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サイト名
レファレンス協同データベース
サイトの説明
レファレンス協同データベース検索APIによる検索結果です。
サイトURL
https://crd.ndl.go.jp/
豊中市内にある大曽公園には現在、表面に「大阪中央放送局」と書かれたラジオ塔の下部がある。『ラジオ年鑑』には大曽公園のラジオ塔は昭和14年に建塔されたとの記述があるが、豊中市のサイトには大曽公園は昭和16年に開園とあり、ラジオ塔が公園開設前に設置された可能性も考えられる。大曽公園付近の昭和10年代の土地利用の状況がわかる資料はあるか。(豊中市立図書館)
大曽公園が開設前にどういう状態であったかがわかる資料は発見できず。下記の資料を見ていただいた。
「豊中の公園緑地」(豊中市土木部公園緑地課)都市計画公園(近隣公園)に大曽公園の開設年月日(昭和27年5月1日)があり。ただし、都市計画公園としての開設日であると推察され、それ以前の土地利用については不明。
『新修豊中市史 第3巻 自然』(豊中市)p30に大曽公園は大曽池を埋め立てたとの記載があり。昭和9年からの戦前の10年ほどの時期とあるが、詳細は記載なし。
『聞き書き 水とくらし 第二集』(豊中市立教育研究所)p102に昭和4年測量の地形図(伊丹)、p26に昭和28年測量の地形図(伊丹)の、現在の大曽公園付近の部分の掲載があり。昭和4年のものには大曽公園付近と思われる位置に池があり。ただし、公園の位置等、詳細は不明。
その他、『聞き書き 水と暮らし』(豊中市立教育研究所)と、大曽公園ではないが、大塚公園のラジオ塔に関連のある第一土地区画整理組合記念碑について記載のある『とよなかの史跡巡り』(瀧健三)・『豊中の碑』もごらんいただいた。
なお後日、国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/ 内の「豊中都市計画決定ノ件」(同アーカイブ請求番号:纂02235100、昭和11年10月14日)に、都市計画公園として大曽公園の名があることが判明。また、利用者から、大曽池の埋め立ては昭和9年との情報を得た旨ご教示いただいた。
(ウェブサイトの最終アクセス日:2021/1/22)
事前調査事項:「ラジオ年鑑」NHK
「ラジオ塔大百科2017」発行年:2017年 著者:一幡公平 発行所:タカノメ特殊部隊
「新修豊中市史」第9巻 集落・都市 発行年:1998年 発行:豊中市
(2021/01/26 13:38)
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尼崎市の電話市外局番が大阪市と同じ06になった理由・経緯を調べたい。(尼崎市立歴史博物館 地域研究史料室 “あまがさきアーカイブズ”)
明治26年(1893)、尼崎町ノ内辰巳町の尼崎紡績(現ユニチカ)本社に設置されたのが尼崎最初の電話でした。
このとき尼崎は電話の対象区域でなかったため、同社は大阪府西成郡伝法村(現在の大阪市此花区伝法)から尼崎町までの電話線を自費で架設し、大阪電話交換局に寄付しました。明治30年に尼崎町が大阪局の特別加入区域に定められたことで、尼崎町内に大阪局の電話を設置できるようになりましたが、普通加入区域に比べて維持費が割高であったため設置した者はわずかでした。明治41年にいたって、加入者負担による「特設電話」制度を利用して、ようやく尼崎に電話交換局が開設されました。
これ以降電話の加入者数は順調に伸びていきますが、太平洋戦争末期の空襲で尼崎の電話施設は大きな被害を受け、戦後復興の過程で電話の復旧が課題となっていきます。
この時期、市内には複数の電話局区域が存在しており、それらを越える通話は市内でありながら市外通話となってしまうため、市域と電話局区域の統一が望まれるようになりました。また、尼崎は大阪との経済的な結びつきが強かったため、市外通話の半数以上が大阪との通話であり、大阪府内の電話局から直接回線を引いている加入者もありました。このため市や商工会議所などが自動式への変更と大阪局への編入を電電公社に対して陳情し、昭和29年(1954)8月1日、自動式への変更と同時に、市内電話局区域が統一され、同時に尼崎電話局が大阪堂島地区電話局尼崎分局と改称し、大阪局への編入が実現しました。
その後、市外通話のダイヤル化をめざして全国的に市外局番整備が進められるなか、昭和37年2月4日に大阪局の市外局番が06となり、尼崎市の市外局番も06となりました。
回答プロセス:1 尼崎の大阪局編入についての主な参考文献
◆『尼崎地域史事典』/Web版『尼崎地域史事典』apedia
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/
「市外局番06」「電信・電話」の項目
◆『尼崎市議会史 記述篇』p403~404
第3章 都市施設の拡充「通信機構の整備拡充」の項目
◆『尼崎市議会史 資料編』p864~865
◆『尼崎商工会議所八〇年史』p397
第6章 社団法人尼崎商工会議所「電話の自動化と大阪局への編入」の項目
◆『近畿の電信電話』p545
「大阪、京都、神戸各大都市周辺電話の編入」の項目
2 尼崎の大阪局編入についての論考
◆季刊TOMORROW 8(2)=通巻28号 平成5.11.25発行
府県域を越える電話局番--尼崎の市外局番「06」について(あまがさき紹介:シリーズ「尼崎のできごと」)(財団法人あまがさき未来協会事務局著)
◆季刊まちかど 1 1993.7.1発行
尼崎の電話はなんで大阪局番なんや(尼崎の不思議発見(1))(市川真一著)
参考資料:尼崎市立地域研究史料館 編 , 尼崎市立地域研究史料館. 尼崎地域史事典. 尼崎市, 1996
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002486437-00, (当館請求記号 219/A/ア)
参考資料:尼崎市議会史. 尼崎市議会尼崎市議会事務局, 1971
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001200811-00, (当館請求記号 318.6/A/ア-1,2)
参考資料:尼崎商工会議所八〇年史編集部会 編 , 尼崎商工会議所八〇年史. 尼崎商工会議所, 1992
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002197299-00, (当館請求記号 330.6/A/ア)
参考資料:日本電信電話公社近畿電気通信局編集 , 近畿の電信電話. 電気通信共済会近畿支部, 1969
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001150904-00, (当館請求記号 694.6/6.0/キ)
(2021/01/21 15:43)
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桜宮公会堂内にあった大阪市ユースアートギャラリーの内観の写真はありますか。(大阪市立中央図書館)
大阪市ユースアートギャラリーの写真が掲載されている資料を下記の通りご紹介いたします。
(1) 『教育大阪 404号〜415号』(大阪市学校教育振興公社 1985.5-1986.4)
404号(1985年5月号)p.32に続くグラビアページ(ページ付なし)が「力作いっぱい ユースアートギャラリー」と題して外観および内観写真(モノクロ)を3ページ分掲載しています。
406号(1985年7月号)p.32に続くグラビアページ(ページ付なし)にも「創作を通して子どもの姿を 中学校ぐるみ 親子作品展」があり、外観および内観写真(モノクロ)が3ページ分掲載されています。
(2) 『わたしたちの滝川』(大阪市立滝川小学校/[編] 大阪市立滝川小学校 1992.11)
p.103に「ユースアートギャラリー絵画展」として内観のモノクロ写真があります。
(3) 美術教育HOTひろば:過去のコラムいろいろ:大阪ユースアートギャラリーにて(20050219)
http://be-hot.art.coocan.jp/Column/2005/20050219.htm (2020.12.22確認)
「大阪ユースアートギャラリーにて(20050219)」の見出しで写真が掲載されています。
(4) 『読売新聞』2006年8月25日 朝刊 35頁「1522点一堂に 世界児童画展始まる」
ユースアートギャラリーでの「第36回世界児童画展」の内観のカラー写真が掲載されています。
回答プロセス:1.当館所蔵検索をフリーワード“ユースアートギャラリー”で検索するがヒットなし
2.当館データベース「大阪関係資料目次検索」(外部非公開)を“ユースアートギャラリー”で検索するがヒットなし
3.大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」( http://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/ 2021.1.11確認)を“ユースアートギャラリー”で検索、1件ヒットしたが内観写真の掲載なし
4.大阪市ホームページ内を“ユースアートギャラリー”で検索、大阪市総合コールセンターのFAQ「重要文化財 泉布観の一般公開について教えてください」( https://www.osaka-city-callcenter.jp/faq/detail.aspx?id=476 2021.1.11確認)がヒット。泉布観の併設施設として旧桜宮公会堂が紹介されているが写真はなし。ユースアートギャラリーの閉館は2007年3月と判明。なお、1980年までは図書館として使用されていた。
5.Googleを“ユースアートギャラリー×大阪市”で検索、資料(3)がヒット
6.大阪市教育委員会発行の年報等を確認、有用情報なし
7.「ユースアートギャラリー」が存在した時期の雑誌『教育大阪』の記事を確認し、資料(1)が見つかる
