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サイト名
レファレンス協同データベース
サイトの説明
レファレンス協同データベース検索APIによる検索結果です。
サイトURL
https://crd.ndl.go.jp/
大阪慈恵病院跡について知りたい(大阪市立中央図書館)
「大阪慈恵病院跡」の碑は、大阪府立生野工業高等学校前(生野区生野東2丁目3)に建っています。その碑には「明治二十一年六月、私立病院として東区唐物町一丁目円光寺に創設され、大正十三年以来本地にあった。のち市に移管されたが、昭和二十年の戦災で廃止となった。」と記されています。
大阪慈恵病院および病院跡については、以下の資料に記述があります。
(1)生野区役所ホームページ:生野区内の史跡・旧跡https://www.city.osaka.lg.jp/ikuno/page/0000000016.html#jikai (2024.2.14確認)
「大阪慈恵(じけい)病院跡」の項に病院の概要と碑の写真が掲載されています。「多くの篤志家によって、恵まれない人々の医療施設として開設された病院として世に知られています。この病院は、明治21(1888)年6月、高橋正純、緒方惟準らの医師が創設したもので」「大正2(1913)年に弘済会に引き継がれ、大正13(1924)年に現在の市立生野工業高等学校の地に移されました。」とあります。
(2)『弘済院60年のあゆみ』(川端 直正/編集 大阪市立弘済院 1973)
「第一編 弘済会時代 第一章 弘済会が生まれるまで」のp.11-17「第4節 大阪慈恵会の設立」およびp.17-26「第5節 大阪慈恵病院の業績」に概略だけでなく、慈恵病院関係者氏名の記載など、詳細な記述があります。また口絵部分には「創立当時の大阪慈恵病院」の写真が掲載されています。
(3)大阪市ホームページ:弘済院附属病院の沿革
https://www.city.osaka.lg.jp/fukushi/page/0000006715.html (2024.2.14確認)
「大阪慈恵病院の創設」の項に、「大阪市立弘済院附属病院の前身は大阪慈恵病院です。」とあり、大阪慈恵病院についての略歴が記述されています。
(4)『東区史 第2巻 行政篇』(大阪市東区役所/[編] 清文堂出版 1982)
「第五章 社会事業 三 診療施設」のp.803-804「(一)前言」に「大阪慈恵病院は、慈恵会の組織する貧民施療のための病院であるが、これは単に東区内に於てのみならず、当時大阪市におけるこの種私設として唯一のものであったのである。」とあり、p.804-813「(二)大阪慈恵病院」の項にはその沿革や、病院の施療方法、患者数などの記述があります。
p.883-886「(五)弘済会救療部大阪慈恵病院」の項では、弘済会に移管したこと、東区から生野区に移転したことについて記述があります。
(5)『明治大正大阪市史 第1巻 概説篇』(大阪市役所/編纂 清文堂 1980)
「第六章 社会問題 六、私営救済事業」のp.485-486に「大阪慈恵病院」について記述があります。
(6)『新修大阪市史 第5巻』(新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1991)
「第四章 社会問題と社会運動 第一節 環境の近代化と下層社会」のp.546-549「貧民の病院」に、明治21年2月6日に「「大阪慈恵病院」設立趣意書が東区役所に提出された。」とあり、「2月9日には設立が許可され、病院長に緒方惟準、副院長に高橋正純を選んだ。」などの記述があります。
(7)『大阪市史紀要 第22号』(大阪市立中央図書館市史編集室/編 大阪市立中央図書館市史編集室 1969.8)
平田隆夫「明治大阪慈恵事業史資料(4)」のp.141-158「〔Ⅲ〕貧民施療施設」に大阪慈恵会および大阪慈恵病院についての解説と「大阪慈恵会定款」「被救護人療養取扱手続」などの資料が収載されています。
(8)『大阪市史紀要 第23号』(大阪市立中央図書館市史編集室/編 大阪市立中央図書館市史編集室 1969.12)
川端直正「明治時代における大阪慈恵病院の沿革(市立弘済院史 その1)」に明治初期の大阪の貧窮施設や大阪慈恵会の設立、大阪慈恵病院の活動、また創設者の緒方惟準、高橋正純、緒方拙斎、高安道純、山田俊卿といった人物についての記述があります。
(9)『大阪における社会福祉の歴史 2』(大阪社会福祉史研究会/編 大阪市社会福祉研修・情報センター 2010.3)
永岡正己「大阪医療福祉実践の源流-ラニング、アダムス、テイラー、山田俊卿と明治期の民間活動-」のp.22-27「4. 大阪慈恵病院と山田俊卿」に記述があります。
(10)『大阪史蹟辞典』(三善 貞司/編 清文堂 1986.7)
p.78に「大阪慈恵病院後碑」の項があります。
(11)『大阪市の文化財 :改訂第7版』(大阪市文化財協会/編集 大阪市教育委員会 1997.3)
P.94に「大阪慈恵病院跡」の項があります。
(12)『歴史の散歩道:4版 今里・平野郷コース』(大阪市建設局/編集 大阪市建設局 1993.4)
p.5に「大阪慈恵病院跡」の項があります。
(13) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪アメニティプラン : Osaka amenity plan』(大阪市総合計画局 編 大阪市総合計画局 1985.3) (国立国会図書館/図書館・個人送信限定)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9672910/1/103 (2024.2.14確認)
p.201(コマ番号103)に「E 大阪慈恵病院跡」の項があります。
■創設者について
(14)『日本大百科全書 :2版 4 おおつ-かき』(小学館 1994)
p.62「緒方惟準」の項があり、「幕末・明治の医学者。緒方洪庵 (こうあん) を父に大坂に生まれる。」「高橋正純(1835―1891)らとともに大阪慈恵病院(大阪市立弘済院付属病院の前身)を設立して社会福祉に努めた。」とあります。
(15)『東区史 第5巻 人物篇』(大阪市東区役所/[編] 清文堂出版 1982)
「第四章 医家」のp.427-429に「緒方惟準」の項があります。
(16)『大阪春秋 -大阪の歴史と文化と産業と- 通巻12号 大阪の学校』(大阪春秋社 1976)
p.17-26 宮本又次「明治初期大阪の各種専門学校とその人々」に、緒方惟準および高橋正純について書かれています。
回答プロセス:1.当館所蔵検索システムにて、キーワード“大阪”ד史跡”で検索、資料(10) (11)が見つかる。
2.回答プロセス1にて、検索結果一覧に大阪市建設局道路部作成のパンフレット『歴史の散歩道』が含まれており、シリーズを確認。資料(12)が見つかる。
3.「大阪市生野区役所」ホームページにて、キーワード“史跡”で検索、資料(1)が見つかる。
4.資料(10)(11)に「大阪市立弘済院付属病院」の記載あり。当館所蔵検索システムにて、キーワード“大阪市×弘済院”で検索、資料(2)が見つかる。
5.「大阪市」ホームページにて、キーワード“弘済院付属病院”で検索、資料(3)が見つかる。
6.当館データベース「大阪関係資料目次検索」(外部非公開)にてキーワード“慈恵病院”を検索。資料(4)(5)(6)(15)が見つかる。
7.大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」(https://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/)にて、キーワード“大阪慈恵病院”で検索、資料(8)(9)が見つかる。
8.資料(8)を合本製本した当館所蔵の製本雑誌を確認。資料(7)が見つかる。
9.商用データベース「JapanKnowledge」を、資料(10)に記載の人名“緒方惟準”で検索、資料(14)が見つかる。
10.「大阪春秋総目次・索引集」(http://osaka-web-museum.na.coocan.jp/index-top-shunjyu.htm )にて、「人名編/地名・事項編」を確認。項目“緒方惟準”および“高橋正純”を確認。資料(16)が見つかる。
11. 「国立国会図書館デジタルコレクション」にて、キーワード“大阪慈恵病院”で検索、資料(13)が見つかる。
参考資料:当館書誌ID 大阪史蹟辞典 三善 貞司/編 清文堂 1986.7 9784792423414 資料(10),
参考資料:当館書誌ID 大阪市の文化財 :改訂第7版 大阪市文化財協会/編集 大阪市教育委員会 1997.3 資料(11),
参考資料:当館書誌ID 歴史の散歩道:4版 今里・平野郷コース 大阪市建設局/編集 大阪市建設局 1993.4 資料(12),
参考資料:当館書誌ID 弘済院60年のあゆみ 川端 直正/編集 大阪市立弘済院 1973 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 東区史 第2巻 行政篇 大阪市東区役所/[編] 清文堂出版 1982 資料(4),
参考資料:当館書誌ID 東区史 第5巻 人物篇 大阪市東区役所/[編] 清文堂出版 1982 資料(15),
参考資料:当館書誌ID 明治大正大阪市史 第1巻 概説篇 大阪市役所/編纂 清文堂 1980 資料(5),
参考資料:当館書誌ID 新修大阪市史 第5巻 新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1991 資料(6),
参考資料:当館書誌ID 大阪市史紀要 第23号 大阪市立中央図書館市史編集室/編 大阪市立中央図書館市史編集室 1969.12 資料(8),
参考資料:当館書誌ID 大阪における社会福祉の歴史 2 大阪社会福祉史研究会/編 大阪市社会福祉研修・情報センター 2010.3 資料(9),
参考資料:当館書誌ID 大阪市史紀要 第22号 大阪市立中央図書館市史編集室/編 大阪市立中央図書館市史編集室 1969.8 資料(7),
参考資料:当館書誌ID 日本大百科全書 :2版 4 おおつ-かき 小学館 1994 9784095261041 資料(14),
参考資料:当館書誌ID 大阪春秋 -大阪の歴史と文化と産業と- 第12号 特集大阪の学校 大阪春秋社 1976 資料(16),
参考資料:当館書誌ID 大阪アメニティプラン -Osaka amenity plan- 大阪市総合計画局/編 大阪市総合計画局 1985.3 資料(13),
参考資料:生野区役所ホームページ 生野区内の史跡・旧跡 https://www.city.osaka.lg.jp/ikuno/page/0000000016.html#jikai (2024.2.14確認) 資料(1),
参考資料:大阪市ホームぺージ 大阪市立弘済院附属病院 弘済院附属病院の沿革 https://www.city.osaka.lg.jp/fukushi/page/0000006715.html (2024.2.14確認) 資料(3),
(2024/03/14 00:30)
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大阪市港区天保山地区の盛土の歴史が分かる資料を探している。また、『港区たんけん手帳』の28、29、31頁に、盛土に対して反対意見があったが、「ジェーン台風で盛土工事が済んでいたところは被害がなかったことから反対意見がなくなった」とある。反対意見の内容がわかる資料や、ジェーン台風による被災地(被災しなかった土地)の地図はないか。(大阪市立中央図書館)
関連する記述のある資料を以下にご紹介します。
(1)-(3)は大阪港を知るにあたり基礎的な資料で、盛土工事およびジェーン台風による被災についても詳細な記述のあるます。
(1) 『大阪港工事誌』 (大阪市港湾局 1971)
大阪港の工事の歴史についてまとまった記述がある資料です。以下のページほか、
盛土工事については、p.467-481「第3編 事業実施 第3章 高潮対策事業 第2節 防災事業地盤嵩上」、p.581-584「同編 第4章 港湾地帯区画整理事業 第2節 実施状況」などに、ジェーン台風の災害状況については、p.592-618「同編 第5章 災害復旧 第3節 ジェーン台風災害復旧工事(昭和25年9月3日)」などに記述があります。
(2) 『大阪港史 第1巻』 (大阪市港湾局 1959)
「第四編 戦後期(復興・伸長期) 第二章 修築一〇ヵ年計画事業 第二節 事業の経過」のうち、p.590-592に「一、浚渫および盛土工事」の項があります。
「第四編 戦後期(復興・伸長期) 第三章 ジェーン台風災害」のうち、p.637-650「第一節 風水害概況」中の「ジェーン台風による大阪市内浸水区域図」があります。
(3) 『港区誌』 (大阪市港区役所/編集 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956)
p.148-159「第三章 防潮事業」に、昭和22年度開始の盛土に関する経緯、工事内容等の記述があります。
p.152に、「ジェーン台風来襲と高潮対策」の項があり、ジェーン台風の際に「盛土の防災的価値が認められ、それまで修築事業としていた盛土工事を防災事業として急速に進めるともに」等の記述がありますが、反対意見の内容についての記述はありません。
