の魅力をギュッとひとまとめ(区政情報中央区制30周年)
https://www.city.osaka.lg.jp/chuo/page/0000462563.html (2021.12.28確認)
p.67はデジタルブックの74ページです。
住友銅吹所の設立年は『大阪史蹟辞典』p.311(資料2)、『大阪市中央区住友銅吹所跡発掘調査報告 -住友銀行鰻谷新システムセンター建設に伴う発掘調査報告書- 本文』(資料3)p.19に記載があり、ともに1636年(寛永十三年)とあります。
住友銅吹所の概要については、上記(資料3)の第三章「住友銅吹所の概要」に詳しく、p.23-26には「住友長堀銅吹所関連年表」が掲載されています。
また、『住友の歴史 上巻』(資料4)p.157-168にも銅吹所の沿革、運営についての記述があります。
大阪と銅の関係については『よみがえる銅 -南蛮吹きと住友銅吹所- 特別展』(資料5)に、「銅鉱石には銀が含まれることが多かったので『南蛮吹き』とよばれる技術で銀と銅が分けられ、精錬された。」「銅は重要輸出品のため幕府の統制下にあり、そのための役所として銅座が設置されていた時期もある。」「明治になって幕府の統制がなくなり、住友銅吹所は四国の別子銅山へと移転した。しかし、大阪には貨幣の製造場である造幣寮(後の造幣局)が作られ銅関連の企業や工場もたくさんあった。」と書かれています。また、銅吹所が成立する以前の銅生産の事情、住友銅吹所を含む大坂の銅吹所と南蛮吹きの技法、近現代の銅生産等について記述があります。
回答プロセス:1.大阪と中央区に関する事典類を確認、(資料1)(資料2)が見つかる。
2.当館所蔵検索をキーワード“住友銅吹所”で検索、(資料3)(資料5)が見つかる。
3.大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」( http://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/ )をキーワード“住友銅吹所”で検索、既に発見した資料以上に詳しい資料なし。
4.当館所蔵検索をフリーワード“住友 銅 歴史”で検索、(資料4)が見つかる。
参考資料:当館書誌ID 中央区史跡文化事典 :改訂版 大阪市中央区役所 2010.11 (資料1),
参考資料:当館書誌ID 大阪史蹟辞典 三善 貞司/編 清文堂 1986.7 9784792423414 (資料2),
参考資料:当館書誌ID 大阪市中央区住友銅吹所跡発掘調査報告 -住友銀行鰻谷新システムセンター建設に伴う発掘調査報告書- 本文 大阪市文化財協会/編集 大阪市文化財協会 1998.3 (資料3),
参考資料:当館書誌ID 住友の歴史 上巻 朝尾 直弘/監修 思文閣出版 2013.8 978-4-7842-1703-8 (資料4),
参考資料:当館書誌ID よみがえる銅 -南蛮吹きと住友銅吹所- 大阪歴史博物館/編集 大阪歴史博物館 2003.10 (資料5),
(2021/12/29 00:32)
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編纂所が調査に関わったもの
サイト名
レファレンス協同データベース
サイトの説明
レファレンス協同データベース検索APIによる検索結果です。
サイトURL
https://crd.ndl.go.jp/
大阪市浪速区幸町にある安政の地震津波碑の碑文全文を知りたい。(大阪市立中央図書館)
安政の地震津波とは、嘉永7年(安政元年・1854年)11月4・5日に大阪を襲った紀伊半島沖に震源をもつ推定マグニチュード8.4の大地震と、それに伴って起きた大津波のことです。
その状況を記録し、後世の人のために戒めを伝える目的で安政2年7月に、被害の甚大だった浪速区幸町五丁目大正橋の東詰に石碑が建立されました。
そこには、大地震が起きた場合には必ず津波が襲うものと心得るべきだと教訓が書かれています。
・小田康徳「大阪における安政の地震津波碑と震災の記憶について」『ヒストリア』第148号(p.91~95)
碑文の原文全文が掲載されています。
ただし、「この文章はこの石碑から直に写したものではなく、浪速区幸町三丁目居住増井健蔵氏所収の木版刷にもとづくもので、若干の異同がある。」と記述されています。
・『大正大阪風土記』訂正(大阪教育部共同研究会/編 大正大阪風土記刊行会,1927)
「津波の碑」の項(p.327~328)にも碑文の原文の掲載がありますが、石碑の背面と右面の碑文のみです。
また、『ヒストリア』掲載のものと、句読点やかな使いに若干の異同がありますが、こちらが石碑から直に写したものかどうかは明らかにされていません。