8.桜宮公会堂のある地域の学校誌(市立北稜中学校、滝川小学校、堀川小学校)を確認し、資料(2)が見つかる
9.天満地域の情報誌『天満人』を確認、有用情報なし
10.国立国会図書館デジタルコレクションで“ユースアートギャラリー”を検索するがヒットなし
11.商用データベース「ヨミダス歴史館」で“ユースアートギャラリー”を検索し、資料(4)を確認
12.国立国会図書館サーチで“ユースアートギャラリー”を検索するがヒットなし
参考資料:当館書誌ID 教育大阪 404号〜415号 大阪市学校教育振興公社 1985.5-1986.4 資料(1),
参考資料:当館書誌ID わたしたちの滝川 大阪市立滝川小学校/[編] 大阪市立滝川小学校 1992.11 資料(2),
参考資料:『読売新聞』2006年8月25日 大阪朝刊 35頁「1522点一堂に 世界児童画展始まる」 資料(4),
参考資料:美術教育HOTひろば:過去のコラムいろいろ:大阪ユースアートギャラリーにて(20050219) http://be-hot.art.coocan.jp/Column/2005/20050219.htm (2021.1.11確認) 資料(3),
(2021/01/14 00:30)
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大阪市立加美小学校(大阪市平野区加美正覚寺3-13-35)が建設される前の土地には何があったか知りたい。(大阪市立中央図書館)
大阪市立加美小学校が建設される前の土地は、神社、水田、乾田だったようです。
以下、関連する記述のあった資料をご紹介いたします。
(1) 『加美』(大阪市立加美小学校創立100周年記念事業記念誌委員会/編集 大阪市立加美小学校創立100周年記念事業委員会 1987)
p.64-68「本校百年の沿革大要-加美小の100才の歴史-」の記述によると、明治6年設立の鞍作小学校(鞍作243番)と、明治7年設立正覚寺小学校(正覚寺2608番)が明治20年5月20日に合併され、設立された龍華(たちばな)尋常小学校が加美小学校の前身とのことです。
p.19「3.龍華尋常小学校の誕生」に「新しい土地は、旭神社が、現在の位置へ遷宮される以前に社殿があったといわれる正覚寺595番地(現在の加美小学校の南東校舎および給食室の位置)が選ばれ新築の運びとなった。」とあります。また現在の校地と明治20年頃の敷地が記載された簡易な図が掲載されており、それによると現在の校地は明治20年ごろと比較し、北方に約3倍、西方に約2倍に拡張されたようです。
上述「本校百年の沿革大要-加美小の100才の歴史-」のp.66「昭和7.2」の項に「校地900坪拡張」とあります
(2) 『京阪神仮製二万分之一地形図 -明治17年〜19年-』 (参謀本部陸軍測量部/[編] 昭和礼文社 [1978] (明治18年測量同20年製版))
「天王寺村」の校地周辺の場所は、「水田」の記号になっています。
(3) 『平野(大阪近傍 5号)』(大日本帝国陸地測量部 1931.8)
(大正10年測図昭和4年修正測図)校地該当の場所に「学校」の記号、校舎らしい「家屋」の書き入れあります。その周囲は「水田」と「乾田」の記号があります。
加美小学校の歴史に関しては下記資料にも記述がありました。学校名の変遷が簡易にまとめられていますので、よろしければご参照ください。
(4) 『加美村誌』 (大阪市役所/編集 大阪市役所 1957)
p.317-322「第六章 教育・文化 第二節 加美小学校」
回答プロセス:1.当館所蔵の一番古い住宅地図(資料(5))にて当該学校の場所を確認。
2.それ以前の地図(資料(3)(4))を確認。プロセス1の地図と照らし合わせる。
3.学校史を確認し、資料(1)を見つける。
4.区史を確認し、資料(2)を見つける。
5.国土交通省国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス( https://www.gsi.go.jp/index.html )にて当該地区を確認。有用資料見つからず。
参考資料:当館書誌ID 京阪神仮製二万分之一地形図 -明治17年〜19年- 参謀本部陸軍測量部/[編] 昭和礼文社 [1978] 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 平野(大阪近傍 5号) 大日本帝国陸地測量部 1931.8 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 加美 大阪市立加美小学校創立100周年記念事業記念誌委員会/編集 大阪市立加美小学校創立100周年記念事業委員会 1987 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 加美村誌 大阪市役所/編集 大阪市役所 1957 資料(4),
参考資料:当館書誌ID 大阪市全商工住宅案内図帳 東住吉区 -東部- 昭和39年版 [吉田地図] [2006] 資料(5) ※回答には使用せず,
(2021/01/07 00:30)
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大阪城の紀州御殿は1947年9月12日に焼失したそうだが、そのことについて詳しく書かれた資料はあるか。(大阪市立中央図書館)
大阪城の紀州御殿は、明治18(1885)年に紀州和歌山城二の丸御殿を移築したものです。桃山様式の豪壮な書院建築で、昭和天皇の大阪城行幸の際に行在所となり、「天臨閣(てんりんかく)」と呼ばれました。
第2次大戦の戦火を免れたにもかかわらず、1947年9月12日に焼失します。(『大阪城歴史散策』『大阪城ふしぎ発見ウォーク 増補版』)
この紀州御殿の焼失について関連する記述のあった資料を下記の通りご紹介いたします。
(1) 『大阪城歴史散策』(渡辺 武/著 保育社 1992.6)
p.38-39「紀州御殿のこと」の項に、昭和22年9月12日午後10時頃出火し全焼したとの記載があります。
(2) 『大阪城ガイド』(渡辺 武/[ほか]共著 保育社 1983.9)
p.51「紀州御殿」の項に、昭和22年に焼失した旨の記述があります。
(3) 『大阪城ふしぎ発見ウォーク 増補版』(北川 央/著 フォーラム・A 2011.12)
p.95-96に紀州御殿についての記述があり、戦後火災が発生し焼失したとあります。
(4) 『大阪城への招待 Part2』(秋山進午/[ほか]著 大阪観光協会 ワラヂヤ出版(発売) 1983)
p.25-28「新発見の大阪城古写真 紀州御殿と旧軍施設」の項があります。
(5) 『昭和大阪市史 続編 第7巻』(大阪市役所/編集 大阪市役所 1968)
p.307「大阪城天守閣」の項に紀州御殿焼失についての記載があります。
(6) 『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業を発信する 第114号』(新風書房 2004.5)
船越幹央「大阪城周辺にあった軍事施設(覚書)-軍事都市としての大阪(特集上町台地の魅力)」内、p.29に紀州御殿焼失についての記載があります。
(7) 『写真で見る消えた大阪の宝』(中村 哲/著 日本機関紙出版センター 2010.12)
p.126-127「4.終戦編 A.紀州御殿」の項があります。
(8) 『朝日新聞』 1947年9月14日 東京朝刊 2面
「大阪城の紀州御殿焼失」の記事があります。
(9) 『読売新聞』 1947年9月14日 朝刊 2面
「大阪城内紀州御殿焼く」の記事があります。
以上、回答といたします。
回答プロセス:1.当館所蔵検索で”紀州御殿”を検索、資料(1)が見つかる。
2.大阪コーナーの書架をブラウジング 資料(2)(3)が見つかる。
3.国立国会図書館デジタルコレクションで”紀州御殿”を検索、資料(4)が見つかる。
4当館データベース 大阪関係資料目次検索(非公開)で”紀州御殿”を検索、資料(5)が見つかる。
5おおさかポータル”紀州御殿”で検索、資料(6)が見つかる。
6国立国会図書館サーチで”紀州御殿”を検索、資料(7)が見つかる。
7.商用データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」該当の日付の記事を確認、資料(8)が見つかる。
8.商用データベース「ヨミダス歴史館」の該当の日付の記事を確認、資料(9)が見つかる。
参考資料:当館書誌ID 大阪城歴史散策(カラーブックス 831) 渡辺 武/著 保育社 1992.6 9784586508310 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 大阪城ガイド(カラーブックス 618) 渡辺 武/[ほか]共著 保育社 1983.9 9784586506187 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 大阪城ふしぎ発見ウォーク :増補版 北川 央/著 フォーラム・A 2011.12 978-4-89428-697-9 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 大阪城への招待 Part2 秋山 進午/[ほか]著 ワラヂヤ出版(発売) 1983 資料(4),
参考資料:当館書誌ID 昭和大阪市史 続編 第7巻 文化編 大阪市役所/編集 大阪市役所 1968 資料(5),
参考資料:当館書誌ID 大阪春秋 -大阪の歴史と文化と産業を発信する- 第114号 特集上町台地の魅力 新風書房 2004.5 9784882695585 資料(6),
参考資料:当館書誌ID 写真で見る消えた大阪の宝 中村 哲/著 日本機関紙出版センター 2010.12 978-4-88900-867-8 資料(7),
参考資料:商用データベース「聞蔵IIビジュアル」 朝日新聞 1947.9.14 東京 朝刊 「大阪城の紀州御殿 焼失」 資料(8),