以下(4)(5)に収載の地図には、ジェーン台風の浸水区域と盛土工事がなされた地区が記されています。
(4) 『新修大阪市史 第10巻』 (新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1
996)
付録の歴史地図「図9 戦災復興期の大阪」に「②ジェーン台風の被害と高潮対策」があり、大阪市内の浸水区域と盛土を含む高潮対策および地盤沈下量が示されています。
(5) 『ジェーン台風 -被害と救援-』(大阪市/[編] 大阪市役所 1950.11)
[p.6]「昭和25・9・3ジェーン台風による大阪市(床上)浸水地域」が掲載され、「六日正午現在」として、「床上浸水排水完了地区」「床上浸水地区」「盛土工事による非浸水地区」が記されています。ただし、掲載は白黒の図であるため、各地区が不明瞭です。
以下(6)に盛土に対する反対意見があった旨の記述が見つかりました。
(6) 『広報みなと 2007年1月-2012年12月 / 127-199号』(大阪市港区役所総務課(総合企画)/編集 大阪市港区役所総務課(総合企画) 2007.01-2012.12)
2010年11月号(173号) p.4「みなと物語 港区を2メートル持ち上げる!~世紀の盛土工事~」に、ジェーン台風襲来の際に「盛土が完了していた知己は高潮被害を免れ、全面盛土効果が実証される形となりました。それまでは、住民からは盛土工事に反対する声が強かったのが、これを機に工事促進を切望する声が高まり、順調に工事が進むようになりました」とありますが、反対意見の具体的な内容についての記述はありません。
ジェーン台風関連の主な資料のうち、以下(7)-(10)に大阪市内の浸水区域が記載された簡易な地図が掲載されていました。
(7) 『風水害概況 -ジェーン台風-』(大阪市行政局/[編] 大阪市行政局 1950)
冒頭地図「大阪市風水害(昭和25年9月3日)浸水被害図」
(8) 『ジェーン台風風水害概況』(大阪市 1950はしがき))
p.13-14「大阪市風水害(昭和25年9月3日)浸水被害図(床上浸水)」
(9) 『ジェーン台風誌要』(大阪府/編 大阪府 1951.3)
p.9「ジェーン台風による大阪市内浸水区域図」
p.10「ジェーン台風被害状況図」
(10) 『ジェーン台風大阪市風水害概況』(大阪市行政局行政調査課 1950)
冒頭口絵「ジェーン台風による大阪市浸水地域図」(昭和25年9月3日)
p.31「浸水地域の減水状況図」
回答プロセス:1.当館の過去のレファレンス事例をキーワード“天保山”ד盛土”で検索。過去類似事例の参考文献より、資料(1)(2)が見つかる
2.当館データベース「大阪関係資料目次検索」(外部非公開)にてキーワード“盛土”で検索。資料(3)が見つかる。
3大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」( https://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/index.html )にてキーワード“盛土”で検索。資料(6)が見つかる。
4「.国立国会図書館サーチ」にてキーワード“盛土”ד港区”、“盛土”ד天保山”で検索するが、有用情報見つからず。
5.質問者事前確認資料『港区たんけん手帳』の参考文献を確認するが、有用情報なし。
6.当館蔵書検索システムにて、フリーワード“ジェーン台風”で検索。資料(4)(5)(7)(8)(9)(10)が見つかる。
事前調査事項:『港区たんけん手帳 : うちのまち、再発見!』 (大阪市港区役所/編集 大阪市港区役所 2014.3)
p.28-29「本当に?港区を2m持ち上げる!」の項に以下の記述を確認しました。
p.28「大阪港の修築工事で出る土砂を使って、港区の土地に高さ2mも土を盛る区画整理事業がおこなわれました。世界でもめずらしい大規模なこの事業のために、港区の人たちは自分の土地を約4割も提供しました。」
p.29「調べてみよう!②盛土工事の反対運動をしていた人たちの意見を、賛成へと変えたあるできごととは? ★1950(昭和25)年にあったことだよ。」
参考資料:当館書誌ID 大阪港工事誌 大阪市港湾局 1971 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 大阪港史 第1巻 大阪市港湾局 1959 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 港区誌 大阪市港区役所/編集 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 新修大阪市史 第10巻 新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1996 資料(4),
参考資料:当館書誌ID ジェーン台風 -被害と救援- 大阪市/[編] 大阪市役所 1950.11 資料(5),
参考資料:当館書誌ID [製本] 広報みなと 2007年1月-2012年12月 / 127-199号 大阪市港区役所総務課(総合企画)/編集 大阪市港区役所総務課(総合企画) 2007.01-2012.12 資料(6),
参考資料:当館書誌ID 風水害概況 -ジェーン台風- 大阪市行政局/[編] 大阪市行政局 1950 資料(7),
参考資料:当館書誌ID ジェーン台風風水害概況 大阪市 1950はしがき 資料(8),
参考資料:当館書誌ID ジェーン台風誌要 大阪府/編 大阪府 1951.3 資料(9),
参考資料:当館書誌ID ジェーン台風大阪市風水害概況 大阪市行政局行政調査課 1950 資料(10),
(2024/03/13 00:30)
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愛知県犬山市出身で、大正期に大安生命(ダイアンセイメイ)の取締役だった日比野芳太郎がいつ、なぜ大阪に出たのか経緯が分かる資料はあるか。(愛知芸術文化センター愛知県図書館)
・下記の資料に経緯などが書かれているが、資料によって大阪に行った年齢が異なる。
【資料1】『財界二千五百人集』1920(大正9)年(永続的識別子 info:ndljp/pid/1447438)
112-113コマ(pp.179-180)に「日比野芳太郎」の項目あり。
「…日比野新兵衛の長男にして明治元和九月七日を以て同県丹羽郡犬山町に生れ同十六年家督を相続し前名由太郎を改む…父業に従ひ年二十三歳の時大阪に出て綿花の小売業を営み…大安生命保険株式会社及び岩田常商店の重役たりしことあり」という略歴が掲載されている。
【資料2】 『新日本史:現代人物編 別編』1927(昭和2)年
P234に「日比野新兵衛の長男にして明治元年九月七日生る先考は尾州犬山に於いて茶生糸の製造及び卸業を営みしを以て氏長じて之を助く年二十三志を立てて大阪に出で棉花の小売商となり…大正二年大安生命保険株式会社取締役に挙げらる」という略歴が掲載されている。
【資料3】『青年立志訓:修養叢談』1910(明治43)年(永続的識別子 info:ndljp/pid/757546)
130-139コマ(pp.236-255)に「独立自営で十年間に参拾余万円の身代となりし日比野芳太郎田舎の綿屋の息子」の項目あり。日比野芳太郎の一代記のような内容である。
親の名前や生年月日の記述はないが、「愛知県下犬山町の田舎綿屋の倅」とあり、出身地は犬山町であることが分かる。
131コマ(pp.239)5行目~「◎彼は孤児と為って志想愈々固し」の項目に大阪に出た経緯が書かれている。要約すると、13歳で両親が亡くなり、犬山の田舎で商売をしていても駄目だと感じて14歳の暮に商業の中心である大阪に出た、とある。
回答プロセス:1.「大安生命」をインターネットで検索
生命保険協会作成の「生命保険会社変遷図」(https://www.seiho.or.jp/member/chart/pdf/chart_01.pdf)3ページ目に大安生命保険会社についての変遷あり。この図によると昭和8年12月に片倉生命保険に包括移転し、大安生命は解散。片倉生命保険は昭和17年10月に日産生命保険と合併。
2.日産生命の社史で調査
当館に大安生命および片倉生命の社史はないが、日産生命は『日産生命80年史』(資料ID:1105118859)を所蔵しており、確認したところ「第6章 片倉生命小史/第2節 不況と闘う/5.大安生命の合併と増資」の中にp.159 13行目~「(大安生命略史)」があり、取締役の名前も何人か出てくるが、日比野芳太郎の名前は見当たらなかった。
3.国立国会図書館デジタルコレクションで「日比野芳太郎」を検索
「ログインなしで閲覧可能」「送信サービスで閲覧可能」にチェックを入れて検索したところ、684件がヒット。年譜や伝記のようなものが載っていそうな資料を順に見ていったところ、大阪に出た経緯が書かれていたのは【資料1】および【資料3】。
4.GoogleBooksで「日比野芳太郎」を検索
『新日本史 第5巻』萬朝報社 1926年(表紙の写真では『新日本史別篇 現代人物篇』)がヒット。
所蔵確認すると、【資料2】があった。
事前調査事項:レファレンス協同データベース一宮市立図書館提供事例「日比野芳太郎について知りたい。(2016年4月21日登録・管理番号:0-1-201850329-1)」
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000191489
(2024.2.28最終確認)
参考資料:【資料1】『財界二千五百人集』大正9年(永続的識別子 info:ndljp/pid/1447438)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1447438/1/112
(2024.2.28最終確認),
参考資料:【資料2】武井 文夫/編. 新日本史 : 現代人物編 別編. 1927-10.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I01211001000386691, (当館資料コード:1100269037)
参考資料:【資料3】『青年立志訓:修養叢談』明治43年(永続的識別子 info:ndljp/pid/757546)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/757546/1/130
(2024.2.28最終確認),
(2024/03/06 20:16)
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大阪市西成区の「釜ヶ崎」という名前の由来や、その範囲を知りたい。(大阪市立中央図書館)
「釜ヶ崎」の名称の由来や範囲等について、以下の資料に関連する記述が見つかりました。
(1) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪府全志 巻之2』 (井上正雄 著 大阪府全志発行所 大正11) (インターネット公開)
https://dl.ndl.go.jp/pid/965799/1/350 (2024.3.1確認)
「第三篇 国郡市町村志 第一章 摂津国 第一節 大阪市南区 今宮連合」p.645(コマ番号350)に、「本地は大阪市の南区に入りて今宮と称せしが、同[明治]三十三年四月一日従来の名称を廃し、更に地区を按排して新町名を設定せり。(中略)字水渡・同水渡り・同水渡釜ヶ崎・同釜ヶ崎の反別二町八反一畝八歩を区域として水崎町」とあります。
(2) 『大阪の歴史と風土(毎日放送文化双書 1)』 (宮本 又次/著 毎日放送 1973)
「地誌 第一章 大阪市内 新世界・釜ヶ崎・阿倍野(川端直正)」のp.320-322「釜ヶ崎」の項、p320に「釜ヶ崎地区は、昭和四十一年八月より「あいりん地区」と呼称することとなったが、地域的には「釜ヶ崎」より広範囲をさし、東四条、山王町一-四丁目、今池、曳舟の各町を含んでいる。一般に東田町、東西入船町、甲岸町、海道町、東萩町の六カ町を指していわれたが、その名称については、明治三十三年四月一日の町名改称で「字水渡・同水渡り・同水渡釜ヶ崎・同釜ヶ崎の反別二町八反一畝八歩を区域として水崎町」と改称し、釜ヶ崎の名は公には消滅した」とあります。
(3) 『釜ケ崎 -スラムの生態-』 (磯村 英一/[ほか]共編 ミネルヴァ書房 1961.12)
p.64-70「Ⅱ 生態 1 歴史」に、『大阪府全志』(資料(1))を典拠に旧字名であることを記すほか、釜ヶ崎の地名起源に関する巷説が紹介されています。
(4) 国立国会図書館デジタルコレクション『西成郡史 第1編 第2編 第3編 第4編 第5編』 (大阪府西成郡 編 大阪府西成郡 大正4) (インターネット公開)
https://dl.ndl.go.jp/pid/950864/1/149 (2024.3.1確認)
「第二編 町村上巻 第二章 畑場八箇村 (四)今宮村」p.202(コマ番号149)に「本村は古へ海浜にして漁村なりしが如し。其地字に甲岸・釜ヶ崎・海道端等の、而も海浜に因めるの名今尚存せり。」とあります。
(5) 『釜ケ崎 -どん底の職業とその実態-』 (郡 昇作/著 新和出版社 1976)