・浪速区役所ホームページ http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000848.html (2011.3.23確認)
「区のスポット・名所・旧跡」として「安政大津波記念」の碑が取り上げられています。
そこでは、碑に隣接して設置された記念碑に碑文の原文と共に現代語訳が記されているとした上で、現代語文を紹介しています。
2011年8月、大阪市史編纂所より、碑文に関する参考資料として以下のものが最適という情報をいただきました。
・『水都大坂を襲った津波 : 石碑は次の南海地震津波を警告している。』( 長尾 武/著・発行 改訂版 2007)
p.14~16に碑文の全文が記載されています。
参考資料:小田康徳「大阪における安政の地震津波碑と震災の記憶について」『ヒストリア』第148号 大阪歴史学会 1995.9 ,
参考資料:『大正大阪風土記』訂正 大阪市教育部共同研究会編 大正大阪風土記刊行会 1927,
参考資料:浪速区役所ホームページ>区内の官公署、主な施設、名所旧跡等>名所・旧跡等>区のスポット・名所・旧跡>碑>「安政大津波」の碑
http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000848.html (2011.3.23確認),
参考資料:『水都大坂を襲った津波: 石碑は次の南海地震津波を警告している。』 長尾 武著・発行 改訂版 2007.2,
寄与者:大阪市史編纂所
備考:大阪市立図書館webギャラリー「大阪の災害 ~江戸・明治期にかけて~」http://www.oml.city.osaka.jp/image/themes/theme569.html (2011.3.23確認)、
小展示「幕末の大坂を襲った大地震と大津波」(平成16年12月 大阪府立中之島図書館作成)
http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/63_jisin.html (2011.3.23確認)もご参照ください。
(2012/04/17 14:41)
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大阪上本町の近鉄百貨店辺りにあった「梅屋敷」についての資料はないか?(大阪市立中央図書館)
「東都亀戸の梅屋敷を模して、文化年間に造ったもの~生玉馬場の東(現在の上本町六・七丁目辺)にあり、園中に梅を植え、樹下に席を設け~秋には菊観で賑わった~。~日露開戦の一二年後には、山口銀行主の山口吉郎右衛門氏本邸となり、大正期には忘れさられてしまった。」
(「翻刻『梅屋敷の記- 一名 このはな』」『大阪府立図書館紀要』第37号 2008より)
『浪華の賑ひ』 (鶏鳴舎暁晴/編輯 ; 松川 半山/画図 中外書房,1975|安政2年版の複製)26丁に”梅屋敷”についての記述がある。
その他は以下のとおり。
・『浪速叢書 第7 摂津名所図会大成 其1』 (船越 政一郎/編 暁 鐘成/著 名著出版,1978)p277~278
・『大阪府全志 巻之2』(井上 正雄/著 清文堂,1985|大正11年刊の復刻)p764
・『上方』 26 表紙 193302 /『上方』 30 「三十年前の大阪東部」寺川信 p33-34、35 193306
※ 『上方 郷土研究 3(上) 自第二十五号(昭和八年一月)至第三十号(昭和八年六月)』(上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969)所収
・『天王寺区史』 (川端 直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会,1955.10) p84、406
・徳永慶太郎「七十年前の上六」『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業と 阿倍野・住吉・天王寺 特集』25号 第8巻第3号 1980.9(p82-87)
・『京阪名所案内』 (白土 幸力/編輯 博盛堂,1904) p13
・『大阪府誌 第5編 名勝旧蹟』 (大阪府/編纂 思文閣,1970 大阪府 明治36年刊の復刻)p79-80
・『大阪新繁昌記』 (島本 篤平/著 島本篤平,1894.10)p18-19
・『大阪案内』 (日本電報通信社大阪支局,1909)p205
・『目で見る明治時代 明治風俗画集成 2』(国書刊行会,1985.11)
大阪の梅園(p.34.35) 図版・解説あり。
『写真浪花百景 上編 中編』(長谷川 貞信/画 一荷堂 半水/著 綿屋喜兵衛,[1868頃(明治初年)])には「梅屋敷」の絵が収録されており、
大阪市立図書館 画像データベースで画像を提供しているほか、大阪市立図書館Webギャラリー「なにわ花めぐり 」でも同画像を紹介。