参考資料:商用データベース「ヨミダス歴史館」 読売新聞 1947.9.14 東京 朝刊 「大阪城内紀州御殿焼く」 資料(9),
(2020/12/27 00:30)
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市立中央郷土関連:トップ5
サイト名
レファレンス協同データベース
サイトの説明
レファレンス協同データベース検索APIによる検索結果です。
サイトURL
https://crd.ndl.go.jp/
桜宮公会堂内にあった大阪市ユースアートギャラリーの内観の写真はありますか。(大阪市立中央図書館)
大阪市ユースアートギャラリーの写真が掲載されている資料を下記の通りご紹介いたします。
(1) 『教育大阪 404号〜415号』(大阪市学校教育振興公社 1985.5-1986.4)
404号(1985年5月号)p.32に続くグラビアページ(ページ付なし)が「力作いっぱい ユースアートギャラリー」と題して外観および内観写真(モノクロ)を3ページ分掲載しています。
406号(1985年7月号)p.32に続くグラビアページ(ページ付なし)にも「創作を通して子どもの姿を 中学校ぐるみ 親子作品展」があり、外観および内観写真(モノクロ)が3ページ分掲載されています。
(2) 『わたしたちの滝川』(大阪市立滝川小学校/[編] 大阪市立滝川小学校 1992.11)
p.103に「ユースアートギャラリー絵画展」として内観のモノクロ写真があります。
(3) 美術教育HOTひろば:過去のコラムいろいろ:大阪ユースアートギャラリーにて(20050219)
http://be-hot.art.coocan.jp/Column/2005/20050219.htm (2020.12.22確認)
「大阪ユースアートギャラリーにて(20050219)」の見出しで写真が掲載されています。
(4) 『読売新聞』2006年8月25日 朝刊 35頁「1522点一堂に 世界児童画展始まる」
ユースアートギャラリーでの「第36回世界児童画展」の内観のカラー写真が掲載されています。
回答プロセス:1.当館所蔵検索をフリーワード“ユースアートギャラリー”で検索するがヒットなし
2.当館データベース「大阪関係資料目次検索」(外部非公開)を“ユースアートギャラリー”で検索するがヒットなし
3.大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」( http://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/ 2021.1.11確認)を“ユースアートギャラリー”で検索、1件ヒットしたが内観写真の掲載なし
4.大阪市ホームページ内を“ユースアートギャラリー”で検索、大阪市総合コールセンターのFAQ「重要文化財 泉布観の一般公開について教えてください」( https://www.osaka-city-callcenter.jp/faq/detail.aspx?id=476 2021.1.11確認)がヒット。泉布観の併設施設として旧桜宮公会堂が紹介されているが写真はなし。ユースアートギャラリーの閉館は2007年3月と判明。なお、1980年までは図書館として使用されていた。
5.Googleを“ユースアートギャラリー×大阪市”で検索、資料(3)がヒット
6.大阪市教育委員会発行の年報等を確認、有用情報なし
7.「ユースアートギャラリー」が存在した時期の雑誌『教育大阪』の記事を確認し、資料(1)が見つかる
8.桜宮公会堂のある地域の学校誌(市立北稜中学校、滝川小学校、堀川小学校)を確認し、資料(2)が見つかる
9.天満地域の情報誌『天満人』を確認、有用情報なし
10.国立国会図書館デジタルコレクションで“ユースアートギャラリー”を検索するがヒットなし
11.商用データベース「ヨミダス歴史館」で“ユースアートギャラリー”を検索し、資料(4)を確認
12.国立国会図書館サーチで“ユースアートギャラリー”を検索するがヒットなし
参考資料:当館書誌ID 教育大阪 404号〜415号 大阪市学校教育振興公社 1985.5-1986.4 資料(1),
参考資料:当館書誌ID わたしたちの滝川 大阪市立滝川小学校/[編] 大阪市立滝川小学校 1992.11 資料(2),
参考資料:『読売新聞』2006年8月25日 大阪朝刊 35頁「1522点一堂に 世界児童画展始まる」 資料(4),
参考資料:美術教育HOTひろば:過去のコラムいろいろ:大阪ユースアートギャラリーにて(20050219) http://be-hot.art.coocan.jp/Column/2005/20050219.htm (2021.1.11確認) 資料(3),
(2021/01/14 00:30)
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大阪市立加美小学校(大阪市平野区加美正覚寺3-13-35)が建設される前の土地には何があったか知りたい。(大阪市立中央図書館)
大阪市立加美小学校が建設される前の土地は、神社、水田、乾田だったようです。
以下、関連する記述のあった資料をご紹介いたします。
(1) 『加美』(大阪市立加美小学校創立100周年記念事業記念誌委員会/編集 大阪市立加美小学校創立100周年記念事業委員会 1987)
p.64-68「本校百年の沿革大要-加美小の100才の歴史-」の記述によると、明治6年設立の鞍作小学校(鞍作243番)と、明治7年設立正覚寺小学校(正覚寺2608番)が明治20年5月20日に合併され、設立された龍華(たちばな)尋常小学校が加美小学校の前身とのことです。
p.19「3.龍華尋常小学校の誕生」に「新しい土地は、旭神社が、現在の位置へ遷宮される以前に社殿があったといわれる正覚寺595番地(現在の加美小学校の南東校舎および給食室の位置)が選ばれ新築の運びとなった。」とあります。また現在の校地と明治20年頃の敷地が記載された簡易な図が掲載されており、それによると現在の校地は明治20年ごろと比較し、北方に約3倍、西方に約2倍に拡張されたようです。
上述「本校百年の沿革大要-加美小の100才の歴史-」のp.66「昭和7.2」の項に「校地900坪拡張」とあります
(2) 『京阪神仮製二万分之一地形図 -明治17年〜19年-』 (参謀本部陸軍測量部/[編] 昭和礼文社 [1978] (明治18年測量同20年製版))
「天王寺村」の校地周辺の場所は、「水田」の記号になっています。
(3) 『平野(大阪近傍 5号)』(大日本帝国陸地測量部 1931.8)
(大正10年測図昭和4年修正測図)校地該当の場所に「学校」の記号、校舎らしい「家屋」の書き入れあります。その周囲は「水田」と「乾田」の記号があります。
加美小学校の歴史に関しては下記資料にも記述がありました。学校名の変遷が簡易にまとめられていますので、よろしければご参照ください。
(4) 『加美村誌』 (大阪市役所/編集 大阪市役所 1957)
p.317-322「第六章 教育・文化 第二節 加美小学校」
回答プロセス:1.当館所蔵の一番古い住宅地図(資料(5))にて当該学校の場所を確認。
2.それ以前の地図(資料(3)(4))を確認。プロセス1の地図と照らし合わせる。
3.学校史を確認し、資料(1)を見つける。
4.区史を確認し、資料(2)を見つける。
5.国土交通省国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス( https://www.gsi.go.jp/index.html )にて当該地区を確認。有用資料見つからず。
参考資料:当館書誌ID 京阪神仮製二万分之一地形図 -明治17年〜19年- 参謀本部陸軍測量部/[編] 昭和礼文社 [1978] 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 平野(大阪近傍 5号) 大日本帝国陸地測量部 1931.8 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 加美 大阪市立加美小学校創立100周年記念事業記念誌委員会/編集 大阪市立加美小学校創立100周年記念事業委員会 1987 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 加美村誌 大阪市役所/編集 大阪市役所 1957 資料(4),
参考資料:当館書誌ID 大阪市全商工住宅案内図帳 東住吉区 -東部- 昭和39年版 [吉田地図] [2006] 資料(5) ※回答には使用せず,
(2021/01/07 00:30)
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大阪城の紀州御殿は1947年9月12日に焼失したそうだが、そのことについて詳しく書かれた資料はあるか。(大阪市立中央図書館)
大阪城の紀州御殿は、明治18(1885)年に紀州和歌山城二の丸御殿を移築したものです。桃山様式の豪壮な書院建築で、昭和天皇の大阪城行幸の際に行在所となり、「天臨閣(てんりんかく)」と呼ばれました。
第2次大戦の戦火を免れたにもかかわらず、1947年9月12日に焼失します。(『大阪城歴史散策』『大阪城ふしぎ発見ウォーク 増補版』)
この紀州御殿の焼失について関連する記述のあった資料を下記の通りご紹介いたします。
(1) 『大阪城歴史散策』(渡辺 武/著 保育社 1992.6)
p.38-39「紀州御殿のこと」の項に、昭和22年9月12日午後10時頃出火し全焼したとの記載があります。
(2) 『大阪城ガイド』(渡辺 武/[ほか]共著 保育社 1983.9)
p.51「紀州御殿」の項に、昭和22年に焼失した旨の記述があります。
(3) 『大阪城ふしぎ発見ウォーク 増補版』(北川 央/著 フォーラム・A 2011.12)
p.95-96に紀州御殿についての記述があり、戦後火災が発生し焼失したとあります。
(4) 『大阪城への招待 Part2』(秋山進午/[ほか]著 大阪観光協会 ワラヂヤ出版(発売) 1983)