冒頭「「釜ヶ崎」について」の項に、釜ヶ崎の地名の由来、町名が改称された際に公には釜ヶ崎という地名が消滅したことについて記載があります。
(6) 『釜ケ崎 -歴史と現在-』 (釜ケ崎資料センター/編 三一書房 1993.6)
p.24-67 本間啓一郎「釜ヶ崎小史試論」のp.27-30「近代までの釜ヶ崎」の項、p.29-30に釜ヶ崎の地名起源について諸説が紹介されています。
(7)国立国会図書館デジタルコレクション『草の根福祉 (19)』草の根福祉編集委員会 編 草の根福祉編集委員会 1991.9 (国立国会図書館内/図書館・個人送信限定)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1826726/1/12 (2024.3.1確認)
p.20-38(コマ番号12-21) 釋智徳「アンコ考研究ノート-愛隣地区を中心として-」
資料(6)の記述の参考文献として挙げられている資料です。p.21-23(コマ番号12-13)「1.愛隣と釜ヶ崎」に呼称の諸説についての記述があります。
(8) 『地図にない町の歴史 -わが愛する釜ケ崎-』(広瀬 久也/著 日本基督教団出版局 1974)
p.16-43「一 「釜ヶ崎」という地名はどうしてついたか」の項に、釜ヶ崎の地名の由来に関する諸説や、地域の来歴について記載があります。
(9) 『大阪のスラムと盛り場 -近代都市と場所の系譜学-』 (加藤 政洋/著 創元社 2002.4)
p.107-118「第三章 木賃宿街「釜ヶ崎」の成立とその背景 4 「釜ヶ崎」の成立とその背景 「釜ヶ崎」の形成」のp.116に「「釜ヶ崎」という呼称は一九一五年を前後する時期から使われ始め、一九一八年の米騒動以降に定着している。」とあります。
(10) 『釜が崎 -よりよい明日の釜が崎をめざして-』(日本建築学生会議関西ブロック分科会釜が崎研究会/[編] 釜が崎研究会 1962)
p.7-9「本論 第一編 釜ケ崎の現況 1.釜ケ崎の沿革(歴史)」の項に、釜ヶ崎の地域の歴史について記載されています。
回答プロセス:1.当館データベース「大阪関係資料目次検索」(外部非公開)にて、キーワード“釜ヶ崎”で検索、『新修大阪市史』のみヒット。『新修大阪市史』9巻の関連記述に記載されていた参考文献を確認。資料(6)が見つかる。
2.『角川日本地名大辞典 27 大阪府』を確認するが、地名の由来について記述なし。
3.当館蔵書検索システムにて、タイトル“釜ヶ崎”で検索したところ、150件ほどヒットするため、郷土資料の書架にて分類368の書架に配架されているタイトルなどに“釜ヶ崎”が含まれる資料の目次などを確認、資料(5)(8)(10)が見つかる。
4.大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」( https://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/index.html )にて、キーワード“釜ヶ崎”で検索、資料(3)が見つかる。
5.資料(3)の記述より『大阪府全誌』(資料(1))を確認。
6. 商用データベース「JapanKnowledge」にて、キーワード“釜ヶ崎”で検索、有用情報なし。
7.『西成区史』を確認するが、釜ヶ崎の地名の由来についての記述は見つからず。
8.『今宮町志』『西成郡史』(資料(4))を確認。『今宮町志』には釜ヶ崎の地名の由来についての記述は見つからず。
9.当館蔵書検索システムにて、フリーワードを“釜ヶ崎”、分類を“216”また“291”として検索、資料(9)が見つかる。
10.資料(6)の参考文献を確認、資料(7)が見つかる。
11.資料(7)の参考文献にあった『難波潟吹き寄せ』(宮本 又次/著 大原新生社 1981.12)を確認するが、該当箇所特定できず。
12.「国立国会図書館デジタルコレクション」にて、キーワード“釜ヶ崎”ד宮本 又次”で検索、資料(2)が見つかる。
13.「国立国会図書館デジタルコレクション」にて、キーワード”釜ヶ崎”で検索、9500件ほどヒット。
14.「Google」にて、“釜ヶ崎”ד由来”で検索、「釜ヶ崎資料センター」( http://www.kamamat.org/ )のホームページ内資料「「釜ヶ崎」の地名はどうしてついたか」という章題の書籍の一部らしきPDFが見つかるが、資料(8)の引用であることがわかる。
参考資料:当館書誌ID 大阪府全志 巻之2 井上 正雄/著 清文堂 1985 9784792402716 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 大阪の歴史と風土(毎日放送文化双書 1) 宮本 又次/著 毎日放送 1973 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 釜ケ崎 -スラムの生態- 磯村 英一/[ほか]共編 ミネルヴァ書房 1961.12 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 西成郡史 西成郡役所/編 名著出版 1972 資料(4),
参考資料:当館書誌ID 釜ケ崎 -どん底の職業とその実態- 郡 昇作/著 新和出版社 1976 資料(5),
参考資料:当館書誌ID 釜ケ崎 -歴史と現在- 釜ケ崎資料センター/編 三一書房 1993.6 9784380932243 資料(6),
参考資料:当館書誌ID 地図にない町の歴史 -わが愛する釜ケ崎- 広瀬 久也/著 日本基督教団出版局 1974 資料(8),
参考資料:当館書誌ID 大阪のスラムと盛り場 -近代都市と場所の系譜学- 加藤 政洋/著 創元社 2002.4 9784422250274 資料(9),
参考資料:当館書誌ID 釜が崎 -よりよい明日の釜が崎をめざして- 日本建築学生会議関西ブロック分科会釜が崎研究会/[編] 釜が崎研究会 1962 資料(10),
参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション『草の根福祉 (19)』草の根福祉編集委員会 編 草の根福祉編集委員会 1991.9 https://dl.ndl.go.jp/pid/1826726/1/12 (2024.3.1確認) 資料(7),
(2024/03/06 00:30)
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大阪商船によって尾ノ道(おのみち)・門司(もじ)間に開設された定期航路について、明治25(1892)年9月10日時点の両港の発着時刻が記載されている資料はあるか。(広島県立図書館)
関連資料は見当たりませんでした。
調査した資料は次のとおりです。
<所蔵資料>
・大阪商船関連
『大阪商船株式会社五十年史』大阪商船株式会社/[編]、1934【683/Ka51】
『吾社之実力』大阪商船株式会社/[編]、大阪、19--【683/O69】
『大阪商船株式會社80年史』大阪商船三井船舶株式会社/編、1966【N683/O73】
『創業百年史』日本経営史研究所/編、大阪商船三井船舶、1985【683/85ニ/1】
『創業百年史資料』日本経営史研究所/編、大阪商船三井船舶、1985【683/85ニ/2】
・その他
『尾道市史 上巻』尾道市役所、1939【H21.42/O67-2/1】
『尾道市史 中巻』[尾道市役所/編] 、尾道市役所、1940【H21.42/O67-2/2】
『新修尾道市史 第3巻』青木茂/編著、尾道市役所、1973【H21.42/A53/3ア】
『新修尾道市史 第4巻』青木茂/編著、尾道市役所、1975【H21.42/A53/4ア】
『新修尾道市史 第5巻』青木茂/編著、尾道市役所、1976【H21.42/A53/5ア】
『明治ニュース事典 4 明治21年-明治25年』明治ニュース事典編纂委員会、毎日コミュニケーションズ出版部/編集製作、内川芳美、松島栄一/監修、毎日コミュニケーションズ、1984【R071/83メ/4】
『シリーズ明治・大正の旅行 第1期20 浦塩航路案内 瀬戸内海航路案内 航路案内 大正5年 航路案内 大正8年』荒山正彦/監修・解説、復刻、ゆまに書房、2015【290.9/115ア】
『近代日本の旅行案内書図録』荒山正彦/著、創元社、2018【291.09/118ア】
『汽船の時代と航路案内』松浦章/著、清文堂出版、2017【683.2/117マ】
『日本港湾史 新版』日本港湾協会/編、成山堂書店、2007【683.9/107ニ】
『瀬戸内近代海運草創史』山崎 善啓/著、創風社出版、2006【683.2/106ヤ】
<国立国会図書館デジタルコレクション>
大阪商船株式会社沿革大要 大正15年5月1日現在 図書 大阪商船株式会社 編 大阪商船,大正15
旅行案内 (日用百科全書 ; 第14編) 図書 大橋又太郎 編 博文館, 明29.7
袖珍府県明細地図 図書 松島剛 編 春陽堂 明30.2
事前調査事項:明治27年10月以降は月刊の時刻表が発行され当該航路の時刻も掲載されています(「汽車汽船旅行案内(復刻版)」 )。
鉄道の時刻は官報に付録として掲載されているものの航路については明治25年12月に発行された「通運便覧」に運賃に関するデータは記載されているもののスケジュールは記載されていませんでした。
(2024/03/05 16:21)
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市立中央郷土関連:トップ5
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サイトの説明
レファレンス協同データベース検索APIによる検索結果です。
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遠里小野の地名について、由来を知りたい(大阪市立中央図書館)
関連資料を紹介します。
(1) 『大阪の地名由来辞典』(堀田 暁生/編 東京堂出版 2010.8)
p.85「遠里小野」の項に、「柿本人麻呂の歌に「すみの江の遠里小野の真萩もて」(『万葉集』)とあるなど、この地は古くから歌枕として知られている。歌の中での読みはいずれも「とをさと・おの」で、住江(住吉)の周縁部の原野、といった意味が込められているが、「とをさと」は韻律を整える和歌独特の言い回しとみられ、元来は「をりおの」だった可能性が高い。「を」と「う」、あるいは「お」と「う」の読みの混同により、「うりうの」とも呼ばれ、現行地名の読みが「おりおの」に確定するまでは両様に呼ばれていた。『太平記』の「住吉合戦」の項では「瓜生野」の字があてられ、さらに江戸時代この地域が瓜の産地として知られていたこともあって、瓜に由来する地名とも考えられた。」とあります。
(2) 『日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1』(平凡社 2001.7)
「住吉区」のp.726-727「遠里小野村」の項に、「「東成郡誌」は地名の由来として、瓜破(うりわり)村(現平野区)と同じく、昔瓜の産地であったので瓜生野(うりうの)と称したが、のちなまって「おりおの」とよぶに至ったとする。(中略)遠里小野の名はすでに「万葉集」巻七に「住吉の遠里小野(とほさとおの)の真榛もち摺れる衣の盛り過ぎ行く」などとみえる。」とあります。
(3) 『角川日本地名大辞典 27 大阪府』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983.10)
p.276「遠里小野」の項で、「古くは「とおさとおの」とも読み、瓜生野(うりうの)とも称した。」とあります。
(4)国立国会デジタルコレクション『東成郡誌』(大阪府東成郡 編 大阪府東成郡 大正11) (インターネット公開) <名著出版復刻版 下巻 当館所蔵ID:0070093613>
https://dl.ndl.go.jp/pid/978621/1/825 (2024.3.12確認)
「第廿二編 墨江村 第一章 地理」のp. 1551(コマ番号825)に、「名称の由来は中河内郡の瓜破と語源を同くし、昔時は瓜の産地なりしを以って瓜生野と称せしが、訛りて遠里小野と呼ぶに至れりと。」とあります。
(5)国立国会デジタルコレクション『住吉細見記』(梅原忠治郎 著 松田尚友堂 1927)(国立国会図書館内/図書館・個人送信限定) <当館所蔵ID:0000246501>
https://dl.ndl.go.jp/pid/1184786/1/67 (2024.3.12確認)
「遠里小野をさして」の項、p.96(コマ番号67)に「遠里小野は古来の摂津郷にして瓜生野と言ひ、今遠里小野を「をりをの」と言ひ、単に「うりの」とも呼ぶ。姫瓜と言ふ美しい瓜の産地であつた。」とあります。
(6)国立国会デジタルコレクション『大阪府全志 巻之3』(井上正雄 著 大阪府全志発行所 大正11) (インターネット公開) <清文堂復刻版 当館所蔵ID:0000172308>
https://dl.ndl.go.jp/pid/965800/1/66 (2024.3.12確認)
「第三篇 国郡市町村志 第一章 摂津国 第二節 東成郡 第二項 墨江村 大字遠里小野」の項、p.76(コマ番号66)に遠里小野の由来についての記述があります。
