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大阪関連:新着5件
サイト名
レファレンス協同データベース
サイトの説明
レファレンス協同データベース検索APIによる検索結果です。
サイトURL
https://crd.ndl.go.jp/
大阪の蒲生四丁目と生駒の辻ICを繋ぐ「大阪府道・奈良県道8号大阪生駒線(俗に言う阪奈道路)」について調べている。詳しい資料(郷土資料など)、奈良県・生駒市・奈良市議会会議録、地元の新聞記事、雑誌があれば教えて欲しい。(新聞記事の場合は検索キーワードも。) 知りたいことは以下の点である。 ・阪奈道路(旧有料道路区間・奈良方面)が建設された経緯 ・その後、阪奈道路(旧有料道路区間・大阪方面)が増設された経緯 ・阪奈道路と、その旧道で起きた事故、暴走族の話(奈良県立図書情報館)
・『奈良市史,地理編』、1970 のp.294や『奈良県政七十年史』奈良県、1962 のp.749には、この道路がまず1955年10月(8日)に県によって着手され、翌年道路公団に引き継がれた、開通は1959年6月(9日)としているとあります。
となれば、昭和29年度末または昭和30年度のいずれかの奈良県議会にて予算化されているはずと考えたのですが、当館における、この時期の『奈良県議会会議録』の所蔵状況は非常に悪く、昭和30年6月の定例会のものしか残っていません。
6月定例会のものを確認しましたが、提出された追加予算案は阪奈道路のものではございませんでした。
また、奈良市議会・生駒市議会の議事録はごく近年のものしか当館に所蔵がなく、奈良市や生駒市の図書館の所蔵を確認してもこの時期のものは所蔵(あるいは刊行そのもの)がないようです。
・『日本道路公団年報 : 事業の概要と道路統計』の一番古い昭和31年4月-33年3月版は、阪奈道路について「大阪市と奈良市を密接に結ぶ道路は、現在国道25号だけで、年々増加する交通量により交通は飽和状態に達しており、また同国道は距離的にも大きく迂回しているので、最短距離を結ぶ道路を新設し、交通需要に対処しようとするものである。」としています。
また、運輸大臣の許可日が昭和30年10月8日、公団引継日が昭和31年7月1日としています。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1383691/1/66(最終確認日 2023/6/18)
なお、『日本道路公団二十年史』1976 や『日本道路公団三十年史』1986 を当館で所蔵はしているものの、公団の組織や技術史が中心で阪奈道路自体を個別に取り上げた箇所はありません。
・県が着手日とし、公団の年報には大臣の許可日という1955年10月8日周辺の朝日新聞奈良版を確認しましたが、関連する記事はありませんでした。
一方、開通式の1964年6月9日については、朝日・読売とも記事にしており、特に6月10日付読売には、式典に出席した奈良県の奥田知事が大阪府知事に持ち掛け、「両府県共同事業として三十一年一月スタートを切った」とあります。他の記事でも1956(昭和31)1月に着工等の表現が見えます。また、生駒ジャンクション以西つまり、大阪側については前年12月25日に先立って開通していた、という表記もあります。
・奥田知事の名が見えたので、奥田良三の回顧録『燦々菁々滾々 : 私の県政史 』ぎょうせい、1980 を確認すると、p.82~86におおむね次のような記載がありました。
奥田は奈良・大阪間を直線的に結ぶ必要性を痛感しており、内務省の友人であった赤間大阪府知事の賛成を得、戸塚九一郎建設相に働きかけた。道路整備特別措置法で有料道路を整備する道が開けたため、両府県で政府資金を借りて通行料で償還する計画で工事を始めたが、当初構想の縮小や日本道路公団発足に伴う公団への工事引継ぎは残念だった、といった内容です。
・以上で確認したとおり、阪奈道路はまず奈良方面が建設され、その後大阪方面に増設されたわけではなく、むしろ開通は大阪方面が先ですが、基本的には奈良‐大阪間を結ぶものとして一体的に計画、建設されたもののようです。
但し『大東市史』近現代編、1980 のp.406には、「(阪奈道路は)利用者が多く交通量が多いため、降り線は龍間より分離し中垣内に出る道が昭和四十五年三月三十一日に完成した」とあります。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_entry&id=1000334699(最終確認日 2023/6/18)
・なお「事故や暴走族の話」については、「阪奈有料道路」といった表記もあるため「阪奈」かつ「暴走族」または「事故」で検索しました(もちろんこの方法だと対象外の第二阪奈道路、南阪奈道路も含まれます)。まずは、各紙DBでの検索結果と目立った記事は以下の通りです。
■毎日新聞「毎索」
「阪奈」かつ「事故」1990年以降の48件がヒット
奈良・阪奈道路で5台玉突き、7人死傷 毎日新聞 1990.10.31 大阪夕刊 15頁 社会 (全313字)
阪奈道路でワゴン車衝突、3人死亡--奈良 毎日新聞 1993.06.23 大阪夕刊 9頁 社会 (全310字)
阪奈道路で事故 1人死亡、6人けが--大阪・大東市 毎日新聞 1996.10.19 大阪朝刊 31頁 社会 (全219字)
交通事故:トラック3台が二重追突、1人が死亡--生駒の阪奈道で /奈良 毎日新聞 2005.05.27 地方版/奈良 23頁 (全423字)
交通事故:ガードレールに車衝突、4人死傷--東大阪の阪奈道路 毎日新聞 2013.08.28 大阪夕刊 8頁 社会面 (全346字)
東大阪・阪奈道死傷事故:「ドリフト」原因 危険運転の疑い、書類送検 毎日新聞 2014.07.17 大阪夕刊 10頁 社会面 (全301字)
東大阪のドリフト死傷:懲役4年判決 地裁 毎日新聞 2016.05.24 大阪朝刊 28頁 総合面 (全294字)
「阪奈」かつ「暴走族」1993年以降の4件がヒット
阪奈道路、暴走族400台集結の日も--大阪府警 毎日新聞 1993.07.25 大阪朝刊 25頁 社会 (全444字)
暴走族にも“IT革命” インターネット上で仲間を募集 大阪府警、一斉検挙 毎日新聞 2000.08.21 大阪朝刊 26頁 社会 (全906字)
朝日新聞(クロスサーチ)
「阪奈」かつ「暴走族」 1989-1992の7件がヒット
阪奈道路で「サングラスカー」一掃指導 法改正控え測定器で【大阪】1989年05月28日 朝刊 1社
阪奈道路から暴走族消える はやし立て族に目隠しフェンス 【大阪】1989年10月08日 朝刊 1社
「阪奈」かつ「事故」 1988年以降の126件がヒット 但しノイズ多めです
1989年05月23日 夕刊 1社 015ページ 00309文字 重体の男性死亡 阪奈道路の暴走族事故で 【大阪】
1989年05月24日 夕刊 2社 014ページ 00122文字 死者2人に 東大阪・阪奈道路の暴走事故 【大阪】
以降は毎日と同じ事故を扱った記事が増えます。
■読売新聞「ヨミダス」
「阪奈」かつ「暴走族」 1992年以降の7件がヒット 但し阪奈道路を主対象とした記事は見当たりませんでした。
「阪奈」かつ「事故」 1990年以降76件がヒット
以上のように各紙のDBは、現段階では大阪本社版社会面レベルですと、おおむねおしなべて1990年以降のものしかキーワード検索の対象になっていないようです。
回答プロセス:『奈良市史,地理編』 p.294 阪奈道路(県道奈良生駒線)は…国道25号線のみでは対応しきれないし、またなるべく直線的に奈良・大阪を結ぶ目的で計画した近代的高速道路である。[1952から計画、1955.10県が着工、翌年道路公団が引き継ぐ、1959.6有料道路として開通]
ウィキペディア
81.12.25無料化/第二阪奈は86着工/
同書の次回昭和33年4月-34年12月版(1960.4発行)ですと、
阪奈道路は大東市-奈良市間17.879
https://dl.ndl.go.jp/pid/1383692/1/42(最終確認日 2023/6/18)
また、
■朝日
阪奈 事故
・13台玉突き、4人死傷 阪奈道路の下り急カーブ 【大阪】
1996年10月19日 朝刊 1社
阪奈 暴走族
・1989年10月08日 朝刊 1社 027ページ 01339文字 写真図表有
阪奈道路から暴走族消える はやし立て族に目隠しフェンス 【大阪】
・1989年05月28日 朝刊 1社 027ページ 00490文字 写真図表有
阪奈道路で「サングラスカー」一掃指導 法改正控え測定器で【大阪】
・1989年05月24日 夕刊 2社 014ページ 00122文字
死者2人に 東大阪・阪奈道路の暴走事故 【大阪】
・1989年05月23日 夕刊 1社 015ページ 00309文字
重体の男性死亡 阪奈道路の暴走族事故で 【大阪】
・1989年05月22日 朝刊 1社 027ページ 00220文字
暴走族、7人はねる 深夜の阪奈道路で見物の列に突っ込む 【大阪】
■毎日
1 暴走族:衰退、2割減でピーク後最少 成人47%、高齢化も--昨年 阪奈の工事に触れる
毎日新聞 2006.01.26 東京夕刊 10頁 社会 (全433字)
2 信貴生駒スカイライン騒音訴訟:暴走騒音、管理者も責任 近鉄に賠償命令--大阪地裁 ※阪奈関係薄し
毎日新聞 2005.04.22 大阪朝刊 27頁 社会 (全1,084字)
3 暴走族にも“IT革命” インターネット上で仲間を募集 大阪府警、一斉検挙 ※阪奈道路での取り締まり状況
毎日新聞 2000.08.21 大阪朝刊 26頁 社会 (全906字)
4 阪奈道路、暴走族400台集結の日も--大阪府警