p.25-28「新発見の大阪城古写真 紀州御殿と旧軍施設」の項があります。
(5) 『昭和大阪市史 続編 第7巻』(大阪市役所/編集 大阪市役所 1968)
p.307「大阪城天守閣」の項に紀州御殿焼失についての記載があります。
(6) 『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業を発信する 第114号』(新風書房 2004.5)
船越幹央「大阪城周辺にあった軍事施設(覚書)-軍事都市としての大阪(特集上町台地の魅力)」内、p.29に紀州御殿焼失についての記載があります。
(7) 『写真で見る消えた大阪の宝』(中村 哲/著 日本機関紙出版センター 2010.12)
p.126-127「4.終戦編 A.紀州御殿」の項があります。
(8) 『朝日新聞』 1947年9月14日 東京朝刊 2面
「大阪城の紀州御殿焼失」の記事があります。
(9) 『読売新聞』 1947年9月14日 朝刊 2面
「大阪城内紀州御殿焼く」の記事があります。
以上、回答といたします。
回答プロセス:1.当館所蔵検索で”紀州御殿”を検索、資料(1)が見つかる。
2.大阪コーナーの書架をブラウジング 資料(2)(3)が見つかる。
3.国立国会図書館デジタルコレクションで”紀州御殿”を検索、資料(4)が見つかる。
4当館データベース 大阪関係資料目次検索(非公開)で”紀州御殿”を検索、資料(5)が見つかる。
5おおさかポータル”紀州御殿”で検索、資料(6)が見つかる。
6国立国会図書館サーチで”紀州御殿”を検索、資料(7)が見つかる。
7.商用データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」該当の日付の記事を確認、資料(8)が見つかる。
8.商用データベース「ヨミダス歴史館」の該当の日付の記事を確認、資料(9)が見つかる。
参考資料:当館書誌ID 大阪城歴史散策(カラーブックス 831) 渡辺 武/著 保育社 1992.6 9784586508310 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 大阪城ガイド(カラーブックス 618) 渡辺 武/[ほか]共著 保育社 1983.9 9784586506187 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 大阪城ふしぎ発見ウォーク :増補版 北川 央/著 フォーラム・A 2011.12 978-4-89428-697-9 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 大阪城への招待 Part2 秋山 進午/[ほか]著 ワラヂヤ出版(発売) 1983 資料(4),
参考資料:当館書誌ID 昭和大阪市史 続編 第7巻 文化編 大阪市役所/編集 大阪市役所 1968 資料(5),
参考資料:当館書誌ID 大阪春秋 -大阪の歴史と文化と産業を発信する- 第114号 特集上町台地の魅力 新風書房 2004.5 9784882695585 資料(6),
参考資料:当館書誌ID 写真で見る消えた大阪の宝 中村 哲/著 日本機関紙出版センター 2010.12 978-4-88900-867-8 資料(7),
参考資料:商用データベース「聞蔵IIビジュアル」 朝日新聞 1947.9.14 東京 朝刊 「大阪城の紀州御殿 焼失」 資料(8),
参考資料:商用データベース「ヨミダス歴史館」 読売新聞 1947.9.14 東京 朝刊 「大阪城内紀州御殿焼く」 資料(9),
(2020/12/27 00:30)
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秀吉の頃、大阪城下の石田三成屋敷がどこにあったか知りたい。(大阪市立中央図書館)
石田三成屋敷について記述のあった資料は以下の通りです。
(1) 『新修大阪市史 第3巻』(新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1989)
「第一章 城下の建設 第五節 城下町と周辺の開発 1 秀吉期の城下町形成 惣構堀の築造と内町の完成」p.129に、「備前島に徳川家康・宇喜多秀家・石田三成(中略)などの屋敷が配置されるものと推定される」との記述があります。
(2) 『豊臣秀吉の居城 大阪城編』(桜井 成広/著 日本城郭資料館出版会 1970)
「第三章 構造 第五節 総構 第五 大名屋敷」に、古文献によって知り得る大名屋敷の位置についてまとめられています。p.316に「江戸時代の御弓奉行屋敷は石田治部少輔三成の邸址で石で畳んだ井戸が残っていると『落穂雑談一言集』二十二に見えるが現在の大手町高校のテニスコート辺に相当する。備前島のは下邸か。」また、「外曲輪の京橋口を出た所を備前島と言い、その名は備前の領主たる宇喜多秀家の屋敷が在ったのによるという。(中略)備前島の秀家邸の隣には石田三成邸があって」との記述があります。
(3) 『大阪歴史博物館研究紀要 第13号 脇田修館長退任記念号』(大阪歴史博物館/編集 大阪歴史博物館 2015.2)
大澤研一「文献資料からみた豊臣前期大阪の大名屋敷・武家地」のp.(3)に「先行研究にみる武家屋敷の所在地」が一覧表としてまとめられています。内容は上記資料(2)と同じですが、大手前高校の方に「上邸?」との備考がついています。
屋敷跡の碑については以下の資料に記述があります。
(4) 『大坂の史跡探訪 Vol.3 天満橋 谷町4丁目 堺筋本町』(長谷 吉治/著 大阪龍馬会 2014.5)
p.34に「⑬石田三成邸跡」の項目があり、「石田三成の屋敷が、現在、大手前学園のビルが建っている辺りにあった。三成はここ以外にも備前島(現、都島区網島町藤田公園のあたり)に屋敷があった。」との記述があります。
上記資料(4)に関連して、大手前ビル周辺の発掘調査報告書(1~3巻)を以下に紹介いたします。
(5) 『大坂城三の丸跡 1 京橋口における発掘調査報告書』(大手前女子大学史学研究所大坂城三の丸跡調査研究会/編 大手前女子学園 1982.4)
(6) 『大坂城三の丸跡 2 大手口における発掘調査報告書(大手前女子短期大学の校舎増築に伴う発掘調査報告書)』(大手前女子大学史学研究所大坂城三の丸跡調査研究会/編 大手前女子学園 1983.4)
(7) 『大坂城三の丸跡 3 大手口における発掘調査報告書 その2(大手前女子短期大学の校舎増築に伴う発掘調査報告書 その2)』(大手前女子大学史学研究所大手前女子学園考古資料室/編 大手前女子学園 1988.4)
また、大阪城跡の発掘調査に関する資料を以下に紹介いたします。
(8) 『大坂 豊臣と徳川の時代 -近世都市の考古学-』(大阪歴史博物館/編 高志書院 2015.4)
p.48「第3節 大阪にいた大名と発掘された武家屋敷」では瓦を用いた大名屋敷の比定が試みられています。
(9) 『大坂城跡 7』(大阪市文化財協会/編集 大阪市文化財協会 2003.7)
1985年から始まった大坂城跡における発掘調査の集大成となる資料です。p.325~366「第5章 遺構と遺物の検討」の章があり、金箔瓦の出土状況等がまとめられています。
回答プロセス:1.『新修大阪市史 第10巻』(新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1996)索引にて“石田三成”の項を参照、資料(1)を確認
2.NDL ONLINEを“大阪×大名屋敷”“大阪×武家屋敷”で検索し、資料(3)が見つかる
3.資料(3)の参考文献である資料(2)を確認
4.大阪の史跡に関する本を検索し、資料(4)が見つかる
5.大阪城跡の発掘に関する資料を検索し、資料(5)~(9)が見つかる
事前調査事項:大手前学園内に、石田三成屋敷跡の碑があると聞いた
参考資料:当館書誌ID 新修大阪市史 第3巻 新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市 1989 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 大阪歴史博物館研究紀要 第13号 脇田修館長退任記念号 大阪歴史博物館/編集 大阪歴史博物館 2015.2 資料(3),
参考資料:当館書誌ID 豊臣秀吉の居城 大阪城編 桜井 成広/著 日本城郭資料館出版会 1970 資料(2),
参考資料:当館書誌ID 大坂の史跡探訪 Vol.3 天満橋 谷町4丁目 堺筋本町 長谷 吉治/著 大阪龍馬会 2014.5 資料(4),
参考資料:当館書誌ID 大坂城三の丸跡 1 京橋口における発掘調査報告書 大手前女子大学史学研究所大坂城三の丸跡調査研究会/編 大手前女子学園 1982.4 資料(5),
参考資料:当館書誌ID 大坂城三の丸跡 2 大手口における発掘調査報告書(大手前女子短期大学の校舎増築に伴う発掘調査報告書) 大手前女子大学史学研究所大坂城三の丸跡調査研究会/編 大手前女子学園 1983.4 資料(6),
参考資料:当館書誌ID 大坂城三の丸跡 3 大手口における発掘調査報告書 その2(大手前女子短期大学の校舎増築に伴う発掘調査報告書 その2) 大手前女子大学史学研究所大手前女子学園考古資料室/編 大手前女子学園 1988.4 資料(7),
参考資料:当館書誌ID 大坂 豊臣と徳川の時代 -近世都市の考古学- 大阪歴史博物館/編 高志書院 2015.4 978-4-86215-146-9 資料(8),
参考資料:当館書誌ID 大坂城跡 7 大阪市文化財協会/編集 大阪市文化財協会 2003.7 4-900687-73-1 資料(9),
(2020/12/26 00:30)
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幕末期、大阪の薩摩藩邸の近くにあったといわれる「薩万」とよばれた海援隊の屯所の場所の特定をしたい。立証する文献があれば見たい。(大阪市立中央図書館)