(7)国立国会デジタルコレクション『地名は語る : わが町の生い立ち 大阪市内篇』(大阪民主新報社 編集 文理閣 1982.6) (国立国会図書館内/図書館・個人送信限定) <当館所蔵ID:0000341369>
https://dl.ndl.go.jp/pid/9575225/1/92 (2024.3.12確認)
「遠里小野-古代の歌枕 瓜と油の産地」のp.170-172(コマ番号92-93)に遠里小野の由来についての記述があります。
(8)国立国会デジタルコレクション『万葉集と郷土 : 摂津・播磨・淡路歌枕』(吉川貫一 著 中外書房 1958) (国立国会図書館内/図書館・個人送信限定) <当館所蔵ID:0080221794>https://dl.ndl.go.jp/pid/1345045/1/35 (2024.3.12確認)
「二、 住吉附近―大阪市」のp.61-63(コマ番号35-36)「遠里小野 浅沢小野」に遠里小野の由来についての記述があります。
回答プロセス:1.商用データベース「JapanKnowledge」で“遠里小野”を検索、資料(2)(4)が見つかる
2.大阪の地名辞典を確認、資料(1)(3)が見つかる
3.当館データベース「大阪関係資料目次検索」(外部非公開)で“遠里小野”を検索、資料(5)(6)が見つかる
4.大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」(https://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/index.html )で“遠里小野”を検索するが、有用情報なし
5.「大阪春秋総目次・索引集(http://osaka-web-museum.na.coocan.jp/index-shunjyu.htm)」で“遠里小野 ”を検索するが、有用情報なし
6.「国立国会図書館デジタルコレクション」で“遠里小野”×”瓜生野”を検索、(7)(8)が見つかる
参考資料:当館書誌ID 日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1 平凡社 1986.2 9784582490282 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 角川日本地名大辞典 27 大阪府 「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983.10 9784040012704 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 大阪の地名由来辞典 堀田 暁生/編 東京堂出版 2010.8 978-4-490-10774-6 資料(1),
参考資料:国立国会デジタルコレクション『住吉細見記』梅原忠治郎 著 松田尚友堂 1927 国立国会図書館内/図書館・個人送信限定 https://dl.ndl.go.jp/pid/1184786/1/67 (2024.3.12確認) 資料(5),
参考資料:国立国会デジタルコレクション『大阪府全志 巻之3』井上正雄 著 大阪府全志発行所 大正11 インターネット公開(保護期間満了) https://dl.ndl.go.jp/pid/965800/1/66 (2024.3.12確認) 資料(6),
参考資料:国立国会デジタルコレクション『東成郡誌』大阪府東成郡 編 大阪府東成郡 大正11 インターネット公開(保護期間満了) https://dl.ndl.go.jp/pid/978621/1/825 (2024.3.12確認) 資料(4),
参考資料:国立国会デジタルコレクション『地名は語る : わが町の生い立ち 大阪市内篇』大阪民主新報社 編集 文理閣 1982.6 国立国会図書館内/図書館・個人送信限定 https://dl.ndl.go.jp/pid/9575225/1/92 (2024.3.12確認) 資料(7),
参考資料:国立国会デジタルコレクション『万葉集と郷土 : 摂津・播磨・淡路歌枕』吉川貫一 著 中外書房 1958 国立国会図書館内/図書館・個人送信限定 https://dl.ndl.go.jp/pid/1345045/1/35 (2024.3.12確認) 資料(8),
(2024/03/19 00:30)
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桑津環濠集落について知りたい。(大阪市立中央図書館)
「環濠集落」とは、『国史大辞典』(資料(1))によると、村落全体を壕や堀で囲んだ集落で、室町・鎌倉時代の中世において、大和(奈良県)や摂河泉(摂津国・河内国・和泉国)の平野部に多く存在しました。「桑津環濠集落」の跡は大阪市東住吉区三丁目にあります。
東住吉区のホームページ( https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033846.html )の東住吉100物語「030桑津環濠(かんごう)集落」(資料(2))の項に、
「桑津の場合、(中略)四周を水濠に囲まれ、竹薮で一部囲まれていました(古老の話)。 外周の濠の東南部に2カ所、金蓮寺東側に2カ所、それぞれ少しづつ離れて濠が広くなって池となっていました。外部に通じる道路としては北に2カ所、南に1カ所、西に1カ所の計4カ所だけで、現在でもその地名として桑津北口・桑津南口などが残っています。(中略) 桑津環濠集落は昭和はじめ頃まで、およそ400年間続いていました。今では、濠はうめられて道路に変わりましたが、細くて曲がりくねった道や、木戸口にまつられていた地蔵尊は今も残され、往時を偲ばせています」とあります。
「桑津環濠集落」について記述のあった資料を以下のとおりご紹介します。
(1)『国史大辞典 3』(国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1983.2)
p.810「かんごうしゅうらく 環濠集落」の項があります。
(3) 国立国会図書館デジタルコレクション『大阪の歴史』1983年4月号・9号(大阪市史編纂所/編集 大阪市史料調査会 1983.4)(図書館・個人送信限定)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7953341/1/61 (2024.3.7確認)
p.117-121(コマ番号61-64)「明治期地籍図にみる桑津環濠集落」のうち、p.118(コマ番号62)では、明治17年に製図された『大阪府管下摂津国住吉郡桑津村地籍編成総図』という桑津村の地籍図を手がかりに、桑津環濠集落の形を復元した図を確認できます。p.121(コマ番号64)には、「桑津は(中略)、「環濠の形が……各所に折があり、特に入口の脇に折があって横矢掛かりになっている」「環濠の内側に土塁がめぐる」「集落内の道が見通しを妨げる丁字路や袋小路になっている」(中略)、軍事的自衛を重視した中世の環濠集落の特徴がよくあらわれているといえる。」とあります。
(4) 『大阪府中世城館事典』(中西 裕樹/著 戎光祥出版 2015.8)
p.138-143「46平野環濠都市 47喜連環濠集落 48桑津環濠集落」の項に、「桑津環濠集落は明確な遺構は残らないものの、絵図などにみられる集落の構造が現在の地割や地形にとどまる。(中略)桑津環濠集落は平野環濠都市の北西約二キロにあたる上町台地の東縁に位置し、同じ台地上の中世都市・天王寺と平野の中間に位置し、竜田越奈良街道が集落の北を通過していた。(中略)東西約二〇〇×南北三〇〇メートルの規模であり、(中略)集落の周囲には竹藪があり、大正十五年(一九二六)年写の地籍図では同じ場所が山とされるため土塁であったと考えられている。環濠には折れがみられ、集落には北・西・南の三ヶ所に口があった。」とあります。「桑津環濠集落の北口」の写真も掲載されています。
(5) 『桑津郷土史 [第2集]』(桑津郷土史研究会 1993)
p.22-25「桑津村環濠集落」の項があり、前掲の東住吉区のホームページと同様の記述とともに、年代は不明ですが、桑津環濠集落の地図と北・西・南の口や、見通しのできない四つ辻等の写真が掲載されています。
(6) 『桑津郷土史 [第2集]』(桑津郷土史研究会 1993)
口絵「宝暦十二年時代の桑津村古地図」があり環濠が確認できます。
(7)『大阪市公報』5861(大阪市 2018) (インターネット公開)
https://dl.ndl.go.jp/pid/11481019 (2024.3.7確認)
p10-12「大阪市告示第348号」の項のうち、p.11に東住吉区の都市景観資源として登録されたなかに、「桑津環濠集落」があり、所在地「東住吉区桑津3丁目」との記述があります。
(8) 国立国会図書館デジタルコレクション『東住吉区史』 (川端 直正/編 東住吉区創設一五周年四カ村編入三周年記念事業委員会 1961)(図書館・個人送信限定)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3026655/1/54 (2024.3.7確認)
p.58「環濠部落」
(9)『わたしたちの桑津 :改定版』 (大阪市立桑津小学校 2001.3)
p.104-105「(5)桑津環濠集落」
回答プロセス:1.商用データベース「JapanKnowledge」をキーワード“環濠集落”で検索、資料(1)が見つかる。
2.東住吉区ホームページの「東住吉100物語」の「川・堀(環濠)・橋」の項を確認、資料(2)が見つかる。
3.国立国会図書館サーチを、キーワード“桑津環濠集落”で検索、資料(3)、資料(4)が見つかる。
4.国立国会図書館デジタルコレクションを、キーワード“桑津環濠集落”で検索、資料(7)が見つかる。
5.東住吉区関連の書架を確認、資料(5)、資料(6)、資料(8)、資料(9)が見つかる。
参考資料:当館書誌ID 国史大辞典 3 か 国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1983.2 9784642005036 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 大阪府中世城館事典(図説日本の城郭シリーズ 2) 中西 裕樹/著 戎光祥出版 2015.8 978-4-86403-171-4 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 桑津郷土史 [第2集] 桑津郷土史研究会 1993 資料(5),
参考資料:当館書誌ID 桑津郷土史 桑津郷土史研究会 1982 資料(6),
参考資料:当館書誌ID 東住吉区史 川端 直正/編 東住吉区創設一五周年四カ村編入三周年記念事業委員会 1961 資料(8),
参考資料:当館書誌ID わたしたちの桑津 :改定版 大阪市立桑津小学校 2001.3 資料(9),
参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション『大阪の歴史』(9) (大阪市史編纂所 編 大阪市史料調査会 1983.4)(図書館・個人送信限定) https://dl.ndl.go.jp/pid/7953341 (2024.3.7確認)資料(4),
参考資料:国立国会図書館デジタル『大阪市公報 (5861)』(大阪市)(インターネット公開) https://dl.ndl.go.jp/pid/11481019 (2024.3.7確認)資料(7),
参考資料:東住吉区ホームページ:東住吉100物語:川・堀(環濠)・橋:030 桑津環濠(かんごう)集落 https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033846.html (2024.3.7確認)資料(2),
(2024/03/17 00:30)
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「江口の君」とは何か。(大阪市立中央図書館)
江口は、現在の東淀川区東端にあたる地名です。
『日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1』(資料1)には、「淀川の本流から三国川(現神崎川)が分岐する地点にあった水上交通の要所。」平安中期以降には、「江口宿には、その往来宿泊の客を対象として多数の遊女が集まり、神崎(現兵庫県尼崎市)・蟹島(現淀川区)などと並んで色里として繁栄していった。」とあります。
江口の君は、その江口にいた遊女と伝えられています。
江口の君の伝承について書かれた資料を以下のとおり紹介します。
(1)『日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1』(平凡社 1986.2)
p.606-608「江口・江口宿」に、江口の歴史と繁栄の様子、遊女たちについて詳しい記述があります。
(2)『昭和大阪市史 続編 第7巻 文化編』(大阪市役所/編集 大阪市役所)
p.509「寂光寺」の項に、西行法師と歌問答をした遊女の伝承について記述があります。
(3)『東淀川区史 : 現淀川区・東淀川区』(東淀川区史編集委員会/編集 市民日報社)
p.460-461に、江口の君の生い立ちや、西行法師とやりとりした歌について記述があります。
(4)『大阪墓碑人物事典』(近松 誉文/著 東方出版)