”梅屋敷”の位置と広さについては、次の資料による。
『新修大阪市史 第10巻』 (新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市,1996.3) 歴史地図 図5 天保期の大坂三郷
『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[地図] 』 (吉江集画堂地籍地図編輯部/編纂 吉江集画堂,1911)
『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[土地台帳] 』 ([吉江集画堂地籍地図編輯部/編] 吉江集画堂,1911)
国立国会図書館ホームページの「写真の中の明治・大正 関西編」 梅屋敷には、
『旅の家つと23号』(大阪市立図書館所蔵なし)掲載の梅屋敷の写真が紹介されており、関連する近代デジタルライブラリーへのリンクあり。
大阪府立図書館に『梅屋敷の記』(黒沢翁満 1846)が所蔵されており、「大阪府立中之島図書館貴重書画像データベース」で画像が公開されている。
また、「翻刻『梅屋敷の記- 一名 このはな』」『大阪府立図書館紀要』第37号(2008(平成20)年3月31日)本文もホームページ紀要のページで公開されている。
また、大阪府立中之島図書館「錦絵にみる大阪の風景」では、 『浪花百景』(芳瀧画)・『浪華百景之内』(貞信(初代)画)の画像を見ることができる。
回答プロセス:『大阪史蹟辞典』(三善 貞司/編 清文堂出版,1986.7)には記載なし。
大阪市史編纂所に助言を得る。
2010.3追加調査
1.大阪府立中之島図書館 ホームページで調査
大阪文献データベースhttp://refdb.library.pref.osaka.jp/cdb0100.asp (2010.3.24確認)を調査
事項から検索 “梅屋敷”
『上方』 26 表紙 193302 /『上方』 30 「三十年前の大阪東部」寺川信 p33-34、35 193306
※ 『上方 郷土研究 3(上) 自第二十五号(昭和八年一月)至第三十号(昭和八年六月)』(上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969)所収
『上方』 31 p62-63 193307 新梅屋敷が中心
※『上方 郷土研究 3(下) 自第三十一号(昭和八年七月)至第三十六号(昭和八年十二月)』(上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969) 所収
『天王寺区史』 (川端 直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会,1955.10) p84、406
『梅屋敷の記』 黒沢翁満 1846 大阪市立図書館所蔵なし
文献名から検索 “梅屋敷”
徳永慶太郎「七十年前の上六」『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業と 阿倍野・住吉・天王寺 特集』25号 第8巻第3号 1980.9(p82-87)
『梅屋敷の記』 黒沢翁満 1846 大阪市立図書館所蔵なし
『梅屋敷の記』(黒沢翁満 1846)は、「大阪府立中之島図書館貴重書画像データベース」で画像公開を確認。
「錦絵にみる大阪の風景」 http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/ (2010.3.25確認)では、
名所名 梅屋敷で二つの画像を見ることができる。
2.国立国会図書館写真の中の明治・大正 関西編 梅屋敷http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/data/79/index.html (2010.3.24確認)を調査
『旅の家つと23号』(大阪市立図書館所蔵なし)掲載の梅屋敷の写真が紹介されており、代デジタルライブラリーの関連する下記タイトルへのリンクあり。
『京阪名所案内』 (白土 幸力/編輯 博盛堂,1904) p13
『大阪府誌 第5編 名勝旧蹟』 (大阪府/編纂 思文閣,1970 大阪府 明治36年刊の復刻)p79-80
『大阪新繁昌記』 (島本 篤平/著 島本篤平,1894.10)p18-19
『大阪案内』 (日本電報通信社大阪支局,1909)p205
貴重書画像データベースで紹介されている『写真浪花百景 上編 中編』(長谷川 貞信/画 一荷堂 半水/著 綿屋喜兵衛,[1868頃(明治初年)])も含め、当館所蔵あり。
3.CiNii - NII論文情報ナビゲータhttp://ci.nii.ac.jp/ (2010.3.25確認)を調査
キーワード“梅屋敷”で検索。