残念ながら、お探しの場所を特定できるような文献は見つからず。
『坂本龍馬事典』(新人物往来社)には、下記の記載があった。
「この薩摩藩邸は現在の西区土佐堀二丁目、三井倉庫の地にあり、土佐堀川に面して宏壮な土蔵づくりがつらなる。蔵屋敷と称する点も土佐藩邸と同様であった。すぐ近くに薩摩屋万助、略して「薩万」という宿があった。薩摩藩の定宿だが、龍馬もよく利用し、慶応末年にはついに海援隊大阪事務所の観を呈していた。」
霊山歴史館によると、現在地は確認できないというのが多くの研究者の意見とのことだった。
2009.3 質問者より情報提供あり
その後の調査で、大阪商業大学商業史博物館等からの情報により、薩摩屋半兵衛は土地を大坂に少なくとも3箇所は持っており、
薩摩藩蔵屋敷の上屋敷、中屋敷、下屋敷の近くの所在地であったことが判明したとの連絡を受ける。 (「仁風便覧」)
(大阪商業大学商業史博物館(http://ouc.daishodai.ac.jp/facilities/museum/ 2009.3.16確認)
2020.12 情報提供いただきました
『産経新聞』 2018年7月14日 大阪朝刊 第4社会「【維新150年 大阪の痕跡を歩く】(20)「薩万」跡 」
大阪龍馬会の幹事、長谷(おさたに)吉治さんの案内による記事で、「土佐堀2丁目交差点の北東あたりに三井倉庫大阪支店(大阪市西区土佐堀)がある。(中略) この交差点から南へ約20メートル、北行き車線の右折レーンから西側のコンビニあたりにあったのが、幕末の商家『薩万(さつまん)』。」「当時の水帳(土地台帳、戸籍図)にある「薩摩藩浜屋敷」(上屋敷の南側)と、その西にある「薩州名代(みょうだい)、太原屋万右衛門(たはらやまんえもん)」という屋号に注目。さらに龍馬の妻、お龍(りょう)の口述記録にある「薩摩の花(浜)屋敷の門前にある薩摩屋」「裏二階の下が川」という記述から、当時の江戸堀川に面していた「太原屋万右衛門」を「薩万」と推定したのだった」とあります。
下記サイトでも同記事の内容を見ることができます。
産経新聞 2018.7.21「【維新150年 大阪の痕跡を歩く】坂本龍馬の海援隊が使った"大坂支店″「薩万」跡」
https://www.sankei.com/west/news/180721/wst1807210010-n1.html (2020.12.16確認)
回答プロセス:1.『西区誌』、『市史索引』、『大阪史蹟辞典』、『幕末歴史散歩 京阪神篇』などにあたるが、なし。
2.利用者がお持ちの資料の情報から、「薩万」は薩摩屋という屋号で、人足差入れの稼業を営んでいたよう。
(平井道雄監修『坂本龍馬全集』p554~556)
3.『大阪人物辞典』の“薩摩屋半兵衛”の項、「当時西区江戸堀にあった薩摩藩蔵屋敷の家守を務める…坂本龍馬もかくまわれたことがある。」という記述や、宮本又次著『大阪商人』の薩摩屋半兵衛についての内容から、この可能性を利用者に伝えるが、そうではないとのこと。
薩摩屋の屋号は当時たくさんあったし、「薩万」というからには“薩摩屋万兵衛”など、「薩摩屋万…」だと思うとのこと。
薩摩藩蔵屋敷に関する文献を調べ、関連事項を探る。
4.当館OPAC、Cinii、商用データベース「MAGAZINEPLUS」(日外アソシエーツ雑誌論文情報)、大阪府立中之島図書館の大阪文献データーベースを検索するも出てこない。
5.大阪市史編纂所刊行「大阪市史史料」の『諸事控』『維新期大阪の役務記録』(共に幕末期の史料)を見るも「薩摩屋」「薩万」の名は見つからず。
6.江戸末期~明治中期あたりにかけて刊行された商工名鑑の類(『商人買物独案内』『浪速諸商独案内』『商工技芸浪速の魁』など)なし。
7.鹿児島県の黎明館に問い合わせるが、先方収蔵資料の中に答えとなるものなし。高知の専門博物館などへ問い合わせてはと助言をいただく。
8.京都の霊山歴史館(全国唯一の幕末・明治維新の専門歴史博物館)へ問い合わせ。
『坂本龍馬事典』(新人物往来社)のp278(執筆は先方の元研究員、秋田鉄男氏)を紹介される。
2009.3追加調査
1.「図説坂本竜馬」(戎光祥出版,2005.3)の年表を見ると、慶応3年10月6日の項に、
「大阪着。土佐堀「薩万」に入り、海捜隊士と会う」とあり。
場所は土佐堀とまでしかわからない。
2.「藩史大事典第7巻 九州編」(雄山閣 1988)
p551によると、鹿児島藩(別称薩摩藩)の蔵屋敷の所在地 大坂 上屋敷 土佐堀二丁目 下屋敷 立売堀
3.「大阪袖鑑」(大阪市史編纂所所蔵1835年(天保6)改正を複写製本したもの)
「御蔵屋鋪画図」に“サツマ”の記載あり。
また、一覧の薩州鹿児島の項目には、土佐堀二丁目・江戸堀五丁目・立売堀との記載あり。
鹿児島藩大坂上屋敷が土佐堀二丁目なので、土佐堀「薩万」も、二丁目付近か。
参考資料:「坂本竜馬事典」 小西 四郎/[ほか]編 新人物往来社,1988.5 ISBN 4-404-01484-8,
参考資料:産経新聞 2018.7.21「【維新150年 大阪の痕跡を歩く】坂本龍馬の海援隊が使った"大坂支店″「薩万」跡」 https://www.sankei.com/west/news/180721/wst1807210010-n1.html (2020.12.16確認),
照会先:鹿児島県歴史資料センター黎明館 http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/(2009.1.24確認) 、 幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」 http://www.ryozen-museum.or.jp/(2009.1.24確認)
備考:「仁風便覧」については、大阪市立中央図書館事例(10-3B-200903-01)参照
(2020/12/24 00:30)
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編纂所が調査に関わったもの
サイト名
レファレンス協同データベース
サイトの説明
レファレンス協同データベース検索APIによる検索結果です。
サイトURL
https://crd.ndl.go.jp/
大阪市浪速区幸町にある安政の地震津波碑の碑文全文を知りたい。(大阪市立中央図書館)
安政の地震津波とは、嘉永7年(安政元年・1854年)11月4・5日に大阪を襲った紀伊半島沖に震源をもつ推定マグニチュード8.4の大地震と、それに伴って起きた大津波のことです。
その状況を記録し、後世の人のために戒めを伝える目的で安政2年7月に、被害の甚大だった浪速区幸町五丁目大正橋の東詰に石碑が建立されました。
そこには、大地震が起きた場合には必ず津波が襲うものと心得るべきだと教訓が書かれています。
・小田康徳「大阪における安政の地震津波碑と震災の記憶について」『ヒストリア』第148号(p.91~95)
碑文の原文全文が掲載されています。
ただし、「この文章はこの石碑から直に写したものではなく、浪速区幸町三丁目居住増井健蔵氏所収の木版刷にもとづくもので、若干の異同がある。」と記述されています。
・『大正大阪風土記』訂正(大阪教育部共同研究会/編 大正大阪風土記刊行会,1927)
「津波の碑」の項(p.327~328)にも碑文の原文の掲載がありますが、石碑の背面と右面の碑文のみです。
また、『ヒストリア』掲載のものと、句読点やかな使いに若干の異同がありますが、こちらが石碑から直に写したものかどうかは明らかにされていません。
・浪速区役所ホームページ http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000848.html (2011.3.23確認)
「区のスポット・名所・旧跡」として「安政大津波記念」の碑が取り上げられています。
そこでは、碑に隣接して設置された記念碑に碑文の原文と共に現代語訳が記されているとした上で、現代語文を紹介しています。
2011年8月、大阪市史編纂所より、碑文に関する参考資料として以下のものが最適という情報をいただきました。
・『水都大坂を襲った津波 : 石碑は次の南海地震津波を警告している。』( 長尾 武/著・発行 改訂版 2007)
p.14~16に碑文の全文が記載されています。
参考資料:小田康徳「大阪における安政の地震津波碑と震災の記憶について」『ヒストリア』第148号 大阪歴史学会 1995.9 ,
参考資料:『大正大阪風土記』訂正 大阪市教育部共同研究会編 大正大阪風土記刊行会 1927,
参考資料:浪速区役所ホームページ>区内の官公署、主な施設、名所旧跡等>名所・旧跡等>区のスポット・名所・旧跡>碑>「安政大津波」の碑
http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000848.html (2011.3.23確認),
参考資料:『水都大坂を襲った津波: 石碑は次の南海地震津波を警告している。』 長尾 武著・発行 改訂版 2007.2,
寄与者:大阪市史編纂所
備考:大阪市立図書館webギャラリー「大阪の災害 ~江戸・明治期にかけて~」http://www.oml.city.osaka.jp/image/themes/theme569.html (2011.3.23確認)、
小展示「幕末の大坂を襲った大地震と大津波」(平成16年12月 大阪府立中之島図書館作成)
http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/63_jisin.html (2011.3.23確認)もご参照ください。
(2012/04/17 14:41)
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大阪上本町の近鉄百貨店辺りにあった「梅屋敷」についての資料はないか?(大阪市立中央図書館)
「東都亀戸の梅屋敷を模して、文化年間に造ったもの~生玉馬場の東(現在の上本町六・七丁目辺)にあり、園中に梅を植え、樹下に席を設け~秋には菊観で賑わった~。~日露開戦の一二年後には、山口銀行主の山口吉郎右衛門氏本邸となり、大正期には忘れさられてしまった。」