毎日新聞 1993.07.25 大阪朝刊 25頁 社会 (全444字)
(いずれも最終確認日 2023/6/18)
事前調査事項:関係しそうなインターネット資料は以下。ただし、参考文献に記載の資料は読んでいない為、所蔵がある場合は関係するページを教えて欲しいい。
・国会図書館デジタルコレクション 交通科学 = Traffic science 15(2) 1986-02大阪生駒線交通安全施設等に伴う事故防止対策(要約)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2833324/1/21
・国会図書館デジタルコレクション 生産と技術 = Manufacturing & technology 11(1) 1959-03 阪奈道路の概要
https://dl.ndl.go.jp/pid/3217339/1/8
・Wikipedia阪奈道路
・Wikipedia大阪府道・奈良県道8号大阪生駒線
・Wikipedia大阪府道・奈良県道701号中垣内南田原線
・Wikipedia古堤街道
・奈良県立図書館情報館 阪奈道路 https://onl.la/xmVAnhk
・みんから【大阪】 走り屋伝説 ・ 阪奈道路編 https://onl.la/DrDb1En
参考資料:奈良市史編集審議会 編 , 奈良市. 奈良市史 地理編. 奈良市, 1970.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001211611-00,
参考資料:奈良県. 奈良県政七十年史. 奈良県, 1962.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001036253-00,
参考資料:日本道路公団. 日本道路公団年報 : 事業の概要と道路統計 昭和31年4月-33年3月. 日本道路公団, 1958.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000817819-00,
参考資料:奥田良三 著 , 奥田, 良三, 1903-1989. 燦々菁々滾々 : 私の県政史. ぎょうせい, 1980.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001484985-00,
参考資料:大東市教育委員会 編 , 大東市教育委員会. 大東市史 近現代編. 大東市教育委員会, 1980.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I002640606-00,
(2023/09/30 11:05)
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ブギの女王・笠置シヅ子が大阪市大正区の小学校の出身で、実家の銭湯または小学校を会場としてコンサートを開いたというのは本当か?(大阪市立中央図書館)
(1)『ブギの女王・笠置シヅ子 : 心ズキズキワクワクああしんど』(砂古口早苗/著 現代書館 2010.10)
「第一章 「ようしゃべるおなごやな」-讃岐生れで大阪育ち-」のp.22-27「少女歌劇に入る」の項、p.23に「一家は一九ニニ年に下福島から中津に引っ越し、静子は曽根崎尋常小学校へ転校。翌ニ三年には十三に引越し、神津尋常小学校に転校。ニ四年に川口へ引越し、本田尋常小学校へ転校。ニ五年、大正区南恩加島へ引っ越し、南恩加島尋常小学校へ転校」とあります。
巻末p.256-266「笠置シヅ子年譜」のp.256に「一九ニ七(昭和二) [年齢]十三 三月、大阪市大正区南恩加島尋常小学校卒業」とあります。
また、銭湯での記述もあり、上述p.23に「幼少期から風呂屋の脱衣場を舞台に踊りや歌を披露したのが近所の評判となり、小屋掛けの浪曲劇団に見込まれて子役の初舞台を踏んだこともある静子は」とあります。
(2) 国立国会図書館デジタルコレクション『歌う自画像 : 私のブギウギ傳記』(笠置シズ子/著 北斗出版社 1948) (図書館・個人送信限定) https://dl.ndl.go.jp/pid/10297075/1/30 (2023.9.25確認)
「青春押切り帳 大阪から東京への」の章、p.41-46(コマ番号30-33)「灯影を求めて」のp.41(コマ番号30)に「私は(中略)下福島尋常小学校に入学しました。二年生になると自宅が引越したので(中略)曽根崎尋常小学校に転校し、更らに三年生の時、十三へ引越し神津尋常小学校に転校、四年生で川口へ移つて本田尋常小学校に転校、五年生で南恩加島小学校に移り、こゝで卒業までを送りました」とあります。
p.42(コマ番号31)に「一体に芸ごとが好きで、浴客の脱衣場を舞台にいつも歌ったり踊ったりしていたので界隈の評判となり、十三にいたころ小屋掛けの浪花節芝居に懇望されて子役に出たこともあったほどです」とあります。
以下の資料には、「歌った」等の記述はありませんが、実家の銭湯での幼少期に触れた記述がありましたので、参考までご紹介します。
(3) 国立国会図書館デジタルコレクション『芸人』(秦豊吉/著 鱒書房 1953) (図書館・個人送信限定)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2462456/1/48 (2023.9.25確認)
p.86-89(コマ番号48-49)「笠置シヅ子」の項があり、p.87(コマ番号48)に「まず小さな時は、銭湯の番台に座って」、「お風呂屋さんで、拍子木を打ち、湯札を売り、シャボンを預るのに退屈して、大阪松竹少女歌劇に応募して入つた」とあります。
<2023年9月25日追記>
(4) 『昭和ブギウギ -笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲-』(NHK出版新書 703) (輪島 裕介/著 NHK出版 2023.8)
「第一章 「歌う女優」誕生~大阪時代の笠置シヅ子」のp.18-「「流行歌」と「少女歌劇」」の節にて、資料(2)の自伝の上記箇所が引用され、銭湯との関わりについて述べられています。
p.22「巷で人々が歌い踊る芸、つまり歌舞音曲を通して、彼女の基本的な感受性が培われ、また日常的に自ら歌い踊っていた。そのことの意味を考える上で、実家が銭湯だったことは極めて重要だ。」、p.23「大都市の銭湯は、多様な人々が日常的に行き来する場であり、出身地も生業も異なる人々が行き交う中で、さまざまな音曲の交換が起こっていただろう。」などと記述されています。
また「笠置は小学校卒業前後の時期を沖縄系移住者のコミュニティの中心となった大正区・南恩加島で過ごしており」ともあります。
回答プロセス:1. 当館蔵書検索システムにて、件名を “笠置シヅ子”で検索、資料(1)が見つかる。
2.「国立国会図書館デジタルコレクション」にて、タイトル、著者を「笠置シズ子」で検索。著者「笠置シズ子」で資料(2)が見つかる。
3.「国立国会図書館デジタルコレクション」にてキーワード“笠置シズ子 銭湯”で検索、 (3)が見つかる。
4.2023年9月に再度、当館蔵書検索システムにて、件名を “笠置シヅ子”で検索、資料(4)が見つかる。
参考資料:当館書誌ID ブギの女王・笠置シヅ子 -心ズキズキワクワクああしんど- 砂古口 早苗/著 現代書館 2010.10 978-4-7684-5640-8 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 昭和ブギウギ -笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲-(NHK出版新書 703) 輪島 裕介/著 NHK出版 2023.8 978-4-14-088703-5 資料(4),
参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション『歌う自画像 : 私のブギウギ傳記』(笠置シズ子/著 北斗出版社 1948) (図書館・個人送信限定) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10297075 (2023.9.25確認) 資料(2),
参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション『芸人』(秦豊吉/著 鱒書房 1953) (図書館・個人送信限定) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2462456 (2023.9.25確認) 資料(3),
(2023/09/28 15:31)
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昔、大阪府堺市美原区で新聞記事に載るほど大きな災害が起こったと聞いた。 小学校の災害学習で紹介するため、西除川等、美原で起こった水害の資料が欲しい。 子どもたちに防災意識を持ってもらい、災害を身近に感じられるようにしたい。(堺市立中央図書館)
①大阪府公式ホームページの「災害写真館」にて「平成19年7月16日から17日 集中豪雨による河川被害」・「昭和57年8月1日から3日の豪雨による被害」と記載があり、西除川が被害を受けたことがわかる写真が掲載されている。
「ヨミダス歴史館【読売】」・「毎日新聞社のデータベース「毎索」」・「朝日新聞記事データベース 聞蔵Ⅱ」等、複数の新聞データベースにて「美原」・「川」、「美原」・「西除川」等、美原をキーワードに検索したが、見つけられず。
②中央図書館の地域資料担当者の協力を求めた。