小笠原 弘之 , 山田 瑞穂 , 佐藤 敏江 [他] 「翻刻『梅屋敷の記--一名 このはな』 翻刻『松島紀行』」 『大阪府立図書館紀要』 (37),2008/3 が見つかる。
大阪府立図書館紀要ページで本文公開を確認。
2010.10追加
『目で見る明治時代 明治風俗画集成 2』(国書刊行会,1985.11)
大阪の梅園(p.34.35) 図版・解説あり。
事前調査事項:『葎居後集 1~3巻』(黒沢翁満著 河内屋和助 安政5.6(1858))
参考資料:『浪華の賑ひ』 鶏鳴舎暁晴/編輯 ; 松川 半山/画図 中外書房,1975,
参考資料:『浪速叢書 第7 摂津名所図会大成 其1』 船越 政一郎/編 暁 鐘成/著 名著出版,1978 浪速叢書刊行会 1927年刊の復刻 ,
参考資料:『大阪府全志 巻之2』 井上 正雄/著 清文堂,1985 ISBN 4-7924-0271-9大正11年刊の復刻 ,
参考資料:『新修大阪市史 第10巻』 新修大阪市史編纂委員会/編集
大阪市,1996.3,
参考資料:『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[地図] 』 吉江集画堂地籍地図編輯部/編纂 吉江集画堂,1911,
参考資料:『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[土地台帳] 』 [吉江集画堂地籍地図編輯部/編] 吉江集画堂,1911,
参考資料:大阪市立図書館Webギャラリー「なにわ花めぐり 」http://www.oml.city.osaka.jp/image/themes/theme829.html (2010.3.25確認),
参考資料:「大阪府立中之島図書館貴重書画像データベース」http://rarebooks.library.pref.osaka.jp/ (2010.3.25確認),
参考資料:「翻刻『梅屋敷の記- 一名 このはな』」『大阪府立図書館紀要』第37号 2008(平成20)年3月31日 http://www.library.pref.osaka.jp/lib/kiyo.html (2010.3.25確認),
参考資料:『上方 郷土研究 3(下) 自第三十一号(昭和八年七月)至第三十六号(昭和八年十二月)』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969 ,
参考資料:徳永慶太郎「七十年前の上六」『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業と 阿倍野・住吉・天王寺 特集』25号 第8巻第3号1980.9(p82-87) <当館書誌ID:0000253458>,
参考資料:『京阪名所案内』 白土 幸力/編輯 博盛堂,1904,
参考資料:『大阪府誌 第5編 名勝旧蹟 』 大阪府/編纂 思文閣,1970 大阪府 明治36年刊の復刻,
参考資料:『大阪新繁昌記』 島本 篤平/著 島本篤平,1894.10,
参考資料:『大阪案内』 日本電報通信社大阪支局,1909,
参考資料:大阪府立中之島図書館「錦絵にみる大阪の風景」 http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/ (2010.3.25確認),
参考資料:国立国会図書館写真の中の明治・大正 関西編 梅屋敷http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/data/79/index.html (2010.3.24確認),
参考資料:『目で見る明治時代 明治風俗画集成 2』国書刊行会/編 国書刊行会,1985.11,
寄与者:大阪市史編纂所 http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2010.3.24確認)
備考:大阪市立図書館Webギャラリー「大阪名所めぐり」http://www.oml.city.osaka.jp/cgi-bin/img_src/disp_themes.cgi (2011.2.4確認)もご参照ください。
2010年3月18日から4月1日まで大阪市立図書館サイトトップ( http://www.oml.city.osaka.jp/ )で、
「梅屋敷」 (『写真浪花百景 上編 中編』(長谷川 貞信/画 一荷堂 半水/著 綿屋喜兵衛,[1868頃(明治初年)])をご紹介しました。
「古文書や大阪関係の地図を検索する」 http://www.oml.city.osaka.jp/cgi-bin/img_src/s_all.cgi (2010.12.17確認)で、書名 図名“写真浪花百景”で検索し、17ページをご参照ください。