(「翻刻『梅屋敷の記- 一名 このはな』」『大阪府立図書館紀要』第37号 2008より)
『浪華の賑ひ』 (鶏鳴舎暁晴/編輯 ; 松川 半山/画図 中外書房,1975|安政2年版の複製)26丁に”梅屋敷”についての記述がある。
その他は以下のとおり。
・『浪速叢書 第7 摂津名所図会大成 其1』 (船越 政一郎/編 暁 鐘成/著 名著出版,1978)p277~278
・『大阪府全志 巻之2』(井上 正雄/著 清文堂,1985|大正11年刊の復刻)p764
・『上方』 26 表紙 193302 /『上方』 30 「三十年前の大阪東部」寺川信 p33-34、35 193306
※ 『上方 郷土研究 3(上) 自第二十五号(昭和八年一月)至第三十号(昭和八年六月)』(上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969)所収
・『天王寺区史』 (川端 直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会,1955.10) p84、406
・徳永慶太郎「七十年前の上六」『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業と 阿倍野・住吉・天王寺 特集』25号 第8巻第3号 1980.9(p82-87)
・『京阪名所案内』 (白土 幸力/編輯 博盛堂,1904) p13
・『大阪府誌 第5編 名勝旧蹟』 (大阪府/編纂 思文閣,1970 大阪府 明治36年刊の復刻)p79-80
・『大阪新繁昌記』 (島本 篤平/著 島本篤平,1894.10)p18-19
・『大阪案内』 (日本電報通信社大阪支局,1909)p205
・『目で見る明治時代 明治風俗画集成 2』(国書刊行会,1985.11)
大阪の梅園(p.34.35) 図版・解説あり。
『写真浪花百景 上編 中編』(長谷川 貞信/画 一荷堂 半水/著 綿屋喜兵衛,[1868頃(明治初年)])には「梅屋敷」の絵が収録されており、
大阪市立図書館 画像データベースで画像を提供しているほか、大阪市立図書館Webギャラリー「なにわ花めぐり 」でも同画像を紹介。
”梅屋敷”の位置と広さについては、次の資料による。
『新修大阪市史 第10巻』 (新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市,1996.3) 歴史地図 図5 天保期の大坂三郷
『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[地図] 』 (吉江集画堂地籍地図編輯部/編纂 吉江集画堂,1911)
『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[土地台帳] 』 ([吉江集画堂地籍地図編輯部/編] 吉江集画堂,1911)
国立国会図書館ホームページの「写真の中の明治・大正 関西編」 梅屋敷には、
『旅の家つと23号』(大阪市立図書館所蔵なし)掲載の梅屋敷の写真が紹介されており、関連する近代デジタルライブラリーへのリンクあり。
大阪府立図書館に『梅屋敷の記』(黒沢翁満 1846)が所蔵されており、「大阪府立中之島図書館貴重書画像データベース」で画像が公開されている。
また、「翻刻『梅屋敷の記- 一名 このはな』」『大阪府立図書館紀要』第37号(2008(平成20)年3月31日)本文もホームページ紀要のページで公開されている。
また、大阪府立中之島図書館「錦絵にみる大阪の風景」では、 『浪花百景』(芳瀧画)・『浪華百景之内』(貞信(初代)画)の画像を見ることができる。
回答プロセス:『大阪史蹟辞典』(三善 貞司/編 清文堂出版,1986.7)には記載なし。
大阪市史編纂所に助言を得る。
2010.3追加調査
1.大阪府立中之島図書館 ホームページで調査
大阪文献データベースhttp://refdb.library.pref.osaka.jp/cdb0100.asp (2010.3.24確認)を調査
事項から検索 “梅屋敷”
『上方』 26 表紙 193302 /『上方』 30 「三十年前の大阪東部」寺川信 p33-34、35 193306
※ 『上方 郷土研究 3(上) 自第二十五号(昭和八年一月)至第三十号(昭和八年六月)』(上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969)所収
『上方』 31 p62-63 193307 新梅屋敷が中心
※『上方 郷土研究 3(下) 自第三十一号(昭和八年七月)至第三十六号(昭和八年十二月)』(上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969) 所収
『天王寺区史』 (川端 直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会,1955.10) p84、406
『梅屋敷の記』 黒沢翁満 1846 大阪市立図書館所蔵なし
文献名から検索 “梅屋敷”
徳永慶太郎「七十年前の上六」『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業と 阿倍野・住吉・天王寺 特集』25号 第8巻第3号 1980.9(p82-87)
『梅屋敷の記』 黒沢翁満 1846 大阪市立図書館所蔵なし
『梅屋敷の記』(黒沢翁満 1846)は、「大阪府立中之島図書館貴重書画像データベース」で画像公開を確認。
「錦絵にみる大阪の風景」 http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/ (2010.3.25確認)では、
名所名 梅屋敷で二つの画像を見ることができる。
2.国立国会図書館写真の中の明治・大正 関西編 梅屋敷http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/data/79/index.html (2010.3.24確認)を調査
『旅の家つと23号』(大阪市立図書館所蔵なし)掲載の梅屋敷の写真が紹介されており、代デジタルライブラリーの関連する下記タイトルへのリンクあり。
『京阪名所案内』 (白土 幸力/編輯 博盛堂,1904) p13
『大阪府誌 第5編 名勝旧蹟』 (大阪府/編纂 思文閣,1970 大阪府 明治36年刊の復刻)p79-80
『大阪新繁昌記』 (島本 篤平/著 島本篤平,1894.10)p18-19
『大阪案内』 (日本電報通信社大阪支局,1909)p205
貴重書画像データベースで紹介されている『写真浪花百景 上編 中編』(長谷川 貞信/画 一荷堂 半水/著 綿屋喜兵衛,[1868頃(明治初年)])も含め、当館所蔵あり。
3.CiNii - NII論文情報ナビゲータhttp://ci.nii.ac.jp/ (2010.3.25確認)を調査
キーワード“梅屋敷”で検索。
小笠原 弘之 , 山田 瑞穂 , 佐藤 敏江 [他] 「翻刻『梅屋敷の記--一名 このはな』 翻刻『松島紀行』」 『大阪府立図書館紀要』 (37),2008/3 が見つかる。
大阪府立図書館紀要ページで本文公開を確認。
2010.10追加
『目で見る明治時代 明治風俗画集成 2』(国書刊行会,1985.11)
大阪の梅園(p.34.35) 図版・解説あり。
事前調査事項:『葎居後集 1~3巻』(黒沢翁満著 河内屋和助 安政5.6(1858))
参考資料:『浪華の賑ひ』 鶏鳴舎暁晴/編輯 ; 松川 半山/画図 中外書房,1975,
参考資料:『浪速叢書 第7 摂津名所図会大成 其1』 船越 政一郎/編 暁 鐘成/著 名著出版,1978 浪速叢書刊行会 1927年刊の復刻 ,
参考資料:『大阪府全志 巻之2』 井上 正雄/著 清文堂,1985 ISBN 4-7924-0271-9大正11年刊の復刻 ,
参考資料:『新修大阪市史 第10巻』 新修大阪市史編纂委員会/編集
大阪市,1996.3,
参考資料:『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[地図] 』 吉江集画堂地籍地図編輯部/編纂 吉江集画堂,1911,
参考資料:『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[土地台帳] 』 [吉江集画堂地籍地図編輯部/編] 吉江集画堂,1911,
参考資料:大阪市立図書館Webギャラリー「なにわ花めぐり 」http://www.oml.city.osaka.jp/image/themes/theme829.html (2010.3.25確認),
参考資料:「大阪府立中之島図書館貴重書画像データベース」http://rarebooks.library.pref.osaka.jp/ (2010.3.25確認),
参考資料:「翻刻『梅屋敷の記- 一名 このはな』」『大阪府立図書館紀要』第37号 2008(平成20)年3月31日 http://www.library.pref.osaka.jp/lib/kiyo.html (2010.3.25確認),
参考資料:『上方 郷土研究 3(下) 自第三十一号(昭和八年七月)至第三十六号(昭和八年十二月)』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969 ,
参考資料:徳永慶太郎「七十年前の上六」『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業と 阿倍野・住吉・天王寺 特集』25号 第8巻第3号1980.9(p82-87) <当館書誌ID:0000253458>,
参考資料:『京阪名所案内』 白土 幸力/編輯 博盛堂,1904,
参考資料:『大阪府誌 第5編 名勝旧蹟 』 大阪府/編纂 思文閣,1970 大阪府 明治36年刊の復刻,
参考資料:『大阪新繁昌記』 島本 篤平/著 島本篤平,1894.10,