p.193「寂光寺」の項で、江口の君は謡曲「江口」のモデルであるという記述があります。
(5)『大阪の女たち』(西岡 まさ子/著 松籟社)
p.23-28「江口の君抄」に、西行法師と歌問答をした遊女の伝承が2件と、謡曲「江口」のモデルとなった遊女の伝承が紹介され、「「江口の君」という呼び名は、これら遊女の総称であるとともに江口の君堂、寂光寺をたてた女性で西行に出会ったさきの妙の前をさす、と寂光寺の縁起にはある。」と記述があります。
(6)『なにわ人物譜』(藤本 篤/著 清文堂)
p.13-16「風雅な遊女」で、「謡曲の「江口」、長唄の「時雨西行」、あるいは「西行撰集抄」などにより、遊女妙、江口の尼は有名になった。」としつつも、その伝承の真偽は問題ではなく、「肝心なのは、遊女妙の物語ではなく、江口の君と総称された遊女たちの中には、勅撰集に収められるほどの和歌を詠み、風雅の道にすぐれた者もいたということであろう。」とまとめています。
(7)『東淀川区の史跡と伝承』(大阪市東淀川区役所企画総務課広聴企画係/編集 東淀川区コミュニティ協会)
p.3-8に、江口の歴史、西行法師と遊女の歌問答、謡曲「江口」の流行、江口の君と呼ばれた遊女が開いたといわれる寂光寺についてまとめた記述があります。
回答プロセス:1.当館データベース「大阪関係資料目次検索」(外部非公開)にて、キーワード”江口の君”で検索、資料(2)が見つかる。
2.郷土コーナーの書架をブラウジング、資料(1)(3)(7)が見つかる。
3.大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」( https://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/index.html ) にて、キーワード””で検索、資料(4)(5)(6)が見つかる。
参考資料:当館書誌ID 昭和大阪市史 続編 第7巻 文化編 大阪市役所/編集 大阪市役所 1968 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 東淀川区史 -現淀川区・東淀川区- [川端 直正/編集] 市民日報社 1987.4 資料(7),
参考資料:当館書誌ID 大阪の女たち(大阪文庫 3) 西岡 まさ子/著 松籟社 1982.7 資料(5),
参考資料:当館書誌ID 大阪墓碑人物事典 近松 誉文/著 東方出版 1995.11 9784885914584 資料(4),
参考資料:当館書誌ID なにわ人物譜 藤本 篤/著 清文堂 1984.5 9784792422042 資料(6),
参考資料:当館書誌ID 東淀川区の史跡と伝承 [三善 貞司/述] 東淀川区コミュニティ協会 1999.3 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 日本歴史地名大系 28-[1] 大阪府の地名 1 平凡社 1986.2 9784582490282 資料(1),
(2024/03/16 00:30)
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「阿遅速雄(あちはやお)神社」と「お蔭燈籠」について知りたい(大阪市立中央図書館)
以下の資料に阿遅速雄神社のお蔭燈籠について記述が見つかりました。
(1)『お蔭参りとお蔭燈籠』(牧村 史陽/著 史陽選集刊行会 1970.4)
p.107-136に「お陰灯籠」の項があり、p.107に「伊勢神宮の式年をかこつけに特におかげ参りが流行し、同時におかげ踊りがさかんに行われるとともに、各村々では大神宮への献灯を建て、その棹石に「おかげ」と彫ってそれを記念するようになった。」との記述があります。またp.130に「大阪市城東区放出町(片町線放出駅北東すぐ)阿遅速雄神社 慶応四年戌辰三月 太神宮 おかけ 大型、高さ約三・○m、壇上積式基盤上。下段に、寄進者二十五人、世話人十二人、「松屋町石工源助」の刻銘がある。」と記載があります。
(2)『近代大阪の史跡探訪:改訂新版(ナンバーガイド 37)』(大岡 欽治/編 ナンバー出版 1983)
p.28-32に「阿遅速雄神社のお蔭灯籠」の項があり、p.30-31に「”お陰まいり”は、幕末に”ええじゃないか”の爆発的流行となって形を変えるのであるが、一八六七(慶応三)年の”ええじゃないか”は、前回一八三○(文政三)年の”お陰まいり”から、三七年しかたっておらず、また、集団的な伊勢参りも少なく、町々で熱狂的に踊りまくる騒動が主であって、六〇年周期の従来の”おかげ騒動”とは異質の傾向を持っていた。」との記述があります。またp.32に「一八六七(慶応三)年の“ええじゃないか”の時のものとしては(中略)鶴見区放出町の阿遅速雄神社(「太神宮 おかげ 慶応四年戌辰三月」と刻まれている)の高さ三メートルもある“お蔭燈籠”などが残っている。」との記述があります。
(3)『大阪史蹟辞典』(三善 貞司/編 清文堂 1986.7)
p.9-11「阿遅速雄神社」の項、p.10-11「おかげ燈籠」の項目があり、「当社の大阪府天然記念物である楠の老樹の傍にあり、何の変哲もない燈籠であるが、「太神宮、おかげ、慶応四年戌辰三月」と刻まれている。おかげまいりを記念しての燈籠で、台石に寄進者二十五、世話人十二の名も記されている。(中略)永い幕府の圧政下で変革願望ともみられたええじゃないかは、翌四年大政奉還でやむが、当社のおかげ燈籠の慶応四年の刻字はまことにこの動乱の名残りをとどめているといえる。」との記述があります。
(4)『鶴見区昔ばなし』(赤坂敏行/著 ロ-カル通信社 1984.6)
p.384-388に「伊勢まいり」の項があり、p.385に「御蔭参りを物語る資料はほとんど残っていないが、稲田八幡宮や阿遅速雄神社、比枝神社等に奉献されている「お可げ燈ろう」は貴重な文化財である。」との記述があります。
回答プロセス:1.当館所蔵検索システムにて、フリーワード“阿遅速雄神社”及び”お蔭燈籠”で検索、資料(1)が見つかる
2.当館データベース「大阪関係資料目次検索」(外部非公開)にて、キーワード”阿遅速雄神社”で検索、資料(4)が見つかる。
3.大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」( https://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/index.html ) にて、キーワード”阿遅速雄神社”で検索、資料(2)が見つかる。
4.「国立国会図書館デジタルコレクション」にて、キーワード”阿遅速雄神社”で検索、神社についての資料はヒットするが、お陰燈籠との関連について記載のある資料は、前出のものしか見つからず
5.大阪史蹟辞典を確認 資料(3)
参考資料:当館書誌ID お蔭参りとお蔭灯篭(史陽選集 41) 牧村 史陽/著 史陽選集刊行会 1970.4 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 鶴見区昔ばなし 赤坂敏行/著 ロ-カル通信社 1984.6 資料(4),
参考資料:当館書誌ID 近代大阪の史跡探訪 :改訂新版(ナンバーガイド 37) 大岡 欽治/編 ナンバー出版 1983 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 大阪史蹟辞典 三善 貞司/編 清文堂 1986.7 9784792423414 資料(3),
(2024/03/16 00:30)
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御堂筋が拡幅して開通する昭和12年以前は、北から梅田新道、淀屋橋筋、御堂筋と呼ばれてたが、拡幅した際に全線が御堂筋と命名されている。淀屋橋筋と命名されていても、おかしくなかったと思うが、なぜ御堂筋と命名されたのか、その経緯が知りたい。(大阪市立中央図書館)
以下の資料に、拡張された「御堂筋」の名称ついての関連記述が見つかりました。
(1)の記述より、当初は「淀屋橋筋」と仮定されており、「御堂筋」に最終決定されたことがうかがえます。
(1) 『大阪人 41巻10号』 (大阪都市協会 1987.10)
p.20-23 三輪雅久「都市計画街路 御堂筋のできるまで」のp.22-23「七、都市改良計画調査 仮定・淀屋橋筋」の項に、「「仮定大阪市改正街路図(大正七年五月)」に、あらためて御堂筋が別の名称で登場する。(2図参照)」とあり、「2図 大正7年仮定大阪市改正街路図の淀屋橋筋(関西建築協会雑誌所載)」とした図が掲載されており、その図に「淀屋橋筋」と記されています。
p.23「八、大阪市区改正設計 広路・御堂筋線」の項に「大正九年一月二十一日大阪市告示の大阪市区改正設計となる。(中略)御堂筋はこのなかで、大阪で一本だけの「広路」二十四間(四十四メートル)でその名も御堂筋線と決定された」とあります。
またp.24-25「御堂筋完成50周年」の記事のうち、p.24に「“御堂筋”という名称は、現在の御堂筋ができるまで南北両御堂の東側道路(淡路町~長堀川)が「御堂筋」と呼ばれていたのを採用したものである。」とあります。
(2) 『大阪春秋 -大阪の歴史と文化と産業と- 第4号 御堂筋あれこれ』 (大阪春秋社/[編] 大阪春秋社 1974.9)
p.33-54 宮本又次「御堂筋界隈由来記」のp.33-35「一、御堂筋の拡張と地下鉄の建設」の項のうち、p.33に「大正七年四月都市改良計画調査会の答申あり、幅員は四三・二Mに大拡張され、(中略)この案は現在のものの基礎となったようで、ここにおいて初めて「御堂筋線」の名称があらわれている。(中略)調査会の委員長は関一助役(のち市長)と片岡安委員であった。」とあります。
またp.34に、「かつての両御堂の前だけをかぎって御堂筋と通称していたが、淀屋橋筋をふくめて南下して、(中略)ついには難波に至るまでも、一貫して御堂筋というようになった。また淀屋橋以北の梅田新道もふくみ、昨今は北より新御堂筋に延びている。」とあります。
(3) 国立国会図書館デジタルコレクション『第一次大阪都市計画事業誌』(大阪市 昭和19) (インターネット公開)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1459229/1 (2024.3.7確認)
「第三章 大阪市區改正設計 第一節 市區改正設計の調査」に関連する記述があります。
p.61-73(コマ番号85-91)「第三項 都市改良計画調査会の調査及び成案」に上述資料(1)(2)記載の「大正七年四月都市改良計画調査会」の調査報告が、収載されています。
p.73-105(コマ番号91-107)「第四項 市区改正部の調査及び成安」に大正8年11月の市区改正部案である「大阪市都市計画説明書(交通運輸之部)」が全文掲載されています。p.90(コマ番号100)「大阪市都市計画説明書(交通運輸之部) 第四章 大阪市内道路 第二表 市内幹線道路新設構築箇所調 第一等道路」に「御堂筋線」と記されており、p.94(コマ番号102)に「(一)御堂筋線」として御堂筋線の説明があります。
なお、御堂筋の名称決定の経緯については記載が確認できませんでした。
(4) 『建築と社会 第2巻 第1集第5号~第7号』 (不二出版 1991.10)
第1集第7号(大正7年5月15日)の上述資料(2)記載の「仮定大阪市改正街路図」が掲載されており、当該路線には「淀屋橋筋」の名称が確認できます。
(5) 『大阪市公報 276〜427号』(大阪市役所 1918-1920)
「大阪市公報 第三百八十一号 大正九年一月三十一日」のp.1589-1592に「大阪市告示第一号」として、上述資料(1)記載の「大阪市区改正設計」が掲載されています。
p.1590「大阪市区改正設計 街路之部 第五 一、広路」に「一、大阪駅前北野角田町三百四十九番地ノ一ヨリ大江橋、淀屋橋並長堀川及道頓堀川ノ各新橋梁ヲ経テ難波駅前難波新地五番町五十三番地ノ一ニ至ルノ路線」とありますが、告示の中で「御堂筋線」の名称は掲載されていませんでした。
以下の(6)(7)(8)ほか多くの資料に、御堂筋の名称は沿道に北御堂(西本願寺津村別院)と南御堂(東本願寺難波別院)があることに由来する旨の記述があります。
(6) 『角川日本地名大辞典 27 大阪府』 (「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983.10)
p.1150「御堂筋」の項に、「御堂筋の名称は北御堂(西本願寺津村別院)と南御堂(東本願寺難波別院)の門前を南北に通じる3間幅の近世以来の狭い道筋に由来し」とあります。
(7) 『日本大百科全書 :2版 22 ませ-もぬ』 (小学館 1994)
p.376「御堂筋」の項に、「沿道に南御堂(東本願寺難波別院)と北御堂(本願寺津村別院)があるため名づけられた。」とあります。
(8) 『産経新聞』 2017年5月13日 大阪夕刊p.8 「【御堂筋トリビア 完成80年】なんで「御堂筋」って名前なん?」
「御堂筋の名前の由来は、本町付近の沿道にある2つの巨大な寺院とされています。ともに16世紀末、この地に移ってきた「北御堂(浄土真宗本願寺派本願寺津村別院)」と「南御堂(真宗大谷派難波別院)」。2つの御堂を結ぶ道だから、「御堂筋」ってわけです。」とあります。