・『堺市地域防災計画 平成22年9月 資料編』
災害事例(220p~)として堺市で起こった災害の日付と被害状況が記載されていた。
大阪府公式HPに記載されていた日付である「昭和57年8月1日」に「台風10号」、「昭和57年8月3日」に「豪雨」、「平成19年7月16日」に「豪雨」と記載。
・「産経新聞」(平成19年7月18日朝刊)
「堺の大雨被害 床下浸水22カ所」というタイトルで、「床上浸水は南区の一戸、床下浸水は東区9戸、南区10戸、西区と美原区で各工場一カ所の計21カ所。中、東、美原各区では一部で道路冠水各一カ所があった。」と記載。
以上の二点を提供していただき、平成19年7月16日に豪雨があり、美原区に被害があったことが分かった。
③複数の新聞データベースで平成19年7月16日から近日を指定して検索。
「産経新聞」(平成19年7月17日朝刊)、(産経新聞データベース)にて、
「堺市美原区ではプラスチック工場の敷地内に水路から氾濫(はんらん)しているのが確認された。」②でいただいた記事の美原区の詳細が記載された記事が見つかった。
④『わたしたちのみはら 改訂』p110にて「洪水のひがい」という題で、「昭和57年(1982年)8月の台風10号によるひがいを伝えたもの」として新聞記事が小さく掲載されていた。「大雨のため狭山池の水が一度流れ出した」・「西除川の水は大和川に流れこんでいますが、あまりにもたくさんの水が一度に流れたため、逆流し松原市が洪水」と記載。「昭和57年8月1日」に何が起こったのかわかりやすく記載されてしていた。
⑤同じように「昭和57年8月1日」から新聞データベースで近日の新聞を日付検索した。
「朝日新聞 1982年8月3日夕刊」(「朝日新聞記事データベース 聞蔵Ⅱ」より)にて③に掲載されていたと思われる記事が見つかったものの、美原の被害は掲載なし。当時の被害についてふれられていた。他、「読売新聞 1982年8月4日」、昭和の地域記事紙面の「読売新聞 1982年8月4日」堺版・市内版・河内版(「ヨミダス歴史館」より)を確認したところ、「美原」記載なし。被害状況はそれぞれ説明されていた。
⑥美原区に詳しい職員の方にも聞いたところ、『広報みはら』という美原町の広報誌があり、そこに詳細が載っている可能性がるとご助言いただいた。
「広報みはら」の縮刷版があり、調べてみたところ、
『広報みはら縮刷版 第2巻』のp12・p355に「昭和57年8月1日」の「台風10号」について町内で被害があった旨の記載があった。
(美原図書館)
参考資料:美原町教育委員会社会科副読本改訂委員会/編 , 美原町教育委員会社会科副読本改訂委員会 , 美原町教育委員会. わたしたちのみはら 改訂. 美原町教育委員会, 2003-04.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I084373532-00,
参考資料:堺市危機管理室/編集 , 堺市危機管理室. 堺市地域防災計画 : 資料編 平成22年9月. 堺市防災会議, 2010-09.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I084669849-00,
参考資料:総務部企画課/編集 , 総務部企画課 , 美原町. 広報みはら縮刷版 第2巻. 美原町, 1992-03.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I083999833-00,
参考資料:大阪府公式HP「災害写真館」.
https://www.pref.osaka.lg.jp/tondo/kakosaigai/index.html, (2023年7月17日確認)
(2023/09/23 14:09)
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1970年大阪万博のパビリオン「カンボジア館」の写真や概要が載っている本はあるか。あわせて、同館が万博終了後に神戸に移設されたと聞いたがその経緯や費用がわかるもの、またその理由は各パビリオンは会期終了後6か月以内に撤去しなければならなかったためということだが、この詳細がわかるものも希望。(豊中市立図書館)
大阪万博関連の所蔵資料およびオンラインデータベース「ヨミダス歴史館」「朝日クロスサーチ」「日経テレコン21」を調べ、内容を確認。
カンボジア館の写真や概要については下記に記載あり。
『日本万国博覧会 下巻』(国際情報社)p.120
『日本万国博覧会記念写真集』(万国博グラフ社)pp.158-159
『日本万国博覧会公式記録 第1巻』(日本万国博覧会記念協会)p.77, p.112, p.164, pp.332-333
神戸への移設については、費用について書かれた資料は発見できなかったが、経緯について書かれた以下の資料を紹介した。
『日本万国博覧会公式記録 第1巻』(日本万国博覧会記念協会)
p.114「一部の参加者は、展示館を日本の公共団体あるいは民間企業に寄贈、あるいは売却した。」との記述。
p.463「展示館の寄贈・売却の概要(46年12月現在)」一覧に、「展示館:カンボジア館,引取人:興人(株),移設先:兵庫県神戸市兵庫区,用途:興人『山の街団地』集会所」と記載あり。
読売新聞 2016.11.05 大阪朝刊 神戸 25頁
『1970大阪万博 カンボジア館 保存へ 北区の集会所 自治会補修=兵庫』
「神戸市北区広陵町へ移築されたのは71年。周囲を開発した住宅会社が『パビリオンのある街』とPRする目的で集会所として設置し、住民が卓球や舞踊教室を楽しむ場となっていた。」
※神戸市北区は1973年8月に兵庫区から分区。
(https://www.city.kobe.lg.jp/f96104/kuyakusho/kitaku/shoukai/rekishi.html 2023.08.24確認)
また各パビリオンの会期終了後6か月以内の撤去については下記の資料を案内した。
『日本万国博事典』(丸之内リサーチセンター)
pp.149-157「日本万国博覧会一般規則(全文)」の掲載あり。
第24条2項「出品者の施工にかかる建築物および施設は、博覧会閉会後6月以内に撤去し、かつ敷地の現状復旧を行わなければならない。」
『日本万国博覧会公式記録 第3巻』(日本万国博覧会記念協会)p.374
「会期終了後の会場施設の処理については「日本万国博覧会一般規則」「特別規則」「参加契約書」などで(中略)展示館は閉会後6ヶ月以内に(中略)敷地を原状に戻して協会に返還することが義務づけられていた。」
p.375に撤去工事の概要について記載あり。
『日本万国博覧会公式記録 第1巻』(日本万国博覧会記念協会)p.462
「展示館の解体・撤去」について記載あり。
参考資料:『日本万国博覧会記念写真集』(万国博グラフ社),
参考資料:『日本万国博覧会 下巻』徳永 栄一/編(国際情報社),
参考資料:『日本万国博覧会公式記録 第1巻』電通/制作(日本万国博覧会記念協会),
参考資料:『日本万国博覧会公式記録 第3巻』電通/制作(日本万国博覧会記念協会),
参考資料:『日本万国博事典』(丸之内リサーチセンター),
(2023/09/22 16:30)
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平成6年(1994年)9月の伊丹豪雨の際、大阪国際空港(伊丹空港)が冠水した際の写真や資料を探している。できればカラー写真を希望。(豊中市立図書館)
下記の資料を案内した。
『新修豊中市史 第3巻 自然』豊中市史編さん委員会/編集(豊中市、1999)
『阪神・淡路大震災15年』伊丹市立博物館/編集 (伊丹市立博物館、2010 当館未受入資料)
小さいが、伊丹豪雨について書かれた写真と説明あり。
『豊中市市政概要 1995年』(豊中市、当館未受入資料)
小さいが、雨水貯留施設の設置や雨水管の整備を進めることと、柴原町の雨水管線工事の写真が掲載。
また、平成6年当時の下記の新聞には、集中豪雨で浸水した大阪国際空港のカラー写真があり。
毎日新聞:9月7日 空港前の道路が集中豪雨で冠水し、池のようになった写真
朝日新聞:9月7日夕刊 空港ビル地下二階からポンプを使って排出される大量の雨水の写真
産経新聞:9月7日夕刊 集中豪雨で池のように水がたまった大阪空港。写真は地下から水が湧き出ている様子
このほか、上記記事などにモノクロ写真が多数あり。
国立国会図書館デジタルコレクションには、『災害時気象速報 (災害時自然現象報告書』(大阪管区気象台、1994年)に「寒冷前線による平成6年9月6日から7日にかけての大阪府及び兵庫県の大雨」があり、冠水した道路の口絵や降水量、被害状況など記載されていた。
回答プロセス:豊中市立図書館新聞記事検索システムや当時の新聞などを調査。伊丹空港が冠水した様子の記事にカラー写真のものが何点かあり。
大阪国際空港のウェブサイトの集中豪雨対策のページ http://www.kansai-airports.co.jp/efforts/safety/efforts-for-safety/itm/rain.html (2023.8.22確認)には、1994年・1997・1999年にそれぞれ空港ターミナル施設及び空港周辺住宅地が浸水するなど甚大な被害が発生し、これらの浸水被害を軽減するため、雨水貯留管施設を設置したことや雨水貯留管施設について、図や写真などで説明があった。
参考資料:『新修豊中市史 第3巻』豊中市史編さん委員会/編集(豊中市),
(2023/09/22 16:30)
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市立中央郷土関連:トップ5