参考資料:『大阪案内』 日本電報通信社大阪支局,1909,
参考資料:大阪府立中之島図書館「錦絵にみる大阪の風景」 http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/ (2010.3.25確認),
参考資料:国立国会図書館写真の中の明治・大正 関西編 梅屋敷http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/data/79/index.html (2010.3.24確認),
参考資料:『目で見る明治時代 明治風俗画集成 2』国書刊行会/編 国書刊行会,1985.11,
寄与者:大阪市史編纂所 http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2010.3.24確認)
備考:大阪市立図書館Webギャラリー「大阪名所めぐり」http://www.oml.city.osaka.jp/cgi-bin/img_src/disp_themes.cgi (2011.2.4確認)もご参照ください。
2010年3月18日から4月1日まで大阪市立図書館サイトトップ( http://www.oml.city.osaka.jp/ )で、
「梅屋敷」 (『写真浪花百景 上編 中編』(長谷川 貞信/画 一荷堂 半水/著 綿屋喜兵衛,[1868頃(明治初年)])をご紹介しました。
「古文書や大阪関係の地図を検索する」 http://www.oml.city.osaka.jp/cgi-bin/img_src/s_all.cgi (2010.12.17確認)で、書名 図名“写真浪花百景”で検索し、17ページをご参照ください。
山口吉郎兵衛(4代)やまぐち-きちろべえ(1883-1951) 明治-昭和時代の銀行家。
明治31年大阪第百四十八国立銀行を山口銀行(三和銀行の前身)に改組し,社長となる。陶磁器の収集家,茶道家としても知られる。大阪出身。号は滴翠。(『日本人名大辞典』(平凡社)山口吉郎兵衛(4代)の項目より抜粋)
(2011/04/23 16:54)
もっと読む
石川静水という人物について知りたい。大阪で化粧業界紙の発行をしていた人らしい。(大阪市立中央図書館)
石川静水は、石川清三郎のこと。大阪化粧品商報主筆。
雑誌『あまカラ 33号』(甘辛社,1954.5)「哥沢初稽古」(p.38)に、石川静水について記述がある。
それによると、金物問屋に生まれ、隣家の南木芳太郎(なんきよしたろう:明治15(1882)年-昭和20(1945)年 昭和期の郷土史家。上方郷土研究会を創立し、大阪の近世・近代史を研究)と御津幼稚園からの竹馬の友であった。
また、石川静水の執筆したものとして下記を紹介。
1)『上方』101 「百人随筆集その2 芳チャンと上方」193905 (p.24-25)
南木芳太郎についての記事で、島之内の新屋敷を遊び場としていた事等が綴られている。
2)『上方』50 「新屋敷」193502 (p.35-38)
3)『上方』68 「宗右衛門町に涼みがあった時代」193608 (p.10-11、46-47)
4)『上方』81 「見世物と流行歌」193709 (p.57)
城崎文芸館(兵庫県) http://www.kinosaki-spa.gr.jp/infomation/bungaku/bungekan/bungai.html (2010.5.10確認)には、静水撰の画帖「城崎八景」所蔵があり、あわせて紹介する。
回答プロセス:1.人物関連の参考図書を調査
下記に記載なし。
『大阪人物辞典』(清文堂出版,2000.11)
『『大阪春秋』総目次・索引集 創刊号~第100号』(大阪春秋社,2002.9) 人名の項目なし
『上方 郷土研究 別巻』(新和出版社,1971) 町人学者・俳句・新聞・出版の各項目 該当なし
『新修大阪市史 第10巻』(大阪市,1996.3) 索引 該当なし
『明治大正昭和大阪人名録 上巻』( 日本図書センター,1989.10)
『大阪人物誌 正編 』(臨川書店,1974)、『大阪人物誌 続編』(臨川書店,1974)
『日本書画骨董大辞典 増訂版』(成文館書店,1935.8)
『日本紳士録 24版』(交詢社,1919.12)
2.大阪の化粧品業界の資料を調査
当館所蔵を、キーワード“大阪×出版×化粧品”で検索。
『日本の書店百年』 (青英舎,1991.7)の内容確認するが、記述なし。
3.大阪府立中之島図書館大阪文献データベース http://refdb.library.pref.osaka.jp/cdb0100.asp (2010.5.10確認)
“石川静水”で検索。事項から検索 0件、文献名から検索すると、下記の4件の記事があり。
1)上方 101 百人随筆集その2 芳チャンと上方/石川静水 p24-25 193905
2)上方 50 新屋敷/石川静水 p35-38 193502
3)上方 68 宗右衛門町に涼みがあった時代/石川静水 p10-11、46-47 193608
4)上方 81 見世物と流行歌/石川静水 p57 193709
4.インターネットで調査
国立国会図書館 蔵書検索・申込システム http://opac.ndl.go.jp/ (2010.5.10確認)、
近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/index.html (2010.5.10確認)では情報なし。
Googleで、“石川静水”検索、城崎文芸館が同氏撰の画帖を所蔵していることが判明。
5.当館提供商用データベースで調査
下記全て“石川静水”が該当なし
e-レファレンス/ツール(日外 人物・出版情報)
聞蔵Ⅱビジュアル(朝日新聞 一部記事写真閲覧可)
The SankeiArchives(産経新聞記事)
日経テレコン21(日経四紙記事)
毎日Newsパック(毎日新聞記事)
ヨミダス文書館(読売新聞記事)
6.大阪市史編纂所に照会
化粧品商報社の編集をしていた人物である。
肥田晧三氏の講演会(「中井浩水著作目録(二) 大阪芸能懇話会 平成16年6月27日)レジュメの中に、“静水”についての記載(雑誌『あまカラ33号』より抄出)があるとの情報を得た。
参考資料:『あまカラ 31~40号』(甘辛社,1954.3-12),
参考資料:『上方 郷土研究 10(上)』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』101所収,
参考資料:『上方 郷土研究 5』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』50 所収,
参考資料:『上方 郷土研究 6』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』68 所収,
参考資料:『上方 郷土研究 7』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』81 所収
,
照会先:城崎文芸館 http://www.kinosaki-spa.gr.jp/infomation/bungaku/bungekan/bungai.html (2010.5.10確認)
寄与者:大阪市史編纂所 http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2010.5.10確認)
備考:大阪市立図書館多機能OMLISでは、2011年4月より商用データベース「毎日Newsパック」に代えて「毎索」(マイサク)(毎日新聞記事)を提供。
(2011/04/08 20:23)
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明治36年(1903)、第五回内国勧業博覧会開催時に、親子丼が販売提供されていたか知りたい。(大阪市立中央図書館)
『大阪三六五日事典』(東方出版,2002.2)「明治36年3月1日内国勧業博覧会開幕」の記事(p.46)に、“鳥菊”主人考案の十五銭の親子丼が、会場から誕生したとの記述あり。
あわせて下記の資料をご紹介した。
・『博覧会』(「実業世界太平洋」臨時増刊第1巻第五号)(博文館,1903)
山下雨花「余興と飲食物」の項目に下記の記述あり。(p.189 下段)
「鳥菊の鳥、~その鋤焼に親子丼の風味は、~」
・『博覧会土産 大阪及び附近の名所案内』(山下 雨之助/編 岡本偉業舘,1903)
「場内飲食店」の項目に、「鳥菊」あり。(p.29-30)建物の記述等あるが、親子丼の記述なし。
・『第五回内国勧業博覧会場内観覧案内』(山田 鎗之助/著 大阪製本印刷,1903)
鶏肉料理 内本満助(p.57)
・『第五回内国勧業博覧会場全図』(博文館,1903)
鶏肉料理 内本(図の中央あたりの上部)
・『第五回内国勧業博覧会案内記』(井上 熊次郎/編纂 考文社,1903)
鶏肉料理 内本満助(p.83)
・『第五回内国勧業博覧会報告書』(大阪市商工課, 明37.5)
国立国会図書館近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801969/44 (2011.3.7確認)
「博覧会ト飲食店」の項目に、鳥菊・内本満助の記述あるが、親子丼の記述はなし。(p.80.81)
回答プロセス:1.商用データベース「Japan Knowledge(ジャパンナレッジ)」(事典・辞書等) を調査
キーワード“親子丼”で検索、4件の項目が見つかるが詳しい由来はなし。
キーワード“親子丼”で全文検索、22件の項目のうち、由来については下記の項目にあり。
『日本大百科全書』(小学館)【丼物】
「親子丼は、東京・中央区の玉秀という鳥料理屋で明治初期に創作したもの。」
2.参考図書を調査
・『明治・大正家庭史年表 : 1868→1925 』(河出書房新社,2000.3)
明治36年3月1日、大阪で初めて“親子丼”が売り出されるとあり。(p.300)
・『衣食住語源辞典』(東京堂出版,1996.9)