以下(9)(10)の資料には「御堂筋」の名称の決定には関一元市長が関わった旨の記述がありました。
(9) 『実記百年の大阪』(読売新聞大阪本社社会部/編 朋興社 1987.1)
p.711-712「御堂筋開通 船場を貫通、大メーン・ストリート」の項にて、御堂筋の名称決定について触れられています。p.712に拡幅にかかる用地買収が行き詰った際には天皇陛下が行幸される道を作ると言って交渉し、昭和4年6月に天皇の大阪行幸があった旨の記述があり、「御堂筋という名前も、実にこの御幸を前に決まったんです。(中略)この際、新しい道に名前を付けようと会議を開き、わたしらは“御幸通り”を提案しました。しかし、関さんは“大阪にその名はおかしい。御堂さんの前の道だから御堂筋だ”と、きっぱり言われました」と記載されています。
(10) 大阪市:みちよちゃん&みちるくんの部屋
https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000116189.html (2023.3.7確認)
「みちるくんのつぶやき」の項に掲載されているPDFファイル「「御堂筋って?(PDF形式, 205.89KB)」に「大阪を南北に貫く御堂筋の名前は、北御堂・南御堂と呼ばれたこの2つの別院に由来しています。名づけ親は関一元大阪市長です。」とあります
回答プロセス:1.大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」( https://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/index.html )にて、キーワード“御堂筋”で検索。(1)(2)(3)(9)の資料が見つかる。
2.大阪の地名事典類を確認、資料(6)が見つかる。
3.商用データベース「JapanKnowledge」にて、「御堂筋」の項を確認。資料(7)が見つかる。
4.当館データベース「大阪関係資料目次検索」(外部非公開)にて、キーワード“御堂筋”で検索、表示された資料を確認するが、名称にかかる記述は見つからず。
5.「レファレンス協同データベース」にて、キーワード“御堂筋”で検索するが、名称決定にかかる事例は見つからず。
6.当館の過去のレファレンス事例を確認するが、御堂筋の名称決定にかかる事例は見つからず。
7.資料(1)の引用元資料『関西建築協会雑誌』を確認、資料(4)が見つかる。
8.資料(1)の引用資料の大正9年1月21日の「大阪市公報」を探すが見つからず。1月31日であることがわかる(資料(5))。
9.「CiNii Research」にて、キーワード“御堂筋”ד名称”で検索するがヒットせず。
10.商用データベース「朝日新聞クロスサーチ」にて、縮刷版をキーワード“御堂筋”で検索するが、関連記事は見つからず。
11.雑誌『大大阪』の復刻版データベースを、題名「御堂筋」で検索するが、タイトルより名称決定にかかる記事だと思われるものは見つからず。
12.「国立国会図書館デジタルコレクション」で”御幸通”ד市長”ד関一”ד行幸”×1925-1929で検索するが有用情報なし
13.資料(9)引用の関一著「大阪市の交通機関」について調査。『都市政策の理論と実際』(関一著,三省堂,1936)に収載されているが、御堂筋名称に関する記載なし。
国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/1463260 (2023.3.3確認))でも閲覧可能。
14.「Googleブックス」にて、キーワード“御堂筋”ד名称”で検索、いくつか関連記述のある資料がヒットするが、北御堂、南御堂を由来とする記述の資料で、新たな有用情報は見つからず。
15.「Google」にて、キーワード“御堂筋”ד名称”で検索、資料(8)(10)が見つかる。
参考資料:当館書誌ID 大阪人 41巻1〜12号 大阪都市協会 1987.1-12 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 大阪春秋 -大阪の歴史と文化と産業と- 第4号 御堂筋あれこれ 大阪春秋社/[編] 大阪春秋社 1974.9 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 第一次大阪都市計画事業誌 大阪市役所 1944 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 建築と社会 第2巻 第1集第5号~第7号 不二出版 1991.10 資料(4),
参考資料:当館書誌ID 大阪市公報 276〜427号 大阪市役所 1918.1-12 1919.1-12 1920.1-12 資料(5),
参考資料:当館書誌ID 角川日本地名大辞典 27 大阪府 「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1983.10 9784040012704 資料(6),
参考資料:当館書誌ID 日本大百科全書 :2版 22 ませ-もぬ 小学館 1994 9784095261225 資料(7),
参考資料:当館書誌ID 実記百年の大阪 読売新聞大阪本社社会部/編 朋興社 1987.1 9784938512040 資料(9),
参考資料:『産経新聞』 2017年5月13日 大阪夕刊p.8 「【御堂筋トリビア 完成80年】なんで「御堂筋」って名前なん?」 資料(8),
参考資料:大阪市:みちよちゃん&みちるくんの部屋 https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000116189.html (2023.3.7確認) 資料(10),
(2024/03/16 00:30)
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編纂所が調査に関わったもの
サイト名
レファレンス協同データベース
サイトの説明
レファレンス協同データベース検索APIによる検索結果です。
サイトURL
https://crd.ndl.go.jp/
大阪市浪速区幸町にある安政の地震津波碑の碑文全文を知りたい。(大阪市立中央図書館)
安政の地震津波とは、嘉永7年(安政元年・1854年)11月4・5日に大阪を襲った紀伊半島沖に震源をもつ推定マグニチュード8.4の大地震と、それに伴って起きた大津波のことです。
その状況を記録し、後世の人のために戒めを伝える目的で安政2年7月に、被害の甚大だった浪速区幸町五丁目大正橋の東詰に石碑が建立されました。
そこには、大地震が起きた場合には必ず津波が襲うものと心得るべきだと教訓が書かれています。
・小田康徳「大阪における安政の地震津波碑と震災の記憶について」『ヒストリア』第148号(p.91~95)
碑文の原文全文が掲載されています。
ただし、「この文章はこの石碑から直に写したものではなく、浪速区幸町三丁目居住増井健蔵氏所収の木版刷にもとづくもので、若干の異同がある。」と記述されています。
・『大正大阪風土記』訂正(大阪教育部共同研究会/編 大正大阪風土記刊行会,1927)
「津波の碑」の項(p.327~328)にも碑文の原文の掲載がありますが、石碑の背面と右面の碑文のみです。
また、『ヒストリア』掲載のものと、句読点やかな使いに若干の異同がありますが、こちらが石碑から直に写したものかどうかは明らかにされていません。
・浪速区役所ホームページ http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000848.html (2011.3.23確認)
「区のスポット・名所・旧跡」として「安政大津波記念」の碑が取り上げられています。
そこでは、碑に隣接して設置された記念碑に碑文の原文と共に現代語訳が記されているとした上で、現代語文を紹介しています。
2011年8月、大阪市史編纂所より、碑文に関する参考資料として以下のものが最適という情報をいただきました。
・『水都大坂を襲った津波 : 石碑は次の南海地震津波を警告している。』( 長尾 武/著・発行 改訂版 2007)
p.14~16に碑文の全文が記載されています。
参考資料:小田康徳「大阪における安政の地震津波碑と震災の記憶について」『ヒストリア』第148号 大阪歴史学会 1995.9,
参考資料:『大正大阪風土記』訂正 大阪市教育部共同研究会編 大正大阪風土記刊行会 1927,
参考資料:浪速区役所ホームページ>区内の官公署、主な施設、名所旧跡等>名所・旧跡等>区のスポット・名所・旧跡>碑>「安政大津波」の碑
http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000848.html (2011.3.23確認),
参考資料:『水都大坂を襲った津波: 石碑は次の南海地震津波を警告している。』 長尾 武著・発行 改訂版 2007.2,
寄与者:大阪市史編纂所
備考:大阪市立図書館webギャラリー「大阪の災害 ~江戸・明治期にかけて~」http://www.oml.city.osaka.jp/image/themes/theme569.html (2011.3.23確認)、
小展示「幕末の大坂を襲った大地震と大津波」(平成16年12月 大阪府立中之島図書館作成)
http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/63_jisin.html (2011.3.23確認)もご参照ください。
(2012/04/17 14:41)
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大阪上本町の近鉄百貨店辺りにあった「梅屋敷」についての資料はないか?(大阪市立中央図書館)
「東都亀戸の梅屋敷を模して、文化年間に造ったもの~生玉馬場の東(現在の上本町六・七丁目辺)にあり、園中に梅を植え、樹下に席を設け~秋には菊観で賑わった~。~日露開戦の一二年後には、山口銀行主の山口吉郎右衛門氏本邸となり、大正期には忘れさられてしまった。」
(「翻刻『梅屋敷の記- 一名 このはな』」『大阪府立図書館紀要』第37号 2008より)
『浪華の賑ひ』 (鶏鳴舎暁晴/編輯 ; 松川 半山/画図 中外書房,1975|安政2年版の複製)26丁に”梅屋敷”についての記述がある。
その他は以下のとおり。
・『浪速叢書 第7 摂津名所図会大成 其1』 (船越 政一郎/編 暁 鐘成/著 名著出版,1978)p277~278
・『大阪府全志 巻之2』(井上 正雄/著 清文堂,1985|大正11年刊の復刻)p764
・『上方』 26 表紙 193302 /『上方』 30 「三十年前の大阪東部」寺川信 p33-34、35 193306
※ 『上方 郷土研究 3(上) 自第二十五号(昭和八年一月)至第三十号(昭和八年六月)』(上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969)所収
・『天王寺区史』 (川端 直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会,1955.10) p84、406
・徳永慶太郎「七十年前の上六」『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業と 阿倍野・住吉・天王寺 特集』25号 第8巻第3号 1980.9(p82-87)
・『京阪名所案内』 (白土 幸力/編輯 博盛堂,1904) p13
・『大阪府誌 第5編 名勝旧蹟』 (大阪府/編纂 思文閣,1970 大阪府 明治36年刊の復刻)p79-80
・『大阪新繁昌記』 (島本 篤平/著 島本篤平,1894.10)p18-19
・『大阪案内』 (日本電報通信社大阪支局,1909)p205
・『目で見る明治時代 明治風俗画集成 2』(国書刊行会,1985.11)
大阪の梅園(p.34.35) 図版・解説あり。
『写真浪花百景 上編 中編』(長谷川 貞信/画 一荷堂 半水/著 綿屋喜兵衛,[1868頃(明治初年)])には「梅屋敷」の絵が収録されており、
大阪市立図書館 画像データベースで画像を提供しているほか、大阪市立図書館Webギャラリー「なにわ花めぐり 」でも同画像を紹介。
”梅屋敷”の位置と広さについては、次の資料による。
『新修大阪市史 第10巻』 (新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市,1996.3) 歴史地図 図5 天保期の大坂三郷
『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[地図] 』 (吉江集画堂地籍地図編輯部/編纂 吉江集画堂,1911)
『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[土地台帳] 』 ([吉江集画堂地籍地図編輯部/編] 吉江集画堂,1911)
国立国会図書館ホームページの「写真の中の明治・大正 関西編」 梅屋敷には、
『旅の家つと23号』(大阪市立図書館所蔵なし)掲載の梅屋敷の写真が紹介されており、関連する近代デジタルライブラリーへのリンクあり。
大阪府立図書館に『梅屋敷の記』(黒沢翁満 1846)が所蔵されており、「大阪府立中之島図書館貴重書画像データベース」で画像が公開されている。