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レファレンス協同データベース検索APIによる検索結果です。
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ブギの女王・笠置シヅ子が大阪市大正区の小学校の出身で、実家の銭湯または小学校を会場としてコンサートを開いたというのは本当か?(大阪市立中央図書館)
(1)『ブギの女王・笠置シヅ子 : 心ズキズキワクワクああしんど』(砂古口早苗/著 現代書館 2010.10)
「第一章 「ようしゃべるおなごやな」-讃岐生れで大阪育ち-」のp.22-27「少女歌劇に入る」の項、p.23に「一家は一九ニニ年に下福島から中津に引っ越し、静子は曽根崎尋常小学校へ転校。翌ニ三年には十三に引越し、神津尋常小学校に転校。ニ四年に川口へ引越し、本田尋常小学校へ転校。ニ五年、大正区南恩加島へ引っ越し、南恩加島尋常小学校へ転校」とあります。
巻末p.256-266「笠置シヅ子年譜」のp.256に「一九ニ七(昭和二) [年齢]十三 三月、大阪市大正区南恩加島尋常小学校卒業」とあります。
また、銭湯での記述もあり、上述p.23に「幼少期から風呂屋の脱衣場を舞台に踊りや歌を披露したのが近所の評判となり、小屋掛けの浪曲劇団に見込まれて子役の初舞台を踏んだこともある静子は」とあります。
(2) 国立国会図書館デジタルコレクション『歌う自画像 : 私のブギウギ傳記』(笠置シズ子/著 北斗出版社 1948) (図書館・個人送信限定) https://dl.ndl.go.jp/pid/10297075/1/30 (2023.9.25確認)
「青春押切り帳 大阪から東京への」の章、p.41-46(コマ番号30-33)「灯影を求めて」のp.41(コマ番号30)に「私は(中略)下福島尋常小学校に入学しました。二年生になると自宅が引越したので(中略)曽根崎尋常小学校に転校し、更らに三年生の時、十三へ引越し神津尋常小学校に転校、四年生で川口へ移つて本田尋常小学校に転校、五年生で南恩加島小学校に移り、こゝで卒業までを送りました」とあります。
p.42(コマ番号31)に「一体に芸ごとが好きで、浴客の脱衣場を舞台にいつも歌ったり踊ったりしていたので界隈の評判となり、十三にいたころ小屋掛けの浪花節芝居に懇望されて子役に出たこともあったほどです」とあります。
以下の資料には、「歌った」等の記述はありませんが、実家の銭湯での幼少期に触れた記述がありましたので、参考までご紹介します。
(3) 国立国会図書館デジタルコレクション『芸人』(秦豊吉/著 鱒書房 1953) (図書館・個人送信限定)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2462456/1/48 (2023.9.25確認)
p.86-89(コマ番号48-49)「笠置シヅ子」の項があり、p.87(コマ番号48)に「まず小さな時は、銭湯の番台に座って」、「お風呂屋さんで、拍子木を打ち、湯札を売り、シャボンを預るのに退屈して、大阪松竹少女歌劇に応募して入つた」とあります。
<2023年9月25日追記>
(4) 『昭和ブギウギ -笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲-』(NHK出版新書 703) (輪島 裕介/著 NHK出版 2023.8)
「第一章 「歌う女優」誕生~大阪時代の笠置シヅ子」のp.18-「「流行歌」と「少女歌劇」」の節にて、資料(2)の自伝の上記箇所が引用され、銭湯との関わりについて述べられています。
p.22「巷で人々が歌い踊る芸、つまり歌舞音曲を通して、彼女の基本的な感受性が培われ、また日常的に自ら歌い踊っていた。そのことの意味を考える上で、実家が銭湯だったことは極めて重要だ。」、p.23「大都市の銭湯は、多様な人々が日常的に行き来する場であり、出身地も生業も異なる人々が行き交う中で、さまざまな音曲の交換が起こっていただろう。」などと記述されています。
また「笠置は小学校卒業前後の時期を沖縄系移住者のコミュニティの中心となった大正区・南恩加島で過ごしており」ともあります。
回答プロセス:1. 当館蔵書検索システムにて、件名を “笠置シヅ子”で検索、資料(1)が見つかる。
2.「国立国会図書館デジタルコレクション」にて、タイトル、著者を「笠置シズ子」で検索。著者「笠置シズ子」で資料(2)が見つかる。
3.「国立国会図書館デジタルコレクション」にてキーワード“笠置シズ子 銭湯”で検索、 (3)が見つかる。
4.2023年9月に再度、当館蔵書検索システムにて、件名を “笠置シヅ子”で検索、資料(4)が見つかる。
参考資料:当館書誌ID ブギの女王・笠置シヅ子 -心ズキズキワクワクああしんど- 砂古口 早苗/著 現代書館 2010.10 978-4-7684-5640-8 資料(1),
参考資料:当館書誌ID 昭和ブギウギ -笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲-(NHK出版新書 703) 輪島 裕介/著 NHK出版 2023.8 978-4-14-088703-5 資料(4),
参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション『歌う自画像 : 私のブギウギ傳記』(笠置シズ子/著 北斗出版社 1948) (図書館・個人送信限定) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10297075 (2023.9.25確認) 資料(2),
参考資料:国立国会図書館デジタルコレクション『芸人』(秦豊吉/著 鱒書房 1953) (図書館・個人送信限定) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2462456 (2023.9.25確認) 資料(3),
(2023/09/28 15:31)
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重要文化財「吉村家」に関する資料(大阪市立中央図書館)
昭和25年に重要文化財に指定された吉村家は、大阪府羽曳野市にあり、近世初期以来の豪農で、享保13年(1728)以後は、丹北郡18ヵ村の大庄(しょう)屋であった。
建物の構造、解説、写真については
『大阪府の民家 [1] (大阪府文化財調査報告書 第10輯)』(大阪府教育委員会/編 大阪府教育委員会,1960.3)
p.71‐73 附録図版 1、2、3
『大阪府の文化財』(大阪府教育委員会,1962)
p.417 図版86
が詳しい。
吉村家の由緒ならびに旧国宝に指定されたときの調査については
『大阪府の文化財』(大阪府教育委員会,1962)p.511-521において、「国宝吉村邸を語る」と題した松本茂平の講演をまとめたものが参考になる。
『日本の民家 大和・河内』(二川 幸夫/撮影 伊藤 ていじ/文 美術出版社,1957.12)p.9-13
に、吉村邸の細部の写真が掲載されている。
参考資料:『大阪府の民家 [1] (大阪府文化財調査報告書 第10輯)』 大阪府教育委員会/編 大阪府教育委員会,1960.3,
参考資料:『大阪府の文化財』 大阪府教育委員会,1962,
参考資料:『史蹟と史話』 後藤 捷一/編輯 大阪染料商壮年会,1941,
参考資料:『日本の民家 大和・河内』 二川 幸夫/撮影 伊藤 ていじ/文 美術出版社,1957.12,
備考:『昭和40年 大阪市立中央図書館 調査相談の記録3』より作成
(2023/09/14 10:13)
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法善寺横丁にあった「花月亭」について(大阪市立中央図書館)
「15軒あるとは見えぬ法善寺 南北」と川柳によまれたように、浄土宗の天竜山法善寺の境内にあるこの横丁は、
15軒ほどの飲食店と二つの落語の席があった。その一つが、旧名「金沢亭」といった「花月亭」である。
「金沢亭」が吉本興業の「花月亭」に替わったいきさつについては、下記の資料に詳しく書かれている。
『花のれん』(山崎 豊子/著 中央公論社,1958)p.91‐112
『笑説法善寺の人々』(長谷川 幸延/著 東京文芸社,1965)p.192‐205
昭和6年ごろの入場料、観客層については
村島帰之「民衆娯楽の王城「千日前」」『上方 : 郷土研究 第7~12号 』1931年10月号
が詳しく
『大阪風土記 : 大正』(大阪市教育部共同研究会/編 大正大阪風土記刊行会,1926.11)p.295‐296
でも、少しふれている。
参考資料:『花のれん』山崎 豊子/著 中央公論社,1958,
参考資料:『笑説法善寺の人々』 長谷川 幸延/著 東京文芸社,1965,
参考資料:村島帰之「民衆娯楽の王城「千日前」」『上方 : 郷土研究 第7~12号 』1931年10月号,
参考資料:『大阪風土記 : 大正』 大阪市教育部共同研究会/編 大正大阪風土記刊行会,1926.11,
備考:『昭和40年 大阪市立中央図書館 調査相談の記録3』より作成
(2023/09/14 10:11)
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前田屋町および前田屋平助に関する資料(大阪市立中央図書館)
前田屋町については
『大阪府全志 巻之2』(井上 正雄/著 大阪府全志発行所,1922)p.913-915
『西区史 第1巻』(大阪市西区役所/編 大阪市西区役所,1943)p.337-338