山口吉郎兵衛(4代)やまぐち-きちろべえ(1883-1951) 明治-昭和時代の銀行家。
明治31年大阪第百四十八国立銀行を山口銀行(三和銀行の前身)に改組し,社長となる。陶磁器の収集家,茶道家としても知られる。大阪出身。号は滴翠。(『日本人名大辞典』(平凡社)山口吉郎兵衛(4代)の項目より抜粋)
(2011/04/23 16:54)
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石川静水という人物について知りたい。大阪で化粧業界紙の発行をしていた人らしい。(大阪市立中央図書館)
石川静水は、石川清三郎のこと。大阪化粧品商報主筆。
雑誌『あまカラ 33号』(甘辛社,1954.5)「哥沢初稽古」(p.38)に、石川静水について記述がある。
それによると、金物問屋に生まれ、隣家の南木芳太郎(なんきよしたろう:明治15(1882)年-昭和20(1945)年 昭和期の郷土史家。上方郷土研究会を創立し、大阪の近世・近代史を研究)と御津幼稚園からの竹馬の友であった。
また、石川静水の執筆したものとして下記を紹介。
1)『上方』101 「百人随筆集その2 芳チャンと上方」193905 (p.24-25)
南木芳太郎についての記事で、島之内の新屋敷を遊び場としていた事等が綴られている。
2)『上方』50 「新屋敷」193502 (p.35-38)
3)『上方』68 「宗右衛門町に涼みがあった時代」193608 (p.10-11、46-47)
4)『上方』81 「見世物と流行歌」193709 (p.57)
城崎文芸館(兵庫県) http://www.kinosaki-spa.gr.jp/infomation/bungaku/bungekan/bungai.html (2010.5.10確認)には、静水撰の画帖「城崎八景」所蔵があり、あわせて紹介する。
回答プロセス:1.人物関連の参考図書を調査
下記に記載なし。
『大阪人物辞典』(清文堂出版,2000.11)
『『大阪春秋』総目次・索引集 創刊号~第100号』(大阪春秋社,2002.9) 人名の項目なし
『上方 郷土研究 別巻』(新和出版社,1971) 町人学者・俳句・新聞・出版の各項目 該当なし
『新修大阪市史 第10巻』(大阪市,1996.3) 索引 該当なし
『明治大正昭和大阪人名録 上巻』( 日本図書センター,1989.10)
『大阪人物誌 正編 』(臨川書店,1974)、『大阪人物誌 続編』(臨川書店,1974)
『日本書画骨董大辞典 増訂版』(成文館書店,1935.8)
『日本紳士録 24版』(交詢社,1919.12)
2.大阪の化粧品業界の資料を調査
当館所蔵を、キーワード“大阪×出版×化粧品”で検索。
『日本の書店百年』 (青英舎,1991.7)の内容確認するが、記述なし。
3.大阪府立中之島図書館大阪文献データベース http://refdb.library.pref.osaka.jp/cdb0100.asp (2010.5.10確認)
“石川静水”で検索。事項から検索 0件、文献名から検索すると、下記の4件の記事があり。
1)上方 101 百人随筆集その2 芳チャンと上方/石川静水 p24-25 193905
2)上方 50 新屋敷/石川静水 p35-38 193502
3)上方 68 宗右衛門町に涼みがあった時代/石川静水 p10-11、46-47 193608
4)上方 81 見世物と流行歌/石川静水 p57 193709
4.インターネットで調査
国立国会図書館 蔵書検索・申込システム http://opac.ndl.go.jp/ (2010.5.10確認)、
近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/index.html (2010.5.10確認)では情報なし。
Googleで、“石川静水”検索、城崎文芸館が同氏撰の画帖を所蔵していることが判明。
5.当館提供商用データベースで調査
下記全て“石川静水”が該当なし
e-レファレンス/ツール(日外 人物・出版情報)
聞蔵Ⅱビジュアル(朝日新聞 一部記事写真閲覧可)
The SankeiArchives(産経新聞記事)
日経テレコン21(日経四紙記事)
毎日Newsパック(毎日新聞記事)
ヨミダス文書館(読売新聞記事)
6.大阪市史編纂所に照会
化粧品商報社の編集をしていた人物である。
肥田晧三氏の講演会(「中井浩水著作目録(二) 大阪芸能懇話会 平成16年6月27日)レジュメの中に、“静水”についての記載(雑誌『あまカラ33号』より抄出)があるとの情報を得た。
参考資料:『あまカラ 31~40号』(甘辛社,1954.3-12),
参考資料:『上方 郷土研究 10(上)』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』101所収,