また、「翻刻『梅屋敷の記- 一名 このはな』」『大阪府立図書館紀要』第37号(2008(平成20)年3月31日)本文もホームページ紀要のページで公開されている。
また、大阪府立中之島図書館「錦絵にみる大阪の風景」では、 『浪花百景』(芳瀧画)・『浪華百景之内』(貞信(初代)画)の画像を見ることができる。
回答プロセス:『大阪史蹟辞典』(三善 貞司/編 清文堂出版,1986.7)には記載なし。
大阪市史編纂所に助言を得る。
2010.3追加調査
1.大阪府立中之島図書館 ホームページで調査
大阪文献データベースhttp://refdb.library.pref.osaka.jp/cdb0100.asp (2010.3.24確認)を調査
事項から検索 “梅屋敷”
『上方』 26 表紙 193302 /『上方』 30 「三十年前の大阪東部」寺川信 p33-34、35 193306
※ 『上方 郷土研究 3(上) 自第二十五号(昭和八年一月)至第三十号(昭和八年六月)』(上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969)所収
『上方』 31 p62-63 193307 新梅屋敷が中心
※『上方 郷土研究 3(下) 自第三十一号(昭和八年七月)至第三十六号(昭和八年十二月)』(上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969) 所収
『天王寺区史』 (川端 直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会,1955.10) p84、406
『梅屋敷の記』 黒沢翁満 1846 大阪市立図書館所蔵なし
文献名から検索 “梅屋敷”
徳永慶太郎「七十年前の上六」『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業と 阿倍野・住吉・天王寺 特集』25号 第8巻第3号 1980.9(p82-87)
『梅屋敷の記』 黒沢翁満 1846 大阪市立図書館所蔵なし
『梅屋敷の記』(黒沢翁満 1846)は、「大阪府立中之島図書館貴重書画像データベース」で画像公開を確認。
「錦絵にみる大阪の風景」 http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/ (2010.3.25確認)では、
名所名 梅屋敷で二つの画像を見ることができる。
2.国立国会図書館写真の中の明治・大正 関西編 梅屋敷http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/data/79/index.html (2010.3.24確認)を調査
『旅の家つと23号』(大阪市立図書館所蔵なし)掲載の梅屋敷の写真が紹介されており、代デジタルライブラリーの関連する下記タイトルへのリンクあり。
『京阪名所案内』 (白土 幸力/編輯 博盛堂,1904) p13
『大阪府誌 第5編 名勝旧蹟』 (大阪府/編纂 思文閣,1970 大阪府 明治36年刊の復刻)p79-80
『大阪新繁昌記』 (島本 篤平/著 島本篤平,1894.10)p18-19
『大阪案内』 (日本電報通信社大阪支局,1909)p205
貴重書画像データベースで紹介されている『写真浪花百景 上編 中編』(長谷川 貞信/画 一荷堂 半水/著 綿屋喜兵衛,[1868頃(明治初年)])も含め、当館所蔵あり。
3.CiNii - NII論文情報ナビゲータhttp://ci.nii.ac.jp/ (2010.3.25確認)を調査
キーワード“梅屋敷”で検索。
小笠原 弘之 , 山田 瑞穂 , 佐藤 敏江 [他] 「翻刻『梅屋敷の記--一名 このはな』 翻刻『松島紀行』」 『大阪府立図書館紀要』 (37),2008/3 が見つかる。
大阪府立図書館紀要ページで本文公開を確認。
2010.10追加
『目で見る明治時代 明治風俗画集成 2』(国書刊行会,1985.11)
大阪の梅園(p.34.35) 図版・解説あり。
事前調査事項:『葎居後集 1~3巻』(黒沢翁満著 河内屋和助 安政5.6(1858))
参考資料:『浪華の賑ひ』 鶏鳴舎暁晴/編輯 ; 松川 半山/画図 中外書房,1975,
参考資料:『浪速叢書 第7 摂津名所図会大成 其1』 船越 政一郎/編 暁 鐘成/著 名著出版,1978 浪速叢書刊行会 1927年刊の復刻,
参考資料:『大阪府全志 巻之2』 井上 正雄/著 清文堂,1985 ISBN 4-7924-0271-9大正11年刊の復刻,
参考資料:『新修大阪市史 第10巻』 新修大阪市史編纂委員会/編集
大阪市,1996.3,
参考資料:『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[地図] 』 吉江集画堂地籍地図編輯部/編纂 吉江集画堂,1911,
参考資料:『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[土地台帳] 』 [吉江集画堂地籍地図編輯部/編] 吉江集画堂,1911,
参考資料:大阪市立図書館Webギャラリー「なにわ花めぐり 」http://www.oml.city.osaka.jp/image/themes/theme829.html (2010.3.25確認),
参考資料:「大阪府立中之島図書館貴重書画像データベース」http://rarebooks.library.pref.osaka.jp/ (2010.3.25確認),
参考資料:「翻刻『梅屋敷の記- 一名 このはな』」『大阪府立図書館紀要』第37号 2008(平成20)年3月31日 http://www.library.pref.osaka.jp/lib/kiyo.html (2010.3.25確認),
参考資料:『上方 郷土研究 3(下) 自第三十一号(昭和八年七月)至第三十六号(昭和八年十二月)』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969 ,
参考資料:徳永慶太郎「七十年前の上六」『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業と 阿倍野・住吉・天王寺 特集』25号 第8巻第3号1980.9(p82-87) <当館書誌ID:0000253458>,
参考資料:『京阪名所案内』 白土 幸力/編輯 博盛堂,1904,
参考資料:『大阪府誌 第5編 名勝旧蹟 』 大阪府/編纂 思文閣,1970 大阪府 明治36年刊の復刻,
参考資料:『大阪新繁昌記』 島本 篤平/著 島本篤平,1894.10,
参考資料:『大阪案内』 日本電報通信社大阪支局,1909,
参考資料:大阪府立中之島図書館「錦絵にみる大阪の風景」 http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/ (2010.3.25確認),
参考資料:国立国会図書館写真の中の明治・大正 関西編 梅屋敷http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/data/79/index.html (2010.3.24確認),
参考資料:『目で見る明治時代 明治風俗画集成 2』国書刊行会/編 国書刊行会,1985.11,
寄与者:大阪市史編纂所 http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2010.3.24確認)
備考:大阪市立図書館Webギャラリー「大阪名所めぐり」http://www.oml.city.osaka.jp/cgi-bin/img_src/disp_themes.cgi (2011.2.4確認)もご参照ください。
2010年3月18日から4月1日まで大阪市立図書館サイトトップ( http://www.oml.city.osaka.jp/ )で、
「梅屋敷」 (『写真浪花百景 上編 中編』(長谷川 貞信/画 一荷堂 半水/著 綿屋喜兵衛,[1868頃(明治初年)])をご紹介しました。
「古文書や大阪関係の地図を検索する」 http://www.oml.city.osaka.jp/cgi-bin/img_src/s_all.cgi (2010.12.17確認)で、書名 図名“写真浪花百景”で検索し、17ページをご参照ください。
山口吉郎兵衛(4代)やまぐち-きちろべえ(1883-1951) 明治-昭和時代の銀行家。
明治31年大阪第百四十八国立銀行を山口銀行(三和銀行の前身)に改組し,社長となる。陶磁器の収集家,茶道家としても知られる。大阪出身。号は滴翠。(『日本人名大辞典』(平凡社)山口吉郎兵衛(4代)の項目より抜粋)
(2011/04/23 16:54)
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石川静水という人物について知りたい。大阪で化粧業界紙の発行をしていた人らしい。(大阪市立中央図書館)
石川静水は、石川清三郎のこと。大阪化粧品商報主筆。
雑誌『あまカラ 33号』(甘辛社,1954.5)「哥沢初稽古」(p.38)に、石川静水について記述がある。
それによると、金物問屋に生まれ、隣家の南木芳太郎(なんきよしたろう:明治15(1882)年-昭和20(1945)年 昭和期の郷土史家。上方郷土研究会を創立し、大阪の近世・近代史を研究)と御津幼稚園からの竹馬の友であった。
また、石川静水の執筆したものとして下記を紹介。
1)『上方』101 「百人随筆集その2 芳チャンと上方」193905 (p.24-25)
南木芳太郎についての記事で、島之内の新屋敷を遊び場としていた事等が綴られている。
2)『上方』50 「新屋敷」193502 (p.35-38)
3)『上方』68 「宗右衛門町に涼みがあった時代」193608 (p.10-11、46-47)
4)『上方』81 「見世物と流行歌」193709 (p.57)
城崎文芸館(兵庫県) http://www.kinosaki-spa.gr.jp/infomation/bungaku/bungekan/bungai.html (2010.5.10確認)には、静水撰の画帖「城崎八景」所蔵があり、あわせて紹介する。
回答プロセス:1.人物関連の参考図書を調査
下記に記載なし。
『大阪人物辞典』(清文堂出版,2000.11)
『『大阪春秋』総目次・索引集 創刊号~第100号』(大阪春秋社,2002.9) 人名の項目なし
『上方 郷土研究 別巻』(新和出版社,1971) 町人学者・俳句・新聞・出版の各項目 該当なし
『新修大阪市史 第10巻』(大阪市,1996.3) 索引 該当なし
『明治大正昭和大阪人名録 上巻』( 日本図書センター,1989.10)
『大阪人物誌 正編 』(臨川書店,1974)、『大阪人物誌 続編』(臨川書店,1974)
『日本書画骨董大辞典 増訂版』(成文館書店,1935.8)
『日本紳士録 24版』(交詢社,1919.12)
2.大阪の化粧品業界の資料を調査
当館所蔵を、キーワード“大阪×出版×化粧品”で検索。
『日本の書店百年』 (青英舎,1991.7)の内容確認するが、記述なし。
3.大阪府立中之島図書館大阪文献データベース http://refdb.library.pref.osaka.jp/cdb0100.asp (2010.5.10確認)
“石川静水”で検索。事項から検索 0件、文献名から検索すると、下記の4件の記事があり。
1)上方 101 百人随筆集その2 芳チャンと上方/石川静水 p24-25 193905
2)上方 50 新屋敷/石川静水 p35-38 193502
3)上方 68 宗右衛門町に涼みがあった時代/石川静水 p10-11、46-47 193608
4)上方 81 見世物と流行歌/石川静水 p57 193709
4.インターネットで調査
国立国会図書館 蔵書検索・申込システム http://opac.ndl.go.jp/ (2010.5.10確認)、
近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/index.html (2010.5.10確認)では情報なし。
Googleで、“石川静水”検索、城崎文芸館が同氏撰の画帖を所蔵していることが判明。
5.当館提供商用データベースで調査
下記全て“石川静水”が該当なし
e-レファレンス/ツール(日外 人物・出版情報)
聞蔵Ⅱビジュアル(朝日新聞 一部記事写真閲覧可)
The SankeiArchives(産経新聞記事)
日経テレコン21(日経四紙記事)
毎日Newsパック(毎日新聞記事)
ヨミダス文書館(読売新聞記事)
6.大阪市史編纂所に照会
化粧品商報社の編集をしていた人物である。
肥田晧三氏の講演会(「中井浩水著作目録(二) 大阪芸能懇話会 平成16年6月27日)レジュメの中に、“静水”についての記載(雑誌『あまカラ33号』より抄出)があるとの情報を得た。
参考資料:『あまカラ 31~40号』(甘辛社,1954.3-12),
参考資料:『上方 郷土研究 10(上)』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』101所収,
参考資料:『上方 郷土研究 5』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』50 所収,