『西成郡史』(大阪府西成郡役所/編纂 大阪府西成郡役所,1915)p.249
などの資料に、その土地柄や変遷などを簡単に述べている。
前田屋平助については
「大阪高津新地の人、宝暦7年(1757)尻無川南岸に沿った葭生地を開墾して、前田屋新田を開いた」
ということが、上記資料の前田屋町の説明の中に見える程度で、それ以上詳しい資料は見当たらない。
前田屋町は昭和52年2月1日の住居表示の実施にともない、大阪市西区千代崎3丁目の一部となっている。
参考資料:『大阪府全志 巻之2』 /井上 正雄/著 大阪府全志発行所,1922,
参考資料:『西区史 第1巻』 大阪市西区役所/編 大阪市西区役所,1943,
参考資料:『西成郡史』 大阪府西成郡役所/編纂 大阪府西成郡役所,1915,
備考:『昭和41年 大阪市立中央図書館 調査相談の記録4』より作成
(2023/09/14 10:10)
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梅田新道、心斎橋界わいの今昔について(昭和40年ごろと昔)(大阪市立中央図書館)
明治36年にできた梅田新道の今昔については
『キタ : 中之島・堂島・曽根崎・梅田(風土記大阪 第2集)』(宮本 又次/著 ミネルヴァ書房,1964.4)p.277-281
「大阪百景 (60) 梅田新道」『朝日新聞』昭和41年11月7日付
牧村史陽「浪速から大阪へ」『大阪人 12巻1号~12号』1958年7月号
などが参考になる。
また梅田新道ができる以前の付近の模様は
日垣明貴「梅田新道筋の昔語り」『上方 : 郷土研究 第49~54号』 51号 1935年3月号
に絵入りで述べられている。
古くから小売街として、にぎわってきた心斎橋については
牧村史陽「浪速から大阪へ」『大阪人 17巻1~12号』1963年4月~9月号
に時代を追ってくわしく書かれている。
『浪速叢書 第8 摂津名所図会大成 其2』(船越 政一郎/編纂校訂 浪速叢書刊行会,1928)p.36-43に収録された「摂津名所図会大成 巻之13下」には、江戸時代の心斎橋筋の夜店、本屋などが描かれ、そのにぎわいがしるされている。
明治、大正、昭和初期の心斎橋筋の模様については
岡島真蔵「明治時代の心斎橋筋の本屋」『上方 : 郷土研究 第49~54号』50号 1935年2月号
『大阪風土記 : 大正』(大阪市教育部共同研究会/編 大正大阪風土記刊行会,1926.11)
『大阪案内 2版』(東出 清光/著 「大阪之商品」編輯部,1936.1)p.131-135
などで知ることができる。
その他、参考になる資料としては
『船場』(宮本 又次/著 ミネルヴァ書房,1960)p.429-434
「大阪百景 (43) 心斎橋筋」『朝日新聞』昭和41年10月11日付
『大阪史話 : 近代化うら話』(朝日放送/編 創元社,1965)p.55-59
などがある。
参考資料:『キタ : 中之島・堂島・曽根崎・梅田(風土記大阪 第2集)』 宮本 又次/著 ミネルヴァ書房,1964.4,
参考資料:「大阪百景 (60) 梅田新道」『朝日新聞』昭和41年11月7日付,
参考資料:牧村史陽「浪速から大阪へ」『大阪人 12巻1号~12号』1958年7月号,
参考資料:日垣明貴「梅田新道筋の昔語り」『上方 : 郷土研究 第49~54号』 51号 1935年3月号,
参考資料:牧村史陽「浪速から大阪へ」『大阪人 17巻1~12号』1963年4月~9月号,
参考資料:『浪速叢書 第8 摂津名所図会大成 其2』 船越 政一郎/編纂校訂 浪速叢書刊行会,1928,
参考資料:岡島真蔵「明治時代の心斎橋筋の本屋」『上方 : 郷土研究 第49~54号』50号 1935年2月号 ,
参考資料:『大阪風土記 : 大正』 大阪市教育部共同研究会/編 大正大阪風土記刊行会,1926.11,
参考資料:『大阪案内 2版』 東出 清光/著 「大阪之商品」編輯部,1936.1,
参考資料:『船場』 宮本 又次/著 ミネルヴァ書房,1960,
参考資料:「大阪百景 (43) 心斎橋筋」『朝日新聞』昭和41年10月11日付,
参考資料:『大阪史話 : 近代化うら話』 朝日放送/編 創元社,1965,
備考:『昭和41年 大阪市立中央図書館 調査相談の記録4』より作成
(2023/09/14 10:10)
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編纂所が調査に関わったもの
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レファレンス協同データベース
サイトの説明
レファレンス協同データベース検索APIによる検索結果です。
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https://crd.ndl.go.jp/
大阪市浪速区幸町にある安政の地震津波碑の碑文全文を知りたい。(大阪市立中央図書館)
安政の地震津波とは、嘉永7年(安政元年・1854年)11月4・5日に大阪を襲った紀伊半島沖に震源をもつ推定マグニチュード8.4の大地震と、それに伴って起きた大津波のことです。
その状況を記録し、後世の人のために戒めを伝える目的で安政2年7月に、被害の甚大だった浪速区幸町五丁目大正橋の東詰に石碑が建立されました。
そこには、大地震が起きた場合には必ず津波が襲うものと心得るべきだと教訓が書かれています。
・小田康徳「大阪における安政の地震津波碑と震災の記憶について」『ヒストリア』第148号(p.91~95)
碑文の原文全文が掲載されています。
ただし、「この文章はこの石碑から直に写したものではなく、浪速区幸町三丁目居住増井健蔵氏所収の木版刷にもとづくもので、若干の異同がある。」と記述されています。
・『大正大阪風土記』訂正(大阪教育部共同研究会/編 大正大阪風土記刊行会,1927)
「津波の碑」の項(p.327~328)にも碑文の原文の掲載がありますが、石碑の背面と右面の碑文のみです。
また、『ヒストリア』掲載のものと、句読点やかな使いに若干の異同がありますが、こちらが石碑から直に写したものかどうかは明らかにされていません。
・浪速区役所ホームページ http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000848.html (2011.3.23確認)
「区のスポット・名所・旧跡」として「安政大津波記念」の碑が取り上げられています。
そこでは、碑に隣接して設置された記念碑に碑文の原文と共に現代語訳が記されているとした上で、現代語文を紹介しています。
2011年8月、大阪市史編纂所より、碑文に関する参考資料として以下のものが最適という情報をいただきました。
・『水都大坂を襲った津波 : 石碑は次の南海地震津波を警告している。』( 長尾 武/著・発行 改訂版 2007)
p.14~16に碑文の全文が記載されています。
参考資料:小田康徳「大阪における安政の地震津波碑と震災の記憶について」『ヒストリア』第148号 大阪歴史学会 1995.9 ,
参考資料:『大正大阪風土記』訂正 大阪市教育部共同研究会編 大正大阪風土記刊行会 1927,
参考資料:浪速区役所ホームページ>区内の官公署、主な施設、名所旧跡等>名所・旧跡等>区のスポット・名所・旧跡>碑>「安政大津波」の碑
http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000848.html (2011.3.23確認),
参考資料:『水都大坂を襲った津波: 石碑は次の南海地震津波を警告している。』 長尾 武著・発行 改訂版 2007.2,
寄与者:大阪市史編纂所
備考:大阪市立図書館webギャラリー「大阪の災害 ~江戸・明治期にかけて~」http://www.oml.city.osaka.jp/image/themes/theme569.html (2011.3.23確認)、
小展示「幕末の大坂を襲った大地震と大津波」(平成16年12月 大阪府立中之島図書館作成)
http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/63_jisin.html (2011.3.23確認)もご参照ください。
(2012/04/17 14:41)
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大阪上本町の近鉄百貨店辺りにあった「梅屋敷」についての資料はないか?(大阪市立中央図書館)
「東都亀戸の梅屋敷を模して、文化年間に造ったもの~生玉馬場の東(現在の上本町六・七丁目辺)にあり、園中に梅を植え、樹下に席を設け~秋には菊観で賑わった~。~日露開戦の一二年後には、山口銀行主の山口吉郎右衛門氏本邸となり、大正期には忘れさられてしまった。」
(「翻刻『梅屋敷の記- 一名 このはな』」『大阪府立図書館紀要』第37号 2008より)
『浪華の賑ひ』 (鶏鳴舎暁晴/編輯 ; 松川 半山/画図 中外書房,1975|安政2年版の複製)26丁に”梅屋敷”についての記述がある。
その他は以下のとおり。
・『浪速叢書 第7 摂津名所図会大成 其1』 (船越 政一郎/編 暁 鐘成/著 名著出版,1978)p277~278
・『大阪府全志 巻之2』(井上 正雄/著 清文堂,1985|大正11年刊の復刻)p764
・『上方』 26 表紙 193302 /『上方』 30 「三十年前の大阪東部」寺川信 p33-34、35 193306