1903年7月26日『大阪毎週新聞』に“親子丼”の文字が見える、とあり。(p.59)
※『大阪毎週新聞』は所蔵せず。
事物起源・料理の歴史に関する図書も調査するが、関連の記述は見つからない。
3.大阪府立中之島図書館大阪文献データベースhttp://refdb.library.pref.osaka.jp/cdb0100.asp (2011.3.7確認)を調査
キーワード“親子丼”で検索、下記の図書が見つかった。
・『大阪三六五日事典』(東方出版,2002.2)
「明治36年3月1日内国勧業博覧会開幕」の記事(p.46)に、“鳥菊”主人考案の十五銭の親子丼が、会場から誕生したとの記述あり。
4.googleブックス http://books.google.com/ (2011.3.7確認)で調査
キーワード“親子丼”ד内国勧業博覧会”で検索、下記の図書が見つかった。
・『語源海』(東京書籍,2005.3)
料亭鳥菊の主人、内本松次郎の名あり。(p.171)
・『日本史「はじめて」事典』(PHP研究所,2009.3)
鳥菊の主人・内本松次郎の名あり。(p.97) ※利用者調査済
5.新聞データベースを調査
・商用データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」(朝日新聞 一部記事写真閲覧可)
「朝日新聞縮刷版」メニューで調査
大阪朝日新聞の1903年7月26日から8月2日まで内国勧業博覧会の記事を確認してみるが、“親子丼”の記事はなし。
“鳥菊”で検索すると、明治18年(1885)6月13日大阪朝刊4頁に広告「鳥菊 近火御見舞御礼」などが見つかる。
親子丼についてはなし。
“親子”ד丼”で検索すると、明治17年(1884)の神戸元町の「江戸幸」の広告に
「親子上丼」「親子並丼」「親子中丼」の名称あり。
・商用データベース「ヨミダス歴史館」(読売新聞記事)
関連の記述見つからず。
6.大阪市史編纂所にお尋ね
“第五回内国勧業博覧会”の出店記録は資料としてあるだろうが、“親子丼”を販売していた等の記録はないと思われ、見聞記や新聞記事等に記述が見つかる可能性を示唆された。
7.第五回内国勧業博覧会関係資料を調査
回答記載の資料に関連する記述を確認。
8.国立国会図書館 近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/index.html (2011.3.7確認)
第五回内国勧業博覧会関係で、当館の所蔵していないものを確認。
『第五回内国勧業博覧会報告書』(大阪市商工課, 明37.5)http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801969/44 (2011.3.7確認)
「博覧会ト飲食店」の項目に、鳥菊・内本満助の記述あるが、親子丼の記述はなし。(p.80.81)
事前調査事項:『日本史「はじめて」事典』(PHP研究所,2009.3)に鳥菊の主人・内本松次郎の名あり。(p.97)
参考資料:『博覧会』博文館,1903,
参考資料:『博覧会土産 大阪及び附近の名所案内』山下 雨之助/編 岡本偉業舘,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会場内観覧案内』山田 鎗之助/著 大阪製本印刷,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会場全図』博文館,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会案内記』井上 熊次郎/編纂 考文社,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会報告書』(大阪市商工課, 明37.5)
国立国会図書館近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801969/44 (2011.3.7確認),
寄与者:大阪市史編纂所http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2011.3.7確認)
(2011/03/19 10:29)
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生島永太郎(いくしま えいたろう)について知りたい。明治の終わりから戦前ぐらいまでの大阪商人(久太郎町)。 甲南小学校の設立者の一人で、明治45年に大阪保誉院を作った人。父は生島嘉蔵(かぞう)。(大阪市立中央図書館)
生島永太郎は、明治7年11月生。生島家では、代々嘉蔵を襲名している模様。下記の資料をご紹介した。
1.『社団法人大阪保誉院記念帳』(大阪保誉院清算事務所,1935.7)
「起源及沿革」ほかに記載あり。生島永太郎(嘉蔵)の表記が多数。
2.『大阪府社会事業史』(大阪社会福祉協議会,1958)
生嶋永太郎を中心に組織された辰巳会によって廃兵の収容所として明治45年泉北郡三宝村に開設(p270)
3.『甲南学園50年史』 (甲南学園,1971.3) 『甲南学園の70年』 (甲南学園,1992)
甲南小学校の創立事務に当たった11人の中に名前あり。
4.『大阪人名資料事典 第1巻』 日本図書センター,2003.5
「大阪現代人名辞書 1」(復刻 初版:文明社 大正2年刊)
生島嘉蔵 安政3年(1856)1月25日生まれ。長男永太郎(明治7年11月生)とあり。 (p69)
回答プロセス:1.当館所蔵を検索
“生島永太郎”では該当なし。
2.商用データベースで調査
商用データベース「ジャパンナレッジ」 該当なし
商用データベース「e-レファレンス/ツール」 生島嘉蔵(いくしまかぞう)はあり。
「文政4(1821)年~明治32(1899)年7月2日 江戸時代末期・明治期の商人、貿易商。貿易業に従事、唐反物を取り扱う。【掲載事典】◎「幕末維新人名事典」
永太郎の祖父にあたるのか?
3.中之島図書館「大阪文献データベース」を調査
該当無し。
4.『新修大阪市史』索引になし。
5.大阪保誉院関連の資料を調査
『社団法人大阪保誉院記念帳』(大阪保誉院清算事務所,1935.7)に記載あり。
『大阪府社会事業史』(大阪社会福祉協議会,1958)
生嶋永太郎を中心に組織された辰巳会によって廃兵の収容所として明治45年泉北郡三宝村に開設(p270)
6.甲南学園関係資料を調査
『甲南学園50年史』 (甲南学園,1971.3)
甲南小学校の創立事務に当たった11人の中に名前あり(p4)。
『甲南学園の70年』 (甲南学園,1992)
甲南小学校の創立事務に当たった11人の中に名前あり(p18)
7.大阪関係の人物事典を調査
『都道府県別資産家地主総覧 大阪編 1 復刻』渋谷 隆一/編 日本図書センター,1991.2
大阪市商工業者資産録(商業興信所編 1902(明治35)年刊)
生島嘉蔵 安政3年(1856)1月生まれとあり。職業欄は空欄。
『明治大正昭和大阪人名録 上巻』 (日本図書センター,1989.10)
「日本紳士録」(交詢社 明治43年刊)の復刻)に、生島嘉蔵あり。住所と所得税・電話の掲載(p20)
『大阪人名資料事典 第1巻』 日本図書センター,2003.5
「大阪現代人名辞書 1」(復刻 初版:文明社 大正2年刊)
生島嘉蔵 安政3年(1856)1月25日生まれ。長男永太郎(明治7年11月生)とあり。 (p69)
『大阪人物辞典』 (三善 貞司/編 清文堂出版,2000.11)
生島嘉蔵 文政4(1821)年 (p62) 「幕末維新人名事典」掲載と同人物
『日本人物情報大系 32 企業家編 2』(皓星社,2000.3)
生島嘉蔵のみ。
下記には記載無し。
『明治大正昭和大阪人名録 中巻』 (日本図書センター,1989.10)
「日本紳士録」(交詢社 大正14年刊)の復刻
『明治大正昭和大阪人名録 下巻』(日本図書センター,1989.10)
「日本紳士録」(交詢社 昭和11年刊の復刻)
『大阪新人大観』(升谷 天惠/著 大阪新人大観編纂局,1925)
『大阪新人物誌』(夕刊大阪新聞社,1934.6)
『大阪の公人 : 付・連合区制の小史』 (山本 桃洲/著 大阪の公人刊行事務所,1916.4)
8.近代デジタルライブラリーで調査
『明治富豪譚』(大阪毎日新聞社 明治25.9)「生島嘉蔵乗車賃を二銭に限る」
『当世名士譚』(米倉領次郎,明25.10)「生島嘉蔵の質朴」
年代からして、永太郎の父のことか。
9.大阪市史編纂所におたずね
有用な情報なしとのこと。
参考資料:『社団法人大阪保誉院記念帳』大阪保誉院清算事務所,1935.7,
参考資料:『大阪府社会事業史』大阪社会福祉協議会,1958,
参考資料:『甲南学園50年史』 甲南学園50年史出版委員会/編 甲南学園,1971.3,
参考資料:『甲南学園の70年』 甲南学園史資料室委員会/編集 甲南学園,1992,
参考資料:『都道府県別資産家地主総覧 大阪編 1 復刻』渋谷 隆一/編 日本図書センター,1991.2 ISBN 4-8205-5416-6,
参考資料:『明治大正昭和大阪人名録 上巻』 日本図書センター,1989.10 ISBN 4-8205-2058-X,
参考資料:『大阪人名資料事典 第1巻』 日本図書センター,2003.5 「大阪現代人名辞書 1」文明社/編纂 復刻 初版:文明社 大正2年刊 ISBN 4-8205-9966-6 ,
参考資料:『大阪人物辞典』 三善 貞司/編 清文堂出版,2000.11 ISBN 4-7924-0499-1,
寄与者:大阪市史編纂所 http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2010.1.23確認)
備考:商用データベース「e-レファレンス/ツール」は、2010年6月から「e-レファレンス・ライブラリー」(日外 人物・出版情報) に変更。
(2010/12/13 19:38)
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