参考資料:『上方 郷土研究 5』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』50 所収,
参考資料:『上方 郷土研究 6』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』68 所収,
参考資料:『上方 郷土研究 7』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』81 所収
,
照会先:城崎文芸館 http://www.kinosaki-spa.gr.jp/infomation/bungaku/bungekan/bungai.html (2010.5.10確認)
寄与者:大阪市史編纂所 http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2010.5.10確認)
備考:大阪市立図書館多機能OMLISでは、2011年4月より商用データベース「毎日Newsパック」に代えて「毎索」(マイサク)(毎日新聞記事)を提供。
(2011/04/08 20:23)
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明治36年(1903)、第五回内国勧業博覧会開催時に、親子丼が販売提供されていたか知りたい。(大阪市立中央図書館)
『大阪三六五日事典』(東方出版,2002.2)「明治36年3月1日内国勧業博覧会開幕」の記事(p.46)に、“鳥菊”主人考案の十五銭の親子丼が、会場から誕生したとの記述あり。
あわせて下記の資料をご紹介した。
・『博覧会』(「実業世界太平洋」臨時増刊第1巻第五号)(博文館,1903)
山下雨花「余興と飲食物」の項目に下記の記述あり。(p.189 下段)
「鳥菊の鳥、~その鋤焼に親子丼の風味は、~」
・『博覧会土産 大阪及び附近の名所案内』(山下 雨之助/編 岡本偉業舘,1903)
「場内飲食店」の項目に、「鳥菊」あり。(p.29-30)建物の記述等あるが、親子丼の記述なし。
・『第五回内国勧業博覧会場内観覧案内』(山田 鎗之助/著 大阪製本印刷,1903)
鶏肉料理 内本満助(p.57)
・『第五回内国勧業博覧会場全図』(博文館,1903)
鶏肉料理 内本(図の中央あたりの上部)
・『第五回内国勧業博覧会案内記』(井上 熊次郎/編纂 考文社,1903)
鶏肉料理 内本満助(p.83)
・『第五回内国勧業博覧会報告書』(大阪市商工課, 明37.5)
国立国会図書館近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801969/44 (2011.3.7確認)
「博覧会ト飲食店」の項目に、鳥菊・内本満助の記述あるが、親子丼の記述はなし。(p.80.81)
回答プロセス:1.商用データベース「Japan Knowledge(ジャパンナレッジ)」(事典・辞書等) を調査
キーワード“親子丼”で検索、4件の項目が見つかるが詳しい由来はなし。
キーワード“親子丼”で全文検索、22件の項目のうち、由来については下記の項目にあり。
『日本大百科全書』(小学館)【丼物】
「親子丼は、東京・中央区の玉秀という鳥料理屋で明治初期に創作したもの。」
2.参考図書を調査
・『明治・大正家庭史年表 : 1868→1925 』(河出書房新社,2000.3)
明治36年3月1日、大阪で初めて“親子丼”が売り出されるとあり。(p.300)
・『衣食住語源辞典』(東京堂出版,1996.9)
1903年7月26日『大阪毎週新聞』に“親子丼”の文字が見える、とあり。(p.59)
※『大阪毎週新聞』は所蔵せず。
事物起源・料理の歴史に関する図書も調査するが、関連の記述は見つからない。
3.大阪府立中之島図書館大阪文献データベースhttp://refdb.library.pref.osaka.jp/cdb0100.asp (2011.3.7確認)を調査
キーワード“親子丼”で検索、下記の図書が見つかった。
・『大阪三六五日事典』(東方出版,2002.2)
「明治36年3月1日内国勧業博覧会開幕」の記事(p.46)に、“鳥菊”主人考案の十五銭の親子丼が、会場から誕生したとの記述あり。
4.googleブックス http://books.google.com/ (2011.3.7確認)で調査
キーワード“親子丼”ד内国勧業博覧会”で検索、下記の図書が見つかった。
・『語源海』(東京書籍,2005.3)
料亭鳥菊の主人、内本松次郎の名あり。(p.171)
・『日本史「はじめて」事典』(PHP研究所,2009.3)
鳥菊の主人・内本松次郎の名あり。(p.97) ※利用者調査済
5.新聞データベースを調査