※ 『上方 郷土研究 3(上) 自第二十五号(昭和八年一月)至第三十号(昭和八年六月)』(上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969)所収
・『天王寺区史』 (川端 直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会,1955.10) p84、406
・徳永慶太郎「七十年前の上六」『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業と 阿倍野・住吉・天王寺 特集』25号 第8巻第3号 1980.9(p82-87)
・『京阪名所案内』 (白土 幸力/編輯 博盛堂,1904) p13
・『大阪府誌 第5編 名勝旧蹟』 (大阪府/編纂 思文閣,1970 大阪府 明治36年刊の復刻)p79-80
・『大阪新繁昌記』 (島本 篤平/著 島本篤平,1894.10)p18-19
・『大阪案内』 (日本電報通信社大阪支局,1909)p205
・『目で見る明治時代 明治風俗画集成 2』(国書刊行会,1985.11)
大阪の梅園(p.34.35) 図版・解説あり。
『写真浪花百景 上編 中編』(長谷川 貞信/画 一荷堂 半水/著 綿屋喜兵衛,[1868頃(明治初年)])には「梅屋敷」の絵が収録されており、
大阪市立図書館 画像データベースで画像を提供しているほか、大阪市立図書館Webギャラリー「なにわ花めぐり 」でも同画像を紹介。
”梅屋敷”の位置と広さについては、次の資料による。
『新修大阪市史 第10巻』 (新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市,1996.3) 歴史地図 図5 天保期の大坂三郷
『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[地図] 』 (吉江集画堂地籍地図編輯部/編纂 吉江集画堂,1911)
『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[土地台帳] 』 ([吉江集画堂地籍地図編輯部/編] 吉江集画堂,1911)
国立国会図書館ホームページの「写真の中の明治・大正 関西編」 梅屋敷には、
『旅の家つと23号』(大阪市立図書館所蔵なし)掲載の梅屋敷の写真が紹介されており、関連する近代デジタルライブラリーへのリンクあり。
大阪府立図書館に『梅屋敷の記』(黒沢翁満 1846)が所蔵されており、「大阪府立中之島図書館貴重書画像データベース」で画像が公開されている。
また、「翻刻『梅屋敷の記- 一名 このはな』」『大阪府立図書館紀要』第37号(2008(平成20)年3月31日)本文もホームページ紀要のページで公開されている。
また、大阪府立中之島図書館「錦絵にみる大阪の風景」では、 『浪花百景』(芳瀧画)・『浪華百景之内』(貞信(初代)画)の画像を見ることができる。
回答プロセス:『大阪史蹟辞典』(三善 貞司/編 清文堂出版,1986.7)には記載なし。
大阪市史編纂所に助言を得る。
2010.3追加調査
1.大阪府立中之島図書館 ホームページで調査
大阪文献データベースhttp://refdb.library.pref.osaka.jp/cdb0100.asp (2010.3.24確認)を調査
事項から検索 “梅屋敷”
『上方』 26 表紙 193302 /『上方』 30 「三十年前の大阪東部」寺川信 p33-34、35 193306
※ 『上方 郷土研究 3(上) 自第二十五号(昭和八年一月)至第三十号(昭和八年六月)』(上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969)所収
『上方』 31 p62-63 193307 新梅屋敷が中心
※『上方 郷土研究 3(下) 自第三十一号(昭和八年七月)至第三十六号(昭和八年十二月)』(上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969) 所収
『天王寺区史』 (川端 直正/編 天王寺区創立三十周年記念事業委員会,1955.10) p84、406
『梅屋敷の記』 黒沢翁満 1846 大阪市立図書館所蔵なし
文献名から検索 “梅屋敷”
徳永慶太郎「七十年前の上六」『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業と 阿倍野・住吉・天王寺 特集』25号 第8巻第3号 1980.9(p82-87)
『梅屋敷の記』 黒沢翁満 1846 大阪市立図書館所蔵なし
『梅屋敷の記』(黒沢翁満 1846)は、「大阪府立中之島図書館貴重書画像データベース」で画像公開を確認。
「錦絵にみる大阪の風景」 http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/ (2010.3.25確認)では、
名所名 梅屋敷で二つの画像を見ることができる。
2.国立国会図書館写真の中の明治・大正 関西編 梅屋敷http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/data/79/index.html (2010.3.24確認)を調査
『旅の家つと23号』(大阪市立図書館所蔵なし)掲載の梅屋敷の写真が紹介されており、代デジタルライブラリーの関連する下記タイトルへのリンクあり。
『京阪名所案内』 (白土 幸力/編輯 博盛堂,1904) p13
『大阪府誌 第5編 名勝旧蹟』 (大阪府/編纂 思文閣,1970 大阪府 明治36年刊の復刻)p79-80
『大阪新繁昌記』 (島本 篤平/著 島本篤平,1894.10)p18-19
『大阪案内』 (日本電報通信社大阪支局,1909)p205
貴重書画像データベースで紹介されている『写真浪花百景 上編 中編』(長谷川 貞信/画 一荷堂 半水/著 綿屋喜兵衛,[1868頃(明治初年)])も含め、当館所蔵あり。
3.CiNii - NII論文情報ナビゲータhttp://ci.nii.ac.jp/ (2010.3.25確認)を調査
キーワード“梅屋敷”で検索。
小笠原 弘之 , 山田 瑞穂 , 佐藤 敏江 [他] 「翻刻『梅屋敷の記--一名 このはな』 翻刻『松島紀行』」 『大阪府立図書館紀要』 (37),2008/3 が見つかる。
大阪府立図書館紀要ページで本文公開を確認。
2010.10追加
『目で見る明治時代 明治風俗画集成 2』(国書刊行会,1985.11)
大阪の梅園(p.34.35) 図版・解説あり。
事前調査事項:『葎居後集 1~3巻』(黒沢翁満著 河内屋和助 安政5.6(1858))
参考資料:『浪華の賑ひ』 鶏鳴舎暁晴/編輯 ; 松川 半山/画図 中外書房,1975,
参考資料:『浪速叢書 第7 摂津名所図会大成 其1』 船越 政一郎/編 暁 鐘成/著 名著出版,1978 浪速叢書刊行会 1927年刊の復刻 ,
参考資料:『大阪府全志 巻之2』 井上 正雄/著 清文堂,1985 ISBN 4-7924-0271-9大正11年刊の復刻 ,
参考資料:『新修大阪市史 第10巻』 新修大阪市史編纂委員会/編集
大阪市,1996.3,
参考資料:『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[地図] 』 吉江集画堂地籍地図編輯部/編纂 吉江集画堂,1911,
参考資料:『大阪地籍地図 南区及接続町村之部[土地台帳] 』 [吉江集画堂地籍地図編輯部/編] 吉江集画堂,1911,
参考資料:大阪市立図書館Webギャラリー「なにわ花めぐり 」http://www.oml.city.osaka.jp/image/themes/theme829.html (2010.3.25確認),
参考資料:「大阪府立中之島図書館貴重書画像データベース」http://rarebooks.library.pref.osaka.jp/ (2010.3.25確認),
参考資料:「翻刻『梅屋敷の記- 一名 このはな』」『大阪府立図書館紀要』第37号 2008(平成20)年3月31日 http://www.library.pref.osaka.jp/lib/kiyo.html (2010.3.25確認),
参考資料:『上方 郷土研究 3(下) 自第三十一号(昭和八年七月)至第三十六号(昭和八年十二月)』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1969 ,
参考資料:徳永慶太郎「七十年前の上六」『大阪春秋 大阪の歴史と文化と産業と 阿倍野・住吉・天王寺 特集』25号 第8巻第3号1980.9(p82-87) <当館書誌ID:0000253458>,
参考資料:『京阪名所案内』 白土 幸力/編輯 博盛堂,1904,
参考資料:『大阪府誌 第5編 名勝旧蹟 』 大阪府/編纂 思文閣,1970 大阪府 明治36年刊の復刻,
参考資料:『大阪新繁昌記』 島本 篤平/著 島本篤平,1894.10,
参考資料:『大阪案内』 日本電報通信社大阪支局,1909,
参考資料:大阪府立中之島図書館「錦絵にみる大阪の風景」 http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/ (2010.3.25確認),
参考資料:国立国会図書館写真の中の明治・大正 関西編 梅屋敷http://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/data/79/index.html (2010.3.24確認),
参考資料:『目で見る明治時代 明治風俗画集成 2』国書刊行会/編 国書刊行会,1985.11,