参考資料:『上方 郷土研究 6』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』68 所収,
参考資料:『上方 郷土研究 7』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』81 所収,
照会先:城崎文芸館 http://www.kinosaki-spa.gr.jp/infomation/bungaku/bungekan/bungai.html (2010.5.10確認)
寄与者:大阪市史編纂所 http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2010.5.10確認)
備考:大阪市立図書館多機能OMLISでは、2011年4月より商用データベース「毎日Newsパック」に代えて「毎索」(マイサク)(毎日新聞記事)を提供。
(2011/04/08 20:23)
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明治36年(1903)、第五回内国勧業博覧会開催時に、親子丼が販売提供されていたか知りたい。(大阪市立中央図書館)
『大阪三六五日事典』(東方出版,2002.2)「明治36年3月1日内国勧業博覧会開幕」の記事(p.46)に、“鳥菊”主人考案の十五銭の親子丼が、会場から誕生したとの記述あり。
あわせて下記の資料をご紹介した。
・『博覧会』(「実業世界太平洋」臨時増刊第1巻第五号)(博文館,1903)
山下雨花「余興と飲食物」の項目に下記の記述あり。(p.189 下段)
「鳥菊の鳥、~その鋤焼に親子丼の風味は、~」
・『博覧会土産 大阪及び附近の名所案内』(山下 雨之助/編 岡本偉業舘,1903)
「場内飲食店」の項目に、「鳥菊」あり。(p.29-30)建物の記述等あるが、親子丼の記述なし。
・『第五回内国勧業博覧会場内観覧案内』(山田 鎗之助/著 大阪製本印刷,1903)
鶏肉料理 内本満助(p.57)
・『第五回内国勧業博覧会場全図』(博文館,1903)
鶏肉料理 内本(図の中央あたりの上部)
・『第五回内国勧業博覧会案内記』(井上 熊次郎/編纂 考文社,1903)
鶏肉料理 内本満助(p.83)
・『第五回内国勧業博覧会報告書』(大阪市商工課, 明37.5)
国立国会図書館近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801969/44 (2011.3.7確認)
「博覧会ト飲食店」の項目に、鳥菊・内本満助の記述あるが、親子丼の記述はなし。(p.80.81)
回答プロセス:1.商用データベース「Japan Knowledge(ジャパンナレッジ)」(事典・辞書等) を調査
キーワード“親子丼”で検索、4件の項目が見つかるが詳しい由来はなし。
キーワード“親子丼”で全文検索、22件の項目のうち、由来については下記の項目にあり。
『日本大百科全書』(小学館)【丼物】
「親子丼は、東京・中央区の玉秀という鳥料理屋で明治初期に創作したもの。」
2.参考図書を調査
・『明治・大正家庭史年表 : 1868→1925 』(河出書房新社,2000.3)
明治36年3月1日、大阪で初めて“親子丼”が売り出されるとあり。(p.300)
・『衣食住語源辞典』(東京堂出版,1996.9)
1903年7月26日『大阪毎週新聞』に“親子丼”の文字が見える、とあり。(p.59)
※『大阪毎週新聞』は所蔵せず。
事物起源・料理の歴史に関する図書も調査するが、関連の記述は見つからない。
3.大阪府立中之島図書館大阪文献データベースhttp://refdb.library.pref.osaka.jp/cdb0100.asp (2011.3.7確認)を調査
キーワード“親子丼”で検索、下記の図書が見つかった。
・『大阪三六五日事典』(東方出版,2002.2)
「明治36年3月1日内国勧業博覧会開幕」の記事(p.46)に、“鳥菊”主人考案の十五銭の親子丼が、会場から誕生したとの記述あり。
4.googleブックス http://books.google.com/ (2011.3.7確認)で調査
キーワード“親子丼”ד内国勧業博覧会”で検索、下記の図書が見つかった。
・『語源海』(東京書籍,2005.3)
料亭鳥菊の主人、内本松次郎の名あり。(p.171)
・『日本史「はじめて」事典』(PHP研究所,2009.3)
鳥菊の主人・内本松次郎の名あり。(p.97) ※利用者調査済
5.新聞データベースを調査
・商用データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」(朝日新聞 一部記事写真閲覧可)
「朝日新聞縮刷版」メニューで調査
大阪朝日新聞の1903年7月26日から8月2日まで内国勧業博覧会の記事を確認してみるが、“親子丼”の記事はなし。
“鳥菊”で検索すると、明治18年(1885)6月13日大阪朝刊4頁に広告「鳥菊 近火御見舞御礼」などが見つかる。
親子丼についてはなし。
“親子”ד丼”で検索すると、明治17年(1884)の神戸元町の「江戸幸」の広告に
「親子上丼」「親子並丼」「親子中丼」の名称あり。
・商用データベース「ヨミダス歴史館」(読売新聞記事)
関連の記述見つからず。
6.大阪市史編纂所にお尋ね
“第五回内国勧業博覧会”の出店記録は資料としてあるだろうが、“親子丼”を販売していた等の記録はないと思われ、見聞記や新聞記事等に記述が見つかる可能性を示唆された。
7.第五回内国勧業博覧会関係資料を調査
回答記載の資料に関連する記述を確認。
8.国立国会図書館 近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/index.html (2011.3.7確認)
第五回内国勧業博覧会関係で、当館の所蔵していないものを確認。
『第五回内国勧業博覧会報告書』(大阪市商工課, 明37.5)http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801969/44 (2011.3.7確認)
「博覧会ト飲食店」の項目に、鳥菊・内本満助の記述あるが、親子丼の記述はなし。(p.80.81)
事前調査事項:『日本史「はじめて」事典』(PHP研究所,2009.3)に鳥菊の主人・内本松次郎の名あり。(p.97)
参考資料:『博覧会』博文館,1903,
参考資料:『博覧会土産 大阪及び附近の名所案内』山下 雨之助/編 岡本偉業舘,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会場内観覧案内』山田 鎗之助/著 大阪製本印刷,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会場全図』博文館,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会案内記』井上 熊次郎/編纂 考文社,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会報告書』(大阪市商工課, 明37.5)
国立国会図書館近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801969/44 (2011.3.7確認),
寄与者:大阪市史編纂所http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2011.3.7確認)
(2011/03/19 10:29)
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生島永太郎(いくしま えいたろう)について知りたい。明治の終わりから戦前ぐらいまでの大阪商人(久太郎町)。 甲南小学校の設立者の一人で、明治45年に大阪保誉院を作った人。父は生島嘉蔵(かぞう)。(大阪市立中央図書館)
生島永太郎は、明治7年11月生。生島家では、代々嘉蔵を襲名している模様。下記の資料をご紹介した。
1.『社団法人大阪保誉院記念帳』(大阪保誉院清算事務所,1935.7)
「起源及沿革」ほかに記載あり。生島永太郎(嘉蔵)の表記が多数。
2.『大阪府社会事業史』(大阪社会福祉協議会,1958)
生嶋永太郎を中心に組織された辰巳会によって廃兵の収容所として明治45年泉北郡三宝村に開設(p270)
3.『甲南学園50年史』 (甲南学園,1971.3) 『甲南学園の70年』 (甲南学園,1992)
甲南小学校の創立事務に当たった11人の中に名前あり。
4.『大阪人名資料事典 第1巻』 日本図書センター,2003.5
「大阪現代人名辞書 1」(復刻 初版:文明社 大正2年刊)
生島嘉蔵 安政3年(1856)1月25日生まれ。長男永太郎(明治7年11月生)とあり。 (p69)
回答プロセス:1.当館所蔵を検索
“生島永太郎”では該当なし。
2.商用データベースで調査
商用データベース「ジャパンナレッジ」 該当なし
商用データベース「e-レファレンス/ツール」 生島嘉蔵(いくしまかぞう)はあり。
「文政4(1821)年~明治32(1899)年7月2日 江戸時代末期・明治期の商人、貿易商。貿易業に従事、唐反物を取り扱う。【掲載事典】◎「幕末維新人名事典」
永太郎の祖父にあたるのか?
3.中之島図書館「大阪文献データベース」を調査
該当無し。
4.『新修大阪市史』索引になし。
5.大阪保誉院関連の資料を調査
『社団法人大阪保誉院記念帳』(大阪保誉院清算事務所,1935.7)に記載あり。
『大阪府社会事業史』(大阪社会福祉協議会,1958)
生嶋永太郎を中心に組織された辰巳会によって廃兵の収容所として明治45年泉北郡三宝村に開設(p270)
6.甲南学園関係資料を調査
『甲南学園50年史』 (甲南学園,1971.3)
甲南小学校の創立事務に当たった11人の中に名前あり(p4)。
『甲南学園の70年』 (甲南学園,1992)
甲南小学校の創立事務に当たった11人の中に名前あり(p18)
7.大阪関係の人物事典を調査
『都道府県別資産家地主総覧 大阪編 1 復刻』渋谷 隆一/編 日本図書センター,1991.2
大阪市商工業者資産録(商業興信所編 1902(明治35)年刊)
生島嘉蔵 安政3年(1856)1月生まれとあり。職業欄は空欄。
『明治大正昭和大阪人名録 上巻』 (日本図書センター,1989.10)
「日本紳士録」(交詢社 明治43年刊)の復刻)に、生島嘉蔵あり。住所と所得税・電話の掲載(p20)
『大阪人名資料事典 第1巻』 日本図書センター,2003.5
「大阪現代人名辞書 1」(復刻 初版:文明社 大正2年刊)
生島嘉蔵 安政3年(1856)1月25日生まれ。長男永太郎(明治7年11月生)とあり。 (p69)
『大阪人物辞典』 (三善 貞司/編 清文堂出版,2000.11)
生島嘉蔵 文政4(1821)年 (p62) 「幕末維新人名事典」掲載と同人物
『日本人物情報大系 32 企業家編 2』(皓星社,2000.3)
生島嘉蔵のみ。
下記には記載無し。
『明治大正昭和大阪人名録 中巻』 (日本図書センター,1989.10)
「日本紳士録」(交詢社 大正14年刊)の復刻
『明治大正昭和大阪人名録 下巻』(日本図書センター,1989.10)
「日本紳士録」(交詢社 昭和11年刊の復刻)
『大阪新人大観』(升谷 天惠/著 大阪新人大観編纂局,1925)
『大阪新人物誌』(夕刊大阪新聞社,1934.6)
『大阪の公人 : 付・連合区制の小史』 (山本 桃洲/著 大阪の公人刊行事務所,1916.4)
8.近代デジタルライブラリーで調査
『明治富豪譚』(大阪毎日新聞社 明治25.9)「生島嘉蔵乗車賃を二銭に限る」
『当世名士譚』(米倉領次郎,明25.10)「生島嘉蔵の質朴」
年代からして、永太郎の父のことか。
9.大阪市史編纂所におたずね
有用な情報なしとのこと。
参考資料:『社団法人大阪保誉院記念帳』大阪保誉院清算事務所,1935.7,
参考資料:『大阪府社会事業史』大阪社会福祉協議会,1958,
参考資料:『甲南学園50年史』 甲南学園50年史出版委員会/編 甲南学園,1971.3,
参考資料:『甲南学園の70年』 甲南学園史資料室委員会/編集 甲南学園,1992,
参考資料:『都道府県別資産家地主総覧 大阪編 1 復刻』渋谷 隆一/編 日本図書センター,1991.2 ISBN 4-8205-5416-6,
参考資料:『明治大正昭和大阪人名録 上巻』 日本図書センター,1989.10 ISBN 4-8205-2058-X,
参考資料:『大阪人名資料事典 第1巻』 日本図書センター,2003.5 「大阪現代人名辞書 1」文明社/編纂 復刻 初版:文明社 大正2年刊 ISBN 4-8205-9966-6 ,
参考資料:『大阪人物辞典』 三善 貞司/編 清文堂出版,2000.11 ISBN 4-7924-0499-1,
寄与者:大阪市史編纂所 http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2010.1.23確認)
備考:商用データベース「e-レファレンス/ツール」は、2010年6月から「e-レファレンス・ライブラリー」(日外 人物・出版情報) に変更。
(2010/12/13 19:38)
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