・商用データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」(朝日新聞 一部記事写真閲覧可)
「朝日新聞縮刷版」メニューで調査
大阪朝日新聞の1903年7月26日から8月2日まで内国勧業博覧会の記事を確認してみるが、“親子丼”の記事はなし。
“鳥菊”で検索すると、明治18年(1885)6月13日大阪朝刊4頁に広告「鳥菊 近火御見舞御礼」などが見つかる。
親子丼についてはなし。
“親子”ד丼”で検索すると、明治17年(1884)の神戸元町の「江戸幸」の広告に
「親子上丼」「親子並丼」「親子中丼」の名称あり。
・商用データベース「ヨミダス歴史館」(読売新聞記事)
関連の記述見つからず。
6.大阪市史編纂所にお尋ね
“第五回内国勧業博覧会”の出店記録は資料としてあるだろうが、“親子丼”を販売していた等の記録はないと思われ、見聞記や新聞記事等に記述が見つかる可能性を示唆された。
7.第五回内国勧業博覧会関係資料を調査
回答記載の資料に関連する記述を確認。
8.国立国会図書館 近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/index.html (2011.3.7確認)
第五回内国勧業博覧会関係で、当館の所蔵していないものを確認。
『第五回内国勧業博覧会報告書』(大阪市商工課, 明37.5)http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801969/44 (2011.3.7確認)
「博覧会ト飲食店」の項目に、鳥菊・内本満助の記述あるが、親子丼の記述はなし。(p.80.81)
事前調査事項:『日本史「はじめて」事典』(PHP研究所,2009.3)に鳥菊の主人・内本松次郎の名あり。(p.97)
参考資料:『博覧会』博文館,1903,
参考資料:『博覧会土産 大阪及び附近の名所案内』山下 雨之助/編 岡本偉業舘,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会場内観覧案内』山田 鎗之助/著 大阪製本印刷,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会場全図』博文館,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会案内記』井上 熊次郎/編纂 考文社,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会報告書』(大阪市商工課, 明37.5)
国立国会図書館近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801969/44 (2011.3.7確認),
寄与者:大阪市史編纂所http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2011.3.7確認)
(2011/03/19 10:29)
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生島永太郎(いくしま えいたろう)について知りたい。明治の終わりから戦前ぐらいまでの大阪商人(久太郎町)。 甲南小学校の設立者の一人で、明治45年に大阪保誉院を作った人。父は生島嘉蔵(かぞう)。(大阪市立中央図書館)
生島永太郎は、明治7年11月生。生島家では、代々嘉蔵を襲名している模様。下記の資料をご紹介した。
1.『社団法人大阪保誉院記念帳』(大阪保誉院清算事務所,1935.7)
「起源及沿革」ほかに記載あり。生島永太郎(嘉蔵)の表記が多数。
2.『大阪府社会事業史』(大阪社会福祉協議会,1958)
生嶋永太郎を中心に組織された辰巳会によって廃兵の収容所として明治45年泉北郡三宝村に開設(p270)
3.『甲南学園50年史』 (甲南学園,1971.3) 『甲南学園の70年』 (甲南学園,1992)
甲南小学校の創立事務に当たった11人の中に名前あり。
4.『大阪人名資料事典 第1巻』 日本図書センター,2003.5
「大阪現代人名辞書 1」(復刻 初版:文明社 大正2年刊)
生島嘉蔵 安政3年(1856)1月25日生まれ。長男永太郎(明治7年11月生)とあり。 (p69)
回答プロセス:1.当館所蔵を検索
“生島永太郎”では該当なし。
2.商用データベースで調査
商用データベース「ジャパンナレッジ」 該当なし
商用データベース「e-レファレンス/ツール」 生島嘉蔵(いくしまかぞう)はあり。
「文政4(1821)年~明治32(1899)年7月2日 江戸時代末期・明治期の商人、貿易商。貿易業に従事、唐反物を取り扱う。【掲載事典】◎「幕末維新人名事典」
永太郎の祖父にあたるのか?