寄与者:大阪市史編纂所 http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2010.3.24確認)
備考:大阪市立図書館Webギャラリー「大阪名所めぐり」http://www.oml.city.osaka.jp/cgi-bin/img_src/disp_themes.cgi (2011.2.4確認)もご参照ください。
2010年3月18日から4月1日まで大阪市立図書館サイトトップ( http://www.oml.city.osaka.jp/ )で、
「梅屋敷」 (『写真浪花百景 上編 中編』(長谷川 貞信/画 一荷堂 半水/著 綿屋喜兵衛,[1868頃(明治初年)])をご紹介しました。
「古文書や大阪関係の地図を検索する」 http://www.oml.city.osaka.jp/cgi-bin/img_src/s_all.cgi (2010.12.17確認)で、書名 図名“写真浪花百景”で検索し、17ページをご参照ください。
山口吉郎兵衛(4代)やまぐち-きちろべえ(1883-1951) 明治-昭和時代の銀行家。
明治31年大阪第百四十八国立銀行を山口銀行(三和銀行の前身)に改組し,社長となる。陶磁器の収集家,茶道家としても知られる。大阪出身。号は滴翠。(『日本人名大辞典』(平凡社)山口吉郎兵衛(4代)の項目より抜粋)
(2011/04/23 16:54)
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石川静水という人物について知りたい。大阪で化粧業界紙の発行をしていた人らしい。(大阪市立中央図書館)
石川静水は、石川清三郎のこと。大阪化粧品商報主筆。
雑誌『あまカラ 33号』(甘辛社,1954.5)「哥沢初稽古」(p.38)に、石川静水について記述がある。
それによると、金物問屋に生まれ、隣家の南木芳太郎(なんきよしたろう:明治15(1882)年-昭和20(1945)年 昭和期の郷土史家。上方郷土研究会を創立し、大阪の近世・近代史を研究)と御津幼稚園からの竹馬の友であった。
また、石川静水の執筆したものとして下記を紹介。
1)『上方』101 「百人随筆集その2 芳チャンと上方」193905 (p.24-25)
南木芳太郎についての記事で、島之内の新屋敷を遊び場としていた事等が綴られている。
2)『上方』50 「新屋敷」193502 (p.35-38)
3)『上方』68 「宗右衛門町に涼みがあった時代」193608 (p.10-11、46-47)
4)『上方』81 「見世物と流行歌」193709 (p.57)
城崎文芸館(兵庫県) http://www.kinosaki-spa.gr.jp/infomation/bungaku/bungekan/bungai.html (2010.5.10確認)には、静水撰の画帖「城崎八景」所蔵があり、あわせて紹介する。
回答プロセス:1.人物関連の参考図書を調査
下記に記載なし。
『大阪人物辞典』(清文堂出版,2000.11)
『『大阪春秋』総目次・索引集 創刊号~第100号』(大阪春秋社,2002.9) 人名の項目なし
『上方 郷土研究 別巻』(新和出版社,1971) 町人学者・俳句・新聞・出版の各項目 該当なし
『新修大阪市史 第10巻』(大阪市,1996.3) 索引 該当なし
『明治大正昭和大阪人名録 上巻』( 日本図書センター,1989.10)
『大阪人物誌 正編 』(臨川書店,1974)、『大阪人物誌 続編』(臨川書店,1974)
『日本書画骨董大辞典 増訂版』(成文館書店,1935.8)
『日本紳士録 24版』(交詢社,1919.12)
2.大阪の化粧品業界の資料を調査
当館所蔵を、キーワード“大阪×出版×化粧品”で検索。
『日本の書店百年』 (青英舎,1991.7)の内容確認するが、記述なし。
3.大阪府立中之島図書館大阪文献データベース http://refdb.library.pref.osaka.jp/cdb0100.asp (2010.5.10確認)
“石川静水”で検索。事項から検索 0件、文献名から検索すると、下記の4件の記事があり。
1)上方 101 百人随筆集その2 芳チャンと上方/石川静水 p24-25 193905
2)上方 50 新屋敷/石川静水 p35-38 193502
3)上方 68 宗右衛門町に涼みがあった時代/石川静水 p10-11、46-47 193608
4)上方 81 見世物と流行歌/石川静水 p57 193709
4.インターネットで調査
国立国会図書館 蔵書検索・申込システム http://opac.ndl.go.jp/ (2010.5.10確認)、
近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/index.html (2010.5.10確認)では情報なし。
Googleで、“石川静水”検索、城崎文芸館が同氏撰の画帖を所蔵していることが判明。
5.当館提供商用データベースで調査
下記全て“石川静水”が該当なし
e-レファレンス/ツール(日外 人物・出版情報)
聞蔵Ⅱビジュアル(朝日新聞 一部記事写真閲覧可)
The SankeiArchives(産経新聞記事)
日経テレコン21(日経四紙記事)
毎日Newsパック(毎日新聞記事)
ヨミダス文書館(読売新聞記事)
6.大阪市史編纂所に照会
化粧品商報社の編集をしていた人物である。
肥田晧三氏の講演会(「中井浩水著作目録(二) 大阪芸能懇話会 平成16年6月27日)レジュメの中に、“静水”についての記載(雑誌『あまカラ33号』より抄出)があるとの情報を得た。
参考資料:『あまカラ 31~40号』(甘辛社,1954.3-12),
参考資料:『上方 郷土研究 10(上)』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』101所収,
参考資料:『上方 郷土研究 5』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』50 所収,
参考資料:『上方 郷土研究 6』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』68 所収,
参考資料:『上方 郷土研究 7』上方郷土研究会/編集 新和出版社,1970 『上方』81 所収
,
照会先:城崎文芸館 http://www.kinosaki-spa.gr.jp/infomation/bungaku/bungekan/bungai.html (2010.5.10確認)
寄与者:大阪市史編纂所 http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2010.5.10確認)
備考:大阪市立図書館多機能OMLISでは、2011年4月より商用データベース「毎日Newsパック」に代えて「毎索」(マイサク)(毎日新聞記事)を提供。
(2011/04/08 20:23)
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明治36年(1903)、第五回内国勧業博覧会開催時に、親子丼が販売提供されていたか知りたい。(大阪市立中央図書館)
『大阪三六五日事典』(東方出版,2002.2)「明治36年3月1日内国勧業博覧会開幕」の記事(p.46)に、“鳥菊”主人考案の十五銭の親子丼が、会場から誕生したとの記述あり。
あわせて下記の資料をご紹介した。
・『博覧会』(「実業世界太平洋」臨時増刊第1巻第五号)(博文館,1903)
山下雨花「余興と飲食物」の項目に下記の記述あり。(p.189 下段)
「鳥菊の鳥、~その鋤焼に親子丼の風味は、~」
・『博覧会土産 大阪及び附近の名所案内』(山下 雨之助/編 岡本偉業舘,1903)
「場内飲食店」の項目に、「鳥菊」あり。(p.29-30)建物の記述等あるが、親子丼の記述なし。
・『第五回内国勧業博覧会場内観覧案内』(山田 鎗之助/著 大阪製本印刷,1903)
鶏肉料理 内本満助(p.57)
・『第五回内国勧業博覧会場全図』(博文館,1903)
鶏肉料理 内本(図の中央あたりの上部)
・『第五回内国勧業博覧会案内記』(井上 熊次郎/編纂 考文社,1903)
鶏肉料理 内本満助(p.83)
・『第五回内国勧業博覧会報告書』(大阪市商工課, 明37.5)
国立国会図書館近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801969/44 (2011.3.7確認)
「博覧会ト飲食店」の項目に、鳥菊・内本満助の記述あるが、親子丼の記述はなし。(p.80.81)
回答プロセス:1.商用データベース「Japan Knowledge(ジャパンナレッジ)」(事典・辞書等) を調査
キーワード“親子丼”で検索、4件の項目が見つかるが詳しい由来はなし。
キーワード“親子丼”で全文検索、22件の項目のうち、由来については下記の項目にあり。
『日本大百科全書』(小学館)【丼物】
「親子丼は、東京・中央区の玉秀という鳥料理屋で明治初期に創作したもの。」
2.参考図書を調査
・『明治・大正家庭史年表 : 1868→1925 』(河出書房新社,2000.3)
明治36年3月1日、大阪で初めて“親子丼”が売り出されるとあり。(p.300)
・『衣食住語源辞典』(東京堂出版,1996.9)
1903年7月26日『大阪毎週新聞』に“親子丼”の文字が見える、とあり。(p.59)
※『大阪毎週新聞』は所蔵せず。
事物起源・料理の歴史に関する図書も調査するが、関連の記述は見つからない。
3.大阪府立中之島図書館大阪文献データベースhttp://refdb.library.pref.osaka.jp/cdb0100.asp (2011.3.7確認)を調査
キーワード“親子丼”で検索、下記の図書が見つかった。
・『大阪三六五日事典』(東方出版,2002.2)
「明治36年3月1日内国勧業博覧会開幕」の記事(p.46)に、“鳥菊”主人考案の十五銭の親子丼が、会場から誕生したとの記述あり。
4.googleブックス http://books.google.com/ (2011.3.7確認)で調査
キーワード“親子丼”ד内国勧業博覧会”で検索、下記の図書が見つかった。
・『語源海』(東京書籍,2005.3)
料亭鳥菊の主人、内本松次郎の名あり。(p.171)
・『日本史「はじめて」事典』(PHP研究所,2009.3)
鳥菊の主人・内本松次郎の名あり。(p.97) ※利用者調査済
5.新聞データベースを調査
・商用データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」(朝日新聞 一部記事写真閲覧可)
「朝日新聞縮刷版」メニューで調査
大阪朝日新聞の1903年7月26日から8月2日まで内国勧業博覧会の記事を確認してみるが、“親子丼”の記事はなし。
“鳥菊”で検索すると、明治18年(1885)6月13日大阪朝刊4頁に広告「鳥菊 近火御見舞御礼」などが見つかる。
親子丼についてはなし。
“親子”ד丼”で検索すると、明治17年(1884)の神戸元町の「江戸幸」の広告に
「親子上丼」「親子並丼」「親子中丼」の名称あり。
・商用データベース「ヨミダス歴史館」(読売新聞記事)
関連の記述見つからず。
6.大阪市史編纂所にお尋ね
“第五回内国勧業博覧会”の出店記録は資料としてあるだろうが、“親子丼”を販売していた等の記録はないと思われ、見聞記や新聞記事等に記述が見つかる可能性を示唆された。
7.第五回内国勧業博覧会関係資料を調査
回答記載の資料に関連する記述を確認。
8.国立国会図書館 近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/index.html (2011.3.7確認)
第五回内国勧業博覧会関係で、当館の所蔵していないものを確認。
『第五回内国勧業博覧会報告書』(大阪市商工課, 明37.5)http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801969/44 (2011.3.7確認)
「博覧会ト飲食店」の項目に、鳥菊・内本満助の記述あるが、親子丼の記述はなし。(p.80.81)
事前調査事項:『日本史「はじめて」事典』(PHP研究所,2009.3)に鳥菊の主人・内本松次郎の名あり。(p.97)
参考資料:『博覧会』博文館,1903,
参考資料:『博覧会土産 大阪及び附近の名所案内』山下 雨之助/編 岡本偉業舘,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会場内観覧案内』山田 鎗之助/著 大阪製本印刷,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会場全図』博文館,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会案内記』井上 熊次郎/編纂 考文社,1903,
参考資料:『第五回内国勧業博覧会報告書』(大阪市商工課, 明37.5)
国立国会図書館近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801969/44 (2011.3.7確認),
寄与者:大阪市史編纂所http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2011.3.7確認)
(2011/03/19 10:29)
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生島永太郎(いくしま えいたろう)について知りたい。明治の終わりから戦前ぐらいまでの大阪商人(久太郎町)。 甲南小学校の設立者の一人で、明治45年に大阪保誉院を作った人。父は生島嘉蔵(かぞう)。(大阪市立中央図書館)
生島永太郎は、明治7年11月生。生島家では、代々嘉蔵を襲名している模様。下記の資料をご紹介した。
1.『社団法人大阪保誉院記念帳』(大阪保誉院清算事務所,1935.7)
「起源及沿革」ほかに記載あり。生島永太郎(嘉蔵)の表記が多数。
2.『大阪府社会事業史』(大阪社会福祉協議会,1958)
生嶋永太郎を中心に組織された辰巳会によって廃兵の収容所として明治45年泉北郡三宝村に開設(p270)
3.『甲南学園50年史』 (甲南学園,1971.3) 『甲南学園の70年』 (甲南学園,1992)
甲南小学校の創立事務に当たった11人の中に名前あり。
4.『大阪人名資料事典 第1巻』 日本図書センター,2003.5
「大阪現代人名辞書 1」(復刻 初版:文明社 大正2年刊)
生島嘉蔵 安政3年(1856)1月25日生まれ。長男永太郎(明治7年11月生)とあり。 (p69)
回答プロセス:1.当館所蔵を検索
“生島永太郎”では該当なし。
2.商用データベースで調査
商用データベース「ジャパンナレッジ」 該当なし
商用データベース「e-レファレンス/ツール」 生島嘉蔵(いくしまかぞう)はあり。
「文政4(1821)年~明治32(1899)年7月2日 江戸時代末期・明治期の商人、貿易商。貿易業に従事、唐反物を取り扱う。【掲載事典】◎「幕末維新人名事典」
永太郎の祖父にあたるのか?
3.中之島図書館「大阪文献データベース」を調査
該当無し。
4.『新修大阪市史』索引になし。
5.大阪保誉院関連の資料を調査
『社団法人大阪保誉院記念帳』(大阪保誉院清算事務所,1935.7)に記載あり。
『大阪府社会事業史』(大阪社会福祉協議会,1958)
生嶋永太郎を中心に組織された辰巳会によって廃兵の収容所として明治45年泉北郡三宝村に開設(p270)
6.甲南学園関係資料を調査
『甲南学園50年史』 (甲南学園,1971.3)
甲南小学校の創立事務に当たった11人の中に名前あり(p4)。
『甲南学園の70年』 (甲南学園,1992)
甲南小学校の創立事務に当たった11人の中に名前あり(p18)
7.大阪関係の人物事典を調査
『都道府県別資産家地主総覧 大阪編 1 復刻』渋谷 隆一/編 日本図書センター,1991.2
大阪市商工業者資産録(商業興信所編 1902(明治35)年刊)
生島嘉蔵 安政3年(1856)1月生まれとあり。職業欄は空欄。
『明治大正昭和大阪人名録 上巻』 (日本図書センター,1989.10)
「日本紳士録」(交詢社 明治43年刊)の復刻)に、生島嘉蔵あり。住所と所得税・電話の掲載(p20)
『大阪人名資料事典 第1巻』 日本図書センター,2003.5
「大阪現代人名辞書 1」(復刻 初版:文明社 大正2年刊)
生島嘉蔵 安政3年(1856)1月25日生まれ。長男永太郎(明治7年11月生)とあり。 (p69)
『大阪人物辞典』 (三善 貞司/編 清文堂出版,2000.11)
生島嘉蔵 文政4(1821)年 (p62) 「幕末維新人名事典」掲載と同人物
『日本人物情報大系 32 企業家編 2』(皓星社,2000.3)
生島嘉蔵のみ。
下記には記載無し。
『明治大正昭和大阪人名録 中巻』 (日本図書センター,1989.10)
「日本紳士録」(交詢社 大正14年刊)の復刻
『明治大正昭和大阪人名録 下巻』(日本図書センター,1989.10)
「日本紳士録」(交詢社 昭和11年刊の復刻)
『大阪新人大観』(升谷 天惠/著 大阪新人大観編纂局,1925)
『大阪新人物誌』(夕刊大阪新聞社,1934.6)
『大阪の公人 : 付・連合区制の小史』 (山本 桃洲/著 大阪の公人刊行事務所,1916.4)
8.近代デジタルライブラリーで調査
『明治富豪譚』(大阪毎日新聞社 明治25.9)「生島嘉蔵乗車賃を二銭に限る」
『当世名士譚』(米倉領次郎,明25.10)「生島嘉蔵の質朴」
年代からして、永太郎の父のことか。
9.大阪市史編纂所におたずね
有用な情報なしとのこと。
参考資料:『社団法人大阪保誉院記念帳』大阪保誉院清算事務所,1935.7,
参考資料:『大阪府社会事業史』大阪社会福祉協議会,1958,
参考資料:『甲南学園50年史』 甲南学園50年史出版委員会/編 甲南学園,1971.3,
参考資料:『甲南学園の70年』 甲南学園史資料室委員会/編集 甲南学園,1992,
参考資料:『都道府県別資産家地主総覧 大阪編 1 復刻』渋谷 隆一/編 日本図書センター,1991.2 ISBN 4-8205-5416-6,
参考資料:『明治大正昭和大阪人名録 上巻』 日本図書センター,1989.10 ISBN 4-8205-2058-X,
参考資料:『大阪人名資料事典 第1巻』 日本図書センター,2003.5 「大阪現代人名辞書 1」文明社/編纂 復刻 初版:文明社 大正2年刊 ISBN 4-8205-9966-6 ,
参考資料:『大阪人物辞典』 三善 貞司/編 清文堂出版,2000.11 ISBN 4-7924-0499-1,
寄与者:大阪市史編纂所 http://www.oml.city.osaka.jp/hensansho/ (2010.1.23確認)
備考:商用データベース「e-レファレンス/ツール」は、2010年6月から「e-レファレンス・ライブラリー」(日外 人物・出版情報) に変更。
(2010/12/13 19:38)
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