3.中之島図書館「大阪文献データベース」を調査
該当無し。
4.『新修大阪市史』索引になし。
5.大阪保誉院関連の資料を調査
『社団法人大阪保誉院記念帳』(大阪保誉院清算事務所,1935.7)に記載あり。
『大阪府社会事業史』(大阪社会福祉協議会,1958)
生嶋永太郎を中心に組織された辰巳会によって廃兵の収容所として明治45年泉北郡三宝村に開設(p270)
6.甲南学園関係資料を調査
『甲南学園50年史』 (甲南学園,1971.3)
甲南小学校の創立事務に当たった11人の中に名前あり(p4)。
『甲南学園の70年』 (甲南学園,1992)
甲南小学校の創立事務に当たった11人の中に名前あり(p18)
7.大阪関係の人物事典を調査
『都道府県別資産家地主総覧 大阪編 1 復刻』渋谷 隆一/編 日本図書センター,1991.2
大阪市商工業者資産録(商業興信所編 1902(明治35)年刊)
生島嘉蔵 安政3年(1856)1月生まれとあり。職業欄は空欄。
『明治大正昭和大阪人名録 上巻』 (日本図書センター,1989.10)
「日本紳士録」(交詢社 明治43年刊)の復刻)に、生島嘉蔵あり。住所と所得税・電話の掲載(p20)
『大阪人名資料事典 第1巻』 日本図書センター,2003.5
「大阪現代人名辞書 1」(復刻 初版:文明社 大正2年刊)
生島嘉蔵 安政3年(1856)1月25日生まれ。長男永太郎(明治7年11月生)とあり。 (p69)
『大阪人物辞典』 (三善 貞司/編 清文堂出版,2000.11)
生島嘉蔵 文政4(1821)年 (p62) 「幕末維新人名事典」掲載と同人物
『日本人物情報大系 32 企業家編 2』(皓星社,2000.3)
生島嘉蔵のみ。
下記には記載無し。
『明治大正昭和大阪人名録 中巻』 (日本図書センター,1989.10)
「日本紳士録」(交詢社 大正14年刊)の復刻
『明治大正昭和大阪人名録 下巻』(日本図書センター,1989.10)
「日本紳士録」(交詢社 昭和11年刊の復刻)
『大阪新人大観』(升谷 天惠/著 大阪新人大観編纂局,1925)
『大阪新人物誌』(夕刊大阪新聞社,1934.6)
『大阪の公人 : 付・連合区制の小史』 (山本 桃洲/著 大阪の公人刊行事務所,1916.4)
8.近代デジタルライブラリーで調査
『明治富豪譚』(大阪毎日新聞社 明治25.9)「生島嘉蔵乗車賃を二銭に限る」
『当世名士譚』(米倉領次郎,明25.10)「生島嘉蔵の質朴」
年代からして、永太郎の父のことか。
9.大阪市史編纂所におたずね
有用な情報なしとのこと。
参考資料:『社団法人大阪保誉院記念帳』大阪保誉院清算事務所,1935.7,
参考資料:『大阪府社会事業史』大阪社会福祉協議会,1958,
参考資料:『甲南学園50年史』 甲南学園50年史出版委員会/編 甲南学園,1971.3,
参考資料:『甲南学園の70年』 甲南学園史資料室委員会/編集 甲南学園,1992,
参考資料:『都道府県別資産家地主総覧 大阪編 1 復刻』渋谷 隆一/編 日本図書センター,1991.2 ISBN 4-8205-5416-6,
参考資料:『明治大正昭和大阪人名録 上巻』 日本図書センター,1989.10 ISBN 4-8205-2058-X,
参考資料:『大阪人名資料事典 第1巻』 日本図書センター,2003.5 「大阪現代人名辞書 1」文明社/編纂 復刻 初版:文明社 大正2年刊 ISBN 4-8205-9966-6 ,
参考資料:『大阪人物辞典』 三善 貞司/編 清文堂出版,2000.11 ISBN 4-7924-0499-1,
寄与者:大阪市史編纂所 http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2010.1.23確認)
備考:商用データベース「e-レファレンス/ツール」は、2010年6月から「e-レファレンス・ライブラリー」(日外 人物・出版情報) に変更。
(2010/12/13 19:38)
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